『教行信証』の化身土巻を読む(38) 一楽 真 師
2019/ 05/17
涅槃経徳王品の分を振り返る
いま読んでいるところは難信論とも、善知識釈とも云われるところでありますが、基本的にこの間からお話ししておりました通り、善知識の大事さということが勧められていく一段であると思います。ちょっとだけ振り返っておきますと、聖典では352頁から大経の難信ということを承けて涅槃経の言葉が出ていました。始めに一切梵行の因は善知識だとあって、その重要性が掲げられていましたね。しかしそこになかなか出遇えないというところに信不具足あるいは聞不具足という言葉が並んでいました。つまり教えに遇いながら、そのことをいただけないという我々の問題が同時に出ている、そういう流れでありました。それを中心に見れば、ここは難信論、信ずることが難しいということが主題なのですが、でも難信を超えるのはやはり善知識のはたらきに依るほかないと云う、これが大きな個々の主題だと云っていいと思います。それが同じ涅槃経の文章である353頁の最後の行、ここでもう一遍善知識の大切さが掲げられております。その辺からまた繰り返しになりますが、見ていきたいと思います。善知識はいわゆる菩薩・諸仏なり
「また言わく、善男子、第一真実の善知識は、いわゆる菩薩、諸仏なり。世尊、何をもってのゆえに。常に三種の善調御をもってのゆえなり。何等をか三とする。一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり。この義をもってのゆえに、菩薩・諸仏はすなわちこれ真実の善知識なり。」ここで一回きりましょうか。この聞不具足とか信不具足とかいう我々が教えに出遇うことが出来ないという難信を潜って、やはり善知識によらなきゃならないということがまとめられている、という流れになっていますね。その「第一真実の善知識」は菩薩であると云ってます。何に依るべきかということを押える言葉であります。まぁ我々に先立って仏法に出遇っておられる方々、仏法を求める道に立っておられる方々に遇わないといけないということです。で、「世尊、何をもってのゆえに」とお聞きすると「常に三種の善調御をもってのゆえなり」と云われる。善く調御する、これ有名な言葉では「調御丈夫」があります。仏さまのおはたらきを云う時に強い者のことを丈夫と云ってるわけですが、丈夫をも調え御するという意味で、仏の十号の一つですね。御するというのは、馬を御していくという時にも使われる字でありますが、どんなに迷ってる者も、どんなに仏法に背いている者も、きちっと導いていくということが、ここに三種の善調御という言葉で押さえられているわけです。すべてを善く調える、御する、そういう者であるというわけです。それでその何が三つであるかという時に、一つ目が「畢竟軟語」、これは徹底的に軟い言葉ですね。軟語というのは本当に相手に応答していくようなことなんでしょうね。いわば対機説法というのは基本的に相手の状態に寄り添い、そして呼びかけていく。その意味では自分の云いたいことを説きまくるということじゃない。相手に合わせていくことが出来る。これが畢竟軟語、徹底的に軟らかい言葉だと云います。しかしそれは単に優しいという意味じゃなくて、のぼせ上っている者にはやっぱり叱らないかんのですね。そういう時には二つ目の「畢竟呵責」という言葉があります。これは責める言葉、たしなめる、ある意味できつい言葉ですよね。自信を無くして落ち込んでる人には寄り添い続けて行くのがお釈迦さまです。ところが自分の我執を中心に人を切り捨て、自分の思いを絶対化しているような人には、それは間違いであるということを徹底的に云う、これが畢竟呵責という言葉であります。すごいのが三つ目「軟語呵責」。軟らかい言葉なんだけれども問題点をきちっと押さえている。前にも云うたかも知れませんが、私は大谷大学の大学院の時には広瀬杲という先生のゼミにお世話になっておりまして、広瀬先生はどっちかというと、この軟語呵責という感じでしたね。人当たりはものすごくいいんです、「一楽君だいじょうぶですか」とそんな感じですが、その大丈夫ですかというのは実は大丈夫じゃないということを云われてるんですね。大変優しいお言葉で叱って下さるんですけど、叱られた本人は叱られたと思ってないですね。先生って優しいなと思ってます。で、その周りにいる先輩やら同輩やらが、お前今日広瀬先生にだいぶズバッと切られたなぁと云われて初めて、あぁあれは切られておったのかと知ったということがありました。軟語呵責と云うのはあんな言葉やなぁと思いました。どやしつけられるのも時にはいいのですが、どやしつけられると却って反撥する心が湧くような人間には、軟語呵責が要るんでしょうね。叱り飛ばして、はぁ分かりましたと云えればいいんですけれども、それでは目が覚めないということがあります。だから相手に応じながら本当に徹底的に優しいお言葉でも語る、そして徹底的に叱る言葉も要る。で、最後には優しい言葉で叱っていくという、こういうことが云われてあるんです。これが菩薩、諸仏が具えておられるお力だと、「善調御」のはたらきと云われます。例えば観無量寿経の韋提希という人は息子に裏切られて、宮殿の奥に閉じ込められる。そして自分の連れ合いである頻婆娑羅王は正に死に瀕しているという状況ですよね。その時にお釈迦さまが来ていただくには及びません、あまりにも畏れ多い、お弟子を遣わして下さいと、こう云ったのに対して、お釈迦さまは自らがお越しになる。そして韋提希の要求通りお弟子も遣わす。これがある意味で寄り添うような形だと思うんですね。その時に、韋提希がお釈迦さまの姿を見た時に、思ってもいないような、自分の心の底にある心が噴出します。愚痴のありったけを云うわけです。あんたのおかげでうちの阿闍世がひどいことになったと、そういう主旨のことでしょう。あなたのお弟子の提婆達多がそそのかしたことが家庭を壊した、国を乱したと、ここまで云うわけです。でもお釈迦さまはその言葉を浴びせかけられてもじっと受け止めてますね。「何を云うんや、韋提希」というふうに叱ったりはしません。じぃっと黙って受け止めておられる。あれが寄り添い方の一つでしょうね。言葉は何も発していませんけれども、受け止めるということ、それがどんな言葉よりも先にあるというのがお経の大事なところかなぁと思うんです。私、以前はお釈迦さまの説法、語られたことばっかり気にしてましたけれども、喋る前には相手の状況を一旦引き受けておられる。正面から受け止めておられる、これが大事なんだなぁあと思うんです。釈尊といえども、喋らないんです、あそこでは。ベラベラと喋る前に韋提希の愚痴を引き受けて、韋提希の心が落ち着いて問を発したその時に漸く語り出すということです。あれは軟語以上のものかも知れません。言葉で語り掛ける前の話ですけれども。その意味で云うと三種の善調御、善く調えると云ってますが、この背景には受け止める、善く聞くということがあるんだなぁと思います。いまお釈迦さまを代表として例を申し上げましたが、菩薩・諸仏が真実の善知識であると。この菩薩・諸仏に遇わない限り、私たちは教えに縁を持つことが始まらないと思うわけです。そのことが次へ続きます。善知識を「大医」、「大船師」に譬える
[また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆえに、「善知識」と名づく。何をもってのゆえに。病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆえに。]こう云ってあります。善知識をお医者さんに譬えてますね。大医、すぐれたお医者さんだと云うわけです。なぜかと云うたら病を知って薬を知ると。これはある意味当然のことですね。病の状態を知らないのに薬は出せませんね。でもこれが何に悩んでいるか、相手が今どんな心の状態であるか、身体の状態はどうであるか、これを本当に知るということがなければなりません。だから「病に応じて薬を授くる」と。「応病与薬」と普通云われますが、ここでは「応病授薬」と書いてあります。これをすぐれた医者として善知識が譬えられるわけです。お釈迦さまを大医と呼ぶのは、阿闍世の物語のところでそうなってますね。阿闍世の病を癒すことが出来るのはお釈迦さましかいないと勧められる。この涅槃経は、仏法は本当の意味の癒し、救いを成り立たせるんだということを云うわけですが、法に出遇っている人でなければ、その法に出遇わせることが出来ませんよね。その意味で善知識が非常に大事なんですね。で、これを譬えで云うてますね、「たとえば良医の善き八種の術のごとし。」と。ここは八つの優れた施術、病に応じていく八種類の施術すると云うてますが、一々は云うていません。その中で代表させてでありますが、「まず病相を観ず」と。病の相ですね、どういう状態化をしっかり見るわけです。その時に「相に三種あり。何等をか三とする。いわく風・熱・水なり。」と。これは肉体も含めてですが、この世界を造り上げているものを、地・水・火・風の四大であると云いますね。肉体をいれて四大五蘊という云い方もありますが、それが調子を壊すあり方を風・熱・水の三つをここで挙げてます。