『教行信証』の化身土巻を読む(33) 一楽 真 師
2018/ 12/22
大谷派の聖典346頁の10行目、阿弥陀経のお心を確めたあとに「それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。」とあります。ここに濁世を生きるすべての人たちよ、ということで、道にも俗にも呼びかけて、速やかに円修至徳の真門に入りてと。これが阿弥陀のお名前を指しているわけですが、これが本当に迷いを超えて行く門であるということを勧め、そして難思往生を願いなさいと云うわけです。難思往生というのは自力が残っている名前として後では押えられますので、とにかく自力の心を励ましてでも、阿弥陀の浄土に生まれることを願いなさいということを勧めるわけです。言葉を換えれば他の道では助からないぞということを云う。その時にいろんな善根功徳はあるけれども、その善根功徳の根本、これが善本徳本と云われる名号だということが押さえられていたわけでありました。それを承けて大無量寿経では第20願に説かれているということで植諸徳本の願、もう一つは不果遂者と云ってね、果し遂げずにはおかない、これは一人残らず迷いを超えさせたいという阿弥陀の願いなんだということなんですね。それが名号として私たちに与えられているということを親鸞聖人はご自釈で述べられまして、そしてそこから引用文が始まっていたわけでありました。お経の言葉の引用までは見たとさせていただきまして、今日からそのお経の言葉を承けての釈文ですね。特に善導大師のお言葉が続いて引かれております。全部で九つほど、大変沢山ありますが、名号一つということを善導大師がお勧め下さっている文章として親鸞聖人は受け止めておられるわけであります。
で、今日のところに来ると念仏三昧という言葉が書かれてあることを抜いて来られまして、だからお経に名号一つ、名号をもって阿弥陀仏を専ら念ずる、これが念仏三昧だということを云おうとする。三昧ということを聞くとね、なんか特別の境地に入るような思いを持つわけでありますが、そういう行を重ねてのことじゃなくて名号によって我々に三昧ということが成り立つというふうに云っていいと思います。逆に私たちの心は三昧というような境地に到達できない、いつでも雑念が雑ざって来るんです。でも南無阿弥陀仏によって、阿弥陀をいただくということがいつでもどこでも起きる。だから念仏三昧というのは、私の心から雑念が払われる体験だと思わない方がいいですね。南無阿弥陀仏のところに阿弥陀が現前して下さる、いただくことができるんです。まぁここは衆生が仏を念ずれば阿弥陀仏も衆生を念じて下さるということが述べられる部分です。親鸞聖人はそれを本当に避けておられますね。法然上人は非常に大事にした言葉なんですが、親縁・近縁・増上縁ということが観経疏で云われ、選択集でも云われるんですが、親鸞聖人はそこはとりああげ取り上げられません。これがやっぱり念仏三昧を特定の境地として見ることを注意なさったと思われます。戻りますと、ここは沢山の行があるけれども、それと比べものにならないのがこの念仏だと、あるいは名号だと云う善導の言葉が述べられているわけです。さっきちらっと云いましたけれども念仏の衆生を摂取不捨するということを更に踏み込んで善導大師が解釈なさるときには、余の雑業の者は摂取不捨しないと云っていく。
抄要と結んでおられますが、これは要点を抜き出すという意味でありまして、間々を省略していることがあるということをお示しになっておられます。だから気になる人は元を見てくれということですね。親鸞聖人は自分に都合のいいいところだけを引いて来たと云うんでない。これは中略してますからと、省略しているところがありますから全部見たい方はそちらを見て下さい。ただここは名号を善本徳本として、名号一つをお勧めする、それを善導大師がこう仰ってますよと絞って抜いてきている。だからここの文脈に親鸞聖人が不要と思われるものは落とされている、ということなんですね。ただここの文章は信巻にも引かれておりまして、信巻の方は真実信心の内容として挙げるわけなんですね。真実信心の内実を示すものとして同じ部分、ピッタリではありませんが、ほぼ同じところを引いておられます。それに対してここは方便、名号の真門として我々に与えられているということを云う言葉として引かれるわけであります。これが重なっているのが面白いですよね。まぁこれを通して気が付くのが真実信心の中味になるわけでしょ。しかし名号の真門を握れば真実の方に行かないんです。だから名号が真実信心を導く大事な方便の意味を持つかどうか。ここで止まってしまえば結局沢山の行の中の一つでしょうね。比叡山に上っての行は無理だけれども、念仏ぐらいやったらいけるわ、となると沢山の行の中のまた一つ、比べた話になりますよね。どこまでも真実に導くための方便という意味がある。だから両方に引かれているということが非常に注意を引くわけであります。
で、それを云った後に[すなわち『弥陀経』の中に説かく、]とあって「乃至」と。ここはね「説かく。」にしておいていいと思うんですけどね、「説かく、」となっていると、この後が気になって仕方がないんですが。「説かく」の後はお釈迦さまが阿弥陀の世界についていろいろ説いて下さっていますという短い言葉があるだけです。信巻にありますのでちょっと見ておきましょうか。217頁の4行目です。[すなわち『弥陀経』の中に説かく]とあって[「釈迦、極楽の種種の荘厳を讃嘆したまう。」]この文章を化身土巻では中略しているわけです。こんな短い文章ならつけておいてもよさそうでしょう。なんでわざわざ抜かないといけないんでしょうか。でも信巻の方は確かにすなわち弥陀経の中にお釈迦さまが阿弥陀の極楽の荘厳を誉め讃えておられると。そして一切の仏もそうだと、こういうように続いて行く。だからここは[『弥陀経』の中に説かく]、でいい、後に続くからです。でも化身土の場合はこれは要らないんですね。阿弥陀経の中に何が説いてあるかということを云いたいわけじゃないんですよ。そうじゃなくて、お釈迦さまの教化は一切仏の教化だということを云いたい。お釈迦さまのお言葉にはありとあらゆる仏さまの願いも籠っているということを云いたい。だから説かれている中味について云う必要がないということなんでしょうね。ですから、」親鸞聖人がここで切る意味でボクはここは「。」にした方がいいと思ってるんですね。349頁に戻りますと、[すなわち『弥陀経』の中に説かく]説いてありますというのは「一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり。」これが『弥陀経』の中に説かれていますと、こう読んだというふうに思われるんですね。ちょっとこだわり過ぎかもしれませんが、ここはボクは「。」にしたいところであります。で乃至としてますから、さっきも云いましたが、気になる人は元を見て下さいねということです。ここは抜いてますよということを親鸞聖人は云うておられるんですね。でも教行信証というのは、そういう意味で云うと一筋縄ではいきませんよね、やっぱり。なんでこれだけのことを引いても良かったのにということを思わされますが、これはまた、化身土巻は化身土巻でいただいていくための取っ掛かりになるかと思います。繰り返しますが、こちらはお釈迦さまとすべてのお仏さまの教化は一つであるということを云うために、こういう文章が置かれてあるというふうに見たいと思います。ですからその後[また一切凡夫を勧めて「一日・七日、一心にして弥陀の名号を専念すれば定んで往生を得ん」と。]これもお釈迦さまの教化でもありますし、ありとあらゆる一切仏の教化でもあると、こう読めますね。
観経・阿弥陀経の引文を振り返る
