『教行信証』の化身土巻を読む(29) 一楽 真 師
2018/ 08/17
真の宗と南都北嶺の仏教
少しだけ振り返っておきますと、真実の仏教とは何か、これが親鸞聖人にとって一番大きな問題なんですね。仏教と云ってもその根本は何かという。比叡山で20年修行なさった、そのことを投げ捨ててまで山を下りていかれた、ここにかかっているわけです。20年も比叡山にいればそれなりのポジションもあったでしょうし、役職もあったに違いありませんが、それを投げ捨てるということは余程の覚悟やったと思います。そのくらいしないと本当の仏教がはっきりしないということがあったと云っていいと思います。ただ比叡山の上ででもですね、既に大事な課題として聞いておられたのは一乗という仏教ですね。同一に乗るという、誰もが平等に仏に成るという仏教、これが比叡山の根本の教理でありました。法華経がそれを大事にするわけですが、伝教大師最澄さまは元々奈良時代にあった仏教は誰もが平等に成仏するということは云わずに、努力や才能に応じて三つの覚り方があるという三乗という教えが日本仏教の中心になっていることを疑問視しておられたわけです。三乗というのは方便であって、いろんな道があるよということを指し示すのであって、一乗こそが本当の仏教だと、こういう方便と真実というようなことは伝教大師の頃からもう論議になっているわけです。念のために云いますが、方便は真実じゃないというそんな意味じゃなくて、真実に入るための手立て、これを潜って真実に出遇うんだという意味で、方便も大事な意味を持っているわけです。ところが奈良の方はそれを譲りませんね、やっぱり才能や努力の結果に応じて覚りにランクがある方が本当であって、誰もが平等に成仏するという方が仏教に引き入れるための方便の教えだと、真っ向から衝突することが続いていました。伝教大師の後を継いでそのことに終止符を打ったというか、一つの筋を示したのは源信僧都というお方ですね。ところが、比叡山で一乗の教えを親鸞聖人は学ぶんですけども、実態はどうなっているかというと結局お坊さんの専有物になっているわけです。しかも山に上ることができるのは男性だけでした。男性の出家者に限定されている仏教、これが本当の仏教なんだろうかという疑問が山を下りざるを得ないということになって行くわけです。親鸞聖人は比叡山を下りたというと比叡山はダメだと考えがちなんですが、そうじゃなくて本当の一乗の仏教はどこに成り立つか、これを求めて山を下りられたと見ておく必要があります。その結果法然上人を通して男も女も問わない、出家も在家も問わない、あるいは健康か病気かとか長年修行して来たか、まだ新米か、そんなこと一切問わずに誰にも成り立つ道があったという、これが阿弥陀仏の本願による仏道であります。根拠は阿弥陀仏の本願のはたらきの方にありますので、私たちの素質や能力や経歴は一切問題にならないということ、これが真実の仏教だと親鸞聖人は承け止められます。その時にいろんなお経が山ほど残されているわけですね、例えば修行しなさいというお経もあるわけです。出家をしなさいとか、坐禅組みなさいとか、そういう経典もあるわけですよ。それはどうなっているのかということを改めて問い直したときに、三乗と一乗という区分けではありませんが、今まで聞いてきたものは方便の教えであって誰もが平等に成り立つ道こそが真実の仏教だと受け止め直していかれる。これは親鸞聖人ご自身の歩みの結果です。それを修行している人にも伝えたいわけです。あなた方が求めておられる本当の成仏は阿弥陀仏の本願の教えでないと成り立ちませんよと。修行して覚りを開くというのは一つの形を示した真実に導くための方便の教えですよということを云うわけです。このことがぐうっとまとめて書いてあるのが第6巻目の方便化身土巻なんです。じゃあ方便を通して真実に入るのなら、方便が先に遇った方が分かり易いわけです、前段階ですから。方便を潜って真実に行くなら、助走があって結果に辿り着く方が分かり易いのですが、真実がはっきりしないと何が方便なのかが見えないんですね。真実に出遇うということがあったときに、あぁあれも方便であったかこれも方便だったのかと見えてくるわけであります。その意味で真実の仏教を先に掲げる、これが教行信証、そして真仏土という始めの5巻の構成になっておりまして、第6巻目にこれまでの仏教全体をどう見るかという形で方便化身土巻が置かれているという関係であります。浄土門に残る助正間雑心と信罪福心
一応そういう浄土の教えとそれ以外との話というふうに見えますが、親鸞聖人はもう一つ踏み込んでおられる。それはなぜかと云いますと、同じ法然上人の教えを聞いた人の中にも念仏をまた捩じ曲げていくということが起るわけです。念仏は誰の上にも平等に成り立つ道だということが法然上人が掲げられた大事なお仕事なのに、私の方が長いこと念仏しておるとか、私の念仏は沢山お経を理解した上の念仏だとか、また同じように素質・能力・経歴のような、こちらを当てにするような仏教理解が念仏のところにも入り込んでくるわけです。ただ念仏一つというのは人間の違い目、差異を問わないということを掲げたはずなのに、その念仏を受け止めるときにまた人間の違い目をランク付けに利用するということが起きました。人間の基本的な発想がそうなっているでしょうね、止まらんのです。仏さまが大事だよと云われても、それに気付いた自分は偉いでしょうみたいなことが残るわけです。だからそこをもう一遍明らかにするために浄土の教えの中にも本当に出遇うべきものと、それに導くための方便がありますよと云われる。大きく云うと聖道の仏教と浄土門、この二つで聖道の仏教は浄土の教えに導くための方便ですよという方便があるわけです。しかし同じ浄土の教えの中にも私たちをただ念仏一つに導くための方便の教えとただ念仏一つという、みな平等だという真実と二つあるということを云って行かねばならない。これがどうしても化身土巻のお話の展開が複雑になっている理由だと私は思います。だからいつも話がややこしくなってしまうのですが、私の話もややこしいんですけれども、だいたい人間が真実に出遇うということがなかなか難しい。そこに何が方便で何が真実かということを見極めていく、はっきりさせて行くということが歩みの中で要るもんですから、化身土巻が長い論述にならざるを得ないものを持っているのです。ですから、何が本当に依るべき教えなのか、何に依って我々は迷い傷つけ合うことを超えられるのかという仏教の根本を確かめようとする課題が親鸞聖人におありだったという見当付けをして、今日のところを読んで行きたいと思います。無問自説経
それで、読んでおりましたのは、大無量寿経・観経の三心と阿弥陀経の一心との関係を問う問答のところのまとめまで来ていたかと思います。大谷派の聖典では345頁辺りを読んでいました。上の段後ろから5行目。[この『経』は、大乗修多羅の中の無問自説経なり。しかれば、如来、世に興出したまうゆえは「恒沙の諸仏の証護の正意」ただこれにあるなり。]とありました。この経というのは、ここでは阿弥陀経を指していますが、大乗修多羅は大乗の経典という意味でありますが、経というのは、中国では儒教であるとか、そういうものも経という字で経典を云う場合もありますから、あえてインド伝来のスートラ(修多羅)という言葉をわざわざ使っておられます。大乗経典の中の無問自説経、誰も問う人がないのにお釈迦さまが自らお説きになった経典だと云うんです。これは何を表わしているかと云うと、一番云いたいことをお釈迦さまが語られた。このことのためにお釈迦さまはこの世にお出ましになった、これを出世本懐と云いますが、お釈迦さまの出世本懐がこのお経には語られているということです。中を振り返って読むことはしませんけれど、中は何かと云うと阿弥陀仏によって助かっていく仏教が書かれているわけです。お釈迦さまが救うとは云わないんですね。これが仏教の本当に大事なところです。お釈迦さまのパワーによって助けられるのじゃない、お釈迦さまが出遇われた世界、あるいはなぜ人間は迷うのかという法則がありますから、それに出遇えれば誰もがお釈迦さまと同じように迷いを超えられる、はっきり云えばブッダになるわけです。仏教は誰もが仏陀になる教えなんです。仏陀に救ってもらう教えじゃないんです。その法を阿弥陀あるいは阿弥陀の本願で表してあるのが、この経典でありますが、それを説くためにお釈迦さまはこの世にお出ましになったというわけです。これをはっきりと「しかれば、如来、世に興出したまうゆえ」とあります。これが出世本懐ということを別の云い方で云ってるんですね。如来がこの世に現れた理由は何かと云えば、ただこのこと一つのためですと。