全体を支えている大地が調子を壊すことがあるんですが、ここでは風・熱・水と云われています。どんな病気なのか、私はきちっとは云えません。まぁいろいろ解説している人が夫々推測しておられますけれどね。でもここはいまそんなにこだわらなくていいと思います。インド以来の病気の見立て方ですね。地・水・火・風の風というところが病に罹ったらどうなるか。「風病の人にはこれに蘇油を授く。」と。蘇油というのは乳製品から作った油だそうです。これが風病の人に効くと云うんですね。それから「熱病の人にはこれに石蜜を授く」と、これは氷砂糖やと書いてあるものもありますね。それから「水病の人にはこれに薑湯を授く」と。これも解説本では生姜湯みたいなことも書いてありますが。まぁ病に応じてきちっと薬を授けていくということを、ここでは風・熱・水で示しているわけです。そしてそれをまとめて[病根を知るを持って、薬を授くるに差ることを得、かるがゆえに「良医」と名づく。]と。「差」という字で「癒す」と読むんですが、日頃なかなか使う字ではありませんけれど、よく出てくる字であります。差、つまり違いがあるわけですね。病気の状態と健康な状態という意味で、それを元に戻すという願いがこの字に込められてあると思います。病の根を知る、そこに薬を授く、それによって病が癒えることを得る。だから良医と名づくと云ってます。で、このたとえによって今度は、仏と菩薩も同じだと云って「もろもろの凡夫の病を知るに三種あり。一つには貪欲、二つには瞋恚、三つには愚痴なり。」これを云いたくて、さっきの三つの病相を云っているのでしょうね。だから風・熱・水が何かということは、あまり詮索する必要はありません。世間で云われるお医者さんの見立ての代表的な病気を三つ挙げて、それと同じように凡夫の病に三種ありと云います。これ面白いですね。ここでは仏・菩薩というあり方に対して仏法に遇うてない者、迷いの中にある者を凡夫と云ってます。凡夫というのは自分が病気であることを知らないんですね。正しく生きているつもりです、間違ってない、だから自分は癒してもらわねばならないとも思わない。お医者さんにかからねばとも思っていない。そしてどんどん病をこじらせていくというものを持っています。だから凡夫の病を知るというのは本当に仏・菩薩のおはたらきでしょうね。仏・菩薩以外は病であるということも実は見抜けないわけです。これが三毒の煩悩で書かれていますね。「一つには貪欲、二つには瞋恚、三つには愚痴なり」とあります。これはそれぞれ正信偈の言葉を使えば貪愛と瞋憎と無明ですね。愚痴は無明と云ってもいいし、邪見と云い換えてもいいと思います。貪愛、瞋憎、邪見。でも日頃はそれをおかしいと思って生きていませんよね。貪りの心というのは世の中が発展する原理だというぐらいに思われているんじゃないですか、もっともっとという心で世の中は発展して来たと云うわけですよ。しかしこの貪愛の心というのではお互いに毒されていくということになります。怒りの心、瞋憎も同じですね。これは都合の悪いもの、自分にとって不快なものに対して起る煩悩でありますけれども、これは都合の悪いものを取り除けば幸せになれると思い込んでいます。しかしそれにもキリがないんです。どれほど取り除いても落ち着かない。ですから貪愛と瞋憎をいかほど満たしてやっても満足にはならないのです。それをやれば幸せがいつか来るはずだと思っている。これがここで云う愚痴ですよね、愚かさです。間違っているとすら思わない、おかしいとすら気が付かない。これが無明とも邪見とも云われます。これに仏・菩薩が与えて下さる薬が次ですね。「貪欲の病には教えて骨相を観ぜしむ。」骨相とは骨の姿です。日本では昔から九相図と云うのがありますね。諸行無常を示す絵として云われるのですが、例えば絶世の美女と云われた小野小町でも死を免れないわけです。その人が亡くなった後、だんだんどう変化していくかと云うと、肉が腐ってくる、それを犬や鳥が啄む。お腹が破裂して虫が出て来るとかね、最後には骨になる。その骨も時間が経てば粉々になって、あとかたもなくなって消えてしまう。こういうのが九つの相で示されている。人間が日頃見ようともしない死、そして死んだ後どうなっていくかを知らせるための図であります。ボクら概念に執われていますから、もっともっとと外面を磨くことに一所懸命でありますが、どれほど保とうとしても壊れる縁が来れば壊れる。いつまでも居りたいと思っても骨になっていくんですね。それが貪りの欲望が消えない者に対する教えです。二つ目、瞋恚の病、これは怒りの病ですが、「慈悲相を観ぜしむ」と。これは怒りに我を忘れて腹を立てている者に、なんでそんなに腹を立てるんやとたしなめても、なかなか云うことを聞こうとはしません。しかしながら優しさに触れると自分が恥ずかしくなるということもある。かあっと自分だけが怒っている時に人のやさしさ、慈しみの心に触れると、ハッと我が身に返るということがありますね。これは直接の慈悲相と云うわけにいかないかも知れませんが、釈尊の伝記で云えば、アングリマーラという、後にお弟子になった人がいますが、あの人は99人とも999人とも云われる人を殺し続けた人であります。それはお師匠さんが無理難題を云ったからです。立派なバラモンになろうと思ったら、この課題を克服せよと云って百人殺せ、あるいは千人殺せと云うわけです。親の期待を集めて立派なバラモンになって家へ帰ろうと思ってたアングリマーラは真面目な人やったと思います。殺し続ける、最後、千人目にお母さんに出遇うのですが、それがお母さんとも見えない。もう眼は怒らせてね、もう最後の獲物が来たとしか見えない。その時にお釈迦さまが現れて、母を殺すとは何事だ、母に刃物を向けるとは何事だとたしなめるが聞かないんです。そして邪魔をするならお前からだと云ってお釈迦さまを殺しにかかる。でもどれほど斬りかかっても、剣が届かなかったというエピソードが伝えられています。で、アングリマーラは、まだ腹を立てているんですが、お前そこを動くなと云うのです。つまり獲物として、眼が外に向いているんですね。その時のお釈迦さまの一言は、私は全然動いていない、しっかりと大地を踏みしめて立っている。動いているのはあなたの方だと云われる。斬り殺そうとするアングリマーラに対して、そういう言葉をかけるわけです。これお釈迦さまが剣で反撃したら打ち合いになったかも知れませんね。お釈迦さまは丸腰です。私は動いていない、動いてるのはあなたの方だと云われた時に、初めて外に向いていた眼が自分は何と愚かなことになっていたかと、我が身に向けられた。百人千人殺すときには課題をクリアしないといけないという思いで突っ走っていた。最後にはお母さんを見ても獲物としてしか見えなかった、そこに自分の姿を教えられて、本当に申し訳ないことをした、愚かなことになっていたということが起る。そこからはアングリマーラは死んでお詫びをしようとするのですが、お釈迦さまはあなたは今から何も殺さないということを課題に生きて行けと云われて弟子になったという物語です。インドに行きますと、舎衛城の近くにアングリマーラが居たという石の洞窟みたいなところがあります。飛鳥の石舞台みたいなもので、私たちも一遍案内されて入りましたが、石を組んだ穴にアングリマーラが住んでいたというところが残っているんですね。そこで彼はそんなに長くは生きられなかったというんです。なぜかと云ったら托鉢に行っても、アングリマーラの鉢には物が入るはずありませんよね。殴られるし棒で叩かれるし。でもアングリマーラは自分が人さまを傷つけて来た、その怒りが自分に向いているのですから、私がしたことの報いだと皆さんの気持ちを受け止めるということになった。その時にこの痛みに耐えて、何も入らない鉢だったわけですが、一切刃向かいもしないし、生き物を殺さないという誓いを立てて一生を送って行ったそうであります。これは慈悲の相だとは直に云えないかも知れませんが、お釈迦さまに触れて、殺すことに突っ走っていた自分の心を見ることが出来たということでしょうね。怒りに我を忘れているような者に全く質の違う世界が開けて来たという、そんなエピソードとしてアングリマーラの物語は読むことが出来ると思います。因みにこれは親鸞聖人は名前を出してはおりませんが、歎異抄でね、お弟子の唯円に云うでしょう、往生のためには百人千人の人を殺して見ろと。あれはアングリマーラのことが背景にあるに決まっているんですよ。しかし、唯円が殺せないと云ったのに対して、それはあなたの心が善くて殺さないのではありません。そういう縁が催してない。逆に縁が催したら百人千人も殺すことがあるんだと。だから、あなたの心が立派だとは思わない方がいいと云うんですよ。念の為に云いますが、人を傷つけた時に、あぁあれは縁だったと、そういう言い逃れのための言葉ではありません。そうではなくて、自分がもしいま間違いを犯していないとすれば、そういう教えをいただいた。あるいはそういう友だちなりにご縁をいただいたということなんですね。自分は大丈夫だ、間違いは犯していないという話じゃないと云うことです。