前回は348頁の観経、阿弥陀経についてのところを読んでおりましたが、少しだけ振り返っておきますと、観経では流通文の説法を後の世に伝えていく流通の課題を述べるところで、阿難に対して「汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と仰るお釈迦さまのお言葉ですね、それをここに抜いておられます。観経はいろいろ云うて来たけれども最後には南無阿弥陀仏一つ、阿弥陀の名前を持って行けということをお釈迦さまが押えて下さっているということです。だからこのお心を取れば、観経という経典は、普通には観察をするという修行が説かれているように見えるけれども、最終的にはこのこと一つなんだということをお釈迦さま自身が確かめて下さっている、これが親鸞聖人の受け止めでしょうね。それに並んで今度は阿弥陀経の言葉も引かれておりました。阿弥陀経では「少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ」と。これ名号以外を「少善根福徳の因縁」と云ってるわけです。これ不真面目とか、そういうことを云ってるわけじゃありません。どれほど一所懸命にやってみても、それは程度問題なんですね。それは結局やれる時には頑張れるかもしれませんが、やれなくなったら結局積み上げられなくなる。結局人間の方に根拠を置こうとするわけです。それでは助からない。そういう意味で少善根福徳の因縁と云われておりまして、それでは決して阿弥陀の浄土に生まれることは出来ないと云ってます。もうちょっと云えば、少善根福徳の因縁というのは必ず、程度問題と云いましたが、比べますよね、私の方が出来ている。あるいは逆もありますね、あの人の方がスゴい、私はダメだと。結局何を根拠にしているかといえば、やっぱりどれだけやれたかという経歴であったり分量を比べることに必ず落ちて行くわけであります。これでは阿弥陀の国を願うことにはならないですよね。だって阿弥陀の国はみな平等に迎え取られる世界であります。私の方がやれていると云うた途端にそれは阿弥陀の国に生まれることを願っているんじゃないということです。これも前回お話ししておりましたが法然上人のお弟子で云えば、勢観房・念仏房という方々と親鸞聖人が信心一異の対論をしたということが歎異抄に伝えられております。あすこは勿論信心が一つであるか異なっているかという話ですけれども、結局それは念仏をどういただくかということですね。念仏が如来より賜る、如来からの呼びかけだと受け止めてるのが親鸞聖人です。だから法然上人もその如来からの呼びかけによって目を覚ましていく、私もそうだということを如来のはたらきと云うわけですね。ところが勢観房・念仏房の方は私の方が沢山やっている、長年聞いて来たというようなことを根拠にするもんですから、法然と親鸞が同じはずないじゃないかということになる。だから信心の一異と云うてますが、結局は念仏をどういただいているかということが違うということですね。そこで法然上人はっきり云うてますね。もし信心が異なるという人は、この私、源空がまいろうとしている浄土へは「よもまいらせたまいそうらわじ(歎異抄後序:編注)」決して行かれることはありますまいと、これかなりきつい言葉ですね。でも云ってみれば阿弥陀の浄土を願っているんじゃないでしょうということでしょう。皆平等の救いを願っているわけじゃないでしょう。こういも見られると思います。ですから少善根福徳の因縁というのは、どれ程積み上げてみても、それを握る限り阿弥陀の国に生まれていく因縁にはならないということです。だからこれを「阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ。」と。これ特に阿弥陀経では、六方の諸仏が阿弥陀のことを誉め讃えて下さいますね。それを聞いて行け、それをいただいて行けということですね。阿弥陀仏を説くを聞きてということを、また私が聞いた度合いにすると話は厄介なことになりますね。私は聞いている、あの人より上だというふうにね。そうじゃない。説く、勧められる。そのお言葉によってそれをいただいて行く。これが「阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ」というお言葉であります。だから沢山のことが説かれている観経でも、最終的には名を持てとこのこと一つ、阿弥陀経では他の善根功徳は説かずに名号を執持せよと、このこと一つを説いていく。それがここで押さえられていたことでありました。観経疏定善義の文
それで今日はその続きでありますが、善導大師の言葉、ここをちょっとずつ見ていきたいと思います。大変長いですから一気にとはいけませんけれども、いま読んだ観経・阿弥陀経のお釈迦さまのお心を本当によく受け止めておられるお言葉だなぁと思われる部分を親鸞聖人は抜いておられます。まず一つ目、348頁の後ろから4行目79という番号が付いていますが、それを一回読んでみましょうか。[(定善義)光明寺の和尚の云わく、自余の衆行はこれ善と名づくといえども、もし念仏に比ぶれば、まったく比校にあらざるなり。このゆえに諸経の中に処処に広く念仏の功能を讃めたり。『無量寿経』の四十八願の中のごとき、ただ弥陀の名号を専念して生を得と明かす。また『弥陀経』の中のごとし、「一日・七日弥陀の名号を専念して生を得」と。また「十方恒沙の諸仏の証誠しからざるなり。」またこの『経』(観経)の定散の文の中に、ただ「名号を専念して生を得」と標す。この例一にあらざるなり。広く念仏三昧を顕し竟りぬ、と。]ここに定善義と書いてありますとおり観経疏の4巻のうち3巻目であります。観経疏は玄義分・序分義・定善義・散善義という4冊からなりますが、定善義は定善という字がある通り、精神を定め集中した状態で行っていく善を指します。具体的には13通りの観察の方法が観経に説かれていますね。西に沈む太陽を観よというところから始まる。心を落ち着けて仏さまの心をいただいていくという、あの部分。あれが定善と呼ばれるわけです。しかしその中で善導大師は特に念仏ということを強調される。そこにスポットをあてていくわけであります。またそこから親鸞聖人はここという部分を抜いて行かれるわけですね。定善第九真身観
これを元の観経から一つだけ見ておきますと第九真身観、聖典では105頁であります。下の段後ろから7行目。この部分についての善導大師の註釈が引かれて来ているわけであります。「無量寿仏に八万四千の相まします。──の相に、おのおの八万四千の随形好あり。──の好にまた八万四千の光明あり。──の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。」この部分です。観経疏というのは部分部分をちゃんと指示してですね、これは何を云っている言葉なのか、あるいはこの中にいくつのことが表わされているのかというような、こういう形で全篇に亘って観経のお言葉を註釈している、そういう本であります。ここでは無量寿仏には八万四千の相ましますとまずここから始まります。まぁ普通は三十二相八十随形好と云われるのが仏のお姿だと云われますが、この八万四千というのはだいたい人間の煩悩の数です。煩い悩みに応答しながら形を取って下さる。人々の悩み苦しみに寄り添ったのが八万四千の姿だと云われております。ところがそれに終らずに「──の相に、おのおの八万四千の随形好あり」と云ってます。それに随ったお姿があるというのですね。更にはそれに止まらず「──の好にまた八万四千の光明あり」と八万四千が出て来ます。だから八万四千×八万四千×八万四千です。数を具体的に示すんですけど、ありとあらゆる衆生に応答しながらはたらきかけて来るということをこんなふうに云ってるわけです。その後に「──の光明遍く十方世界を照らす」これは有名な言葉ですね。ただその後に念仏衆生摂取不捨とするここを善導大師は非常に大事になさるわけです。すべての世界を照らすんですけれども、その恩恵に与かるのは阿弥陀仏を念ずる衆生なんですね。阿弥陀仏を念ずる衆生が摂め取って捨てないという利益を賜るということです。別のところでは念仏しない者は照らさないと、ここまで云うんです。よくこれ議論になるところで、阿弥陀さんというのはすべての人を救うと云いながら結局分け隔てするんですか、とこう云われます。皆な救うというのは嘘ですかと。しかしこれはどれほど照らされておっても、その恩恵を有難いと受け止めるということがなかったら、その恩恵はないのと同じだと云うんですね。阿弥陀さんがあの人は照らしたくないとか、そんなこと云うわけじゃない。あの人は摂め取りたくないと云うわけじゃない。すべての者を平等に照らすんだけれども照らされたことを感じた人にその恩恵はあるということなんですね。これが念仏衆生摂取不捨という言葉の意味であります。念仏しない者まで摂取するというわけじゃないということなのです。この事を正面切って問題にしていくのが曇鸞大師、それから親鸞聖人と、こういう流れになります。法然上人はこの善導大師の言葉を受けながらも、念仏すればみな助かると書いている。とにかく念仏しなさいということをお勧めになる。そういう意味で漏れるということはあんまり仰らない。とにかく念仏して下さい。念仏すれば一人も漏れませんからという云い方で勧めて行かれる。ところが漏れる者があるということを問題にしたのは曇鸞大師です。曇鸞大師は教えがあってもその教えを謗る者は除かれるという謗法という問題を早くに着目されるわけです。しかし法然上人は曇鸞に背いているんじゃないですよ。