善導大師 【第1講】 古田 和弘 師
2010年11月13日
善導大師はAD613年のお生れですので、日本でいえば聖徳太子が法隆寺を建立された数年後、三経義疏が完成したころのことでした。詳しい伝記はありません。名もなきご出生であったからです。十歳のころ出家して求道生活に入られます。当時唐は仏教の全盛時代にあって、優れた学僧が数多くおられましたが、中でも名の高い道綽禅師を玄中寺に訪ねて門下に入られました。そこでは道綽禅師が専門にされた涅槃経は当然のこと、曇鸞大師からの流れである浄土教を学び、中でも特に観無量寿経が発するメッセージを強くうけとめられたようでありました。
その後山西省の田舎にある玄中寺から長安の都へ出られて、光明寺において一般庶民のための浄土教を説き始められます。これが中央に初めて進出した浄土教教化の拠点でした。というのも廬山の慧遠が説く観想念仏の浄土教がすでに広まっていて、そちらの方が主流と見なされていました。そんな中で善導大師は全くちがう解釈を『観無量寿経疏』に著して、称名念仏こそ仏さまのご本意に適ったほんとうの意味での浄土教であることを一般の人々に説いてまわられました。
さきに伝記がないと言いましたが、道宣(96~667)が書いた有名な『続高僧伝』にほんの数行の記述があります。それも会通という人の項の付伝にすぎないものです。道宣は緻密な歴史家として知られ、その著作は高い評価を受けているのに、善導大師については皮肉まじりにおとしめるような扱いをしています。それは、この記事が書かれたのが、30代の善導大師が都に出たばかりのころであったということもありますが、長安でもてはやされている慧遠(523~592)・智顗(538~597)・吉蔵(549~623)等の錚々たる主流派の学問の世界ではとるに足らないものと道宣はみていたようです。
それでは、それまでの浄土教はどんな教えだったのでしょうか。例えば廬山の慧遠が率いる白蓮社では、念仏は文字どおりひたすら仏を思い続ける行(ぎょう)であると考えられていました。自分の努力によって精神を集中し雑念を払って三昧の中に阿弥陀仏の姿を見ようとする自力の難行でした。観想念仏と呼ばれるものです。
これに対して善導流の称名念仏は弥陀の名号を口に称えることでした。どんな善行も、どんな修行もできないような人間にも阿弥陀仏の名を呼ぶ道は残されている。これこそが「念仏衆生 摂取不捨」(念仏の衆生を摂取して捨てたまわず・聖典105頁)と仰った釈尊のお心に適う行である。諸行を捨てて専ら念仏せよというのが、観無量寿経の第十六観(聖典120頁)を根拠とした善導大師の浄土教なのです。
善導大師 【第2講】 古田 和弘 師
2011年1月8日
前回は善導大師のご生涯をざっとたどりました。ご出生は定かではありませんが、玄中寺に道綽禅師を訪ねて門下に入り、念仏の法門を学び、長安の都に出て称名念仏を説かれると、浄土の教えがたいへん広まったのでした。今回は唐の人々の心をとらえた善導大師の念仏とはどんなものであったかを尋ねます。
当時インドから伝わって来た念仏は「観想念仏」といって、文字どおり「仏を念じる」修行を意味しました。雑念を取り払い心を浄くして阿弥陀仏を念(おも)い続けるのです。
2~3世紀インドの龍樹菩薩はさらにもっと厳しい『十地経』の難行に対して、これを「易行道」といわれました。ところが時代が下り衆生の資質が低下すると観想念仏も易行ではなくなりました。廬山の慧遠が白蓮社において実践していたのは「行」としての観想念仏でした。たとえば「常行三昧」といって九十日間不眠不休で念仏を称えながら歩き続けるのです。観想念仏はもはや特別な人の間で行われる難行でしかなかったのです。ではこんな修行を行えるような環境にない一般庶民に救いはないのか。そこで観無量寿経を読み直されたのが善導大師でした。
6~7世紀の中国では観無量寿経はたいへん人気の高いお経でしたので善導大師以前にいずれ劣らぬ錚々たる学僧が註釈書を書いておられます。浄影寺の慧遠(523~592)、天台智顗(538~597)、嘉祥吉蔵(549~623)です。この三人に共通するのは、観無量寿経を浄土往生のために実践しなければならない「行」を説いたもののとして読んでおられることです。ところが最後に『観経疏』を著した善導大師は全然ちがう角度から視点を変えて読み直されました。これを「古今楷定」といって、諸師とご自身の説を比較しながら最終的な結論に達したものとしておられます。
