『教行信証』の化身土巻を読む(24) 一楽 真 師
2018/ 03/ 24
ご一緒に親鸞聖人の教行信証の第六巻目でございますが。化身土巻を読むという時間を頂戴しております。どうしても話が毎回込み入ってややこしくなっているわけでありますけれども、親鸞聖人が例えば法然上人と同じように念仏すればみな助かるという、これで話がすむのであれば話本当に簡潔明瞭なんですね。ところがその念仏するということ一つを取ってみても、まぁ人間の方のいろんな思いの中でそれがゆがめられて行く、念仏してると云いながら仏でないものを念じている、あるいは崇めていくということが起こるわけですね。そこをどうしても吟味しなくてはいけないという課題があるわけであります。その意味で化身土というのは方便化身土と云われるとおり、如来がそのことを明らかにして下さるという意味では如来からのご方便という意味であります。非常に大事な私たちを真実に導くためのお手立てだということですね。依ってはならないものを明確にすることによって、真に依るべきものを明らかにして行くとこういう面があります。でもそれはお経の中で云えば、例えばいつも云いますが、浄土は西に在るということ一つをとってみても私たちを導くために立てられたものなんですが、握ってしまうということがこちら側に起きます。それは握るべきものじゃないぞということを教えないといけない。そこに昔から権化方便と云われますが、これ仮ですよ、本当ではありませんよという、こういう面もある。方便化身土には真実に導く如来のご方便という非常に大事な面と、それを握っていく限り本当ではないということを云う権化方便という面と、これが両方語られるものですから、どうしても話が込み入って行くということがあるわけであります。
もう一つ、雑修と専修。これも大変後まで続いて行く話でありまして、ふつう専修と雑修というのは、雑修というのはいろんなもの雑ざって修めるという字ですね、専修というのは専ら修めるという字ですからただ念仏一つなんです。形として専修であってもその心根、どういうことを思って念仏しているか、ここを問題になさります。これが具体的には343頁辺りに展開していくことになりますが、これを始めにここで示していらっしゃいます。まぁこの辺沢山の具体的に起こっている現状を見ながら本当に立つべきあり方と、そうでない方便に止まっている、あるいは自力のあり方を握り締めている、ここを区分けしていくことになっていきます。
で、もう2行その続き、[「雑行」とは正助を除きて已外をことごとく雑行と名づく。]と。正助ですから、これ全部を除いて已外、これは何をやってもそれは全部雑行だと云っています。良かれと思ってやることも全部です、善根功徳と世間で云われてることもやらんよりはやった方がいいだろうという思いは裏を返せばナンマンダブツでは頼りないと思っているからでしょ。このこと一つではなんか救われるだろうかという疑いが、だから念仏も大事かもしらんけどそれ以外のことをやればもっといいのじゃないかということが出て来るわけです。でもさっきの話、本願は我々に何を求めているかと云ったら我が名を称えよと云ってるわけです。それを頼りなく思うのはこちら側の思いですよね、勝手に握っているものがあります。それがどうなるかと云うと、悪人を救う本願かも知らんけれどもやっぱり善人の方が救われ易いんじゃないかという、こういう話にも行きます。さすが悪人を救う本願かも知らんけどもやっぱり善根功徳を積んだ者の方がやっぱり仏さまはお好きなんじゃないかということも起きるわけです。ま、とことん私たちは自分の積み上げていく努力意識というか、そう簡単に離れられませんよね。でもそれはどうなるかと云うと必ずやったらやっただけランク付けをしていきます。人を上に見るか自分を上に見るか、それはいろいろですけれども、あの人にはかなわんと云うたりあの人よりはましやと云うたりね、結局平等に迎えとる阿弥陀の世界からはどんどんどんどん背いていく、離れていくということになります。だからこれを親鸞聖人は云うことを通して何に依るべきかということを明確にしていますね。それが最後にまとめて、これすなわち横出、横超ではなくて横出と云われてるでしょ、それから漸教、頓ではなくて漸だと云われています。そして定散・三福、三輩・九品、これはいずれも善を積んで行くということを勧める教えでありますね。定散というのは定善・散善といって観経に説かれるものですね、三福というのは世の中での福徳、戒を保つというのは福徳、更には仏道の行の福徳、世福戒福行福と云いますが、これもやっぱり善きものとなって行く道であります。