『教行信証』の化身土巻を読む(31) 一楽 真 師
2018/ 10/19
18願の唯除の文から展開する19・20願
今、20願の問題のところに差掛かっておりまして何遍もお話ししておりますが、方便化身土巻というのはなかなか真実に出遇えない私たちに対して、方便、つまり近づくというのが元々の意味でありまして、我々に分かり易い形をあえてとることによりまして真実に導こうとする如来のご方便が説かれている。これが親鸞聖人の押えであります。だから方便は人間の側には基本的には使えない言葉でして、人間はたとえ方便ということを云うとしても、それは結局自分の都合で云うとるだけの話で、どこまでも真実に導くためのご方便を確かめようとしているわけです。そのときに依り処となるのが19願と20願でありますが、これは18願からの展開ということが大事であります。まぁある意味で無量寿経は第18願に念仏一つで誰もが平等に往生を遂げるということをすでに誓っているわけですね。でもそれを聞いても頷けない我々がおるという、これが18願の最後に唯五逆と誹謗正法を除くと書いてある意味です。ただ念仏一つで助かるということを頷けない者を放っておくわけにいけませんので、それをなんとか導こうとするのに19願で呼びかけ、さらには20願で呼びかけるという順序であります。まぁこれはすでに読んだところでありますけれども大経には方便から真実の願が発されたという順序で示されておりましたですね。だいぶ前のところですが一遍見ておきますと、この大谷派の聖典では338頁。なぜ19願20願が建てられるのかという中でこういうお言葉が置かれているわけでありますが、最後の行、「しかるに今『大本』に拠るに、真実・方便の願を超発す。」とあります。真実 中黒 方便となっていますが、これは真実と方便という意味じゃなくて、真実からそして方便の願というふうに順序を読み取るべきだと思います。始めに第18願を掲げるのですが、その念仏一つを頷けない者が漏れていくもんですから、じゃあここからやれという形で19の願には修諸功徳ですね、もろもろの功徳を修めなさいという願を建てて下さるわけです。だから19願というのは行の選びですね。いろんな功徳を積むという、それに立つのかそれとも念仏に立つのかということを我々に迫って来るわけであります。で、念仏に立つということが決まったとしても、そこになおも残るのは今度は念仏する心の問題なんです。これを吟味するのが20願の課題であります。念仏しておってもそれが自力の心、自分の思いはからいで念仏していくということが起るわけです。そこから真実の世界になんとか導こうとするのが今読んでる20願であります。で、前回から見ているのが346から347頁のところです。ここも何回か時間をとってお話ししていますが、念仏を勧めるんですけれど、その念仏に対してこちら側にいろんな雑心というかね、いろんな心が雑ってくるという問題です。助正間雑の心
それを二つ挙げていましたね。346頁で云うと、後ろから5行目でしたね。[「雑心」とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。]とありました。念仏に立つんですけれども、そのときに助正間雑の心、念仏一つじゃなくてどうせ念仏するならこれを加えた方がもっといいんじゃないかと。あるいは念仏するについてもお経を読んでからの方が値打ちがあるんじゃないかと、助けるための行ないを念仏とゴチャゴチャにしていくわけですね。やらんよりやった方がいいだろうと。私たちの発想にありますよね。ただ念仏一つと云われていても、どうせ称えるなら勉強してからの方が値打ちがあるじゃないかという根性です。あるいは念仏以外の善根を積めばもっといいじゃないかということに戻っていくようなこともあります。だからそれを「良に教は頓にして根は漸機なり」と書いてありました。教えの方は念仏一つで誰もが即座に迷いを超える道なんですが、それを受け取る側がああだろうかこうだろうかというわけです。まあいわば親鸞聖人は「遅慮」ということを仰いますが、いろんな思いがここに雑ってくるんですね。これ元は元照律師の本の中に「遅疑」という言葉があります。これを元に親鸞聖人は遅慮と仰ったと思いますが、遅いというのは要するに躊躇するということです。足踏みをする。教えは念仏一つと云っているのに、はい、分かりましたとならない。どうせ称えるならあれも大事これも大事という思いが湧いてくるわけです。それを遅慮とか遅疑と云ってます。だから疑というのは信じていないというのと違うんですね。不信とは違います。信じてるんだけれどもと云う。なんかこれどもが付くんですね。念仏が大事だとは分かっているんですけれどもと。ここにこっち側が貼り付けていくわけです。まあこれが「助正間雑の心をもって名号を称念す。」だから「教は頓にして根は漸機なり」と。こちらの方は即座にというわけにはいかないんです。決まらないんです。まあ20願が不定聚と云われる理由ですよね。定まらないということです。もう一つ云われてましたね。罪福を信ずる心
今度は[「定散の専心」とは]と。これは専ら念仏一つということにたとえ決まったとしても、そこに残る問題が「罪福を信ずる心をもって本願力を願求す」とありました。結局罪福を信じている。つまり自分にとっていいことが手に入るという心で念仏する。あるいは悪いことを取り除いてもらえるという期待から念仏する。結局念仏というのはそういう善悪を超え、都合の良し悪しを超える世界との出遇いを我々に呼びかけているのにもかかわらず、これだけ念仏しているんだから善いこと起って当然だとかね、なぜ念仏して来たのにこんな悪いことが起こるのかというようなことが残る。これが罪福を信ずる心ですね。これ両方まとめて結局自力の心なんですね。自分の思い、はからい、これで念仏に関わっているということです。それを材料として真実の念仏に立ってほしい。阿弥陀の優劣善悪を云う必要のない真実報土への往生を遂げてほしいと、これが20願の呼びかけであるというのが親鸞聖人の願文の受け止めであります。ですから親鸞聖人はこの18、19、20願を信巻と化身土巻に分けて述べておられますけれども、大経ではこの三つ、果して分けて読むようになっているかと云うとなかなか難しいですね。親鸞聖人が分けて読んで下さったからそう読めますけれども普通は3回呼びかけておられる。十方衆生ということが3回呼びかけられている。中味は至心信楽欲生我国、19願は至心発願欲生我国、20願は至心回向欲生我国、とあって同じように徹底的に私の国に生まれようと思いなさいという言葉は一貫しているわけです。そこからすると三遍に亘って呼びかけて下さっている、それが18、19、20だというふうに分けずに読むこともできますよね。ところが18願が真実に阿弥陀の世界に出遇う内容を持っているものであるのに対して、それに引っ張るための願文として19、20を分けて見られた、これが親鸞聖人の願文の受け止めということになるわけであります。前回お話ししておりましたのはその左の頁347まで進みましてこの本願が建てられるお心を確かめておりました。重なりますけど347頁もう一遍読んでおきますかね。善本徳本としての名号