謗法せずに教えを信じて念仏して下さいとお勧めになるというやり方をなさるわけですが、どれほど阿弥陀のおはたらきかけがあっても漏れるものがあるという、こっちに注目したのが親鸞聖人。曇鸞の後を引き継いで親鸞聖人ということになっていきます。だから法然上人と親鸞聖人というのは師弟の関係にありながら、云い方はだいぶ違うんですね。本願文では唯除五逆誹謗正法というのが第18願についているわけですが、法然上人は唯除以下を外して、とにかく念仏しなさいと云うでしょ。親鸞聖人はこの唯除以下をまた改めて取り上げられる。どれほど救う法があっても、それをいただかない者は除かれるんだということを云って、あなたはいただくのか、いただかないのかと決断を私たちに迫ってきますね。これ曇鸞大師の譬えで云うと、「碍は衆生に属す」という言葉がありますね。尽十方無碍光というどんなものも碍げとせず誰の上にも届く光、どこにでもはたらいていく、これが阿弥陀の光明だと云われているのですが、それを見ない者には届かない、受け止めない者があるという時に、碍りは光の方にはないと云うんです。我々の側にある。われわれがそれを受け付けないんだというわけです。まぁ曇鸞大師は二つの譬えで挙げていますが、一つは目の見えない人という例を出しています。現在の感覚から云えばちょっと人権的に問題あるやないかと云われるところであります。安田先生はそれを目の見えない人と云わずにもう一つ踏み込んで、丁度太陽がとっくに上がっているのに雨戸を閉めて家の中で暗い暗いと云うているようなもんやと、こういう云い方をしておられました。とっくに陽は上がっておる。だから雨戸がはずれてみればこんなに明るかったのかという世界が前からあると云うんですね。ところがそれを知らずに勝手に暗い暗いと壁を自分で立てておると、こういう譬えで仰っておりました。まぁこの雨戸がはずれるのも機が熟さないといけない。外から日は出とるぞぅというお勧めをいただかなくてはいけない。その時にホンマかいなと云うてね、暗い暗いと云うておるところに間を持つということが必要でしょうね。外と中と同時に、外からのはたらきかけが聞えたときにこの雨戸がはずれるというかね、雨戸を蹴破るということも起きるんやと思います。もう一つは頑なな石、大きな固い石を譬えに出しています。これにどれほど雨が降っても表面がちょっと濡れるだけで何事もなかったようになる、つまり中身までしみ込んでこない。これは雨のせいではないと云うんですね。雨を受けつけない、頑石なんです。どれほど法のシャワーを浴びたとしても何事もなかったようになっていくと云う。これも面白い譬えですね。だから阿弥陀は誰の上にも光として、あるいは法の雨を降らすんでありますが、受けつけない者はそこから漏れて行く。で、善導大師はそれを両方云うんです。念仏一つで助かるということも強調なさる。これを受け止められたのが法然上人です。しかしながらそれは念仏している者の話であって、念仏しない者はその恩恵に与かれないと、こっちも云うわけであります。この部分についての註釈がさっき読みました観経疏のお言葉なんですね。348頁に戻って一応言葉を当っておきますと、光明寺の和尚善導大師が仰るには、自余の衆行、これは念仏以外の多くの行は善と名づくことは出来る。善でないとは云わない。善だけれども念仏に比べるならば全く比べものにならんと。「比」も「校」も比べるという意味であります。これは先程の阿弥陀経の少善根福徳因縁という言葉をいただいてここを読めば「自余の衆行」は結局ランク付けが起ってしまう。どれほどやったかということで分量で計られるということを超えられないわけです。それに対して念仏は誰の上にも平等、どんな状況であっても為すことができる。それを念仏というふうに云ってるわけです。だから念仏して声が出なくなったらどうするんですかって、そんな話じゃないんですよ。出す音の問題ではありません。念仏というのはどんな状況にあっても出来るということを形で表わしたものであって、音の大きさとか回数という話と違うんですね。それはどんな者も漏らさないという意味で比べものにならない。それを様々なお経の中で詳しく念仏の「功能を讃めたり」と云います。これ功徳の「功」と「能」ははたらきですから「くのう」と読んでもいいんですが、昔から「くうのう」という読み癖であります。なぜかと云うと昔、講義は喋り言葉だったもんですから、聞いて分かるようにしたんですね。「くのう」と聞くとボクら苦しみ悩みの方が先に来るでしょう、だから功徳のはたらきの方は「くうのう」と云い分けて来たようであります。この辺は特に浄土教だけじゃありませんで、これは仏教学をやって来られた、例えば奈良の法隆寺の唯識の読み方なんて云うのは厳密に分けたりしてますね。「くうのうしゃべつ(功能差別)」というのは唯識でも云います。どっちで読んでいただいてもいいのですが、もう字を見れば分かりますからね。でもこれ念仏のすぐれたはたらきをお経ではあちこちに詳しく讃めてありますと、善導は云うわけです。三経を貫く「一心専念弥陀名号」
そして例えば無量寿経の48願の中のごとき、ただ弥陀の名号を専念して生を得と明かすと。48願の中と云いますが、48願の中にはこのとおりの言葉は出て来ません。これは善導の読み取りであります。「一心専念弥陀名号」というのは大経では下巻に出てくる言葉であります。それが本願からの展開として見るからこういうふうに云うわけです。後もそうですが、お経にこうありますよと云ってますが、そのとおりの言葉が出るというわけにはいかない。重なるところは勿論ありますけれど。ですから無量寿経の48願、これも48あるけれども貫いているのは弥陀の名号を専念して、そして往生を得ることができると、往生を得るということを明らかにしている、これが阿弥陀仏の48願だということを云うわけであります。これ前にもご紹介したかと思いますが、善導大師の48願の読み方は本当にすごいなぁと思うんですが、例えば318頁善導大師の観経玄義分の言葉が引かれております。後ろから7行目に、法蔵菩薩が世自在王仏のみもとで以下のような願いを発された。それが「菩薩の道を行じたまいし時、四十八願を発して、──の願に言わく」と云います。48願あるけれども一つ一つの願に以下のことが述べられてあるという受け止めであります。だから善導大師は48願をこう取っておられたのだなぁということが、ここから分かるのですが、「もし我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を称して、我が国に生まれんと願ぜん、下十念に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじ」と、こう云ってます。これどう見ても第18願のお心を述べたものですよね。そこを本願の要とご覧になっています。しかしそれを更に一つ一つの願すべてに以下のことが願われてますと受け止めるわけです。ですから48という数で、なんか48願は48も願ったのかと見えるんですが、違うと云うんですね。いろんな説き方があるけれども、その願いの根本は私の名前を称える者は一人も漏れない、たった10遍でもと云っている。だから一人も漏らさないということが48願には貫かれているというようにお読みになられたということなんですね。ですから先ほどのところも48願の中には直接弥陀の名号を専念してというようなことは出て来ませんけれども、その意図を取ってこういう言葉になっていくということであります。この辺のことをね、金子大栄先生なんかは本願文の話をあちこちでなされたことが残っていますね。大無量寿経総説という本もありますしね、無量寿経の講話も残されております。本願文を読んでいくときには大谷派の中ではずうっと基本に読まれてきた本だと思います。金子先生はこの善導大師のお心を承けて「ただ一つの願い」という云い方をしておられます。48あるんじゃなくて、それはただ一つの願いが展開して48になっているということです。たいへん大事な本願に対する見方だと思いますが、元は善導大師であります。348頁に戻りますと、このとおりの言葉があるわけではありませんが、無量寿経の48願の中には「ただ弥陀の名号を専念して生を得と明かす」と云われている。だから他の行ではなくて、他の善根を修めなさいと云うんじゃなくて、このこと一つということを法蔵菩薩が誓って下さったということを押えている。そんな言葉であります。それを承けて今度は弥陀経のと云ってますね。[また『弥陀経』の中のごとし、「一日・七日弥陀の名号を専念して生を得」と。]ここでも専念という言葉を大事にしておられます。専ら念ずる、ただ念仏ということですね。