やっぱり善を積んで行くんですね。それから三輩・九品、これはどれだけできたかで人間を三つに分けたり九通りに分けたりしております。もこれ何遍もお話ししましたが、例えば九通りに分けるのは人間は差があるんだということを云いたいんじゃなくて、上品上生という人も救われる道はあるけれども下品下生にも救われる道はあるということを観経は云いたいわけです。上品上生は偉くて下品下生は劣っているという話と全然違うんですね。下品下生にもちゃんと道はあるというのが云いたいことなんですが、それをランク付けとして読んで行く、これが我々の側の受け止め、発想なんですね。それはどこまでも自力を中心とする仮の門、仮門だと云っています。だからここにないのは真がないですし、横超がないですし、それから頓がないということですね。漸教と横出と仮、仮門だと云っています。こういうふうに云われることを通して自分は念仏一つに立っているつもりだったけれども結局は助業を当てにしようとしていたとか、あるいは雑行も混じっていたなぁとか、更には他力の教えをいただいているつもりで自力を拠り所にしていたなぁと云うことが浮き彫りになる、顕わになるとこういうことですね。
まぁでもこれは法然門下沢山の人がいらっしゃいますけれども、こういう吟味をここまでなさったのは親鸞聖人なんですね。でもおられないわけじゃないですよ、親鸞聖人が尊敬なさった方お二人の名前出しておられますね。聖覚法印と隆寛律師、このお二人は善き人々だと云っています。どちらももちろん天台の学びを進められた方で、とくに聖覚法印は天台宗のお坊さんであることを止めてはいません。役職を持ちながら法然上人のお心をよくいただかれた、『唯心鈔』という本を書いてますね。法然上人が唯念仏と仰ったのをそれを唯信ずるというふうに受け止めた。ここに法然上人の教えのいただき方を示して下さったということで親鸞聖人非常に大事にしておられます。もうお一方の隆寛律師の方は『一念多念分別事』あるいは『自力他力事』という本を書いておられます。結局法然の教えを聞きながら、念仏して助かると云われながら一念がいいのか、多念がいいのかという争いをしてる人がいっぱいいるわけです。これ一所懸命念仏しているようですが、実は最終的には自分が偉い、自分が一番正しい念仏者なんだという主張なんですね。自分こそ法然の念仏を正しく受け止めているというのが一念を主張したり多念を主張することになるわけですが、主張して自分を良しとするあり方、結局誰かを切っていきますね。共々に阿弥陀によって迎え取られていく世界を見失っていくことになります。だから隆寛律師は一念往生でも多念往生でもない念仏往生だといっています、つまり一念往生多念往生は念仏していないということです。自分を当てにしているわけです、自分が一番立派ということです。そういうふうに親鸞聖人が崇めている人もありますが、そのお二人のことは直接教行信証には出ません。でもそういうお二人のことも思いながら、この教行信証はまとめて述べていかれる形になっているわけですね。
まぁ前回見ておったところを振り返ってまた長くなりましたけれども、聖道門と浄土門ということの内容を確かめることを通して、私たちの本当に依るべき名号一つというところに立ってほしいということがこの一段から読めると思います。でその後はさっきから申し上げている、同じ専修という言葉についても親鸞聖人は問題を掘り起こして行かれる、ここからが第二十願の問題にも関ってまいりすけれども、これまだ十九願の問題として話をずっと続けていくのが342から343頁の辺りになります。
ちょっと休憩してからそっちにまた入りましょうかね。一旦休憩をさせていただきます。
えー、それはちょっと待てということになるかも知れませんが、善導大師は雑行と正行とこれを決判なさったお仕事でありますね。ところが正行と云ってるその南無阿弥陀仏がまたオレはやれてるアイツはやれてないとか、こういうことに落ちて行くわけです、それは念仏と云えるのかという問題なんですね。それはさっき一念多念とかでも云いましたけれども自己主張でしょ、オレほど念仏してるものはおらんというのは仏を念じているのではなくて、それ自分を念じているだけですね。それを云わなきゃならんので、これがダメだと云ってるわけじゃないです、この行を通さないと本願の呼び掛けを聞くなんてことはあり得ないと思います。しかし私は大分やってますということを誇り出したら、それは本当の意味で本願の呼び掛けに出遇ったとは云えませんよということを云わないといけない。