『教行信証』の化身土巻を読む(32) 一楽 真 師
2018/ 11/16
まことに申し訳のないことですが、今回の前半は録音の不調のため後半のみとなりました。前半の内容は前回(第31回)の要点を丁寧に再確認して下さったものでした。なんとかまとめることが出来ないかと考えています。
平等覚経の引用文を一応見たということにして、348頁9行目の観経の引文に進んで行きます。[『観経』に言わく、仏、阿難に告げたまわく、「汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。已上]とあります。そしてもう一つ[『阿弥陀経』に言わく、少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ、と。已上]と。まぁ名前ということが両方に押えられておりますね。これが大経の方で善本とか、それから善根とか、この功徳と云われていた、これが阿弥陀の名前であると、名号であると押さえる、そういう関係になっていると思います。非常に親鸞聖人はね、善本も徳本も功徳も他に探しに行く必要はないということを、名号一つということで確認して下さっている引用だと思います。
あと今度は善導大師のお言葉に移っていくわけでありますが、今度はお経の心をさらに展開してということになります。またそれは次回ということにしたいと思います。ありがとうございました。
平等覚経の引用文を一応見たということにして、348頁9行目の観経の引文に進んで行きます。[『観経』に言わく、仏、阿難に告げたまわく、「汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。已上]とあります。そしてもう一つ[『阿弥陀経』に言わく、少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ、と。已上]と。まぁ名前ということが両方に押えられておりますね。これが大経の方で善本とか、それから善根とか、この功徳と云われていた、これが阿弥陀の名前であると、名号であると押さえる、そういう関係になっていると思います。非常に親鸞聖人はね、善本も徳本も功徳も他に探しに行く必要はないということを、名号一つということで確認して下さっている引用だと思います。
観経の要「汝よくこの語をたもて」
で、一応元を見ておきたいと思いますが、観経の方は先ずこれ122頁ですね。流通文と云われて、お釈迦さまがお説きになられた教えを後の世に託していく、後の世に流通、響いて行くことを願って説かれた部分でありますが、文章そのものは122頁の後ろから5行目、ここに「汝好くこの語を持て」という一節が出て来ます。ここが引かれるわけでありますが、ちょっと流れを見ておきます。この頁の1行目から「その時に阿難、すなわち座より起ちて、前みて仏に白して言さく」と。阿難というのはやっぱり釈尊亡き後のことを担われた人のことでありますので、必ずお釈迦さまが入滅なさるということを予感させる。その時に何をたもっていったらいいのですかということを聞くんですね。それが次の言葉です。「世尊、当にいかんがこの経を名づくべき。この法の要を、当にいかんが受持すべき。」とこう云います。このお経をなんと名づけたらいいですかと。お釈迦さま自身にこの経典の題を聞くわけです。題というのはね、中味を一言で表わすもんですからね。もう一つはこの法の要、これ法要ということですからね、法要と云うとボクら儀式のことを思いますが、法の要なんですね。これをどのようにたもって行ったらいいですかと。そしたらお釈迦さまは両方に丁寧に答えますね。[仏、阿難に告げたまわく、「この経をまた『観極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩』と名づく。」と云います。標題は観無量寿経となってますが、これは極楽とその仏さま、そしてその仏さまは菩薩を伴っている。慈悲と智慧のおはたらきとなって形を現わしている観音・勢至でありますが、その菩薩を伴っている。これだけを観るんですね。まぁ観音・勢至も代表でありまして、無量寿仏お一人を観るという話じゃないということですね。仏にお遇いするということは、そのお仲間と云うかな、その世界をいただいていくことになるわけです。だからこれが経の題名だと押さえられております。