『教行信証』の化身土巻を読む(45) 一楽 真 師
2019/12/20
ご一緒に教行信証の化身土巻を少しづつでありますが、読んでおります。もう大分進んで来まして、本巻の終りの方に来ました。化身土巻は方便化身土という言葉のとおり我々を導く如来の方便ですね、これが明らかにされているわけであります。云い方を換えますとその方便がないと我々は真実というものに出遇えないのです。観経、阿弥陀経の教説に依りながら、そこにも我々を導くお手立てがちゃんとあるということを親鸞聖人は確かめていかれます。そういうことで今度は一代教ですね。お釈迦さまが一生涯かかって説かれた一代教にもやっぱり方便と真実がある、ここをしっかりと見定めるというのが、この化身土巻の大事な主題になっているわけです。方便は真実に出遇わせる如来のおはたらきという意味では大変大事な面を持っていますが、その方便を真実と勘違いすると、そこに止まってしまうということになるわけです。例えば修行に励みなさいという言葉一つとってみても、基本は自分がどう生きるのかということに真面目になれということですね。でもそれをついついどこまで出来たかという、他人と比べてしまうような、ひどい場合には自分が思い上がって人を見下すようなことになったら、それは修行とは云えませんよね。仏道の歩みとは云えないわけです。でもそういうことが往々にして起るわけです。これは親鸞聖人ご自身が比叡山で20年修行をして迷いを超えられなかったという体験を踏まえておられまして、その時に我々が本当に真実に出遇うということに方便の意味を同時に確かめていくということになるわけであります。
358頁に戻って、[このゆえに「不応依識」と言えり。]識に依るべからずというふうに云うんだと。でもこれ難しいですね、本当に。我々の日常意識からしか学び始めるということはあり得ないからです。いきなり如来の智慧をいただきましょうと云うても、自分の考えを放棄するように見えても、そうじゃないですよね。自分の考えをただ棄ててしまうんだったら、それは悪い意味の別の考え方に染められる話かも知れません。だから自分の識がいかに危ういかということが見えてくる、そういう形で如来の智慧を中心として生きることが起るのでしょうね。始めから思考停止というか、考えを止めてしまって如来の智慧を注入して下さいと、そんな意味ではないと思います。この辺は浄土教では昔から云われるところで、賜わりたる信心なんて云うてね、なんか他者から思想を注入されるような、悪い意味の洗脳されるようなイメージがずっと付きまとうんですね。そうではなくて、ハッキリすることがある、これだったかということが見える。そういう形で如来の智慧をいただくということがあると云わなきゃならんと思います。ここはそれを詳しく述べているわけじゃないですけれど、ずうっと真実信心とは何かということで、こういうことが云われて来たのだと思われます。また大分振り返って、そこが長くなりましたが、もう一つだけ残ってますけど、一遍休憩しましょうかね。
こういう見当付けだけしておきましょうか。一応安楽集の前まで見たということにしておきたいと思います。
聖浄二門の時機とは
それで今読んでおりますのは大谷派の聖典で云うと357頁を前回読んでいたわけですね。ちょっとだけ遡っておきますと、前から4行目、ここは三願転入というのを述べ終ったあとに、真実に出遇うことができた喜びを語っておられるのが三願転入の文でありますが、そこを踏まえて今度は「信に知りぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず」という断言が出ております。聖道というのは聖者となっていく道ですね。修行して煩悩を起ち切るという課題。煩悩が人間を迷わせたり苦しめたり傷つけ合うたりということのもと、これは浄土においても同じでありましょうが、その煩悩を断ち切る道というのが聖道と云われているわけです。しかしそれはもはや成り立たないということ、それは在世正法と云ってお釈迦さまがおいでになる時、あるいはそのはたらきがずうっと保たれている正法の500年間は聖道の諸教は成り立つだろうけれども、いまの像法・末法さらには法滅の時には成り立たないということを断言しているわけです。この時にもお話しましたが、これが教行信証のある意味での結論と云ってもいいんです。でもそれを冒頭に置いてあったら誰ももう読まないと思います。やっぱり聖道の修行をしている人はいっぱいいるわけですからね、ワシ等のことをバカにするのかとなるのに決まってますよね。あるいは、この本を書いた人は仏教が分かってないと云って一蹴されて終りでしょうね。ここはずうっと長い長い思索を通してやっとここまで来て、もう聖道の仏教は成り立たない、これは我々を仏道に向けるための方便だということをはっきりと云って、ここに来るわけであります。ですから修行するということは大事な面を持っているわけですが、それはどこまでも真実に出遇うための修行でありまして、真実に出遇えなかったらいくら真面目に長い間やってますと云っても、それは仏道修行の意味を持たないということでありますね。で、これを聖道に対して「浄土真宗は」と云ってます。これも何遍も云いますが、宗派の名前ではありませんで、浄土が「まことのむね」であると、浄土を真の宗とする教えでありますが、この仏道は在世も正法も像法も末法も法滅の時代になったとしてもと。これはお釈迦さまの教えが全部滅し尽きる時が来たとしても、浄土の真宗は成り立つんだというわけです。これは時代の方を在世・正法・像法・末法・法滅という五つの時で押さえていますね。そして濁悪の群萌というのはその教えを受ける機の方でありますが、さっき時機という言葉、「時を失し機に乖ける」とありましたが、最も教えから遠く、迷いを超えられないと見られている者をもひとり残らず救うんだという意味で、濁悪の群萌という言葉を挙げてあるわけであります。だから善人も悪人もなんですよ。聖者も凡夫もどんな人もなんですが、「濁悪の群萌、斉しく悲引したまう」と云っておられる。「群萌」というのはつながりを表わす言葉なんですね。群がり萌えると書いてあります。つながりの中、関係の中で苦しめ合い傷つけ合っている、そういう者を助けるのが浄土真宗なんだと云っているわけですね。仏説とそれ以外の四説
それで前回読んでおりました「ここをもって経家に拠りて師釈を披きたるに、説人の差別を弁ぜば、おおよそ諸経の起説、五種に過ぎず」と云って、お経にはいろんな説き手があるんだけれども、この浄土の教えは間違いなく大聖の自説であるということを云うわけです。その時に、一つには仏説、二つには聖弟子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つにはそれら以外の形を変えて現われた者が説いた変化説と、こういうふうにお経を分類しているわけですね。遡れば龍樹菩薩、道綽禅師、それからここは基本的には善導大師の言葉に依っているわけですが、そういう先達のお経を見る目に依りながらこの五つにまとめられると云っています。そして「しかれば四種の所説は信用に足らず」と。つまり仏説以外の四つは信じ用いるべきでないと断言しておられる。まぁ「経」という字が付いていると一様に大事なことと思うけれども、要は何なのかということをはっきりさせなければいけない。これはずうっと化身土巻で観経・阿弥陀経を通しながら一代教の真実と方便ということを見て来た、そういうことの結果としてここにこういうことが云われているわけです。それをまとめて「この三経は」と。これは浄土三部経のことをさしていますね。「すなわち大聖の自説なり」と。大聖というのはお釈迦さまのことですが、特に阿難がお釈迦さまを呼んだ言葉、教巻に出て来ます。一番初めの教巻に「ややしかなり、大聖」と云って、阿難が改めてお釈迦さまを仰いだ言葉があります。そこと響き合っているんですね。教行信証というのは本当に息の長い本だと思いますが、場所を確認しておきますと、聖典153頁の1行目でしたね。阿難の言葉が並んでおります。「ややしかなり、大聖、我が心に念言すらく」と云っている。改めてお釈迦さまを仰ぎ直したわけです。一言で云うなら「お釈迦さまは如の世界から来て下さった方なんですね」ということなんですよ。それまでどう見ていたかと云うたら、お釈迦さまは浄飯王のお子さまとしてカピラ城に誕生して、29歳で出家して6年間の苦行の後それをお捨てになって、そして瞑想に入って覚りを開かれた。ここだけ聞くとあぁ35歳で覚ったのかとなるわけです。そうすると何か人間が頑張ったら覚れるという図式にどうしても入れてしまうんですね。オレもいつかみたいな話です。ところが阿難の場合はお釈迦さまが晩年弱って来ておられるのに全然その覚りが近づいてるとは思えないんですね。だから別のお経ではシクシク泣く阿難がいます。私はまだ学ばないといけないことが残っているのにどうしてお釈迦さまは私を見捨てて入滅なさるのかとシクシク泣くのです。つまり阿難は自分を積み上げているからお釈迦さまに近づいていく、お釈迦さまのようになると、こういうふうに仏教を見ていたわけです。ところがこの大経の序分ではそれが全然違ったということです。お釈迦さまは人間が磨き上げて仏になった人でなくて、如の世界から私たちのために来て下さっていたのだという受け止めの転換なんですね。