[「善本」とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。かるがゆえに善本と曰うなり。「徳本」とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。]まあこうやって名号を善本徳本として勧める。これが20願のお心だと云うわけです。先程見ましたが助正間雑の心、あれもしなければならない、これもやった方が善いんじゃないかというのに対して、これが善の本、名号が善の本であり徳の本であるから他は不要であるということをまず云うわけですね。並べる必要ないと云うんですね。助正を並べるなと。そしてこれで本当に助かるのかなぁというような罪福を信ずる心がそこに雑りますので、ここに全ての善と徳が具わっているということを云う。善の本であり徳の本であるのが名号だと。特に徳本の方では「至徳成満し衆禍みな転ず」多くの禍いがみな転ずと。これ消えるとは書いてありません。禍いであったものが禍いでなくなるんです。邪魔物と思っていたものが邪魔物でなかった。転ずると書いている。だから邪魔物を取り除いてから助からなきゃならんと、そういうものじゃないこと、これを徳本という言葉で教えようとしているわけですね。しかもこれは「十方三世の徳号の本なり」と云われています。十方三世というのはありとあらゆる方角におられる仏さま、三世というのは過去現在未来のいつの時代にもおられる仏さま、どの仏さまのお名前の根本をも押さえておる。それが南無阿弥陀仏の持っているはたらきであるということを善本徳本という言葉で押さえて、だからこれ一つでいい、もう他のことに心を動かすな、執われるなと呼びかけてくる。これが20願の呼びかけの根っこにあるということなんですね。これを承けて釈迦弥陀という順序で書かれていましたね。「しかればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。」と。お釈迦さまが何をして下さったかと云えば、我々に功徳の蔵を開き、そして述べて下さった。これが本当の功徳だということを示して下さる。それによって十方の濁りに染まった世の中を生きている者を勧めて教化して下さる。まあこれ19願のときもそうでしたが化身土巻ではお釈迦さまから先なんですね。これはずうっと教行信証を読んでいると冒頭の方は弥陀から始まる仏教ですね。弥陀が法としてはたらいて下さっていて、それを私たちに具体的に伝えるのがお釈迦さまという順序であります。たとえば総序だったらそうなってるでしょ。「竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船」とここから始まってます。そのあとに「しかればすなわち、浄邦縁熟して」と王舎城の悲劇、具体的な出来事が説かれていました。つまり弥陀の法の世界が現実にはどうであったかを王舎城の悲劇を通して押さえている、これが総序の展開ですよね。だからある意味で阿弥陀仏の本願というのは時間も場所も超えているんですね。いつの時代のどの国の話ですか、そんなこと関係ないんです。どこに在っても誰の上にもはたらくということを弥陀から始めていく。ところがそれを確かめていくときには具体的なインドのお釈迦さまのところでそれが明確になりましたというのが総序の展開です。教巻に行っても弥陀釈迦という順序で説かれていますし、一番近いところでは正信偈がそうなっていますね。帰命無量寿如来から読みますが、あれは阿弥陀佛のお仕事を詠うわけでしょ。そのあとに今度お釈迦さまがそれを説いて下さったということを「如来所以興出世」と、弥陀釈迦の順序で行くわけです。基本的には弥陀が根っこでそれを具体的な歴史の上に表わして下さったのがお釈迦さまです。それがこの化身土巻にくると順序が逆転しているんですね。お釈迦さまが我々に近づいて導いて下さる。そしてそこからなんとか弥陀の世界に引っ張って行こうとする。これが19願のときもそうでしたが、ここではまずお釈迦さまが功徳蔵を開演して下さる。そして十方濁世を勧めて教化して下さってるという順序になっています。これなかなか親鸞聖人のこだわりと云うかね、細かい配置ということを思わされることであります。そしてその釈迦のお勧め、お釈迦さまのお言葉を頂戴して私たちは阿弥陀の世界を受け止めていくことができる、それをここでは「阿弥陀如来は本果遂の誓いを発して」とあります。本というのはもと法蔵菩薩であったときにという意味なんです。これ本願というときの基本の意味でありまして、もと法蔵菩薩であったときに発した願い、これが本願という言葉の意味ですね。我々の先輩方は、この本願というのを私たちとどう関係するのかというときにいろんな読み取りをして下さいまして、例えば安田理深先生は法蔵が本願を言葉にして下さった、形にして下さったことによって、私たちの根本の願いが明らかになったという言い方をなさいます。だから本願というのは、もと法蔵菩薩のときの願いという意味ですけれども、私たちにとっては根本の願い、何が我々の諸要求の根っこにあるのか、これを本願を読むことを通して知らされるということがあるんですね。根本の本という意味では元々ないですけれど、こういうふうに読み取られたと。安田先生はそれを更に展開して、あれも願いこれも願いしているけれども、本当に願っていることは何なのかという意味では、阿弥陀仏の本願を聞くということは私たちの本当の願いを知るということにもなる、あるいは諸要求の根本、本来のと読んでもいいというふうにも仰いました。安田先生の本を読むと本願の意味として根本の願い、あるいは本当の願い、本来の願いということが出てくるわけですが、これは安田先生がそう受け止めて、そう仰っているということであって、言葉の意味は本法蔵菩薩のときに発された願い、その法蔵菩薩が阿弥陀になったわけですから、もう本願は成就しているということでありますが、19願についても20願についても同じように「本」という字が書いてあります。不思議なことにこの聖典は19願のときは「本」と漢字を使っているんですが、20願はどういうわけか平仮名にしてますね。これは編集の方針でちょっと悩まれたのかも知れません。読み易くということで編纂されていますので、平仮名にしたということであろうかと思います。釈迦牟尼仏の勧化
お釈迦さまが我々を勧めて下さる、その教えを通して阿弥陀仏の願いを我々がいただいていくわけですが、それが果遂の誓いでありました。果たし遂げる、という字です。果し遂げずにはおかないという願いなんです。これによって「諸有の群生海を悲引したまえり」と。諸有の群生海というのは迷いに沈んでいる、群がり生きている者ということですね。要するに関係の中で悩んでいるということを群生とか群萌という言葉は意味しております。親鸞聖人が注目されたところであります。個人的な悩みなら個人を磨けば脱出が可能かも知れません。迷いを超えるということがあり得るかも知れません。しかし関係の中での悩みというのは自分一人が助かるというわけにいかない。共に助かるという道です。これが親鸞聖人の比叡山での大きな悩みであったのではないでしょうか。やっぱり覚りに向って修業すると云っておりますけれども、結局それは人々を後回しにして自分が抜け駆けしていくようなことになるんですね。竪(たて)に超える道というのは必ずそうです。親鸞聖人が云う横超というのは、かつて平野修先生が横というのは水平を表わすと仰ってました。自分だけ一人が抜け駆けするのではなくて、まぁ聖道門を抜け駆けというと怒られますけれども自分一人が助かるというのは錯覚であって、関係で悩んでいるわけですから関係全体が助かる道、大乗の菩薩道はそれを課題にしているわけですが、実際にはまず自分が迷いを超えて、あるいは溺れないような私になってと、自分を磨いていく話になって行くわけですね。自利と利他に段階がついて行く。自らが迷いを超えることが先で、利他は後回しになるということが比叡山でも起こるわけですね。だから群生海とか群萌という言葉でつながりを表わす、こういう救いには阿弥陀の本願、浄土の救いしかないということを親鸞聖人は確かめようとしている。これ平易な言葉では「われら」がありますね。煩悩具足の凡夫という言葉がありますが、煩悩具足のわれらという云い方もあります。宮城顗先生がことあるごとに仰るには「われら」というのは我々じゃないと。我と我の集合体は我々かも知らんけれども、「われら」というのはつながりを表わしているんだとずうっと仰っていました。個々人が寄り集まって我々というのが西洋の感覚かも知れないが、群生海とか群萌とか「われら」というのは、つながっている我であると。その意味で宮城先生は「ら」を我とすると仰ってました。これは日本語としては難しいですが、「ら」というのが「われ」の中味だということを「ら」をわれとする、これが親鸞聖人の仰るわれらではないのかとね。だから「煩悩具足のわれら」という言葉もありますし、「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」という言葉もありますが、全部繋がりを生きる者ということを確かめる言葉ですね。それを迷いから超えさせるというところに、この阿弥陀の本願があるということですね。前回も読んでおりましたが、これが果遂の誓いということでありました。3願はワンセット