面白いですよね。そこでもう一つ、経の題名が始まります。「また『浄除業障生諸仏前』と名づく。」と。浄らかに業の障りを除き、諸の仏のみ前に生ずると。こういう利益を語っていますね。だから極楽を観(み)、無量寿仏を観、観音・勢至を観るところに、どんな利益が与えられるかと云ったら、私たちが障りと思っていた業、今まで積み重ねてきたいろんなことが浄らかに除かれると書いてあります。これ単に過去を消すという話じゃないですね。浄化するわけですよね、まぁ転化すると云ってもいいかも知らん。転ずるわけです。過去の重い、本当に苦しかった体験が大事なことやったとなれば、そこに転ずるということがありますね。消し去る過去、都合の悪いもの、そんなんじゃないんです。今まで自分を縛って来ておったものが却って自分の中味になるということがあります。同時にそこにもろもろの仏のみ前に生ずると書いてあります。それがさっきチラッと云いましたが観音・勢至は代表でありまして、阿弥陀にお遇いするということは沢山の仏さまにお会いできるということなんですね。阿弥陀一仏を見るということは、私、阿弥陀さんに会いましたというようなことではありません。阿弥陀に遇うたら阿弥陀が照らし出す世界をいただくわけでしょう。そうすると私たちの眼(まなこ)では、使えるとか使えないとかやってるわけですが、そうじゃなかったという世界がいただける。すべての存在が輝いている。それが諸仏が目の前に現れるという意味ですよね。本当はその諸仏に励まされて歩んで行くということも起きるでしょうね。さっきも諸仏称名の話もしておりましたけれども、私たち日頃は人から自分の生き方に忠告を受けたとしてもなかなか聞きませんわね。ほっといてくれ、みたいなもんです。あんたに云われたくないみたいなもんで。しかしそれを後から泌々いただいて見れば、あぁあの人の云う通りやったなぁと云うこともあるんですよね。あの時聞いておきゃ良かったということもあったりします。でもその私のことを思って忠告して下さる人の言葉であっても、なかなか受け止められないでしょ。その時は自分が一番正しいからですよ、間違っておらんという憍慢の心がそれを受け付けない。しかし阿弥陀に照らされるというのは、その自分の狭さを知らされる。阿弥陀の光に遇うということは、自分の闇が知らされるということです。そこにいろんな人のお言葉もいただけるということが起きるでしょうね。さっき信の一念の話もありましたけれども、それは本当に一瞬一瞬でありまして、ずうっとそんな気持ちが持続するということはないんですね。私のしょうもない例で云うても、大学で学生と付き合うておりますと自分の云うことをスッと聞いてくれる学生がやっぱり大好きです。五遍も六遍も云うてもなかなか頷いてくれないと、なんで分かってくれんのやと云う気持ちになったりします。しかし頷いてもらえんというのは自分の狭さを照らし出してくれているわけですね、あんたのたとえでは分からんと。あんたの受け止めはボクには届かないということを云うてくれてるわけです。そしたらそれを通して、どうやったら届くかなぁということを、また考えさしてもらえるということが実際起こるわけです。だから彼のお蔭で鍛えられたなぁということもあるわけです。まぁその彼のことをなかなか諸仏とは思えませんけども、そうやって歩まされていること、狭い狭い世界に腰を下ろしていたことから立ち上がらせられていることが実際あるわけです。そうやってみれば自分の話の通じる人ばっかりが周りにいたらえらいことになりますわね。通じないということが実は大事なお育てに与かっているということが本当にあるわけですよ。阿弥陀の世界に一度遇うてみれば、自分から云えば好きな人と嫌いな人があっても、そんな話じゃない。これが諸仏のみ前に生ずるという利益として語られているわけです。これを押えた後に「汝当に受持すべし。忘失せしむることなかれ。」と云う。忘れるな、失うなと呼びかけています。これをどうやって保つかと云う中味を云ったのがさっきの言葉なんですね。これ長いので省きますが、「生死の罪を除く」とかね、観音・勢至が善き友となって下さるというようなことが書かれています。いわばこの『観極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩』という題名と『浄除業障生諸仏前』という題名、これを詳しく云っているのが次の言葉なんですね。