だから雑行と正行を決判する善導のお仕事とその正行の中味は何かと云うことを押えて、しつこいようですが、本願招喚の勅命だと、これが我々の迷いを超えさせる行なんだと云った親鸞聖人のお仕事だと思います。もうちょっと云い方を換えれば善導大師はたくさん行がごろごろと転がってる中でこれが要ですよということを選んだわけでしょ、ある意味私たちからの行ですわね、でも親鸞聖人が仰る行は如来からの行なんですね。如来が呼び掛けて下さっている、それに依らないとどっち向いて生きるかも私たちは決まらないんですね。だから一所懸命やってますからこれで仏道でしょと云うわけにいかない、本当に何に向いてるか分かりませんよね。ちょっと生々しい云い方をすれば、親鸞聖人比叡山で一所懸命修行なさっているそのお仲間の中にですよ、やっぱり人に負けたくないと云って修業している人もいるわけですよ。それは仏道の行なんでしょうか。もっと卑近なことを云えば教団の中でトップになるぞとそういうことを目指していたらそれは仏道の行と云えるでしょうか。でもこれ比叡山の悪口じゃなくて遡ればお釈迦さまの教団でも起ってるでしょ。お釈迦さまの跡継ぎになることを目指した提婆達多というのはある意味真面目な人ですわ。お釈迦さま亡き後は私が継ぐぞと云うてるわけですが自分が後継ぎとして相応しいと思うてるということは誰かよりマシだと思うてるわけでしょ。その物の見方はお釈迦さまのみな平等に迷いを超えて行くという法を聞いたと云えるでしょうか。いくらお釈迦さまの身近に居てもなんというか能力によって人を区別する、差別するということが起きてしまう、どこにでも起る問題なんですね。その心根をはっきりさせておかないと形は南無阿弥陀仏一つでも、それは何をしているか、迷いを超える仏道の行にならないということがあるということを親鸞聖人は見たんですね。ですからさっき云いました聖道門と浄土門の決判ということもなさってますけれども、もっと云うと浄土門の中での本当の迷いを超える行は何かということ、これを仰るんですね。その心根をはっきりしておかないと形はナンマンダブツと一つでも、それは何をしているか、迷いを超える仏道の行にならないということがあるということを親鸞聖人は見たんですね。ですからさっき云いました聖道門と浄土門の決判ということもなさってますけれども、もっと云うと浄土門の中での本当の迷いを超える行は何だということ、これを仰るんですね。だから親鸞聖人の行巻で云えば、称名念仏というのは我々の行ではないですよね、諸仏が称えて下さる。我々に本当の世界を教えて下さるお勧め、それによって本願からの呼び掛けを聞くという、だから諸仏の称名と衆生は聞名という方に、その責任がありますね。善導・法然は我々の行として念仏を掲げましたけれども、その念仏というのは本願の呼び掛けを聞くということがなければ行にはならんのだということを親鸞聖人は仰っておられるわけであります。そう云う意味で行という言葉が同じなもんですから話がどうしても込み入るというかややこしくなるんですね。もう一回云いますがこれ決して善導大師のお仕事を否定なさったわけではないです。そうじゃなくて善導大師が折角このこと一つで誰もが助かると云っておられるのに、こんど出来たか出来ないか、長年やっているかやらないかで差別していく、ランク付けしていく人間の根性を洗い出そうとしておられるというふうに見ておきたいわけであります。
ちょっと話大分横へ行きましたけれども、もう一回戻りますと、342頁ここではなにか阿弥陀一仏を立てて他の仏さまを蹴散らすというふうに見えるかも知れませんが、阿弥陀の世界に遇うことが他の仏さまの願いでもあるわけです。だから他の仏さんも仏さんだから同じようにと云うて大事にしとるようだけれども実は他の仏さまのお心を軽んずることになるんですね。だから五正行と五つの雑行というのは質が違う。やってるから或いはたくさんやったからいいだろうと、そうはならない。阿弥陀に出遇うということが要なんだと云うわけです。もう一回戻ると342頁4行目でしたね、[「雑」の言において、万行を摂入す]すべての行をこの中に入れていく。「五正行に対して、五種の雑行あり。」と云って、他の仏さんを念ずることはつまらんと云ってるんじゃないです。例えばお釈迦さまを大事にする、ホントに大事にする心があるならお釈迦さまが一番云いたかった阿弥陀に出遇えということに極まって来るわけでしょ。それ抜きにお釈迦さまはああも云うたこうも云うたと云うことに執われていたらお釈迦さまを却って軽んずることになるんです。