『教行信証』の化身土巻を読む(34) 一楽 真 師
2019/ 01/25
観経疏定善義の文
前回まではお経の文章のところは読み終わって善導大師の釈文、経論釈と云いますが、仏の説法であるお経、それから菩薩のお書きになられた論、これはお経の心を菩薩が述べて下さった論、そして経・論についての釈、これはそれ以外の方々がまとめられたものです。経論釈と呼んでいますが、経文の引用を終えられたあとに今度は善導大師の言葉を引いておられる、そこのところを読みかかっていたわけであります。少し長い言葉が続きますが、前回見ておりましたのは聖典348頁から349頁のところですね。後ろから4行目(定善義)と書いてありますが、観経の定善十三観の中の真身観と云う、まことの仏のおからだ、仏の身を観ずる、その一段についてのところであります。その部分、親鸞聖人は長い長い善導大師の観経疏から、これこそ20願のお心だと、あるいはお釈迦さまがそれに基づいて我々に称名念仏一つを勧めて下さる部分だと抜き出して来られるわけですね。これどれだけ読んでおられたらこんなことが出来るのかということを思います。まぁここにお釈迦さまが大経・観経・阿弥陀経に説かれたお心を善導大師が解釈するところです。折角ですから一回読んでおきます。「光明寺の和尚の云わく、自余の衆行は」念仏以外の沢山の行は「これ善と名づくといえども、もし念仏に比ぶれば」念仏に比べてみると「まったく比校にあらざるなり」比べもんにならんのだと、こう仰ってますね。「このゆえに諸経の中に処処に広く念仏の功能を讃めたり。」沢山のお経の中にあちこちで詳しく念仏のすぐれたはたらきがほめられている。で、いくつか挙げられて行きますが、「『無量寿経』の四十八願の中のごとき」と、ここは経文を引いておられませんが善導大師がまとめたお言葉ですね。「ただ弥陀の名号を専念して生を得と明かす」と。阿弥陀仏の名号を専ら念じて往生を得ると明かされているではないか、ということですね。そして「また『弥陀経』の中のごとし」と云って[「一日・七日弥陀の名号を専念して生を得」と。]これは若一日若二日という、あそこですね。あそこをこういうようにまとめて、それ以外のことは云われていないと云うわけです。[また「十方恒沙の諸仏の証誠虚しからざるなり。」具体的には阿弥陀経には六方の仏さまが出ますが、六つの方角に限られると云うわけではないという意味で、ありとあらゆる方角ということで、十方と云ってますね。「諸仏の証誠」誠であることを証しするということです。ここ「誠」の字にわざわざ注番号が付いてますが、親鸞聖人は両方お書きになるんですね。ここでは証誠、誠であることを証すという字ですが、別のところでは、称して成就するという意味で「成」の字を使っておられるところもあります。細かいことですが両方あるということです。お書きになるときには思いと云うかね、字に託された意味を気にしておられるわけですね。まことであることを証しするという意味もありますが、それによって我々の往生を完成するという、そこに成就があるということを証しすると。もっと云えば、証しすることによって衆生の往生を成就するという意味もあるんでしょうね。まぁこれがお書きになる時、時で書き方が違うということがあります。これが弥陀経の中に説かれているということですね。「またこの『経』(観経)の定散の文の中に」と。観経は基本的には定善と散善、善根を積むことを勧めているわけですが、その中に[ただ「名号を専念して生を得」と標す。]とあります。観経は一応善を勧めておる、善を積みなさいということを云ってる経典だけれども、やっぱりその中で阿弥陀のお名前を専ら念ぜよということが云われていると。で、まとめて「この例一にあらざるなり。広く念仏三昧を顕し竟りぬ、と。」とこうあります。いろんなことをお経は云うているようだけれども、要は称名念仏にあるということ。阿弥陀の名を念ずる、ここにあるんだということがお経に云われているということを善導が確かめている、という文章から始まっておりました。観経疏散善義から第一文 諸仏証誠の念仏
前回もう一つ散善義の文章も読んでいましたね。散善義というのは観経で云うと終りの方でありますが、上品上生から始まって下品下生まで9通りの人のあり方に応答しながら、上品上生にも往生の道がある。中品にも道がある、下品下生に至っても名号一つで助かって行く道があるということを順々に説いていく、そういう部分ですが、ここはまぁあんまり繰り返すといけませんけど、上品上生の部分に出てまいりますが、観経全体に通ずる三心釈というものです。これを善導大師は非常に大事にしておられます。称名と云いますけれども、口から音を出すという話じゃなくて、そこには必ず信心が備わっていると云うんですね。だから信心なしに音だけ出せば助かるんでしょうという、そういう念仏じゃないんですよ。南無阿弥陀仏というところには、その阿弥陀の世界に頷いているということが必ずある。信心ぬきの称名ということじゃないんですね。明日、また私は学生たちが卒業論文を出してくれまして試問をするんです。4人ほど当たっているんですが、その中の一人が書いていました。念仏で助かると云うけれども、やってみても助からんと書いてありました。なるほど君は念仏をどう思うとるんやと、明日聞いてみんといかんなぁと思っているんですけど。でもそれは彼だけじゃなくて、念仏したら助かると云えば音を出せばなんとかなると思う、あるいは目の前のことが好転するように、状況が良くなるように思う。それは無理ないことですよね。しかし善導大師はその辺をとっくに見抜いておられて音を出せばなんとかなるという話じゃないと仰る。そこには阿弥陀の世界に頷くということがある。と云うことは助かり方も違いますね。声に出せば都合のいいことが舞い込むという話じゃない。逆に都合の悪いことを取り除いてもらえるという話でもない。阿弥陀というのは都合の良し悪しを超えたところにも、なお道はあるということでしょ。自分の思い通りにならないところにも、なおも道は開かれると云う助かり方ですよね。ですから安田先生はいつも仰ってましたけども、分別からの解放だと仰る。つまり、ああでなきゃいかん、こうでなきゃいかんということから解放されるのであって、都合のいいことを手に入れて助かるというようなことではない。それならまた助けてもらわんならんと云うておられました。安田先生はそれを注射の譬えで云うておられましたね。一本打ってもらってああスッキリしたと云うても、調子が悪うなったら、また打って下さいと云わんならんと。それは対症療法的には無駄だとは云わない。しかし根本から助かったというわけにはいかんだろうと仰ってました。繰り返しますg、対症療法を否定するわけじゃないですよ。辛いどん底に落ちている時には慰めてもろうたり、癒されるということも大事です。しかし根本の問題がはっきりしなかったら、それはまたもう一本注射を打って下さいということになるんじゃないかという云い方をしておられた。やっぱりこうでなきゃならん、ああでなきゃならんという分別から解放される。あるいは執われから解放される。これが阿弥陀の救いの中味なんですね。ですから念仏して助かると云うけれども、私たちが思ってるような助かり方じゃないわけです。でもそれを始めっから云わずにとにかく念仏せよと。そしたら助かるからと仰って下さっている。それ以外の行は不要であると。善根功徳を積まなくても大丈夫だということを我々に勧めておられるのが、念仏一つというところに立ってほしいという呼びかけなんです。で、ここのところは「三心釈」の中の「深心釈」であります。特に2番目の「二者深心」、これは前回大分お話ししましたので繰り返しませんが、これが信心そのものを表わすんです。深心とは深く信ずる心だと善導大師はいいますね。で、7つ、その内容を表わす中で、ここにひからてあるのは第4番目のところでありました。一回だけ読んでおきますと、349頁3行目[また云わく、また決定して「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して、決定して「生を得」と深信せよ。」とありました。阿弥陀経の中に十方恒沙の諸仏が一切凡夫にこれが大事だよと証しして、勧めて下さっていると云うんですね。阿弥陀でないと助からんぞと。阿弥陀の浄土に出遇わないとあなたは助かり得ないんだということを云うて下さる。それによって「決定して生を得と深信せよ。」とここは読んでおられる。これ実は同じ言葉が信巻に引かれておりますね。これも前回見てもらいましたが、ちょっとだけ読み方が違います。216頁でしたね。2行目です。ここは7つの深心のうちの6つを親鸞聖人は全部引くんですが、ここでは真実信心の内容を表わす言葉として読んでおられる。読んでみますと[また決定して「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得」と深信するなり。]と書いてあります。「深信するなり」ですから、ここはしているんですね。こういうふうに深く信ずることが起っていると云った方がいいんでしょうか。だからこれは今から深信しなさいという命令じゃなくて、いただけたということなんですね。あぁそうだったのかと。弥陀経に説かれているのはこういうことだったんだと。あるいは十方恒沙の諸仏はこういうことを勧めて下さっていたんだということを深く頷いたという内容として、こっちは読むもんですから、「深信するなり」と書いてあるわけです。化身土の方はそっちに引張るため、導くための言葉ですから、最後のところが「深信せよ」という呼びかけの言葉、もっと云えば命令の言葉として訓点を付けておられる。同じ文章を引かれるんですけれども呼びかけしてあるのと、いただけたということは大分違います。例えば念仏一つでもそうじゃないですか。「念仏せよ」「南無阿弥陀仏を称えろ」というお勧めですわね。