『教行信証』の化身土巻を読む(30) 一楽 真 師
2018/ 09/15
第18、19、20願の関係
真宗聖典346頁の真ん中ぐらい、ここで「それ濁世の道俗」という言葉から始まりますが、改まって問題を提起するとき、「それ」という発語が出てまいります。まず音読してからと思います。[それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。真門の方便について、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。「雑心」とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。良に教は頓にして根は漸機なり、行は専にして心は間雑す、かるがゆえに雑心と曰うなり。「定散の専心」とは、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを「自力の専心」と名づくるなり。]ちょっとここで切りましょうかね。あとまだずうっと続くんですけれども。この「それ」という言葉の前には大経観経の三心と阿弥陀経に説かれる一心とがどういう関係か、どういうふうに違うのかということですね、これが述べられていました。それを踏まえて阿弥陀経には一心と云うけれども、これは云ってみれば人間が欲張って乱れないような一心にしようということのようにも読めるのですが、そういう内容ではないということを親鸞聖人は問答を通して押えておられました。ただ一所懸命阿弥陀のことを信ずる、その中にいろんなことが雑ってくるということを掘り起して、明らかにしようとする。それがこの問答のところにあったわけであります。それをまとめるところの形がいま読んだ部分でありまして「それ濁世の道俗」という言葉、これは五濁悪世を生きる道も俗もですから、すべての人に呼びかけるお言葉ですね。末代の道俗とか、一切の道俗という言葉を親鸞聖人は教行信証ではよくお使いであります。つまり仏教はありとあらゆる人に呼びかけている教えであるということを確かめるかのように、道俗という言葉が大事になってまいります。云い方を換えれば親鸞聖人以前、もっと云えば法然上人の前と云った方がいいでしょうか、仏教で云えば基本は出家の道を歩む者にあるのであって、俗というのは脇道と云うか本道ではないと考えられていたわけです。しかし出家在家を問わない仏教ということ、これが法然上人によって明らかにされ、それを引継いだのが親鸞聖人であります。法然上人によって明らかにされ、それを引き継がれたのが親鸞聖人であります。だから教行信証は全体が道も俗も共々に、もっと云えば今まで修行してきた人も、まだ短い縁しか持ってない人も、どんな人も分け隔てなくという呼びかけがここにあるわけです。そのときの呼びかけの内容が「速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。」とあります。円修至徳の真門というのは後を読んでいけば分かりますが、南無阿弥陀仏の名号のことをこのように云ってるんですね。まどかに至徳を修するとも読めますが、ここに功徳が全部詰まっているということを仰るわけです。その名号の真門、まぁこれが本当に迷いを超えていくためのまことの門であるということを云うわけです。前に読んで来たことで云えば真門に対して仮門という言葉がありました。仮はまず我々を浄土の教えに導くために、敢えて形をとって近づいて下さるものでありますが、ここになると真門というのはこれしかないんですね。これが迷いを超える道であるということを示すんです。ただここでも門という言葉でありまして、真実そのものというわけではありません。これを18、19、20願の関係で云うと、18願のことは弘願と云われる。19願は仮門で20願は真門と云われる。だから一人も漏さない18願に導くためにまずは19願、仮のものを立ててこれで迷いを超えることを我々に気持ちを起こさせる。まず仏教の方を向けということです。あるいは浄土の教えに向きなさいというとです。その浄土の教えの中でも今日読んでいるここでありますが、あれもこれもではなくてこのこと一つでいいということを掲げる。これが名号の真門であります。そんなこと云わずに始めから18願一つを押し出せばいいんじゃないかと思うかも知れませんが、お経ではちゃんと18、19、20と並んでいますね。18が先なんですよ。念仏一つで誰もが助かりますよと云ってるわけです。ところが私たちはそれを受け止められないですね。南無阿弥陀仏一つで助かる。しかも誰もが平等にと。そんなアホなことあるかというわけですね。だから18願を受け止められないその私たちを見抜いて、じゃあここからやれというのが、いろんな行を修しなさいということを勧める19願、修諸功徳の願であります。それについてあれもこれもということではなくて、このこと一つと云うのが名号の真門、これが20願によって呼びかけられる内容です。ところがここに門という字があるとおり、やっぱりこれはゴールインというかね、到達したとは云いません。これを潜ってここに入ってほしい。この名号の真門を通して第18願が説く一人も漏れない平等に助かる道というところに立ってほしいというのが20願の呼びかけなのであります。ですからその続きも「難思往生を願うべし。」とあります。これも不思議ですよね。これがそれぞれ難思議往生 難思往生 双樹林下往生と分ければこの三つなんですが、20願が説く難思往生を願いなさいと云わずに始めから難思議往生を願えと云うてもよさそうですよね。でもそう云わないんですよ、やっぱり。私たちに分かる、あるいはイメージしてね、これだなあというように掴めるようなものを勧めるわけです。まあ難思議往生というのはその意味で云うと掴みどころがない。我々が分かったとか知ったとか云うた途端に全部手垢がついてしまう。必ずそれはねじ曲げられていくというものを持っています。だから難思議往生ということが本当の往生なんですけれども、そこに導くために名号一つで往生を遂げるこの難思往生を願いなさいという云い方になってます。浄土三経往生文類の分類
これも前に見ていただきましたがこの三つを分ける見方、これを親鸞聖人は三経往生文類という書物で述べておられますのでもう一遍そっちも見ておきたいと思います。この聖典では468頁から収められておりますが、晩年の著作であります。ここに載せておりますのは広本、詳しく述べられた方で、元々略本と云って簡略に書かれたものもあります。広本ほど詳しくないんですね。468頁を見ていただきますと三経によってそれぞれに三つの往生を明らかにして下さっているというふうにまとめておられる、そんな書物です。始めに「大経往生というは」とあるでしょ。これが第18願による真実の往生ということを語るわけです。せっかくですからちょっと読んでおきますと、「大経往生というは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力ともうすなり。これすなわち念仏往生の願因」これ18願のことですね。「によりて、必至滅度の願果をうるなり。」と。まあ念仏往生ということによって誰の上にも必ず滅度に至る、涅槃に至るという果が得られるのであると云ってます。それを「現生に正定聚のくらいに住して」と。現生で覚りに到達してしまうとは云わない。必ず涅槃に至るということが定まるのは今なんですね。「かならず真実報土にいたる。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆえに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆえに大経往生ともうす。また難思議往生ともうすなり。」とこうあります。ここには17願18願11願さらには22願、それだけの願文がずうっと引かれてまいります。この大経往生を語る文章を親鸞聖人はお経あるいは論から引いてくるという流れであります。それがどこまで続いているかというと一枚めくっていただいて471頁の真中辺まで続いています。前から9行目ですが「これは『大無量寿経』の宗致としたまえり。これを難思議往生ともうすなり。」こう云って難思議往生、真実報土への往生ということをこれだけのお言葉を並べることによって確かめているという本であります。次からが観経往生であります。これはもう今日の話に直接結びつくわけではありませんが一回読んでおきましょうか。「観経往生というは、修諸功徳の願」これ第19願です。もろもろの功徳を修しなさいという願、これによって「至心発願のちかいにいりて、万善諸行の自善を回向して」さまざまに積んだ自らが作った善を振り向けて、そして「浄土を欣慕せしむるなり」と。まず浄土に向かわしめるというわけですね。「しかれば、『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏をときて、九品往生をすすめたまえり。」と。