これを踏まえて忘れるな受持しなさいという、これをどうやって保つかという方法を云っているのが[仏、阿難に告げたまわく、「汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。」]と云われてます。この語というのは直接にはこの直前に語られた流通文のお言葉ということも出来るでしょう。更に広く云えば、この観経、今まで説いて来たお経全体、これを忘れるなよということとも云えますわね。しかしそれ全部憶えて置けという云い方はなさらないですね。この言葉をたもてというのは無量寿仏のお名前をたもっていけばいいのだとこう押さえておられます。一言に集約して下さっているわけですね。これを親鸞聖人は第20願のお心を表わすものとして化身土巻に引いてくるわけです。これもすごい読み取りですよね。これ観経のお話しでしょうということになりますね、普通は。これ別に20願の話じゃないでしょうと云えば本当にそうです。しかしここが正にお釈迦さまが功徳の蔵を開いて我々に要はこれだということを教えて下さっているお言葉として読み取っておられるわけです。戻りますと348頁。「『観経』に言わく」と、つまり「仏説でこう云われています」ということを押える引用であります。無量寿仏の名をたもつと云うと、これどうしても南無阿弥陀仏ということとどう関係するのかとよく聞かれるところであります。これやったら無量寿仏でいいでしょうとよく云われますが、無量寿仏の名をたもっていくということは、そこに必ず「南無」が付くんです。なぜなら仰ぐからです。阿弥陀でいいと云ってアミダアミダアミダと音を繰り返す話じゃないんですね。無量寿仏の名をたもてと云われて無量寿仏、無量寿仏と云うとけばいいんでしょうと、そういうのはたもつことにならないです。阿弥陀の世界をいただいていく。繰り返しますが、このお経をいただいてくれと。全体はそこなんですが、約(つづめ)れば名前なんですが、それはどうしても南無が付く。それは仰ぐということがあってこその名をたもつということになりますよね。まぁ云うとけばいいんでしょうというたもち方、それは保っているんじゃないんですね。発音しとるだけになると思います。阿弥陀の世界をいただくときには阿弥陀に南無せよと云う声をいただいて、ハイ阿弥陀に南無しますというたもち方に必ずなってくると思います。無量寿仏の名といっても、これは無量寿仏と云う固有名詞の話じゃなくて南無が必ず付くと言わなきゃなりません。阿弥陀経の要「阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ」
で、続いての阿弥陀経、これもさっき読みましたが、「少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ、と。」と云われます。「少善根福徳の因縁」これは後を読めば名号以外のことです。名号以外は少善根であり少福徳の因縁では決して生まれないということを云ってるわけです。で、「阿弥陀仏を説くを聞きて」とこれも先ほどご質問がありましたが、これは端的にはお釈迦さまが阿弥陀のことを説いておられる、それを聞いてくれということですが、しかし阿弥陀経ではお釈迦さまだけじゃないですよね。六方の諸仏さらに開けば十方の諸仏が阿弥陀のことをほめ讃えております。それを聞いて、そしてその名前をたもって行きなさいと云うのです。まぁこれも元を確かめておきましょう。阿弥陀経、129頁です。6行目に「舎利弗、少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず。」と云ってますね。そしてその次、「舎利弗、もし善男子・善女人ありて」というのを、これは化身土の方では引かないのですが、「阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは…」と続いて行きます。でも後の方は親鸞聖人は落としてしまって「名号を執持せよ」というお釈迦さまからの呼び声として読んでおられますね。まぁみじかいことばでありますけれども、元を尋ねてみると親鸞聖人が言葉を抜き出されて、そして自分への呼びかけ、あるいは私たちへの呼びかけの言葉としてここを読みとられたんだなぁということが分かりますね。