諸師は王妃韋提希を、衆生を励まし修行を勧める菩薩の化身ととらえたのに対して、善導大師は韋提希こそ弥陀の本願力をたのむ以外に往生の道はない愚劣の凡夫であると位置づけられました。そして下下品(聖典120~121頁)の称名念仏が韋提希同様の凡愚の身のままでたすかる万人に開かれた念仏道であることを示されました。
法然上人は『選択本願念仏集』で中国の浄土教を慧遠流・善導流・慈愍流の三つに分けておられます。
慧遠流は廬山の慧遠が『般舟三昧経』に基づいて行じた観想念仏です。
善導流は『観無量寿経』によって善導大師が感得された、本願を信じ仏名を称え往生を願う称名念仏です。
慈愍流は慈愍三蔵(680~748)が提唱した禅浄一致の念仏禅です。
法然上人が帰依されたのは、いうまでもなく善導流の念仏でした。
善導大師 【第3講】 古田 和弘 師
2011年4月9日
善導大師の『観経疏』「散善義」の中に「二河白道」の譬があります。たとえ話とはいえ真宗の教えを説く上でたいへん重要なものですから、親鸞聖人はこれを『教行信証』「信巻」に引用(聖典219~221頁)されています。
浄土教が中国に入って来たころ、すでに般若、涅槃、法華等の教えが先に伝わり広まっていました。また中国に元からある人生哲学の思想もありました。これらは厳しく自らを律して資質を高めることが目標であり、一般にはそれが理想的な生き方として当然のことと受け止められていました。そこへ自力の修行を否定し他力をたのむ浄土教が入って来たものですから奇異なものとして反撥を買うのは当然です。そんな世間の批判や非難から、浄土往生を願う人たちを護り、勇気づけることが、この譬喩を説かれる善導大師の目的でした。
一人の旅人が西に向って長い旅を続けていると前を遮ぎる河に出くわした。南の方は火の河、北は水の河である。幅は百歩ぐらいあって深さは底が知れない。それが南北に果てしなく続いている。火と水の間に一本の白い道がある。幅は4.5寸と狭く、長さは百歩ぐらいで向う岸に達している。右からは波浪が覆いかぶさり、左からは火焔が襲い道を焼いて止むことがない。河を前にしてたった独り行き悩んでいる旅人を見て、東の曠野から盗賊や悪獣が群れ集って命を狙い襲いかかろうとしている。西に向うしかないこの旅人は思わずつぶやいた。「河は南北に果てがないからどちらにも逃げ切れない。中間に道はあってもきわめて狭い。百歩ぐらいの距離といえどもどうして渡ることができるだろうか。戻れば盗賊悪獣が待ちかまえている。南北へ行けば悪獣毒虫である。目の前の道を行けば水や火に呑まれるにちがいない。」と。
この状況に追いつめられた旅人は言葉にならない恐怖におののきながらこう思った。「戻っても死ぬ。止まっても死ぬ。行っても死ぬ。どうしても死を免がれないのならこの道を進むしかない。なぜか知らないがすでにここに道があるからだ。きっと渡れるにちがいない。」と。
そう思ったとき突然背後から声が聞えた。「あなたはしっかりと心を決めてこの道を進みなさい。きっと死の難を免がれます。ぐずぐずとためらってここに止まっていては命はありません。」と。
同時に向う岸から喚び声があった。「疑いを捨てて迷うことなく、いま、すぐ、ここへ来なさい。私が必ず護ります。波浪も火焔も怖がることはありません。」と。
行けと勧め、来いと呼ばれた旅人が疑い、怯え、尻込みする気持ちを振り捨てて二、三歩進みかけたとき東岸の盗賊たちが「行けば必ず死ぬ。悪いことは云わないから戻って来い。」と喚ばわる。そんなことに一切耳をかさずひたすら道だけをたよりに歩んだ旅人は、ついに河を渡り切って、すべての災難を免れることができた。そして出迎えてくれた西岸の人たちと手を取って喜び合った。
以上が「二河白道」の譬の概要ですが、善導大師はこれによってなにを云おうとされたのでしょうか。
善導大師 【第4講】 古田 和弘 師
2011年5月14日
譬喩だけでは意を尽くせないかもしれないと、善導大師はさらに懇切に解説を加えられます。
「東岸」というのは、我々がいまここにいる娑婆のことである。娑婆とは、一刻も速く脱出しなければならないのに、住人が危険に気づくこともなく安閑と居据わっている火災の家にたとえられる。「西岸」というのは、阿弥陀仏の願いによって開かれた極楽浄土である。
「群族悪獣詐り親む」の群族悪獣は、六根、六識、六塵(六境)、五陰(五蘊)、四大のことである。六根とは、眼根(見る)、耳根(聞く)、鼻根(嗅ぐ)舌根(味わう)、身根(触れる)、意根(思う)の六つの機能である。六塵とは六根がはたらく対象となる色(形)、声(音)、香(匂い)、香(匂い)、味、触(感触)、法(存在)である。
六識とは、六根が六塵にはたらいて生じる六つの認識すなわち眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識である。