これ上品上生から下品下生にいたる九品、非常に分かり易いですからこれならいける、これならやれるという形で私たちはこの教えいただき易いわけです。でもこう書いてありますね。「これは他力の中に自力を宗致としたまえり。」つまり本願の教え、阿弥陀のはたらきを聞きながら結局は自らが修した善によって助かろうとする。自分が積み上げた功徳によって助かろうとする、こういうあり方です。これを他力の中に自力を宗(むね)としているんだというわけです。でもこれは私たちがそんな努力意志を持っていますから、それに応答して説いて下さったということです。だから始めから努力はダメだとかね、努力を積み上げても意味がないなんて云っても、手がかりがなくなってしまう。だからまずここからやれと、頑張れと云うて下さる、そういう教えであります。これを「このゆえに観経往生ともうすは、これみな方便化土の往生なり。」真実報土じゃない。仮に立てられた浄土への往生である、と云います。これを「双樹林下往生」、形を思い浮かべての往生ということです。双樹林下というのはお釈迦さまは沙羅双樹の下で亡くなっていきますね。まさにそういうイメージです。お釈迦さまが亡くなるとき涅槃に入られたことを理想のあり方として我々もそれを目指しましょうと。分かり易い。けれどもそこには、いけたかいけてないか、できたかできてないかという、必ずこれランク付けが入ると思います。皆平等の往生ではありませんね。でもこれは私たちを導くための方便の教えだということが押さえられています。これにまつわるのが19願を始めとして、お経から親鸞聖人は文類にしておられます。そして473頁後ろから6行目に「これらの文のこころにて、双樹林下往生ともうすことをよくよくこころえたまうべし。」とまとめておられます。これが第19願が私たちに呼びかけて、まず浄土を願えと云うんですがこれは真実報土の往生じゃありませんよということも併せて云ってるんですね。もう一つ今日の話に関わりますが、第20願の呼びかけは何を我々に勧めているかということも含めてでありますが、これを弥陀経往生と親鸞聖人は云います。ちょっと長いですけど、これも読んでみますと「弥陀経往生というは植諸徳本の誓願によりて」もろもろの徳本を植える、もろもろの功徳の本を植える、これがさっき云うていた名号一つということです。あれもこれもではない。ナンマンダブツ一つでいいからそれを植えなさいという呼びかけであります。この「誓願によりて不果遂者の真門にいり」果たし遂げずにはおかない、これは後で読みますが、果遂せずにはおかないという第20願に出てくるお言葉です。それが本当に迷いいを超え浄土往生を遂げていく門であるということを示すわけです。だからさっきの仮門とは違うんですね。仮門はとにかく私たちを導くために立てられた門でありますが、これは真の門であると云います。そして「善本徳本の名号をえらびて万善諸行の少善をさしおく。」と。だからこれ万善諸行の少善というのは第19願で説かれていたいろんな諸々の功徳を修しなさいということですよね。そうじゃなくて名号一つだということに立っていくということです。ところがそこからです。「しかりといえども、定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず」と云います。だから自力に立つ者、自分が善いことをして往生を遂げていく、あるいは迷いを超えようと云う発想の人は阿弥陀の本願によって助けられるということを受け取れない。信じられない。だから結局自分が南無阿弥陀仏してもまた善を積んだということに執われていくわけであります。それを「如来の尊号をおのれが善根として」と云うてあります。如来の尊号というのは私たちを招き呼ぶ如来からの呼び声なんですが、これを自分がどれだけやったかという善根にしてしまう。握ってしまうのですね。私は出来た、あの人はできてない、こんなことが起きていきます。それを回向するんですね。これが「みずから浄土に回向して」と。だから19願のことと同じことになってますね。自分が称えた名号を自分の功績、手柄にしていく。それで助かるように思うわけです。で「果遂のちかいをたのむ」と。果し遂げずにおかないと書いてある、それを頼むわけですが、でも果遂のちかいは私たちに何回称えたかとか、何年念仏して来たかとか、そういう業績をはかるようなことはしないわけです。一人残らず往生させたい、これが果遂ということの中味なんですが、それを私はこれだけやりましたということを当てにしようとする、そういう根性なんですね。だからこう書いてあります。「不可思議の名号を称念しながら、不可称・不可説・不可思議の大悲の誓願をうたがう」と。名号を称えているんですね。称えるという形で阿弥陀を念ずるという、形はとっているんですが、結局は一人も漏らさず救い遂げるぞという阿弥陀の本願を疑っています。私は行けてる、あの人はダメだみたいなもんです。あ、逆もありますね。あの人は救われるかも知らんけれども、私みたいな者はまだまだ、全然ダメだみたいな。謙虚なようですけど、結局は自分が偉いものになりたい、自分を誇りたいということが根っこにあるわけです。だからそれを「そのつみ、ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて」と書いてます。七宝の宮殿に閉じ込められ、「いのち五百歳のあいだ、自在なることあたわず、三宝をみたてまつらず」と云ってます。仏法僧に会わないんですよ。考えてみたら不思議な話ですね。仏さまの教えを聞いているのに仏に遇うてない。法にも遇うてない。仏法によって開かれるサンガという広い世界にも遇うてない。何に会うているかと云うたら、自分の思い描いたことだけをこれが仏さんだとか、これが仏法だとか、これが仏法によって開かれる世界だと云うわけです。まぁ五百歳というのは出られないということですね。でもこれ前に云うてましたが、三経往生文類では18、19、20願ときれいに分けて整理してますが、教行信証では19願のところにこの五百歳の間宮殿から出られないということが書いてあるんです。ちょっと見るとなんか混乱しているように見える。きれいに分けてもらった方がいいんですね。でも結局親鸞聖人は何を仰ろうとしているかと云えば、19願も結局は自分の功徳を積んだということに腰を下ろしているわけですから、やっぱり本願に遇うてない、阿弥陀の大悲に遇うてないということでは同じでしょう。だから19願の過失も結局これと同じなんです。五百歳の間三宝をみたてまつらずということがあるんです。だから教行信証では19願のところにもう既にこの文章を引いてしまう。で20願の問題も同じことが課題なんですが、教行信証は三つに分けるよりも動きですね。私たちを本当に真実に平等に往生する世界に引張るための動きを云うもんですから、先ずは19願のところでも出遇ってないよということを云う。今度は名号の真門に入ってもまだ出遇えないあり方がありますよということを云う。こういうように重なるような形で述べて下さっています。この辺三経往生文類と教行信証の化身土巻は、課題は勿論重なっていますけれども、書物として表そうとすることは違っているということも注意しておく必要があります。「つかえたてまつることなしと、如来はときたまえり。しかれども、如来の尊号を称念するゆえに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆえに、難思往生ともうすなり。」と。阿弥陀仏と関係を持っているがゆえに、端っこですけれど浄土の教えに触れている。でも胎宮というのは殻の中に閉じ籠もっているという意味ですから、本当には出遇えてないということなんですけどね。それを最後にまとめて「不可思議の誓願、疑惑するつみによりて、難思議往生とはもうさずとしるべきなり。」これ難思往生と難思議往生は一文字しか違わないんですが、しかし内容は全く違う。難思往生というのは結局自分のはからいが入っているのです。難思議の議がとれてないわけです。まぁそういうふうにまとめておられます。それでここに20願と、教行信証では19の願のところに既に引かれている文章をここに並べて、胎化得失の文と云うんですが、それも併せて出ております。で、一番最後だけ読んでおきます。「これらの真文にて、難思往生ともうすことをよくよくこころえさせたまうべし。」と。このことをよくよく心得て下さいと。だからこれは本当の真実報土の往生ではありませんよと。阿弥陀の世界への往生とはなっていませんよということを知らせるためなんですね。歎異抄の後序
