『教行信証』の化身土巻を読む(37) 一楽 真 師
2019/ 04/19
お詫び
またしても録音の不手際により、前半の記録が逸失し、講録は後半のみとなりました。まことに申し訳ございません。後半につきましても不完全な再生であり、文責は当方にあります。有為涅槃と無為涅槃
353頁7行目「如来にすなわち二種の涅槃あり。一つには有為、二つには無為なり。有為涅槃は、常楽我浄なし。無為涅槃は、常楽我浄あり。(乃至)この人、深くこの二種の戒ともに善果ありと信ぜん。このゆえに名づけて戒不具足とす、この人は信・戒の二事を具せず。所楽多聞にして、また不具足なり。」一旦ここで切ります。ここには戒不具足という言葉があるので、一応この部分、戒不具足…..全体を迷いを超えて行く、仏道に向けるというその自律的なものだという話をしましたけれども、それが具わっていないという意味で戒不具足と云われています。ここも注番号がいっぱい付いてます。なかなか厄介なところなんですが、ここを読む前に、先に後ろから2行目のところに「略抄」とあるんですね。略して抜き出しましたと書いてあります。親鸞聖人がこういうように書く時には元の涅槃経の文章とは少し違いますよということをちゃんと云うておくんですね。涅槃経どおりの文章を抜いて来たわけではありませんよと。略して抜き出しましたと云うんです。その意味でこの部分は親鸞聖人なりの読み取りがあって書いておられるところです。ところがこの聖典は読み難いということで、親鸞聖人の読みを元の涅槃経に戻してしまっているようなところがあるんですが、どうしても話が厄介になります。ちょっと読んで行きます。「如来にすなわち二種の涅槃あり。一つには有為、二つには無為なり。」と云ってます。如来にある涅槃のことですから、普通は有為は涅槃の話じゃないですね。無為が動かない、生滅変化しない、これを無為と云うわけですから。しかし有為という、こういう涅槃の形をとる、それが如来にはあるんだというのが元々の文脈なんですね。これも「有為涅槃は、常楽我浄なし。無為涅槃は、常楽我浄あり。」とこう云っています。これ涅槃経の文章で、そうしているんですが、親鸞聖人がどう書かれたかということを、注37番でもう一遍確かめておきたいと思います。1041頁であります。「有為涅槃は……常楽我浄あり。(乃至)この人」ここまでですね。ここまでの部分はちょっと手を入れてますよという注であります。親鸞聖人がどう書いているかと云うたら「有為涅槃は無常なり、楽我浄は無為涅槃なり、常人有て云々」と、これ非常に読み難いんです。「常楽我浄」というのは大体ワンセットの言葉です。ですから涅槃ということは人間の常楽我浄ということを超えているということで、常楽我浄なしと読むのが分かり易い。その後「無為涅槃は、常人ありて」というこの部分、これは元と全然違うわけです。どういうことか。これ私も結論ありません。本当に読み難いところなんですが、聖典が戻した方はこう書いてますね。353頁に戻りますと、高麗大蔵経および諸注によるとあるとおり「有為涅槃は、常楽我浄なし。無為涅槃は、常楽我浄あり。」となっています。これも読み易いとはとても云えませんけれども、涅槃に二つあって有為涅槃というのは常楽我浄がないと、そういう云い方をしています。常楽我浄というのは私たちの誤った元々の勘違いしたものの見方をひっくり返すためにこういうのですが、これに応答する形で有為涅槃というのは常楽我浄なしという形をとるということを云おうとしている。例えば全てのものは常なるものである、そして楽がある。我というものがあって浄らかさもある。こう云う私たちに対して、敢えて迷いの世界に出てですね、実はそういうものはないんだよということを示す。これが如来の涅槃の示し方なんですね。しかし本当の意味の涅槃というのは、我々の誤った見解を否定するだけじゃなくて本当の意味の常なるもの、本当の意味の楽なるもの、本当の意味の主体、本当の意味の浄らかなるもの、こういうことを示そうとするんだということをこの文章は云おうとしているんだと。これ、なかなか、涅槃経が置かれている位置もあるんですが、常楽我浄というのは四つの誤ったものの見方という意味で四顚倒と云われる。正しい見方じゃないと云うんですね。すべてのものは常なりと思っていても本当は縁次第で変わっていくわけですから、変らないはずだと思うと執われの心が起るし、苦しみが起きますね。