ま、これはいつも同じ例ですみませんが、お釈迦さまは相手に応じて法を説きますから周利槃特には掃除せよと云ったわけでしょ、一つのお勧めなんです。でも掃除をしなさいと云うことを通して気が付いてほしかったのは自分の心が汚れておった、私は愚かだから価値がないというふうに執われておったということに周利槃特は目覚めるわけですから、掃除してほしかったわけじゃないですね、掃除を通して愚かであるとか賢いということに執われていることから離れる、そういうことに気が付かせようとした。勿論この周利槃特の逸話、エピソードには阿弥陀という言葉が出て来るわけではありませんが、そこに阿弥陀という法ですね、これが貫かれているというふうに親鸞聖人は見ておられると思います。これは前々回も読んでいましたが、八万四千の法門がある、相手に応じて説かれた法門ですが、それは全部阿弥陀の世界に勧め入れるためにあの手この手で云われているんだとこういう仏教全体の受け止めの違いなんですね。だからここで阿弥陀に遇うことに要がある、これを正行と云うのに対してそれ以外のものはすべて雑というところに入るんだと云っているわけです。でこれを続いてこんなふうに云っていますね。[「雑」の言は、人天菩薩等の解行雑せるがゆえに「雑」と曰えり。本より往生の因種にあらず、回心回向の善なり、かるがゆえに「浄土の雑行」と曰うなり。]こう続きます。雑というのは混ざっていると云うのは人天菩薩等と云っています、まぁこれ、ありとあらゆる仏教に関るものを押えていると思いますね、人も天も菩薩らもとあります。普通は菩薩と云えばね、自利利他の修行が進めておられる人として高く位置付けられるんです。それに対して凡夫人とかね、仏道の中では低く見られてきた。ところが人天であっても菩薩であっても、そういう課題をもって歩んでおるものでも、その解行ですね、自分なりの理解そして自分なりの行い、これが混ざってくると云うんです。で、それを雑というと云ってます。これをまとめて「本より」本来的にという意味ですね、もともとと云うんですが、それが迷いを超えて行く種ではないということを「往生の因種にあらず」、なぜかと云うたら「回心回向の善なり」、だから自分の心を回らしていく、「回」というのは方向転換という意味です。自分の心を仏教に向けていく、あるいは自分の積み上げたものを覚りに向けていく、あるいは救いのために使っていく。振り向ける、さし向けるという意味で回向は使われますが、「回心回向の善なり」、つまり自分のやったことを頼りとしていくあり方なんですね。ま、これがさっきから云う如来からのはたらきかけじゃなくてこちら側を膨らましていく、こちら側を伸ばしていくという発想です。ま、私たちそれしか日頃思いつきませんよね。でも、如来からのはたらきかけじゃなかったら本当に覚りの方向に向いてるかどうかも分からないです。それを[かるがゆえに「浄土の雑行」というなり。]と云います。ま、ここね人天・菩薩ということが混ざっておるのが非常に興味深いと思うんですが、実はこれは大経にもとがありまして、例えば50頁を開けていただきますと、上の段で3行目ですが、「聲聞或菩薩 莫能究聖心」という言葉があります。これは「東方偈」と呼ばれていますが、大経の下巻に出る唯一の偈文であります。上巻には「嘆仏偈」と「重誓偈」がありますね。下巻にはこの「東方偈」が置かれてますが、ここの部分は実は今まで説いてきた教えを後の世にどう伝えるかという流通文の課題と重なっている、そんな部分なんですね。そこでお釈迦さまは念を押すような形で云ってるんですが、声聞あるいは菩薩であってもという意味ですね、「能く聖心を究むるものなし」、つまり仏の清らかな心を究めるものはないと云っています。普通大乗仏教では声聞というのは自利に止まるものとして低く見られる、菩薩というのは大乗を歩む非常に理想的なあり方として云われるのですが、ここでは声聞と菩薩が一緒くたになっています。ま、ちょっとビックリするようなあり方ですわ。大経は菩薩であっても、菩薩の修行をしてきた者であっても超えられない問題ということを見ている、だから菩薩も浄土に生まれてくれよということを云うんです。だからここでは東方の世界から始まって十方の世界からさまざまな菩薩がやって来るということが書かれている、これが「東方諸仏の国より」と云って始まる偈文なんですわ。だから菩薩も阿弥陀の世界に行かんならん、弥陀仏にお会いせんならんのです。あの人は菩薩道の修行してるから別枠だろう、そんなことないです。ここには人天は出てませんけれども、人天はもちろんのことです。