でもこれ前からお話ししてますけれども、一番分かり易い例は歎異抄に出てくる物語、これが念仏に触れながら自分の殻の中に閉じ籠もっているということを大変よく表わして下さっているところがあります。歎異抄は11章から18章までが異義8ヶ条として並んでいます。唯円はこれは誤った受け止め、親鸞聖人に背いているということを厳しく指摘しているわけでありますけども、指摘されている側は大真面目だと思います。私ほど念仏が分かっている者はおらんとかね、私ほど親鸞聖人の教えを聞いている者はいないとかいうところに立っている。あるいは座り込んでいると云うた方がいいでしょうか。だからみんな不真面目じゃないんです。大真面目に私ほど分かっている者はおらんと。でもその発想が分かっている人と分っていない人、あるいは正しく念仏出来ている人と出来ていない人を色分けしていくということになるでしょう。その全体が親鸞聖人の誰もが平等に念仏一つで助かるという教えからは背いていると云わないといけない。これが歎異抄の第11章から18章の間に具体的にどんなあり方、どんな問題が起っていたかということを含めて出てます。それを一番最後にまとめるところには、これは親鸞聖人が亡くなってから急に始まった話じゃなくて、実は法然上人が生きておられたときにもこんなことがあったんですと云って有名な信心一異の問答が出て来ます。法然上人の信心も私の信心も一つだと親鸞聖人が云うたのに対して、先輩方がそんなことあり得ないと云うた、あの出来事です。この云うた先輩方も真面目やと思います。それこそあの立派な法然上人とこの間入門して来たあなたの信心が同じはずないじゃないかと云ってるわけですが、この発想が南無阿弥陀仏一つで阿弥陀によって助けられて行くという道を疑っているわけです。やっぱり一日何回称えたかとかどれだけお経を知っているかとか、それが往生の決め手になってる、条件になると思っているわけです。だから歎異抄は親鸞聖人が亡くなって、こういう誤った受け止めが出ただけじゃなくて、もう法然上人が生きておられるときから、そう考える人たちもいましたよということを歎異抄の末尾のところに云うていくわけです。あの問題に親鸞聖人が直面しているもんですから20願のこととして取り上げないといけないんですね。だからこれは念仏一つなんですよ。念仏一つのところになおも残る、自らを立てていこうとする自力の問題、これが第20願の問題として挙げられてあるわけです。ちょっと結論的なことを先に云うておきますと、でもその念仏しながら自力に立っていたなぁということを知らされたら、それはそれでまた平等に迷いを超える教えに立ち返って行く大事な契機になりますよね。これが方便化身土にこのことが置かれている意味です。ただ単にダメだと云うなら頭ごなしに否定すればいいんです。しかしその自力の執われ、それがいよいよ共々に阿弥陀のはたらきをいただいていく大事な契機になるんです。だから迷ったこととか戸惑ったこととか、いろいろさ迷ったこととか全部大事なご縁になれば方便という意味を持つわけですよね。化身土の末巻にいきますと仏に帰依すると云いながら魔物に仕える、鬼神に仕えるという問題も起きるわけです。恐ろしいことになっていたなぁということに気が付けば、改めて仏に帰依するというところに立ち返って行くことになるでしょう。これは仏教じゃないと云って単に否定するようなことになってないです。魔物に帰依する、鬼神に仕えるということになって行く自分を見据えるところに、いよいよ仏の教えに立ち返るということが起るんですよ。まぁあれも方便化身土巻の中だというのは、そういう意味を持っていると思うんですね。云い方を換えればこれは教えに帰依したところに却って見えてくる問題でしょうね。だって日頃一枚になって生きているわけですからね、勝ったか負けたかとか、役に立つか立たないかとか、自分の物の見方でいっぱいになっているときにはそれがおかしいとすら思いませんから。教えに帰依したところにまた自分を立てようとしていた、比べる必要のない者に振り回されていたのが見えるわけですから。だから自力が見えるというのは他力に帰して見えてくるはずです。でもそれともうおさらばしたとは云えないという問題が今日の第20願の問題なんです。助正間雑の心
まぁこの辺何遍も同じようなことを云うてますが、さっきの続きもうちょっと読みましょうね。346頁。「真門の方便について、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり」と云われます。まぁこれ善本徳本として名号一つを私も長い間この字を知らないときには牛乳と水をまぜるような混乱の「混」の字でまぜると思ってたわけです。でも私も入れて、加えてと云うのはこっち「雑」の方ですね。いろんなものが雑多なものがそこに居ると云うのがその意味であります。だからここに助正間雑という言葉がその中味を表わしていますが、あり方は大小とか凡聖とか一切善悪といういろんなあり方をしている者、修行しているものも凡夫も悪人もいますが、いままでのあり方を問わず、でも中味とすると助正が間雑すると云っています。つまり名号というのは、これ正定業なわけなんですが、そこに名号一つじゃちょっと頼りない、ナンマンダブツするについてもお経読んでからの方が値打ちがあるのと違うかということを拭えないですね。あるいは沢山お寺参りしてからの方がいいんじゃないかと。やっぱりそこに付け足そうとする心が助正間雑、雑心というように云われているわけです。本人は大真面目なんですよ、助正間雑というのは。ナンマンダブツ一つでいいと云うけれどもと云ってね、それに本当に頷けないんです。同じ念仏するにしても他のものを加えればもっとご利益があるんではないかと。もっと本当の念仏に近づけるんと違うかということが抜けない。これが助正間雑であります。だから助正間雑の心をもって名号を称念するとありますから、称えてはいるんです。阿弥陀を念ずるという形はとっているんですけれど、なんかこのナンマンダブツ一つを頼りないと思っている根性が見えますね。疑っているんです。で、これを「良に教は頓にして根は漸機なり」と。教えの方は南無阿弥陀仏一つで誰の上にも道を開くんですけれども、それを受け止める根の方は鈍いんですね、漸機と云われています。だから本当は南無阿弥陀仏一つでパッと道が開けていいはずなのに、いやぁ南無阿弥陀仏一つと云いながら、もう一つなんか掲げていく。これは方便だということを親鸞聖人は仰っているわけです。19願はさまざまな功徳を修するということを云いました、修諸功徳でした。いろいろやれと云うわけです。でも真門の方は植諸徳本と、もろもろの功徳の本を植えよと。あれもこれもじゃない、名号一つということです。だが我々を導くときには、この名号が善の本であり徳の本である、善本徳本だから他のことは必要ないと云うわけです。これだけでいいと。そしたら修諸功徳に苦しんでいた人にとっては、これはものすごい福音になるんじゃないですか。あの修行もせんならん、こっちもやらんならんともう一日24時間でも足りないわということに苦しんでいた人にとっては、このこと一つでいいのかと。まぁ本当に灯が点ったようなことになるかも知れませんね。これは私たちを導くためなんです。でもこれはどれだけ称えたからと云っていいことしたとか、人より上に立つという話と違うんですが、先ず私たちに名号に引き入れるために、念仏一つに立たせるための方便だということでこれを善の本、徳の本として示すということです。後でもうちょっと言葉の意味が解説されていますが、先ずそう押えてこの間読んでいたところですが、「また定専心あり、また散専心あり」これ定善と散善、これを専ら修する、そういうあり方です。やっぱり善いことをしているということですね。「また定散雑心あり」とこう云います。先に雑心の方から説明してますが、[「雑心」とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。]と云います。この雑心の方は助正間雑と云ってますね。なんでこの雑っていう字を使うかと云うと、ボクもこれ子どもの時に云うていた言葉がね、漢字学ぶようになってやっと分かってまいりましたけれど、例えばなんかの遊びをしている時に別のことを加えていかんならんということが起る。だから即座に道が開ける、ストンと落ちるということにならんのですね。長年聞いて来ても、これでいいんかなぁということが残る。ホンマかなぁと疑いが雑ってくるわけであります。これを「行は専にして心は間雑す、かるがゆえに雑心と曰うなり。」と。だから雑ざる法を先に云うていましたね。罪福を信ずる心