しかしいただけたときには「ハイ、私は念仏によって生きて行きます」と。同じ南無阿弥陀仏でも、阿弥陀仏に南無せよという呼びかけと、ハイ阿弥陀仏に南無して生きて行きますとでは、同じ南無阿弥陀仏でも言葉が違いますよね。だから同じ文章がどうして片方は真実信心の巻にあって、もう一つが化身土にあるのかとちょっと戸惑いますわね。しかしこれは勧める言葉と頂いた言葉というふうに、両方の意味を見ておられるということなんですね。ま、この辺が親鸞聖人のお経の読み方のすごいところでありまして、今日の後のところでも関係しますが、真実の内容を表わすところに引く言葉と、呼びかけの方便、お勧めの言葉として読むということがやっぱりあるんですね。で、いま信巻を開いていただいてますので、ついでに見ておきますと217頁1行目の下の方に乃至とあって「釈迦、一切の凡夫を指勧して」という、ここから長い文章、これもまた、こっちは真実信心の内容を表わす言葉として引くんですね。これが化身土にもまた引かれるんです。どこまで引かれるかと云うたら、後ろから4行目の[これを「「人に就いて信を立つ」と名づくるなり。」とここまで。まぁ10何行に亘ってほぼ同じ部分を引くわけです。じゃぁなぜ片方は真実信心の内容を表す言葉でもう片方は化身土巻なのかということをお話したつもりなんですが、ひと言で云うならば、これ人に遇う大事さなんですね。「就人立信」と云われています。人に就いて信を立つ。真実信巻の方は人にお遇いして、あ、これだったかということを知らされた、という内容、これを語っていると云っていいでしょうね。親鸞聖人で云えば、法然上人にお遇いして初めて阿弥陀の世界の大事さを知らされたわけでしょう。これも何遍もお話ししてますが、比叡山の上にいる時から南無阿弥陀仏という言葉を知ってますし、それから比叡山は朝題目夕念仏と云われるぐらい、朝は南無妙法蓮華経のお題目、夕方のお勤めは南無阿弥陀仏、特に阿弥陀経あるいは観経をいただいていく。これが行われえいるわけです。だから南無阿弥陀仏について知らんはずないんですね。実践もしておられるわけです。ところが山の上の念仏を、山を下りて法然上人に教えられた念仏とは違うんですね。言葉は一緒でも。どこが違うかと云ったら山の上の念仏は沢山の修行の中の一つです。あれもやりこれもやる。その実践の中に南無阿弥陀仏と称える、あるいは観経に出る心に阿弥陀を思い浮かべるような行もしていくわけです。でも法然上人はその積み上げていく、我々がステップアップしていく行ではなくて、称える度に阿弥陀に南無しなさいということを聞いていく念仏なんですね。阿弥陀の世界を忘れて、また分別で苦しんでいるんじゃないかということを呼びかけられる念仏と云ってもいいと思います。だから何遍称えても、それは自分がましになったとかランクアップしたという話じゃないんです。何遍称えても阿弥陀の世界を生きよという呼びかけをいただきながら生きていく念仏でありました。だからこれは勧めの言葉として化身土巻は引きますが、頷いた言葉として信巻には引かれる。これ非常に興味深いところであります。これ全部読んでいるとまた同じ話をしてしまいますので、ちょっとだけ見ておきますと349頁4行目に、さっきの阿弥陀経のお勧めをいただきなさいという呼びかけの言葉があって、その後に「諸仏は言行あい違失したまわず。」とこういうことから善導大師は解釈を加えて行きます。沢山の仏さまがいらっしゃるけれども仰ることもなさることも決して食い違うことはないんだと云ってるわけです。まぁ仏さまというとなんかそれぞれの仏さまに得意技があったりね、たとえば病気なら薬師如来とか、それから何でも聞いて下さるのは観音さまとか、そういうイメージを持ちますけれども、その仰ることもなさることも決して食い違いがない。ましてやどの仏さまが上でどの仏さまが下だということも決してない。仏さまを比べるのは我々の損得勘定でしょうね。計算高い心がご利益を比べたりするんですが、諸仏の願いというのは貫かれているという、ここが大事なんですね。それでその中味を例を挙げておりますが、「たとい釈迦、指えて一切凡夫を勧めて、この一身を尽くして専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるるは、すなわち十方の諸仏ことごとくみな同じく賛め、同じく勧め、同じく証したまう。」と云ってます。お釈迦さまが勧めておられることによって我々が専ら念仏してそして浄土に往生していくということになれば、それは十方の諸仏が一人残らず同じく讃めて同じく勧めて下さり同じく証して下さることだと云ってるわけです。「何をもってのゆえに」なぜか、「同体の大悲のゆえに」と。仏さまは体を同じくしている。大悲に立っておられるんだと。苦しむ者は決して見捨てない。何とか助け遂げたいという大悲に立っておられるから、仰ることもお勧めになることも一つだと云うんですね。大変大事なお言葉です。「同体の大悲」というお言葉。そこに立って「一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり。」とこうありました。だから一人の仏さまに教えられるということは一切の仏さまによって教化せられたことと同じなんです。一切仏の化を受けるということ、それはそのまま一仏の教化に全部あるのですよ。だから仏さまをね、沢山横並びにしたり、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、そんなことせんでもいいんですわ。仏さまの世界はほんとにお一人の仏さまのことで迷いを超えていくことが成り立てば、そこに一切の仏さまの願いも満足するということです。それを中味として押えておられるのが次の言葉です。[すなわち『弥陀経』の中に説かく、乃至 また一切凡夫を勧めて「一日・七日、一心にして弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ん」と。]これは先程引かれているのとほぼ同じですね。弥陀経は一日・七日、どんな時もどんな日も一心に阿弥陀の名号を専念して下さいということを勧める経典なんですね。そうすれば必ず往生を得て迷いを超えることが出来るからと云って、お釈迦さまがお勧めになっているだけじゃなくてありとあらゆる仏さまの願いである、お心である、そういってる文章なんです。続いて[次下の文に云わく、十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦を賛めたまわく「よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪無信の盛りなる時において、弥陀の名号を指賛して、衆生を勧励して称念せしむれば、必ず往生を得」と。すなわちその証なり。]とお釈迦さまをほめているのですね。ちょっとややこしいかも知れませんが十方の諸仏は阿弥陀を褒めておられる、これが阿弥陀経の大きな主旨なんです。しかし阿弥陀をほめるだけでなくて、今度はお釈迦さまをほめると書いてあります。なぜか、と云ってらその次です。「また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏れて」と云うんですね。「信ぜざらん」つまり衆生は疑い深いんですね。お釈迦さまが一人くらい云うとっても他の仏さまはまた違うことを云うかも知らんというふうに思うからですよ、ということを予め見抜かれて、十方の諸仏はお釈迦さまのお仕事をほめておられると云うわけです。それが[すなわち共に同心・同時におのおの舌相を出だしてあまねく三千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、「汝等衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。」]と云ってます。この中にも大事な言葉がありますね。罪福の多少、時節の久近を問わないと云ってます。私らこれに引っ掛るわけでしょ。罪の分量あるいは福徳の分量、これに執われるわけですよ。あんまりいいこともしてないしなぁ、あるいは仏教に関ってあんまり聞法も出来てないしと云います。それはどこかで分量で助かると思っているからです。もうちょっとはっきり云えば自分の積み上げた善根功徳で救いが決まると思っているからです。これは前々回も見てましたけれども結局何を信じているかと云うたら自分の功績を頼りに救われると思ってるんですね。阿弥陀のお導き、阿弥陀のはたらきによって助かるんじゃないんです。自分を当てにしている。これは罪福を信ずる心とも云われていました。結局自分のやったこと、経歴、業績、こういうものを当てにしようとする根性であります。そういうものは一切問わないと云ってます。も一つが時節の久近ですから、長い間やって来たか、まだ最近駆け出しか、そういう話です。これもありますね、長いこと聞いて来たとか、何年念仏して来たとか、そういうものを誇りたくなる。そんなことは問題にならない。とにかく生きてる限りということで「ただよく上百年を尽くし」ですから、徹底すると云うなら一生の間という意味で、百年という満数が出てますね。百年の間尽くしなさいと。でも少ない方では一日でも七日でもとあります。一日だけだったらダメか、そんなことないんですわ。たった一日の念仏もっと云えばたった一声の念仏、そこにもいままで見ることもなかった広い世界が広がって来るんですね。阿弥陀との出遇いがあるからであります。それを「一心に弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。」こういうように云ってるわけですね。「必ず疑いなきなり」お釈迦さまがほめるだけではなくて、十方のありとあらゆる諸仏がこのことをほめておられる。