たまたま今日まで大丈夫だったということと、明日からも大丈夫だろうということとは全然関係ないんです。縁次第でどんなことでもしでかしてしまう危うい自分をしっかりと見なさいと云うことですね。そこにどう生きるかをきちっと確かめていくことがなかったら、自分の縁に呑み込まれてしまう。こういうことを云ってる言葉であります。だから縁次第だということには痛みがありますね。縁に翻弄される我が身を知るところに、我々は仏法の縁をいただいていかないといけないということが決まるということであります。これも念の為に云います、仏法を聞いてれば大丈夫かと、そんなわけにはいきません。仏法を聞いていてもということがある。それがさっき申し上げた王舎城の悲劇で云えば頻婆娑羅王も韋提希も聞法していた人です。聞法していた人ですけれども、子どもが欲しい、何とか授かりたいという時に占い師の言葉に乗ってしまった。だから聞法していたから絶対間違いを犯さないという意味ではありません。聞法してても危うい。だからしてもしなくても一緒じゃなくて、いよいよ自分の生き方を確かめるような聞法が要るんですよ。徹底していくということでしょうね。聞きぬいていく。これが前回まで読んでいたところでは聞不具足とか信不具足の問題でしょう。聞けば大丈夫じゃない、聞いておってもまた迷いに沈むことがある。それを我々に気付かせてくれるのは、やっぱり善知識だ。導いて下さる人との出遇いがなければ、聞いてることも得手勝手に聞いてるわけですから。これがここで善知識の大事さを勧めて下さる理由ということが出来ます。ちょっと長くなりましたが、怒りの病には慈悲のすがたを見せるとあります。三つ目に「愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。」とこうあります。十二縁相とは十二縁起のことですね。「無明」から始まって「行」「識」「名色」「六処」「触」「受」「愛」「收」「有」「生」「老死」とありますけれども、無明あるがゆえに…ありというのは迷いの原理であります。逆に無明を断ち切るところに迷いを断ち切っていくことが出来る、こういうことを教える。だからなぜ苦しいのか、何故満足できないのか、何故一所懸命生きてるのに人間関係がうまくいかないのか、これは大事な大事なご縁なんですよ。道理が見えない無明を中心に生きれば必ずそうなる。だから十二縁相ということは縁起の法、迷いの法則を知らせていただくと共に、迷いを超えて行く法則を見せるというわけです。相手の状態に応じてどういう薬を与えるか、どういう教えを授けるか、これが仏・菩薩のお仕事として云われるわけです。これをまとめて、[この義をもってのゆえに、諸仏・菩薩を「善知識」と名づく。善男子、例えば船師の善く人を度すがゆえに「大船師」と名づくるがごとし。諸仏・菩薩もまたかくのごとし。]とあります。これも世間の譬えを出してますね。船の船頭さんでありますが、よく川を渡してくれる、あるいは海を渡してくれるということで大船師、まぁ渡してくれない人は大船師とは呼ばれないわけです。ひどい船に乗ったという話になるんでしょうけど、渡す人を大船師と名づく。同じように仏・菩薩は迷いの世界から覚りの方へ衆生を渡して下さる。これが「諸仏・菩薩もまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。」と。「度」はサンズイ徧があるのと同じ字です、渡すという意味です。で[この義をもってのゆえに「善知識」と名づく、と。抄出]とあります。ここはずうっと善知識の大切さを呼び掛ける、そういうお言葉であります。智度論の「法に依り、人に依らざれ」との関係
前にもチラッと云いましたけれども、善知識の問題というのは気をつけておかないといけない面もあるんですね。なぜかと云うと、これは人に依らないといけない。そうなると善知識頼みという問題が起きるわけです。でも善知識頼みというのは、自分の救いを想定して、あの人なら大丈夫だろうとあてにする心が先にありますね。答えがあるんですよ。あの人なら救ってくれるんじゃないかと。同じようにあっちの神さまなら、こっちの仏さまならと、利益を先に自分で握っているということがあります。これが善知識頼みの問題なんですね。ここに居ればきっと正しい道を歩めるに違いない、善い利益を賜わるに違いないと掴んでいることがあります。本当の意味での善知識は我々が思ってもみない世界に引っ張り出して下さる。だからこちらの要求をよしよしと云うてくれるのは善知識でも何でもない。却って我々を自分の配下に置こうとする、これは悪知識という言葉がありますね。善知識というのはそういうこちらの思いに合わせてくれる人ではないんですね。ただそこは気をつけておかないといけないということで、化身土巻のもう少し後のところですが、お釈迦さまの有名な言葉がありますね。何遍もご紹介しています、357頁後ろから4行目、龍樹菩薩の大智度論という書物として伝えられるもの「法に依り人に依らざれ」との矛盾です。いろんな見解はありますけれども親鸞聖人は少なくとも龍樹菩薩のお仕事としてこれをいただいておられます。その中に四依、四つの依るべきもの、あるいは依ってはならないものを示されて、次のように仰られている。「涅槃に入りなんとせし時」ですから、お釈迦さまが正に入滅なさろうとする時に、もろもろの比丘たちに語って下さったというわけです。「今日より法に依りて人に依らざるべし。」と。依るべきは法であって人ではないと云うてます。だからここを取れば、善知識の大事さを強調することの危うさを、ここに来てもう一遍確かめられることになりますね。善知識は大事なんですけれど、その人にくっついていけば何とかなるというあてにする心はいけないということです。でも、ここもよく考えてみればお釈迦さまは私の出遇った法に依るべきであって、私を当てにするんじゃないよということを態々云うわけでしょ。ということは、それを云わねばならないほど、人を抜きにしては法に出遇えないということが先にあるからです。だってお釈迦さま抜きに法に出遇えるんだったら、お釈迦さまに付き従って教えを聞かせてもらうということも不要でしょ。お釈迦さまは始めから法に依れと云うだけでいいわけでしょう。でも法に依れと云われても、それをどういただいたらいいのかは先に出遇っているお釈迦さまのお姿、生き方を通してしかいただけないわけです。だから人を通してしか法に遇えないということがあるからこそ、ここに依るべきは法であって、人ではないということが念の為に云われるわけでしょう。人抜きに法に出遇えるんだったら、こんなことを態々お亡くなりになろうとする時に云う必要はないですよね。仏法というのは私たちに先立って法に出遇われた方々を通して伝わって来ておるということがあるわけです。そういう意味で善知識の大切さがずうっと押さえられており、これが化身土巻の善知識釈のところなんですね。354頁に戻って、もうちょっと読んでおきましょうか。華厳経入法界品の文に入る前に
今度は華厳経から引かれております。唐訳・入法界品とある通り、これは巻数で80華厳と云われる一番大きなものですが、その中の20巻が「入法界品」であります。法界に入るとはすごい章ですね。章の題名がすごいんですが、何が書かれているかと云えば、善財童子の求法の旅なんです。53人の善知識を尋ねていかれたんですね。文殊菩薩が勧めて下さって、それによって普賢菩薩に出遇っていく。華厳経はこの普賢行ということが大きな主題なんです。慈悲という問題です。もしご縁があれば、今度大谷大学では29日の火曜日ですが、仏教学の織田顕祐先生が「親鸞聖人と華厳経」ということでお話をして下さいます。ボクも楽しみにしてます。平日の午後ですからご都合がつかないかも知れませんが、5月29日の午後1時からであります。大谷学会春季講演会と云いますけれど、織田先生がいままで学んで来られた華厳経のことを親鸞聖人との関係で語って下さるので、私は非常に期待しています。因みにその時外からお招きした講師として山折哲雄先生、いま宗教学者としては大家であります。山折先生が西行と芭蕉ということと親鸞聖人という、はて何をお話下さるやら想像がつかないんですけれども、まぁ幅の広いところからのお話かも知れません。お二人90分づつの講演をしていただきますので、まぁご縁の中でと思います。それで華厳経入法界品は善財童子の道を求める旅ですが、たまたまボク持ってます奈良の西大寺にある善財童子のかわいらしいお像であります。大きさはこれぐらい、大きくない。でもボクは童子というと子どもだと思っていたのですが、仏教で童子というのは求める心を失わない人を童子と云うんです。年齢じゃないそうですよ。逆に云うと、求める心が無くなったら若い人でももう童子とは云われない。求め続ける心、これを童子という姿で表して下さっているのが西大寺のお木像です。53人の善知識が普賢菩薩で完成して行くんですね。これは慈悲の極まりですが、親鸞聖人はこれを教行信証では還相回向の利益として語ります。我々の心というのは基本的に自分さえよければいい、自分が生きている間だけのことしか考えられない、そんなものを持っていますよね。