もう一つ始めから云ってましたが、定専心と散専心をまとめて「定散の専心」とはと云って「罪福を信ずる心をもって本願力を願求す」と云ってます。信罪福心、罪福を信ずる心です。結局信じて入りうのはこれなんですね。これをやればいいことがある、きっとご利益をいただけるはずだと。これ専心ですから雑心とは違いますね。助正間雑というのはいろんなことを雑ぜながらやっていくことでしたが、専心は名号一つです。南無阿弥陀仏一つと。しかしそこに罪福を信じている。結局これだけ称えている私はご利益に与かれるはずだと。裏返せば、称え方が足りなかったら良くないかも知れないと。こういう心、これはどうでしょうか。利益に対して勘違いしてますよね。だって阿弥陀は我々の都合の良いことを叶えてくれたり、都合悪いことを取り除いてくれる教えじゃないのに、南無阿弥陀仏を称えながら都合の良いこと悪いことを離れていないんですから。利益に対するこれは勘違いですよね。「雑心」は念仏一つという行に対する不信であります。それに対して「定散の専心」は念仏すればこうなるはずだという利益を自分で握っている。自分で予想したものなんですね。これが今日の始めのところで難思往生と云われていましたが、いろいろ思い計らっているわけです。「疑」ということが雑り続けていくんです。はからいですね、これ。これは全然別のところの言葉ですけれども真実信心を表わすときに二種深心という善導大師のお言葉がありますが、法の深心のところに「疑いなく慮りなく」という言葉があります。無疑無慮という言葉ですね。これちょっと重なるような字です。安田先生の譬えをよく思い出しますが、先生は飛行機に乗るときに、これは落ちるんと違うやろかと思っていたら乗れんと云うんですね。多分大丈夫やろうと思わんと乗れんと。しかし乗ったからと云って無慮にはなれんわねと云ってました。ちょっと揺れるだけで大丈夫かいなと思うというわけです。無疑無慮という、これが信ずるということの本当の中味だと云われて、これは人間からは出て来んのやないかと仰ってました。疑っていては乗れないけども乗ってみたけれどもそこにいろいろ出る、だからこれ疑いの展開なんですね。信じてますと云えば云うほど、そう云わんならんほどどっか不安なんでしょう。そういうものが雑っとるという話ですが、まぁこれが難思議の議と通じているとボクは思います。繰り返しになりますが、雑心の方はやっぱり名号の真門と云われても、そこに何か付け加えていこうとする、名号一つに決まらないという問題です。専心は一応決まったように見えますが、どういう心根で念仏しているのか、結局は自分の思い通りにしたい、都合の悪いものを取り除きたいという罪福を信ずる心だと、こういうよいうに云ってるわけでありました。[これを「自力の専心」と名づくるなり。]とこう最後にまとめています。だから一応専心と書いてありますが、全部自力なんです。これ20願の問題は全体がこれ自力の問題に収まるということです。さっき云うた言葉では計らいとか慮りということ、これがずうっと残り続けておるわけです。途中でも云いましたが、こういう私たちの心を浮き彫りにする、どういう心根で念仏に関っているのかという、これがこの二つからよく問われますよね。念仏一つと口では云いながら、それもなんか頼りないと思っていろんなことを付け足そうとするのは雑心だというふうに押さえられる。私は念仏一つでなんにも迷いませんと云うておっても、今度は念仏したらいいことあるからと思ってやっているんやないかと。都合の悪いことから解放されるという根性でやっているんやないかと、これを問うてくる。これが20願を通して明らかにされる念仏への関わりのあり方です。これも何遍もお話ししましたけれども、19願の方は念仏と諸行、何に立つのかという行の選びを迫ってきます。それに対して念仏一つということになったところに尚も残る自力の問題、これが第20願を通して浮き彫りにされてくるわけです。親鸞聖人は法然上人の教えを聞く人は沢山いるわけですが、その中にこの問題を見ておられると思うんですね。御伝鈔なんかでも伝えますが、380人余りのご門弟がおられた、しかしながら法然上人のお心をきちっと受け止めるということはなかなか難しいわけです。結局は最後、念仏している私が立派だというところに腰を下ろしたり、長年やって来たということになると、ここから抜けきれないわけなんですね。ちょっと先立って申し上げておくと、19願のときにも申し上げていましたが、19願はどこで破れるかと云うと、徹底的にやれと云われると徹底できない自分が見えるという話をしました。あの功徳もこの功徳も、つまり戒を保つことも徹底的にやれと本当に呼び掛けられてみると徹底出来ないですね。これもいつも同じ例ですみませんが、ボクも昨日石川県のお寺に帰りました。今日お参りがあったもんですからお寺の掃除を朝早く起きてしとったんですけれども、根性出ますね、やっぱり。いつも帰る度に完璧にしようと思って帰るんですけども結局最後は時間に追われて、まぁこれ位で大丈夫かみたいな。裏はいい加減、表だけきれいにして裏はひどいもんなんですけれど、そこにいい加減なところに誤魔化していく根性があり。まぁ掃除というのは、そういう意味で一番分かり易いと思います。見えんからええかみたいなことになってしまう。掃除一つでもそうですけれど、これは善根功徳を積めと云うんですから、殺生するな、にしてもですよ、徹底的にやれと云われてみると徹底できない自分が必ず見える。その時にさっき云いましたが、今度はこっちに入るわけです。あれもこれもは無理だけれども念仏一つならなんとかと云うわけです。でもそこに残るのはこの心です。ホンマにこのやり方でいいんかなぁみたいなもんです。念仏一つでいいと云うけどやっぱりお経に詳しくなってからの方が値打ちあるんやなのかなぁ、あるいは回数じゃないと云うけどやっぱり回数は多い方がいいんと違うかと。あるいは声の大きさはどの程度かとかね。更には親鸞聖人が問題にしたことから云うと、有年無念ということもありますね。念仏称えるときに雑念があってもいいのか、無念無想の境地の方がいいのかとか。これ残りませんか。阿弥陀のことだけを考える無念無想の念仏というのは理想的に見えるかも知れませんが、もしか雑念が無くなってしまえば、もう念仏も要らんと思いますわ。いろんな心に振り回される私だからこそ阿弥陀を念じて生きる。これを南無阿弥陀仏によって知らされて行けという道なんでしょう。今日から無念無想になるのが本当の念仏だというのは結局最後は私の念仏が本ま物やということを云いたいということになって行くと思います。どこかでこれでいいんだろうかということが残るんですよ。これが20願を通して明らかになる私たちの心根の問題やと思います。これが20願を通して明らかにキリないですわ、やっぱり。長年念仏申してきたんだけれども、これで良かったんかなぁと云ってること自体が罪福心でしょ。これで間違いなく往生できるんだろうかと、結局いいことを求めているわけです。まぁ親鸞聖人が仰る地獄に落ちても構わないという念仏とはだいぶ違います。いつの間にか念仏が自分の思いの中に絡まっていくと云うのかね、取り紛れていくということになるわけです。「善本」は如来の嘉名 「徳本」は如来の徳号
これ全体が自力の問題であるというふうに押さえて、もうちょっと読んでおきましょうか。347頁。[「善本」とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。かるがゆえに善本と曰うなり。「徳本」とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。かるがゆえに徳本と曰うなり。]善本徳本の意味を改めて親鸞聖人が押さえて下さっているわけです。しかしどうでしょうね。私たちこの善本徳本というのは、さっき真門の方便について善本あり徳本ありというときに、こんな意味まで思いますかね。これが善の本で徳の本だ、これをやればいいんだなぁとこれは分かり易いです。他の功徳を積まなくても南無阿弥陀仏一つで助かるんやなぁとこういう形で善の本徳の本という言葉は受け止めやすいんです。でも親鸞聖人に善本徳本という意味はこう云うことだということを改めて押えられると、こんなことまでちょっと考えてない自分が明らかになりませんかね。例えば「善本とは如来の嘉名」、これ嘉(よ)き名であります。「この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。かるがゆえに善本と曰うなり。」とあります。すべての善が円かに備わっていると。これ法然上人のお言葉にも「万徳の所帰」ということがあります。すべての徳が南無阿弥陀仏一つに帰すのだと。どうですか、そうは思わないんじゃないですか。そうは云うけれども、なんか頼りないというのが残りませんか。でも親鸞聖人は明確に善本というのは一切善法の本、万善円備せりと云い切るわけです。同じように徳本についてもそうです。「如来の徳号なり」と。これ功徳のお名前だと。この徳号は「一声称念するに」一声称えるだけで、「至徳成満し、衆禍みな転ず」と云ってます。徳の至りがそこに成就満足し、多くの禍がみな転ずると。そう、ピンとくる方おありだと思いますが、これ行巻で既に親鸞聖人が述べておられるお言葉ですよね。それの部分をちょっと抜いてこちらに来ているのですが、192頁であります。後ろから6行目に全体をまとめるお言葉があります。これは大行の利益と云っていいです。真実行によって何が我々に与えられるか。「しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。」とあります。ここの至徳の風というのが、さっきの化身土にあった至徳成満という言葉でした。それから「衆禍の波転ず」は「衆禍みな転ず」と化身土ではなっていました。大事なのは南無阿弥陀仏によって生きていくところに本願の舟に乗せられると云うわけです。私が溺れなくなったんじゃないんです、船の力なんです。そこにものが見えるのが光明の広い海でしょ、そこに浮かぶことができる。その時には徳の至りの風が静かに吹くと云うんです。