これをまとめて[このゆえに一仏の所説は、一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを「人に就いて信を立つ」と名づくるなり。抄要]と。要を抜き出したと、要の部分を抜き出しましたと、略したところもありますと。こういうことを最後に断っておられますね。これをまとめて人に就いて信を立つということが「就人立信」という言葉で云われてきています。ここはアレっと思われる方もあると思います。なぜか。たとえば化身土巻のもうちょっと後にいきますと、お釈迦さまが涅槃に入られる時に「法に依りて人に依らざれ」と仰るわけです。依るべきは法であって人によってはならんと仰る。まぁこれは周りにお釈迦さまが入滅していかれることを悲しみ嘆く人がいっぱいいたわけでしょ、そういうお弟子さん方にあなた方を救うのは私が出遇った世界、法則であると云うんですね。私があなたを救うんじゃないと云う。これが法に依りて人に依らざれです。しかしそんなことを態々云わなくてはいけないのは、その法というものは人を通してしか出遇えないということもあるからなんですね。始めっから法を大事にしなさいと云って法をいただけるのであれば、あんな言葉残さなくていいわけでしょ。人を通さないとその法ということが分からないということがある。これがいま読んでいる第20願の問題で云うと善知識論と云うか、人に遇うことの大事さということが出て来ます。だから人というのはある危うい面もある。人を握ればですよ。この人が助けてくれると云って善知識だのみと云うてね、人にぶら下がることが起きるんです。しかしそうは云うても人に遇わなければ仏法と云うものに出遇いようがないんですね。だから仏法を生きておられる人に出遇う。それがさっき云うたお釈迦さまもその代表でありますね。でも私たちもそうではないですか。こう読んでいいと思うかも知れませんが、具体的にはどういう生き方になるのかということを見ないと仏法が自分と重なって来ないんじゃないですか。いくら素晴らしいことが書かれてあっても私には無理だ、で終るかも知れません。だから仏法とはその仏法に生きておられる人を通して周りに伝わっていくということがあるんですね。だからこの就人立信というのは、人にぶら下がる、あるいは人に甘えてしまうと云う危うさもありますけれども、しかしここからしか道は開けないという意味ではこの化身土巻にも引かれているだけじゃなくて、さっき云いましたね、真実信心を語る信巻にもこの同じ文章が引かれている。就人立信しかないんです。これに対する言葉として就行立信というのがあるんですね。これは善導大師が仰って下さっているんですが、行に就いて信を立てるんですから、たとえば実践を積み上げて行って、それから段々仏法に対する信心が育まれて行くというようなことです。親鸞聖人もこれを分けて、第19願のところに引いておられました。もう既に読んで来ましたが、具体的な実践目標を与えて、それによって仏法に対する信心を育んで行こうとするんです。これはものすごく分かり易いですね、私たちにとって。滝に打たれなさいとか、本尊の前に坐って瞑想しなさいとか、あるいはゴマを焚きなさいとか、写経をしなさいとかメチャ分かり易いです。でもそれはこれに執われるということがあるので、これはどこまでも私たちを仏法に導くための方便だということで、19願のところに親鸞聖人は引いておられたわけであります。念の為に云っておきますが、これはダメだと云ってるんじゃないですよ。ここからしか入りようがないです。やっぱり私たち日常の中で悩みを抱えれば、日常を超えたところに救いを求めますよね、だから日常の真只中に救いが開かれると思わずに、こんなだらだらした日常生活はダメだ、こんな価値観に呑み込まれたらダメだとか、非日常の世界をたもつことによって救いを求める。観経の韋提希もそうですわ。お城で大事件が起って無茶苦茶になった家庭、それを抱えた時にもうこんなところにいたくありません、私に救いを教えて下さいと云うわけです。お釈迦さまはそれに応答しながら始めに仏さまを観る、心を落ち着けて仏さまを観じなさいという教えをしますけれども、最終的にはどこに連れて行くかというと日常の真只中に実は救いがあったんだということです。ここをやめて助かるんじゃなくて、この生活の現場そのものが私が生きて行くかけがえのない場所であったといただける。特別なことをする必要はなかったんです。南無阿弥陀仏一つで日常を生きて行くということになるんですが、先ずはここから始まるんです。その意味で第19願の呼びかけもものすごく大事なんですよ。道を求めるなら、まずここからやれと。日常を温存したままで、ハイこのまま助けて下さいというじゃない。今までやっていなかったことに取り組め、頑張れと。ここから始まるんです。しかしこれは握るとエライことになります、私何年やって来たと思っているんですかみたいな。誰も出来ないような行をやりましたよと、もうここに腰を下ろす可能性があります。なかなかこれが破れない。これは親鸞聖人ご自身も20年やったという自負心、これがなかなか砕けなかったと思いますね。その時に法然上人という人に遇うた。ああここに生きた仏教があったかと。何年やったとか、どれだけやれたとかそういうことを比べる世界じゃなくて、ここに本当の仏教があるということを、今までやったことが砕ける形で出遇えたと思います。その意味で人に遇わないと仏法に遇えないということがあるんです。だから就行立信と就人立信は善導大師から云えば、それぞれ道に入っていく入り方の違いであって、ここにも道がある、ここにも道があるということでしょうが、親鸞聖人はそれを第19願と20願に分けるという云い方をしておられるわけですね。方便にもいろいろあるということです。方便と云うても一緒くたにできないですね。何か行をやらせろと云うたときには、ここから勧めるわけです。しかしその中味を突き詰めていくときには、仏法によって助かって行く道が開けた人に遇わないといけない、こういうことであります。ですから、さっきも云いましたけれど就人立信には危うさがあるんですよ。だって法然上人のお弟子にはいっぱいそんな人いるわけでしょ。ここにいればきっと大丈夫だという人もいるわけです。法然門下にいれば助かるに違いないという人もいるわけですよ。私たちはそういうのに弱いのかも知れませんね。有名な人のところに行きたい、助かったという人がいるところへ行きたい、そういうのあります。でもそれは人を通して仏に出遇うということがなければ、人に留まってしまうということも起る。そういう危うさはあるんですけれども、人に遇うことの大事さを云うのが就人立信という部分です。この辺前回お話ししていたんですが、後の方になると善知識釈というとね、善知識に遇うことの大事さをまとめて行く部分になります。後と云うても、そんなに遠くないんですが、場所を見ておきましょうか。351頁の後ろから2行目に『大本』と云うて大経が出て来ます。これ不思議な引用の仕方なんです。大体親鸞聖人はお経を引いたら次に菩薩の論が来て、そして釈文が来るんです。経・論・釈という順番に引く。ところがここは後ろから2行目にもう一本『大本』と云うてお経が出てくるんです。とすると、ここで主題の転換があるということなんですが、ご自釈も何もなしにもう一遍ここにお経を引くということは、ここの就人立信の展開から云えば、南無阿弥陀仏の本当のお心に出遇うにはやはり人に遇わないといけないということがあるからだと思います。[『大本』(大経)に言わく、如来の興世、値い難く見たてまつり難し。諸仏の経道、得難く聞き難し。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇い、法を聞きよく行ずること、これまた難しとす。]難い、難いと遇うことの難しさ、信ずることの難しさ、聞くことの難しさと出るわけです。でも難しいんだけれども、これしかないんです。そういう意味で如来、諸仏、菩薩、善知識という具合に出ますが、これがどうやって我々に出遇うことが成り立つかという問題をこの一段で云おうとしていると思います。それが次の頁の3行目に涅槃経の文章が長々と引かれるんですが、1行だけ読んでみますと[『涅槃経』(迦葉品)に言わく、経の中に説くがごとし、「一切梵行の因は善知識なり。一切梵行の因、無量なりといえども、善知識を説けばすなわちすでに摂尽しぬ。」]梵行というのは浄らかな行であります。もうちょっと云えば、迷いを超えて行くことが出来る行のことですが、その因、梵行になるための原因、まぁその基点を押えればということでしょうね、善知識だと云うわけです。で、いろんな浄らかな行の因は云われるけれども善知識ということを云えば、その中に全部おさまると。だから導いて下さる善き師、善き友も入れてもいいと思いますが、仏法に出遇っている方とのお出遇いがなかったら私たちには仏法をいただくということは起きないということを云おうとしている。お経を読んでいるからこれで仏教に近付いているんだろうと普通は思いますが。さっきから云うようにお経を読んだら読んだで私ほど読んでる者はおらんと威張ることが起るんです。それは阿弥陀の世界から一番遠いでしょ。あるいは私百巻写しました、それもすごいかも知れませんけど威張った途端にお経じゃなくて自慢の種になるわけです。なかなか厄介です。これもいつも云いますが、写さん方がいいという話してるんじゃないですよ。縁があれば、お経を写す、写経するというのはすごいことです。一文字一文字いただくことになりますしね、大変大事なことでありますが、残念ながら私たちは何かやったら必ずそれに執われるということが起る。それを砕いて下さるのが善知識なんです。親鸞聖人で云えば20年修行したということが吹っ飛んだわけです。まぁ全然違う方向を向いとったなぁと。ある意味で自分を高めるため、清らかな心になるために一所懸命だったんですが、その全体がオレは偉いということに傾いて行ってしまうんですね。仏さまの皆平等に助けるという世界からどんどん離れて行くことになって行きます。