仏教観の転換だと思います。ただこれはどうでしょうか、現在に至るまでお釈迦さまは元人間だったと。そして修行して覚りをお開きになったんだと。だから私たちもお釈迦さまのように少しでも、一歩でも半歩でも近づく、これが仏教のように思われていませんかね。でも親鸞聖人はそういう仏陀観と云うかね、仏さまの見方をしないわけで、如来と仰る。如からやって来た。我々を導くために敢えてこの娑婆世界に現れて下さった応化身だというわけです。これはお釈迦さまだけではなくて法然上人にもそういいますね。源信僧都にもそう云ってますわ。私、始め法然上人のことをほめられる和讃を読んだときにはいくらご自分のお師匠さんといえどもちょっと持ち上げ過ぎと違うかと、ずっと反撥を感じていたことがあります。親鸞聖人はなんでこんな神秘的なことを云うのかなぁと思っていました。しかしそれは法然上人も勉強してあぁなったという話と違うということです。如の世界に目覚められて、如の世界から我々のためにはたらいて来て下さっている応化身だということなんですね。人間ブッダというような云い方もよくあります。同じように人間としての法然の魅力も大事でないとは云いませんが、それだと見誤ると思うんですね。いまに見ていろオレだって、というようなことです。それが典型的なのは阿難のお兄さんとして伝えられる提婆達多は実際そうだったわけでしょ。お釈迦さまの跡継ぎに私がふさわしいと思ったわけですから。私ほど学びの修行をして来た者が後継ぎにふさわしいんだと云ってしまうわけです。結局人間の延長上に仏を見ているんですね。そこには断絶があるんです。向こうからのはたらきかけということが教巻で大聖という言葉で改めて仰がれ直されたお釈迦さま、もっと云えば阿難がそう仰ぐことができたということです。人間としてのお釈迦さまを見る目から解放されたんですね。ここを直接取っているとはとても云えませんけれど、さっきの化身土巻に戻れば「大聖の自説なり」と云う時には、出世本懐を語るんですね。つまりお釈迦さまはいろんな経を説いておられるけれども云いたいことは何だったのかと。これを阿難は確かめるわけです。そうしたら修行しなさいというお経もそれは一つの云い方であって、例えば身体の動かない人に修行しなさいとは云えないわけですよ。あるいは言葉が憶えられない周利槃特なんかには言葉を憶えて学びを進めなさいとも云えないわけです。相手に応じて説くわけでしょ。でもその根っこにはずうっと貫かれているものがあります。修業ができるか出来ないかは関係ない、お釈迦さまの言葉を沢山憶えているか憶えていないかも関係ないんですよ。大事なのは自分は迷っていたなぁと、本当でないことを本当だと思い込んでいたなぁという、そういう夢から覚めることですね。酔いから醒めるという喩えもあります。ボクには耳の痛い話で酔うとるうちはまだ酔うとらんと云うんですよ、いくつになってもそうです。飲みすぎたなというのは次の日にやっと分かるんですね。醒めてみないと酔うとったことすら分からない。夢も一緒ですね、夢から覚めなさいと云うけれど、夢見てる最中は夢に喜んだり脅えたりすることがあります。それがパッと覚めるとあぁ夢やったのかと云うて胸を撫で下ろす。でも夢見とる最中は夢とは気付かんわけでしょ。これが私たちに起きている時も、本当に大事なことは後回しにして、大事でないことに呑み込まれているんじゃないかということが云われている。これが迷っている、夢見ている、酔っぱらっているということなんです。だからその迷いから覚めなさい、夢から覚めなさいということはお釈迦さまの教えの根幹にあるわけですね。その時にこの無量寿経はその方法まで教えてくれているわけですよ。目を覚ませ、座禅組めなんて云ってないですよ。人にできないようなこと、滝行をしなさいとも云ってないんですよ。阿弥陀の名前を念じなさいと、この一点なんです。阿弥陀に出遇えば自分がいかに必要のないことに執われていたか、量ることの出来ないのちを量っていたかということに初めて気が付く。だから方法も含めて執われから離れる道をお釈迦さまは云いたい。だってそれを説けば誰もが平等に迷いを超える道がはっきりするわけですから。でも私たちなかなかウンと云わんでしょ。南無阿弥陀仏一つで執われを離れられますよ、夢から覚めますよと云われても、そんな簡単なことと云ってしまう先入観があるわけです。そんなことで助かるはずないやないかと思っているわけです。だから入ってこないんですね。これは前までのところで大分丁寧に読みましたけれども、要するにそういう努力意識あるいは私に何かさせろと云う人間には、じゃぁここからやれと云うているのが観経の善を勧めることであったり、あるいは阿弥陀経の功徳の本であるものとしての念仏をお勧めすることであったりするわけです。なかなか念仏一つということに決まらない私たちのために、観経・阿弥陀経が方便をもっているわけですね。だから始めっから結論は出ているわけです。念仏一つということはもう決まっているわけですね。それをいただけない私がいるから、あの手この手で云わなきゃならんのです。この「大聖の自説」という言葉が教巻と響き合うていると申し上げましたが、お釈迦さまの出世本懐、一番云いたいことがここにあるということが、この名前に託されているということであります。これを前回踏まえて読みかかっていたのが次の言葉でしたね。大智度論の四依
[『大論』に四依を釈して云わく]と。『大論』というのは龍樹菩薩の著作と推定されている『大智度論』で、龍樹菩薩が涅槃経に説かれる四つの依るべきものについて解釈を加えて下さっているということであります。「涅槃経」には「四依品」という一品が設けられていまして、ここで四依ということについても詳しく述べられております。しかしそれを『涅槃経』から直接引くわけじゃなくて、龍樹菩薩の註釈をここに引いておられます。こんなこともね、教行信証を読んでいく時には、何故本の四依品じゃないのかというようなことも考えてみにゃならんのですが、話が込み入りますのでここはとにかく親鸞聖人は龍樹菩薩の指南に依りながら涅槃経が語る四依ということを受け止めておられるというふうに見ておきたいと思います。ちょっと言葉を当っておきますと、「涅槃にに入りなんとせし時」というのは親鸞聖人の訓点であります。「入る時」と読んでもいいわけです、でも「入りなん」ですから、まさに今お入りになろうとするその時に、という読みです。とても臨場感があると云うかね、最後にこれだけは云うておくぞというお言葉として親鸞聖人は聞かれたんでしょうね。だからこういう訓点が振られているわけです。そして[もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。]こうあります。今日というのは今から私がいなくなるけれどもと云ってるわけです。これは古い方の『阿含経』なんかには「諸行は無常である。怠ることなく励め」という言葉でお釈迦さま最後の言葉が伝えられています。励めというのは道を求めよということですね。何か特定の行をやれと云ってるわけじゃなくて、問いがあればその問いを明らかにするまで私たち止められませんよね、自分の問いですからね。何故生れてきたのか、死ぬのになぜ生きているのかというようなことが問いになったら、誰かに代わりに答えてもらうというわけにいきませんよね。もう気にせんとこう思っても、そういう問いはいつでも頭を擡げて来る。だからそれを怠ることなく励めとお釈迦さまは仰ってくれている。自分の問いが本当に納得できるまで、明かになるまで求め続けなさいということだと思います。その時に諸行は無常であるということを仰った。そのうちにと云うておったら間に合わんということですね。そんなことは、例えば定年になってから考えるとか、そんなのは間に合わんのです。「今日より」は「今」です。で、ここでは「怠ることなく励め」ではなくて、四つの依るべきものと依ってはならないものを明確になさる説法が行われているわけであります。これはカッコして書いてありますが、涅槃経にこの四つの「依法不依人 依義不依語 依智不依識 依了義経不依不了義」という言葉がちゃんとあるわけですね。それをカッコづけで分かり易いように聖典は書いてくれています。全部『智度論』の言葉ですからね、カギカッコはなくてもよさそうですが、もっとありますよということを示して下さっているのです。依法不依人