それによって多くの禍の波が全部転ずる、消えるとは書いてありません。禍が禍で亡くなるんです。都合の悪いことを憎む、そういうことからの解放が、それがその後「すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」と書かれています。最後に「普賢の徳に遵うなり。」これが第22願、還相回向の問題もここに親鸞聖人は付けておられます。全部が真実行の利益だと云うんですね。それを「知るべし、と。」と仰っています。こういうところが遠く響いてますよね。徳本というのは決して方便の話じゃないんですよ。さっきも云いましたが、「真門の方便について善本あり徳本あり」というのは、これが善根の本ですよ、これが功徳の本ですよ、だからこれだけやればいいんですよということを我々に勧めるための教え、方便という面はあります。しかしそれは我々が思うような善、徳ということを超えている。繰り返しになりますが、「至徳成満し、衆禍みな転ず」これボクら功徳だとはふつう思わないんじゃないですか。衆禍の波が消えるのが利益と思ってるんじゃないですか。禍が起こらなくなること、そういうことを期待してるんじゃないですか。だからこれ善本徳本として示すんですけれども、それは私たちが思うような善、徳ではないと云われていると思います。347頁4行目に戻ります。「十方三世の徳号の本なり。かるがゆえに徳本と曰うなり。」十方三世ですから十方世界、三世は過去、現在、未来。いつの時代、どこであっても徳号の本であると。もうちょっと言葉を補えば十方三世に沢山の仏さまがお出ましになる、その仏さまのお名前いろいろあるけれども、その仏さまの根本を押えるという意味で徳号の本であると読むことができますね。だって諸仏はみんな阿弥陀を誉めるわけでしょ。私を誉めなさいとはお釈迦さまも云わない。お釈迦さまに遇うたらなんと云われるかと云うたら、阿弥陀に出遇えと云われる。未来に出て来るという弥勒菩薩も五十六億七千万年の後に出て来て何を仰るのかというたら、阿弥陀の名を聞いてくれというふうに云うんです。十方三世の諸仏によって誉められるお名前でお名前でありますので、十方三世の仏さまのお名前の根本であると云ってます。「かるがゆえに徳本と曰うなり。」と。ですからこれは方便の説明と云うよりは、この辺が化身土の一番難しいところですが、我々を引張るために云われる面と、しかしそれを通して中に湛えられているはたらきそのものを表わす面と、両面がありますね。これが20願についても同じように勧める面とそれを通して出遇わせようとする面と両方読んで行かないといけないわけであります。一応ここまで見たということで、後は20願の文が引かれてくる、そこを読みたいと思いますが、ちょっと休憩をさせていただきましょうか。
植諸徳本に潜む自力の念仏
名号一つということをいただきながら、そこに自力の心が介在してくるという、それぐらい私たちの自力心は自分で何かを積み上げていくという発想なんですね。これがどれほど根深いかということを20願は掘り起すわけであります。逆に云えば自力の心では私たちは本当に安心するということにはならないんですね。これでいいんだろうかという程度問題なんですね。やっぱり自分より徹底してやれているような人を見かけると、あぁ私は全然ダメだと、こうなる。これ謙虚なようですけれど結局は誇りたいんですね。立派なものになりたいという根性が全然ダメだというふうになるわけです。よく聞法会などで仰る方がありますが、30年聞いて来たんですけど根性なおりません、みたいなことを。まぁ真面目なお言葉なんですが、どっかに根性なおると書いてますかといつもお聞きするんですよ。気の短いのが直ったとかね、ケチくさいのが直るとか、そんなことどこにも書いてないんです。でもそういう自分の物の見方を基準に生きることからの解放は念仏のところにしかないのです。阿弥陀を念ずることを離れてしまえば、また元の根性に呑み込まれてしまう。だから生きている限り念仏し続けようという、念仏によって導かれなさいということでしょう。だから仏の呼びかけの方が確かなんです。でも私が立派になるというのはその呼びかけを無くして戸惑わないというような、こちら側に根拠を置こうとすることが抜けないんですね。もう一遍云いますが、どれ程長年やり続けておっても、これでいいのかなぁということが起るんですよ。しかしそれは念仏一つでいいよということを勧めることによって立ち返って行く、大事な契機ですよね。だからそういう自力の心をやめてから18願に帰しなさいじゃないんです。自力の心があるということが、またあてにならんと云いながら自分を当てにしようとしていた、頼りにならない我が身だということを知らされたのにもかかわらず、またそれを頼りにしようとしていた。愚かだと知らされたゆえにこの教えの導きに依ろうと決まったはずなのに、その愚かな自分を当てにするという、ここなんですね。これも安田先生がよく仰ってました。凡夫というもんは煮ても焼いても食えんもんじゃと。ところが煮ても焼いても食えんと聞かされながらも、ワシもまだまだ捨てたもんじゃないという根性が残るんやと。煮ても焼いても食えぬもんじゃと聞いて、あぁそれは私のことやったと頷いたところでも、気が付いただけアイツよりましやみたいなものが残る。そのぐらい自分を誇ろうとする心は根深いということなんですね。でもそれを縁として、自力の心を縁として共々に念仏する。念仏というのは繰り返しますが、如来の呼びかけによって歩んで行くほかないというところに立ち返って行く。そういう意味で20願のあり方を卒業したなんて云えないんですね。いつもここにおる。それに気がつくことを通してこちらに返されていくという歩みであります。そういう見当付けをしたうえで後読んでおきましょうか。「果遂の誓い」のお心
ではさっきの続き、347頁5行目[しかればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。すでにして悲願います。「植諸徳本の願」と名づく、また「係念定生の願」と名づく、また「不果遂者の願」となづく。また「至心回向の願」と名づくべきなり。ここをもって『大経』の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して、我が国に生れんと欲わん。果遂せずは正覚を取らじ、と。][また「至心回向の願」と名づくべきなり。]そして「ここをもって『大経』の願に言わく」と続いて行くわけです。この流れは聖典ではどうしても段落で切っていしまいますけれども親鸞聖人の坂東本、直筆の教行信証では段落は全然ありません。「名づくべきなり。ここをもって」というように続いて行く。これ読み易くするように一応改行してあるということも承知しておいていただいたらと思います。ずうっと一連の文章なんですね。それで、戻れば善本徳本としての名号が我々の思いを超えたような善本徳本だということをさっき見てましたが、私たちは先ずそれをあぁこれはいいんだなぁ、これは功徳の本なんだなぁということを、私たちの理解しやすい、自分が掴む方に握ることになるんですが、しかしそれも仏のお勧めだということを云ってるわけです。「しかればすなわち」そうであるからと読んでおきたいと思いますが、お釈迦さまは功徳の蔵を開き述べて下さったと云うわけですね。ここに功徳の本があるという形で功徳の蔵を開いて下さった、そしてそれによって「十方濁世を勧化したまう。」十方の五濁悪世、何が大事か分らずに濁りに沈んでいるような、その中にいる者を勧化して下さると云うんですね。勧化の化という字は教えるという教化という意味ですが、親鸞聖人は特にここでは「めぐむ」と左訓を振っておられます。だから功徳を開くことにおいて私たちに恵みを与えようという、これが釈迦牟尼仏のお心だと云うわけです。恵むというのは教行信証の左仮名でありまして、この聖典は左仮名をつけるスペースがないもんですから、全部省略してます。詳しくお知りになりたい方は、そういうものが載っているものがありますけれども、まぁ今はいいかと思います。お釈迦さまがまずこの功徳の蔵を開いて下さった。ここに功徳があるぞという形で我々を導いて下さる、ここからやれということを勧めて下さるということです。その根っこにあるのが「阿弥陀如来は、もと」、「もと」というのは法蔵菩薩のときにという意味であります。でもこの流れで云えば、お釈迦さまのこの教えの元というようにも読めますね。お釈迦さまのお説き下さる根本にこの阿弥陀の果遂の誓いという言葉を大事にしておられる。果し遂げずにはおかないという誓いを起された。そして「諸有の群生海」ですから、迷いに沈む「諸有の群生海を悲引したまえり」と。この群生海という言葉、前にもお話をさせていただいておりますけれども、親鸞聖人はやっぱりつながりということを云うときに海という言葉を大事にされるんですね。19願のときも同じように海という言葉が出ていました。念の為に確かめておきましょうか。