だからこれは誤ったものの見方だということを仏教はずうっと云ってきたわけです。常なるものはないぞと。本物の楽などない、一切は苦である、とこういうことを教えたのが仏教でしょう。ところが涅槃経に来ると、もう一遍本当の意味の常なるものは何か、本当の意味の楽とは何か、本当の意味の我とは何か、本当の意味の浄らかさとは何かということを云い出すもんですから、初めて涅槃経を読んだ方々の中で、これは誤った四顚倒ということを増長する教えだ、仏の教えじゃないという受け止めが出るんです。そのぐらい涅槃経というのは、一遍否定してきたものをもう一遍引っ繰り返そうとする。なんでかと云うと、例えば私たち諸法無我ときいている、このことを知識で知っておりますと、あ、仏教には我はないんだと云うてしまいますね。仏教は我がない教えだと云うてしまう。しかしこれ一面なんですよ。なんで無我と云ったかと云うたら、変らない我というものがあると思う、これを叩くため、否定するために無我と云うたわけです。でもそれを通して本当の意味の我というものに目覚めてほしいわけでしょう。我なんかないというふうに、ただ頭ごなしに否定しているわけじゃない。だから無我という意味をもう一遍確かめるために、涅槃経は本当の意味の我ということを云うのです。でも聞く方にしたら、それは誤った教えを云ってるのかどうかとゴシャゴシャになるわけです。でもここの有為涅槃というのは敢えて私たちの有為の世界に合せて覚りをお示し下さったのですね。そこでは常楽我浄とは四顚倒ではないと云うわけです。でもそれで終らないですね。本当の意味の涅槃、これ人間のものの云い方を単に否定するという面に止まらず、本当の意味の、まぁ実在と云いますかね、事実そのものの世界を知るためにもう一遍踏み込んだのが「常楽我浄あり」という云い方であります。これも読むのが難しい感じがしますけれども、でも涅槃経の文脈で云うとこういう読みが正しいと云っていいわけです。そこに乃至とありますが、これは中略があるということなんですが、親鸞聖人は中略しているのに乃至と書かずに、この人というふうに行くわけですが、この人と云うのを親鸞聖人は常人、世間の常識を生きている人、世間的な発想で生きている者ということでしょうね。まぁこれ教行信証で云えば「非常の言は常人の耳に入らず」と云う言葉が既に証巻に出ています。常識を超えたような言葉、要するに仏の言葉ですので、それは常識で考えている人間には耳に入って来ないということがあります。それぐらい仏法を聞くということは難しいということが既に証巻に出ておりました。だからもっと執われを超えろと教えられても、どうすれがいいのか分からない。あるいは自分なりに握ってしまう、こういうものを常に持っているわけです。それでここは親鸞聖人、「常人」という言葉で云うておられますね。「この人、深くこの二種の戒ともに善果ありと信ぜん。」と。話を戻しまして、親鸞聖人の読み非常に難しいですね。もう一遍さっきの注のところを見てみますと、親鸞聖人何と云ってるかと云いますと「有為涅槃は無常なり」と途中で切っているのですね。有為涅槃は無常であると。そうなると話は逆転してまして、有為涅槃というのは有為の形をとって示される涅槃ということでありますが、それは無常であると云ってます。云ってみればお釈迦さまが入滅なさったことを涅槃と云うとなると、お釈迦さまは滅したと実体的なところへ行きますね、それを無常と云ってると思います。でも本当はお釈迦さまは滅しても、そこに消えることのない世界がある。これを親鸞聖人は今度は「楽我浄は無為涅槃なり」と云っている。終っても終らない、消えても消えないような世界があるということです。でもこれは涅槃経の趣旨とは決して矛盾してませんで、涅槃経は釈尊が亡くなっても消えてしまわないような法のはたらきを云おうとする経典ですからね。でも元の文章とすると、なんで親鸞聖人がこんな訓点を打つのか、よう分からないということが云われて、この聖典も涅槃経の元の文章に戻しているということであります。まぁ細かい話でありますけれども、気になるところと思いますが、私もいま申し上げたようなことしか、ようお話できません。
善果か因果か