[「法に依る」とは、法に十二部あり。]と。十二部というのは、十二部経と云われて、お経の説き方によってお経を分類したものです。さっきの五説というのは誰が説いたかで五つに分けていましたが、十二部経というのは要するにお釈迦さまの説き方なんですね。一番基本的にはスートラと云われて道理に適うことが直接説かれているわけです。でもそれを譬えで説く時には譬喩経と云われる。論議して説く、議論しながら明らかにしていくというのは論議経、優婆提舍と云われる。これが十二種ある。それに依りなさいということを「この法に随うべし」と云って、「人に随うべからず」と云います。でもこれは涅槃に入る時に仰った言葉として涅槃経そして智度論に載せられるわけですが、後に残された者にとってはそう簡単にハイ分かりましたとは云えませんね。目の前から偉大な指導者がいなくなるからです。その人がいなくなったらどうしようかと思うでしょう。弟子としては真面目な感情かも知れませんね。教えを聞き続けて行きたいという謙虚な気持ちかもしれません。しかしそれは依るべきじゃないと云うんです。なぜか。形が変るからです。居た者が居なくなるということもある。だから縋ろうとしても、もう縋ることができないわけです。これは別の流れでは「自らを灯とせよ、他を灯とすることなかれ」、「自灯明法灯明」と云う文脈の中でも云われます。依るべきは法なんですね。法に依って明かになる自分自身をいただいて行けというのが自灯明法灯明という言葉なんですが、あそこにも他に依るなと云うんです。他を灯とするな、他を依り処にしてはいけないと云います。私たちは何かに縋って迷いを超えようとか、仏教が分かりたいという思いがありますけれども、それがどんどん法から離れていくことになるんですね。古い阿含経では法を見る者は我(仏)を見る。我を見る者は仏を見ず、とそんな趣旨のお経もあります。仏に遇うということは法に遇うということなんですね。お釈迦さまの顔を見ていることが遇うたことじゃないんですね。そこからずうっと法に中心を置いて来た仏教、これが涅槃に入ろうとする時にも語られるわけであります。しかしもうちょっと云うと、お釈迦さまに依るということなしに法に依るということは実際あり得ないですね。例えば親鸞聖人で云っても法然上人に遇わなかったら阿弥陀の法には遇えなかったわけですから。だからこれ、人に会うということはある意味で決定的です。それを化身土巻の中では善知識釈として読んで来たところであります。なかなか仏法はいただき難いんですけれども、それは先にいただいている人を通して教えてもらうということです。活字を読めばなんとかなるという話と違うんですね。これが生きられるということはどういうことかということを身をもって示して下さっている先達、善知識に依らないといけないわけです。しかしその時にまた善知識を当てにするということが起ったらえらいことになるでしょう。紙一重なんです。人を通さずして法には出遇えないんですけれども、人にぶら下がってはいけない。この辺一番すごい言葉は『歎異抄』第2章の言葉だと私は思います。627頁、関東のお同行とのやり取りです。念仏して浄土に生まれるのか地獄に落ちるのか、そんなこと私は知りませんと親鸞聖人は云ってるんです。関東から聞きに来た人はびっくりしたでしょうね。念仏して本当にお浄土へ行けるんですかと確かめに来ているのに、そんなこと私は知らんと云うんですね。その次がすごいですね。「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」と云ってます。「さらに」というのは「決して…なり」と強めた言葉ですね。法然上人にだまされて念仏したために地獄に落ちたとしても、私は決して後悔するはずありませんと、こう云ってるんです。だから親鸞聖人は浄土に往けるからといって念仏しているわけじゃないんです。逆に地獄に落ちると云われても止めるわけにいかない。つまり念仏は自分が生きて行く根拠ですからね、依り処でありますから。それを法然上人によって教えられた。だからもしか法然上人がですよ、前に云っていたことと私は考えが変りました。別のお経に依りますと、もしか云ったとしても、云われた親鸞聖人の方はゆるがないということなんです。法然上人が云っていたから信じてたんじゃないんです。法然上人がもしか宗旨替えなさったとしても、あぁそうですか、でも私は教えていただいたあの「ただ念仏」をいただいて生きて行きます。それは私が生きる依り処ですからと仰るに違いない。先の状態が良くなるから念仏するんじゃない。悪くなったら念仏のせいだとそんなんでもない。念仏と共に歩んで行くしかない私だということがはっきりしたからです。それの理由が書いてあるでしょう。「さらに後悔すべからずそうろう」の次に「そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。」念仏以外の行を励んで仏になることができる身であったならば、もし念仏したために地獄に落ちたならば、だまされたという後悔もあるだろう、とこう云ってます。法然上人に騙されたとなるわけですね。でもそれは人に依っているんです。「いずれの行もおよびがたき身なれば」と、これがはっきりしたわけです。どんな方法をもってしても、どんな行を重ねてみてもそれを徹底できない、それによって迷いを超えられないという私がハッキリした。だから念仏によって生きるより他ない。そういうことが明確になった。だから念仏がいい教えだと云って信じてるわけじゃない。念仏しなければ生きて行くことができない私だということが決まったんです。だから法然上人が念仏はもうご利益あんまりないよと、もしか云ったとしても、あぁそうですかとなるでしょうね。教えて下さった善知識のちからは大変大きいんですが、善知識に縛られているんじゃないんですよ。勿論法然上人はそんな前言を翻すことはありませんでしたけれど。ボク学生時代に焦って方々の聞法会に行ってたことがありましたが、そこに若い人たちの集団が来ていて周りを取り囲まれたことがありました。キミ若いのにエライねとか云われてね。カチンと来て、あんたらも若いやないかと云うたのを憶えてますけれども。それは要するにグループがあって、そこに勧誘活動に来ておられた。だから聞法に来ていたのではないんですね。聞法している人を勧誘するために来ておられたわけであります。その時に仰ったのは、あんた地獄に落ちるかも知れない人生の一大事は解決したのかというようなことを云うんですね。ボクはまだそんなに勉強もしていませんでしたけれども、ここは非常に印象に残ってましたから、いやいや親鸞聖人は地獄に落ちても構わないと云ってるじゃないですかと云いましたら、相手の方が口を揃えて、あれは言葉のアヤやと仰いました。要するに法然上人がだますはずがない。それぐらい心の底から信頼している言葉であって、法然上人は騙すはずがないんやと云いました。ボクは違うと思いました。しかしそれをそこで論破することはできませんでしたが、なるほど同じ文章を読んでも全然違う受け止めがあるんだなぁということに気が付かせてもらって、それから尚更この文章が大事なものとして読めることができるようになりました。これが正に法然上人に遇うたことは決定的なんですけれど、法然上人にぶら下がるのじゃないでしょ、あの人が云うたから間違いないとか、あの人のお墨付きがあるからこの教えを信じようと云うのじゃない。云い当てられた、はっきりしたことがこっち側にあるわけです。だから法然上人に前言撤回しますとか、私今日から宗旨替えしますというようなことがあったとしても、もう関係ないんです。これが法に依るということの具体的な姿だと思います。化身土巻に話を戻しますと「法に依り人に依らざるべし」ということを敢えて云わないといけないのは、人を通してしか法に出遇えないということがあるからです。始めっから法に依れで済むのなら、「人に依るな」なんて云う必要ないでしょう。人を介してしか法に出遇えないからです。しかし出遇ったことを大事にすべきであって、その人を当てにしたりぶら下がったりするのは全然違違うということなんですね。そういう意味で仏教は独立者となっていく道ですよね。依り処がはっきりするところに独り立ちすることができる。お釈迦さまの教団でもそうでしょう、サイの角の如く独り行けとね。二人でつるんで行くんじゃない、勿論聞法のお仲間は大事ですよ、しかしあの人が云うているから私もそうすると、そんなんと違いますね。議論したり問題を確かめる意味でお仲間が大事なのであって、先輩が云うているから、あの人がそう云うならまぁまぁ大丈夫かと、ぶら下がってついて行くのと全然違いますよ。もう一遍云いますが、人を通さないと法に出遇えないということがあるからこそ、こういう言葉が残されるわけですよね。お釈迦さまが正に自分が涅槃に入ろうとする、いのち終えて行こうとするその時に、このことだけは云うてくぞとまずこれを一つ目に云っているわけです。依義不依語