一つ目はこの通りであります。「舎利弗よ、少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず」と。ここではこれ以上云わないのですが、それに続いて「名号を執持せよ」と云うて来ますんで、名号が大善根であり大福徳であるということを云おうとしている。そういう文章だということなんですね。名号以外は我々が浄土に生まれることにならない、それは少善根少福徳だということをここから読み取っておられるわけであります。執持名号についてはもう既に前のところに出ておりましたけれども、親鸞聖人が大変注意しておられる言葉でありましたが、とにかくここでは「阿弥陀仏を説くを聞きて執持せよ」と。これもう一遍云いますが、一応ここではお釈迦さまが説いておられるわけですから、「私が阿弥陀仏を説くのを聞いて名号を執持せよ」と読めますが、この後すぐに130頁から私が褒めるだけではなくて、六方の諸仏、インドのガンジス河の砂粒ほどの数、数えられないほどの沢山の仏さまが口々に褒めてますよと。だからこれをいただけと。こう云うことを勧めていかれる経文が始まります。だから「阿弥陀仏を説くを聞きて」というのは、お釈迦さまを始めとするありとあらゆる諸仏方が阿弥陀のことを説いて下さる、それを聞いて名号をたもっていくわけです。348頁へ戻りますと、そこでも同じような云い方でしたね。3行目ですが「我が名を説かんを聞きて、もって己が善根として」と云われていました。これは法蔵菩薩が誓っている私の名前が説かれるのを聞いて、それを善根として生まれようとしてください、こういう言葉でした。で、今度は阿弥陀経の方では釈迦を始めとするありとあらゆる仏さまが阿弥陀仏を説くを聞いて、そしてそれによって名号を執持していくわけです。だから執持名号といっても私が今日から頑張りますわというような話と違いますね。諸仏の勧めによってこう云うことが成り立つわけであります。もしかこれ我々の努力ということ、あるいは素質能力ということになれば、結局また執持は出来る人とできない人ということになって行くでしょうね。しかしこの執持というのは、ここにあるように阿弥陀の名前が説かれるのを聞いて執持していくという、その意味で阿弥陀仏に南無しなさいよという諸仏からの呼びかけですよね。例えば親鸞聖人と法然上人のことで云うと、法然上人は親鸞聖人に聞かそうとして阿弥陀に南無せよ、阿弥陀に南無せよと云ってるのではなくてご自身が阿弥陀に南無するということをいただいておられるわけでしょ。ところがそのお姿、あの法然上人が阿弥陀によって助けられて行かないといけないということに立っておられる。そのお姿に親鸞聖人は感動しているわけですよね。ただ単に命令されたら、それはちょっと待ってくださいということになるかも知れません。ご自身が念仏しておられるわけです。だから阿弥陀仏に南無しますと、それが法然上人の念仏でしょうが、それが親鸞聖人には阿弥陀仏に南無せよという呼びかけの言葉として届いてくるわけです。人に命令する言葉じゃないですよね。我々でもこれは同じでありまして、私は誰かに云わせてやるんじゃなくて私自身が阿弥陀に南無すると、そういうことがあればその姿を通して、また出遇う縁ができるということがあるかも知れません。しかしそれは誰かに南無させたとか、阿弥陀に帰命させたとか、そんなことは絶対ありませんよね。それが何と云うか私たちの計らいを超えて自然に起ることとして云われていくことになると思います。一応ここまでが経文として善根あるいは功徳が名号として勧められているということを確かめている部分であります。20願のお心を和讃に聞く
で、20願に入る時に読んでいましたけれどもう一遍その辺、親鸞聖人のご和讃でこのお心を確かめておきたいと思います。484頁を開けてもらいますと浄土和讃の大経のお心の和讃が出ています。14番から3首、これが20願のお心を詠っておられます。「至心回向欲生と/十方衆生を方便し/名号の真門ひらきてぞ/不果遂者と願じける」。至心回向欲生というのは第20願に出るお言葉ですね。至心に回向して我が国に生まれんと欲え」と呼び掛けて下さっております。そうやって十方衆生を方便して下さっている。我々に近づいて来て導いて下さっていると詠っておられます。その時に名号の真門を開かれた。名号が真の門であるということです。