だから名を通して阿弥陀を念じていく。このことが阿弥陀経では一日乃至七日というような言葉で云われているわけです。いまたまたま東本願寺の同朋新聞に阿弥陀経のことを書くご縁を頂いているんですが、「若一日若二日」というのをね、一週間と書いてあるもんですからずうっとやり続けんならんというふうに読んでました。まぁそれは来る日も来る日もということをお勧めになるものですから、その通りなんですが逆に云えば、たった一日でいのち終るとしてもその時に執持名号一心不乱が大事だと云ってるわけですね。もし二日という寿命が得られれば、その時も執持名号一心不乱と云ってるわけで、だから一週間頑張れとそういうことを云ってるんじゃなくて、何日この世におられるか誰も分からんわけですから、いのちをいただいたと云うなら、その日もどんな日も来る日も来る日もこのこと一つを大事にして下さいということを云ってるのが「若一日若二日若三日…」というお言葉だと今は受け止めています。まぁここはすうっとね、「一日・七日」というふうに間を取ってしまって、「弥陀の名号を専念して生を得」と押さえられておりますね。これはお釈迦さまがお勧め下さっているわけです。でもそれがお釈迦さまお一人だけじゃなくて十方諸仏のお勧めであると。これがこんど[また「十方恒沙の諸仏の証誠虚しからざるなり。」]とこういう言葉で云われますね。これも阿弥陀経そのものは六方でしょ。東から始まって南、西、北そして下、上と六方ですが、これを善導大師は必ず十方と云いますね。六方というと他の方角はどうやという人がいたのかも知れません。でもこれは玄奘三蔵の称讃浄土教の中では四方八方に上下を加えて十方世界になっております。だから六方やから六方に限るという話じゃないということを示すために十方ということを仰るのですね。だから十方世界にいらっしゃる、恒沙というのはインドのガンジス河の砂粒ほどの数え切れない沢山の、仏さまが阿弥陀を誉め讃えている。阿弥陀の世界が大事だということを勧めて下さっている。もっと云えばそれが証誠と書いていますが、誠であることを証しする。こう云うことだとして押えられるわけであります。この世界が誠だということです。誠の字はここにも注がついてますが、ゴンベンのない字もあります。諸仏の護念証成というように証して成就させるという意味でこういう書き方も親鸞聖人はなさいます。まぁこれ意味から取って誠であることを証しするとここでは書かれております。どちらにも通ずる意味ですよね。十方恒沙のお勧めによって私たちは阿弥陀の世界の大事さを頂いていくということが起ると云っていいと思います。で、阿弥陀経からの二文でありますが、これに観経のお言葉を加えて[またこの『経』(観経)の定散の文の中に]とカッコして観経と書いてありますが、善導大師は観経を解釈してますからね、観経とは云わずに「この経」と云ってるわけです。「定散の文」というのは、定善を説く13観の観察の方法を説くところにも、散善の中にもということです。ただこれも善導大師の読み取りでこうなりますけれども、定善のところでは名号を専念してなんていうことは直接出ないわけです。さっきも云いましたが、西に沈む太陽を観る、あるいは阿弥陀仏のお姿を観る、こういう心に仏を思い浮かべていく方がすぐれているということを初めは勧めているんですね。しかしそれが出来ないところにも道はあるという形で、後のところへ行きますと名号一つ、もっと云えば十遍声に出して称えなさいと、称名念仏が勧められて行きます。で、その部分を善導大師は最後の方に来てお釈迦さまが云うわけじゃなくて、これは全部に通ずるというふうに受け取っていくわけですね。だから始めは一応目標を与えて、ここからやれと云ってます。これはもう19願のところでお話してきましたね。あれもやりなさい、これもやりなさいと云っている。しかし出来ない者の上にも必ず道は開かれる、これは名号一つの仏道であります。だから観経はそこに引張って行くためにあの手この手を云うてるだけであってですね、前半で止まること、私はやれてますと云うて威張ること、そんなことを願っている経典じゃないんですよ。それは私たちを念仏一つというところに導くための方便の教えだというように善導は見ているわけです。これは親鸞聖人が化身土でずうっと観経の根本の心を確めるところにも出ていたことでもありますが。だからここはある意味結論なんですわ。観経は順番に読んで行くと、とてもこうはなりません。ところが定散の善ですから定善の中でも散善の中でも「ただ名号を専念して往生を得」と、このことが表わされているんだとこういうふうに云うわけですね。このことは沢山の経典で詳しく云われていると云って、ここでは無量寿経と阿弥陀経と観経、この三部経の言葉を善導大師なりにギューとまとめた、それを証拠として挙げておるということであります。それをまとめて「この例一にあらざるなり。広く念仏三昧を顕し竟りぬ、と。」念仏にある三昧ですね。まぁこれも観経のところでお話しておりましたが、善導大師は観経の註釈を始める前に玄義分で一経両宗〈詳しくは本講座(15)をご参照下さい〉ということを云うて行かれますね。玄義とは奥深いという意味でしょうか、言葉の註釈に入る前に第一巻目に観経玄義分というものを置いておられるわけです。これすごい話ですね。観経の奥深い意味を表わす部分と云うて、それは観経でなくて善導大師のお言葉なんです。善導大師が書いた言葉なんですが、これを踏まえないと観経は読めない、読み誤るということで註釈に入る前に玄義分を置いてます。観仏三昧と念仏三昧
で、その中の一つに、このお経は一つの経典であるけど二つの宗があるということを云う、それが観仏三昧と念仏三昧なんです。観仏も広い意味では仏を念ずる念じ方ですよね。心を落ち着けて仏を想うということですから、これも念仏ですが、善導はこれを分けるわけです。で、観経は一見して誰にも観仏の経典に見えますね。でもこれを宗としている。要のこと、一番云いたいこととして説かれているんだけれども、もう一つの宗がある。これが念仏三昧だと云います。この念仏というのは観仏に対して云うと、これは称名念仏を掲げていくためにこんな言葉をわざわざ云うわけですね。善導大師といえどもですよ、始めっからこのお経は念仏三昧の教えだと云うには無理があるわけですよ。ちょっと待てということになりますわね。どう見ても観仏三昧を云うていますから。でもそれを云うているけれども、もう一つ念仏三昧のことがこのお経の中心になっているということを云うて行くわけでありました。で、親鸞聖人まで来るとそれがはっきりと示されておりましたですね。ちょっと戻りますが聖典332頁、善導大師のお心を承けながら観経をどう読むかということを親鸞聖人が示しておられたわけですが、その中ほどに「若有合者名為麁想」という観経のお言葉が出て来ます。もし合しないのであれば、それは妄想であり邪観なんですね。で、合したとしても、それは麁(あら)く観た、本当に仏を観たとは云えないという意味で、ぴったりと合うたとしても、あらあらと観たと云うだけだと、こういうお言葉です。これを親鸞聖人は「これ定観成じがたきことを顕すなり」と仰る。心を落ち着けて仏を思い浮かべていくということはなかなか難しい。成就しがたいということを語るお言葉なんだということです。その後に「於現身中得念仏三昧」という言葉がある、現身の中に於いて念仏三昧を得ると。これは私たちの上に起ることとして云われるわけですが、これはなにかと云ったら「定観成就の益は念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕す」とこういうように云います。つまり定善をいろいろ説いているけれど、それは仏を念ずる念仏三昧、三昧ですから本当に生きていく中心になっていく、他のことに心を奪われない、こういうことがこの観経では云われている。だから観仏三昧を説いているのは念仏三昧に進めるためなんだということを親鸞聖人は善導の意を承けながら云い切っていくわけです。それをまとめて「すなわち観門をもって方便の教とせるなり」と。だから仏を心に思い浮かべなさいという観察を説いているのは我々を導くための方便の教えなんですと、こういうことを断言していくわけであります。これは観経では第八像観の後ろの方に載っています。この辺も読んで来たと云うてもだいぶ前のことでありますけれども、こういう観経の押えが前にあったわけです。で、今日のところに来ると念仏三昧という言葉が書かれてあることを抜いて来られまして、だからお経に名号一つ、名号をもって阿弥陀仏を専ら念ずる、これが念仏三昧だということを云おうとする。