今度は「法に依る」の展開と云っていいのですが「義に依りて語に依らざるべし」と云っている。依るべきは義であって言葉に執われてはならないと云うんですね。これもさっきの法と人との関係と一緒で、言葉を通さないとその言葉の意味するところだって出遇えません。ところが言葉を学ぶと、その言葉に執われてしまう。依るべきはその言葉の云おうとしていること、その義に依れというわけです。この辺まで前回読んでいたと思います。その解説を読みますと、357頁の最後の行ですね。[「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。]まず面白いのは義の中には好悪・罪福・虚実を諍うことがないと云いますね。言葉とすると好いとか悪いとか、好きか嫌いかとか、罪か福かです。これは概念として成り立ちますよね。でも義ということになったら、それは導くために立てているものであって、それを通してそれを超えている世界に出遇ってほしいわけで、何の譬えでも全部そうです。お釈迦さまはいろんな譬えで仏さまの世界を説いて下さるわけです、傷つけ合い迷うことを超えた世界を描いて下さるわけですが、その言葉に執われると、例えばお浄土は西に在るということ一つを取ってみても、じゃぁ西に行かなきゃならんというふうになるわけですよ。いつ行くんですかとそんな話にどんどんなるでしょ。しかし西に在るということで何を仰りたいのかということに出遇わないといけないですね。だから本当は西も東もないんですよ、でも私たちはどこでもいいと云われても拝むことも出来ないのでご本尊を置いて、あるいはお仏壇を置いて、お名号を掲げて、そこで礼拝させてもらうということもあるわけです。本当は方角は関係ないでしょう。でもそういう立てたものだということが大事なんです。だから義は立てたものの奥にある、超えてるんですよね。安田先生がよく云っておられた言葉ですが、言葉というのは言葉なんだけれども、本当は言葉を離れた世界を云おうとしているとね。離言の言だとこんな云い方をよくしておられました。言葉なんだけれども言葉を離れた世界を云おうとしている。これはボクらの分別で計れない世界を云うのに人間の分別に依りながら説くわけです。浄土と穢土もそうでしょう。浄土というのは浄らか、穢土というのは我々の生きてる世界を穢れた世界というわけですが、その概念に捕らわれると穢土はダメだとか早く浄土に往かねばならないとか、こういうことになる。立てた二つのことが対立概念のように見えてしまう。でも浄土を立てることによって、この世の痛ましさを私たちが知らされるということです。それによっていよいよ浄土の教えに立つことに依ってこの世を生きられるというのが、その教えの大事なところなのに、いつの間にか穢土は良くないから早く避難しましょう、浄土に早く行きましょうみたいな話にどんどん行くわけですよ。これはもと「智度論」ですから浄穢ということは云うていませんけれど、それも含めて対立概念は全部入れていいと思います。それは云わないと分からないからです。穢土は痛ましいから浄土を願えと云うために二つを立てるわけです。迷いと覚りという概念もそうですね。迷いを翻して覚りなさいと云いますけれども、それを危うく取ると迷いは叩き壊せみたいなことになるわけです。覚りが理想になったら迷っている現実はつまらんみたいなことになる。これが一番ひどい形で出たのがオウム真理教のポアという言葉でした。オウム真理教は迷っている人間を浄化してあげるのは罪ではないと云って人殺しをしたんです。あれは大分まやかしの教義だったと思いますけれども、そう云われて乗っかった人がいるわけですよ。それを本当だと思った、だから迷う人生をいつまでも繰り返すぐらいならポアして浄らかな世界に行った方が救いだと云ってしまうのですね。でも迷いと覚りをオウム真理教まで行かないかも知れませんけど、私たちの中にも対立概念として捉えて、迷いはダメだとなって、覚りをいいことのように妄想していくということが起きるわけですよ。それが何のための覚りかと云うたら、この迷いの現実を痛んで、そこに立って生きていくことができる、迷いと向き合いながら生きて行くことができるのが覚りの大事な意味でしょ。だから対立概念ではないんです。この辺が親鸞聖人まで来ると「不断煩悩得涅槃」という言葉になるでしょう。煩悩を断ち切ってから覚りに行くんじゃないんですよ、煩悩の真只中にはたらいてくる覚りです。それでなければ仏教はなんか片方を貶めて、もう一方に理想を思い描いて追い求めていく。短い言葉ですけれども義の中には、好悪・罪福・虚実のような対立概念はないんですよ。それはそのように説いたということはある。だから言葉を通さないとこの義に遇えないが、その言葉のところに止まってはならない。だから「かるがゆえに語はすでに義を得たり」と。言葉のところに義ということが入っているのですね。ただし「義に語はあらざるなり」と。言葉というのは義を具えていなければならない。その中に必ず云おうとしていることが込められているのですが、その言葉だけで義そのものというわけにいかない。これを「義に語はあらざるなり」と云ってます。これの譬えが出てましたね。358頁へ行きますと「人、指をもって月を指う、もって我を示教す」と。人が指で月を教えてくれていると云うんですね。ところが「指を看視して月を視ざるがごとし」と。私たちは月を見ないで指だけ見ているようなもんやと、こういう譬えです。非常に分かり易いですね。すると、その人が云います。「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。月を見てほしいんだと、どうしてあなたは指ばっかり見ているのか。見てほしいものを見ようとしないんだと。言葉の云い当てようとすること、言葉を通して気付いてほしいこと、これに依らなきゃならんと云うんですね。でもこれもたいへん難しい話で、私たちは言葉を学べば学ぶほど、その概念に執われて行きます。もちろん言葉で物事を整理していくのは大事なことなんです。でもそこからの呼びかけや響きをいただかないと、ただの物知りと云うかね、仏教も情報になってしまいますわ。この間もある会で善導大師の法事讃を読んでいました。そう云う輪読会があるというのは有難いことです。法事讃というのは大変面白くて阿弥陀経の一文をあげて、それをここに座る高座の人がその受け止めを云うわけですね。お参りをしている下座の人がそれについて語る。どう語るかという言葉まで善導大師が書いてくれているんです。まぁ阿弥陀経をいただくいただき方、それを儀式の形にまでして下さっているんですね。大谷派でも法事讃で儀式を勤めるということは絶えてないんですけれど、あれはすごく大事な本だなぁと思います。その時に阿弥陀経を読んだら、普通は次にこの文章は何を云っているかという解説が欲しいですね。違うんです。何を云ってるかと云うたら、本文をいただいたら次に願往生願往生、願わくは往生せん、願わくは往生せんという。つまりお経を読むということは、往生する心が掘り起される。お経に詳しくなるんじゃないですね、浄土のことを聞かされれば、あぁ私は往生しようと思いますという願いを起すことになる、こういう対応関係でずうっと進んで行くんです。改めてこういういただき方が大事だと思わされました。お経を読むとは何だろうかと思うとボクらどうしても先ずは単語の意味、そして文脈を知って、それでだいたいこのお経は分かったと云ってますわ。分かっても全然往生したいという気持ちが起きなかったら阿弥陀経を読んだことにならんというのが善導大師のお示しなんですね。そういうお経の読み方はなかなか出来ないでしょう。それをここで云うと、「義に依りて語に依らざれ」ということだと思います。言葉の解釈ばっかりしている。そしてこれはお経に云っているかどうかとか、云ってないからいいんだとか、そんなことにまでなったりすると、お釈迦さまといえども一から十まで全部のことに言及するなんてことはありませんよね。時代も違いますし、お釈迦さまが説かれたお経には現代の具体的な問題はいちいち書いてありません。でもそれだからお経は不備だということになりますか。云うてないからお経は答えていない、そんなことはありません。お釈迦さまならこの問題には必ずこう仰って下さるに違いないというふうに、読んでる中から炙り出されて来るということがあると思いますね。それが本当にお経をいただく、ここで云うと「義に依る」ということの意味だと思います。昨今そういうお経の表現についてもいろいろな問題が指摘されていますが、現代の感覚からすると確かに問題です。そんなことはいっぱいあります。性別のことで云えば男か女かの二項対立しか云うていませんからね、今はそこに入らないLGBTとか、Xと云うてどちらにも属さないというのもあるそうですが、こんなこと一々書いてないわけです。だからお経は古いとか、現代の問題に答えられないとなるのかということです。例として男と女という問題で括ってあるということはあります。しかしそれは性的マイノリティの問題に応答してないかと云うと、それは呼び方の問題やとおもいます。そこが義に依ると云うのであって、言葉ばっかり、お経の言葉狩りまでしてますからね。お釈迦さまが悪いかのように云うわけですが、お釈迦さまといえども現代がこんなひどい状態になるとは思ってなかったでしょうから、現代の問題のことは一々書いてないんですよ。でもお釈迦さまに聞いていく、これは出来ると思います。まぁそれが義に依りて語に依らざれということですね。そして続けて「これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず」と。これもさっきと同じでしょう。人を通さないと法に遇えないんです。ここでも語を通さないと義に遇えないんですけれども、語は立てられたものであり、その奥にあるものに出遇わなきゃならんと云っているわけです。そう思うと仏法を学ぶということはどういうことかと、今に至るまでずうっと学び方のことを云うて下さっています。ボクは大体逆になっていませんかね、どの先生がいいかとか、どこに書いてあるのかとか、そっちの方ばっかりで、人に依り語に依るということになってるわけです。依智不依識