その後「常人有て」、これはさっき申し上げた常識に生きている者ということですが、353頁「この人、深くこの二種の戒ともに善果ありと信ぜん」とあるこれを、親鸞聖人は因果と直しています。これも涅槃経ではこの二種の戒ということについては、中略されている部分で述べられているんですが、親鸞聖人は敢えて乃至を書かずに来てますから、これは何を承けているかと云えば有為と無為であります。これもちょっと苦しい読みでありますけれども、直前を承けていると親鸞聖人は読まそうとしているんではないかと思います。つまり、有為の戒・無為の戒共に因果ありと信ずると云うわけです。でもどうなんでしょうね。有為と云えばそれこそ我々の生きておるこの有為転変の世界、いろは歌でも「ういのおくやまけふこえて」と云われるように、迷いを表わすものですね。迷いの世界を超えて行くという時に有為ということが云われる。有為の戒と無為の戒、これは本当の意味で我々の有為転変を超えたような世界をいただいて行く戒と読むことが出来ますが、世間の常人ですね、常識で生きてる人は、どっちもそれぞれ因がある。因があれば結果もあると考える。しかしそれは間違いだということを云おうとしているんですね。実際どうでしょう、因果というのは仏教では常套句と云われますが、因果は同時なんですね。果を持っていないものは因とも云わない。例えば籾は必ず米になって行く、これは因果の関係です。稲の種籾から麦はできませんよね。種籾というのは因かも知れませんが、そこには結果が必ず具わっている。因果同時ということが大事なんですね。でも私たちはどうでしょう。必ず仏に成る、これは如来から云えば間違いないんですが、私たちから云えば迷いに居る間は必ず仏に成る因果がちゃんと具わっていると云えるでしょうか。にもかかわらず、やればなんとかなると思っている。だから山に籠ればなんとかなる、あるいは滝に打たれればなんとかなるというような、こんなことが結果を具えている因果と云えるのかという問題がある。私たちが考えているような因果の方は有為だと親鸞聖人は云おうとしていると思います。本当に覚りに至る因は何かということですね。教行信証の文脈に戻せば、これは如来のはたらきによるがゆえに目覚めることが出来る、これが本当の因果だと親鸞聖人は云おうとしていると思います。南無阿弥陀仏のはたらきによって迷いが破られていく、それを本願の因果として親鸞聖人は語ると思います。でも私たち、そっちの方はなかなかいただけないですね。これだけ勉強したから大丈夫だろうとか、仏教にこれだけ詳しくなったからきっと行けるに違いないと思ってます。それは全部こちらの因果じゃないでしょうか。こんなことを云えば努力しようとしているお心を潰してしまいそうですけれども、努力がつまらんと云ってるんじゃないですよ。努力が結果に結びついていると、どこで云えるんですか、そこなんですね。さっき種籾の話も出しました、その意味で云うと、もう一つ加えて大事なのは縁ですよね。種籾が必ず稲になるというのが因果かも知れませんが、どこに蒔かれるか。コンクリートに蒔かれるか、土に蒔かれるかで違いますでしょう。土に蒔かれても雨が降らなかったり、お天道さまが照らしてくれなかったりしたら実れない。縁が大変大事なんです。だから私は必ず仏に成る種を持っているといくら云ってみても、それが芽を出す縁をいただかなければ果としてあるとは云えない。でもこれは私たち人間の側の有為転変の方に日頃根拠を置いてませんかね。これだけのことをやったんだから、オレほど努力した者はいないからと。でもそれは本当に迷いを超える因果と云えるかということなんです。まぁここはそこまで仰ってる言葉ではないんですけれども、親鸞聖人の中略をして云っていることを見ると、「常人は深くこの二種の戒、ともに因果ありと信ぜん」つまりこれを守ればなんとかなると思っているんです。で、無為の戒は何か。敢えて云えば南無阿弥陀仏をいただいていく、これしか道はないということがはっきりする。ここやと私は思います。ここは本当に難しくてね、どう読んだらいいのかという結論が出ているとはとても云えないんです。まぁ解説書をいろいろ読まれたらいいと思いますが、どの解説書を読んでも五者五通りぐらいの意見になっています。それをここはずうっと仏法に関わりながら仏法でなくなっていくという問題、これが信不具足から今度は戒不具足と云われる。これはどれほど戒を真面目にたもっていても、そこに仏道でなくなっていく問題として読み切っておきたいと思います。ですから最後にどう書いてあるか。戒不具足のその後に「この人は信・戒の二事を具せず」と書かれている。