このことを視野においてもう一遍18、19、20願を三つ並べて考えてみますと、これ決して三つバラバラじゃないという感じがしますね。聖典18頁、大経の本願文を見ていただいた方がいいと思います。まず18願「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ。」と云っている。たった十遍の念仏、これは少ない方を押えているわけですが、たった十遍の念仏でも生まれることにしたい。もしそうならなければ私も覚りを取りませんと。ただこれに頷かない者は漏れて行くということで、五逆と正法を誹謗する者は除く、こういうように云われております。でも漏れて行くものを放っておかないというところに19と呼び掛け、20と呼び掛ける願がここから展開していると思います。それから19願が「たとい我、仏を得んに、十方衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が国に生れんと欲わん。寿終わる時に臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。」修諸功徳を我々に具体的な為すべき課題として展示しているのが19願ですね。菩提心を発せと、そして諸々の功徳を修しなさい。それによって心を至し願いを発して我が国に生れんと欲え、と。で、それが生れないならば私も覚りを取りませんということを、いのち終わるときに臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば正覚を取らじ、と。私が迎えに行こうと書いてありました。あなたの行が途中で終っても私が迎えに行くということが臨終現前ということで云われております。だから100功徳積んだら助けてやるという話じゃないんですよ。それは目指すべき課題とすれば徹底的にやれと先ず呼びかけるんですが、それがたとえ途中で終っても私が見捨てませんということ、これを私の方から迎えに行くぞと書いてあるんですね。こうなると18願と同じ心ですよね。誰一人見捨てないということを19願もやっぱり云っているわけです。でも始めから何もせんでも迎えに行くよというたら、また何やそんな値打ちのないとボクらが思うもんですから、ここからやれということを云うんですよ。同じように20願の場合は、あれもこれもと云わずに名号一つというふうに、これが「我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞きて」聞我名号という言葉がここにありますね。「念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して我が国に生れんと欲わん。果遂せずば、正覚を取らじ」と。だから私の名前を聞いて思いを私の国に係けて、諸々の徳の本である名号一つ、この南無阿弥陀仏一つを植える、と親鸞聖人は読んで行くわけですが、あれこれするんじゃなくて功徳の本を植えれば、そこに生まれるようにしたいと、云っているわけです。それを最後に、そのことが果たし遂げることができないようであれば、覚りを取りませんと云っている。だからこれも一人も漏らさず助ける、助け遂げたいということを云っている。これが果遂という言葉から読めますよね。とすると、18、19、20の願は三つバラバラというよりは18で呼び掛けて届かない場合は19と呼び掛ける。そしていろんな功徳でということが無理だというのであれば、このこと一つという形で名号を掲げ、それによって生れるようにしたい。もし生れないならば私も覚りを取らないというふうに云う。これ三つセットと見ることができます。こういう視点を持ちますと、大無量寿経の下巻の言葉はどっちの願成就文かというのが、いつも話題になるところなんですね。44頁を開いて下さい。これは下巻の冒頭でありましてお釈迦さまが法蔵の本願は既に成就している、法蔵菩薩は既に阿弥陀と成っておられるということを確認するところから始めておられる説法ですね。ここは親鸞聖人がそれぞれ当てはめて、一番始めは第11願の成就文と呼ばれます。その部分が「それ衆生ありて彼の国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中には、もろもろの邪聚及び不定聚なければなり。」と。これ阿弥陀の国に生まれれば一人残らず必ず仏に成るという聚(ともがら、あつまり)に加えられるんだと云ってます。なぜならかの国には邪定聚とか不定聚がないからだと。ここから下巻の説法は始まります。だから阿弥陀の浄土に生まれてくれよと。阿弥陀の国に生まれれば一人残らず成仏するんだからと、これがお釈迦さまの下巻におけるお勧めの第一声なんですね。で、これはお釈迦さまが褒めるだけでなくて十方恒沙の諸仏が褒めるというところを第17願の成就文として親鸞聖人は読まれます。「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃嘆したまう。」と。ちょっと言葉を補なえば、これは私が褒めているだけではありませんよ、十方の無数の諸仏がみな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議であることをほめ讃えている。だから阿弥陀の浄土を願ってくれ、阿弥陀の浄土に生まれて下さいと、こういうことを云おうとしているわけです。だから釈尊もこの諸仏の代表でありますけれども、釈迦と諸仏は阿弥陀の徳を誉め讃える、これがそのお仕事なんですね。釈尊も時代と場所を選んでお出ましです。そこだけ見ると仏教というのは2500年前のインドが本家本元で、仏教の本来だと、こういう見方をする人が今でも結構多いんです。しかしインドだけの宗教じゃない。2500年前限定の教えじゃない。どこにでも成り立つ、それをそれぞれいろんな国にお出ましの、いろんな時代に出られた諸仏が証明して下さるわけです。でもその諸仏方もそれぞれ寿命をお持ちです。自分のお仕事の範囲もありますね。その時に私は永遠ですなんていう人は一人もいない。私の仕事は万全ですなんて誰も云わない。私には限りがあります。でも阿弥陀の世界に出遇って下さいと勧めてそれぞれのお仕事を終えて行かれるわけです。どの諸仏も阿弥陀を誉め讃えることに一番の願いがあるわけです。だからその諸仏が誉め讃える名号を聞けばというのが次の第18願成就文として親鸞聖人が読まれるところです。「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て、不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。」と。でもここに出てくる聞其名号という言葉と至心回向という言葉は先ほど本願文で見たら20願に出る言葉です。私の名号を聞くという言葉も。至心回向という言葉も元々20願のところに出て来ます。とすると、これは見方によっては、あ、これは20願成就の文じゃないのとみられないこともないわけです。でも親鸞聖人はそれを独特の読み取りをなさることを通して、これは真実信心を顕わす第18願の成就文だと読み取って行かれるわけです。その一番大きな読み取りが「信を至し回向したまえり」であります。人間が回向するんじゃなくて如来が回向して下さっている、これを我々がいただくところに一人残らず往生を得て不退転に住すということが成り立つわけです。ただその如来の回向、はたらきをいただかない者はその恩恵から漏れて行きます。如来のはたらきをいただかずに自分で助かろうとする発想の間は、如来の恩恵には与かれないです。これが成就文にも唯除五逆誹謗正法が付いている意味です。これも私の問いになったと云うよりも広瀬杲先生がしつこくそこを問うておられたので、よく分からんなぁと思いながら、それが問いになってきたわけですけれど、広瀬先生は何と仰っていたか、18願にこの教えを信じない者は除かれると書いてあるのは分かると。