そしてもう一つ、三つ目が今度はいただき方ですね。それが「智に依り識に依らざれ」ということです。[「依智」とは、智はよく善悪を籌量し分別す。識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。]と。智慧というのは善と悪を籌量、計ると云うのです。「籌」は竹冠が付いていますが、筮竹のことなんだそうで、数を勘定したりする意味のはかるであります。何が本当の善であり、何が本当の悪であるかということを知り分けていくのが智慧なんですね。でもこれでパッと思い当たると思いますが、親鸞聖人は歎異抄の後序では「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と仰ってます。本当にこの善悪を籌量できるのは如来だけなんですね。「如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめ」そこまでいかないでしょうと云っている。だから、この智に依るということは、私がこういうものを具えるという話じゃなくて、仏の智慧をいただいていきなさいという意味だと思います。そう取らないと私を磨き上げて得るような智慧は、これまたランク付けが起きたり、場合によては人をバカにすることも起きますよね。ちょっと遠い話ですが、人間の持つような知恵の問題をひと言で云ってるのは236頁4行目に「おおよそ大信海を案ずれば」とあります。これも二項対立の話なんですが、如来の本願力によってたまわる信心は誰においても平等なんですね、そのあり方を問わない。それを「貴賤・緇素を簡ばず」と云うでしょ。貴賤は生まれた家柄、緇素は僧侶か在俗の者かを着衣の色で、黒か白で云います。僧俗を問わない。それから「男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず」。まぁこれだけ一々云うのは、こういうことの逆が起っているということですね。云い方を換えれば、一切衆生がみんな助かると云っていいんですよ。一切衆生に平等だと云ってもいいのに、例外を全部潰して一々これもこれも問わない、これもこれも分け隔てしないと全部云うて行くんですね。その後もそうです。「行にあらず・善にあらず、頓にあらず・漸にあらず」これもすごい言葉で、念仏は本当の行だと云ってるところもあるんですが、ここでは「行にあらず・善にあらず」と、そう云う価値付けの中に組み込まれるものじゃないということを云ってますね。それから「頓にあらず・漸にあらず」これは化身土巻で読んだところでは、浄土の教えは頓の中の頓だと書いてありました。こんなに早く今ここで成り立つ教えはないと云っているのに、ここでは頓とか漸とか決めるわけにいかないのです。これはどういう文脈かと云えば、信心のことでいま云ってますが、パッと開ける人もいれば時間がかかる人もいるんです。機が熟するまで、どっちがいいという話じゃない。でもパターン化できないでしょ。だから教えは、出遇えばそこに瞬間にして開ける教えですが、その教えに出遇うことが難しいということがあるから頓でもない漸でもないと。それから「定にあらず・散にあらず」と。定は精神を集中するあり方です、散は散漫な心です。念仏の場合も念仏三昧と云って、定のことを云う文脈もあります。しかしそれをまた一つの境地とすれば、散漫な心の念仏はダメだという話にまたなるでしょう。状態をえらばないんですよ。南無阿弥陀仏をいただいて、あぁそうだなぁと集中している時もあれば、散漫の心で南無阿弥陀仏しておってハッとさせられる時もある。だから形を決められない。全部そういう二項対立のことを云うてます。あと「正観にあらず・邪観にあらず、有念にあらず・無念にあらず、尋常にあらず・臨終にあらず」親鸞聖人は尋常の方が大事なんですよ、常日頃ですわ。臨終というのは命終わるときに、例えばきちっと威儀を整えて、そして阿弥陀を念ずる、これが一番いいことのように云われる。親鸞聖人は臨終を待つことはない、来迎をたのむことはないと仰っていますから、どちらかと云えば尋常という立場におられたことは間違いないですよ。でも今までのご縁の中で臨終が近づいてくる中でお念仏をいただくということもあるわけですから、臨終がダメとは云わない。これもすごい話で宗祖はどちらかに強調点を置いておられるということは思うんですが、でもそれはどちらもありだと云うて下さっているんですね。で、「多念にあらず・一念にあらず」と押えたあとに「ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。たとえば阿伽陀役のよく一切の毒を滅するがごとし」すべての毒を滅する薬がインドにあったんだそうですが、それを例に挙げて「如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。」というわけです。智愚というのは非常に大事な言葉でしょう。しかし人間が得るような知恵、これは小賢しい知恵かもしれませんが、それは愚かということと対立していくようになるんです。私は大分知恵を獲得できたと云うた途端にそうでない人を貶めるということが起きる。だからこの智も愚も毒と云われているんです。傷つけ合う、まさに毒なんです。阿弥陀の本願はそれを滅して下さるというふうに云っている。そうするとさっきの依るべき智と、ここの智は一緒というわけにはいかないと思います。漢字は一緒ですよ、しかし人間が積み上げて手に入れるような智は、やっぱり毒に落ちて行くんです。毒が雑ざるんです。先ほどの智は、その意味で云うと善悪を籌量する、歎異抄の言葉で云えば、「如来がよしとおぼしめす」あるいは「如来があしとおぼしめす」そういう如来が教えて下さっていることを我々はいただくほかないですね。これが大事なことなのかと。これは拘らなくていいことなのか、あるいはこれが本当に痛ましい悪というものなのかということです。だって我々が善悪と思っていることは時代によってコロコロ変わるでしょう。それこそ75年前に日本で評価されたことと、今とは全然変わって来たわけです。だから今これが善だと云っていることも、また何年かしたらコロッと変ることがいくらもあるわけです。そんなものを中心にして生きていいのかということが云われている。だから「智慧に依る」とは如来の智慧をいただくというふうに読まなきゃならんと思うんですね。我々の持っているのは識でありますが、これは何時でも楽を求むと云ってます。もっと云えば自分にとっての楽ですよ。自分がその時考える楽を求めるので、本当に正しい要には入らない。「正要に入らず」と云ってます。この「正要」という言葉も信巻に出ているので見ておきましょうか。237頁4行目菩提心釈ですが、「横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといえども」とあります。竪(たて)の菩提心と横の菩提心。菩提心という言葉は同じなんです、ところがその心は違っていると。竪の菩提心は自分の努力を積み重ねて覚りに近づいていくことです。時間がかかる回り道なんですね。それに対して横の菩提心は本願のはたらきによって一気に超えて行くと。だから誰においても平等に成り立つ菩提心。菩提心という言葉は一緒だけれども意味は違うということを「その心異なりといえども」と云ってます。ところが「入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり」と、こう云ってる。ここに「真に入ることを正要とする」と云ってるでしょう、だから竪の菩提心も課題は一緒なんですよ。でも真に入って行くということ、これが正に要とするところなんですが、竪の菩提心ではなかなかそれが難しいんですね。それから「真心を根本とす」真の心、これが根本なんですね。ただ竪の菩提心は状況によって揺らぐんですよ、心折れそうになるんですね。法然上人を批判した明恵上人でも修行に負けそうになって、その心を叱咤するために自分の耳を切り落としたというエピソードまで伝えられているでしょ、あれほど修行に邁進した人でも心が折れそうになる。だからこの真心は大事なんですけれども、ブレるんですね。そして「邪雑」あやまりが雑ってくること。よこしまな心が雑ってくること、これを誤りとする。そして「疑情」これを失と云ってます。「入真を正要とす、真心を根本とす」、それに対して「邪雑を錯とす、疑情を失とするなり」と呼びかけているところに「正要」という言葉が出てますね。ですから先ほどの『大智度論』の「識に依るべからず」の「識」というのは、いつも自分のその場その場の楽を求めていて、この「正要」というところに入らないと云ってます。大事なところに行かないんですね。結局フラフラフラフラするということなんですね。まぁ直接に重なっているわけじゃないんですけれども、言葉がここにあるということをお示ししておきます。358頁に戻って、[このゆえに「不応依識」と言えり。]識に依るべからずというふうに云うんだと。でもこれ難しいですね、本当に。我々の日常意識からしか学び始めるということはあり得ないからです。いきなり如来の智慧をいただきましょうと云うても、自分の考えを放棄するように見えても、そうじゃないですよね。自分の考えをただ棄ててしまうんだったら、それは悪い意味の別の考え方に染められる話かも知れません。だから自分の識がいかに危ういかということが見えてくる、そういう形で如来の智慧を中心として生きることが起るのでしょうね。始めから思考停止というか、考えを止めてしまって如来の智慧を注入して下さいと、そんな意味ではないと思います。この辺は浄土教では昔から云われるところで、賜わりたる信心なんて云うてね、なんか他者から思想を注入されるような、悪い意味の洗脳されるようなイメージがずっと付きまとうんですね。そうではなくて、ハッキリすることがある、これだったかということが見える。そういう形で如来の智慧をいただくということがあると云わなきゃならんと思います。ここはそれを詳しく述べているわけじゃないですけれど、ずうっと真実信心とは何かということで、こういうことが云われて来たのだと思われます。また大分振り返って、そこが長くなりましたが、もう一つだけ残ってますけど、一遍休憩しましょうかね。