三昧ということを聞くとね、なんか特別の境地に入るような思いを持つわけでありますが、そういう行を重ねてのことじゃなくて名号によって我々に三昧ということが成り立つというふうに云っていいと思います。逆に私たちの心は三昧というような境地に到達できない、いつでも雑念が雑ざって来るんです。でも南無阿弥陀仏によって、阿弥陀をいただくということがいつでもどこでも起きる。だから念仏三昧というのは、私の心から雑念が払われる体験だと思わない方がいいですね。南無阿弥陀仏のところに阿弥陀が現前して下さる、いただくことができるんです。まぁここは衆生が仏を念ずれば阿弥陀仏も衆生を念じて下さるということが述べられる部分です。親鸞聖人はそれを本当に避けておられますね。法然上人は非常に大事にした言葉なんですが、親縁・近縁・増上縁ということが観経疏で云われ、選択集でも云われるんですが、親鸞聖人はそこはとりああげ取り上げられません。これがやっぱり念仏三昧を特定の境地として見ることを注意なさったと思われます。戻りますと、ここは沢山の行があるけれども、それと比べものにならないのがこの念仏だと、あるいは名号だと云う善導の言葉が述べられているわけです。さっきちらっと云いましたけれども念仏の衆生を摂取不捨するということを更に踏み込んで善導大師が解釈なさるときには、余の雑業の者は摂取不捨しないと云っていく。
雑行雑修の人をまもりたまわず
この文章がたいへん有名であります。聖典522頁を開けて下さい。最後の2行に「言護念増上縁者」これは善導大師の観念法門からのお言葉ですが、これの最後に「現生護念増上縁」現生に護り念ぜられる増上縁を示すお言葉が置かれておりまして、まぁこれ善導大師のお仕事として引用してくるわけですが、これに親鸞聖人が註釈を加えておられますね。少しだけ読んでみましょうかね。[「言護念増上縁者」というは、まことの心をえたる人をこのよにてつねにまもりたまうともうすことばなり。「但有専念 阿弥陀仏衆生」というは、ひとすじにふたごころなく弥陀仏を念じたてまつるともうすなり。]これさっきの観経の言葉で云えば「念仏衆生摂取不捨」つまり仏を念ずる者ということをここでは「但有専念 阿弥陀仏衆生」阿弥陀仏を専念する衆生と云うわけです。そして[「彼仏心光 常照是人」というは、彼はかのという。仏心光は無碍光仏の御こころともうすなり。常照は、つねにてらすともうす。つねにというは、ときをきらわず、日をへだてず、ところをわかず、まことの信心ある人をばつねにてらしたまうとなり。]ここでは念仏の人という云い方をせずにまことの信心ある人と云ってますが、これ念仏する者、なお名号を持(たも)っていく者というのが、そこにまことの信心がある人だというふうに親鸞聖人は受け止めていると思います。「てらすというは、かの仏心のおさめとりたまうとなり。仏心光は、すなわち阿弥陀仏の御こころにおさめたまうとしるべし。是人は、信心をえたる人なり。」是人はこの人というのが元なんですが、親鸞聖人は信心の人と、あるいは信心をえたる人と云うて行きます。もっとすごい他のところでは虚仮疑惑の者は人ではない、非人と云う、とこういうことまで仰ています。是人というのは信心を得るところに人となるんだとここまで仰っていますが、ここではまぁ是人は信心をえたる人なりと云ってます。そして[つねにまもりたまうともうすは、天魔波旬にやぶられず、悪鬼悪神にみだられず、摂護不捨したまうゆえなり。「摂護不捨」というは、おさめまもりてすてずとなり。]とあります。ここに念仏衆生が摂取不捨、まぁここでは摂護不捨でありますが、こういう利益を得るということが明確に語られていますね。でも善導大師はその後にそれ以外の者はその利益に与からないんだということを付け加えるわけです。それが次の言葉[「総不論照摂 余雑業行者」というは、総はすべてという、みなという。雑行雑修の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまわずとなり。]つまり念仏以外の行にはげむ者、善根功徳に執われる者、これは照らし摂められないと云うわけであります。「てらしまもりたまわずともうすは、摂取不捨の利益にあずからずとなり。本願の行者にあらざるゆえなりとしるべし。」だから摂取不捨と云っても、なんでもかんでもありという意味じゃないんですよ。阿弥陀を念じない者まで知らん間に摂取不捨される、そんなことじゃない。阿弥陀のはたらきに頷くところに、阿弥陀をいただいていくところに摂取不捨という利益に与かるんだと。だから余の雑業の行者が摂取されないのは、それは本願の行者でないからだとここまで云ってますね。。行者という言葉も親鸞聖人は度々お使いになりますが、これは何か特別の行じゃないですよね。念仏に立って生きていく、ボクは生活と云ってもいいと思っています。阿弥陀仏に護られて生きる 真の仏弟子
これは安田先生が本願の生活者という云い方で念仏の行人とか信心の行者ということを云いあてて下さったという思いがあるからです。本願の生活者、これは安田先生のお言葉でありますが、本願に立って生きていく者、生活していく者であります。でもこれはいつも今のことですよね。昨日念じたから今日は大丈夫と云うわけにいかんでしょう。あるいは私若い頃に本願に帰したのでそれから後は放っておいても大丈夫だ、そんなことあるはずがありません。南無阿弥陀仏を通して阿弥陀の世界をいただき続けていく、これは生きている限り終らない歩みですよね。だから本願に帰したつもりでも、そこから離れていく、背いていくということがあるんです。だから謗法という問題はずうっと生きている限りくっつくんですよ。これが後の20願のところで難信論ということで問題になるわけです。信じているつもりという疑いと云うかね、私ほど本願を信じている者はおらんと云う、それが邪見憍慢に落ちて行くということがあるんですね。だからこれは誰か別の人のことじゃありません。どこまでも名号を通して阿弥陀を念ずるところに摂取不捨の利益に与かるということですね。最後に「しかれば摂護不捨と釈したまわず」と云った後[「現生護念増上縁」というは、このよにてまこととの信ある人をまもりたまうともうすみことなり。増上縁はすぐれたる強縁となり。]いよいよそれが強くなっていく、こういうように云われる。これが教行信証ではどこに引かれているかと云うと、信巻の真の仏弟子釈のところにあります。248頁4行目にさっきの観念法門の文章がそのまま抜かれております。これは真の仏弟子ということを述べる一段のところに置かれておりまして、これを取りまして真の仏弟子とはなにかと云うたら阿弥陀にまもられて生きる、そういう者なんです。しかもこの世でですよ、現世の話です。現世に阿弥陀に護られて大事な確かめだと思います。生きる。これは親鸞聖人の非常に大事な確かめだと思います。これ何遍も云いますが、浄土の教えというとどうしても浄土に行ってからの話というふうに思われがちなんですね。勿論私はもう浄土に行ってしまってます、そんなことは親鸞聖人仰いません。三日前から往生してます、そんなことも仰いません。しかし浄土に向かうということが決まれば今の生き方が大きく変るわけです。ここで云えば阿弥陀にたもたれながら生きる、阿弥陀に護られて生きるということが起る。逆の云い方をすれば私たち阿弥陀に護られなかったら世間の価値観にあっという間に呑み込まれます、沈んでしまいます。今年もいろんなことがありましたけど生産性ということで責められた国会議員がいましたけれど、あの国会議員だけの話じゃないですよね。生産性ということで人を見ようとする、でもそれは私たちの中にもその心ありますよね。何か生産に繋がっていると価値があると思い易い。逆に何も生産できてない、何もお役に立ててないと思うと自分の存在はいても仕方がないというような思いに執われていきますね。心が折れそうになるし、心が挫けそうになる。そういう時に阿弥陀に護られて生きる、これが現生の話だと云うわけです。だから浄土に行ってから、生まれてからの話じゃなくて、今ここで賜る利益として真の仏弟子のところにこれを引いておられるということであります。云いたかったのは化身土巻のところに戻れば、名号のはたらきによって私たちが必ず迷いを超えていくということを勧めて下さっている、それを善導が確かめた言葉が先ほど読んだところであります。もう一度見ておきますと348頁ですね。それは念仏ということが要だということ。念仏のすぐれたはたらき、これを大経でも阿弥陀経でも観経でも勧めて下さっていると。これが善導大師による確かめの言葉として出ているということです。さっき読んだ十方恒沙の諸仏の証識という辺りから次の散善義の文章に繋がって行くことになりますが、一旦休憩することにしましょうか。観経疏散善義の文