この信というのは直前の信不具足を云ってると思いますね。ここでは戒をたもったことにもなっていないと云う。だから信も戒も具足していないということを、こういう言葉で云っていると思いますね。で、その後「「所楽多聞にして、また不具足なり。」と云ってます。この楽というのはねがうという字ですから、願うところは多く聞いているんですけれども、それがまた不具足だと、これが次の聞不具足にも続いて行きます。ですから求める心はあるんです。しかしどうやったら迷いを超えられるのか、傷つけ合うことを超えられるのか。憎み合ったりね、都合が悪いということを超えられるのか、その方法が分からない。願うところはあって沢山のことを学ぶんです。沢山のことを聞くんですけれども、それが具わっていかない。いろいろやっているのにそれで助からないという問題です。まぁこれは教行信証の一番最後に行けば、親鸞聖人のお言葉で「雑行を棄てて」と云われますよね。あのお言葉と響き合っています。親鸞聖人ご自身のことで云えば、比叡山での修行を棄てたという話ですけれども、これは中味から云えば、今までやっていたことは迷いを超える行ではなかったということがはっきりしたわけです。あれでは迷いが超えられなかったということが明確になった。これが「雑行を棄てて」という言葉ですよね。もう一遍云いますが、雑行というのは不真面目という意味じゃないです。親鸞聖人にとっても本当に真面目に積み上げておられましたよね。でもあれでは助からないんだということがはっきりした。これを放棄する意味の字を使って「雑行を棄てて」と書いてあります。ある先生が仰っておられました。「捨」の字だったらね、捨てたと云ってもまた拾うかも知らん。捨てたはずのものをまた拾うたりする。捨てたり拾うたりではなく、もう永久に放棄したんだと。これはいやになって捨てたんじゃない、これでは助からないということが明確になったからでしょう。そういう意味なんですよねえ。ですからいろんなことをやって来たけれども、全部が迷いを超え、傷つけ合うことを超え、憎んだり、それから邪魔ものだと思ったりすることを超える道になっておらなかったということです。ずうっとお話ししておりますとおり、仏教を全く知らないという話じゃなくて、仏教を聞きながらこういうところに落ちて行くんですよ。よくあることで云えば、私ホントに真面目に聞法して来ましたのに、なんでこんな目に会わんならんのですかと、こういうのあります。でも仏法を聞いたら自分の都合の悪いことが起らんようになるとはどこにも書いてない。その都合の良し悪しを云うておることからの解放、これが聞法の本当の利益のはずなんですが、でも今度こそというのありますよね。これだけ真面目に聞いて来たのに、これだけお念仏もして来たのにと思えば、その全体がもはや仏法ではなくなっていくという問題なんです。大変厳しいことでありますが、これは化身土巻の末巻のところまで続いていくと思います。末巻では鬼神を仰いだり魔物に憑かれたりという話に行くでしょう。仏さまの教えをいただいているつもりで人間を迷わす魔物に仕えていく、鬼神を崇めていくということになるんですよ。それを縁にして本当に依るべきものは何だったかということに返していく、これが方便化身土巻の大事な意味ですよね。だからまた間違うとったなぁと気が付くことが大事なんですよ。また執われつ必要のないことに執われていたということを気づかされる。之大事なんですよ。全部方便化身土のおはたらきによって、また大事なところへ立ち返っていけるという一歩一歩の歩みです。そういう意味では生きている限り迷わなくなるとか、もう腹が立たなくなる、そんなんじゃない。思いはいろいろ湧きますけれども、それを縁として分別したり、自分のものの見方を中心に振り回したりすることから解放され続けて行くという歩みだと思います。聞不具足