阿弥陀が世界を説くためだということですね。前回も云うていましたが、ここに括弧が付いている。これは無い方がいいとボクは思っているんです。これはこの聖典を編纂した人の意図があってこうなっているのですが、これは<恒沙の諸仏の証護の正意もただこれにあるなり>と並列していると思います。釈迦如来がこの世に現れた理由は、そして沢山の仏さまが護り念じて下さっている、そのお心はすべてこの阿弥陀の世界を説くためにあります。阿弥陀の世界に生れさせるため、出遇わせるためにあるんですよと、こう云ってると思います。なんでこんな括弧を付けたかというと、上が「ゆえは」となっているからですね。「世に興出したまうゆえ、ならびに」とあれば、誰もがそう並列して読むわけですが、そう書いてないもんですから、「ゆえ」が下にかかっているような、こういう書き下しになっているわけですが、私は「ゆえはこれにあるなり」と一回読んで、「恒沙の諸仏の証護の正意もただこれにあるなり」と読んだ方がいいと思っております。これはここだけでははっきりしないかと思いますが、後に書かれたと思われる『浄土文類聚鈔』のことを紹介してましたね。場所を確かめておきますと『浄土文類聚鈔』の最後のところに親鸞聖人の如来観と云うのでしょうかね、お釈迦さまとそれ以外の仏さまのお仕事を確かめられる部分があります。聖典421頁であります。後ろから7行目「誠に知りぬ。大聖世尊、世に出興したまう大事の因縁」ここは出世本懐ではなくて大事の因縁、一番大事な因縁は何かと云ったら「悲願の真理を顕し」と。これは阿弥陀仏の大悲の願だから悲願と云ってます。阿弥陀仏の本願の真実の利益を顕わし、それを如来の直説、お釈迦さまが直にお説きになったと云うわけです。その中味は「凡夫即生」ですから凡夫が即座に生まれる、凡夫が凡夫でなくなってから助かるんじゃないんですね。凡夫のままで助かる道をお示しになる、これを「大悲の宗致とすとなり」一番語りたかったことだと云ってます。それに続いて「これに因りて諸仏の教意を闚うに」お釈迦さま以外の多くの仏さまの教えのお心をうかがい見ると「三世のもろもろの如来出世の正しき本意」とあります。三世ですから過去の如来も現在の如来も、未来に出てくるであろう如来さまも、みんな一つのことを願っておられると云うんですね。その如来出世の正しき本意は「ただ阿弥陀不可思議の願を説かんとなり」。ここにお釈迦さまの出世の本意も諸仏の出世の本意も阿弥陀の本願を説くことにあるのだということが明言されております。まぁこの『浄土文類聚鈔』というのは親鸞聖人で云えば『教行信証』の後に書かれたと見た方がいいと私は思っています。意見がいろいろ分かれるところでありますが、残念ながら親鸞聖人の直筆本が残っていないもんですから、そういうことがいつも問題になります。ここだけじゃなくていくつも『教行信証』よりもさらに踏み込んだ表現を受け取ることが出来ると私はいただいております。これが345頁のところで云うと、並列的に「しかれば、如来が世に興出したまうゆえは、さらに恒沙の諸仏の証護の正意はただこれにあるなり」と読みたいと思う私なりの論拠の一つであります。で、前回まとめの言葉を読んでいたわけですね。真宗をお伝え下さった方々
「ここをもって、四依弘経の大士」、大士は龍樹菩薩を特に指すという説もあれば、龍樹・天親を指すという説もありますが、大士は菩薩さまを指す別の云い方でありまして、四依ということを明確にしてお経を弘められた方々のお仕事、それを更には「三朝浄土の宗師」インド・中国・日本で浄土の教えを明らかにして下さった方々であります。まぁ狭く云えば七高僧ということになるでしょうが、七人だけに別に限られるわけではありません、代表させれば七人、七高僧であります。何をして下さったかと云ったら「真宗念仏を開きて濁世の邪義を導く」と云ってます。ここを取れば、真宗を開いてくれたのは七人の高僧みんなのお仕事なんですね。もっと広く云えば七人以外にも浄土の教えに生きて下さった方が我々の本当の依り処となる真宗の念仏を開いて下さったのだと云ってます。親鸞聖人にとって真宗は自分が開いたものじゃありませんね。先達によって開かれてきた本当の依り処です。真の宗(まことのむね)、本当の依り処、それをインド・中国・日本にお出ましになった先達が示して下さった。逆に云えば、そういう方々が現れなかったら私たちは何を依り処にすればいいのか分らずじまいだったということですね。真実でないものを本当だと思い込んでしまうことが起る、偽物を本物にしてしまうということが起る。だから先達のお蔭によって「濁世の邪偽」です。真宗がはっきりするということは邪偽がはっきりする、これ同時ですね。本当に依るべきものが明らかになることと、依ってはならないもの、偽物が明確になるということ、これ同時であります。反対に云えば真宗を知らないと私たちは邪偽を邪偽とも知らないわけであります。これが大事だ、あれも大事だ、いやいやこれも大事だといろんなことに振り回されることを止められません。真宗が明らかになることと邪偽が明確になることは同時であります。これを先達のお仕事として親鸞聖人は仰いでおられますね。これも厄介な話で、現在浄土真宗と云うと、これは宗派の名前、教団の名前に使われるものですから、開祖は親鸞だということにすぐなってしまうのですが、親鸞聖人は人間にとっての本当の依り処を真宗と云うのだ。そして直接には法然上人によってそれを教えてもらったと云うわけです。しかし法然上人が作ったわけじゃないですね。遡ればこれは中国の善導大師、更にはお釈迦さまとまぁ代表させれば、釈迦・善導・法然というところで真宗という見方もありますが、ここは七人、さらにはもっと展けばたくさんの浄土の教えに生きた方々によるお仕事というふうにしておられると思います。三経の大綱
そして「三経の大綱、顕彰隠密の義ありといえども、信心を彰して能入とす。」この顕彰隠密の顕は方便の意味ですね。これはお経並びにお経に文字として、あるいは言葉として表されているものです。しかし言葉には必ず背景がありますね、そのお心をいただかなかったらお釈迦さまの教えをいくら読んだからと云って、お心を知らないままに終わります。そっちの方、お釈迦さまの隠されたお心の方を彰隠密と云っている。我々の日常でもありますよね、親が子を心配するあまり出て行けと云うてしまっても、本当に出て行ってほしいわけじゃないんですね。なんか気が付いてほしいことがあるんでそういうことを云うわけです。その言葉だけを取って、じゃぁ出ていきますと、そんなことしてほしいわけじゃない。人間の間で使う日常の言葉の中にも言葉で云い尽せない、何とか気を付かせたいという時には、踏み込んで誤解を生むような表現をしてしまうことだってあるわけです。お釈迦さまには誤解を生むというような表現はありませんけれど、例えば阿弥陀経のことでお話ししました周利槃特で云えば、掃除しなさいと云ったわけですね、しかし掃除してほしかったわけじゃない。お釈迦さまは周利槃特の心についた垢に気が付いてほしかった、汚れに気が付いてほしかった。周利槃特はそのことに見事に気が付いた。掃除せよと云われて地面を掃けばいいとそんなんじゃない。私の心についていた汚れにお釈迦さまは気付けと仰った、そのお心に気が付いた。これに気が付かない間はお釈迦さまの教えをいくら聞いたからと云って、憶えたからと云って、教えに触れたことになりませんよね。親鸞聖人はここを問うたわけです。八万四千と云う山ほどの教えが残されているけれども、これに触れなきゃならんと。その意味でここに導くための方便というのは大事な面もあるけれども、いまの掃除せえと云われて、私やってますとなれば、本当のお心には出遇えなかったということになりますね。だからそれは仮のものですよ、本当に出遇わせたいのはそこじゃありませんよということも云わないといけない。こう云う面が方便化身土巻の確かめの中にあるわけです。それを始めは『観無量寿経』のところで顕と彰隠密の話をしてましたね。前回までのところでは阿弥陀経における顕の義と彰隠密の話をしていました。それを通して出遇わせたいものは何か、これをまとめてひと言で云ってますね。「三経の大綱」ですから、三経にはいろんな筋道があるわけですが、そこに顕彰隠密の義、顕の義と彰隠密の義、二つの表わされ方があるけれども根本は何かと云えば次の言葉です。「信心を彰して能入とす」。お経はいろんな説き方をしているけれども、一番云いたいのは仏の教えに出遇うということ、これだったかと気が付く、この信心が要なんだということです。だからお経の説き方の違いに振り回されてはいけないんです。