349頁の3行目から一回音読しましょうかね。[また云わく、また決定して「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して、決定して生を得」と深信せよ。乃至 諸仏は言行あい違失したまわず。たとい釈迦、指えて一切凡夫を勧めて、この一身を尽くして専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるるは、すなわち十方の諸仏ことごとくみな同じく賛め、同じく勧め、同じく証したまう。何をもってのゆえに、同体の大悲のゆえに。一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説かく。乃至 また一切凡夫を勧めて「一日・七日、一心にして弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ん」と。次下の文に云わく、十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦を賛めたまわく「よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪無信の盛りなる時において、弥陀弥陀のを指賛して、衆生を勧励して称念せしむれば、必ず往生を得」と。すなわちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏れて、すなわち共に同心・同時におのおの舌相を出だしてあまねく三千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、「汝等衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。」このゆえに一仏の所説は、一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを「人に就いて信を立つ」と名づくるなり。抄要]抄要と結んでおられますが、これは要点を抜き出すという意味でありまして、間々を省略していることがあるということをお示しになっておられます。だから気になる人は元を見てくれということですね。親鸞聖人は自分に都合のいいいところだけを引いて来たと云うんでない。これは中略してますからと、省略しているところがありますから全部見たい方はそちらを見て下さい。ただここは名号を善本徳本として、名号一つをお勧めする、それを善導大師がこう仰ってますよと絞って抜いてきている。だからここの文脈に親鸞聖人が不要と思われるものは落とされている、ということなんですね。ただここの文章は信巻にも引かれておりまして、信巻の方は真実信心の内容として挙げるわけなんですね。真実信心の内実を示すものとして同じ部分、ピッタリではありませんが、ほぼ同じところを引いておられます。それに対してここは方便、名号の真門として我々に与えられているということを云う言葉として引かれるわけであります。これが重なっているのが面白いですよね。まぁこれを通して気が付くのが真実信心の中味になるわけでしょ。しかし名号の真門を握れば真実の方に行かないんです。だから名号が真実信心を導く大事な方便の意味を持つかどうか。ここで止まってしまえば結局沢山の行の中の一つでしょうね。比叡山に上っての行は無理だけれども、念仏ぐらいやったらいけるわ、となると沢山の行の中のまた一つ、比べた話になりますよね。どこまでも真実に導くための方便という意味がある。だから両方に引かれているということが非常に注意を引くわけであります。
就人立信
もう一つ最後の言葉を先に云うておきますと「人に就いて信を立つ」と云われる。これは「就人立信」という言葉なんですが、「じゅにんりっしん」と読みます。人について信を立てると。これもね、普通考えれば人について信を立てると云えば、人にぶら下がっているような、なんか人に甘えるようなイメージを持ちますよね。たとえばお釈迦さまで云えば、法に依りて人に依らざれと仰る。ああいう言葉を大事にいただくとすると、これはなんか人にぶら下がるようなことになるんじゃないかと思うわけです。しかしあの法に依りて人に依らざれというのは人に遇わないと法に遇えないということがあるからでしょう。人に遇わずに法に遇えるんだったら、わざわざあんなことを云わなくていいんです。お釈迦さまを通して法に出会ったということがあるんです。しかし依るべきは法だぞということを云う時に法に依りて人に依らざれと云うわけです。人を抜きにして初めから法に出遇えるんだったらあんなこと云わんでもいいんですね。人に遇うことの大事さ、人を通して信心が立つということの大切さ、これがここで云われるわけです。これは真実信のところに既に出ているんですが、こちらで云うと、今は20願の問題ですが、前に読んだところで云うと、恒沙の信ということがあったでしょう。345頁ですが、親鸞聖人が阿弥陀経の中の真実のお心を受け止めて仰っているところでした。345頁の3行目でしたね。[「彰」と言うは、真実難信の法を彰す。]阿弥陀経の表に顕れているのは、他の行は止めて念仏しなさいと云ってるわけです。念仏一つを勧めるのが阿弥陀経の言葉通り説かれていることなんですが、それを通して云いたいのは「彰というは真実難信の法」、これがなかなか遇い難い、誰もが平等に助かる法なんていうのは私たちから云えば一番遠いんです。そんなことあるはずないと。やっぱりやれた人とやれない人、感の鋭い人と鈍い人、あるいは悪人か善人か、差を付ける方が分かり易い。みんな共に助かるなんていうのは私たちからは理解できないですね。でもそれに出遇わす、そこに南無阿弥陀仏というのは誰も分け隔てしないでしょ。長年聞いて来たか今日初めて聞いたか、そんなことも問わない。お経をどれだけ知っているか、それも一切問わない、今までの業も問わない。それに導くためなんです。その時に「これすなわち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。」とあって「良に勧めすでに恒沙の勧めなれば」これ恒河沙の諸仏が勧めて下さるということを云ってます。それによって起る信心なので「信もまた恒沙の信なり」と書いてありました。恒沙の信というのは変った言葉ですよね。でもこれは恒沙の諸仏の勧めによって発るんです。あの手この手、いろんなことが我々を真実の信心に導いて下さる。だから私が発す、そんなものじゃない。恒沙の諸仏によって発る目覚め、これを恒沙の信というふうに云うてます。それに重なって「就人立信」なんです、具体的には。いろんな方々のお勧めを通していただいていく。これはもうちょっと云うと、一度得たと思ったところに腰を下ろすのが我々の常でありますが、それをもう一遍奮い立たせる、もう一遍歩ませる、これも恒沙の信の大事なところでしょう。私は大学で学生の前でお話しするようになっ30年ほどになりますけれども、前には届いた話がだんだん届かなくなってきた。ボクとしては分かり易い譬え話をしているつもりが全然頷いてくれない。滑るんですよ、譬え話が。まぁ今年の一年生にボク大分苦労してまして毎回心が挫けそうになるくらい言葉が通じない。まぁそらそうですわね。ここは皆さん聞きたいという人が来て下さっていますからボクは何云うても大丈夫やという思いで喋り易いんですけど、聞きたくない子が座っているわけですからね。まぁお寺の子もいますけれども、お寺の子であっても親が行けというから座っとるだけとかね、単位のために来てるだけという、なかなか難しいんです。ボクからすると、あぁ去年の学生は良かったという思いが出るんですよ、やっぱり。しかし違いますよね、つまり去年の譬え話は通じないということが今年の学生によって知らされる。あるいはそれがどう受け止められているのかということをもう一遍確かめ直させられるということがある。だから去年通じたから今年も行けるはずだと、そんなことあるはずないんです。一人ひとり皆違うんですから。まぁでも学生に向って、ああキミ等はボクの諸仏やとは云いませんけど、そういう座り込んでいるのを立たされる、自分が分かったつもりのところをもう一遍吟味させられる、こういう意味で通じないということが歩ませられるんだなぁということをつくづく思います。もうこれでいいなんて腰を下ろしていられないわけです。そんなことを思わせられながら教壇に立っているわけでありますけれど、親鸞聖人はもう分かりましたなんて絶対云わなかった方でしょう、私はもう完璧ですなんてどこにも仰っていない。