依了義経不依不了義
四依のことについてみているわけですが、4番目の「了義経に依りて不了義に依らざるべし」という、ここはちょっと文章が途中で切れたようなことになっていますが、[「依了義経」とは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり、と。]これ依了義経についてだけ云うてますね。「不了義に依らざるべし」というのは出て来ない。『智度論』にもちゃんと不了義に依るな、「未了義」という字になってますけれど、未だはっきりしてないものに依ってはならんと云って、その説明がちゃんとあるんですが、親鸞聖人は未了義とも不了義とも省いてしまっておられる、依了義経で切っておられる。きっと難しいのがこの言葉、さっと読んで分からないですね。始めの三つのようによく分かる話になっていなくて、「依了義経とは」となっている。これが休憩時間中にご質問をいただいたのですが、さっき五説という形で、仏説以外のものは「信用に足らず」とあって、どのお経が仏説なのかということが我々の機になることであります。そのこととここは重なってるというふうに私は思うんですね。つまり読み方に依っては本当の仏説であっても、仏説を捩じ曲げて行くものを持っていますから、前の三つで云えば法に依らず人に依ろうとする読み方をするわけですよ。あるいは義に依らずして言葉ばっかりに執われていく読み方もするわけです。それから智に依らずして日頃の常識で読もうとする、識に依ろうとする。こうなったらお経がお経でなくなって、全部捩じ曲げた自分なりの色を付けてしまったものになるわけであります。そういう意味で最後の依了義経というのはどういうことかとなると、お経に依るとはこういうことだと云ってると思うんですね。たださっきの仏説以下の五つ並べてありましたけど、どの経典がどれに属するのかという話じゃなくて、仏説が仏説として意味を明らかにするのが了義経なんですが、これに依るとはどういうことかということと重なって示されてあると思います。だから親鸞聖人はここに説明的な不了義とか未了義というようなことは述べないんだと、私はおもうんですね。どうですか、読んでみて[「依了義経」とは、一切智人います、仏第一なり。]と。これ智慧ある人がいっぱいいるわけですが、その中でも仏が第一であると、こういうことがはっきりするのが了義経に依るということなんですね。繰り返しますが、どれが了義経ですか、どれが了義経じゃないですかという、そういう経典を格付けするような話では全然なくて、了義経に依るということが即ち仏が第一であるということがはっきりする。さっき善導大師の法事讃のことも紹介しましたが、お経を読んだら浄土に往生することを願うということが起るこれが我が身における事実ですね。ここで云えばいろんな智慧者がいるけれども、比べものにならないぐらいすぐれた仏に依らなければならない。そのことを了義経に依らねばならないと云うんですね。だから義に明らかな経、あるいは義を覚る経、これはどちらですかという話じゃなくて「依了義経」ということを云ってるわけです。後も同じように見れば「一切諸経書の中に」と。いろんなお経やら書物があるわけですがその中に「仏法第一なり」と云っています。「一切衆の中に比丘僧第一なり」これは三帰依、帰依仏帰依法帰依僧の帰依僧。いろんな集まりやグループがあるけれども、僧伽すなわちサンガが第一だと云っている。サンガというのは仏法に依って開かれる和合した関係です。逆の云い方をすれば、この世の中どうしても利用し合ったり、傷つけ合ったり、足引っ張り合ったり、ひどい場合は排除したりされたりということが起るんですが、本当の仏法に依って開かれる和合の関係が第一なんだということが明らかになる。それを依了義経と云っている。ちょっと読むと何のことだろうかと思うんですが、どのお経に依りなさいという話じゃないと云うんです。これが始めの三つとちょっと云い方が違っていて、これが法に依り義に依り智に依るというところに依了義経ということが我々に開かれてくる、そういうふうに展開していると読めます。なんでそんなことが云えるかと云うたら、その後の言葉ですね。次の一行は現存の『智度論』にはありませんが、親鸞聖人が文章をギューっと縮めて云っておられる。「無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり、と。」云っている。まぁ無仏の衆生を仏は特に哀れんで下さるという言葉はあります。それから見仏できない者を重罪と云うという趣旨の言葉も出て来ます。これ果して依了義経の内容として云えるかと云うたら、大蔵経で云うと一段ぐらいずれてるんですね。その後の言葉をポンと持って来ておられる。ですから親鸞聖人はここでは依了義経の内容として云っていると思います。つまり前半は仏法僧の三宝が何にも増して一番大事だということがはっきりすること、これが依了義経の事実だと云いましたね。それに一番逆向きなのが「無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり」と云ってます。仏に遇えないんですから法にも遇えないし、サンガも分かりませんわね。だからこれは仏法僧の三宝が大事であるということと対比される形で親鸞聖人がこういう言葉を作ったというふうに云った方がいいと思います。繰り返しますがもとの『智度論』に出てないとは云いまさえん。しかしそのままで出て来るわけじゃない。ということは、依了義経というものは仏法僧が大事だということを分かると共に、私は仏に遇えない存在だということがはっきりするという意味です。仏を見ていたつもり、でも仏に遇うていなかったということ。もっと云えば仏教を学んでいたつもりだけれども全然分かっていなかったということです。この無仏という言葉は曇鸞大師が「五濁の世・無仏の時」と仰る、これが行巻に既に出ております。曇鸞大師は『浄土論』を解説なさる時に「此間本無仏」(此の世界にはもと仏ましまさず)という一言を出しておられる。つまり誰も仏さまを見たことがないというんですね。見たことないのにもかかわらず見たかのようにこれが仏教だとみんな云っていると云うのはすごい言葉やと思います。本当に遇うたとはどこで云えるのかということです。だから無仏の時、お釈迦さまに遇えない者が仏道を歩むとどうやって云えるのかと、こういうことから『浄土論註』は始まっているんです。そうしたらその時にお釈迦さまには遇えないけれども天親菩薩が遺してくれた、この『浄土論』を頼りとして仏の心をいただいていくことができるというのが、論註を書いていく曇鸞大師の立ち位置なんですね。お経をいただいた人がいる、それを通して我々はお釈迦さまのお心を知ることができると。だから「無量寿経優婆提舍願生偈」と云ってますが、「優婆提舍」というのは本々さっき云いました十二部経の一つです。本々経典について云われる名前です。しかし仏法に相応しているならば仏弟子が書いたものでも、これを優婆提舍と名付けることができると、こういうことを態々始めに云ってます。だからボクらは『浄土論註』と云ってますが、曇鸞大師からすると「無量寿経優婆提舍」である「願生偈」という題名が大事なんですね。で、それを私は註釈しますという立ち位置なんです。だからここはいきなり『論註』というわけにいかないかもしれませんが、この無仏ということを親鸞聖人は曇鸞大師のこの言葉からいただかれたと思うんですね。比叡山の上ではですよ、大乗菩薩道の修行をしておられたわけです。しかしお釈迦さまがおられないにもかかわらず多分これでこの修行間違ってないと思って皆んなで励んでいるわけです。でも全部それは人間の中での話でしょ、あの人は修行進んだとか、あの人はまだまだやとか。でもこれ本当に進んだとか進んでないとか云えるんですかね。ここに触れた時に親鸞聖人は「無仏世の衆生は重罪である」と。つまり仏に遇うたこともないのに、仏教が分かったようなことになっていくという問題なんです。その意味で云うと私たちどこで仏法をいただくかということがないと、だいたいどうなるかと云うと、これは本当に仏説と云えるかと云うて、お経を先ず査定することから始めるのが今もなされているのですよ。これはかなり古いから仏説に一番近いとか、時代が後になるとこんなものお釈迦さんが説いたものとは云えないと云ってるわけです。でも仏説ってどこにあるのかという問題が先ほど云うた教巻の阿難の話で云うと、仏説は聞いた人の上にあるんですよ。その言葉によって迷いを云い当てられた自分は迷っていたということから覚めた、そこに仏説があるわけですから。だからお釈迦さまがいくら頑張ってお説きになっても、あの阿難も何十年も聞いていなかったわけでしょ。聞いてなかったんですね、やっぱり。で、お釈迦さまを見て私はなかなかお釈迦さまのようになれないと云っているわけです。