声聞という一つの覚りを得たものであっても更には大乗の菩薩道を歩んでいるものであっても「能く聖心を究むるものなし」と云っています。もう一つ、一行飛ばして次の「如來智慧海 深廣無涯底」そこに「二乘非所測 唯佛獨明了」とありますね。これも下の段で読むと「如来の智慧海は、深広にして涯底なし。」と。これなに如来と別に書いてませんが、如来の智慧の海に譬えています。広いこと深いこと及ぶもののないのが海でありますが、深広にして底が無いと。そして「二乗の測るところにあらず」とありますが、ふつう二乗と云うと声聞と縁覚なんですね、大体。菩薩は除いて声聞と縁覚というふうに云われるんですが、これは先輩方が解釈するところで、直前に「声聞あるいは菩薩」とありますんで、ここでは縁覚は省略されているんであって、声聞であっても菩薩であっても測ることは出来ないという文章として読むべきであろうということを、沢山の先輩が仰っています。「唯仏のみ独り明らかに了りたまえり。」仏だけが覚られるところであると。仏の境涯というのは仏と仏が念じ合うことなんですね。だから人天はもちろんのこと菩薩であってもと、こういうことがここに読むことが出来るわけです。だからこういうことを親鸞聖人は念頭に置いておられると思いますが、もう一遍さっきのところ戻りますと、342頁でありますが、「雑」というのはいろんな行を混ぜて行じて行くというのが元の意味ですから、そこに「人天・菩薩等の解行雑せる」と云ってます。「解」の字が加わっていますね、行が混ざっていると云うだけじゃないです。それをどう理解しているか、解釈しているか、こちら側の受け止めがそこに加わっている、これをした方がもっと価値があるんじゃないか、念仏だけじゃなくてね、念仏以外のことをやればもっといいんやないかと。それ結局は念仏一つで我が国に生れようと思えと云ってる阿弥陀の本願を疑っていることなんですね。それが浄土に往生する種にはなりませんよね。ま、これ具体的なことで云えば、これいつも同じ例ですみませんが、法然上人のお弟子の中で信心一異の争論というのがありましたね、あの時に親鸞聖人は私の信心も法然上人の信心も一つだと云った。ところが、先輩方はなにを云っているんだという話になったんです。あの法然上人とこの間入門して来たあんたと同じはずないじゃないかというんです。やっぱり先輩方の中には法然上人は智慧才覚が広いし、お師匠さんですから本当に駆け出しのあなたと同じはずないじゃないかと云うわけです。でも結果的にはご承知のとおり、法然の信心も如来より賜わりたる信心、善信坊の信心も如来より賜わられた信心、されば唯一つであると、これが法然上人のお答えでしたね。つまり如来に導かれて往生していく、如来のはたらきかけによって一歩一歩歩んで行くという、これは法然においても親鸞においても変わらないという、こういうことを断言して下さっているものであります。でも先輩方は我々の代表ですよね、やっぱり。私たちどうですかね、親鸞聖人と信心一つだと云えますかね、法然上人と一つだと云えますかね。やっぱり、いやいやあんだけ勉強してませんとか、修業もしてませんしみたいな。これ謙遜しているようですけれども結局それは知識の量であるとか、修行の度合いでやっぱり往生は決まると握ってるわけでしょ。これが解行、要するに理解・解釈してそしてまだまだ足りない、あれをやったらもっと近付くに違いないと思ってるんですよ。ま、この根性が抜けないんですね。これがさっき述べました「本より往生の因種にあらず」の後の「回心回向の善なり」。結局自分の心を回らし振り向けていくという、そういう善を積まなければ助からないというふうに思っているわけです。だから[かるがゆえに「浄土の雑行」というなり。]とあります。まあ、ここに自分は念仏一つに立っていると称名念仏一つですと云ってるところにもこの問題は出て来ます。それがまた次に続いて行くんですね。もうちょっと読みましょうかね。