これを通して真実の世界、阿弥陀の浄土に生まれてくれよということを示して下さるわけですが、それを開いて、それによって一人残らず救いたい、これが不果遂者と願じける、果遂せずば私も覚りを取りませんと願って下さった。これが20願そのものを詠って下さった願文であります。もう一つ、今度は15番に行きますが、お釈迦さまのお仕事をまとめておられるものであります。「果遂の願によりてこそ/釈迦は善本徳本を/弥陀経にあらわして/一乗の機をすすめける」。この20願、果遂の願、果し遂げずにはおかないというこの願によってお釈迦さまは善の本徳の本を弥陀経にあらわした、と。さっき見た通り弥陀経では執持名号ということが云われているわけです。名号を保ちなさい、このこと一つと云われる、これなんですね。で、それを通して一乗の機を勧めけると云います。一乗というのは平等に乗る、同一の乗り方ということです。まぁ大乗という云い方とも重なるんですけれども大乗は大きな乗物という意味で、どんな者も迷いを超えて行く教えのことを云うんですが、大乗の中にもランク付けが出来たりしたもんですから、修行が出来た人の道と出来ない人の道、みんな助かるけれども上等の覚りとそうでもない覚りみたいな、そういうランク付けが出来ていくことが起きる。そこで親鸞聖人は一乗という言葉をものすごく大事にします。これは同一の乗り方をするんですよ。だから大乗ということは決してその中にランク付けがないということを云うんですね。でもこれをとおして弥陀経で何を云いたいかと云えば、一乗の機、平等に救われていくあり方を我々に勧めて下さっているわけであります。念仏というのは、今までの経歴も関係ないんですよ、修行が出来たか出来ないか、そんなことも関係ないんです。誰もができる、一人も漏らさない、そこに平等に助かっていってくれよということを念仏に込めて勧めて下さっているということなんですね。これが善本徳本としての名号を執持して行けと勧めて下さるお釈迦さまのお仕事だということが押さえられております。もう一つですが、「定散自力の称名は/果遂のちかいに帰してこそ/おしえざれども自然に/真如の門に転入する」と云われています。念佛一つを勧めて下さる、それを聞いた側に残るのが定散自力の心なんですよ。まぁ念仏に定とは何かと云われるかも知れませんが、三昧に入って称えるような念仏です。親鸞聖人の時代にも有念無念のことという争いがあるでしょ。有念というのは雑念あってもいいんですかと、それとも無念無想の方が本物なんですかという話です。これ現在でもよく聞かれる質問ですよ。念仏するときどんな気持ちで称えたらいいんですかと云うんですね。で、ボク思わず聞いてしまうんです、どうやって称えておられるんですかと。そうすると、いやぁやっぱり無念無想の念仏が良いかと思いますと仰って下さる方がありますわ。そしたらボク必ず云うのが、でも無念無想になれますかと聞いてみるんですね。そうするとなれたと思った時もありますけれども、殆んど雑念が交ってきますと仰います。これが有念です。でも無念にならなきゃならないとか有念ではダメだとか、こんなこと云うてないんですよ。まぁ無念の境地のような時も瞬間あるかも知れませんね。でも殆んどはいろんなことを思いながら念仏しているわけです。しかし念仏の方が確かなんですよ。私の気持ちが無念か有念か関係ないんです。南無阿弥陀仏によって阿弥陀の世界が大事だよと、計る必要のない世界があるということが届いて来るということがある。そこにあぁこれだったということを確認させられるということが起るんですよ。有念のところにもその有念を破るように阿弥陀の世界が頂戴できるということありますね。雑念を払ってからの念仏をせよなんてかいてないんですよ、だから。無念無想を目指すというのは心掛けは殊勝かも知れませんが、やっぱりいい念仏者になろうという、そういう境地に辿り着こうとするある意味の野心がありますよね。そういう争いは親鸞聖人の時代からあるんですが、これが定散自力ですわ。定の念仏というのは三昧に入っての念仏でしょうね。散というのは日常の意識のままでもできる念仏ですが、そこにやっぱり善いことをしているという心が残るんですね。その称名念仏は「果遂の誓いに帰してこそ」果し遂げずにはおかないという20願に帰するところに、「おしえざれども自然に真如の門に転入する」と書いてあります。真門をさらに詳しく云っていると思います。