でもその本願は成就したんでしょう、成就したということはみんな救われるということが決まったはずだから、本願成就文に唯除はなくてもいいんじゃないかということです。なぜ成就文にも唯除が付くのか、これを考えてみなければならないということを事あるごとに聞かされました。ボクはそう云われればそうだなぁくらいに思っていて、だって全てのものを救うまでは私は仏に成らんと云っているわけでしょ。でもその本願が成就したわけですから、ああもうみんな救われたんだと云ってもいいはずです。ただ成就しても唯除は残るという問題なんですね。なぜかと云うことです。親鸞聖人は本願を船に譬えて下さいますが、本願の舟は既に出来上がっているわけです。この舟に乗ればどんな荒海も渡って行ける。沈まずに、溺れずに渡っていける。ただ乗りたくないという人はそこから漏れますよね。舟が出来上がったというのが本願成就であって、あと乗るか乗らないかは私たちに託されている。一人ひとりその教えをいただいていくかどうか、これは残されて行きます。乗る気がないのに乗る気にさせろと、そんなことまで仏さまに押し付けるわけにいかない。すでに船はあるそ、後はあなた、この船に乗りますか、それともまだ自分を当てにして泳いでいくつもりですかと、これ問われているんですね。成就した本願にも唯除が付くというのは、そういう意味であります。すべての者を救うという本願は完成しているんですけれども、その本願をいただかなければその恩恵には与かれない。そういうことが唯除で確認されているんですね。ここで云うと「心を至し回向したまえり」というのは如来のお仕事として親鸞聖人は読み取っておられる。その如来の回向を受け取るかどうかというのは我々の責任です。これが唯除を大事にしながら本願を読んで行かれる親鸞聖人の読み取りになって行くと思います。ですからパッと見ればこの本願成就文、第18願の成就と親鸞聖人が語るところは20願の成就とも見られないこともないんです。繰り返しますが、聞其名号とか至心回向という言葉があるからであります。これが非常に18願と20願というのは分けにくいという問題を持っています。でもそれを敢えて分けることを通して20願にどういう意味を見出されたかと云えば、この果遂です。果し遂げる。一人残らずなんとか往生させたい、真実の法土に向かわせたいということを20願のはたらきとして見ていかれたわけなんです。四つの願名
これ前回もたもたしておったので戻っておきます、347頁。さっきからの続きで読みますと「すでにして悲願います。」と云って4つの名前が出ていましたね。[「植諸徳本の願」と名づく]これはもろもろの徳の本を植えなさいと呼びかける願です。[また「係念定生の願」と名づく]と。念を係けるところに定んで生まれていくという願。まぁこれ省略されているわけですが、至心回向欲生我国ということがここに籠っているわけですが、それを思いを係けるところに定んで生まれていく願として読んでおられるわけです。もう一つが「不果遂者の願」、果し遂げずにはおかないという願でありました。そして[また「至心回向の願」と名づくべきなり。]これは18願・19願と対応させるために親鸞聖人が独自につけられた願の名前です。この三つがそれぞれ課題を持っているということを示すためにこの名前を挙げられたわけで代表させれば、さっき果遂の誓いとあったとおり、この不果遂者というところにもう尽きると云ってもいいと思います。とにかく一人残らず果し遂げると云うことです、往生させようということが誓われている願です。にもかかわらず漏れて行くものが出るのはなぜか、真実報土の往生が遂げられないのはなぜかと云ったら、皆それぞれ握っているものがあるからです。346頁の後ろから4行目で云えば「おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す」最後のところで云えば「罪福を信ずる心をもって本願力を願求す」と。これ自分の方に先に掴んでいるものがあるからです。でもこれはどうでしょうか、特別な人の話じゃありませんよね。やっぱり宗教に関わるとき、あるいはその中でも仏教の教えを聞くとき、こういう思いは必ず雑って来るんじゃないですか。仏とはなにかということを知らないのに仏に対するイメージがあったりします。覚ったらこうなるとか、救われたらこうなる、そういう先入観。ここで云えば救われるための念仏に対しての先入観が念仏だけよりも他のこともやった方がいいんじゃないかと雑ってくる。これだけやっていれば善いことがやって来るという罪福心ということが雑ってくる。これが本当の阿弥陀に念仏して阿弥陀の国に生まれんと欲えという声に触れていないという意味で自力のあり方なんですね。それを何とか翻して本当の往生を遂げさせようとする、果し遂げようとする。これが果遂の願というふうに云えるわけであります。その意味で粗っぽく云えば果遂の願が立てられるところに私たちの念仏に対する勘違いを縁として本当の念仏に立ち返っていく。あるいは念仏の利益に対する勝手な思い込みを縁として、また真実の念仏に立ち返っていくと。これ18願に呼び返すために第20願はなくてはならないものだと思います。これが果遂ということを親鸞聖人は非常に重く読んでおられると思うんですね。述文賛に見られる果遂
前回は最後の方にお話ししていたんですが、この果遂というお言葉について、既に着目している先達がおられて、親鸞聖人はその言葉を元にしておられたのではないかということでした。聖典で云うと183頁5行目であります。「また云わく、本願力故と言うは、すなわち往くこと誓願の力なり。」本願力故という言葉が大経に出るわけですが、それについて憬興師が註釈している。それが「すなわち往くこと誓願の力なり」と。」こういうふうに註釈が付いている。これを抜き出しているわけですね。つまり本願力故というのは、浄土に往生するのは本願のはたらきですよ、本願の力ですよという意味ですと。同じように「満足願故というは、願として欠くることなきがゆえに」と。満足の願であると云ってるんですが、それは願いとして欠けることがないと。次の「明了願故というは、これを求むるに虚しからざるゆえに」と。これは言葉とすれば明らかに了するという字でありますけれども、これは求むるに虚しいことがないというふうに云ってます。もう一つ「堅固願故というは、縁として壊ることあたわざるがゆえに」と。固いということを何物によっても壊(やぶ)られないという意味だと云ってます。最後これは究竟の願、究極的な願であるということを云う「究竟願故」という言葉なんですが、ここに憬興師は「必ず果し遂ぐるがゆえに」と果遂という言葉を当てている。これは明らかに20願の中から取ってきた言葉ですけれど、究極的に一人残らず救うというふうに、この究竟願故という言葉を読んでいるわけであります。ここは真実行巻ですので、果遂の誓いということが重なる言葉ですので方便化身土巻の話じゃないですよね。だからこの本願そのものが必ず果し遂げるという内容を持っているのだということを真実の行、どんな者も往生させるという本願のはたらきに親鸞聖人は読み取っておられると見当付けることができます。この言葉を大事に化身土で使っていかれるんですよね。果遂の誓いというのは20願に出る単語ですけれども、20願に出ていると云うだけじゃなくて、どんな者も漏らさないということを果し遂げると云っている。それがさっき云いましたが、自力の心で助正間雑する者も、自力の心で罪福を信ずる者も漏らさないというのが果遂ということに込められてる意味だということを見ておきたいわけであります。ですから果遂の誓いがなければ私たちは念仏におりながら助正間雑に止まるか、罪福信ずる心に止まるのかを明確に出来ないままに、こういうところに腰を下ろすだけに終わるんじゃないのでしょうか。それを必ず真実の世界に往生させようというのが果遂の誓いの持っている意味であると見ておられると思います。これちょっと先取りなんですが、何でこんなことを云うかというと、一番最後に果遂の誓いが立てられたことが、「まことにゆえあるかな」と親鸞聖人が仰っているもんですから、この願がなければ我々は本当の本願に帰すとか、往生を遂げるということが成り立たないと親鸞聖人は少なくとも受け止めておられたと思います。