326頁後ろから3行目、「ここをもって釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまう。」と。福徳の蔵を顕かに説いて下さった。それによって群生海を誘引し、誘って下さる、引張って下さる、そして阿弥陀如来は元法蔵菩薩のとき、もと誓願を発して諸有海を化したまうと。ここでは両方とも海になっております。海が繋がっているんですよ。向こうの波がこっちに押し寄せて来ます。うちだけ平穏無事と云うわけにいかないんですよ。思いもよらないような波風にさらされるということになる、でもこれは生きているということの実際ですよね。この身に世間の波をかぶるということはあるわけでしょ。でもその全体をなんとか救い遂げたいのが、この阿弥陀の願いであります。ですから群生海ということは、こっちはお釈迦さまでしたが、347頁に戻りましょう、「もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。」と。大悲をもって引張って下さる、我々を導いて下さる。それが第20願やと云うわけです。ここ、もと果遂の誓いのところに30番という注が付いているでしょう。聖典は非常に丁寧に、元の教行信証ではどういう注が付いているかということを、後ろに挙げてくれています。1041頁であります。後ろの注は書物に応じて番号が振り直されてますので、これは化身土巻の30番ということで1041頁の上の段、後ろから2行目の注を見ますと「30 果遂の誓」というところには底本には上欄に注があると書いてます。底本というのは坂東本ですね。親鸞聖人の直筆本でありますが、そこには注があって果遂というところに「この果遂の願は二十願なり」と親鸞聖人はわざわざ書きつけておられます。念のために云うぞという感じですね。間違えんといてくれよということなんでしょう。読んで行けばすぐ後ろにもう本文が出てくるわけですから、間違わないと思うんですが、ここの「果遂の誓い」というのは20願のことですよと云ってるわけです。ただ面白いんですね、347頁へ戻ります。「すでにして悲願います」の後に4つの願名がありますが、ここでは果遂の誓いということはありませんね。「不果遂者の願」です。これは元のお経にそう書いてあるわけです。だから果し遂げずにはおかないと云うか、もし果し遂げないことがあるならば私も覚りを取りませんと否定形で云われています。でもそれを肯定の形で云ったのが果遂の誓いですね。必ず果し遂げるぞと。だから果遂の願というのをパッと開いて、あぁ20願だと思わない人もいるということなんですね。不果遂者なら分かるけれども。果遂しなかったら私も覚りを取りませんと思い当たる人が多いかも知れません。果遂の願と云われると何のことやと思う人がいるかも知れんと思われたからでしょうね、わざわざこんな注を付けておられるわけです。
「すでにして願います」真仏土
「すでにして悲願います」化身土
そこ言葉を当っておきますと「すでにして悲願います」。これも何回かお話ししましたが、これは化身土巻と真仏土巻の特徴的な云い方です。真仏土巻では「すでにして願います」と。これが仏土の巻、仏身仏土の巻の本願の文を出すときの書き方です。「すでにして願います」と真仏土では光明無量の願と寿命無量の願。化身土巻では「すでにして悲願います」と特にこの字が大悲をもって我々を見捨てないという、これが19願と20願にこういう云い方がされています。で、面白いなぁと思うのは始めの方の教行信証の巻には「~の願より出でたり」という云い方がされておりました。「真実の行は大悲の願より出でたり」とかね、「真実信は念仏往生の願より出でたり」とか、証巻では「必至滅度の願より出でたり」と。ここに根拠があるという云い方なんです。ところが真仏土巻になると、「すでにして願います」とこうなる。で、粗っぽいことですがそれを一言で云えば、出遇ってみれば既にあったということを、この言葉に込めておられるんだと思うんですね。教行信証のところでは教えに遇わなければ本願にも出遇えないわけです。真実行というのはそれに頷いたところにあるわけです。頷いた心を真実信と云い、そこに真実証ということが開かれてくる。これ全部出遇いによって成り立つんですね、教行信証というのは。ところが出遇ってみたら、例えば親鸞聖人で云えば、29歳で法然上人のご縁で本願の教えに出遇うわけでしょ。29歳から本願とのご縁が始まったと云っても良いわけですけれど、出遇ってみればもとからあったというのはこの「すでにして」という言い方です。気が付いていなかっただけなんです。始めっから本願のおはたらきの中にあったのに、これを聞いていなかった。もっと云えば中にあったのに気が付いていなかった。出遇ってみればもとから本願の中だということです。実際そうですわね、法然上人に出遇うまでは本願の教えを説く経典があっても、これは私の道ではないと親鸞聖人は思っていたわけでしょ。だって阿弥陀に助けられる、それは必要ない、私は自身で修行して覚りを開くからと思っていたわけです。その教えは既にあるんですよ。あるけれども自分は間に合ってます、自分は要りませんと思っていたが、遇うてみたらどうやったかと云えば、気が付く前から本願はずうっと待ち続けていたんですよ。いつ気が付いてくれるかなぁ、いつこの教えを受け止めてくれるのかなぁと。真仏土巻はその意味で云うと、頷いた人だけでなくて頷いてない人をも支え続けているようなはたらきを真仏土の願は云うているわけです。特にそこから我々を導くために踏み込んで来て下さった。大悲による教化ですね。教え、導きが19願20願というふうに親鸞聖人は見ておられる。これも繰り返しますが、比叡山のときにもその中に居られたのですが、中々それに気が付かなかった。出遇ってみれば比叡山で修業して助からなかった、あれが正に本願のおはたらきだったといただき直されるわけです。出遇ってみればあれも如来からのご方便だったなぁと、頑張って修行してみろと、それで救われるかと、こういう呼びかけをいただいたわけですよ。すでにその本願のおはたらきの中にいたのだなぁと、これが19,20願についても云われる云い方なんですね。その意味で私は本願とは全く関係ありませんと云うておる時でも、実は本願は待ち続けて、そして呼びかけ続けておるということです。それを聞かない、無視しているのもこちらの勝手なんです。そういうことも「すでにして悲願います」という言葉のときにうかがえることであります。
四つの願名
それで願名が4つ挙がってますが、「植諸徳本」というのはもろもろの功徳の本を植えなさいという、これさっきからお話ししましたね、あれこれと云わない、徳の本を植えればいいということです。それから「係念定生」とは念を係けて定んで生まれると。そして「不果遂者」は最後に果し遂げずにはおかないということが付いております。この三つについては「名づく」とありますから、親鸞聖人に先立ってこういうふうに読んで来た歴史があるわけです。歴史といっても親鸞聖人のようにちゃんと整理して並べて下さっているわけじゃないんですが、親鸞聖人は自分に先立ってそういう言葉に注目しているものは「名づく」というふうに云い切りの形です。ただ今までにないような云い方のときには、名づくべきなりという形で名づけることができますと、こうも云いますと、こういう言い方をされる。こういう意味で至心回向の願というのは親鸞聖人のご已証、己が初めて立てた願の名前だということを先輩方に云って下さいます。これも先に云うておきますと、至心回向というのは19願が至心発願そして18願が至心信楽とあるのに対応して、この三つを並べるためにこの願名を立てられるんですね。至心に信楽して我が国に生まれんと欲えというのは18願。至心に発願して我が国に生まれんと欲えというのは19願、そして至心に回向して我が国に生まれんと欲えは20願。要するに「至心に」と「我が国に生まれんと欲え」は一緒なんですが、その中味、信楽と発願と回向が違う。これはどう違うのかということを親鸞聖人は対比して18、19、20願を読み取っていこうとする。これが18、19、20を三つ並べて、そのおはたらきをいただいて行かれることになるわけです。だからこの言葉に注目して三願を読み取ろうとする。これは親鸞聖人をおいて他にはないんですね。願文における「不果遂者」の受け止め