真如にまで通ずる門、そこに入っていく。「転入する」ですから今までのあり方を転じて入るんですよ。今までのまま入るるわけにはいかない。つまり私は善いことをしている、だから入るんだじゃないんです。善いことをしているという意識を突き破って、そんなことは不要であったと云うんですね。さっきもご質問でいただいていましたけれど、分かってからの話じゃないんです。分かろうとしていたことが不要であったという、そういう転じた形で入っていくんですね。「おしえざれども」というのはもとのお言葉がありまして親鸞聖人は行巻に引いておられますね。177頁、これは真実行を表わす引用文ですね。真実行のはたらきとしてこういうことを仰るんですよ。48という番号が付いて善導大師の『般舟讃』というお書物からの引用であります。「また云わく、門門不同にして八万四なり。」八万四千の法門をお釈迦さまは説いてくれました。いろんな形、違いがあるわけです。「無明と果と業因とを滅せんための利剣は、すなわちこれ弥陀の号なり。」鋭い剣に譬えてますね、無明を切るわけです。業因を滅するわけです。「すなわちこれ弥陀の号なり」と、南無阿弥陀仏ですね。名号が我々の無明の果と業因とを滅する、と云ってます。「一声称念するに」たった一声のところに「罪みな除こると。微塵の故業と随智と滅す。」過去からの業、それに伴って起る智、智ならいいと思うかも知れませんが作って来た業で起すような智でありますので、我々はあいつよりは知っているというような、そんな智慧に腰を下ろすんですよ。仏教を勉強したことも自慢の種になるとさっき云いました。そんなものも滅せられていくんですね。そこに次に「覚えざるに、真如の門に転入す。」この言葉を先ほどの和讃に引用していかれるんです。覚(おぼ)えるという字に「おしえざる」と親鸞聖人は仮名をふるわけです。ここにも注が付いていますね。行巻の43番の注。一応確かめておきましょうか。1033頁下の段の真ん中辺。底本上欄に注があって覚の字は教の声、教の音だと云ってます。音というのは読みのことでありますが、教えという意味を持っているんだと云うんですね。おぼえざると云うたら何となく知らんうちに、自覚もしないままにと読まれてしまうかも知れない。そこで親鸞聖人は「おしえざる」というふうにわざわざ訓を付けられているわけですね。おしえざるというのは手取り足取りして、そして段取りで、プログラムを立てて、そして導くわけにはいかんということを云ってるわけですよ。だからいつそうなるか誰にも分からないわけです。しかし必ずこの弥陀のお名前のはたらきは真如の門に転入するということになるんだということを云っている。ここは、こう云う文章なんですね。もう一遍云いますが、教えるというのは、こうしてこうすればこうなるというそんな私たちの段取り、予定ということは間に合わないということをこういう言葉で押さえようとしておられると思います。でも必ず出遇う時が来る、あぁこれだったかということあるわけです。志慶真先生出遇いを語る
同朋新聞を持っておられる人がありましたが、先月号と今月号は沖縄の志慶真文雄先生が出ておられましたね。ぜひとも読んでほしい記事でありますけれども、志慶真先生のところに学生を連れて行ったことがありました。そのとき志慶真先生仏法に出遇われてね、本当にすごいいただき方をしておられる。そしたらうちの学生ね、恐ろしいことを聞くもんやなと思いましたけれども「先生いつそんな勉強しはったんですか」と聞いたんですよ。よう云うわと思いました。何十年も求め続けてね、出遇われた世界をお話下さったのにね、先生お医者さんしながら、いつの間にそんな勉強しはったんですか、とすごいことを聞くもんやと思いました。そしたら自分は一所懸命にはっきりしたかったから読まずにおれなかったんですよと、そういう云い方をなさいましたわ。先生ようあんな質問に応えて下さったなとボクは思ったんですけれども。そしたらその学生止めときゃいいのにもう一つ聞いたんですね。じゃぁどれだけ聞いたら分かりますか、と云うたんです。恐ろしいことを聞くなと思いました。そんなこと聞くもんじゃないとボクやったら云いそうですけれども、志慶真先生は分かるまで聞いて下さいと云いました。いつ来るか、そんなことは誰も予言できませんけれども分かるまで聞いて下さい。はっきりするまで聞き抜いて下さいと、こういうように仰った。