ここに導くためにあの手この手、いろんな仰り方をしているのであって、いろんなことを云ってるのではないということ、これをここで押さえているわけです。[かるがゆえに『経』の始めに「如是」と称す。「如是」の義はすなわち善く信ずる相なり。]こういうまとめでありました。お経の始めに「如是我聞」あるいは「我聞如是」という言葉がありますね。翻訳すれば「かくのごとく」なので、このように私は聞きましたという言葉です。しかしこのようにと云うだけでは済まないということを親鸞聖人も如是の釈をわざわざ引いて確かめていました。「如是」は間違いないこと、是なるごとしという意味です。本当に確かなこと、これを聞いた。更にはお釈迦さまが本当に云いたいことをその如くに聞いたということなんです。だから私はこんなふうに聞きました、私にはこう聞こえました、とそんな「このように」というただの指示語じゃなくて、お釈迦さまのお心を頂戴しました、これが「如是」という言葉にあるんだと云われるわけです。お経はどのお経も基本的には「如是」あるいは「我聞如是」で始まるのです。自分に受け止めたと云うんではなしに、何かお釈迦さまがこんなこと云うておられましたというような伝言ゲームみたいな聞き方じゃないんです。自分に届いた、はたらいたということを表わすのが「如是」という言葉なんですね。お経の始めに「如是」と書いてあるけれども、それはよく信ずるという相(すがた)を表わしているんですよというのが今の言葉であります。これは曇鸞大師の『浄土論註』に出るお言葉でありますが、それをここにまとめて親鸞聖人が置いておられます。信心を別の云い方では如是、これを「善く信ずる相」と書いてあります。これがずうっと方便化身土巻の課題で云えば一番難しい話です。信ずればいいんでしょうと云いますけど、これが甚だ難しいわけですね。だってお釈迦さまのお弟子の例を挙げてみても、みんな教えを直接聞いていた人ばっかり、でも10人いたらみな違う聞き方をしているんですね。有名なところでは提婆達多というお釈迦さまに背いた人がいますが、あの人も私が一番聞いていると思ってる。結果どうなったかと云えば、私がお釈迦さまの跡継ぎにふさわしいと云うわけです。結局指導者意識だったんですね。だから人をどう導くか。この辺はお釈迦さまのなさったことを踏襲しようとして、よく研究しておられたかもしれませんが、提婆達多には自分の思い込み自体、自分は間違っていないかということを問い直すような眼が備わっていないんですね。本人は私は信心持ってますと云うでしょうし、私は間違いなく聞いてますと云うでしょうし、私はよく信じてますと云うでしょうけれども、それが実は一番の問題なんですね。これはお釈迦さまの時代でもそうですが、親鸞聖人の時代にはどうであったか。800年前比叡山にはいろんな修行をしているお坊さんがおられたわけです。どの方も真面目にお経を読み修行に励んでおられた。みんなこれが正しいと思ってやってます、間違ったことを態々やるなんて、そんなことあり得ませんよね。これが本当の仏教だと思ってやっている。でも、始めに云いましたが、女性がいないのはなぜか、出家のお坊さんばかりなのはなぜか。お釈迦さまの法はそんな特定の人だけの専有物ではないはずだと、こういう疑問を持ったときに親鸞聖人はこれは仏教と云えるのかという問いを持って山を下りるわけですから。信じていると云っても自分が掴んだところだけ信じてるのは結局教えを聞いたことになるんでしょうかね。これはまぁ比叡山の修行まで行かなくてもいいですが、私らの聞法ということも全部そういうことに嵌っていきますよね。いまの話はよかったというときには大概自分にとって都合が良かったということがあるんですね。今日の話は面白くなかったとかね、全然響かんやったとか、まぁそれはそれであり得ますけれども、その時に自分の始めから予定しているものにマッチするものだけを良いと云い、マッチしないものはもう一つやったとなっていくとすると、これはどれほど教えを聞く縁があったとしても、どうでしょうかね。仏教を聞いているんじゃなくて、自分の気に入ることをコレクションしているだけかも知れません。これ修行の話ばかりじゃなくて我々の聞法のところにも起る話なんです。だからお経の始めに如是我聞とある。これが要なんだと云われますけれど、如是ということが一番難しいわけです。そのままいただけない。結局都合のいいところだけ取り、都合の悪いところは漏らしていく。そして読んだ読んだということになって行くとすると如是我聞でも、何でもないですね。だから、その後にはお釈迦さまがいつ、どこで、誰のためにお説きになったかが続きますけれども、それを間違いなく受け止めたという、これが仏教の一番大事なところですよということを確かめているわけです。三経の要「信心」
三部経にはいろんな説き方がある。顕彰隠密もあるけれども、しかしその要を押えれば「信心を彰して能入とす」という、この信心一つというところが根本なんだということを云う、それがいまの文章なんですね。[「如是」の義はすなわち善く信ずる相なり。]とあって「いま三経を案ずるに、みなもって金剛の真心を最要とせり。」とありました。これも信心を言い換えたわけですが、これが三部経と共に「最も要(かなめ)」としているところだと云ってます。真心(しんしん)と読みましたけれども、親鸞聖人は「しんじん」と読み仮名をつけておられるところもあります。ただこれは聞いたときに信心と区別するために長年の学習の間に「しんしん」と読むのが癖になっています。そしてこれも何遍もお話ししてきましたが、親鸞聖人はこの金剛ということをものすごく大事になさるんですね。これはダイヤモンドにも譬えられるのですが、決して壊れない、あるいは汚れに染まらない、こういうものを金剛に譬えておられます。信心をなぜ金剛の真心という言葉で押さえるかと云うと、この世の中にあってこの世の中の濁りに染まらない、世の中の価値観に呑み込まれない、こういう世の中を生きていく信心を大事にするときに、この金剛の真心ということを親鸞聖人は大事にします。これは当り前と云えば当たり前かもしれませんが、親鸞聖人が改めて問題にして下さらなかったら、浄土の教えと云えばこの世を離れてどこかへ逃げ込むような、そんな教えにずっとなっていたんですね。この世が苦しいから阿弥陀の浄土に行って楽させてもらおうみたいな。いまは辛いけれどもいのち終って浄土へ行けばきっと楽になれるとか、その死後の安心を約束するような浄土観というのは現代でもそう思っている方ありますね。それに対してそんな浄土は要らないというふうに批判を加える人もあります。だっていま生きていることが大問題なんだから、そんな死後の往生なんてなんの魅力もないと仰る方もあります。でも親鸞聖人が語られる浄土は決して今いるところがしんどいから、どこかへ逃げ出してどこかにある別世界に行く話でもなければ、死んだ後に楽さしてもらう話でもなくて、浄土の教えに出遇うところに、この世を本当に生きて行くことができる。この世の価値観に呑み込まれずに歩んで行くことができるという教えなんです。浄土はこの世を生きることに深く関っているということを明らかにして下さった。これが他の人があまり云ってない親鸞聖人の浄土理解の特徴的なところだと思います。そういうときに、この金剛心あるいは金剛の真心ということを大事にされるわけです。信心を得て終りじゃないんです。信心を得たらもう浄土行き決まりましたから安心ですわというようなことで終らない。生きていく現場はいろんな、勝った負けたとか、役に立つ立たないという価値観が渦巻く世界なんですよ。その中にあって方向を見失なわずに歩み続ける。何を大事にするかということを決して見失わない、こういうところにこの信心が関わっているということを云うわけです。もしも信心という言葉だけだったら、なんかこれは仏教の内部の、宗教別枠論というのが昔よく云われましたが、宗教の問題というのは世間と関係ないみたいなことをよく云われることがありましたけれども、そう云うふうなところに押しやられるかも知れませんね。でも本当に仏教に出遇って生きるということは、この世の中の問題に関わるということがあるわけです。一番代表を挙げれば、お釈迦さまが正にそうですよね。お釈迦さまは35歳の時に自分が何故苦しみ、そして傷つけ合うことを超えられないのかという法則に目を覚まされたわけです。そしたら苦しむ理由を発見したわけですから、お釈迦さま自身は苦しみから解放されたと云ってもいいわけです。これが35歳のときです。