[また「雑行」について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。」と云います。ちょっと不思議な話ですよね。「雑行」と云ってるのに「専行あり専心あり」と出て来ます。雑行というのはさっき混ざっていると云ってるんですが、次に専ら行ずると「専行」と出てくる。あるいは「専心」心を専らにするということが出てくる、これ我々が考えたらどう見ても正行に思えるんじゃないですか。でもこれ形は専行であり、形は専心であっても雑行と云うべきものがあるんだということをここで云おうとなさるんですね。もう一つ「また雑行あります。雑心あり」これはいろんな行を混ぜておる、あるいは心が雑ざっておるという、雑心ありと云ってます。でその次ですね、[「専行」とは、]これ雑行の中ですよ、雑行の中の専行でありますが[「専行」とは、専ら一善を修す、かるがゆえに「専行」と曰う。]これさっきの「回心回向の善なり」ということから云えば、善いことしとるということです、やっぱり。自分は善いことしてる、沢山のことは出来なくてもこれ一つだけはやっていると、良いことを積み上げているということがぬけてないということを雑行の中の専行と云ってるんですね。まぁこれは他の善根功徳出来なくても念仏ぐらいは頑張ってますわというのが全部ここに入るわけです。専行というのはものすごく大切な言葉でありますが、ここにも自力心を親鸞聖人は見ておられる。それから専心とは心を専らにするというのですが、それをなんといってるかというたら、「回向を専らにするがゆえに」これは自力の回向であります。自分が積み上げたことを往生のために向けていく、覚りのために使っていく。これだけのことやったんだからということを捨てられない。これが「回向を専らにするがゆえに専心と曰えり。」と云ってます。だからこの専行も専心も共に雑行の中だということが大事ですね。形は雑行とは云えないでしょ、でも結局はそのやっているあり方の中に自力の心が雑ざっておるわけです。で、もう一つ雑行と雑心、これについて見ます。これは雑行の中のまた雑行と雑心なんですが、[「雑行・雑心」とは、諸善兼行するがゆえに「雑行」と曰う、定散心雑するがゆえに「雑心」と曰うなり。]こうあります。おもしろいですね、これも。雑行・雑心というのはもろもろの善ですから、たとえばさっきは一善と云っていましたが、善といわれるものはありとあらゆるものを兼ねて行じていく、これが雑行の中の雑行だというわけですね。で雑行の中の雑心は定散心雑心と、これは定善散善と云われる、やっぱり善を積み上げていこうとする心が混ざっているわけであります。ま、定善というのは心を静めて、一点に集中して行うような善、散善というのは散漫な心のままで日常生活の中でも修めることが出来る善と云われるものですが、要するにそれを善として修めていこうとする心がある。それが定散心が雑ざってくる、だから雑心と云われるといいます。これも雑行の中の雑心であります。
まぁでも本当に細かいでしょ、これ一遍ご自身で図に書いてみられるといいと思いますが、定義していることを定義して更に定義するみたいになって、これ何段にも書かないといけないです。いろんな参考書が大体をそれをやって下さっていますけれども、どれもスキっと行くものはないです。参考書が悪いという意味ではなくて、親鸞聖人はどこにでも自力の問題が残っている、巣くっていくというか、そこに。そういうことを掘り起こすためにそういうことを云って行かれるように思います。ちょうどそうですね、先に結論のところを読んでおいた方が見え易いかも知れませんが、左の頁の後ろから4行目、ここを見るといまここに出る専修とか専心という言葉もこれは浄土に往生する本当の意味の迷いを超えて行く道ではないということを云い切って行きます。どこかと云いますと、343頁の後ろから4行目。「また正行の中の専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。かるがゆえに極楽に生まるといえども、三宝を見たてまつらず」こんな言葉が出てまいります。これ雑行がね、辺地・胎宮・懈慢界の業因なりと云われたら分かるかも知れませんが、専修専心ということまでが辺地・胎宮・懈慢界の業因だと云われてるわけです。要するに辺地・胎宮・懈慢というのは全部我々が思い描いた浄土に腰を下ろすことですね。私は助かったとか、聞法のお蔭で平穏無事ですとか、ま、要するに自分の救いを全部思い描いたあり方です、あるいは私は阿弥陀さんに出会ったといって喜んでおられる。それはいいんですけれども、阿弥陀仏というのは誰もが平等に迎え取られる世界なのに私だけが助かったみたいなところに片寄っていくんです。これが浄土の端っこ、辺地であり、胎宮というのは宮殿でしょ、殻に閉じ籠もっておる、懈慢界というのは怠け怠っているあり方であります。ここに専修専心ということが置かれてあるということ、これは結論なんですが、それ先取りしてここを読んでおかないと専修というのは誉められているように思うわけです。しかしその専修というのは私は専ら念仏一つで修めてます、あるいは心を専らにしてやってますという、これは全体が自力の問題なんですね。