この後もうちょっと読んでおきましょうね。[所楽多聞にして、また不具足なり。いかなるをか名づけて「聞不具足」とする。]と。まぁこれ上と下をくっつけるようなことですね。信不具足、戒不具足と云った後に、沢山聞いてるのに聞いたことになっていかない。どういうことを聞不具足と云うんですかと云うています。ここちょっと読んでみましょうか。[如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じて未だ六部を信ぜず、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦にあたわずして他のために解説するは、利益するところなけん、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす、と。略抄]とあります。これは既に信巻に引かれている文章でありますけれども、もう一遍化身土巻にも引いておられる。これが仏法を聞きながら聞いたことになっていないあり方を痛ましいことだと教えて下さっているお言葉だと思います。一応言葉を当っておきますと、どんなことを名づけて聞不具足とするんですかと云うのに対して、「如来の所説は十二部経なり」とありました。これは如来の説法がその説き方に応じて12種類に分類されるんですね。だから十二部経と云われますが、十二分経とも云われます。分類ですから分けてと云われるんです。一番ストレートに説いたのがスートラと云います。契経とも云われますが、ちょっと近いところではジャータカと云うのがありますね、前生譚。これはお釈迦さまが説いたことではなくて、お釈迦さまになる前の時、どんな世界を観ておられたか。何を痛ましいと感じておられたかということを私たちに知らせるためのお経であります。有名なところでは『優婆提舎、論議経』とも云われます。議論を通して物事をはっきりさせて行こうというのが論議経ですね。あるいは偈文の形で説かれるものもあれば、比喩経と云われて譬えばかりがいっぱい出て来るものもあります。こんな形で釈尊が沢山残された説法を12種類に分けてまとめて行ったのが『十二部経』という云い方であります。今はその中味、どんなのが十二部経ですかと云うよりも、その中のただ六部だけを信じて残りの六部を未だ信じていないというあり方、まぁ半分と云えば半分かも知れませんが、半分分かったと云うのはどこで云えるんでしょうね。全部わかった人なら、私半分まで来ましたと云えるかもしれませんが、半分というのは誰が決めるんですか。要するに自分の分かった範囲で仏教のことを知っているというわけです。まぁこれ私なんかも本当に耳の痛いお言葉です。自分の見た範囲だけ掴んで、これが仏教ですと云っているわけですから、古田先生によく云われますが、大体仏教で地獄へ堕ちる罪で重いのは嘘つくことと云われますが、特に仏教に関わる嘘は大妄語と云われるんです、大嘘なんですね。そういう意味で仏法に関って説法しているような者は、地獄行き間違いなしやと古田先生にずうっと云われ続けて来ました。古田先生が舌の病気に罹られた時に、やっぱり仏法を謗ってきた結果かなぁと云っておられましたけれど、あんたらも気ぃ付けやと云われましたけれども、分かったように云っていること自体が持つ問題なんです。聞えたところを喜ぶというのは大事なことですよ。私はこう聞きましたと。でもこれしか知らないと云うのと、私これだけいただいていますというのとですよ、それで全部が分かったというのは大分違いますねぇ。私が聞いている仏法はこれですというのはこれでいい。私はこのように聞かしてもらってますと、今度は対話が始まりますよね。あなたはどう受け止めておられますかと、そこで皆仏法を聞くお仲間になるんじゃないですか。半分しか聞いてないのに分かったようなつもりになって、これが仏教だと云うたり、挙句の果てにはお前の受け止めは違うと云うとすれば、これは私こう聞かせてもらいましたと云うのと話が全然違いますよね。何を云ってるかと云えば聞こえていない、あるいは知っていないことがある、これを促がすための言葉やと思うんですね。聞不具足はつまらんから徹底的に頑張れという話と違う。どれだけ勉強を重ねてみても全部というわけにはいかんでしょう。なぜなら同じお経をいただいても自分の心の状態によって、ものすごくいただける時と全然届かない時がありますよね。ものすごくいただいた時の状態で、あ、仏教分かったと云いそうですが、状況が変ればなんであんなに感動したんだろうかということもあったりする。感動が悪いと云うんじゃないですよ。それで全部だと思ったらいけないということです。聞いていないことがある。それを知らせていただくお言葉やと思います。次に[またこの六部の経を受持すといえども、読誦にあたわずして他のために解説するは、利益するところなけん、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。]