いくら人のことを考えているようでも、それは自分がやりたいのだ、人のためと云いながら自分の満足のためにやっているということがありますよね。そういう人間にとって慈悲なんてものは芽生えて来るなんて、なかなかないんですわ。その本当の慈悲の心というのは還相回向という、この世に関わる方向を我々に与える、授ける。その願いのはたらきによって芽生えるんだということです。だから還相回向の利益として云われるのは普賢菩薩の徳に従って生きている。本当にこの世の関わりを面倒くさいとか邪魔くさいとか、もう嫌になったとか云わずに関わり続けながら歩んで行くことが出来る。それはなぜかと云ったら、その関わり全部が自分の人生と一つになるからですね。分けてる間はなんで私こんな問題に関らなあかんのや、誰のせいでこんなことになったんや、責任者出て来いみたいなことに必ずなります。しかしこの時代に生きているということは、いろんなことに関われるわけです。それが自分の問題となった時に、それを自分の人生としていただけるということが起る。まぁこれも一つの例ですけれども、ボクが学生時代に安田理深先生に4年間お話を聞く縁をいただいたのですが、先生が度々仰っていたことの一つに、先生70代の頃、隣のお家からの失火が原因で住んでいたところが類焼しまして、持っていた本が全部燃えてしまった。60代後半ですね。まぁ集めに集められた本が燃えてしまったということは、先生にとってはものすごくショックやったと思います。自分には火を出した責任は全然ないです、隣の人が出した。だから感情からすれば、隣の人が火を出して自分は焼かれたというのが人間の気持ちやと云うんですね。でも隣の人が焼いたんでもなければこちら側が焼かれたのでもない。事実から云えば燃えたということがあるだけやと仰っていました。道義的責任は一切ないんです。しかしこの世に生きているというときに、いろんなことに遇うという意味で、思ってもいないことが次から次へとやって来る、それが自分の人生やということです。このように受け止めておられる言葉を始めて聞いた時、ボクびっくりしました。損害賠償の話でしょうぐらいに思っていたんですが、焼いたとか焼かれたとかではなくて燃えたというだけやと。でも、それは後でよく考えてみると度々仰っていた譬え話ですので、余程心に残っているんやなぁと云うことを思いました。でもそのことを確かめておられたんでしょうね。だから道徳的な責任はないでしょう、何一つ。でもそこに存在の責任はあるだろうと云うんです。いつの時代、どんなところに生きているかということで、いろんなことがのしかかってきますが、それが私の人生やと頂いた時に、そのいろんなことがある中を生きていければ、これが誰かを憎むということじゃなくて、誰かを責任者として終らせるのじゃなくて、それに自分はどう向き合いながら生きるのかということです。だから普賢菩薩の徳といっても、誰かに優しくするというような話じゃないということですね。いろんなことがあっる、その全体を自分の人生として受け止めて歩むことが始まるということやと思います。まぁこれ還相回向の利益として云われるんですね。行巻に既に出ている普賢の徳
序でですので、これがもう行巻に顔を出しているんです。192頁後ろから6行目であります。ここに大行の利益と云うか、真実の行によって我々に開かれるものを端的にまとめて下さっているわけです。「しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。」と、こういうお言葉です。大悲の船、本願の船に乗って、光明の広い海に浮かぶと云うんですね。これ、本願の船に乗るところに何でもが見える、そういう世界ですね。暗闇じゃないんですよ。光明の広い海に浮かぶことがまず利益として云われている。私たちだいたい行き詰まったとかね、もうお終いだという時には、私たちが見た思いで行き詰まっているわけでしょう。しかし道はいろいろあるんですよ。ものが見えるところに、ああ、ここにも道が開かれていたかということがいただける。これが本願の船に乗るところに起ると先ず云うてます。沈まない、浮かぶと云うんです。そこに「至徳の風静かに衆禍の波転ず」と云ってます。風が吹いているんですけれど、それは徳の至りの風であると。静かに吹いているんですね。それによって多くの禍いの波が転じていくと。面白いのは波が消えるとは云うてないでしょ、波が消滅したとは云うてません。波があるんですけれど、禍いというその意味を転じてしまう。これがさっきから云っている、いろんな問題が襲ってくるけれど、問題として関わって来るんじゃなくて、私の人生そのものとして受け止められるということが起きると思います。これを「すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」と書いてます。これが無明の闇が破られ速やかに無量光明土、阿弥陀の浄土のことを、ここでは光の世界と云ってます。なんでも見える世界ですね。そしてそこに大般涅槃、これ大乗仏教が掲げて来た究極の覚りでありますが、それを証すと云ってます。その後に「普賢の徳に遵うなり。」という言葉がついてます。これ還相回向の利益なんですよ。第22願で云われることがもう既に行巻に出ているのです。これを往相回向の利益としてだけで教行信証の四法があると見る人は、この部分はなかなか読めないと思います。でもね、往相回向の利益と還相回向の利益というのは、実は切り離せないんでして、順序立てて述べる時には、先ず往相回向のことを云っておられる。そして還相回向の利益については、証巻でいいんですが、実は重なっているということを、これは示して下さっているお言葉だと思います。つまり往相回向の利益は「無量光明土に到りて大般涅槃を証す」迷いを超えて覚りに到るという方向が往相回向の利益なんですよ。しかしそれは行きっ放しじゃないんです。この世に関わる、この世のいろんな問題の中を生きて行く道が開けるという意味で「普賢の徳に遵う」と云ってます。私なりに一言で云うと、この世のあり方を超えて覚りに向うという方向を与えられるのが往相の利益で行きっ放し、この世を逃げるんじゃなくて、そこに立ってこの世を生きて行く。だから世を超えて世を生きるという、これに往相回向と還相回向の二種の回向の利益があるというようにいただくべきだと思っているんですね。でなければ親鸞聖人が還相回向に関わるようなことを行巻で云わないと思います。重ねて云われるんですよ。だからこれ仏法に生きるということ、そこに周りの人にも仏法の存在をお伝えしていくような仕事を担う、そういう人が誕生すると云っていいと思います。入法界品の文「善知識を念ずる」
で、今読んでいるのは354頁後ろから5行目、華厳経のお言葉で善知識ということの意味が押さえられています。ちょっと読んでみましょうかね。[『華厳経』に言わく、汝、善知識を念ずるに、我を生める、父母のごとし。我を養う、乳母のごとし。菩提分を増長す、衆疾を医療するがごとし。天の、甘露を灑ぐがごとし。日の、正道を示すがごとし。月の浄輪を転ずるがごとし。]華厳経でありますから、善財童子に対して云われているわけでありますが、弥勒菩薩とのやりとりです。あなたは善知識を念ずるに自分を生む父母のようなものだと。まぁそういう思いを持って念じなさいというわけです。それから自分を養って下さる乳母という思いを持って念じなさいと云ってるわけです。それによって菩提分が増長すると。菩提の分でありますので、いよいよ育まれていく。仏道の歩みがそれによって進んで行く、それが増長という言葉で云われています。同時に衆疾を医療するがごとしと譬えで云われています。多くの病が医をもって癒されていくようなものだと。これは菩提分を増長するということの譬えであります。だからもろもろの病ということは一つ前の貪欲の病、あるいは瞋恚の病、あるいは愚痴の病というものがありましたね。そういうことが善知識のはたらきによって、どんどん癒されていく。それによっていよいよ仏道を歩むということが増長していくわけですね。同じように譬えで出ていますが、「天の、甘露を灑ぐがごとし」天から甘露の雨が降り注いでくるということを譬えを以ってしている。ある意味でこれ私たちの手の内にあるものじゃないでしょう。私たちを超えたものを頂戴するわけです。で、「日の、正道を示すがごとし」と。太陽が道をちゃんと示して下さる。これがお陽さまのはたらきであります。そして月が浄輪、浄らかな輪を転ずるがごとしと。お月さまを仰ぐということは、そういう余裕があるということです。月が出ていても見る余裕がない時もありますよね。しかしお月さまって不思議なものですね、夜お月さまを見ていると、今日は下弦や、今日は上弦や、満月やと、こちらの心が日常の勝った負けた、損か得かということがこっちの方に起るでしょう。それが消えるわけじゃないんですよ、お月さまの力によってそういうことが育まれたわけであります。見るところにそういうことが起る。浄らかさを賜わる。だからこれは天と太陽と月、我々の思いを超えたものが与えられる。これもさっきチラッと云いましたが、善知識だのみというときには、あの人に頼めばなんとかなる、こちらに利益を期待している計らいがある。この人について行けば間違いないと云うかね、答えを全部自分が持っている。でもそうじゃない。求めないようなことが与えられる、知りもしなかったような世界が与えられる。親鸞聖人は求めず知らざるにという言葉を大事にしますが、求めていれば利益を与えてくれるようなのは都合のいい人ですわ、結局。善知識じゃないんですね。善知識というのはこちらの都合の思いを破るような方なんですね。だから昔からよく云われるのは目を覚ますのが善知識、我々を眠り込ましたり、心地よくよしよしと云ってくれたりするのは悪知識なんです。そういう意味でここを読んでみても、善知識というのは我々の思いを超えていると云うことが云われてあると思います。お釈迦さま無数劫のご苦労を讃える