ま、いまのところちょっと該当部分だけ読みましたが、その2行前から読むと「経家に拠りて師釈を披くに、雑行の中の雑行雑心・雑行専心・専行雑心なり。また正行の中の」というふうに続くわけです。だからここでは形としての雑行とか、専修というあり方、それ我々形で区別しそうですが、結局はどれほど専修念仏一つだと云うてみても、そこに私は積み上げて善を修してるという心が混ざってくる限り、念仏していいことしているんだというつもり、もっと云えば段々いいものになっているという思いがあれば、これは全部阿弥陀の浄土に本当に生まれるということにならないんですね、かすってるようなものです。自分の思い描いた浄土を掴んでいるだけなんですね。ま、これさっきお話しした親鸞聖人と真実一異の問答をした勢観坊念仏坊というような人はやっぱり自分はやれていると思う、自分こそは浄土に往くと思っていたでしょう。でもそれに対する法然上人の言葉きついですよね。信心が別だという人は私が参ろうとしている浄土へはよも参らせ賜いそうらわじと。往かれることはありますまいと、ここまで云われる。つまり願っている浄土が違うんじゃないですかということですね。やっぱり善くなって助かる、いいものになって迎え取られる浄土というのは結局善人と悪人を分け隔てしている、出来たものと出来ない者をランク付けていくと、こういうことになって行くんです。だから歎異抄で云えば、ああいう問答のところを丁寧に押えようとして親鸞聖人は形は専修念仏であっても、そこに自力ということが巣くってくる限り、それは阿弥陀の世界に生れることにはなりませんということを一個一個押えているわけです。ですから専修専心までが辺地・懈慢と業因だというふうにいわれる、ここが大きいと思います。でも私らはそうなると何か手掛かりが無くなるような気もしますけれども、だって念仏一つというのは、私が頑張って念仏するかと思ってますもんね。さっき途中で云いましたけれども、こういう努力を通して、そこでやっぱり頑張らなくちゃいけないです。読んだり見たり学んだりが大事なんです。尊敬の心を持って生きる。そこで出遇うべきものは本願からの呼び掛けなんですね。こっちで助かるんじゃないです、これは本願からの呼び掛けに出遇うための行いなんですね。この行を私は何年やってきましたって云えば云う程、ここから遠くなるんじゃないですか。やれている人いない人また区別するでしょ。でもさぁこれどうでしょう、本当に阿弥陀の教えに触れた者の中に起る問題なんです。ですからこれ何遍も云いますが、阿弥陀の教えにまず触れる、そういう縁を持つまでも難しいですが、触れたところに今度また腰を下ろしてそれを握っていくという問題がもっとややこしいです。だから親鸞聖人からすれば阿弥陀の教えで救われるかと云うてる人の方がまだ可能性高いかも知れません。批判しているというのは救いを求めているわけですから。ところが私はもう救われましたとか私ほど分かっている者はいませんとなったら一番危ういんですわ、なかなかそこから出られない。だって出遇ったつもりですから、おかしいとも思わないんです。だから本当に本願の教えの縁をいただくことも難しいけども本当にその教えに従って一日一日歩んで行くということ、もっと難しい話やと思います。まぁこの専修にして専心というような問題、これが後の20願の問題にも関って来るんですが、ちょっと今日これぐらいにしておきたいんですが、前にも云いましたが、19願と20願の問題が教行信証では立体構造になってますね。三経往生文類というのは18願と19願と20願、こういうものが横並びになっています。そしてこのあり方が正しくてこちらは本当の往生ではありませんと非常に分かり易い、区分けして述べてますね。ところがこの教行信証では19願の問題の奥にこの20願がある、つまり19願と云うのは念仏に立つのかそれ以外の行に立つのかということを我々に迫って来る、選びを迫ってくるものがある。ところが念仏に立ったという20願のところにまた出て来る問題あるんです。念仏一つと云いながら実は念仏していない、私を念じている、私を偉いだろうというところに出ている、結局貫いているのは自力の問題です。これが最後まで残るんですね。その意味でここはまだ19願のおはたらきとして親鸞聖人仰いますが、これが次の念仏一つというところにも出て来る問題としてもう一遍今度は本願がそれに応答して呼び掛けて下さるということをいうのは20願のところに続いてまいります。だからこれ今のところもね、専修・専心というのは20願の問題とも重なるようなことなんですがね、これが少し既に顔を出していると云わなきゃならないと思います。