だから「一切梵行の因は善知識なり。」というここに「就人立信」がつながって行くことになります。人に遇わなきゃいけないんです、やっぱり。仏法に出遇っておられる方との出遇いなんですね。仏法によって助けられた人との出遇いです。まぁ厄介ですね、誰がそうなんですかみたいなことになり勝ちです、どうしても。そして善知識を一人に決めようとすることも起るわけです。例えば自分は法然上人に遇ったということが嬉しかったら、法然上人に出遇ったことを絶対化してお前はまだ出遇うとらんとか云うんですね。そら他の人は法然上人に出遇って仏法に出遇えるかどうかはまだ分からないです。パターン化できないんですよ。法然上人に出遇えば絶対大丈夫と云うわけにはいかない。だって法然上人に出遇ったことをまた自慢の種にする人も出てくるわけでしょ。オレは一番弟子だとか二番弟子だとかやり出せば、それは法然上人を通して阿弥陀の世界に出遇っているとは云えないからです。だから人に遇わなきゃいかんのですけれども、誰に遇えばいいのかなんて決められないんですよ。一言で敢えて云うとするならば自分の握っていた答えを砕いて下さる方、そこに善知識ということがあるでしょうね。逆に私たちの自慢の心とか威張る心とかをよしよしと云うてくれるような人は心地いいかも知れませんが、それは却って悪知識と云わんならんでしょうね。そういう意味で善知識というのは都合のいい人じゃないですよ。自分にとって本当に都合の悪いことを云うて下さる方やと思いますよ。悪知識の方が却って自分を悪の道に引張るという意味じゃなくて、よしよしあなたはエライと誉めて下さる。それが仏法からどんどんどんどん離れて行くことになりますよね。まぁそんな話を前回していたことでありました。それでそこを踏まえてちょっと繰り返しになりましたが、350頁に善導大師のまとめる文章がまた続いて行きます。全部で三文続きますね。では350頁の1行目から、先ず二つ読みましょうかね。「また云わく、しかるに仏願の意を望むには、ただ正念を勧め、名を称せしむ。往生の義疾きことは、雑散の業には同じからず。この経および諸部の中に、処処に広く嘆ずるがごときは、勧めて名を称せしむるを将に要益とせんとするなり。知るべし、と。」[また云わく、「仏告阿難 汝好持是語」より已下は、正しく弥陀の名号を付嘱して、遐代に流通することを明かす。上よりこの方定散両門の益を説くといえども、仏の本願の意を望まんには、衆生をして一向に専ら弥陀物の名を称せしむるにあり、と。]
観経疏散善義から第二文 下品上生釈
これは二つとも観経疏のお言葉です。どこかということを一応確かめておきたいと思いますが、科文番号81は観経の下品上生のところの註釈であります。観経のどこを善導大師が註釈しておられるかということを一遍見ておきましょうね。下品上生でありますので、聖典では118頁であります。ちょっと直接その部分を云う前に流れを見ておきたいと思いますが、下の段の前から5行目、ここから下品上生、下品のあり方が説かれてまいります。[仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「下品上生」というは、あるいは衆生ありてもろもろの悪業を作れり。]と。これは善を為して来た上品とか中品のあり方じゃなくて今まで傷つけ合うような悪業を作ってきたあり方、これも毎回云ってますが、悪といっても犯罪という意味じゃありません。警察に捕まるとか、そんな狭い範囲の話じゃありません、一所懸命生きている中に人を傷つけて行くということが起る。いつも同じ例ですみませんが親が子どもを育てる、これは一所懸命ですが、その時に子どもの芽を潰すということだってあるわけです。その自分の思いが叶わなかった時に、なんでこんなことになったんやと親も苦しむ。ほんとに人も縛り自分も縛るという、これが悪業ということなんですね。だから不真面目に生きとる人じゃないんですね。一所懸命なんですが、その中に傷つけ合ったり苦しめ合ったりということを作って来たというあり方なんですね。その次に「方等経典を誹謗せずといえども」お経を謗るというようなことはしていないんです、これが下品の中でも上生と云われる意味であります。後になると仏法なんか全く聞かないということも出て来るわけですが、ここではこういう方がどうなるかと云うたら「かくのごときの愚人、多く衆悪を造りて、慚愧あることなし。」と。お経を謗るまではいかないんだけれども、自分の生き方を反省する、これで良かったのかと振り返る。こういうことのないのを「慚愧あることなし」と云ってます。これが下品たる所以なんですね。ほんとに自分の生き方を振り返って改めて行くということがあれば、そこから善を積むこういうものがじゃァ終わりかというとそうじゃないですね。観経はここにも道はあると云います。それが「命おわらんと欲る時に、善知識の、ために大乗十二部経の首題の名字を讃むるに遇わん。」と。お経の中味じゃなくて、こういうお経があると。たとえば仏説無量寿経とかね、極楽を説いてるお経があるとか、そういうことを聞くわけです。題名を聞くんですね。これが大事だと云うて下さる。「かくのごときの諸経の名を聞くをもってのゆえに、千劫の極重の悪業を除却す。智者また教えて、合掌叉手して、南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、五十億劫の生死の罪を除く。」と。悪業も除かれるし、生死の罪が除かれるということが勧められています。だからこれ決して修行したわけではありません。お経の題名を聞くだけで、そして南無阿弥陀仏を称えるだけでと、こういうことです。その次の段のところ、これが先ほど化身土巻に引かれているところの直接の解釈の部分ですが、もうちょっと読みます。「その時にかの仏、すなわち化仏・化観世音・化大勢至を遣わして」とあります。阿弥陀仏が南無阿弥陀仏と称えている人のところに化仏と化観世音と化大勢至を遣わしたとあります。詰まり形を取った阿弥陀仏、それから形をとった観音勢至が現れて来るということですね。で、[行者の前に至りて、讃めて言わく、「善男子、汝仏名を称するがゆえに、諸罪消滅す。我来りて汝を迎う」と。]仏さまの方が迎えに来て下さるんです。云いたいのは、この人はなにか善いことを積み上げてとか、お経を沢山読んでとか、そういうことをして仏の世界に迎え取られるんじゃなくて、仏の方が迎えに来て下さると書いてあるんです。ここの部分を善導大師は先程のように解釈を加えておられるんです。我々から仏さまの世界に近づいて行くんんじゃなくて、仏の方がこっちに近づいて来て下さると。]その部分です。ここを善導大師はさっきのように云うんですね。戻ります350頁。まぁ前後がないんで分かり難いかも知れませんが、その一部分を親鸞聖人は抜いて来てるわけです。「また云わく、しかるに仏願の意を望むには、ただ正念を勧め、名を称せしむ。往生の義疾きことは、雑散の業には同じからず。この経および諸部の中に、処処に広く嘆ずるがごときは、勧めて名を称せしむるを将に要益とせんとするなり。知るべし、と。」とあります。ここに南無阿弥陀仏と称せしむる、そこに仏が迎えに来て下さるということがお経に説かれていましたね。そこを読めば仏の願いのお心、これは阿弥陀仏の本願のお心ということです。それから正しく阿弥陀を念ずることを勧めている。その時に名を称える、これによって念じさせるわけです。心を落ち着けてからとか、心を浄らかにしてからなんて書いてないんです。名前を称えればそこに阿弥陀を念ずることが起きるんです。これは実践していただいたらと思いますが、私たちどうしてもね、日常の世間の真只中を生きてる時にはいろんなことが耳からも目からも入ってきますね、その情報に右往左往している。あっちが安い、いやこっちの方がもっと安いみたいな。その時に南無阿弥陀仏がひと言、本当に出て下されば、またこの善し悪しに振り回されとったとか、高いか安いかに心を奪われていたとか、もっと今きついのは役に立つか立たないかということで人を計っていたのが見えるということがあります。私が心を落ち着けて阿弥陀を念じましょうと決めての話じゃなくて、南無阿弥陀仏が私たちを愚かなことになっていやしないか、比べなくてもいい世界があるぞということを呼び起こす力を持っているんですね。これが仏名を称する、ここに念仏ということがあるんだということを云っておられるわけです。普通は先ず心を落ち着けて、雑念を払ってからと思うじゃないですか。そうなるといつになったら念ずることが出来るのか分からないんですよ。雑念があってもいいんですわ。いいというよりあるんですわ、無くならない。でも南無阿弥陀仏が出て下さるところに、あぁまた愚かなことになっておったということを知らされる、気付かされるということが起る。それをここに善導の言葉で云うと「ただ正念を勧め、名を称せしむ。」そこに「往生の義疾きことは」と云ってるでしょ。迷いを離れて阿弥陀の浄土に生まれて行く、それがどれほど早いかということは「雑散の業には同じからず」と云います。雑散というのは雑業とさまざまな散善を指しています。雑業であるとか散善であるとか、それは何かを積み上げて行くことであるのならば、結果的には例えば百ならば百やらないといけない時に、まだ50ですとなるわけでしょ。まだまだですわ、先長いですわという話です。ところが南無阿弥陀仏はその時に迷いにドップリ漬かっていたものが阿弥陀の世界に引っ張り出される、出遇わしていただけるということが起るわけです。これが比べもんにならんということを雑散の業には同じからずと云い、「この経」は観経を指しますが「および諸部の中」沢山のお経の中に「処処に広く嘆ずるがごときは、勧めて名を称せしむるを将に要益とせんとするなり。」と云ってます。要の利益だと云うんです。他の行を積み上げろなんて云わない、お経をたくさん読めとも云わない。南無阿弥陀仏一つでいいという、これを称名を勧める仏願のお心、更にはそれを我々に云うお釈迦さまのお心ということになるわけであります。これが次に釈尊の意図を確めるものとして云われますが、一遍休憩しましょうか。観経疏散善義から第三文 流通分