本当に生きている限り周りの方々と共に聞いて行かれた、そういう人ですよね。それが本当の意味の御同行と云うわけでしょ。弟子なんかじゃないんですよ、周りの方々によって歩まさせられて行くということも親鸞聖人は仰っています。これがここで云うと20願の恒沙の諸仏の勧めによって目覚めさせられていく、確かめさせられていく。人に就いて信を立つということが信巻でも出るんですが、ここでもう一遍云われる。信巻の方はそれによって発った目覚めの内容、どういうことがはっきりしたかということです。こっちは云うてみれば名号があの手この手いろんな形ではたらいてくる、これが人の働きかけ。こういうことを就人立信ということで特に云おうとしていると思います。だから同じ部分の文章なんですが、親鸞聖人には引き方、読み方が変っていくということがあるわけです。349頁の3行目をちょっと見ておきましょうか。[また決定して「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して、決定して生を得」と深信せよ。]と、こう読んでますね。このことを信じなさいと、このことを深く信じなさいという呼び掛けとして阿弥陀経が我々に勧めて下さっている。これはお釈迦さま一人じゃなくて十方恒沙の諸仏が一切凡夫を証誠し勧めて下さっている。こういうことなんです。信巻の方を見てみましょうか。どこにあったかというと216頁2行目[また決定して「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得」と深信するなり。]とあります。化身土は「深信せよ」という呼びかけでした。これを信じなさいよと勧めて下さっているんですが、信巻は深信するなりと。これはもう頷いた内容として読んでいるから、こんな訓点が付けられるのでしょうね。これは見ると分かってもらえると思いますが、前の頁の後ろから3行目「二者深心」から続く長い文章なんですね。観経が説く至誠心・深心・回向発願心、正確には「一者至誠心、二者深心、三者回向発願心」とお釈迦さまがちゃんと順序次第を示して語って下さる、その2番目の深心について善導大師が註釈を加える部分ですね。二者深心というのは何かと云うたら[「深心」というはこれ深信の心なり。]深い心と書いてあるのは深く信ずる心だと云うてますね。そして「また二種あり。」これ宗学では機法二種深心と云われるわけですが、一つ目は我が身のことがはっきりと分ったと。これが[一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。]これは自分が迷いを繰り返して来た、決して迷いを出ることのない凡夫であるという我が身に対する目覚め。親鸞聖人はこれをまとめて仰る時は深信自身と仰います。機の深信と宗学では云って来ましたが、自分のことが分かった、こういう目覚めであります。これ決してお前はダメなもんやと云ってるのではないですね。逆でありまして、こういうことを知らずに、ああやれば大丈夫、こういうことを、このことをやれば大丈夫と云うて妄想を膨らまして生きているのが日頃でしょ。結局それは一所懸命生きていても傷つけ合うことも超えられなければ心の底から満足することにもならない。これは自分のことが分かってないからです。やればなんとかなると思っている、自分は間違いを犯さないと思っている。傷つけ合う場合もおかしいのは向うだと思っている。全部これ我が身が分かってないところに、そういう妄想に振り回されてしまうことが起るわけです。自分のことがはっきり分かるというところに私は教えを聞かないといけないということもまた決まるんですよ。自分のことが分からなければ私に自信ありますから、この生き方で間違ってないと突き進むわけです。衝突してもおかしいのは向うであって私は間違ってないと。これは自分に本当に目が覚めるところに、自分は教えられなければいけないということもはっきりする。だから二つ目も「法の深信」と宗学では云いますけれども、これは教えによって助かっていく自分についての目覚めだと云ってもいいんですよね。そのことが[二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。]とあります。阿弥陀仏の四十八願、これは衆生を摂め取る。どんな者も漏らさない。そこに乗ずるところに、間違いなく迷い傷つけ合うことを超えられる、往生を得るんだと云ってます。親鸞聖人はこれを「深信乗彼願力」と云ってますね。親鸞聖人はと云いましたが、これは愚禿鈔という書物のまとめであります。七深信の中で一つ目は深信自身、二つ目は深信乗彼願力、彼の願力に乗ずるそのことを深信すると云ってもいい。彼の願力に乗じて深信するという訓点もあります。これも云ってみれば機の深信、法の深信というとなんか別のことに聞こえますね。機は我が身に対して、法は教えについての深信だと。そうも云えますけれども、教えによらないと迷いを超えられない私ということがはっきりしたという意味では、機の深信の展開ですよね、これ。もっと云えば同時なんです。片方だけを云ったら、機の深信は私は情けない者やという単なる絶望に終るでしょうね、しかしその中味にはこれが大事だったんだということがあるわけですよ。だからこれ第一の深信、第二の深信の順になっていますが、まず我が身に対しての問いかけ、あるいは今までの私に対する振り返り、こういうことがない限りこういうことは絶対に起きません。私は間違っていません、人から批判される必要もありませんと云うているときには、教えを聞かなきゃならんなんて決まるわけがないんです。念仏に譬えてもいいんです、念仏しなきゃならんとも思わんわけです。そんなもんなくても大丈夫ですと、自信満々の間はそうですわね。私は仏教なくても生きられますと云ってるわけですから。しかし自分がどんな者かということを本当に知らされたときに、この本願に乗じて生きて行く、ここに私の道があったかと、こういうことが見えるのです。だから第一、第二という順序で示されますけれども、これを段階的に考えると話が厄介になりますね。大谷派でも機の深信を呼び起こすために「機責め」と云うてね、とことん叩いていくという方法もありました。大事な面もあるし、それで翻りが起る場合もある。しかし潰してしまう場合も起るんですね。単にダメだダメだと否定されているように思う。しかしそうじゃなくて、そこに道があるということに気付くわけなんですね。ここから更に第三、四…と続いて、親鸞聖人は七つの深信と云いますが、これは全部このことを詳しく云っているのです。だから二つ目の内容が、三、四、五、六、七と、全部で七つの深信というふうに愚禿鈔では仰っていますね。でも七つといってもね、七個あるわけじゃない。目覚めた内容を七つの側面から確かめられているということなんです。ただ厄介なのは六つ目までは信巻に引かれるんです。七つ目はこれはもう既に読みましたが第19願のお心、私たちに仏道に向えと、一所懸命やれという心を起すものとして、親鸞聖人は化身土巻に引いておられました。「建立自心」自心を建立せよと。これも大事な言葉だと思いますが、親鸞聖人はこれは私たちへまず一生に道を求めて行けということを奮い立たせる言葉として第19願のところに引いていらっしゃいました。だから信巻では六つ目までしかないんですよ。で、その時にさっきのところ四番目に阿弥陀経のことが出て来ます。もう一回見ましょうかね。二番目からの展開だということを思っていただいて、216頁1行目、[また決定して深く、「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を称讃して、人をして欣慕せしむ」と信ず。]「欣慕せしむ」という言葉がある通り観経にいろんなこういう善が説かれている。それは私たちを願わせるためだったと、中味から云うてしまえばこれは方便だったということでしょ。これがはっきりしたんですよ、それを通して出遇わせたいものがあると云うんですよ。これは観経について云っていますが、四番目の弥陀経のことは[「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得」と深信するなり。]と。阿弥陀経の十方恒沙の諸仏のお勧め、これは私たちに往生ということを勧めて下さっている、そのことがはっきりしたと。まぁこの信巻の信心の内実と云いましたけれども、これははっきりとそうだったのかと頷いたことの中味として読んで行くことが出来ますね。その後、化身土巻では乃至となっておりましたが、五番目六番目、そして七番目は19願のことでしたが、そこまでずうっと乃至としまして、どこから引いているかというと左の頁、217頁の1行目の下の方です。「釈迦、一切の凡夫を指勧して」という言葉があるでしょう、そこからずうっと来て後ろから4行目の[すなわち一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを「人に就いて信を立つ」と名づくるなり。]この部分は信巻の方には真実信心の内容を表すもの、頷いた中味を語るものとして説かれていますが、化身土巻の方はこれを私たちへの諸仏からのお勧め、お釈迦さまからのお勧めの言葉として読むことになっているわけです。なんで親鸞聖人がこれを両方に跨って引かれたのか、これは考えないといけないと思います。私なりの今のところの受け止めは化身土巻は私たちへのお勧めの言葉でありますが、それによって目覚めた中味が説かれるのが真実信心、逆に云えば、その目覚めた中味がはっきりしないと勧められていることが手柄として握っていくとか、私は念仏やれてますというところに誇ることが起って来る、必ず行の一つとして握られていくという問題があるということですね。「同体の大悲のゆえに」