もう一つ読んでおきましょうかね。親鸞聖人は連続して引いておられます。「また言わく、如来大慈悲、世間に出現して、普くもろもろの衆生のために、無上法輪を転じたまう。如来、無数劫に勤苦せしことは衆生のためなり。いかんぞもろもろの世間、よく大師の恩を報ぜん、と。」ここの如来はお釈迦さまのことを特に云うている文章であります。お釈迦さまは如来であり、大慈悲の方であるということを押えて「世間に出現して、普くもろもろの衆生のために、無上法輪を転じたまう。」と仰る。衆生というのは特に云えば迷い苦しみ傷つけ合っている者です。その者をひとりも漏らさない、なんとか救い遂げたいために無上の法の輪を転がして下さった。まぁ説法して下さったということですね。で、もう一つ「如来、無数劫に勤苦せしことは衆生のためなり」とあります。これは数えられないぐらい長い長い年月をかけてご苦労なさったのは、この衆生をどうやって救うかということだというわけです。それこそこの華厳経なんかもね、菩薩のご苦労、どれほど修行を重ねられたかという、こちらの世界をいうわけです。この善財童子の求道というものを、これ云ってみればお釈迦さまが道を求められたお姿ですよね。これがもっと膨らむとジャータカ物語なんかも全部そうでしょう。本生物語、前生物語とも云われますが、お釈迦さまはこの世にお出ましになる前もずうっと一切衆生の苦しみを見続けられたという形で、前世は鹿の王さまだったとか、ある時は兎だったとか、そういう話がいっぱいある。人間世界だけではなくて、ありとあらゆる生きとし生ける者の苦しみを見尽くされたということが、ああいう物語になっているわけです。実体的にお釈迦さまが何かの動物だったという話じゃなくて、ここで云うと「無数劫に勤苦せしこと」と云ってある。とてつもなく長い時間本当にご苦労なさった。それはどうやって一人残らず助けることが出来るか、迷いを超えさせられるか、これを思われてのご苦労であったということを云ってるわけです。そこに立ってこの世に現れて法を説いて下さっている、こういうことなんですね。お釈迦さまというのは特に大事なのはこの世に現れた方なんです。親鸞聖人が何ヵ所か引いておられますが、非華経というお経がありまして、大悲の華という題名が付いているように、お釈迦さまのお仕事を讃えるお経なんですね。その時に云われるのはお釈迦さまはどこに現れたか、穢土を自分の世界になさった。この穢土で仏に成られたということを誉めるお経なんです。ちょっと見るとこの中には阿弥陀仏のことも引き合いに出されて、阿弥陀さまはまだ浄土におられる。浄土というのは問題が無い世界ですから、それよりも穢土の成仏の方がご苦労も多いんだとも読める本なんですよ、お経なんです。しかしそれは決して阿弥陀さんとお釈迦さんとを比べてお釈迦さんが上だと云ってるんじゃないというのが親鸞聖人の受け止めだと思ってます。お仕事が違うんですよ。阿弥陀さまは誰の上にも時代を超えてはたらく浄土というものを形どって下さった。荘厳浄土、これがお仕事です。それをこの穢土で、もっと云えば2500年前のインドという現実世界の中で示して下さったのがお釈迦さまです。だからどっちも大事なんですね。阿弥陀の浄土を踏まえてお釈迦さまはこの世で成仏して下さった。その世界をいただく形を示して下さった。この辺がボクいま東本願寺の同朋新聞に阿弥陀経のことを書いているんですが、そこでは釈迦牟尼仏がよく娑婆五濁悪世のところにおいて甚難稀有のことをなしたまうという言葉が出て来ます、正にこれと課題が重なるんです。もう穢土の真只中、五濁悪世を自分の生きる世界として選ばれた、そういうお釈迦さまのお仕事をほめ讃えられるんですね。だから悲華経というお経だけを見ると、なんかこれは阿弥陀さまは引き合いに出されているだけで軽く見えるかも知れません。でも親鸞聖人はこの阿弥陀経や無量寿経やそして悲華経やらを併せて見られることによって、阿弥陀の世界を踏まえてお釈迦さまはこの世で衆生を導くというお仕事を為された、それが甚難稀有のことを為されたという、あの阿弥陀経のお言葉でしょうね。そんなことも関わってくるようなことであります。ここでは本当に長い長いご苦労を踏まえてこの世にお出ましになった、そういうお釈迦さまのお仕事をほめ讃えているお言葉なんですね。だから「いかんぞもろもろの世間、善く大師の恩を報ぜん、と。」どうしてもろもろの世間、世間を生きる者たちよ、善く大師の恩を報ずることが出来ようか。これは報じなさいという意味なんです。これだけやれば報じたことになります、とそんなことじゃないです。報じても報じても報じ尽せない、そういうことがここに込められている言葉であります。お釈迦さまのご恩はそれほど報いないといけないよと呼び掛けているわけです。それを分かり易く、前にはお父さんお母さんのような乳母のような分かり易い譬えで云って、それが善知識のお仕事だ、その恩に報いても報いても報い尽くすことは出来ない、こういう言葉で押さえられていました。それぐらいに善知識の徳、その功徳の大事さが述べられていると見ることが出来ます。―休憩―
(後半の出だし6分間録音不調)
善導大師の般舟讃について
聖典355頁1行目、善導大師の般舟讃の引文に入ります。般舟讃というのは五正行のうちの讃嘆供養と云われますけど、般舟というのは何を云ってるのかと云うと、インドの言葉の発音を写してこう云ってるだけで、云いたいのは般舟三昧、中味は何かと云うと、一番くわしくは諸仏現前三昧と云われます。諸仏現前三昧というのは面白い話でこれも観経によってお作りになられるのですが、般舟讃というのは観経の一番最後にそのことが出てるんですね。一応開けていただきますと122頁にそのことが出ております。前から2行目「世尊、当にいかんがこの経を名づくべき。」これは阿難が聞いてるわけです。今までお説き下さったこのお経を何とお呼びしたらいいですかと。名前を押えることでこのお経の中味がきちっと押えられるからです、何と名付けたらいいですかと。そして「この法の要を、当にいかんが受持すべき。」このお経の要をどうやってたもっていったらいいですかと。この後の方の法の要は南無阿弥陀仏、つまり阿弥陀仏の名前でたもって行けと云われます。最後にすごい大切なことを確認して下さったんですね、阿難という方は。そうでなければこのお経、長い長いお経ですから、これもせんならん、あれもせんならんと思うかも知れませんね。阿弥陀仏の名前をたもって行くだけでいい。一言で云えば、南無阿弥陀仏一つやと云うてくれているのです。その時に何と名付けたらいいですかと云うた時に二つの名前が挙っていました。一つは「この経を、『観極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩』と名づく。」とお釈迦さまが答えます。観無量寿経ですから、無量寿仏を観ずると云っていいのですが、内容をまず阿弥陀仏の世界である極楽国土を観ずる、それからそこの仏である無量寿仏を観ずる。無量寿仏は観世音菩薩と大勢至菩薩を伴っています。慈悲と智慧でしょう。だから無量寿仏お一人じゃないんですよ。無量寿仏に遇うということはその世界が見えること。同時に智慧と慈悲のおはたらきをいただく、そういう名前だということをお釈迦さま自身が確認しているのがこの言葉です。もう一つが「また『浄除業障生諸仏前』と名づく。」浄らかに業の障りを除く、その時に諸仏の御前に生ず。これが諸仏現前ということです。つまり観経というのは、いつでも諸仏の前に生ずるということを成り立たせる経典だということです。だからこれ利益なんですよ。阿弥陀を見るときに観音・勢至も見えるんですが、その時に諸仏が立ち現れて下さるんですよ。どういうことかと云うと、私たち日頃生きているのはどんな世界ですか、敵か味方か、使えるか使えないかとやっていませんか。でも阿弥陀を念ずる時に、そうじゃなかったということが見えるんです。あの方も輝いておられる、この方も輝いておられる。迷っておられるこの方も未来の仏であるというふうに見えて来るんです。だから阿弥陀に遇うということは阿弥陀一仏を見るんじゃなくて、諸仏ならざるはないという世界がいただける、こういうことでしょう。でもこれは阿弥陀を念ずるところにしか成り立ちませんよ。自分のものの見方を中心にすれば、必ずあの人は敵、この人は味方と必ずやります。あっという間にそこへ堕ちます。阿弥陀を念ずる時だけ諸仏の御前に生ずる。そこに浄らかに業の障りが除かれるということも起るんですよ。私の力じゃないですね、南無阿弥陀仏のはたらきが起る。だからこの般舟讃というのは観経によって諸仏の御前に生ずる。諸仏をいただいていく世界を謳い上げている、そういう書物であります。疑うまじきを疑うわれら