あぁこれしかないなぁと思いました。それがここで云う「おしえざれども」という言葉やと思いますね。これだけのことやれば大丈夫です、これだけの本読めばいいですとか、何年やればとか誰もそんなこと保証なんかできませんよと。じゃあどうしたらいいんですかと聞く人があったら分かるまで聞いて下さい、でないとあなた落ち着かないでしょう、途中で止められないわけでしょうということですよね。これが親鸞聖人のお言葉に戻れば名号のおはたらきなんです。今日の20願のところでは名号をも自分の手柄として掴んで行く根性があるんです。称えながらそれを善根功徳として頼りにしようとする根性が湧くんですけれども、それでも名号しかないと云っているんですよ。他の道はないんですわ。南無阿弥陀仏を掴んでしまうから、掴まない何かを用意するというわけにいかないのです。それでも南無阿弥陀仏しかないと。そしたらさっきの学生の質問で云われそうですね。いつまで称えればいいんですかと云われたら、うなずけるまで、見えてくるまで南無阿弥陀仏して下さいと云うしかないんです。これは和讃で見ましたけれども「覚(おし)えざるに、自然に真如の門に転入す」と書いてますが、自然というのは本願のはたらきによっておのずからそうなると。響く時が来れば必ず響く、機が熟せば必ず開けると、こういうことを、おしえざれども自然に真如の門に転入するというふうに仰っておられると思います。歎異抄に見られる第20願の問題
この問題ね、化身土でずっと見てますけれども、なるほどなぁと思うのが歎異抄というのがこの20願の問題をずうっと見据えておられるということを思います。629頁の第9章が念仏をしているところに起る問題ということで非常に具体的なやり取りが出て来ますよね。唯円が念仏申しているんだけれども前ほど喜べないと云うんですね。前は躍り上がるほどだったのに今はそうでもないと。あるいは浄土に早く行きたいという気持ちは全くないと云ってます。でもこの唯円の問いは念仏したら喜べるはずだと、あるいはこの念仏のところに早く浄土に行きたいという心が起きるはずだと、つまり殊勝な人間になれるような、そんなイメージがあるんです。でも私は全然ですわと云ってるんですね。そしたら親鸞聖人のお答えは驚くようなものでしたね。「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」と。私もずうっとその課題を持ってきたんだけれども、あなたもそうであったかと云ってね、唯円からすれば親鸞聖人はそんな問題突き抜けて、もういつでも喜ぶようなところにおられると思っていたはずです。でも私もそうやと唯円と同じところにおられる親鸞聖人がある。ビックリしたと思います。でもそれはなんでかと云うたら喜ぶべき心をおさえて喜ばせないのは煩悩の仕業だと。あるいは急ぎ浄土へ参りたいとそんな心はさらさら起きない。この娑婆世界が大好きなのも煩悩の仕業だと書いてある。でもその煩悩を持っている私たちのための本願でしょうと。もしかいつでも喜べていつでも感謝できる人間なら本願は要らないんです。あなたひょっとして本願が要らないような人間になろうとしているんですかと。云わばそんなきつい言葉がここにはあると思います。親鸞聖人は優しく寄り添って語ってくれていますけれども、あなたそのいつも喜び通しの殊勝な人間になれると思ってるんですかということが根っこに流れている。これ念仏するところに必ず起る問題です。やっぱり念仏しているから喜べるはずだということです。感謝できるはずだと。こんな根性が直らないとおかしいじゃないかと、こういうことなんですが、それが出ております。これを通して後半はずうっとこの問題と云ってもいいんですが、631頁を開けて下さい。第11章、第11条と云った方がいいかも知れません。ここは名号不思議か誓願不思議か、どっちに立つのかということを云う人がいるんですが、それは分けられないと云った最後にこんな言葉があるんですね。「信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。」これ名号の不思議、南無阿弥陀仏のはたらきを信ぜずにいろんなことをしようとする根性があるわけです。それが、だから名号不思議を信じないので辺地懈慢疑城胎宮に往生するんですよ。でも信じないんだけれども辺地懈慢疑城胎宮というところに縁を持つわけであります。