云い方を変えれば18願で不足だというわけじゃないんですが、18願一つだと結局それを正しく頷いているのかどうかということが分からないという問題があるからです。私、念仏してますから大丈夫ですとなって行くわけですね。念仏するということに腰を下ろしていくという問題であります。これも何回もお話ししてきましたが、親鸞聖人にとっては具体的な法然上人の門下のお姿を観ているんですね。みんなある意味で一所懸命念仏している人ばっかりやったと思います、不真面目な人はおいでにならないと思います。しかしその念仏している人たちのお姿が、ここで云えば助正間雑ですね。助業と正定業を雑ぜていくあり方と罪福を信ずる心、これが念仏するところに残る問題なんですね。だから私たちにも呼び掛けられているわけでして、念仏を信ずると云いながらこうなっているやないかということなんです。この吟味を通して本当に念仏一つ、平等に阿弥陀によって助けられて行くというところに立つことができるかということが吟味されていくと。ですから、果遂の誓いまことにゆえあるかなというのが、三願転入の文の次に出てくるわけでありますけれども、そこはこの果遂の誓いが立てられた理由ですね。これを親鸞聖人がよくよく思っておられる、そういうことが後に出るもんですから、それをちょっと前倒ししてこのことの重さ、果遂の誓いがなかったらどうなるかということを前回からくどくどと申し上げておったわけであります。大経からの二引文
で、今日は引文のところに入っていきたいと思います。347頁であります。まぁ第20願については前回読みましたが、次との関連でもう一遍読んでおきたいと思います。後ろから5行目。「ここをもって『大経』の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して、我が国に生れんと欲わん。果遂せずは正覚を取らじ、と。」一人も見捨てないということを改めて押える引用文になっています。ところが不思議なのが次の文章が何故ここに置かれるのか、これがちょっと引っ掛かるところなんですね。とにかく念仏一つ、ここでは聞我名号ですから、私の名号を聞け、このこと一つでいいと。それが功徳の本なんだからと勧める願文でありますが、それを承けて次の言葉が「また言わく、この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになお罪福を信じて、善本を修習して、その国に生まれんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まる、と。」こういう言葉が出てくるわけであります。これは名号一つ、功徳の本である名号一つによって生まれようと思えと。そこにすべての者を助けるぞと云っている願文からすると、ちょっと批判的な云い方ですよね。そこに得られる利益は何か。それが往生を遂げるというふうにはならずに、かの宮殿に生まると云ってね、真実報土への往生ではないあり方がここに出ているわけであります。これがね、先輩方もこの文章の並びをどう読むかで悩んでおられる。ここがまぁ20願の持っている難しさなんです。他の行は要らない。念仏一つでいいと勧めるんですが、それを私たちが握ればどうなるかという問題、これもここで云おうとしているわけです。ここに罪福を信ずるという言葉が出てきます。結局名号一つと勧めるんですが、それを握れば罪福を信じ、善の本であるとして頑張っていくというあり方に必ず落ちて行く、これがこの文章を通して示されてあると思います。これの元はどこかということを確かめておかなければなりませんが、聖典81頁「この諸智において疑惑して信ぜず。しかるに猶し罪福を信じ善本を修習してその国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて、云々」とありますね。ここを親鸞聖人は抜いているわけですね。この前後を確かめておきますと、その5行ほど前に「その時に慈氏菩薩、仏に白して言さく」という言葉から始まっていますね。慈氏とは弥勒菩薩のことです。弥勒菩薩が問を出している、そんな一段であります。[「世尊、何の因、何の縁なれば、かの国の人民、胎生、化生なる」と。]こういう質問です。浄土には胎生と化生という生まれ方があるということが云われているんですが、どうしてそうなるんですかと。どういう因縁で胎生に生れる者と化生に生れる者の違いがあるんですかと。こういうことを弥勒菩薩が聞くんですね。大経というのは面白い経典で、前半は阿難が対告衆ですね。阿難に対してずっと云われている。でも後半にくると未来の衆生の救いという課題を担う弥勒に対して語られて行きます。この辺、阿難がお経を相続していくというのもあります。近いところでは観経がそうでしょ。観経は韋提希と阿難に説法して、阿難は未来の衆生のことを頼むぞと云われている。でも大経はもうちょっと先なんでしょうね、阿難も2,500年前の人ですもんね。お釈迦さまの次の時代まではいますけれども、その次またその次の時代となればもう無理でしょうね。その時に遠い未来の衆生の救いを託していくときには弥勒菩薩に託す、これが大経の説法であります。云ってみればお釈迦さま亡き後、次は弥勒だという信仰があるわけですが、そのとき弥勒さんは何を云うてくれるかと云えば、阿弥陀の名前を聞けと云うて下さるんです。だから遠い未来の衆生のことを見通すがゆえに弥勒菩薩が質問に立たれるわけです。お聞きしておかないと未来の衆生の救いを担えないということがあるからです。で、釈尊がお説法をなさる相手、対告衆のことなんですが、これは阿難には聞けない質問だと教えて下さった先生もあります。阿難には無理だと。弥勒はお釈迦さまと同じ境界におられる、そういう弥勒でないと聞けない問いだと仰られた先生もあります。それも一つの受け止めでしょう。でもどうでしょうか。阿弥陀の法ということを云うときに弥勒でないといけない、阿難はもう一つだなんていうたら、これはなんかランク付けに落ちて行く危険性があるとボクは思うんです。だからこれは阿難を更に超えて遠い遠い未来の衆生のことを担う、その弥勒の質問だと私は読みたいと思います。そしたらお釈迦さまが答えられますね。どうして胎生と化生、胎生というのは何遍も云いますが、胎児に譬えて、お母さんのお腹の中にいて守られている者ですね。外界が暑かろうが寒かろうが胎児のいるところは快適なんですよ。いのちの危険はないんです。そういうあり方、ある意味で快適なんですけれど仏法に遇えないという問題がある。だからこれは本当の阿弥陀の世界に生れたと云えない。これが胎生であります。化生というのは、いままでの娑婆世界のあり方を転じて浄土の住人となる、あり方が大転換する、これが真実の報土への生まれ方なんですね。その違いを聞いた弥勒に対してお釈迦さまが云います。[仏、滋氏に告げたまわく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもってもろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。」と。この疑惑ということがずうっと出て来ますが、この疑惑というのは単に信じません、私そんなものとても受け取れませんというような心じゃない。躊躇する心なんですね。猶予と訳した方がいいという先生もあります。決まらないんですね。だから仏法に縁を持つんですけれど、そこに念仏一つということが決まらないあり方、これが念仏に対してこれだけではどうだろうかというふうに決まらない。だからもろもろの功徳を修すということが起きるんです。そして彼の国に生ぜんと願う。そこに仏智以下5つの智慧の名前が出ますが、仏智の持っている内容を五つに開いております。仏智は不思議、我々の思いを超えている。不可称というのは我々の言葉、言葉で表わせない。大乗広智というのはどんな者をも平等に迎え取っていく、そういう広い世界であります。無等無倫最上勝智というのは他に並ぶものはないということです。