戻りますが、355頁の1行目、(般舟讃)とあって、讃嘆の頌がずうっと並んでいます。全部偈文の形で説かれてあるんですね。七文字の漢文の偈文です。親鸞聖人はここでは必要なところを抜いて来ておられます。だからずらずらとそれが並んでいるわけではないんで宇が、抜いて来て一つの文章として云われるわけですね。「光明寺の和尚の云わく、ただ恨むらくは、衆生の疑うまじきを疑うことを。浄土対面して相忤わず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。」と、先ずこう云います。残念なことには衆生が疑うまじきことを疑っているというわけです。疑ってはいけない、これだけは疑ってはならないということを衆生は疑うと云うんです。中味は何かといえば「浄土対面して相忤わず」と書いてるでしょう。浄土はいつでも我々の目の前にあると云うんです。遠くにあるんじゃないんです。いつでも迎え取って下さる浄土はあるんです。しかし私たちはそのことを疑っているわけです。浄土はどこにあるんやろかとか、私は多分行けないだろうとか、あるいは私は行けるけどあの人は無理だろうとかね、いろんなことを云いますが、浄土はどんな人をも平等に迎え取る、念仏一つで迎え取る、そういう世界なんですが、そのことがいただけないわけです。だからその後にこう書いてあるでしょう。「弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ」と。阿弥陀さんが摂取して下さるか、摂取して下さらないか、そんなことを論ずることなかれと呼びかけている。ということはそういうように疑っている現実があるということでしょう。私は行けるかも知らんけれどあの人は無理やと。逆もあります。あの人は助かるやろ、でもオレみたいな者は無理やと云うたりします。でも念仏すれば一人も漏らさないのが阿弥陀の世界なんですよ。でもこれがなかなか受け止められない、念仏ぐらいで本当に浄土に行けるんかいなと。これ疑ってはいけないことを疑っているのです。浄土はいつでも我々の目の前に対面している。どんな者も漏らさないと云ってます。意専心にして回せざるわれら
その後に「意専心にして回すると回せざるにあり。」と云ってます。だから弥陀が摂取しないんじゃない。なんで助からないかと云ったら、意が専ら阿弥陀を念じているかどうかだと。「回すると回せざる」というのは、自分のあり方が引っ繰り返るということです。日頃はどう云うてみても勝ったか負けたか、得か損かで生きているわけですが、そのあり方が引っ繰り返るところに阿弥陀の世界に迎え取られるということが起きます。日頃の心のままでは無理ですよ。日頃の心で私ほど念仏した者はおらんと云えばその途端にその念仏は人を蹴落とすための材料になります。自分を威張るためのネタになってしまいますね。そんな世界じゃないんです。いま平等に迎え取られる世界が阿弥陀、もっと云えば比べる必要のない世界が阿弥陀ですから、比べる心のままでは生まれられない。これを弥陀が摂め取ってくれるかどうかでなくて、こちら側が引っ繰り返るかどうか常識で計っていることが破れるかどうか、その問題です。問題は意が専ら阿弥陀を念ずるところに立って転換するかしないか、この一点なんですね。なかなかそうは思えません。やっぱり常識的というかね、人間は努力を積み重ねて、だんだん向上していくという発想がもう生まれつきと云うか、生まれる前から身に沁みついてますんで、念仏もやっぱり立派になっていくと云うか、ちょっとましになろうという根性が抜けないんです。だから念仏しても心がきれいになりませんとかね、気が短いのは直りませんとか、ケチの心が無くなりませんとか云うんです。そんなものが直るって親鸞聖人はどこにも云うてないと思いますよ。根性が直らないからこそ南無阿弥陀仏で生きてくれと仰っている。でもそう云われてもやっぱり自分の心を浄らかにする方を根拠にしようとするんです。これは親鸞聖人がお捨てになられた比叡山の自力の行のあり方でしょ。ボクら比叡山に行ってませんけれど発想がそういう所に居るわけです。だから使ってる言葉が浄土の言葉であっても、あるいは念仏、南無阿弥陀仏であっても、発想が自力である間は絶対に助かることはありません。聖道門と浄土門と云うたらなんか仏教の宗派のように聞こえてしまうんですが、決定的な違いがあるのは、聖道門はいつかそのうちです。積み上げて行けばいつか助かるであろう、いつか覚れるであろうという発想が聖道門です。浄土門はいまここなんです、立派になってからじゃない、根性が直ってからじゃない、今ここで助かる、こういう教えです。親鸞聖人の言葉を借りれば「聖道の諸教は行証久しく廃れ」と云ってるでしょう。これが聖道門です。すごい断言をしておられますね。それに対して「浄土の真宗は証道いま盛なり」と仰る。この違いですね。証道というのは比叡山であるとか、奈良の興福寺とか、そういう宗派を指しているのではなくて、行じていればそのうち覚るという、これ同時じゃないんですよ。いま行じて頑張っておけば、そのうちいつかきっと覚れるだろうという道です。でもこれは成り立たないと云うんです。まだまだやと云うて、いつまでもここに居るからです。そして身体は待ってくれませんので、例えば30年修行したら絶対覚れるという保証があったとしてもですよ、身体は30年待ちませんから結局やって来たことが全部水の泡になる、そういう面を持っているのがこの道だと云うわけです。親鸞聖人は決して宗派を馬鹿にしてるわけじゃないですよ。そうじゃなくて、この道ではいつかそのうちにということを期待するだけで、今ここで助かるということにはならんのです。こっちは「証道」と書いてあるでしょう。証しする道です。これは「いま盛」です。これも例えば煩悩具足の凡夫という言葉一つでもいいです。これが本当に私のことだったなぁというふうに戴ければ、煩悩は本当に消えてなくならないということに本当に頷ければ、そこに私の道はいま開けます。煩悩を消してから助かろうと云うんでは間に合わないということがはっきりしますから。だから煩悩具足の凡夫には南無阿弥陀仏して生きて行かなければいけないということが私のこととして、今のこの私において生きてはたらくでしょ。盛というのは宗派として盛という意味ではないですね。人数が多いとか、信者が増えたという、そんな意味じゃないですね。私の上にその言葉が生き生きといま成り立っているという意味であります。証しする道ですから、そのうちにじゃないでしょう。さっき貪愛瞋憎という話もしましたけれども、貪愛瞋憎が雲やらキリのように覆ってくると正信偈に書いてありますね。あれが自分のこととして本当やなぁといただければ、そこにも仏法が届いてますわ、いつかそのうちじゃない。私のことやったといただくところに、これがいま盛ということです。話戻りますと聖道門と浄土門というと、なんか二つのグループのように聞こえますが、いつかそのうちにという発想が聖道門なんです。これ念仏の教えでも同じことが起きますよ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、これぐらい云うとけばそのうち助かるだろうになれば聖道門です。助かっていないんですから。よくお同行が仰いますが、感謝をせんならん、有難いと思わんならんと云うてね、それは思うとらんからですね。有難いと思えんから頑張って思わんならんと仰る。有難いと思える時には、もう道は既に開けてますわ。有難いと思わないかんのやけどもと云うてるときは暗い顔をしておられますわ、有り難くないからです。感謝せんならんというのは感謝してないんです。感謝している時には本当に頭が下がります。それがそのうちにではなく、いまの救いということですね。だんだんと上がって行くという常識的な発想からすると一番遠い道かも知れませんね。これが疑うまじきことを疑っている、何とも残念なことであると善導大師は云うわけです。阿弥陀さんが救うか、救わんかは問題じゃない。阿弥陀さんは全員を救うんですから。ただし私を念ずる者をということです。日頃の生き方を握っている間は、阿弥陀の恩恵に与かることはない。なぜかと云えば、ランク付けして助かろうとしてるからです。もうちょっと読んで行きましょうね。長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜよ
「あるいは道わく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いずれの時何れの劫にか娑婆を出でん。いかんしてか今日宝国に至ることを期せん。」と。今日より仏果に至るまで、教えに遇うた今から、ずうっと課題はこのこと一つやと。これが長劫です。長い間やればそのうちにじゃありません。だって明日命終るかも知れませんから。その時はそれで完結したということです。命ある限りこのことを大事にしなさいという意味で、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜんと云ってます。その一つが弥陀の弘誓の力です。慈恩というのはめぐみの恩ですね。これにお応えしていこうということですが、一つが「弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いずれの時何れの劫にか娑婆を出でん」と。これ本願のはたらき、本願のお導きを受けることがなかったら、いつこの迷いの娑婆を出ることが出来ようかということです。もう一つ、どのようにして「今日宝国に至ることを期せん」と。宝国は阿弥陀の浄土のことを云ってます、宝の国ですね。実際に七宝国土として説かれますけれど、その阿弥陀の国が本当に大事な宝の世界だという意味で宝国と云っていますが、これ面白いですね、今日なんです。いま至るんです、やっぱり。これも先ほど浄土に行くというのは、この身を持ったままではいけないという話もしていたわけでありますが、しかし云ってみれば、浄土のはたらきを受けて生きて行くということは、この世の真只中で起きます。行ってしまったとは云えませんけども、浄土の功徳を賜って歩むということがある。これを曽我量深先生は純粋未来という言葉で仰いました。時間の概念で表わされますね。浄土というとだいたい空間的な場所の表現で云われますけれど、曽我先生は未来と仰った。我々未来というのはその日が終れば過去に流れて行きます。例えば一年後十年後と云うておっても、その日まで生きておれば過去に流れ去っていくでしょう。でも未来というのは大事なもので、まだ来てないんですけれど、今日すべきこと、課題をくれますよね。一年後の行事を迎えるなら、あぁ何ヶ月前からこんな準備をしなければいけないなぁと計画を立てます。日々の生活になんか方向を与えるし、やりがいをもたらしてくれるということがあります。不思議でしょう、未来というのは。来てないのにです。でもその未来は流れ去っていく過去になる未来ですから、曽我先生は浄土は純粋未来だと云うんです。絶対に流れ去らない。生きている限りいつでも未来として導き続けると云うんです。過去に流れ去らない未来を純粋というふうにお呼びになられたのですね。だから生きている限り、これが大事、これが大事といただき続けて行く。でもそれは手が届かないという意味じゃなくて、今日に方向を与えてくれるでしょう。今日何を為すべきか、今日どう生きるかということをハッキリさせてくれる。だから純粋未来というのは遠いところにある話じゃなくて、今日に関ってますよね。行ってしまうというわけにいきませんけど、「今日宝国に至る」という言葉に窺うことが出来ますね。安田先生ふうに云うと、浄土に行くと云うけれど実は浄土がこっちに来るんやと仰ってた。すごいことを仰るなと思ってましたけど、阿弥陀を念ずる時に浄土をいただきながら生きて行くということが起るでしょ。勿論手に入れたとか、もう行ってしまったとは云えないでしょう。ボクらが手にした途端に浄土は汚れてしまいますね。手にできないからこそいつでも導いて下さる、これが大事なんだとね、共に歩んで行く世界です。もしか私は行った、お前はまだかと云うたら、またその浄土は人と自分を比べ合う、ランク付けの汚れたものになって仕舞いますわ。共に浄土に向おうよと、ともに浄土をいただこうよと云うて、その意味で隣にいる人とも共に仰いでいく世界が浄土でしょうね。これが弥陀のはたらきとして云われてあるわけです。次に「実にこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん。浄土に生まるることを得て慈恩を報ぜよ、と。」と云ってます。弥陀のはたらきに依らなければ、この娑婆を離れられない。浄土には至ることができないと云ってますが、しかしそれはまことに娑婆の本師であるお釈迦さまの力だと云ってるわけです。さっきも云いましたがこの娑婆世界、これはインドのサーハーという言葉ですね。翻訳する時に忍土と訳されます。耐え忍んでいく、苦しみの世界と云うのがサーハーという言葉です。忍土と云われる、でもそこにお釈迦さまは現れた。娑婆が痛ましいから娑婆にお出ましになったんですよ。逆に云えば娑婆が傷つけ合うことが一切ないなら、お釈迦さまは態々出て来んでも良かったんです。あるいはお出ましになったとしても、説法せんでも良かったでしょう。生き生き生きてるなぁと見守っておられるに違いない。でも痛ましいことがそこら中で起こっているわけです。だから説かずにはおけない。放っておけなかったからでしょう。だからお釈迦さまは敢えて五濁悪世を我が世界としてお出まし下さった。苦しみが渦巻く娑婆世界だからそこを自分の生きる世界として現れて下さったということです。だから弥陀の力に依らないといけないんですが、そのことをいただけるのは実にお釈迦さまのお力のお蔭であるというふうに云ってるわけです。「実にこれ娑婆本師の力なり」と云って、「もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん」と云います。だから本師釈迦のお勧めに依らなかったならば浄土にはどのようにして入ることが出来ようか、入ることはできないであろうと云ってるわけです。お釈迦さまのお勧めをいただいて生きて行くということですね。お釈迦さまに直接遇うということはボクらもうできないわけです、2500年の時を隔てていますから。しかしそのお釈迦さまは何を残されたかと云うたら、阿弥陀に出遇え、阿弥陀の浄土に生まれよという教えを残された。そのお勧めをいただいて我々は阿弥陀の浄土に生まれていくということが一番大事なんやと云うんですね。お釈迦さまの顔を見るということじゃないんですよ。お釈迦さまの顔を見たかどうかじゃないんです。見られないところにも、ちゃんとそのお勧めをいただいていくと云うことは成り立つんですね。だから最後に「浄土に生まるることを得て慈恩を報ぜよ、と。」と、こう云うておられる。これがお釈迦さまのお勧めを受けて、そして阿弥陀の浄土に生まれることを得て、そして慈恩、いつくしみの恩ですね、これはお釈迦さまの慈悲の恩でありますが、それに報いて行きなさいと、こう呼びかけているわけであります。まぁここも釈迦・弥陀二尊のおはたらきということでありますが、善知識釈ということで云えば、弥陀に遇うことが大事なんですが、その弥陀に遇えるのは、本師釈迦、お釈迦さまの力に依るということを押えてる言葉ですよね。ただ面白いのは、ここに来ると善知識の大事さを挙げた文章から更に展開して、折角そういうお勧めがあるのに、遇わない私たちの問題が出てまいります。ここで云えば疑うまじきことを疑ってるということでしょう。それからもう一つは「意専心にして回すると回せざるにあり」とありました。本当に弥陀を念ずる心が専らであるのか、そうでないかということです。それが弥陀の浄土に生まれていくかどうかの分かれ道になっている。善知識があって弥陀の浄土があるにもかかわらず、それに遇わない私たちの問題ということがここに出てくるわけです。なかなか遇おうとしない私たちの問題。これが実は最後の、355頁の最後のところに御自釈が出る、ここに続いて行くわけですが、ちょっとそれを先取りしておきましょうか。「真に知りぬ。専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。」と、こう云ってます。ここまでずうっと第20願の問題を云って来てるわけですが、「専修にして雑心」、専修と云うことは専修念仏ですよね。でも形がいくら専修念仏でも、その心が専修じゃないわけですよ。これが「大慶喜心を獲ず」と。これ信巻から大事にされている言葉ですが、本当に獲て大いに喜ぶということを慶喜という言葉で親鸞聖人はわざわざ仰る。「大慶喜心を獲ず」と云っておられますが、小さい慶びはあるのでしょうね。私は仏法に出遇うたとかね。しかし本当の身に余るようなよろこびには出遇えないということです。さっきの般舟讃に疑うまじきことを疑うというところに「専心」という言葉がありましたね、これと対応してます。専ら阿弥陀を念じて生きて行くということが決まらないと、私たち必ずいろんな思いが湧いて来るわけです。これに呑み込まれていくんですね。これは念仏一つということに、たとえ形が決まったとしても、念仏しながら本当にこれでいいんかいなぁという、疑いの心というのはそこでしょう。信じないのではない、不信じゃない。念仏なんかで救われるかと云ってるんじゃない。しかし、それが決まらない。そこに念仏しながらも他のことに心が奪われていく、あるいは形に執われていくこともある。回数であるとか、声の大きさであるとか、あるいは勉強してからの念仏がもっと値打ちがあるんやないかとか、いろんなことがくっついてくる。これが専心じゃないという問題です。こういうことを受けて「専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず」という言葉に決着していくんですね。その意味で云うと、これいま善知識釈と云っておりますけれど、やっぱり第20願の問題、念仏一つと聞きながらも、そこに我が計らいが起って来る、その問題をずうっと引き摺ってますね。で、繰り返しになりますが、それを超えさせるものは善知識しかない。我々に先立って念仏を頂いておられた、阿弥陀の世界を受け止めておられた、そういうことを通してなんですね。でも、これ途中で既に読みましたが、その善知識というのは恒沙の諸仏の勧めというふうにも書かれていました、恒沙の勧めですね。沢山の仏さまのお勧めをいただく、これしかこういうあり方が破られるということはないんですね。善知識という教えが折角あるのに、私たちはそのことがなかなかいただけないということがもう一遍ここで押さえられてくることになります。往生礼讃から「自信教人信 難中転更難」