ところがその後なにを為さったかと云うと、自分が苦しんでいたことがはっきりしたのが本当に見えたら周りにいる人も同じように傷ましいなぁ、辛い生き方になっているなぁ、苦しいことになっているなぁということを放っておけなかったわけですね。自分がそこから解放される筋道、法則を見つけた限りは、今度は痛ましいことになっている人にそれをお伝えしたい。その後傷つけ合う生き方から解放されて欲しいということを語るお釈迦さまが誕生します。これは35歳から80歳まで続きますから、こっちの方が実は長いですよね。信心を得て、覚りを開いてで終るならお釈迦さまの人生は35歳でもう終わりですわ、でもゴールじゃないんですよ。覚りを開いて大事なことに気が付いた、そこから痛ましいことを放っておかないということが始まる。これはお釈迦さまの話だと云うてね、ボクらとは関係のないところに持ち上げてはいけないわけで、それこそお釈迦さまと同じになってしまえるというようなことは云えるはずもありませんけれども、課題は重なっているんです。私たちが信心をいただくということは丁度お釈迦さまが覚りを開かれてこの世の傷ましさに関わり続けた、それと同じように、信心を得たからと云って急にきれいな人間になったわけでもないし、分け隔ての心が無くなったわけでもないんですね。自分にもあるから人の傷ましさも共感できるということがあります。安田理深先生のお言葉に自分のことを知らないと人間は他人を責めるんやと仰っておられた。本当に自分の愚かさとか欲深さとかが見えれば、今度は他人を批判するだけで終らない。自分にもあるからこそ共々にそういうあり方を超えていきましょう、そういう痛ましいあり方を離れていきましょうというお仲間として関係が変ってきます。自分が正しいと思っているときには人を責めるばっかりです、邪魔者と思うかも知れません。しかし自分の中にそれが見えたからこそですわ、自分の愚かさがはっきりしたからこそ、他人を今度は痛むと安田先生は仰いました。自分を本当に知れば他人のことを痛むとも仰った。まぁいわば世の中を痛む眼を賜わるのが浄土の教えなんですね。浄土の教えに触れてこの世のことを痛む、これがスタートするわけです。そういう信心に立ってこの世を生きていくときに親鸞聖人が大事にされたのが金剛心、あるいは金剛の真心という言葉なんですね。三部経は共に信心が要だということを云っている。しかもその信心は本当に仏のお心をいただいた如是なる義なんですが、更にその中味を考えると「いま三経を案ずるに、みなもって金剛の真心を最要とせり。」と云っている。だから信心をいただいてゴールインじゃない、そこからいよいよ歩みが始まっていくような信心なんですね。そこをもうちょっと読んでおきましょう。如来回向の「大信心」
「真心すなわちこれ大信心なり。」大の字が付いています。これもここだけ読んでいると分かりませんが、第3巻目の信巻からずうっと流れてここまで来てますので大信心というのは私に起っても、私が起す信心じゃないんです。如来のはたらきによって恵まれるので、誰に起っても大信心なんです。あの人は勉強したから大信心だなんてことはないんです。長年修行したから大信心、そんなこともない。でも我々案外云うんですよ。親鸞聖人の信心は大信心かも知らんけど、私の信心はそんな、勿体ないみたいな、これ謙遜しているようで、実は信心を結局自分の能力やら素質の結果だと思ってるわけです。親鸞聖人に比べたら私なんかと云う、そんな人こそ今度は、でもお前よりましだと必ず云うんですよ。でも違うんです。誰に起ってもですから親鸞聖人の信心も大信心、私に起る信心も大信心なんです。でも威張って云う話じゃないですね。オレのは大信心だという話じゃないから厄介です。如来のはたらきによって起る目覚め、気付き。だから大信心なんです。私に起っても私を超えてるような世界、これをいただいていくんですね。広大無碍の一心という言葉がありますね、本当に広大な何ものにも碍げられない信心を親鸞聖人は信巻で明らかにしておられますが、そういうことを承けてこの金剛の真心こそが大信心であると云って、大信心は稀有であり、最勝であり、真妙である、清浄であるとまとめていました。稀有とはたぐいまれということでしょう、有ること希なりと。それから最も勝れている、これ以上のものはないという意味で最勝と云われる。そして真に妙である、妙という字は仏教では非常に細やかなこと、言葉で表せないようなものを妙と云うんですね。妙というのは変だという意味ではありません、言葉にしたら必ず落ちていることがありますね。一つ表現したら必ず漏れていることがあります。表せないものを妙と云うんですが、それは全てのものを包んでいるような、そういう広さと細やかさを含めて云われています。そして清浄というのは清らかである。これは人間の中にはあるものではないんですね。人間は必ず損得勘定とか取り引きの根性がありますけれど本当の浄らかさ、これが大信心にあると云うわけです。これだけの言葉を持って大信心を讃えているわけですね。これが全部如来のはたらきによると云います。前回一応ここを読んでいたんですけれど、文章とするとスッといかないようになってますね。なぜか。一回読んでみます。「大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。何をもってのゆえに、大信心海ははなはだもって入りがたし、仏力より発起するがゆえに。」これどうです。すうっと行きますか。「何をもってのゆえに」というのは、それはなぜかと云えば、どう云うことからそれが云えるのかという理由句を挙げる言葉ですね。それなら普通は大信心は稀有であり最勝であり真妙であり清浄である。それはなぜそういえるのかという説明が次に来ると思いますよね。ところが「何をもってのゆえに」の次に出てくるのは、「大信心海にははなはだもって入り難いと云ってるわけです。しかも入り難しの「かたし」が「叵」になっているでしょう。こんな字はなかなか使いませんが、音読みでは「ハ」です、訓読みで「カタシ」です。これは可能の「可」を引繰り返した字なんです。だから不可能を表わすと。だから難という字よりも更に難しい。これは我々からは到底なしがたい、果し遂げがたいということを表わすときにこの「叵」という字が使われます。親鸞聖人はこの「叵」と「難」を一緒にして「カタシ」と読んでるところもあるので厳密に完全に使い分けていると断言まではできませんが、難しさの度合いが高いときに「叵」が用いられています。だから大信心が稀有であり最勝であり真妙であり清浄であるというのは、それまでの信心は如是なる善く信ずる相だ、あるいは金剛の真心を最要とすると云って来たことのまとめになってます。しかしこの信心は我々がこうすれば得られるというようなものではないということ。例えば私たちが予定したり計らって私なら大丈夫だろうというようなものではない。なぜか。それを「仏力より発起するがゆえに」と云ってます。だから「何をもってのゆえに」というのは、「仏力より発起するがゆえに」とあれば、希有・最勝・真妙・清浄ということの説明にいきなり行くんでしょうが、そこに「大信心海はなはだもって入りがたし」と一句入っているもんですから、スッといかない。でも親鸞聖人はあえてこれを云わなくてはいけなかったんでしょうね。大信心海が希有・最勝・真妙・清浄が仏道の根拠になるということを示して、しかしその信心は甚だ入りがたいんだということを云うわけです。だから仏力より発起するというのは希有・最勝・真妙・清浄の理由句でもあるのですが、同時に大信心海がはなはだもって入り難いことの理由にもなっているということなんです。私たちからすれば阿弥陀によるということが一番難しいわけでしょ。だって自分が今まで勉強してきた功績を棄てられませんね。私ほどお経を読んだ者はおらん、あるいは私はもともと心は素直だとか、自分の性分を誇る場合もあります。やって来たことやら自分の資質を根拠に信心を得ようとする。逆に云うとアイツは無理だ、あんな奴はとても信心を得られないだろうとか云う根性が誰にもある。だから仏力により誰にも平等に起る信心と聞かされて、あぁ有り難いというふうにはなかなかならない。やっぱり人間のランク付けの中で見ることに慣れ切ってしまっているからでしょうね。だからこれは信心が稀有最勝である理でもあるし、しかしその信心がはなはだもって入り難いという難信の理由でもあるわけであります。これはもう既に信巻の中でも云われていることでありまして、信巻で云うと大変有名な言葉なんですが、聖典211頁後ろから4行目に大信心ということを語っていかれるところですが、それを述べられた後に「しかるに常没の凡愚・流転の群生」という言葉で始まります。大信心は常に迷いの世界に没している凡夫あるいは迷いに流転し続けてきた群生にとっては得難いということを云うんですね。