先にちょっと20願、一遍読みましょうか。「ここをもって『大経』の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して、我が国に生まれんと欲わん。果遂せずは正覚を取らじ、と。」大経の本願文に云われていますということで、「設い私が仏を得るとしても」と、これ法蔵菩薩が云ってるわけですね。十方の衆生が私の名前を聞いて、「聞我名号」、これがまた大事な言葉です、20願では。それによって「念を我が国に係けて」ですから、名号を聞くというところから始まっているんですよ、それによってああそれならという形で思いを阿弥陀の国にかけてもろもろの徳本を植えて、「心を至し」、これは徹底してですね、「回向」というのは、その植えた徳本を振り向けて、往生の方に差し向けていくという意味で、これは自力の回向を意味する言葉です。衆生が実践するものとして云われています。回向という言葉は如来の回向にも使われますが、ここでは人間が積み上げてそれを往生の方へ振り向けていくという意味で使われています。回向というのは方向転換が元の意味ですからね、パクナーマという。だから自分が集めたものを今度は覚りのために向けて行く、往生のために向けて行く。このように転換するという意味に使われています。それによって我が国に生れようと思ったとしようと。これがさっきの念を係けて定んで生まれるというのは、元の願文にはありませんけれども、念を係けることによって定んで生まれるようにしようという願文だと、全体の意図を取ってそういうふうに読んでいるわけです。でその最後、「果遂せずは」もしそれが果たし遂げることができなかったならば私も覚りを取りませんと云っている。これ一応言葉は「不果遂者」がこの四文字ですが、これを肯定的に云ったのが果遂の願あるいは果遂の誓いというふうに親鸞聖人は読むわけであります。まぁこれ不果遂者が元々の言葉なんですけれど、この言葉に特に着目するのには親鸞聖人は先人の言葉を大事にしておられるんですね。聖典183頁を開けてみて下さい、5行目にこんな言葉があります。「また云わく、本願力故と言うは、すなわち往くこと誓願の力なり。」と。これ実は前の頁から続いているんですが、大経の注釈書を書いた新羅の憬興という方の書物から抜き出しているのです。親鸞聖人はこの憬興師の『述文賛』という本を非常に大事になさいました。端的に云えばまとめられている。それから言葉の意味が、他と連動させていくときにいただけることが多いからだと思うんですが、ここの「本願力故」は大経の言葉です。それに対して「すなわち往くこと誓願の力なり。」というのが述文賛の註釈なんですね。次の「満足願故」というのは大経の言葉ですが、これを「願として欠くることなきがゆえに」とあります。「明了願故」これも大経の言葉ですが、「これを求むるに虚しからざるがゆえに」とあります。次の「堅固願故」これも大経の言葉ですがそれを註釈して「縁として壊ることあたわざるがゆえに」と。そして最後に「究竟願故」これも大経の言葉ですが、これを「必ず果し遂ぐるがゆえに。」と、これ「必果遂故」という言葉がここにあります。まぁこれ20願と重ねて述文賛は註釈を加えているのですが、究竟願というのは究極的にということでは。最後の最後までというようなことなんですが、これが必ず果たし遂げるという内容を持っていると述文賛は示してくれたということでしょうね。だから不果遂者の願と呼ばれるのが普通ですが、それを親鸞聖人は果たし遂げる、必ず果たし遂げると読み取っておられると思います。だから一人も漏らさず、一人でも迷い苦しむ者があるならば見逃さない。今日の話で云えば一人でも自力に止まって真実の往生に至れないならば私は正覚を取らない、必ず遂げさせてみようという、ここなんです。仏法に出遇っていない者ばかりでなく、仏法に出遇いながら勘違いしている者も視野に入っているのです。出遇ってない人を導くというのは当然なんですが、出遇って腰を下ろしている者を正客に据えていると、そんなふうにも読むことができる言葉だと思います。因みにその大経の言葉がどこにあるかを一応お示ししておきますと、聖典36頁、阿弥陀仏の世界の道場樹ということを述べた後にこんな言葉が出て来ます。「これみな無量寿仏の威神力のゆえに、本願力のゆえに、満足願のゆえに、明了願のゆえに、堅固願のゆえに、究竟願のゆえなり。」と、この六つのことを大経は押えておりますが、これを先ほどの述文賛はそれぞれに註釈を付けている、そこを親鸞聖人は行巻に抜いてきているわけです。云わば本願のはたらき、それが最後は果たし遂げるですから、絶対に一人も漏らさず往生させてみせるぞと、中味から云えば真実土往生をさせるぞということを、こことも合わせながら読んでおられたと思います。347頁に戻りますが、ここの文脈では必ず果し遂げるというのは、先程から見てきたように名号一つの教えに出遇い、誰もが平等に助かるということを聞きながら、いやぁナンマンダブツ一つではなんとなく頼りない、これで本当に救われるんだろうかということを超えられない。これ全部我が計らいがなせる業です。もう一つは利益に対してと云ってましたね。罪福を信ずる心だと云うてましたが、これできっと自分の願いは叶うだろうと云って念仏に関っている人がいるわけです。だから助正間雑と信罪福心、この二つを超えさせる。念仏一つに関わりながらいろんなことが雑ってくるあり方と、念仏を称えているんだけれどもそこに自分の思いを叶えようとするような、自分の考える利益を得ようとするような、このあり方をなんとか転じよう、何とか真実の世界に返そうとする、これが20願のはたらきだということであります。一応隠顕ということもお話ししてきましたが、20願は顕の義で云えばこれが善の本徳の本だから、名号一つでいいよと、これを勧める。実際引用はそっちの方がメインになって続きます。これに功徳があるよ、これが善根ですよということを勧める。他の諸々の善行とか功徳などには目もくれないでください。南無阿弥陀仏一つで良いからということをとにかく勧める。しかしそれは私たちが思うような利益を得るものではありませんということを叩いていく。こっちの方がもう一つ20願を通して明らかにされる面なんですね。これがどうしても化身土巻の難しいところなんですが、方便として勧められる方だけ見ていると、とにかく善根功徳、だから名号を称えればいいんでしょうと見えてしまう。しかし称える中から何に出遇わせようとしているかと云うと、その善根功徳を誇る心、自慢する心、これから解放させようとしているんですね。だから先ずは善本徳本をやりなさいと勧める教え、しかしそれを通して善本徳本を握る必要はなかった、誰もが平等に助かる道があったんだと云うことに引張って行こうとする。これが果たし遂げるということの中味であります。第20願の和讃
これも大経和讃で見ておくと分かり易いんじゃないかと思います。聖典484頁でありますが、大経和讃の14、15、16は20願に関って述べられる三首であります。「至心回向欲生と/十方衆生を方便し/名号の真門ひらきてぞ/不果遂者と願じける」これは阿弥陀仏の本願のおはたらきを一首で詠み込んだものですね。至心回向欲生というふうに十方衆生を方便して下さっている。我々を育てよう、気が付かせようとしている仏の本願のおはたらきだと云うわけです。その時に名号の真門、このこと一つが迷いを超える門ですよ、通入する道ですよということを開いて、それによって一人も漏らさず救い遂げたいということを不果遂者と願じける、果遂せずんば私も正覚を取らないと誓って下さったと詠んでるわけです。で、今度はお釈迦さまのお仕事として「果遂の願によりてこそ/釈迦は善本徳本を/弥陀経にあらわして/一乗の機をすすめける」と。この20願を根拠としてそのお心を承けたお釈迦さまが阿弥陀経をお説きになったんだと云うわけです。何を説いたのかと云えば善の本徳の本を阿弥陀経にあらわしたと。他の功徳は要りませんと云うのです。この名号一つでいいということを阿弥陀経にあらわす、それによって一乗の機というのは皆一つの乗り方をする、平等に救われていくというところにまで我々を導いて行こうとするわけです。だからあれができた、これができたとか、この修行は出来たけれどこっちは無理だとか、そういう比べ合う必要のないところに我々を引き入れていこうとするのが阿弥陀経で、善本徳本を説くお釈迦さまのお心だということを仰っているわけであります。でも念仏一つと聞きながらも結局長年やって来たとか、一日の回数がどうだとか、同じ称えるにしてもお経を理解してから称える方が本当だという心が残るわけです。これがなかなか厄介なんです。それを三首目で「定散自力の称名は/果遂のちかいに帰してこそ/おしえざれども自然に/真如の門に転入する」と。これは善として称名念仏していくわけでしょ。これは自力の問題だとさっきも申し上げました。結局やれている私はエライと、私ほど長い間念仏して来た者はおらんと。これもさっき云いましたが、本当かなぁというのが残るんですよ。誰にも負けないほど念仏しているけれども本当にこれでいいんだろうか、が残るんです。まぁそれが大事なところで残らんかったら、そこに留まってしまいますからね。それが「定散自力の称名は/果遂のちかいに帰してこそ」です。果し遂げずにはおかないというこの誓いに帰するところに「おしえざれども自然に」。わざわざ手取り足取り導くわけじゃない、もうちょっと云うと、これはこうすればこうなるということにはなかなかいかないんですよ。教えてやれば本当の道に立てるかというと難しいです。これはさっき例に出しましたけれども歎異抄の異義8ヶ条に出てくる人たちはみんな立派な人たちばっかりでしょ。私は法然上人の教えをちゃんと受け継いでいるとか、あるいは私の念仏がほんまもんだと云うている人たちです。それがどこで破れるか、教えても却って反発するだけかも知れません。