いま350頁の3行目まで見ました。これが下品上生のところの釈文をここに引いているということでありますが、その次が流通分のお言葉でありましたね。これも念の為に見ておきますと、122頁に出ているお言葉であります。これは経文の引用として既に引いてれるところでありますが、後ろから5行目ですよね。[仏、阿難に告げたまわく、「汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。」]という言葉です。ここで阿難が未来の人々にどうやってこの法の要をたもっていったらいいですかということをお釈迦さまにお尋ねして、それに対してお釈迦さまがお答えくださったお言葉ですね。まぁこれ阿難は未来の人々、もうちょっとはっきり云えばお釈迦さまが入滅なさった後の仏教の課題を担う存在ですね。実際仏教教団ではそういう役目を為したわけです、如是我聞とね。如是我聞というように、私はこのように聞きましたと阿難が云ったからお経はこれだけ伝えられてきたといことがあるわけですが、そういう意味で阿難の名前は仏滅後の衆生のためにお経を持(たも)っていく役割を表わす名前だと云ってもいいわけです。ついでですけど、もう一つ大きな流れで云えば、弥勒菩薩が大乗経典では大事にするお名前ですよね。これはお釈迦さまが亡くなられた後、遠いとおい未来の衆生の救いということを弥勒菩薩が引きついて行くという時に出る名前です。お釈迦さまに直接遇うた人が阿難であるのに対して、弥勒菩薩はお釈迦さまに遇うたわけじゃない。次の時代、全く別のところでもお釈迦さまのお心を引き継いでいく人が出て来る、こういうお名前であります。これは大無量寿経にお釈迦さまのお仕事を弥勒が引き継いでいく、そんなところに名前が出ますね。そんなときにも阿弥陀の名前を聞くというこの一点で語られますが、まぁ本当に大経と観経を託す相手は違いますけ れども課題は重なってますね。阿弥陀の名前、これによって成り立つ仏道なんです。これを注釈している部分、これが今の善導大師の言葉であります。350頁の4行目、読みますと[また云わく、「仏告阿難 汝好持是語」]汝好くこの語を持てという言葉ですね。「より已下は、正しく弥陀の名号を付嘱して」と。これ託すわけですね、阿難に託して「遐代に流通する」遐代というのははるかな時代というような意味です。はるかに遠いという意味でして、そういう時代のためにこの教え、人間が迷いを超えて行く道を流通させていきたいと云うんですね。これ流通(るずう)と云います。お経は必ず最後にこの流通の願いを語る部分が置かれますが、これが遠い未来に流通させていくという、それがこの言葉によって証しされているんだと善導は読むわけです。ですから「上よりこのかた定散両門の益を説くといえども」観経は定善散善の利益をずうっと説いてきたわけですが、しかしながら「仏の本願の意を望まんには、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり、と。」と断言していくわけであります。このお釈迦さまのお言葉、これがお釈迦さまの願いでもありますが、更に根源に遡れば、阿弥陀仏が本願を立てられたそのお心を望めば、迷い苦しむ衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむる、これ以外のことは我々に要求していないですね。阿弥陀の名前を称えて生きて行けと。これが本願の要なんだということを云うわけであります。これもお経の言葉は既にもう348頁に引かれてましたけれども、これを善導の言葉でもう一遍確かめているということであります。でもこれさっきからお話ししていることで云えば、私たちの中にやっぱり、何で念仏一つなんやと、称名で助かるというのは簡単すぎるという思いがずうっとあるわけでしょう。そういう私たちをなんとか念仏一つ、それ以外は何も比べる必要のない、積み上げる必要もないというところに引張るために、いろんな方々のお言葉を親鸞聖人は繰り返し引かれるわけであります。親鸞聖人から云えば、この方もあの方もここまで云うて下さっていると云うふうに聞いておられるお言葉だと思います。親鸞聖人が誰かに云うてやる言葉でなくて、本当に聞いておられる言葉がこんなふうに並んでいると思いますね。で、ここに出るもので云うと「専ら」という言葉、「一向専称弥陀仏名」というね、専らという言葉、これ以外のことは不要であるということですね。このこと一つということですが、これ第20願の問題の時にもうお話してきましたけれど、形は南無阿弥陀仏一つのように見えて、そこにやっぱり念仏するにしてもお経を読んでからにした方が値打ちあるんやないかという心が雑るという話してましたね。これを助正間雑と親鸞聖人仰います。形は南無阿弥陀仏しているようなんですが、オレの念仏は人より上だという発想です。これが専修念仏の中に潜む人間の自力の問題なんですね。もう一つはあれこれはしてないかも知れませんが、その全体が罪福を信ずる、自分の直接的な利益、あるいは願い事を叶えるための念仏なら、これもやっぱり形は専修念仏でもいろんな心が雑っているということで雑心というふうに云われる。さっき途中でもご質問あったんですが、この20願の問題というのは本当の意味の専修念仏が何かを明らかにする、そういう引文が続いていると思いますね。それはどうしてかと云えば、法然上人のお弟子には形は専修念仏という人がいっぱいいるんですよ。何万回称えているという人がいる。しかしその実は心根が問題なんですね。オレの念仏は人よりも上だという、いろんなことを経験して来たから自分を誇る念仏もある。あるいはその念仏によって現世の利益を求めるような念仏もある。それは本当に阿弥陀を念ずるとは云えない、阿弥陀の世界を頂いているとは言えないということを炙り出すということが要るんですよ。それを通して誰の上にも平等に成り立つ救いを確かめて行こうとなさるんですね。さっき途中でご質問のあったのは、ここに出て来る言葉、基本的に法然上人が選択集でずうっと引いておられるんですね。まぁ場面はあっちこっち違いますけれども、念仏を勧めるお言葉として引いておられる。でも親鸞聖人はそれを第18願に念仏しなさいよというふうに云う言葉と第20願のことと分けていかれるわけです。法然上人は第20願と仰らないわけです。とにかく念仏して往生してくれと、阿弥陀の世界を願ってくれというお勧めなんですね。しかしどうしてもそこに南無阿弥陀仏しておりながら自分の都合の良し悪しで利益を求めるようなことが雑って来るもんですから、それは本当の意味の専修念仏とは云えないということを云わなきゃならん、それが親鸞聖人の抱えた課題ですよね。法然上人のお勧めをいただいたからこそ、法然上人は決して声に出して云うとけばいいとか、回数を重ねればいいという話じゃないということを明らかにしなかったら、法然上人の念仏もまた見えなくなっていくでしょ。そういうことがここにあるわけです。法事讃から第一文
これを次の法事讃の言葉で見ましょうかね。ここにいきますと「専にしてまた専」というような言葉が出てまいります。一回読みましょう。350頁7行目ですね。法事讃とあって「また云わく、極楽は無為涅槃の界なり、隨縁の雑善恐らくは生まれがたし。かるがゆえに如来、要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえり、と。」ここに「専にして専」という言葉が出ています。これ親鸞聖人は本当にいただかれたんでしょうね。形は専でも中味は専じゃないということがあるから、専にして専という、ここで本当の意味の専修念仏、法然上人のただ念仏ということを確かめようとしておられるわけです。極楽無為涅槃界
この極楽無為涅槃界という言葉、これ大変大事なお言葉でして、教行信証では既に引かれているわけであります、聖典321頁ですね。真仏土巻にここは引かれます。後ろから5行目でありますが、同じ言葉ですね。「(法事讃)また云わく、極楽は無為涅槃の界なり。隨縁の雑善、恐らくは生まれがたし。かるがゆえに如来、要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえり。」と。訓点も同じですよね。と云うことは、この文章は真仏土にも関わるし、化身土にも関わるという面を持っています。真仏土というのは私たちが頷くか頷かないか、あるいは気づくか気づかないかに関わらず、既にある世界、はたらきとして云われている。だから弥陀のことを知らない、あるいはありがたいとも思わない、そういう人間をも支えているような世界です。いつ気が付いてくれるかなぁと照らし続けておられるわけです。そのお照らしに遇うたときにいただくのが教行信証と云う、その前の世界。教行信証で云えば前半の4巻に書かれている内容です。私たちが実際にいただく利益です。だからまぁ云ってみれば気がつかないところにもあるような世界、そういうところを善導の「極楽は無為涅槃の世界」という言葉で押さえようとしていますね。でも同じ言葉を化身土巻に引くのはどういうことかと云うと、特に後半の方、その極楽は無為涅槃、覚りの世界なんですが、そこから我々を導くためにはたらいて下さっているということを親鸞聖人はここに読み取ろうとしていると思うんですね。「隨縁の雑善恐らくは生まれがたし。」というのは縁にしたがっていろんな善を積み上げてみても、それでは生れられない。ちょっといいことしてるとか、私あの人よりお経読んでますというようなのは全部程度問題でしょ。仏教というのは生き方が転ずるという意味でしょ、分量を積み上げたからという話じゃなくて、質の転換なんですね。