でも得難いということを云う前に「無上妙果の成じがたきにあらず」と云います。無上妙果というのは覚りですね。この上ない覚り、これが難しいわけじゃないと云うんですよ。問題なのはその覚りの道に立つのが難しい。立てばあとは自然なんですけれど、道に立つことが難しいから結果的に覚りもなかなか得られない。覚りが難しいんじゃなくて、その仏道の歩みに立つ出発点が問題なんだと云います。それを「真実の信楽実に獲ること難し」と云ってます。その理由として「何をもってのゆえに。いまし如来の加威力に由るがゆえなり。博く大悲広慧の力に因るがゆえなり。」と云って、ここでは二つ挙げていますが、釈迦如来の押し出して下さるお力、それから「大悲広慧の力」というのは本願のはたらきであります。これが難信の理由でありますが、同時に無上妙果が成じ難いわけではないということの理由でもあるんですね。道に立てば自然なんです。本願のはたらきによるから。しかし本願のはたらきになかなか依れないから難信だと云ってるわけですね。こういうことがすでに信巻で云われていたわけですが、今日のところも同じような主旨ですよね。346頁に戻りますと、大信心は希有・最勝・真妙・清浄、誰に起っても清らかであり、たぐい希な、最も優れていることだと云うんですが、しかしその信心を得ることが難しい。なぜなら「仏力より発起するがゆえに」仏力によろうとしない私がいるからです。仏の力によって助かる、このことが簡単にいただけないわけです。もっと云えば、阿弥陀は誰をも平等に救ってくれると聞いても平等ということが受け取れない。なんであいつと一緒なんやと云う根性が抜けないからです。でもこれは信心が最も勝れて浄らかであるということの理由であると同時に信心海に入り難い理由でもあります。そしてもう一つ「真実の楽邦ははなはだもって往き易し」阿弥陀の浄土を楽邦といってますが、それは往き易いと云うんです。これさっきのところで云えば、「無上妙果の成じがたきにあらず」という言葉と通じてますね。なぜかと云えば、本願によって誰もが平等に往けるからであります。その道に立てば自然なんです。それを「願力に藉ってすなわち生ずるがゆえなり」と。願力をおかりするところに即座に生まれて行くからであると云ってます。これも私いつも船の譬えで申し上げますが、親鸞聖人は本願を船に譬えて下さいます。この船に乗ればどんな荒海も渡れると仰って下さいます。これが本願の船です。ところがその船に乗ろうとしない私がいるんですね。乗ればどんな荒海にも沈まないし、溺れないのですが、なかなか乗りたくないんです。一言で云えば自分の泳ぎの方があてになると思っている間は本願の舟には乗らないのです。もう一つは皆が平等に乗れる船には乗りたくない、自分だけ特別扱いされたい、この根性が平等の船に乗らない理由です。乗れば必ず生まれる、結果として必ず無上妙果、この上ない覚りにまで至るのですが、その出発点に立つことがものすごく難しい。我々からすれば不可能としか云えないほどのことなんですね。この辺を三部経を貫くものとして確かめていたのが前回読んでいた最後のところでありました。これをまとめて「いま将に一心一異の義を談ぜんとす。当にこの意なるべしとなり。三経一心の義、答え竟りぬ。」と結んでいます。これ不思議な話で一心一異の義と書いていますが、始めには大経の三心と観経の三心と阿弥陀経の一心との関係はどうかという問題提起でしたね。一心一異の義をここで述べておられるわけじゃないんですよ。しかし大経で三心と云ったのも結局は信心のことですよと云う。観経で三心と云ったのも、これも結局信心のことですよと云ってきた。阿弥陀経で云う一心もこれも信心のことですよと、こういうように纏めたことによって、三経ともに信心について違う説かれ方がされている、というまとめにしておられる。だから説き方は大経では三心、観経では三心、阿弥陀経では一心ですが、その信心を別の言葉で押さえている、その違いは何かということを押さえる。結果的には金剛の真心が要ですよ、あるいは如来より賜る大信心が一番大事なんですよと、これは三経に通じて何一つ変わることがないと云ってるわけです。変わることがないんだったら始めからみな一緒だと云えば良さそうなものなんですが、あえて違う説き方をしないといけないのが方便なんです。これが大事ですよと云って、さっと受け止めるなら三つのお経をはみんな同じ云い方をすればいいんですが、これが大事ですよと云っても頷かない、それを受け取らない私がいるもんですから、じゃぁここからやれとか、じゃこのことに力を尽くせとか、こういう違う説き方をするんです。敢えて違う説き方をしたのはなぜかと云うのが、ここの一心一異の義という言葉で押さえられております。しかし違う説き方をしてあるからと云ってバラバラなことが云われているわけじゃない。それが最後にまとめて「三経一心の義、答え竟りぬ」となっています。三経には一心ということが貫かれていますよと。だから始めの問いと最後のまとめの言葉が同じじゃないということが逆に大事なとこですよね。親鸞聖人にとっては違う説き方をしてあっても、それは結局真実信心、大信心、金剛の真心を語っているんですよというふうに納めておられるということです。ですから敢えて違う説き方をしている方を方便と云うのに対して、導きたいのは大信心あるいは金剛の真心であって、これが三経を通じて気が付いてほしい、出遇ってほしいところだと押えておられるのです。この辺まで一応読んでいたわけですが、もう一度振り返ってみたことでありました。
第20願のはたらき
前回までを承けて、第20願のはたらきを具体的に確かめて行かれるところに入って行きたいと思います。346頁後ろから7行目。[それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。真門の方便について、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。「雑心」とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。良に教は頓にして根は漸機なり、行は専にして心は間雑す、かるがゆえに雑心と曰うなり。「定散の専心」とは、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを「自力の専心」と名づくるなり。]「それ」というのは話題を転換するときに使われる言葉で教行信証ではそんなに多用されているわけではないです。まぁ一つの大きな区切りというようなことで、その意味では阿弥陀経のお心から20願を見ていくということですから、そんなに大きな転換をしなくても、例えば〈しかれば〉とか〈しかるに〉というような言葉で繋いでいっても全然おかしくないと思います。しかし親鸞聖人はここで三経一心ということはもう答え終ったところに立って、改めて何故第20願をお立てになったのかを尋ねていかれるのですね。その後に「濁世の道俗」ときますね、これはまぁ一番大きな括りでしょうね。一切の道俗という言葉がありますけれども、道も俗もということですから、道は出家の人です。俗というのは在俗です。これは道の中にもいろんな身分はあるし、俗の中にもいろんな身分がありますけれども、そのすべてを包むときに、すべての人よと云うときに、この道俗という言葉を使うんですね。一切の有情よと云ってもいいでしょうけれど、有情と云われて自分はそれに入っていないと思う人もいるかも知れませんね。すべての群萌よと云われてもワシは群萌と違うぞという人があるかも知れません。だから道俗というのはある意味で世俗的な言葉なんですね。世間の中で使われる言葉であるがゆえに、逆に道も俗もというのは社会にいるすべての人に訴えかけているような意味を持っている言葉だと思います。濁世は詳しくは五濁悪世、濁った世であります。私は濁世と云う言葉がピンとこなかったときに宮城顗先生のお話を聞きまして、濁というのは喩えて見れば、水が濁っていたらいくら底に宝があっても見えないだろうと仰ったことがありました。プールでもいいです、海でもいいですが、水が濁っていれば底に宝物があっても分からんだろうと。つまり濁っているというのは宝物が無くなったことを云うんじゃないと仰ったんですね。宝物が見えなくなっている。それが世の中が濁っている、時代が濁っている、あるいは我々の眼が濁っているという問題なんだと教えられて初めて分かりました。それまでは五濁悪世といったらひどい奴がいるとか、事件が続くみたいなことと思ってたわけです。それは殆んどの場合自分にとって都合の悪いことを五濁悪世と思ってたんです。でも都合の良いことがずうっと続いていても実は五濁悪世なんですよ。つまり都合の良いことに振り回されていることが見えなくなってるわけでしょ。これは儲かるという話に飛びついて行って、それがおかしいとも思わないという、そればっかりになっていることが実は本当の宝物が分からなくなっている濁った状態なんです。五濁悪世というのはひどい事件が続いて時代が悪いと、そんな話じゃないです。どれほどうまく物事が進んで、自分も華々しく立ち回っていたとしても、それ全体が五濁悪世だということなんですね。だから人間からは五濁悪世なんて見る眼なんてないんですよ。仏さまが教えてくれているわけです。仏さまから教えられたところにいろんな生き方をしている道も俗もみな濁世を生きる痛ましいあり方、本当のことが見えていない生き方ですよということを込めて、こんな言葉が使われていると思います。速入円修至徳真門