論争すればするほどオレの方が上だとなるかも知れません。これは本当に超えようとして超えられない問題なんですね。だから「おしえざれども自然に」というのは、念仏の力によってそれが超えられていくという話なんです。誰かが導けばなんとかなるという話じゃないんです。親鸞聖人といえどもそうでしょう、私がいただいている念仏はこれですということしか云えない。歎異抄の言葉を借りれば「この上は、念仏をとりて信じ奉らんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」とこうしか云えない。ちょっと冷たいような感じもしますけれども親鸞聖人が手取り足取りして教えれば何とかなると云うわけにはいかない。私のいただいていることはこれですと。後はそれを受け止められますか、お捨てになりますか、お一人お一人がお決め下さいとしか云えない。そこのところを「おしえざれども自然に」そこに「真如の門に転入す」と仰っています。まぁこの「おしえざれども」というのはね、元々の言葉では「覚えざるに」(般舟讃・聖典177頁)ですね。親鸞聖人これにわざわざ「おしえ」というふうにカナを付けられるわけです。おぼえざれどもというと無自覚にと読めてしまうかも知れませんが、これはお育てに与かるということは私が予定してということじゃない、あるいは私が計らってということじゃないと云うために、深く転入する真如の門と、これ元々善導大師のお言葉です。善導大師のお言葉を親鸞聖人はこういうように和讃にしておられるんですね。だから深くと書くとなんか知らん間にとか、ぼうっとしとってとかそんなふうに思われるか知れませんが、そういう無自覚という意味じゃなくて私が計らってこうしたんじゃないというのが元々の文脈でしょうね。それに親鸞聖人はわざわざ深くというのは、教えという意味とつながると云ってね、こういう字を使っておられます。だからこれは誰かが手取り足取りして教えてやればなんとかなるという話じゃないということでしょうね。じゃあこれ何によって超えられるか。これいま和讃を開いていただいていますので和讃の中で一首だけ見ておきますと、507頁、これは仏智疑惑和讃と呼ばれて23首親鸞聖人は作っておられるんですが、その23首目だけいま見たいと思います。これずうっと大無量寿経に説かれる教えに遇いながらも自らの計らいに閉じ籠もるあり方、さっきも云いましたが500年牢獄から出られないということが大経に説かれていますが、それを元にして親鸞聖人がお作りになったものであります。「仏智うたがうつみふかし/この心おもいしるならば/くゆるこころをむねとして/仏智の不思議をたのむべし」とこう云われる。仏の智慧を疑う罪は深いと。これ今日お話してきたことで云えば、南無阿弥陀仏一つでどんな者も助けるぞと阿弥陀仏が呼びかけているのに、イヤそうかなぁ、これだけじゃ頼りないと思う、これが仏智疑惑でしょ。それからもう一つは浄土に往生させると云っているのになんか利益を我々が勝手に思い浮かべる、これを罪福信ずる心というふうに云われてましたね。自分の握っている利益、これから離れられない。これも仏さまを私は一心に信じてますと云ったとしても、その中味が全然仏の教えをいただいたことになっていない。ですから本当に仏の教えをいただいていなかったなぁということを知る。ここからしか始まらない。このことを仏智疑う罪深し、この心思い知るならばと云います。思い知る、そこに悔ゆる心を宗として、間違っておったなぁと教えを聞きながら、なんにも聞いていなかったなぁと悔いる心です。それを宗として、依り処として、そして仏智の不思議を頼みなさいと呼びかけておられます。この悔いる心が仏智不思議をいただいていく、仏智疑惑を離れていく唯一の道なんですとこういうことを云われます。ですから20願の中味難しいんですけどね、一つは善本徳本をまずこれをやれと勧める。これが次からの引用を見ていきますとずうっと並んでいます。しかしそれをどこで超えるかとなったら実際にはそれだけでは助からない、間違っていたことを知らされるということを根拠にする。ここしかないと思うんですね。で大きな見当付けだけしておきましょうかね。先取りして読むのはどうかと思いますけれども、大きな流れだけ見ておきますと、347頁。まず大経の言葉がずうっと並びます。ここには仏智疑惑ということも出て来ますので、それはまたゆっくりお話しせんならんと思いますが、348、349、350、351頁ぐらいまで、この辺りは弥陀の名号一つを勧めるお経の文章あるいはそのお経に対する解釈がずら~っと並んでいます。これはさっきも云いましたが、真門の方便なんですよ。名号を勧めてこれ一つでいいよということを我々にこれでもかというぐらい云うて下さってる文章が並びます。しかし今度それをお経に誉めてあるから、勧められてあるからと云って自分がそれを功績として握っていいという話じゃない。それはもう一遍あり方を転じられなきゃならんわけです。
難信論、善知識釈
それがどこから始まるかと云うと351頁の最後から2行目。ここからまた大経の文章がいきなり始まるんですね。この辺が経論釈というふうに普通は引用文は並んでいいるように見えますが、先ずは勧める方、善の本徳の本として勧める方がずうっと並んでおって、ここからはそれを握るということは、本当の仏の教えに出遇ったとは云えませんよということを確かめることになります。ここからは難信論とか、善知識釈と云われています。結局自分に先立って念仏をいただいている人、そのお姿に勧められるということがなかったら私たち自分が掴んだ念仏離せないんですよ。自分の念仏の危うさ、不安を抱えながら、こんなことで救われるかと思いながらも、これしかないといよいよ固まっていくわけですから。でもそれを解くのは自分に先立って念仏を生きておられる善知識のお姿。まぁ善知識というとどっかの先生みたいに思うといけませんので、これは善き友も入ります。御同行のお姿ですよね。そこにまで具体化してくると思いますが、そのお姿を通していただいていくわけであります。ちょっと先になりますが、ちょっとだけいまの思いを云うておくと、私たちにとって善知識というのは都合の悪い人が一番そうやと思います。自分の意見を受け付けてもらえない、なかなか頷いてもらえない、そこにお前の受け止めが届かないということを云うてくれるわけですから。だから自分の受け止めをするすると受け容れてくれる人は心地良いかも知れませんけれども、どんどん自分の答えの方に居付くことに、それを握ることになるでしょうね。そして今度批判する人が出てくると、あぁお前は分からんとか、あんたには通じないと切ることになるかも知れない。結局それは狭い世界、今日で云う宮殿とか胎宮とか、こういうものを固めているだけの話ですね。それが世界に閉じ籠もっているんじゃないかということを云って下さるのは実は通じない人、都合の悪い人なんです。その意味で云うと善知識というのは、自分を導いてくれるお師匠さんみたいなイメージがあるかも知れませんが、都合の悪い人という形で私たちの目の前に立ち現れて下さるんですね。そこまで行くと思います。だからこの殻を破って下さる、そういうところに、本当に広い世界に引き出されるということがあるわけであります。でもこれさっきも云いましたけれども、教えざれども自然に真如の門に転入するとあったように、こうすればいいとか、あの人に会えば大丈夫とか、これはそんなわけにいかないんです。出遇ってみて、破られてみて、あぁあの人との出遇いがと云えると思いますけども、計算して会うたらなんとかなるという話じゃないでしょう。ボクの大先輩で安田理深先生の話を非常に聞き抜いた人がおられて、その人が自分の友だちを安田先生のところへ連れて行ったときに、落胆した話をしてました。どう落胆したかと云うたら、自分にはビンビン来るから、その友だちにもきっとビンビン響くだろうと思っていたら、安田先生の話しぶりに戸惑われたのか雑談しとるみたいやとしか、その人は云わなかったと云うんですね。あぁ紹介するというのは難しいなぁと云うて下さった言葉を私は聞かせてもらいました。だから人に会うと云っても自分がお師匠さんに遇うとか自分にとって大事な人だからと云って紹介してみてもそれは別の人にとってどうかは全く分からないです。どんなふうに響いていただけるか分からない。だからあの人に会えばなんとかなるという話と全然違うんですね。しかしその一つの出遇いということがなかったら、自分の思い込み、あるいは掴んでいる答え、これを問い直すということはまず起こり得ないでしょうね。まぁそれが引用文がずらずらっとなんですが、途中からまた大経の引用が始まる。ここが20願の果し遂げずにはおかないということが善知識となってはたらく、善き友となって働く、それをボクはいま都合の悪い人となってでも現れて来ると、読み込み過ぎかも知れませんが、そんなふうに感じているということなんですね。まぁその出遇いがなければ答えに居付くということであります。まぁちょっと20願への入りかけでありますけれども、そのお勧めのところを次に経文証で確かめていきたいと思います。