もう一つ見ておきましょうか、355頁の『往生礼讃』のお言葉です。これは六時礼讃とも云われる、一日6回4時間毎のお参りの姿を定めて下さっています。要するに一日中阿弥陀を礼拝して行けということを形にまでして示して下さったわけですね。6回はなかなか難しいですけども、今も晨朝とか初夜の勤行という、朝と夕の勤行については言葉がちゃんと残ってますよね。朝と夕ぐらいはちゃんとお勤めせよということですが、善導大師は一日6回の形も定めておられます。その中の一つですけれども「また云わく、仏世はなはだ値いがたし。人、信慧あること難し。遇希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむること、難の中に転たまた難し。大悲弘く普く化するは、真に仏恩を報ずるに成る、と。」とあります。これはこの難信論、善知識釈の始めのところに『大経』の文章が引かれていた、あれと重なりますね。仏の世に、仏がおいでになる世界に遇うことは甚だ難しい。そして人信慧あること難し。人間に信心の智慧があることが難しい。仏に遇うてもなかなかはっきりしないという問題です。たまたまとしか云いようのない、たぐい希な法を聞かせていただくことは難しいと云っています。そしてそれに加えて「自ら信じ人を教えて信ぜしむること、難の中に転たまた難し」と。今度は自ら信ずるのも難しいんですが、「人を教えて信ぜしむる」自信教人信というお言葉です。この「教」は使役を表わすので、何々せしむと云っても良いんですね。だから「自ら信じ人をして信ぜしむ」と読んでも全然おかしくないんです。でも親鸞聖人はわざわざ2回読んでますね。自ら信ずるだけじゃなくて、人を教えて信ぜさせると2回読んでいます。それがこの読みになっています。特に教えることの難しさということをここから見ようとしたんでしょうね。これ中国の人の感じの感覚というのはとても分かりませんので、親鸞聖人がいただいて下さったとおり、2回読む方がはっきりするなぁと思って読んでるわけであります。ただ使役の言葉としても間違いではないんですが、教えて信ぜしむと2回読む、これが難しい中にさらにまた難しいというふうに云ってます。よく「自信教人信」が大事やみたいなことが云われますけれど、この後半の「難中転更難」という言葉を忘れてるんですね、どれほど難しいかを云ってるんです。それを抜きにして「自信教人信」は大事やと云っていると、出来ると思ってるんですかと云いたくなる。でもこれ敢えて云わないといけないということはこの課題が大事だからですよね。だから仏法をいただくと云うことは私が信ずることが難しいのですけれども、それを周りとの関係の中で共々にいただいていくということが大切だから、敢えて云われるんです。大事だけれども甚だ難しいと、ここなんですわ。でも難しいからと云って止めるという話ではない。難しいというのは承知した上でやれということですよ。難しいから止めるというのは、云うてみれば取引根性ですわね。結果が出るならやる、結果が出ないようならアホらしいみたいな根性でしょう。結果が出なくてもこの結果は大事だと云ってるわけです。全部そうですね、仏に遇うことも、信心の智慧を獲ることも、もっと難しいのが自ら信じて人を教えて信ぜしむるという、これです。一言で云えば自ら信ずるということと、人を教えて信ぜしむるということは段階ではありませんね。自ら信じていることを周りとの間で確かめられていくわけでしょう。大学で沢山の学生と遇う縁をいただいてますけれど、通じないということが、こちらの受け止めをもう一遍吟味させられることになります。自分の受け取っている範囲のことを提示するだけで分からないと云われれば、じゃぁどこがどうなんだろうかということをこちらが確かめさせられます。だから自信ということが先にあって、その次に教人信が来るんじゃないんです。これ同時、往復運動であります。だから届かないということは、いよいよ自分がそれを確かめていくという課題をいただくことになりますね。どちらも昨日まで聞く側で今日から喋る側というようなことありません。喋っていても聞かせてもらうんですね、確かめさせてもらうんです。絶対的にこれを段階的に読んではならないと思います。自ら信ずるということと、人を教えて信ぜしむと云うことは同時なんです。どちらも本当に難しいということが云われる。大悲弘普化 真成報仏恩(これが本当に仏恩を報ずることになるのですよ)
それですごいのが次の言葉ですね。「大悲弘く普く化する」と読んでるでしょう。「これ真に仏恩を報ずるに成る」と。これ現在見ることのできる『往生礼讃』では「大悲傳普化」となってます。この字が違うんですね。それで親鸞聖人はわざわざそこに注を付けておられて、この字は『集諸経礼懴儀』という善導大師の書物が別の方の本に引かれているところで、そうなっていますよという注を付けておられます。いま開きませんけど、そこに注番号あるでしょう。40番ですね、これは善導大師の『往生礼讃』ではこうなってますよ、知ってますよということなんです。分かった上で『集諸経礼懴儀』によってこの字にしてますよということを注意している。だから間違ったんじゃありませんということをちゃんと云うとかないと、ああ親鸞聖人は写し間違えてるという話になるんですね。現代もそうじゃないですか。元がそうなっている時に、私が写し間違ったんじゃないという時には「ママ」という印をつけたりします。そういうものなんですが、親鸞聖人ってしつこいなぁと思うような感じがします。原文のママということですね。で、ここはこう書くと「大悲を傳えて普く化する」というふうに読めてしまいますね。となると伝える主語は私になりますね。私が伝えてやったみたいになるかも知れません。こっちの字でも「大悲を弘めて」と読めば、そうなりますが、「大悲弘く」という訓をわざわざ振っているでしょう。大悲が弘く普く化すると読めば、教化するのは仏さまの大悲のおはたらきだということになりますね。だから「自ら信じ人を教えて信ぜしむる」というのは、私も仏のお力によって導かれていく、その私を縁として誰かが聞いたとしても、それは私が伝えてやったんではなくて、縁は私かも知れませんが、私を縁としてその方が仏のお心に出遇われた。だから大悲のお力だということを、親鸞聖人は確かめています。大悲が弘く普く化する、教化するのは仏さまのおはたらきだということを云ってる字だと思います。それが「真に仏恩を報ずるに成る」と。この最後の言葉は「傳普化」とあった方が分かり易いですね。私が大悲を伝えて普く化する、それが真に仏のご恩に報いることになるのだ、とこういう文章の方が分かり易いんです。三句目の字を換えるとちょっと分かり難くなるところなんですが、しかし前の「自信教人信」を課題に生きるところに、私も大悲によって教化されていく。周りの人も大悲によって教化されていく。そういう歩みなんです。具体的には南無阿弥陀仏して、共々に聞法するという以外にないんです。そこに大悲が弘まっていく。それが仏のご恩に報いることですよということですから、「真成報仏恩」というのはここの話じゃないんですね。私が伝えることじゃなくて、これが私たちの課題なんです。これが仏さまのご恩に報いることですよと。だから自らもいただき周りにもお勧めする、しかしどれほどお勧めしても私が伝えたのではない。これが親鸞聖人で云えば、沢山のお弟子が居られたのにもかかわらず、弟子一人も持たずというあの生き方ですね。ワシが教えてやったなんて云わない。それは阿弥陀の御催しによって念仏するようになられたのだ。全部如来より賜わりたる信心だという世界でしょう。これが大事なとこやと思います。今日も途中で還相回向のこともご質問いただきましたけれども、重なってくる話だと思います。私が還相すると一言でも云うたら、それはもう仏さまのお仕事を掠め取るようなことになるわけです。私も教えられ続けて行く。しかしその教えられている人の姿が、人に仏法をお勧めするということもあるということです。これは私がそういう力を身につけたのではなくて、仏のおはたらきの賜物なんです。これが還相回向の利益というようなこととも重なって読めると、私は思っております。
ちょっとまだ残りましたけれども、善導大師のお言葉まで進んできました。今日はこの辺にしておきましょうかね。ありがとうございました。