そこにひと言「速やかに」と、他のことは差し置いてということでしょう、何を優先しなければいけないかと云うと、先ずはこれだということで「速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。」と云ってるわけです。真門というのは名号のことだとこの前のところでずうっと述べて来られました。南無阿弥陀仏、このことが真の門ですよと、本当に迷いを超えていく、傷つけ合うことを超えていくために潜らなければいけない門ですよということは前に云ってるわけです。それを承けて真門に入って下さいという。その真門を修飾して円修至徳と云ってます。まどかに修された、普通は修行の修を使えば私たちが完成して行く、修行を成就していくと読めますが、親鸞聖人からすれば、これは法蔵菩薩の本願によって誰の上にもまどかに成り立つ修行をして下さったということでしょうね。でもここでは一々法蔵菩薩とは書いていません。それをまた云ったらね、ウンと頷ける人と、何やこれと云う人とがいることを親鸞聖人は見ておられるかと思います。だから全てのことがまどかに修されているという意味で円修の至徳と、徳の至りという意味でこの言葉が使われています。つまり南無阿弥陀仏が迷いを超えるために本当に潜らなきゃならん門ですよと。それに速やかに入って下さいと云ってるわけです。「速入円修至徳真門」という言葉ですね。そして「難思往生を願うべし」と。これは阿弥陀仏の浄土に生まれんと願って下さいと云うわけです。直前のところで云えば、阿弥陀経が勧めている、阿弥陀経が我々に繰り返し浄土に生まれて下さいよと云っている、それを願うわけであります。だから真門という意味でこれはどこまでも方便です。潜るべき門であります。言葉を敢えて補うならば、どこからやればいいのか、なんか手がかりはないのかと云う我々に対して如来の方が立てて下さった、ここからやりなさい、これをやって下さいと勧めて下さる門なんですね。これを通して出遇わなきゃならないもの、それは真実そのものに至るための門です。門というのは横から眺めているだけではアカンと安田先生は云われました。門は眺めていて良い門だなあと云うとったらダメなんですよ。自分が一歩踏み出さないといけない、実践の問題だと云われた。でも仏教というのは横から眺めて査定していることが多いんじゃないんですか、この教え本当かなみたいな。こっちの教え方の方がもっとご利益あるんと違うかと眺めていて一向に潜ろうとしないという問題です。でもこれはどこまでも一歩踏み出す、先ずここからです。これを最優先して下さいと云っているのが、これまでの三部経を通して信心を勧めたことに対する応答の言葉です。一つ前で信心が大事だと云うてありました。しかしこれは甚だ難しい「入り叵し」と書いてあったでしょう。我々からすればどこから行けばよいのか分からない、不可能に近い、そういうものだと云われています。それに対して、何したらいいんですかという問いに対しては南無阿弥陀仏一つ、その門を潜ってくれと。そして浄土に往生することを願ってくれと、非常に具体的なことを云うわけです。ただその後なんですね。これがいろんな勧め方をしていて、それを我々の思うように握れば、折角の真実に導くための方便が、また腰を下ろすことになるわけです。真実に出遇うための門なんです。そのために潜らないといけない門が、門を見つけてここで良しとしてしまう。こんな根性ボクらありますよね、やり遂げたわけでも何でもないのにね。やり始めたらもう何か出来上がったような気になるみたいですね。追われている仕事は特にそうですね、始め手掛かりがない時は何からしたらいいかともうものすごく焦っています。でもとっかかりを見つけたらなんか出来上がったような気になってプシュッと開けたりしてね、そこで腰を下ろしたらアカンのですよ。終わってないのにもう終わったような気になるのはアカンのですわ。それがここで云われる方便に腰を下ろすという問題なんです。これが20願が立てられる意味なんです。南無阿弥陀仏一つ、これは18願と一緒ですわね。でも20願はそれを敢えて努力目標にして、ここからやれと云うてくれているわけです。ものすごく分かり易いんです。でも何が起るかと云えば、私やってますよ、誰よりも念仏してますよ、長年やってきましたみたいな、こんなこと起るでしょう。でもそれは真実とは云えない。だって真実というのは比べ合う必要のない、誰もが共々に平等に助けられて行く世界ですから。私はやれてますというのは未だここに止まって他の人よりはやれてますということを誇っているあり方なんですね。それを明確にしないと本当に出遇うべき世界がはっきりしない。このために20願がわざわざ置かれているわけです。だから18願と20願は似たようなことを云うているわけです。念仏一つということは同じなんです。しかし私たちの努力意識を誇ろうとする根性を暴き出すためには20願がどうしても必要になるんですね。それが次の言葉に展開をして行きます。真門の方便
「難思往生を願うべし。」とにかく阿弥陀の浄土に往生することを願いなさいと云うんですが、そこに「真門の方便について」と、真門にも方便がありますと云います。そこに「善本あり徳本あり」と。「また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。」と。そして善本徳本の説明は後に回しておられます。これはある意味で方便なんですけれど、方便を通して出遇うべきものがこちらに重なって来るものですから後に回しているんですね。先に定専心と散専心それに定散雑心、これの説明から親鸞聖人はしていかれます。まず「雑心」。雑心というのは雑ざった心です。定散雑心と云ってますから、これ善を積む、えーこれ一応説明しておきますかね。定善というのは観経でしつこく云われてきましたね。何遍も確かめられてきましたが、精神を集中して行う善、これが定善です。それに対して散善は心が散漫な状態で日常の中でも積み上げることができる善を散善と云うていました。ここを取って「定」と「散」という言葉が出ているわけであります。その定散の心が混じって来るんですね。善いことをしているという心がくっついてくるわけです。だから南無阿弥陀仏を称えるというと、ああこれは善いことをしてるんやと云うわけです。どうでしょうね。これ仏教に関わるときというか私たち何でもやる時の基本かも知れませんが、わざと悪いことをするというのは余程の何か屈折したことがなければそこまで心が行かないと思いますが、積み上げていく努力意識というのは何をやっても離れないですよね。念仏というのは、行巻のところに既に云われていますが、何遍称えても如来からの呼びかけなんです。阿弥陀に南無せよ、阿弥陀の世界を生きよという如来からの呼びかけというのが行巻に書かれています。呼びかけのはずなのに10遍称えたら10遍云うたぞというのが残るわけです。昨日は百遍も称えたということが残るわけです。それは百遍呼ばれたということなんです、本当は。如来から百遍如来の世界を生きろ、阿弥陀の世界に生れろを呼ばれていることなのに。称えている私の方を立派なものにしていくという根性が残る「。これが定散の心が混じった念仏なんです。それをこんなふうに云ってますね。「大小・凡聖・一切善悪」と。これはいろんな仏教に関わるあり方です。さっきは道俗という社会的なあり方を先に出していましたが、ここでは仏教のあり方で「大」は大乗の教えに関係している、「小」は小乗の教えを戴いている。「凡」は修行の位に入っていない者、「聖」は修行の段階に既に入った者を意味しています。そして一切の善人悪人、これは凡夫の中にも善人悪人があるので念を押しているんでしょうね。