そういう仏智を覚らないということで五つの仏智を出している意味なんですね。基本的には不了仏智あるいは仏智疑惑と云われるあり方であります。仏の智慧に出遇っていない、頷いていないという問題です。それをまとめて「この諸智において疑惑して信ぜず。」であります。この諸智というのは五つのことですね。で、さっきの化身土巻の引文はここから引いています。なんか中途から引いているようになってますけれども、これを第20願のあり方、つまり20願を勧められて、あぁ念仏一つでいいんですね、これをやればいいんですねという形で腰を下ろしていく問題をここから読み取ろうとしているわけです。「この諸智において疑惑して信ぜず。しかるに猶し罪福を信じ善本を修習してその国に生ぜんと願ぜん。」ですから、やっぱり自分の積み上げる善本、功績を手柄にして、自分はやっているということを頼りにして救われようとする心が残っているという問題であります。ですから20願の問題は念仏する心を吟味する。19願はそれ以外の行の選択の問題ですけれども、念仏する心を吟味するのが20願のはたらきなんですね。だから念仏しておりながら自分の善本を功績として握っていこうとするあり方。結局どうなるかと云えば「このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて」と続いているわけです。ただ親鸞聖人はここで切っておられますね。宮殿に生まれるというのは、居ごごちのいいところに生れるわけです、あばら家じゃないんです。宮殿に居るんですから、何の不都合もない。ただ問題は仏法僧に遇えないということです。結局自分の思い描いた仏法の世界に閉じ籠もっているあり方ですから、私は聞いてますとか、私わかってますと云うていても、仏法に遇うているんじゃないんですね。自分の思い描いた仏法を仏法だと握っているだけだという問題。これを親鸞聖人は20願の願文に続いて引用して来られるわけです。ということは念仏一つを我々に勧めて下さるのが20願なんですけれども、そこにはこのような問題がありますよということを私たちに呼び掛けるためにここの文章を引いて来ていると思われるんですね。もうちょっと考えないといけないことがありますけれども、なぜ徳本を勧められるのか、それはやっぱり果遂せずは正覚を取らじだけだったら、念仏せよと勧めるだけなんですが、そこに引き起こされてくる問題を語る言葉をあえて次に置いているのが引っ掛かるところなんですね。私は答えを持っているわけじゃないんですが、何故こういう文章が並んでいるのかということが大変気になるところなんです。いろいろご意見はありますけれども、私はいま云ったようにまず20願のお勧めが出て、しかしそこに起る問題が短い言葉で示されているというふうに見当付けて置きたいと思っています。もうちょっと云いたいことがありますが、休憩をさせていただきましょうか。
二つ目の引文がここに置かれている意味
今日読んだ二つ目の文章ですね、大経からの引用ですが、なぜここに置かれるのか、正直に申し上げて親鸞聖人の意図を測りかねるところがあるんですよ。しかし20願の願文だけ挙げて諸々の徳本を植えなさい、必ず救うからということで終らずに、それを握るところにこういう問題が潜んでいるということをだしているのです。ずっと聞いて下さっている方は憶えておられると思いますが、これ実は19願のところに既に出ていた言葉でありました。328頁ですね。ここは長々と引いておられますね、6行目からです。胎生の者はかの宮殿に生まれて、というところまでを20願のところにも引かれるわけです。どうしてこうやって重ねて引くのかということなんですね。前にもご紹介したところですが、三経往生文類という本では分けてあるんですね。大経往生と観経往生と弥陀経往生と三経の往生を分けて述べてある。これだったらいま読んだ文章は三経往生文類では弥陀経往生のところに位置付けてあります。そうすると罪福を信ずるというのは20願の問題なんだなぁ、仏智疑惑によって宮殿に生まれるというのは20願の話なんだなぁあとものすごく分かり易いのです。ところが教行信証は20願に整理されるものを始めから19願のところに化身土では置いておったわけです。ここに三経往生文類で三つを分けて述べる書き方と教行信証は同じ親鸞聖人が書いたものですけれど、意図が違うと思いますという話を前にもしていたわけです。どういうことかというと教行信証はものすごく実践的やと思います。まずは往生しようというときにいろんな行をするのか、それとも念仏に立つのかという、これが19願の問題です。そのときにオレはやれているとなったら、やっぱり自力の問題が湧いて来るんですね。結局それは自分は行けてます、自分は誰よりもやれてますということろに腰を下ろすという意味では、後から出る20願の課題と同じなんです。だから始めに出してしまっているわけですね。ところが念仏一つに帰したところにも、またそれが起きますということを今日のところではもう一遍同じものを引いてくるんですね。だから親鸞聖人は長々と引きたいのかも知れません。でももう前に引いてあるので全部云わんでも分かるやろということがおありになるんじゃなかろうかと思います。だから19願の問題と20願の問題、課題はそれぞれ違います。もう一遍云いますが、19願は諸行に立つのか念仏に立つのかという行を我々に選びを迫ってきます。20願の方は念仏一つやと云ってる時にそれ自力の念仏なのか、それとも本当に如来の他力をいただいているのかを吟味してくる問題なのです。でもその結果あらわれて来るのは同じなんですね。自分の思い描いた宮殿に止まっている。自分の思い描いた仏法の世界に腰を下ろしているという問題。だから両方に引用されているということになっていると思います。ですから三経往生文類は三つきれいに分けてありますので、整理するときにはこういう表現をなさった。しかし具体的な歩み、実践問題というときには19願のところに既に20願に分けられる話が出てくると見ておきたいことなんです。今のところは本当に訳せと云われたらどう訳すか本当に難しいんですが、347頁に戻っておきますと、先ずは一人も漏らさない、果遂せずば正覚を取らじと云っているこの願文を挙げて、ここでは名号一つ、功徳の本である徳本を植えることを我々に勧めるわけです。しかしそれを自力の心で握るところには必ず次のような問題が起きますよということを、この諸智において疑惑して信ぜず、そして何を信じているかと云えば罪福を信じている。それによって善本を修めていこうとする。この発想なんですね。それによって阿弥陀の浄土に生まれようとしても、これは本当の広い阿弥陀の浄土に生まれるんじゃなくて宮殿ですね、自分で作り上げた世界に閉じ籠もることになりますということです。この後は出ていませんけれども19願のところに既に引いてあったように、ここに一旦はまったら500年出られないと書いてあります。楽しみはあるんですけれども仏法僧の三宝には遇えない。それ以外には何の不都合もないと、こういうことが書いてある。500歳というのは大変分かり易い数字ですね。何遍生れ変ってもというようなものすごい年月であります。でも前にも云いましたね、ここを学生と輪読しておりましたら、500年したら出られるんですねと云うたのがいました。でも500年というのは何回生れ変っても出られないという厳しさを云っている。それぐらい一遍宮殿の中に生まれると心地いいんですわ。つまり思い描いた仏法の世界というのは出ようとしない。よう仰る方があります、私は仏法のお蔭で本当に幸せですと。そこまで聞くとあぁそうですか、良かったですねという話なんですが、どういう意味ですかと聞いてみると、聞法したおかげで家族はみんな無事でとか云われるわけです。自然の災害にも会わずにとかで、そうなると自然の災害に会った人はなんかのバチ当ったみたいになるでしょ。それは人の不幸を材料にして自分はいいことになってますと云っている。それは仏法を聞いてるからと云う話と違いますね。これは自分が仏法を聞いてきたお蔭やと云うとるだけの話です。でもその心を罪福心というのですがが、それが逆に思わぬことに出会ってみれば、これだけ信じて来たのにとかね、これだけ長年聞法して来たのにと必ず仰いますわ。まぁそれがある意味で宮殿から出る大事なチャンスなのでしょうね。そういうことがないと自分の作り上げた私が聞法したからみんな平穏無事なんだという思いは破れないですね。それを仏法を聞くことだと握る人にもそれを勧めることになる。あんたも仏法聞いたらいいよ。きっといいことありますわと、きっとこうなる。これがここで云う宮殿とか胎生が持つ問題なんですね。ですからここは20願で徳本を植えなさいと、そしてそれを果し遂げずば私も覚りを取りませんと20願を挙げてありますが、それが握られるところに起る問題として宮殿に生まれるという言葉が次に置かれてあるというふうに思います。往覲偈のお言葉