でも全然違うお釈迦さまを如来としていただいた時に、お釈迦さまは私のようになれとは云ってなかったということが分かったのです。誰もが仏になれる道を説いて下さっていたのだと気が付いた。それが阿弥陀の本願として説かれるのが大経であります。つまりお釈迦さまのなさったことを踏襲するのが仏教じゃなくて、阿弥陀に出遇えと勧めるお釈迦さまに出遇え直した。そのことが阿難に届いたんです。これが私の道だったのかと。これがはっきりするまではなかなかお釈迦さまの要にはなれない、課題はいっぱい残っていると歎いていたのですから。お釈迦さまのようになる必要はなかったのです。阿難は阿難として人生を全うして行く、そしていのちを終えて行くことをも超えて行くような道に立てたわけですね。ここは仏法僧が大事であるということが第一である、そして同時に仏に遇わないということが最も重い罪だとはっきりする。これが云了義経の中味なんです。全然説明的でなくてどう読んだらいいのかと先輩方も苦心しておられますけれども、私はこのことに了義経に依るという事実を見たいと思います。仏法僧が大事やと決った。しかし私はその仏法僧をなかなかいただけないわけです。自分の掴んだものを仏と云うたり、自分の握ったものを法と云うたりしておる。サンガもそうですわ。サンガと云ってみても結局は自分の都合のいいグループを作るようなサンガだったりする。サンガというのは十方に開かれているんですね。そういう意味で云うと仏を見ないということは、法にもサンガにも遇うていないということなんですが、これがはっきりすることがいよいよ何に依らなきゃならんかということが見えるはずなんです。繰り返しますが、これは不了義の経はどれだと、そんなことは一切云わない。例えば涅槃経に返りますと、了義とはなにかと云ったら、例えば一切衆生悉有仏性だと。如来は常住で変易ない、これが了義の教えだとはっきり云うてますわ。逆に如来は涅槃に入られるから常住じゃないとか、如来も変わっていくんだとか云うのは不了義だとちゃんと書いてあります。そういう教義のことでならばいくらでも云えないことはないと思いますので、それを云い出すとまた了義のものと不了義のものというふうに、私たち言葉に振り回されていくんじゃないでしょうかね。だから親鸞聖人はギューッと縮めて仏法僧は第一であるということが明確になること、それに遇えないことが最も重い罪だというふうに云われる。これが教えに出遇うたということの中味として云われるわけです。これは実は後のところにまで続いていく伏線にもなると私は思いまして、末法灯明記のところに行くとお釈迦さまのおられた時代、それからその教えが生き生きとはたらいていた正法の時代の戒律を護っていくことが仏弟子だ、それがサンガだと思われていた。しかしもう末法になったら、正法の時代の戒律はもう成り立たないのだとお釈迦さまが仰っているという文章を態々引いてきます。我々がお釈迦さまの教えをいただくということは、居られない時代まで見越して、お釈迦さまに遇えない者のために説かれた教えをいただかなきゃならんやろうという話が後でちゃんと出て来るのです。そことも響き合っている言葉になっていると私は思います。私は無仏の時代に生まれて、実は仏さまに遇うたことがないんです、こういう確認からしか始まらないのです。知ったかぶりと云うのかね、知ってるつもりというのは、それは仏教の装いをしていても、どれほど仏教用語が使われていても、仏教とは似ても似つかんようなことになっていく。これが無仏世の衆生を重罪と仏が云われることの中味であろうかと思います。これは現代語訳にするとなかなか読み難いんですけれど、依了義経とはこういう中味だと私は読んでいるということです。で、これをまとめて「しかれば末代の道俗、善く四依を知りて法を修すべきなりと。」と云っています。教行信証では何回も出る言葉ですが、末法の時代ですからお釈迦さまのおられない時代を生きている。これは直前を承けていますけれども、お釈迦さまに誰も遇うてないということです。そんな時代の者のために遺された教えをいただこうと。お釈迦さまが正に亡くなっていく時、入滅なさる時に説かれた最後の教えだとここではなっていますね。それを我々はよく知って仏法をいただいていかないといけない、というのが「法を修すべきなり」です。「修すべき」とあると、また難しい修行をするように見えるかも知れませんが、法を修めていくというふうに読めば特別な修行のことを云ってるわけではありません。お釈迦さまは今からおられなくなる、その時代の者のために遺してくれた教えなんですね。これが「四依」であります。これによって法を修すということにならないと仏教の装いをもっていても、およそ違うものになってしまうということです。ですからお釈迦さまに遇えない時代を生きている末代の道俗よとね、出家のものも在俗の者も、すべての人に呼びかける言葉でここを結んでいるわけであります。末代の道俗の課題
ここから話が展開して行くわけでありますが、前回から読んできました聖道の諸教は正法の時のためだと。それに対して浄土真宗は時代を問わず誰の上にも成り立つということを云った上で、龍樹菩薩の言葉として「四依」を挙げて法を修すべきということを述べたわけですね。ここから話が「末代」ということに移っていきます。それこそ曇鸞大師の言葉で云えば「無仏の時の仏道」ということです。これちょっと矛盾して聞こえますね。仏さまがいないのにどうして仏道と云えるのかと。まぁ曇鸞大師が実際にこう云われた場合は、お釈迦さまはすでに亡くなって久しい、それに次に仏になると云われる弥勒菩薩はまだ現れない。こういう非常に具体的な時代認識があると思います。その時にお釈迦さまがちゃんと阿弥陀に依れという、これを遺してくれた。それを曇鸞大師は『浄土論註』で掲げて行かれるわけであります。この末代ということを承けて展開されるのが次に引かれる『安楽集』でありますが、道綽禅師ですね。道綽禅師のお言葉によって、今度は聖道と浄土が決判されることになります。無仏世の衆生という言葉から末代の道俗と呼びかけて、そして安楽集に行ってもおかしくないですけれど、そこに親鸞聖人は大きな問題提起を一つしておられるわけですね。聖道浄土をどういうふうに見るかという時に、この言葉が置かれます。いつも云いますが、ご自釈は引用文を読ませるために置かれているんですね。ボクらご自釈を中心に読んで、親鸞聖人の言葉ばっかり集めるみたいなことをやってしまうんですが、『教行信証』は引用文が本文なんだということなんだと安田先生は常々仰っていました。引用文を読まなきゃダメなんですね。引用文を読ませるためのものなんですね。だから『安楽集』に行く前に置かれている。これは『安楽集』を読み解いていく眼を先に与えて下さっているわけです。その3行を先に読みましょうかね。「しかるに正真の教意に拠って、古徳の伝説を披く。聖道・浄土の真仮を顕開して、邪偽・異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して、正・像・末法の旨際を開示す。」こういうふうに云ってます。そして「ここをもって、玄忠寺の綽和尚の云わく」玄忠寺におられた道綽和尚が、次のように仰いましたというように云います。「ここをもって」とあるとおり、完全に続いてますよね。だから道綽禅師のこの言葉によって聖道と浄土、ここでは特に「聖道・浄土の真仮を顕開」すると云ってますね。聖道が仮であり浄土が真であると、中味はそうなんですが、顕らかに開くんだと云ってます。ですからその始めの言葉「正真の教意」というのは、正しくまことのお釈迦さまのお経の心によってということですね。これは先程「四依」ということがありましたので、それこそ義に依って語に依らざれということを潜っての「正真の教意」ということが云われるわけです。だからあっちに書いてある、こっちに書いてある、こんなことは載ってないとか、そんな話じゃない。「正真の教意」を根拠として「古徳の伝説を披く」と云ってます。これは何を指すかと云うんですが、一つは安楽集が伝えられて来た者として一番具体的だと思います。もう一つはその後に引かれるんですが、360頁の『末法灯明記』を指すというのが、大方の先輩方のご意見であります。一応そう見ればいいのかなぁと思うんですが、でも難しいですね。『安楽集』と『末法灯明記』だと限定してしまうと、また文献の話になってしまいますので、古の先徳が我々に伝えて来てくれたもの、となれば『安楽集』を生み出すのには曇鸞大師が要るわけですから。曇鸞大師が生み出されるには天親菩薩が要るんですからね。龍樹菩薩もいる。そうなるとお釈迦さまの本当のお心をいただいて来られた先徳のお書物を通して読んで行かないといけないわけです。一応は『安楽集』と『末法灯明記』とされていますが、それだけに限定する必要はないと思っています。続いて「聖道・浄土の真仮を顕開す」と云いました。もう一つは「邪偽・異執の外教を教誡す」と云ってます。よこしま・偽り、異なった執われの外教を教え戒める。なかなか厳しい強い言葉であります。教誡するのは親鸞聖人でしょうね。しかし親鸞聖人が勝手にするのではなくて、それがさっき云いました「正真の教意に拠って、古徳の伝説を披く」という、このことによって聖道浄土の真仮を顕開して、邪偽・異執の外教を教誡するということです。