つまり阿弥陀の教えに縁を持っているので浄土の片ほとり辺地であります。あるいは浄土に居ながら自分の殻に閉じ籠もっている胎宮とか、疑いの城の中にいるんですね。そこには往生するんですよ。なかなかそこから出られないんですけれども果遂の願、なんとか本当の往生を遂げさせようという果遂の願のゆえに、これ20願のことですね、20願のはたらきによって終に報土に生ずると。必ず真実報土に生まれさせると、これが名号不思議の力だと書いてあります。これすごい言葉で名号不思議を信じない者は辺地懈慢疑城胎宮に留まるんですけれども、果遂の願のゆえに必ず報土に生ずることになる、これが南無阿弥陀仏のはたらきだと云ってます。それは同時に阿弥陀仏の本願、誓願不思議の力だと云ってます。疑いながら念仏している者も見捨てないんですよ。疑いながら念仏している者も育てていくということがあるという、それがさっき云いましたが、南無阿弥陀仏を善根功徳と自分が掴んでね、オレはやってるから大丈夫だというふうになるんですけれども、それを必ず打ち破ってくるようなものが名号にあるんですね。信国先生のお勧め
ボクは直接お会いして話を聞いたことはないんですけれども、信国淳先生のお言葉としていろんなOBの方から聞かしてもらっているお話で信国先生がずうっと仰っていたというのが「分かっても分からんでもお念仏もうして下さい。お念仏もうしてお念仏に育てられていって下さい。」と仰っておられたと云うんですよ。何人ものお方からお聞きしました。初めはなんか反発していたという人もいます。分からんのに念仏しても意味ないやろと云うんですね。ところが念仏しておる中でこれはどういう意味だろうかとか、これ云うてどんなことがあるんだろうかという問いが起って来る。つまり念仏申すところから疑問も育まれていくということ、信国先生の仰るとおりだということを云って下さいました。分からん念仏を称えるなんて意味ないことをやらせてと、なんか命令されて嫌だったという人もいました。実際に念仏申す中から育てられたと云うんですね。まぁそれをここで云うと疑いながら念仏しているところにもその人を育てていく、そして遂には報土に生じさせるという、これが念仏のはたらきだというわけです。だから20願はとにかく念仏せよ、とにかく名号一つだということを云うわけです。最後に読んだ観経、阿弥陀経で云えば名号を執持せよと。そしてこの語をたもてというは無量寿仏の名をたもつことだと、こう云われる。南無阿弥陀仏一つだということを改めて云うておられるわけですよ。それ掴んだらどうするんですかということが起きそうですが、掴んでも念仏がそれを破って下さる。必ずそういうはたらきを持っているということを勧めて下さると云うんですね。我々には外に道はないんですよ。第20願の念仏一つというところに立ったならば、後は念仏もうすことによって私たち自身が段々と育てられていく。それこそ覚えざれども自然に真如の門に転入するという和讃で押さえられるようなことがあるということなんですね。いろいろ云いましたが歎異抄、とにかく後半は念仏に遇いながら自力の計らいに止まっていることを痛ましい、歎くというのが並んできます。遇うた人の話なんです、結局。念仏をしている人の話なんです。でもそこに起る問題が第11条から第18条まで並んでいます。その意味で必ず潜らないといけない、念仏するところに必ずはまり込む問題が歎かれている。その意味で20願と非常に近いということです。今日のところ、もう一つ確認しておくと、名前を持(たも)っていくのも、阿弥陀仏の名が説かれることを聞くところに南無阿弥陀仏なんですね、やっぱり。諸仏の称名ということと第20願の名号をたもっていくということ、これが本当につながっているなぁということを思わされるところであります。実際はいろんな方のお念仏に導かれるんじゃないですか。お念仏している人のお姿に教えられるんじゃないですか。それが私たちがまた念仏に立ち返っていくご縁をいただくということにもなる。その恒沙の諸仏の勧め、これによって念仏をたもつ、名号をたもっていくということが起るという、これが今日読んだところでは見えてくると思います。あと今度は善導大師のお言葉に移っていくわけでありますが、今度はお経の心をさらに展開してということになります。またそれは次回ということにしたいと思います。ありがとうございました。