もし善悪ということがなかったら、善い人間だけの話かとまた思うかも知れませんね。例えば悪というのはどういうレベルで云うかと云えば、オレも悪かも知らんけれども念仏だけはしとるしなとかね、オレも悪かも知れんがアイツよりはましやろみたいな、こういうことが残るんですね、悪の中に。だからいろんなことも、全部起って来ることが最後に消えないのですが、そういうありとあらゆるものを包んで、こういう念仏に関わるところにも残る執われの心、これを云うているわけです。このことを「おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す」と云ってます。助正間雑、これも前に読んだところですが、「助」というのは助業のことでしたね。正定業から書きますか。(五正行を板書:編註)五つの正行と云って、浄土に生まれるための行ないが五つ云われる中で4番目の称名念仏、これだけでいい、このこと一つだと云われるのですが、このことが頼りないと思って他のことを補助にして迷いを超えて行こうとする根性、ある意味で真面目かもしれません。南無阿弥陀仏一つでは頼りないから、ちょっと写経もしようかとか、いろんなお寺巡りもしようか、沢山の仏さんを見た方がいいかも知らん。なさっている人を別にけなすつもりはありませんよ。ボク門徒さんのところへお参りに云ったときに朱印帳見せてもらってね、こんなに行かれたんですかって、ボク褒めたつまりなかったんですけど、こんなによく行かれましたねと云いました。ボクの心の中ではよそへこんなに行く暇があったら、うちへ来てくださいという気もあったんですが、こんなに行かれたんですねと云ったら、いやこれだけじゃありませんと、何10冊か見せてもらいました。いやあ全国のお寺へ行っておられるんですねと思わず感服しましたけれども、こんなに20冊ほど朱印帳がありました。それは回らんよりも回った方がいいんやろ、沢山お参りすることのどこが悪いんやとそういう気持ちありますよね。いろんなお寺を回っていろんなお話を聞いたり、なんか念仏一つだけでは頼りないという気持ちがある。これが正定業の念仏一つで迷いを超えていくんですけれど、それがどうもおさまりが悪い、落ち着かないということで助業に期待をかけていくということが起こるわけですこれがここで云う「助正間雑の心」ということです。だから雑心というのはいろんなことが雑じっているということなんですが、それも端的に云えば正定業、念仏一つということにいろんなことを雑ぜていくということです。あれをやった方がいい、これもやった方がもっといいんじゃないか、そんなことが加わっているということなんですね。これが雑心と云われています。結局どうなるかと云えば、その次ですね。「良(まことに)に教は頓にして根は漸機なり」南無阿弥陀仏というのは阿弥陀の呼びかけですから、阿弥陀の世界に出遇うところに、あ、比べなくてもよかった、執われる必要のないものに縛られていたということが、そのときに気付かせられるということです。分別できないものを分別していたということが砕かれる、そこに如来の呼び声が届く。気が付くのは一瞬ですからね、教えを聞いて10年後と、そんなことはない。届いたときには一瞬なんですが、それが届くということがなかなか難しい。南無阿弥陀仏という声をいただいていながら、どうもこれだけでは、ということになる。そうすると教えの方は頓、たちまちにという字です。すぐにはたらく教えなんですが、受け止められないのです。でもそれがまずいわけじゃないですよ。そうやって育てられればいいんですけれども、どこかで誤解をして行きますわね。例えば自分が助正間雑していろんなことをやってるということになっていればどうなりますか。南無阿弥陀仏一つを喜んでいる人を見ても、そっちがすごいなぁとはなかなかならんもんじゃないですかねぇ。念仏一つってホントかなぁって、人のことまで云うんじゃないでしょうか。私はそれだけじゃない、あれもやっとる、これもやっとる、自分のやっていることをやっぱり握るんじゃないですか。やっていることが悪いと云ってるんじゃない、結局出遇うべきものに出遇っていない。それを次に「行は専にして心は間雑す」と云ってます。南無阿弥陀仏ということは専らにしているかも知らんけど、どうせ念仏するのならばあれも加えた方がいい、これもやった方がいいと、心にいろんな惑いが生じているわけです。念仏一つということに決まらないという問題ですね。だから「かるがゆえに雑心と曰うなり」と云ってます。これが定散雑心と云われていたことの説明です。混じるところには善を求める心があるわけです。善い者になって行こうとする心があるからあれもしたらいい、これもした方がもっと良いということに堕ちていく。もう一遍云いますが、これは方便の真門ですから南無阿弥陀仏一つを勧めているわけですが、それを聞いたときに念仏一つに決まるんではなく、いろんなことが混じってくるという問題が我々の側に起るのです。それを明確にするために、本当にただ念仏一つかということを吟味していく、そこに第20願の呼び掛けがどうしても必要になるのです。まぁこれが次の頁になりますが、どんな問題があるかということが始めに示されています。もう一つ今度は専心の方ですね、定の専心と散の専心ということが云われている。その説明を親鸞聖人はこのように云っておられます。[「定散の専心」とは]これを始めには定の専心と散の専心と二つに分けてありましたけれども、これを定散の専心と一つにしてますね。二つあるようだけれども中味は一緒なんです。精神を集中して積み上げている善であろうが、日常的に散漫な心で行っている善であろうが、結局は何かと云ったらそこです。「罪福を信ずる心をもって本願力を願求す」と云ってます。念仏をしているか知れませんが、中味は罪福を信ずる心をもって本願力を願求する、ここに「信罪福心」という言葉がありますね。丁寧に云えば言葉なんですが、これを省略して書くときには罪福信ずる心という意味で罪福信と書かれる場合もあります。何を信じているかと云えば、これを信じているのですね。自分にとって都合の悪いことあるいは都合のいいことを信ずる、一番分かり易いのは吉凶禍福と云うでしょ。除災招福もそうですね、災いを除き福徳を招き入れると。これが我々の正体かも知れないですね。これも外国人から見ると日本人は何を信じているのか分からないと云われるそうです。いい例がキリスト教徒でもないのにクリスマスをお祝いして、そして除夜の鐘を撞いてその足で初詣に行く。まぁ何を信じているのかとよく云われますが、親鸞聖人からすれば全部定散の専心でしょうね。結局やらないよりやった方がいい。こう云って何にでも行くわけです。別に宗教の形をとっていなくてもいいんですね。これを買っておけば健康にいいかもみたいな、これをやると長生きできるかもみたいな、この保険はあてになるみたいな、何でもいいかも知れません。全部自分にとっていいことを招き入れるため、都合の悪いことを取り除く除災招福のための信仰なんですね。南無阿弥陀仏を称えておっても罪福心が起るもの、これを定散の専心と云ってます。一所懸命南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と。これ形から云えば正に念仏一つにいきているように見えるんですが、その全体が罪福心、罪福を信ずる心に立っていると云うわけです。だから本願力を願求すと云いますけれども、阿弥陀さんよろしくと云うことですよね。これだけお参りすれば大丈夫でしょう、これだけ長年南無阿弥陀仏を云うて来たんだから私は助かるでしょうみたいな。でもこの心はあてにする心ですから、あてにする心は必ず当てが外れることが起きます。予定通りいかんかったら、あれだけお参りしたのにとか、こんな長年お参りしてきた私を見捨てるのかとか、神も仏もあるものかとか、必ずこうなります。あてにする心は裏切られるんです。だけどこれ阿弥陀さんが裏切ったという話と違うでしょ。自分が勝手に阿弥陀さんはこういうことをやってくれるはずだということを思い描いて、その描いたことが崩れただけなんです。それは本当の信心じゃなかったなぁと気付けばいいんですけれど、自分で勝手に思い描いたことが崩れたら阿弥陀さんが悪いみたいなことを云うわけです。阿弥陀さんはそういう自分に都合のいいことを叶え、都合の悪いことを取り除く仏さんじゃありません。都合の良し悪しを云うていることからの解放を我々に与えるんです。良いか悪いかに振り回されている、そのことから離れる道を開いて下さるんです。でもこれは私たちの中にある一番の根っこの心かもしれません。