五陰は色(物質)、受(感受)、想(思考)、行(意志)、識(心)であり、四大は地大(固さ)、水大(湿気)、火大(熱)、風大(動き)で、人間を構成する要素である。
詐り親しむとは、これらが作用し合って煩悩を引き起し、願生心を妨げ、娑婆に執着させることである。
「無人空迥の沢」というのは、周りに人のいない孤独の状態であり、教え導いてくれる師に出会うことなく、あてもなく独りさ迷っていることにたとえる。
「水火二河」の水は貪愛(むさぼりとらわれる心)、火は瞋憎(いかりにくしむ心)にたとえられる。
「中間の白道四五寸」というのは、煩悩熾盛の凡夫の上にも本願力がはたらいて、起るはずもない願生心がほんのわずかでも起るのにたとえられる。煩悩の激しさが波浪や火焔のようであるのに対して、仏の願いに従おうとする善心のかすかなことを、水火の中間にわずかに見える白い道にたとえる。
「水波常に道を湿す」というのは、娑婆に愛着する心が信心を曇らすことを、波浪が白道を濡らすのにたとえる。
「火焔常に道を焼く」というのは、怒り憎む心が信心を焼損することを、焔が白道を燃やすのにたとえる。
「人、道の上を行いて直ちに西に向かう」というのは、本願他力に従って西に行こうと決意することである。
「東の岸に人の声勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて直ちに西に進む」というのは、釈尊亡き後も経典に残された教えがはたらき導くことをいま現に聞える声にたとえて、この声に信順して歩を進めることをいう。
「あるいは行くこと一分二分するに、群賊等喚び回す」というのは、念仏の教えを否定する人たちが自ら本願他力を信じないばかりではなく、白道を行こうと決めた人を妨害するのにたとえられる。
「西の岸の上に人ありて喚う」というのは、法蔵菩薩のわが国に生れんとおもえという大悲の願心のことである。
「須臾に西の岸に到りて善友あい見て喜ぶ」というのは、長い長い流転を繰り返し、迷いに沈み続け、脱出などのぞむべくもなかった身が、釈迦弥陀二尊の発遣と招喚によって、水火二河の恐怖を振り切り、浄土往生を果し、仏にまみえることのできた無上の喜びを指す。
善導大師 【第5講】 古田 和弘 師
2011年8月20日
親鸞聖人が阿弥陀如来・勢至菩薩の化身とも仰がれたのが法然上人です。その法然上人をして、時代も国も遠く隔てながら、帰依すべきはこの師以外にはないと云わしめたのが善導大師でした。
善導大師は中国の浄土教の中で初めて称名念仏を明確にされた方です。主著である『観経疏』に「二河白道の譬」があります。宗祖はこれをたいへん重要視されて教行信証に原文を引用(聖典219~221頁)されています。
目先のことに追われて、闇雲に過してきた人生が、気がついてみると実は悩み苦しみに満ちていることを知って、必死に真実の世界を求めようとすることがテーマになっているからです。宗祖にとっても、比叡山20年の聖道修行に疑問を抱いておられたとき、この教えが一筋の光になったのかも知れません。
教行信証に原文を引かれた上に、さらに『愚禿鈔』(聖典452~457頁)には宗祖独得の見解が示されています。
1. | 後ろから迫ってくる「群族悪獣」とは。 「群賊」は「別解・別行・異見・異執・悪見・邪心・定散自力の心」で、一言でいえば念仏の教えを否定する考え方のことです。 「悪獣」は「六根・六識・六塵・五陰・四大」で人間を構成している肉体的、精神的要素です。比叡山では、修行はこれらの要素を駆使することだと考えられていましたが、宗祖は否定的にとらえられました。 |
2. | 「常に悪友に随う」とは。 「悪友」は次に出てくる善友の反対で、煩悩にまみれ、真実を見失っている人です。自分も周囲もこんな状態にあるということです。 |
3. | 「無人空迥の沢」とは。 真の「善知識」がいない場所です。善知識は良い方向に導いてくれる人、先生あるいは友のことです。逆が「悪知識」です。 |
4. | 火の河と水の河の間にある「白道四五寸」とは。 白は仏道修行、黒は迷いに流転することです。「道」は全ての人に開かれた正しい道で自利だけを求める「路」に対する言葉です。四五寸の四は四大(地・水・火・風)、五は五陰(色・受・想・行・識)で人間の構成要素をいいます。 人身を受けたことが仏に遇う可能性でありながら、同時に煩悩具足という不可能性を負っていることから、四五寸の狭さにたとえられているのです。 |