もう一つ見ておきたいので348頁に進んでおきますと1行目であります。まず一回読みましょうか。「また言わく、もし人善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒をたもてる者、いまし正法を聞くことを獲ん、と。」これも大経下巻のお言葉でありますが、どこに出てくるかと云うと49頁ですね。中味に入ります前に、この偈文のことを云っておきますと、往覲偈と呼び習わしております。なぜかと云うと、この一番始めに「東方諸仏国」という言葉から始まる偈文なんですね。ですから東方偈とも呼ばれる。47頁です。東の方の諸仏の国に沢山の菩薩衆がおっれて、その菩薩たちが阿弥陀の国にやって来て阿弥陀仏を見たてまつると云います。まぁ阿弥陀の国に往って阿弥陀を見るという意味で往覲という字が使われています。これが内容を表わす分かり易い題なんです。ところが始めの方は東の方だけじゃなくて結局は十方の世界から菩薩たちがやって来て阿弥陀仏を見ると。前半はその菩薩たちの往覲ということが書いてあるんですが、49頁の後ろから4行目の「若人無善本」というところから内容が変っているんですね。ここは意味からすると正しい教えは聞き難いということを云っている。正法難聞という課題を持ってます。この部分が分けられたお経がありまして、無量寿如来会というお経ですが、そちらでは偈文は三つじゃない。三つというのは大経で嘆仏偈・重誓偈、三つ目がこの東方偈ですが、無量寿如来会では今の文章のところから分けられまして、この正法難聞の部分がお経の一番最後の方に回されている。だから偈文が四つあるんですね。ところがこの無量寿経では正法難聞の意味を一つになって今のところに置かれている。だから偈文は三つなんですよ。だからこっちを云ってもあっちの意味が落ちるしね、あっちを云ったらこっちの意味が落ちるということで昔の人は悩まれて一番始めの往覲を名前にしとこうかということになったらしいんですね。東方偈というのはそういう意味では便宜的なお名前であります。内容を云い当てたというわけにはいかないんです。嘆仏偈とか重誓偈というのは内容をぴしっと云い当てた偈文の名前になっていますが、そう云えないんです。それもあってか知れませんが、なかなかここはお勤めで使われることもあまりないですね。大谷派ではお勤めの勤行本にも載ってないです。そういう内容のこともあるのかも知れないです。だから別のお経の云い方ですけれども、この意味が出ている部分を親鸞聖人は抜いているとご覧いただいて、中味を当っておきたいと思います。49頁の下の段後ろから5行目ですね。「もし人、善本なければ、/この経を聞くことを得ず。/清浄に戒を有てる者、/いまし正法を聞くことを獲。」と云ってます。善本がなかったら阿弥陀の本願を説くこのお経を聞くことは出来ないと呼びかけているわけです。そして清浄に戒をたもてる者、浄らかに戒をたもった者がいま丁度この正法を聞くことを獲るのであると。これ文字通りなら善本を植えなさいということでしょうね。それから清浄に戒をたもちなさいということを呼びかける。そんな文章になっております。これはある意味で自力を尽せということを我々に呼びかける言葉ですよね。グイっとしとってね、結果だけを得ようなんてのは、そんな甘ったれたことではいかんと云うことです。善本を植えなさい、そして戒をたもちなさい。こういうことを云ってるわけであります。折角ですからもうちょっと読んでおきますと、ここではそういうことを繰り返し重ねてくるような文言になっていますね。「むかし、さらに世尊を見たてまつるもの、すなわち能くこの事を信ぜん。」と。仏に遇うた者はこのことを信ずることができると云うのです。で「謙敬して聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜せん。」こう云う。仏にお遇いすることを獲た者がこれを敬って喜びを獲ていくのだと。仏に遇うことが決定的に必要だと云ってます。さらに50頁へ行きますと、これは実は後から別のお経から親鸞聖人引用するんですが、「驕慢と弊と懈怠とは、もってこの法を信じ難し。」と。驕慢の心を持った者や、弊というのは悪いということです、傷つけ合うような生き方をしている者。懈怠というのは怠けるものでしょ、おこたり、なまける者、そんな者はこの教えを信ずることは出来ないと云っている。だから本当に途中でご質問のあった通り、これは我々の努力を励ましているような経文ですね。しかしそれをどう読むかということであります。それがさっきの話に戻りますと347~348頁のところであります。もしか先ほど読んだ347頁の二つ目の言葉「また言わく、この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになお罪福を信じて、善本を修習して、その国に生まれんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まる、と。」。これが間にはさまれてなかったらどうでしょうか。あいだにはさまれずに願文「ここをもって『大経』の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して、我が国に生れんと欲わん。果遂せずは正覚を取らじ、と。」は徳本を植えなさい。そして徹底的に心を往生のためにめぐらして我が国に生れんと思えと、我々の努力を完全に勧めていますよね。その流れでいまの言葉「もし人善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒をたもてる者、いまし正法を聞くことを獲ん」とあったら、ああ戒をたもたなあかんとなるでしょうね。善本を積まなきゃならんとなるでしょうね。私たちに努力を勧めているんですよ。ここからしか始まらないんですけれども、それを握ったらどうなるかという文章を間に挟んでいるわけです。見ていただいたとおり大無量寿経の流れから云えば、いま読んだのは49頁の文章でしたよね。それから間に挟んであったのが後ろの方、81頁の言葉を持って来ておりましたよね。教行信証というのは、こういうことになってまして、大経にあるからと云って頭から順番に引くんじゃないんです。20願の願文、これは上巻のお言葉ですが、これを挙げて、そして後ろの方にある胎生化生の問題、胎生の持つあやうさを間に挟むことを通して、次に善本がなければ聞けませんよ、戒をたもたなければ聞けませんよと、また努力を勧める。こういう展開になっております。だから間に努力を握り込む、この言葉がなければただ単に頑張れと云うだけになるかも知れませんね。しかしそこには必ずこんな問題があるという両面を云っていると云う、これが20願の持つ難しさなんです。頑張れと云うだけならもういいんです。でも頑張れと云うけれどもそれはこれだけ頑張ったという、そういう話に落ちてはいけないという問題を内に包んでいるということなんですね。この辺非常に複雑なことになっていると思います。まずは無量寿経の文章として三つを挙げているんですが、この三つの順番を変えて置かれている。そして一つのセットになって引かれているということが気になるわけであります。私はこれに答えがあるわけじゃありません。親鸞聖人がお引きになられた意図をこんなふうに受け止めることができるんじゃないかと思うことを申し上げているわけでして、こう読むべきだなんて、とても申し上げられません。しかし私はもし真ん中の文章がないまま読めば、ただ単に頑張れというような文章になっていくと思います。まぁこれが順序を変えていく問題なんですね。で、一番初めの話に戻れば、それを引用の前にご自釈がありましたよね、それが20願が説かれなきゃならん問題なんですが、念仏に関わりながら助業と正定業をまぜこぜにしていくということです。どれもやらんよりやった方がいいやろうという根性、これ自力でしょ。そのときに念仏すればきっといいことが起こるはずだ、悪いことは取り除かれるはずだという根性で念仏するという、本願を求めるという問題。これが始めに置かれています。そこから云うと念仏一つということを仏は勧めて下さる、これは間違いない。それ以外は不要であると。しかしそれを私らが自分の努力意識で握っていけば必ず落ち込むのが宮殿に生れるとか、胎生と云われるようなあり方ということを内に持っているということなんです。これがこういう順序を変えての引用のお心であろうかと思うわけであります。まぁこれ整理してきちっと申し上げられないのは申し訳ないんですけれども、こういう見当付けをしておきたいわけであります。無量寿如来会と平等覚経の引文をどう読むか
