天親菩薩 【第1講】 鍵主 良敬 師
2010年6月12日
仏教二千五百年の歴史の中にとりわけて高くそびえる秀峰は龍樹、天親の二菩薩です。龍樹菩薩は大乗仏教の教理を集大成され、空観の祖として広く知られています。
空の智慧を完成するために、求道者は途方もない長い時間をかけた、極めて困難な修行を必要とします。その階位が説かれているのが『十地経』(華厳経十地品)です。
龍樹菩薩は『十地経』の註釈書である『十住毘婆沙論』の中で、長丁場の難行に尻込みするような者に大乗の菩薩の資格はない、と叱りつけます。しかし純粋な志願を抱きながら、自力の限界に絶望する者には「信方便の易行」があるよと語りかけます。信方便の易行とは三世十方の諸仏を憶念し称名することでした。
天親菩薩は龍樹菩薩に後れること2百年位の4~5世紀、北インドに出られたお方です。
はじめ部派(小乗)仏教に傾倒して、『阿毘達摩倶舍論』を著し、説一切有部の学者として名を馳せられました。ところが大乗を論破するに急な弟を案じた兄「無著」の諌めによって心を翻し、大乗に帰入されます。それまで大乗を謗ってきた舌を噛み切ってお侘びをしたいという弟に、舌を切って死んでも謗法の罪が消えるものではない。むしろその舌を生かして大乗の教化に努めよと兄は励まし、仏教史に名を止める天親菩薩が誕生しました。
運慶が彫った無著、世親(天親)両菩薩の立像は、興福寺北円堂に祀られ、春秋二回の公開に多くの人々を魅了しています。しかし興福寺にあるということは法相宗の祖としてなのです。
右側:無著菩薩
左側:世親(天親)菩薩
その天親菩薩が偸伽唯識とは系譜の異なる『大無量寿経』に触れて感動されました。感動はうた(偈)になりました。解釈の散文が付いてはいますが、『無量寿経優婆提舍願生偈』(聖典135頁)がそれです。長すぎるので『浄土論』とも『往生論』とも呼ばれます。
『浄土論』は「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」で始まります。「一心の華文」(聖典210頁)として宗祖が大切にされる所以です。しかし行巻の引文(聖典167頁)は造論の意図を明らかにされる第二行「我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応」からになっています。名号が釈尊の説法となって、私をして願生の偈を説かしめたのだ」と天親菩薩は仰っているのです。
宗祖によれば「真実功徳は誓願の尊号」(聖典518ページ)であり、曇鸞大師が「仏の名号をもって経の体とす」(聖典168ページ)といわれるように、経に名号が説かれているのではなく、名号が経という言説になって体を明らかにするのです。
天親菩薩 【第2講】
2010年7月10日
数多い天親菩薩の論書から、宗祖は『浄土論』だけを選んで『教行信証』に引用し、『尊号真像銘文』には24行ある『願生偈』の中から始めの3行と終りに近い1行だけを引かれます。
末法の衆生のために留めおくとされた『無量寿経』に大悲の願心の真髄を読み取ったのが『浄土論』であり、『浄土論』の要中の要が『尊号真像銘文』に引かれた4行16句(聖典517頁)に摂(おさま)っているというのが宗祖の受け止めであったと思われます。
冒頭の第1句は「世尊我一心」です。「世尊我」は「世尊」と「我」の関係成立であり、『無量寿経』が時空を超えて釈尊と天親菩薩を結びつけたことを表します。やっと『無量寿経』が読めた、初めて師-釈尊に出遇えたという喜びをもって「世にも尊いお方よ」と呼びかけておられます。
「我一心」は「世尊よ」ということができた「我」の自覚の内容です。天親菩薩の全存在をかけた「わがみ」が教えに頷けたところに「ふたごころなくうたがいな」いのが「一心」であり、『教行信証』が課題としている「真実の信心」でもあります。この「一心」は次の句の「帰命」とつながって「我」と「尽十方無碍光如来」を結ぶただひとつの可能性になります。「一心帰命」が「南無」、「尽十方無碍光如来」は「阿弥陀仏」です。
「願生安楽国」は、この如来を称念し信じて安楽国に生まれたいと天親菩薩が立てられた願いです。しかし現実はどうでしょうか。私たちには信じる前に疑いの心が先に立ちます。そんなことはすでにお見通しの上で立てられた本願だからこの如来は智慧であり、拒絶する煩悩にも妨げられないから光そのものである、と宗祖は註釈しておられます。
「我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応」は第2行の4句です。
天親菩薩は『無量寿経』に釈迦如来のご正意を感得して、仏法のまことの相を明らかにするために偈を説かれました。願力不思議のはたらきかけは言説の及ぶところではないとしても、本願の心をあらわす言葉が如来の智慧によってこの偈頌になっているのです。だから『浄土論』は、釈尊の教勅、弥陀の誓願にかなうものであって、いささかもたがうところはないと宗祖は読んでおられます。
第3行は第3,4句が省略されて初めの2句「観彼世界相 勝過三界道」が引かれます。
ここから、国土としての浄土の荘厳が17種に分けて個々に観察されていくのですが、それに先立って全体の相が述べられるところです。「総相」は「清浄」だと曇鸞大師は云っておられます。浄土は三界(迷いの世界)の不浄を離れた浄らかな世界です。しかもそれは不浄を包摂して不浄を超えた清浄なる世界なのです。清沢満之先生によれば浄土は「絶対無限」、三界は「相対有限」です。「相対差別」の三界を超えたところに、あらゆる者を迎え入れることができる虚空のような広さを持った「絶対平等」の浄土が開かれているのです。
「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」はずっと後の第19行です。
ご和讃では「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」(聖典490頁天親菩薩3)と詠われているところです。
「仏の本願力を観る」とは「本願力に遇う」ことだと宗祖は云われます。また『一年多念文意』では『遇』はもうあうという。もうあうともうすは、本願力を信ずるなり。」(聖典544頁)とも云われます。遇はこちらからのはからいではなく、向うからのはたらきかけを意味します。本願の力がはたらいて本願に遇い、信心を賜わるのです。
「空過(むなしくすぐる)」とは三界の中で果てしなく輪廻を繰り返すことです。本願力に遇い得た人は、このむなしく続く闇を離脱して光の世界に回入するときすぐさま、満ち溢れるような浄土の功徳にわが身が浸される感激を覚えるのです。