依り処の根拠としているものが引っ繰り返らなきゃいけない。それを隨縁の雑善では生れないと云ってます。これは私たちが有れをすればいい、これもすればいいというのは全部こちら側の計らいでありますが、それを突き破るような形で如来の方から我々にこれをやれ、これによってやりなさい、これによって迷いを超えなさいと教えて下さっているという、化身土巻の方はこちらの方に重きがあると思います。だからその根拠となる真仏土巻のことと、そこから立ち上がれと我々に近づいて下さったという方と両面持ってるようなお言葉ですよね。特に後半の方に注意すれば「かるがゆえに如来」と。どうやって迷いを超えるか分からないですよ。どうしたらいいか。幸せになりたいとか後悔のない人生を送りたい、そりゃダメダメだと云います。どうやったら満足できるか、どうやったら後悔のない人生になるのか、これ実見えてないわけでしょ。周りを見ながら多分これで大丈夫やと云ってるわけですが、これは如来からのはたらきに依らないといけないということで要となる法を選んで下さって、そして「教えて弥陀を念ぜしめて」弥陀を念ずることを教えて下さる。「教」という字を2回読むんですが、「教えて~せしむる」と使役で読んでおられます。そして「専らにしてまた専らならしめたまえり」と。専にして専なることを如来がなさしめたまうというふうに親鸞聖人は読んでおられると思います。この言葉を本当に大事にしておられましてですね、親鸞聖人は唯信鈔文意に引いて解説をずうっと加えておられます。そしてすごいのはその次なんですね。「仏性すなわち如来なり」と云った後に「この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち一切群生海の心なり。」と。これはちょっとすごい言葉であります。如来さまがありとあらゆるどんな世界にも満ち満ちている。これは云えるかもしれません。どこにも如来のはたらきが届いていますよと云うんですが、それがすなわち一切群生海の心なりと、ここまで云う。迷い苦しんで生きとる者の心にまでなっていると、ここまで云うわけです。これを実体化すると変なことになりますね。如来が私の心に入ったんや、今日から私は如来やという人もあるかも知れませんが、そういうことがなければ私たちが仏法に頷くということがあり得ないという親鸞聖人のお考えが表れていると思います。まぁこれ学生時代のことでしたけれども、仏法というのはね、我々の煩悩を離れた無漏なんですね、それを聞く我々は煩悩まみれの有漏であります。有漏の我々が無漏の法を聞くなんていうことが出来るだろうかという、こういう云ことを問うて下さった先生がありました。ボクら聞法しているわけですからね、無漏がちょっとでも入って来なければ仏法に触れたことにならんじゃないですか。しかしその先生、論註に出る譬えも想起しながらですが、どれだけ浄らかな法があってもこちらが汚れておれば、こちらに届いた途端にこの法は汚れるんだと仰っておられました。だから仏法を聞いているんだから段々浄らかになると思ったら大間違いで、有漏はなんぼ重ねても有漏なんやと、こういうことを云われました。ちょうどゼロをどれだけ足してもゼロなようなもんだ。そこに0.1でもね、芽生えればいいんですけれど、ゼロはなんぼ足してもゼロ。同じように有漏はなんぼ重ねても有漏やと。まぁ実際そうですわ。仏法を聞き憶える始めは興味があります。言葉が分かって来れば学びの楽しさがあります。でもそのうち段々どうなるかと云うたら、知らんかったときには私何にも知りませんと云うていた人間が、ちょっと知ってみると、あんたより知っているみたいなことになるんですね。仏法ですら結局人と比べる材料にする。ひどい場合には仏法の言葉で人を批判したりします。人を斬るために仏法を利用するということが起ります。これは仏法をいただいたと云えるかという問題なんですね。そういう切ったり切られたりという、共々に傷つけ合うことを超えるための教えのはずなのに、仏法が有漏にまみれてしまうということが起るんです。じゃあそれなら勉強せん方がいいのか言葉を学ばん方がいいのか、そうじゃない。で、これは安田先生の云い方でしたが、有漏でね、無漏を聞いて全部こちらが汚して行くんだけれども、そのうち段々こっちが食い破られてくることが起きるんやと云ってました。無漏が上陸してくるという云い方をしていました。我々の煩悩まみれの生活のところに無漏の法の方からこっちに上陸して来る。そのうちこっちが掴まれるんやと、そういう云い方をしておられました。ボクらが掴もうとしている間は全部有漏にしてしまうんですが、こっちが掴まれるということによって転換が起きると。聞法とはそういうことが、いつとは云えないけれども起る。そこに初めて仏法に出遇うと、あるいは仏法に出遇ったといえるということがあるんやということを教えて下さいました。その辺ここでは親鸞聖人は細かい話はしておられませんが、如来に頷くとか如来に出遇うという時には、こちら側に転換がなければ遇えないんですよ。それは如来が届いたという意味で、如来が世界にみちみちていて、一切衆生の心にまでなっておるという表現をしている。親鸞聖人が大事になさることで云えば教巻に阿難と釈尊の出遇いというのが引かれます。阿難は長い間お釈迦さまを人間の優れたお方として見ているもんですから、自分は全然ダメだと思っているんですよ。自分なんか仏陀になれない、仏陀というのはお釈迦さまお一人だと。これものすごく謙虚なようですが、お釈迦さまは全然違うことを云ってるんですよ。あなたも仏に成る法を私は説いているんだと。あなたが必ず迷いを超えて仏陀になるんだと云っているのに、あなたが私は無理ですと云ってるわけです。お釈迦さまがいうことを受け止めないわけです。これ謙虚と云えないでしょ。結局自分の思い込み、掴んでいる方のものを確かだと思っている。お釈迦さまの言葉が届かない。それが教巻には今までの出遇い方は間違っていたんだということに気がついたという経文を引用なさっている。お釈迦さまは人間の能力の優れた程度の人なんかではなくて如の世界から来て下さっている、すべての者が助かる法を説いておられたとなった時に、自分の見方が砕けるわけです。初めて如来に遇うた、お釈迦さまを如来さまとして頂くことが出来た瞬間でしょうかね。その時は阿難の心に如来の心が届いたと云わないといけない。人間心では如来は如来に見えない。偉い人とか優れた人とか、能力のある人にしか見えない。そうじゃなかったというものに出遇う。そこに如来の心が衆生に届いたと云わなきゃならんのですね。一応言葉の約束とすると如来の心の方を本願の心、願心と云うのに対して、衆生に起る心は信心と云うんです。しかし質的に法に触れているという意味では変わらない。どっちが上かというような話でもありません。でも敢えて区別するために如来においてはすべての者を助けたいという本願、その本願が我々に届いた時には信心、そうだったのかという心なんですね。こういう言葉の約束はありますけれども、ここは如来がすべてのところにまで届いている。だから我々が聞法する、そして法に掴まれるということも起るんですよ。私が掴んで理解した、そんな話と違うんです。私の方が法に掴み取られたという出遇い方になると思います。これは涅槃から我々のところへ届いている如来のはたらきを云う言葉として親鸞聖人はこんなふうに仰っているのですね。「この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。」こう云います。これ先ほど云われている涅槃を語るということが、この信心がすなわち仏性であり法性であり法身だと云うんでしょう、この信心以外にどこにも仏と云うてもないんです。仏に頷いた心にしか仏というのはないんです。これ、だけど実体化するとエライことになるんですよ。私はいただいた、今日からもう私が仏の心になったんだみたいになると変な話になるんです。具体的に云うと南無阿弥陀仏を抜きに考えたら私が立派になったり、ステップアップの発想になったりします。南無阿弥陀仏のところに如の世界をいただく、これしかない。しかし私の根性が直ったわけでもなければ身が変ったわけでもないですから、南無阿弥陀仏を離れればまた元通りです。あっという間に勝ったか負けたか、得か損かに呑み込まれる。南無阿弥陀仏をいただく時にこの如の世界を賜わるということがあるんです。もうちょっといきますと「法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり。この如来を報身ともうす。誓願の業因にむくいたまえるゆえに、報身如来ともうすなり。」幾つも難しい言葉もありますが、形を超えたものが敢えて形をとって下さったのが方便法身と云われます。なんで形をとったかと云えば一人も漏らさず救いたいという本願に報いた、そういう意味でこれ報身、報いたお身体という言葉が使われます。形のないものが形をとったというのが方便と云われているし、本願に報いたという意味では報身と云われています。で「この報身より、応化等の無量無数の身をあらわして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまうゆえに、尽十方無碍光仏ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明のやみをはらい、悪業にさえられず。このゆえに、無碍光ともうすなり。」とこう云ってあります。応化等というのは人に応じて現われたお姿です。化は人導くために敢えてさまざまな形をとる。まとめて応化身と云われますが、これたとえば云ってみれば親鸞聖人にとっては法然上人が阿弥陀如来が応化して下さっている。阿弥陀如来が一つの形をとって私にはたらいて下さっているというふうに受け止めてますね。勿論これは法然上人が人間じゃないと云ってるんじゃないですよ。