聞いたところのお経、まぁまぁ半分であっても受け止めて、たもったとしましょう。しかし「読誦にあたわずして」本当に読み通すことが出来ていなくて、自分の読んだとこだけの話なんですが、それを他のために説いていく、分かったふうにしていくんですね、これは利益するところがない。このゆえに聞不具足と云うのだと。これもある意味で人に仏教を教えてあげましょうかというのは親切かも知れません。しかしさっきから云うてるように自分がいただいたところであって、それが相手にどう届くか、それは別問題ですね。親鸞聖人の云い方で云えば「愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々」という言葉が歎異抄にありますね。私はこういただいていますと。しかしそれはあなたが受け止めるかお捨てになるか、これはお一人おひとりがお決め下さいと。そこまでしか本当は云えないんじゃないですか。これが仏教だからあんたのために云うてやろうか、仏教を説いて話してあげようかと、そんなこと越権行為ですね。そんなことが出来るのは仏さまの教えの力、仏のはたらきであって、人間のできることではない。これも教化、人のために説いてあげる、そんなことが出来るものなのかということを戒めて下さっているお言葉なんですね。更にもう一つ、これは先程の言葉とも重なりますが、[またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす、と。]こういうふうに云われる。これはやっぱり自分の聞いたところを、論議というのは事実を明らかにするような対話ということじゃないでしょうね。議論に勝ちたい、そういう論議でしょうね。議論のための議論。だからその次に勝他と書いてある通り負けたくないということになっていく。それによって自分の利益を得たい。更にはそれ以外の諸有、我々のさまざまな欲求ですね、有と云うのは迷いのあり方です。迷いのあり方を膨らませていくんですよ。我々の諸要求を満足させるために読んで行く、それは聞不具足だと云われています。これが最後の押えの言葉になっているわけです。ここに集約する形でずうっと述べてきた信不具足の文がまとめられていくということになっていくと思います。信不具足の金言 聞不具足の邪心
前にもお示ししていたことですが、聞不具足というのは信巻に既に引かれておりまして、場所を確かめておきますと240頁の2行目に引かれております。ここは聞不具足ということで挙げておりますけれども、基本的にはその直前に「聞其名号 信心歓喜」というお言葉があって、これを確かめるためにここに聞不具足ということが云われているわけです。いわば「聞其名号」ということと「聞不具足」ということとを対比させる。こういう思いが宗祖にあったに違いないと私は思っています。ですからこの文脈で云うと、「聞其名号」ということをもう一遍次に解説してますよね。8行目に[しかるに『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。]これが聞くということだと云うわけです。これと対比する形で聞不具足ということが云われています。信不具足の文についても既に引かれている部分があります。これは230頁でしたね。科文番号46のところです。ここに信不具足の文章がありますね。まぁこれは信楽釈と云って、信心の中味を確かめる部分に置かれているお言葉であります。この二つを関係させて親鸞聖人がご自釈を付けておられるところ、そこを見ておきたいと思います。信不具足ということを承けて、聞不具足ということを云う前にある文章です。237頁6行目、「欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。」とこう云ってるんですね。これは菩提心について述べられた結論のところにあるんですが、ここでは阿弥陀の浄土を求めるすべての人よという意味で、出家の道も在俗の人たちも、浄土を願わんとする者はみな深く信不具足の金言を了知せよと。これは信じたつもりで信じたことになって行かないあり方を押えて下さる言葉です。それをしっかりと知って下さいと。それを通して永く聞不具足の邪心を離れるべきなりと云われる。皆さんどうですかね。私はこの信不具足の金言と聞不具足の邪心というのは、あまり区別せずに読んでおりました。