それでもう少し関連するので見ておきたいと思うのですが、348頁に大経の言葉が終わったあとに、先ず無量寿如来会の文章が引かれてますね。「『無量寿如来会』に言わく、もし我成仏せんに、無量国の中の所有の衆生、我が名を説かんを聞きて、もって己が善根として極楽に回向せん。もし生まれずは菩提を取らじ、と。」とあります。これ大経の方では「もろもろの徳本を植えて」としかなかったのですが、ここでははっきりと「己が善根として極楽に回向」すると書いてあります。自分はこれだけやりました、これだけ積み上げましたということを自分の善根として浄土に向けて行こうとする。生まれるために振り向けていこうとする。そういうことを勧めてくれていると云うのです。だから明らかに私たちの努力意識に応答するなら、これをやれと云うてくれているわけです。でもここにはっきりと「己が善根とする」という問題、さっき読みましたが自分で握っていくという問題もここから両面を読むことができる言葉であります。大経ではここまで云っておりませんものね。もう一つ次を見ておきますと「『平等覚経』に言わく、この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。」前を承ければ善本徳本を植える、そういう功徳ですよね。そういう功徳がない者はこの経の名前を聞くことは出来ないと云ってます。「ただ清浄に戒をたもてる者、いまし還りてこの正法を聞く」と。ここ先ほどと同じ戒をたもつという問題が出てまいります。そして「悪と驕慢と蔽󠄀と懈怠」これは、さっきの大経よりちょっと詳しいですね。大経では「驕慢と蔽󠄀と懈怠」とありましたが、ここでは「悪」が別立てされてます。蔽󠄀というのは敢えて悪と分ければ覆われているということです。疑いに覆われるというようなあり方です。大事なことが見えていないような者です。その者は「もってこの法を信ずること難し」と云われている。そして「宿世の時」昔、現世の前でありますが、そこに「仏を見たてまつれる者、楽みて世尊の教を聴聞せん。人の命希に得べし。仏は世にましませどもはなはだ値いがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば精進して求めよ、と。」ここも表から読めばとにかく頑張れと云っているわけです。しかしこういうふうに言葉を重ねられますと、どうでしょうか。例えばさっきの功徳がある者とか善本がある者、更には戒をたもつ者となると、まだなんか頑張ってということを思うかも知れません。私は結構やれてますと思えるかもしれませんが、宿世の時に仏を見たてまつれる者と云われたらどうでしょうか。これ自分のこととして云えますかね。私、前世で仏に遇いましたと、そんなこと云えるんでしょうか。ということはこういう言葉を通して、いま法を聞くことができるというのはいろんなことの積み重ねによって成り立つということを云おうとしていると思います。先ほども宿縁の問題で本当に自覚ができるか出来ないかというのは、人によって縁が整うか整わないかによるという話をいただいていたわけでありますが、私は縁があったんですとか、そんなこと拳を振り上げて云える人いますかね。出遇ってみればこれは宿世からの縁としか云えないというのが事実なんじゃないんでしょうか。その意味で云うと、教えが聞えたというのが実は清浄に戒をたもって来た過去が背景にあるということです。あるいは善本徳本があったからこそ聞けた、こういうことを云おうとしていると思うんですね。だから私は善本を前世に積みましたとか、あるいは生まれてこの方だいぶ功徳積んできましたとか、そんなことは云える話じゃないと思います。そういうことじゃなくて、今聞けているということが実は様々な縁のたまものであるということが見えるんじゃないんでしょうか。とすると清浄に戒をたもつというのは我々に徹底的に頑張れと勧めるお言葉でありますが、ハイ分かりました、今日からやりますというようにはいかんと思います。そうじゃなくて教えに遇えたというのは、本当に善の本を修めて戒をたもって来たという背景があるからなんです。敢えて云えば親鸞聖人は宿縁を云うような言葉で云われる。どこにどうやって生まれたか、どういうご縁をいただいたかという背景として云われていると思うんですね。敢えて名前を挙げろと云われるなら、これは法蔵菩薩の行と云わなきゃならんと私は思っています。私が清浄に戒をたもったというような話じゃなくて、法蔵菩薩が不可思議兆載永劫に選びに選び抜かれて来た、修行を積みに積まれて来たということがあって出遇えるわけです。ただ私たちに呼びかける言葉でありますけれども握ればエライことになる。私はやれてます、あの人はやってませんというふうに。それは繰り返しますが、宮殿に生まれる、胎生に落ちる、そういうあり方であります。それを先に云うた上でこれを引くことによって清浄に戒をたもつというのは、真面目にやれという勧めなんですけれども、私はやれてますという話には絶対にいかないと思います。ただ一応ずうっと表のところでは真面目に求めよということがまだ続きます。まぁ今云うた法蔵菩薩の行みたいなことは、後にいかないと見えてこないと思います。これはちょっと先走りますが、今日の引用の後、観経・阿弥陀経そして善導の言葉という形で続いて行くんですが、それが一区切りになるのが351頁のところなんです。351頁の後ろから2行目に、また「大経に言わく」と大経が出て来ます。これ親鸞聖人の引用では結構珍しい形です。お経があって、次に菩薩の論があって、そしてその次にその註釈があるというふうに経論釈という順番に並ぶのが普通なんですが、お経の次に釈があった後にもう一回お経の言葉が出てくるという形に、ここはなっているんですね。ここは主題が一つ転換しております。で、ここを読んで行くと善知識の力によって我々が教えを聞けるという話が出てくるんです。だから私が頑張って善本を積みました、戒をたもちましたという話じゃなくて、お勧めをいただいて道を求めて行く中に善知識の力によって教えに遇うことができると最後の話につながって行くんです。今日はちょっと先走って法蔵菩薩のことやと云ってしまったのは、ここでは云い過ぎなんですけれども、これは私の努力を積み上げてそういうことが成り立ちますという話じゃない。そういう見当付けは351頁あたりから後のことを想定して少し申し上げたことであります。とにかくまず私たちの努力意識に応答しながら、他のことは不用である、名号一つでいいと。とにかくその功徳の本である名号を聞いていけと勧める。これが20願のお勧めとしてあるということです。もう一回云っておきますが、それは握れば必ず宮殿に生まれる、私たちの狭い世界に落ちて行くという問題もそこにあるということが始めに明示されていると、いまのところは読んでおきたいと思います。
十分ではなくて、いつもややこしいことになりますが、一応ここまでとしておきたいと思います。ありがとうございました。