そこに法然上人の上に法のはたらき、如来のはたらきをいただいておられるわけです。それをまとめる時にいろんな形をとりますけれども、それは一言で云えば無碍の智慧の光を放って下さる、ものを見せて下さるはたらきなんですね。だから尽十方無碍光という光があると云います。まとめれば尽十方無碍光如来という、ここに極まるわけであります。面白いのは親鸞聖人、そこでもう一遍「かたちもましまさず、いろもましまさず」と云うでしょ。さっきはね、法身というのはいろもなく、かたちもましまさず、だからあえて形をとって方便法身となったんだと云ってたのに、それがまた形もないし色もないと云うわけです。ちょっと読むと何のことやとなりますけれども、これは私たちが形や色に執われることを断つために、報身如来あるいは方便法身も色や形に限定できないということを重ねて仰っているわけです。例えば法然上人は応化身だと、阿弥陀如来が形をとって現れて下さったと、ここまで親鸞聖人は云いますけれども、そうは見えないという人に対してああそれもそうかという話です。見えないお前はおかしいとは云わない。だって見えない時というのは、まだ機が熟していないんですよ。親鸞聖人自身も比叡山に入るときはそう見えなかったわけでしょう。だから見えるはずだとかそんな話じゃない。いただいた人にとってはそうですけども、それは決して法然上人が間違いのない善知識だとかそう決めない。法然上人に遇えば助かる、そんなことは云わない。それもどんな形をとって現れるかは人それぞれですわ。法然上人のことを、あれだけの人でありますけれど敵だと思った人もいるわけです。仏法の敵だと思った人がいるわけですから。しかし、あの人はおかしいという云い方をせずに、それはまだ縁が熟していない、機が熟していないと親鸞聖人は見られるわけです。だから法然上人に遇えば絶対に分かると、そんなことは云わない。これが形をとって現われた応化身がやっぱり「かたちもましまさず、いろもましまさず」ともう一遍云っておられる意味でしょうね。これが極楽無為涅槃界という、ここから我々にさまざまにはたらく仏のことを云うて下さっているわけであります。
隨縁雑善恐難生
もうちょっと読みたいですね。554頁の後ろから5行目「しかれば、阿弥陀仏は、光明なり。光明は、智慧のかたちなりとしるべし。」とこう云って次[「隨縁雑善恐難生」というは、「隨縁」は、衆生のおのおのの縁にしたがいて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを、極楽に回向するなり。すなわち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆえに、実報土にはうまれずと、きらわるるゆえに、「恐難生」といえり。]とこうあります。隨縁の雑縁、いろんなことを積み上げて行くわけですが、これは自力の善根だとはっきり云ってますね。これ悪いと云うわけじゃない。一所懸命に極楽に生まれるために振り向けていくわけです。自分の努力したことをそちらに集中していくわけです。ところがそれは最後にはやったという心が残ります。自力の善根というのはそれを当てにする、たのむということがあるわけです。だから阿弥陀の誰をも迎えとる平等の世界、これを実報土と云われておりますが、真実報土には生れないと云われますね。嫌われているがゆえに恐らくは生まれ難し、恐難生というふうに云われる。だから人間の努力の度合いで生まれるんじゃないんですね。阿弥陀に出遇うところに開ける世界が真実報土であります。こんな世界があったのかというふうに出遇う世界なんですね。それを自分で掴みにかかっているわけですから。これだけやった私は生まれるに違いないと執われているわけですから、それでは阿弥陀の世界にはならないですね。これをその後に[「恐」は、おそるという。真の報土に、雑善・自力の善うまるということを、おそるるなり。「難生」は、うまれがたしとなり。]と、こうはっきり云うてます。これでは生れられないのですね。故使如来選要法
それに対して[「故使如来選要法」というは、釈迦如来、よろずの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものに、あたえたまえるなりとしるべしとなり。これを「選」という。ひろくえらぶというなり。「要」は、もっぱらという、もとむという、ちぎるというなり。「法」は、名号なり。]名号を選んだというのは、このこと一つというので阿弥陀仏の名前を選ばれたんだと云ってます。特に誰のためかと云ったら五濁悪時・悪世界を生きる悪衆生のため、更には邪見無信のもののためと、こういうふうに書いてあります。だから今までの仏法に何の縁もなかった者、もっと云えば仏法を謗ってきた者、そういう者にもこれは開かれている道なんですよね。一人も漏らさず救い取るために、この阿弥陀の名号を選び取られた、これが「故使如来選要法」という言葉であると云われています。教念弥陀専復専
続いて「教念弥陀専復専」教えて弥陀を念じせしむること。[「教」は、おしうという、のりという。釈尊の教勅なり。]教えであり命令だと云ってます。[「念」は、心におもいさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなわち選択本願の名号を一向専修なれと、おしえたまう御ことなり。]念というのは一向専修であれというふうに教えたまうお言葉であると、こう云うわけですね。その後もう一回[「専復専」というは、はじめの「専」は、一行を修すべしとなり。「復」は、またという、かさぬという。しかれば、また「専」というは、一心なれとなり。一行一心をもっぱらなれとなり。]初めの専は行の中から念仏一つを選び取る意味の専修ですね。ところが後の専は一心であると云う。だからここにはっきりと専修念仏、しかもそれを専ら一心というふうに云うわけです。だから「一行一心をもっぱらなれとなり」というのが専復専だと云って[「専」は、一ということばなり。もっぱらというは、ふたごころなかれとなり。ともかくもうつるこころなきを「専」というなり。この一行一心なるひとを摂取してすてたまわざれば、阿弥陀となづけたてまつると、光明寺の和尚は、のたまえり。]と、こういうふうにまとめておられます。これが一応四句の意味を当ったところであります。ここから後、もう少し親鸞聖人のお言葉が続きますが、これは今度私たちにこの「一行一心」ということが成り立つ中味を押えて行きます。これちょっと今日は化身土巻でありますから、ここの部分はどちらかと云えば真実信心の内容として読むことが出来ますね。ちょっとだけ見ておきましょうか。「この一心は、横超の信心なり。」と。これは信巻に云われる言葉ですね。その2行ぐらい後、「この信心は、摂取のゆえに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。」これも信巻に云われていますね。それから「この真実信心を、世親菩薩は、願作仏心とのたまえり。」これも信巻に出て来ます。この「一行一心」というのが真実信心を顕わす信巻の課題であるということは、後を読んで行けば分かります。でも今日読んでいる化身土巻はとにかくそれを我々に勧めるための言葉ですから、「一行一心をもっぱらなれ」というお勧めの言葉として読んでおけばいいのではないかと思います。「専復専」という言葉がまず専修念仏と、もう一つ一心であれと、心にいろいろなものを雑ぜるなと云うんですね。まぁそういうふうに見当付けておきたいと思います。それでもう一回戻ります。親鸞聖人が大変大事にしておられる言葉だということが分かりますが、それにはちゃんと元があるんですよね。さっき見たように法然上人も大事になさるし、聖覚法印が唯心鈔でも大事になさる。そういう伝統の中から、親鸞聖人はこんな言葉を引いておられると思いますね。で、戻るのは350頁です、7行目の法事讃の言葉。もう一回だけ読んでおきますと「また云わく、極楽は無為涅槃の界なり。隨縁の雑善、恐らくは生まれがたし。かるがゆえに如来、要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえり。」と勧めて下さっていると云うんですね。専の専ということです。前に読んだ第20願の課題のことで云えば、346頁に「雑心」という問題がありました。形は専修念仏でもいろんな心が雑ざることがあると。この雑心ということの中味をですね、「大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。」と云っておられます。いろんなあり方をして生きている者がそれぞれ助正間雑の心をもって名号を称念する。これは専修であっても専の専ではないんですね。念仏にいろんなものを加えていこうとする、助業を足していこうとする、その心が雑心と云われています。もう一つ、専心にも問題があるんですね。[「定散の専心」とは]とあって、心は専らといっても、そこにやっぱり善を為していきたいという心が雑っていると、これもまた問題なんですね。これは[罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを「自力の専心」と名づくるなり。]と。「雑心」も問題なんですが「自力の専心」ということも問題にする。これは自分のやったことを握っていく、手柄にしていくような心ですよね。これを暴き出して本当の真実報土への往生を遂げさせようとする、これが第20願の果遂の誓い、果し遂げずにはおかないという意味に親鸞聖人は読み取られるわけです。それに基づいてお釈迦さまが勧めて下さる、それを承けて善導大師がお勧め下さっているという、こういう文章をいまずうっと読んでいるわけであります。
法事讃から第二文 衆生邪見甚難信