もう一度349頁へ戻ります。4行目の「深信せよ」まで読んで、その後「乃至」と途中がだいぶ中略されまして、ここから引用されております。「諸仏は言行あい違失したまわず」これは信巻にはありません。でもこっちはこのことを云いたいんですね。沢山の仏さまというのは仰ることもなさることも決してくい違いはないと云うんです。もっと云えば仏さまは決して優劣を競うということはありません。衆生が助かって行くことを共々に願われる、そういう存在なんですね。だからオレの方が上だ、そんなこと云うのは仏さまではないんですね。諸仏は言行あい違失したまわず、お互い決して食い違うことはないと、これをここから云うていく。その意味でこの化身土は始めの一句に云いたいことが集約されていると見ていいと思います。あの仏さまも勧めて下さる、この仏さまも勧めて下さっていると。これが阿弥陀経を中心にしてですが、名号一つ、南無阿弥陀仏一つということをどの仏さまも勧めておられるよという文章として引いておられる。まぁその意味で云うと信巻の方は仏のおはたらきをいただいた、それによって目覚めたという中味として見ていくことが出来ます。続いて「たとい釈迦、指えて一切凡夫を勧めて、この一身を尽くして専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるるは、すなわち十方の諸仏ことごとくみな同じく賛め、同じく勧め、同じく証したまう」と。ここは読んでいただいてわかるとおり諸仏もお釈迦さまも同じお心であると、同じことをほめて、勧めて、証して下さっているとなっていますね。そして「何をもってのゆえに、同体の大悲のゆえに」とあります。たいへん有名なお言葉であります。仏は体を同じくする、そういう大悲に立っておられるのであるというのです。勿論その照らす範囲は仏さまによって違うということはあります。しかし世間の痛ましさを照らし出すという質については何にも変わらない。これ真仏土巻に出て来ますけれど照らす範囲が身近なところだけという仏さまもいる。遠い仏さまでは本当にありとあらゆる世界を照らす仏さまもいると。それがどうして近い遠いの差があるのかと云えば、その背景が違うのだと書いてあります。でもどっちが上か下かじゃないんですね。で、この諸仏、お釈迦さまもそうなんですが、すべての衆生を慈しむ、何とか助かってほしい、痛ましいあり方を超えてほしいという大悲心から阿弥陀を勧めて行く。ここが大事なところですね。お釈迦さまといえども私を頼りにしなさいとは云わない。他の仏さまもそうです。私に出遇えば絶対間違いはない、そんなことは云わない。阿弥陀に出遇えということを口々に仰るわけです。これを確かめていくのがその後の言葉です。「一仏の所化」一仏が教化なさるところは「すなわちこれ一切仏の化なり」つまり一人の仏さまの教化によって仏道に立つということがあるとすれば、それはありとあらゆる仏さまの教化をいただくということと同じなんですね。逆に「一切仏の化」、沢山のありとあらゆる仏さまの教化は「一仏の所化」となって現れるんです。ですから私まだ一人の仏さましか知りませんなんて云うているのは、他の仏さんのところへ行けば、もうちょっと良いものがあるんと違うかと云うてるようなものですね。色気ですよね、仏さまをどこかで疑っているわけです。目の前に導いて下さる仏さまがおられても、この仏さまはそうかも知らんけど別のとこへ行けばみたいな。でもこれ仏さまと云うとそうなるかも知れませんが、先生だったらどうでしょう。私は〇〇先生に出遇いました。そこで仏法に出遇いました、というのならいいんですけれどね。私は誰々先生に遇うたけれども他の先生は知りません、みたいな。遇うたことが自慢話になったりするんですね、どうしても。勿論人を仏と見よというようなことを云いたいんではなくて、そこに何か足りないものがあると思っている、一人の先生じゃなくて十人に聞けばもっと良かったみたいな、そんな心って何なんでしょうね。結局最後には知識を誇るだけかも知れない。あるいは出遇った体験をひけらかすだけかも知れませんね。本当にこの方のお言葉を通して仏法に遇わしていただきましたということがあれば、それはもう一切仏の教化なんだと云ってるわけです。沢山の中の一人というような見方、そこに仏さまということを見誤るのではないのでしょうか。それを親鸞聖人はここに引くわけですけれども善導はそういう私たちの発想を叩いていると思うんです。なんで不足があるんでしょうか。なんで足りないと思うんでしょうか。別のところは行けばもっと新しい情報が見たいな、そういうことかも知れません。でもそれはなんか分量で量る発想が抜けてないでしょうね。仏法に遇うというのは質の違う本物に遇う、真実を求めるということがあると思います。で、それを云った後に[すなわち『弥陀経』の中に説かく、]とあって「乃至」と。ここはね「説かく。」にしておいていいと思うんですけどね、「説かく、」となっていると、この後が気になって仕方がないんですが。「説かく」の後はお釈迦さまが阿弥陀の世界についていろいろ説いて下さっていますという短い言葉があるだけです。信巻にありますのでちょっと見ておきましょうか。217頁の4行目です。[すなわち『弥陀経』の中に説かく]とあって[「釈迦、極楽の種種の荘厳を讃嘆したまう。」]この文章を化身土巻では中略しているわけです。こんな短い文章ならつけておいてもよさそうでしょう。なんでわざわざ抜かないといけないんでしょうか。でも信巻の方は確かにすなわち弥陀経の中にお釈迦さまが阿弥陀の極楽の荘厳を誉め讃えておられると。そして一切の仏もそうだと、こういうように続いて行く。だからここは[『弥陀経』の中に説かく]、でいい、後に続くからです。でも化身土の場合はこれは要らないんですね。阿弥陀経の中に何が説いてあるかということを云いたいわけじゃないんですよ。そうじゃなくて、お釈迦さまの教化は一切仏の教化だということを云いたい。お釈迦さまのお言葉にはありとあらゆる仏さまの願いも籠っているということを云いたい。だから説かれている中味について云う必要がないということなんでしょうね。ですから、」親鸞聖人がここで切る意味でボクはここは「。」にした方がいいと思ってるんですね。349頁に戻りますと、[すなわち『弥陀経』の中に説かく]説いてありますというのは「一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり。」これが『弥陀経』の中に説かれていますと、こう読んだというふうに思われるんですね。ちょっとこだわり過ぎかもしれませんが、ここはボクは「。」にしたいところであります。で乃至としてますから、さっきも云いましたが、気になる人は元を見て下さいねということです。ここは抜いてますよということを親鸞聖人は云うておられるんですね。でも教行信証というのは、そういう意味で云うと一筋縄ではいきませんよね、やっぱり。なんでこれだけのことを引いても良かったのにということを思わされますが、これはまた、化身土巻は化身土巻でいただいていくための取っ掛かりになるかと思います。繰り返しますが、こちらはお釈迦さまとすべてのお仏さまの教化は一つであるということを云うために、こういう文章が置かれてあるというふうに見たいと思います。ですからその後[また一切凡夫を勧めて「一日・七日、一心にして弥陀の名号を専念すれば定んで往生を得ん」と。]これもお釈迦さまの教化でもありますし、ありとあらゆる一切仏の教化でもあると、こう読めますね。