しかし親鸞聖人は分けてますよね。信不具足の方は仏からの呼びかけの言葉、金言だと云い、それを通して聞不具足の方は離れるべき邪心だと云っている。だから信不具足の邪心とは云っていないのです。ですから信というのは我々が掴んでしまえると云うよりは、ある意味で聞不具足というところが一番具体的な問題だと云おうとしているように思います。聞不具足はやっぱり邪心として形をとるんです。さっき読んだように分かっていないのに分かったところに腰を下ろします。しかも、人を救ってやるというような、いいことをしているつもりで人に滔々と仏教を語っていくんです。結果的には誰よりも一番知っているということを威張る、そこへ落ちて行くわけです。これは邪心だと明確に云って、それを離れなさいというのがこの言葉です。そういうことを私たちに気づかせてくれるお言葉として信不具足の金言を挙げる。仏の教えを信じているつもりのところに起る問題がある。だから信不具足というのは、云ってみれば私たちが掴めるという話じゃなくて、聞不具足の邪心を離れるところにいよいよ仏の教えに立ち返っていく他ないのです。そう云うふうにこの二つをどう読むかというときに、邪心という言葉が大変厳しいお言葉として出ている。それを見ておきたいわけであります。それで353頁へ戻りますと、いま挙げたような問題を長々と親鸞聖人は涅槃経の言葉に依りながら述べた上で、それを破って下さる具体的なおはたらきを次に善知識として見ていくと云う流れになっています。最後の行だけ見ておきますと、「また言わく」から始まっています。これも何回も云いますが、教行信証はこんな改行していません。親鸞聖人の坂東本は続いています。だから「聞不具足とす、と。略抄」とあって「また言わく、善男子」というふうに続いているわけです。段落を設けていると切れているように見えますが、実はこれくっ付いている。そういうものとしてここを見て行きたいわけです。「略抄 また言わく、善男子、第一真実の善知識は、いわゆる菩薩、諸仏なり。」こう云われる。これが今日始めに振り返って見ておきましたが、「一切梵行の因は善知識なり」とある、そこと響き合ってますよね。つまりどうやって迷いを超えて行くかと云うたら、やっぱり善知識に依らなきゃならんということです。信不具足、聞不具足、戒不具足というのは、ここに私たち落ちて行くわけですが、それを超えさせる第一の善知識、これを「第一真実の善知識は、いわゆる菩薩、諸仏なり。」と、こういう言葉で善知識の中味を確かめていくことになっていくわけです。ですから、一番初めに申し上げましたが、この一段、我々がいかに信ずることが難しいかと云うあり方を述べているのも確かです。しかしだからこそ善知識のおはたらきが大事なんだ、善知識に遇わない限り、私たちはこれらの不具足の状態に止まっていくということを出られないですね。私に都合の悪い人は一番大事やということですね。一所懸命に関ろうとしてもそれが届いて行かない。そこにこちら側のものの見方、考え方を問うて下さっているわけです。私の例で云えば、ボクも私の話を聞いて下さる学生は大好きです。五遍も十遍も云うてもなかなか頷いてくれない学生には、何遍云うたら分かるんやと云う気持ちが湧いてきます。それはその学生の問題と云うより、私の云い方では届かない、もっと云えば私の受け止めでは響かないということを云うてくれてるわけです。その時に十分に届いていないということが見えて来るわけです。どう読んだらいいのか。そうすると共々に仏の教えをいただいていくお仲間ですよね。自分の分かったことをスラスラ分かってくれたら疑問さえ起って来ない。疑問を呈して下さる、届かないと云う事実がもう一遍私に、あぁ聞えてなかったんやと、読めてなかったということを確かめさせて下さる大きな大きなお励ましになるわけでしょう。でもこれもいつも云いますが、その学生に向ってキミは諸仏だとはボクはなかなか云えません。そんな云い方はしませんが、どうやって共々にいただいて行けるかと云うことは実際のことです。そうやってお仲間として歩んで行くことが親鸞聖人の仰る周りの方々との関係が変って来るということやと思います。
今日もまただいぶ繰り返すことになりましたが、一応この涅槃経の不具足の文までは読んだということにして、後次にそれを超えさせていく善知識のところへ入っていきたいと思います。