5. | こんな状態にあってもなお起る「能生清浄願往生心(能く清浄の願往生心を生ず)」とは。 煩悩に汚染された人間の上に、無上で金剛堅固の信心が起るのはなぜか。如来の回向だからです。法蔵菩薩がご修行の末に成仏して得られたまこと(信)の心を私たちにそのまま授けて下さったからです。それが回向の意味です。原因を作れない私たちのために、如来が成就し回向して下さった結果を素直に頂戴することを「信楽」といいます。 |
6. | ようやく心を決めた旅人が「あるいは行くこと一分二分す」とは。 一分二分は十分の一か十分の二の意味ですから、少しでも歩みが始まることなのですが、これは時間をたとえているのだと宗祖は仰います。長い間闇に閉ざされていた者が、光に触れて行動を起すのには時間の経過が必要だということです。 |
7. | 白道を歩み始めた旅人を喚び戻そうとする「悪人等」とは。 憍慢(思い上がりの心)・懈怠(おこたる心)・邪見(仏教を否定する考え方)・疑心(仏教に対して素直でない心)のことです。一旦決心しながらもなお自分の中にあるこれらの弱い心や正しくない思いが勇気を挫き歩みをためらわすことにたとえられています。 |
善導大師 【第6講】 古田 和弘 師
2011年9月10日
「二河白道の譬」について親鸞聖人がご領解を示されたところを『愚禿鈔』によって途中まで読み進みました。今回は『聖典』では220頁になります。
「西岸の上に人ありて喚ぼうて言わく」とは、弥陀の誓願が私たちの上にはたらきかけていることです。そんなことには一切無関心であった者が、初めて呼びかけに気が付いたとき、誓願が声として聞えてきたことを表わします。
「汝」
とは、西に向かって歩み出した旅人であり、念仏の行者のことですから、必定(必ず仏に成ることが決定した)の菩薩であるということができます。
阿弥陀仏の喚び声を聞くことができれば直ちに西の岸に渡ることが決定するという意味で、この行者のことを龍樹大士は「即時入必定」、曇鸞大師は「入正定之数」、善導大師は「希有人・最勝人・妙好人・好人・上上人」「真の仏弟子」であると名づけられます。
「一心」
とは、真実の信心です。人間は我執によって自分の都合を通してしか物を見ることができません。従って人間の側に真実はありません。仏にのみある真実を率直にいただく心、それが一心であり信心です。
「正念」
とは、選択摂取の本願です。阿弥陀如来が、往生するはずのない者を往生させるために選び取って下さったお心です。ですから称名念仏は仏教の行の中で最もすぐれた行であり、如来の選択であるが故にダイヤモンドのように堅固な心というべきです。
「直」
とは、回り道をしないで真っ直ぐにという言葉です。なかなか真実の声に耳をかそうとしない私たちに対して、仏さまは真実に近づくための仮の方法(方便仮門)を用意して下さっているのですが、そんな余裕もない状態にある者には方便を取り払った真実への捷径、すなわち自力を捨てて他力をいま直ぐたのめとお勧めになっています。
「来」
とは、「去」や「往」が行けというのに対して、来いという言葉です。方便化土から真実報土へ還って来いという意味です。
「我」
とは、尽十方無碍光如来とも、不可思議光仏ともお呼びする阿弥陀如来です。
「能」
とは、人間が不堪(耐えられないこと、できないこと)であるのに対して、なにひとつ不可能なことのない如来のおはたらきを指す言葉です。
「護」
とは、法蔵菩薩が心から願われた「摂取不捨」、すなわち一切の人をもれなく救うというお心を示す言葉です。お慈悲のことです。これが仏心です。
「西岸上に人ありて喚ぼうて言わく汝一心正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん」とは、迷わずためらわず今すぐにこちらへおいで、私が必ず護ってあげますという阿弥陀如来の喚びかけだったのです。
「念道」
とは、この道がどれほど危うげに見えても、如来他力の賜物であることを信じ、銘記せよという言葉です。
「慶楽」
とは、間違いなく浄土に往生して仏に成ることが証明されて歓喜踊躍することです。
「仰ぎて釈迦発遣して指えて西方に向かえたまうことを蒙る」
というのは、釈迦如来の勧め励まされる声に素直に従うことです。
「また弥陀の悲心招喚したまうに藉る」
というのは、弥陀如来の招き喚びたまう声を素直に信ずることです。
「いまこの二尊の意に信順して水火二河を顧みず、念念に遺るることなく、かの願力の道に乗ず」
水の河火の河をものともせず、釈迦弥陀二尊のお心を一瞬も忘れることなく信順し、本願力にうちまかせて他力の白道を歩みなさい、と善導大師はまとめておられます。