私が勝手に間違いを正していく、そんな話じゃない。どこまでも元はお釈迦さまの教えのお心を依り処として、それに従った先徳の伝えて下さった説を披く、ここに教誡ということがあるわけです。もしか自分が誰かを教え戒めてやるとなったら、それはどういう立場からだということになりますよね。自分がいつか教える側、戒める側ということになってしまいますよね。しかし親鸞聖人のお言葉というのはどうでしょう、ずうっと自分自身も聞いておられる立ち位置ですね。「弟子一人も持たず」と歎異抄の言葉が云うように、自分は教える側、師の側に立つというようなことは基本的にはないと云っていいと思います。ただこれも和讃なんかに「何々すべし」という言葉がいっぱい出てくると、なんか命令されているようで嫌だという人もたまにおられます。でも「すべし」というのは、親鸞聖人が聞いておられる言葉ですね。恩徳讃でも「身を粉にしても報ずべし」は自分を横に置いて人に云うている言葉じゃないですね。親鸞聖人も聞いているわけでしょう。だから教誡も釈尊の言葉が根っこにあって、そして自分も正されていくということでしょう。自分はその邪偽・異執の外教を卒業しましたということじゃないんですよ。迷っていくということが自分の中にもあるからですね。で、ちょっとおもしろいのが末巻に行くと同じ言葉なんですが、「邪偽・異執の外教」とここにはあるのが、今度は「外教邪儀の異執を教誡する」と云われるんですね。368頁であります。ここはもうハッキリ修多羅によってと云ってますね。「それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば」と。修多羅というのは後で道教の話も出て来るんです。道教なんかでは文字通り、「きょう」という字を「けい」と読んでね、教えの要なんですね。儒教のことも出て来る。だから敢えて修多羅というインド以来の仏説を表わす言葉で示すわけです。だから経に拠ってと書いたら勘違いされる可能性があるからですね。そして、ここは「真偽を勘決」すると云い、さっきは「真仮を顕開」でしょ。「仮」というのは信に導くための大事なはたらきを持っています。でも「偽」はそれを握れば必ず傷つけ合うんですよ。「偽」は拠ってはならない、「仮」はまだそれを通して真に入る可能性がある。でもはそれを握って居ついてしまったあり方なんです。ですから「仮」と「偽」というのは、真ではないという意味では同じかも知れませんが、「仮」には役割があっても「偽」はもう我々を傷つけるものになって行きますね。だからこれを考え定める、勘決していって外教邪偽の異執を教誡するという言葉を云います。だからこちら側の教誡は「異なった執われ」を教誡すると云ってますね。で、さっきのところは「邪偽異執の外教」を教誡する。仏教と仏教以外のものを明確にしていくというのがさっきのところなんです。たった二回しか出て来ない「教誡」という言葉なんですが、どう違うかということは中味を読んで行くとはっきりしてくると思います。でもこの二ヶ所しかないということを今は見当付けしておいていただければと思います。聖浄二門の真仮顕開・時代勘決
358頁に戻りますと、顕開し教誡するのは親鸞聖人のお仕事ですけれども、それには依り処があるんですね。親鸞聖人が自分勝手になさるわけじゃない。で、こちらはもう一つ言葉が続きますね。「如来涅槃の時代を勘決して、正・像・末法の旨際を開示す。」と云ってます。勘決には考え定めるという左訓が付いてます。考えてそして決定するんです。ここから、まさに末法、いつから末法に入ったとかいう計算までが出て来ますが、これは法然上人のただ念仏に対して寄せられた批判の一つに、末法の時代になれば念仏一つで助かると云うのも大事かもしれない。でもまだ末法ではないのだと、こういう批判があったのですね。それはそのうちそういう時代が来るのかも知らんけど、今はまだ修行に励む時代だという人がいるわけです。具体的には、これはもう年表を見てもらった方がいいですね、親鸞聖人が52歳の時になされたものなんですが、年表では1137頁、西暦の1227年嘉禄3年、親鸞聖人55歳ですね。この時に「延暦寺の訴えにより、専修念仏禁止される。隆寛ら流罪。」とありますが、この延暦寺の訴えというのが6ヶ条の過失を挙げている。もう法然上人は居ませんので法然上人の後を継ぐ人たちを断罪していくわけであります。法然上人の後を継いでいく大事な役目を担っていたのが隆寛、門弟の筆頭なんですね。だから隆寛をはじめ50人ほどが処罰されています。規模的にはものすごく大きいんですね。親鸞聖人はこの時関東におられますので、重ねて処罰とはなりませんでしたれども、いまの浄土宗の原型と云ったらいいのでしょうか、いまの浄土宗は鎭西派と云って九州におられた聖光房弁阿が第2祖になっています。隆寛とはちょっと受け止めが違うんですね。隆寛律師は親鸞聖人が非常に尊敬していますが、その隆寛が流されるということが起きるんです。その時に延暦寺の訴えの六カ条の中に、今はまだ末法じゃないということを年代を計算しているような記述も出て来ます。それが背景にあるんですね。だから親鸞聖人は教行信証ではどうしても、もう末法にはいってだいぶ経っているということを云うていかれる。こんな細かい計算までなさるのかと思うんですけれど。だから末法の時代、お釈迦さまが自分がいない時代のために遺した教えを聞かなきゃならんということをずうっと訴えかける、そういう文脈なんですね。それが如来涅槃の時代を考え定めて、「正・像・末法の旨際を開示す。」と云っています。この正法・像法・末法の旨際、これは具体的には末法灯明記によって明らかにされます。ちょっとそっちを見ておきましょうか。360頁、ここに[『末法燈明記』最澄製作]とわざわざ書いているでしょう。「末法灯明記に云わく」といってもいいのに[『末法燈明記』最澄製作 を披閲するに曰わく]と。披いて閲するですからね、尊敬を込めて見させていただいたという言葉でありますが、そこに「正像末の旨際を詳らかにする」という言葉があります。後ろから5行目です。これがさっきの「正・像・末法の旨際を開示す。」という言葉で前倒しで出て来るわけです。で、さっき見ていただいた55歳の時の比叡山の訴え6ヶ条で、まだ末法じゃないと云っているんですが、伝教大師の末法灯明記ではもう既に末法だということが云えますよと云うていく。これ完全に比叡山の人たちにあなた方の開祖が云うていますよということを云った書き方になっていますよね。でもあんまりこれを云い過ぎると、教行信証というのはなんか反論するために、あるいは自分の意見を云うために最澄を利用したように思われるかも知れません。しかし教行信証はそんなケチクサイ話じゃなくて、親鸞聖人は比叡山で修行している人にも浄土の教えに出遇ってほしいと願っておられるのです。それは自分が迷いを超えられなかったということを潜っておられますから。あなた方の願いは浄土の教えで満足しますよと。末法の時代にはこれしかないんですからと云うていく。だから比叡山は敵じゃない。敵をやっつけるために伝教大師を使うんじゃなくて、伝教大師もこうお勧め下さっているでしょうと云うんです。その意味で云うと先ほども休憩の時に、なんで龍樹菩薩の大智度論なんでしょうか、もとの涅槃経でなくて、というご質問がありましたが、これも「本師龍樹菩薩の/おしえをつたえきかんひと」というご和讃がありますね。「本願こころにかけしめて/つねに弥陀を称すべし」と。つまり龍樹菩薩の教えを聞く人はどうぞ阿弥陀を信じて下さいと、こういう和讃まで作っていますね。龍樹菩薩は八宗の祖と云って、全仏教が仰いでいたんですよ。だから龍樹菩薩に依るということは、あの龍樹菩薩が勧めてくれてますよと云うていくことになる。だから奈良の仏教も敵じゃないんですね。南都仏教も覚りを開くことを目的にしておられるけれども、なかなかそれが実現しない。そんな中であなた方の願いも浄土の教えで成就しますよと云っていく。教行信証はこんな本だと思います。それがここから始まっていくわけであります。ですからまずは358頁に戻りますと「聖道・浄土の真仮を顕開する」ということに関わって、道綽禅師の文章が次に引かれて来るということになります。そこに依るべき仏教と、依ってはならないものが自ずとはっきりするということでしょうね。まぁここでは「外教の教誡」ということを直接やってるというふうに云えないかも知れません。しかし何が仏教かと云えば、そうでないものは仏教ではないわけですから、戒律をまもることが仏教やと思っている人たちにとっては、なかなかこれ厳しいですよ。それは正法の時代はそうかも知れんけれども、末法はそうじゃないと云うて行くわけですから。頭を剃って、衣を着ているから仏教徒だとは云えないということです。何をもって仏教徒と云うのか、となれば自ずと「聖道・浄土の真仮を顕開する」ところから外教ということもはっきりするわけですね。お釈迦さまが亡くなった後、無仏の時代には成り立たない仏教にしがみついておっては、それはもう仏教とは云えないとまで云うことになる。だから直接これが仏教で、これが外教だと云わないんですけれども、依るべきものを明らかにすることに依って、依ってはならないものも見えて来るということですね。こういう見当付けだけしておきましょうか。一応安楽集の前まで見たということにしておきたいと思います。