普通はこれは純粋な宗教感情とか素朴な信仰心とか云われるかも知れませんが、日常の心なんですね。歎異抄では日ごろの心と云うてあります。いいか悪いか、勝ったか負けたか、得か損かと、これで生きているわけです。それでは一生の間決して助かることはありませんよと歎異抄は云う。「日ごろのこころにては、往生かなうべからず」(歎異抄第16章)と書いてある。なぜかと云えば、この心が結局いつまで経ってもあれが足りない、これが足りない、あれが邪魔物、これが邪魔物ということを作り続けている心ですからね。その都合の良し悪しから解放されない限り、結局何ものをも最後は嫉みの対象、恨みの対象にするんですよ。まぁ始めは人を恨んでいることが多いですけれども最後は自分の存在、前より身体が動かないとか、前のようにテキパキできないとかなってくると、自分自身をさえ疎んずるわけですから。ほんとはお世話になって来た身体でしょ、それこそ先祖から賜わったものでしょ。そんなことを忘れて自分の物のように思って、若い頃の自分と比べて自分を憎むことも起きます。これが日頃の心であり、教行信証で云えば罪福信ずる心ですよ。これではいくつになっても落ち着かない。年を重ねれば重ねるほど、この罪福心は大きくなるかも知れません。だからこの定散の専心というのは一見すると大真面目に善を積んでいるお姿なんです。一所懸命お念仏しているということもある。しかしその全体が本当の阿弥陀の世界に出遇っていないという意味では、本当に痛ましいと云うのです。歎異抄の話しましたけれど、歎異抄は念仏の教えを聞いた人の中に起っていることを歎いている本なんです。たとえば奈良の三条通りを歩いている人が仏教を聞かないのは悲しいと云っているんじゃない。それはまだお寺に縁のない人、仏法に縁がない人は縁が整えば出遇う可能性がありますからね。一番厄介なのは仏教を聞いて私は分かっている、私ほど真面目に念仏している者はいないという人が持つ問題なんですよ。それは仏教に縁を持ったようで一番遠いところにいるわけです。だってこんなことから解放されるのが阿弥陀の教えなのに、この心で阿弥陀仏を求めようとしているのですから。なんとかそれから離れてほしい、何とかその痛ましさに気付いて欲しいというのが歎異抄なんです。教えを謗ったり、全く知らないと云ってる人はまだ可能性あるんですよ。一番厄介なのは私は出遇っている、私ほど真面目な念仏者はいないというのは、誰の批判ももう受け付けないんじゃないですか。そこに落ちたら本当に出口がないほどの落し穴です。そこを形は念仏か知らんけれども、南無阿弥陀仏を頑張っているかも知らんけれども、その心が問題だということを明らかにするために第20願が立てられたんだと親鸞聖人は見ていかれるわけです。一所懸命念仏している、そのことの持つ問題なんです。云い方難しいですね。なんか不真面目な方がいいという話と違うんですよ。一所懸命念仏しても、それは大事なことであっても、それがもつ陥穴という意味の問題があるということですね。仏教の歩みの問題です。これをまとめて[「定散の専心」とは、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す]と云った後に「「自力の専心」と名づくるなり」と云ってありましたね。定散の専心、つまり善を求めて一所懸命念仏する。さらにいろんなことを加えていくというのは全部自力の問題なんです。これをやった方がもっといいだろう。やってる私は立派だろうということに必ず落ちるんです。これ念仏の教えを知らないところに起る問題じゃないでしょう。縁をいただいたところに起る問題なんです。阿弥陀の世界にちょっと触れながら、本当の阿弥陀の世界に出遇えない。これを往生ということを云うときには辺地とか懈慢、疑城、胎宮と化身土巻の始めのところで云われていました。浄土に往生すると云うけれども、それは実は自分の思いの中に閉じ籠もっている、私は出遇ったとか、私ほどやれている者はいないというところに陥っていくわけです。「辺地」というのは端っこという意味で、私は“かすっている”と云いました。つまり阿弥陀の教え、言葉は知っているかも知れませんが、その中心のお心に出遇っていないという意味でかすっている。「懈慢」というのは“おこたりあなどる”という字です。怠けているんですね。怠けるというのは本当の阿弥陀の呼び声を聞かないといけないのに自分で固めて善を積んでるというつもりですから、阿弥陀さんの広~い世界から離れていくわけです。みな平等という世界に背いていくことになる。これをおこたりあなどると云う。「疑城」というのは本当の念仏一つに立てないということです。これでいいのかなぁというように落ち着かない。親鸞聖人は遅慮すと仰います。これでいいのかなぁ、これで合うとるのかなぁと、これ全部疑いなんです。不信という形はとってません、私は念仏を信じてますと云ってるんですから。不信ならまだ引っ繰り返るチャンスはありますが、信じているつもりのところに、なおも残る疑いなんですね。だから遅慮という、あの字の方がいいかも知れません。「胎宮」これは自分の殻の中に閉じ籠もるあり方。これが自力の持つ問題として早くに云われていたことですが、それが念仏一つというところに立ってもなお起る問題なんです。教行信証はずうっと動きがあるんですが、第19願の問題は念仏に立つのかそれ以外の行をいろいろ積むのか、つまり念仏を修するのかそれ以外の功徳を修めるのかという、所謂「行」の問題なんですね。何をするのかということに関わってます。これが20願の問題になると念仏一つという形、それはその通りなんですが、念仏する根性が問題なんです。やっぱりいい者になりたい、結果としていいことを手に入れたい、悪いことはなしにしたい。その発想で念仏しているというその心を問うてくる。だから行を吟味するのが19願だとすると、信心を吟味するのが20願と云うふうに見当付けができると思います。教行信証では19願と20願の問題は決して分断せずに、一連の流れでいままでずうっと進んできています。よくお聖教をお読みの方は、『三経往生文類』というのが片方にあるもんですから、あれを教行信証とはどう関わるのかと云う質問をよく受けます。『三経往生文類』は大経の往生と観経の往生と阿弥陀経の往生の三つをきれいに分けてあります。そして18願と19願と20願とに分けてある。でも教行信証はそうなってないです。『三経往生文類』で20願のところに出る問題、辺地懈慢疑城胎宮というのはすでに19願のところに出てるんです。だから行に惑ってここに落ちる場合もある。しかし念仏一つというところにも、またここに落ちる問題があるんです。私はもう19願は卒業しましたとかね、私はもう念仏一つに決まってますと云うて、何か真実に立ってしまったようなことは云わさないのが、教行信証の述べ方じゃないかと思います。そんなことを云うと、いつまで経っても真実に立てないのかとまた云われるんですけれども、結論から云えばそうなんです。私は昨日から真実に立ってますと、もしか云うたら、それが一番危ういんですよ。立った瞬間に立ってない人を下に見るでしょ、自分は立ったと云えば、あの人より上だと、またやるでしょ。これはみな平等に救われていく阿弥陀の話と違うところに立ってしまっているんです。だから20願というのはいつまでも自分の中にある、その掴もうとする心、自分を誇ろうとする心、自分がいい者になろうとする心、これを暴き続けるような動きを持った願だと云うことができます。その意味で私は20願はもう卒業してしまって18願に入ってしまっていますというようなことは親鸞聖人も云わない。また人にも云わせない。ずうっと20願のはたらきをいただきながら立ち返り続けるということなんです。本願の心をいただき続けるという歩みしかない。その意味では19願のはたらき、20願のはたらきは違うようですけれども18願に返そうとする、本当の真実の世界に立ち返らせようとする動きというはたらきでは重なるところがありますね。ただ中味は我々の真実、念仏に関わる信心を問題にする願だということであります。その辺のところをもう少し、あと善本徳本のところ話残りましたけれども、これは次に続いて行きますので、一応ここで切っておきましょうかね。だから「大信心海ははなはだもって入りがたく」と云ったことを承けて、じゃぁ取り付く島もないやないか、何したらいいんやと云う私たちにはここからやれと云って名号一つの真門に入れと呼び掛けて下さっている。しかしその真門というのは実は方便として立てられて云う面と、それを通して導こうとするところがある。こういう課題があるということを示して下さっているのが今日読んだところだという押えを一応させていただきましょうかね。