もう一つだけ行っておきましょうかね。350頁真ん中辺、法事讃の続きでありますが、「また云わく、劫尽きんと欲する時、五濁盛りなり。衆生邪見にしてはなはだ信じがたし。専らにして専らなれと指授して西路に帰せしめしに、他のために破壊せられて還りてもとのごとし。」と、こういうふうに云うてあります。「劫尽きん」というのは、だんだん時代が下がっていきますと、時代が衰えていくという、そういう時を云うわけです。その時は五濁が盛りだと云うてあります、世の中が濁って来て、何が大事かが分からなくなる。その時に生きている者は邪見にして、この教えははなはだ信じ難いと云ってます。折角お釈迦さまが専らにして専らなれとお勧め下さっているのに「他のために破壊せられて還りてもとのごとし」ですから、元に戻ってしまう。すぐに、あっという間に世間のあり方、あるいは今までの価値観に取り込まれてしまう。仏道を歩むということがいかに難しいかということです。お釈迦さまが勧めておられてもそれを聞けない。実際そうですよね、念仏も大事かも知らんけれどもと云うてね、それだけではと云うて、念仏がほんとに自分の生き方の中心に定まるということが本当に難しい。やっぱり世間の方に呑み込まれていく方が容易い。流されてしまうんですね。それは全部衆生の邪見だと云っています。そういう者のために念仏一つだと云うんですけれど、それぐらい衆生の方に受け取り難いものがあるということですね。阿弥陀経にね、六方の諸仏が阿弥陀仏をほほめられる、のはお釈迦さま一人だけが云うているというのはどうも信じられない我々がいるからですね。それぐらい我々の邪見が甚だしいのです。もっと云えば、自分中心のものの見方に染まっているからですよね。だからお釈迦さまが一人云うたぐらいではウンと云えないんです。あるいは親鸞聖人がお勧め下さっていてもですよ。親鸞聖人の時代はそうやったか知らんけれどもと平気で云うわけです。なかなか分厚い偏見、先入観が我々を覆っている。だからすぐに元に戻ってしまうわけですね。「曠劫より已来常にかくのごとし。」と。長い間、世間のあり方に呑み込まれ続けて来たと云うわけです。「これ今生に始めて自ら悟るにあらず。」これちょっと前とのつながりが分かり難いですけれども、反語のようなことになっていますね。今もしか目覚めることができたとしても。これは今急にと云うわけじゃないと。ながぁい間迷って来た者が急に悟るというよりも、そういうお育てに与かるということがあると云うのです。そういう縁をいただくということがなければ、今目覚めるということはあり得ない。こういうことを云おうとしていると思います。もし仏法を聞いて、あぁそうだったのかというふうに目覚めることがあるとすれば、それは今急にさとるという、そんな話じゃない。いわば宿縁によるんです。ここでは「正しく好き強縁に遇わざるに由って」と云ってます。遇わない限り迷いに沈み続けます。「輪廻して得度しがたからしむることを致す、と」迷いに沈んで、得度する。覚りの世界にわたることを得る、迷いを超える、そのことが難しい。そういうことになるのであると云ってます。ここはちょっと読みにくいところですが、今目覚めるのは今だけのことではない、過去からの縁に遇うて、そういうことが起っている。好き強縁に遇わないと迷いに沈み続けて行くことになる。こういうことを呼びかける文章であります。ここにも専らにして専らという言葉が出ております。これが第20願のお勧め、第20願が我々に呼びかけて来るものとして、それを承けたお釈迦さまの教えとして見ることが出来るわけです。法事讃から第三文 直為弥陀弘誓重
もう一つだけ法事讃の言葉を見ておきましょう。「また云わく、種種の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるはなし。上一形を尽くし、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまう。直ちに弥陀の弘誓重なれるをもって、凡夫念ずれば生ぜしむることを致す、と。」これはもう既に引かれているところですが、それをまとめてここに挙げておられます。今まで読んで来たことからすれば、前半は我々を導くための呼びかけ、それを通して出遇ってほしいのが後半ということになっております。種々の法門、さっきも八万四千あると云いましたね、それは迷いを超える道ではないと云うわけではないんだけれども「念仏して西方に往くに過ぎたるはなし」阿弥陀の浄土に生まれて行くことより他に道はないと云うんです。「上一形を尽くし」というのは、一生を尽くすような念仏から、少ない方は一遍あるいは三遍五遍に至るまで、どんな者も阿弥陀を念ずる者を仏は迎えに来て下さる。これが我々に念仏を勧める前半ですね。後半が次です。「直ちに弥陀の弘誓重なれるをもって、凡夫念ずれば生ぜしむることを致す、と。」これは本願が重なっている。重いという字でもありますが、本願のはたらきによって凡夫が念ずれば、すなわち生れることになるのであると云ってます。前半だけを読むと一生を尽くした念仏と少ない方の念仏と、なんか念仏の回数のように見えるんですね。でもそれは私たちに念仏しなさいと勧めるお言葉なんですね。念仏すればどんな者も漏れないということが後半で、直ちに弥陀の弘誓は重なっているので凡夫が念ずるところに即座に往生を得るのだ、という文章であります。なんで前半と後半にきるのか。実は親鸞聖人が分けて引いておられましたよね、344頁を開けてみて下さい。ここに「顕彰隠密」ということを阿弥陀経に見るというふうに仰って、[「顕」と言うは、経家は一切諸行の少善を嫌眨して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして、難思の往生を勧む。]と云うておられます。難しい言葉でありますが、お釈迦さまは念仏以外の善を少善であると嫌い貶め、それに対して善の本であり徳の本である名号の真門を開いて、我々に念仏して助かろうという気持ちを起させる。これを自利の一心を励まして難思の往生を勧むと書いてありますね。だから他の行は無理だけれども念仏ならいけると、こういう気持ちにさせるわけです。念仏だけでいいのなら頑張ってみようかと。でもこれは自力の心が残ってますよね。我々の努力意識に応答しながら念仏頑張れと云ってるわけです。でもこれは顕の義、阿弥陀経は先ずそれを勧めているんだと云うわけです。その中で、例えばその後に[ここをもって『経』には「多善根・多功徳・多福徳の因縁」と説き、『釈』には「九品ともに回して、不退を得よ」と云えり。]どんな生き方をしている者も、その念仏を回向して不退転を得なさいと勧めて下さっている。そして次です。[あるいは「無過念仏往西方 三念五念仏来迎」と云えり。]と。これがさっきの「念仏して西方に往くに過ぎたるはなし」上一形は略されていますが、「十念・三念・五念に至るまで」というこの部分が仏の来迎を勧めて下さっているわけです。念仏すれば仏が迎えに来て下さるからと云って念仏を勧める。「これはこれこの経の顕の義を示すなり」と。とにかく念仏せえと。念仏を頑張れとお勧め下さるお心だというふうに読んでいるところですね。それに対して[「彰」というは]と云ってね、それを通して出遇ってほしいのが「彰の義」だと云うんですね。これは表に出ていないんです。それは沢山のお勧めによって、我々に広い広い阿弥陀の世界に出遇うということが起こる。それが次のように云われています。[「彰」というは、真実難信の法を彰す。これすなわち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。]とありました。「良に勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり」六方あるいは十方の恒沙の諸仏が勧めて下さっているので、我々に起る信心も恒沙の諸仏の勧めによって得られる信心だという話をしました。私が起す信心じゃないんです。沢山の諸仏のお勧めによって、あぁこれが大事だったかということを知らされていくんですね。[かるがゆえに「甚難]と言えるなり。]の後に[『釈』に、「直ちに弥陀の弘誓重なれるに為って、凡夫念ずればすなわち生まれしむることを致す」と云えり。これはこれ隠彰の義を開くなり。]とさっきの法事讃の後半がここに引かれています。だから同じ文章の前半が顕の義、とにかく念仏せよと勧める方、後半は本願によって凡夫が即座に往生すると云われている。だから前半を握ればオレほどやってきた者はいないと云って、それを誇ることになるでしょう。しかしそうじゃない、念仏すればみんな助かる。念ずるところに往生を得るというのは、本願の力だということを云っている。これが「弥陀の弘誓重なれるに為って」と云われる意味だということが、ここから読めます。その意味で云うと今日の第20願のお心が難しいのはそこですよね。表から云えば念仏すれば助かる、だから念仏を頑張れと云ってるわけです。しかし、私頑張ってますと云うて欲しいわけじゃない。それによって阿弥陀の世界に出遇って下さることを願っているのが第20願であり、阿弥陀経のお心だと、こういうふうに親鸞聖人は見ておられると思います。まぁ阿弥陀経の心ということをざっと云うてしまいましたけれども、今日読んだ法事讃は阿弥陀経に基いて善導大師が書いておられる書物であります。だから阿弥陀経のお勧め、同じ一文が努力を勧め得る部分と、といっても努力の度合いによって助かるんじゃない、どんな念仏であろうとそれによってどんな者も漏れずに助かるということが云われているということが、ここから読めて来るということなんですね。長くなりましたが、方便化身土巻というのは、とにかく念仏して阿弥陀に助けられるということを勧めて下さるのだということと、特に今日読んだところは専修という形だけじゃなくて、その一心という中味ですね。専にしてまた専であれということを云うて下さっていると思います。
一応ここまでにさせていただきます。ありがとうございました。