ま、この辺ちょっと専修と雑修と専心と雑心と、こういうことが、ものすごく難しい言葉が出てまいりますけれども、これを少し整理をもうちょっとできればと思っております。ここはいま区分けして述べているんですけれども、和讃でいうとこれ全体をまとめて、基本的には同じことになって行くということを仰ってる言葉があります。善導大師のご和讃ですね、495頁の2段目5番6番そして7番です。「助正ならべて修するをば/すなわち雑修となづけたり/一心をえざるひとなれば/仏恩報ずるこころなし」この助正というのは五正行の中の助業と正定業を並べてどっちも同じように大事だというふうに云うていく、それを雑修と云うてるんですね。それは「一心をえざるひと」つまり阿弥陀仏に依って迷いを超えて行くという、その一心が決まらない、得ない人であるので仏恩をを報ずる心が無いと云っています。6番は「仏号むねと修すれども」とこれは一所懸命ナンマンダブツしてる人の話ですが、「仏号むねと修すれども/現世をいのる行者をば」何のために念仏してるかと云うたら、現世です、目の前の幸せとか都合の悪いことが除かれるということを願いながら念仏してる者です。「これも雑修となづけてぞ/千中無一ときらわるる」千の中に一人も生まれないとこういうふうにお釈迦さまによって嫌われていますと、そのあり方ですね。だからこれ形は専修なんです。しかしその心が現世を祈るとなるとこれも雑修だと云っています。で、もう一つ7番目「こころはひとつにあらねども/雑行雑修これにたり」と、雑行と雑修は心は一つでないけれどもと云ってますね、心と意味は違うと云ってるんです。だから雑行と雑修というのは決して同じ意味とは云えないんだけれども、これは似ていると云ってます「これにたり」。「浄土の行にあらぬをば/ひとえに雑行となづけたり」結局阿弥陀の浄土に生まれていく行いでないもの、これはすべて雑行と名づけられる。今日は細かく分ける方の話をずうっと見て来ましたけれども、最終的には専修・専心と云っていても、自分がやれてるということになれば、それは阿弥陀の浄土に生まれていく行ではないんですわ。どこまでも阿弥陀の浄土に生まれていくのは本願からの呼び掛けを聞くという、ここに親鸞聖人は重きを置いている。もう一回同じ言葉使えば、如来からの行です。こちら側からの行ではないんです。如来のはたらきによる、如来の呼び掛けを聞いて行くと、これしかないということですね。その意味で云うと、まぁ一所懸命念仏してる人も含めて、親鸞聖人は本願の呼び掛けに遇うことは難しいなぁということを思いながら今日のところを書いておられると思うんです。出遇ってほしいから書いておられるんですね。なんか難しいややこしいことの論理展開ということではなくて出遇いの願いがあると思います。
ちょっと半分ぐらいしか行けませんでしたけれども、雑行と雑修ということを纏めて述べておられるところを和讃で見ていただいたことであります。
ややこしいことにまたなったと思いますけれども、この辺どうしても親鸞聖人の抱えておられる課題と云いますかね、直面しておられた問題が唯念仏一つにならないという現状があったということから、こういう言葉が出ておるだろうということであります。ここまでにしておきましょうかね。ありがとうございました。
聖道門の意義
それで前回から読んでおりますのは、長いご自釈の一段ですが、聖典341頁上段前から5行目ですね、ここに「おおよそ一代の教について」という言葉が出てまいります。ここ聖浄二門釈というふうに先輩方は名付けておられまして、聖道門と浄土門を決判して、明確に整理するということを親鸞聖人がなさっています。なんのためにこういうことをなさっているかと云うと、ずっとこれまでは観無量寿経でいうても言葉で文字通り顕された意味とその言葉の奥にある隠された意味と両方あると、これが親鸞聖人のお経への着目でありました。まぁ親鸞聖人ご自身はこれは善導大師からいただいた眼だというわけです、自分が勝手にそんなふうにお経を読むんじゃなくて、善導大師の眼をいただくと観経にも勧めておられている面とその勧めている言葉を通して気が付いてほしいこと、目覚めてほしいことが両方あるんだと云うのですね。そういう視点で見るとお釈迦さまの一代かかってお説きになられた教えにもそういう面があるわけです。それが前回から読んでおりますが「おおよそ一代の教について」と云って、聖道門と浄土門の二つに分けて私たちの依るべきものを明らかにするという課題であります。ちょっと前回読んだところでありますが、一旦聖道門の方を見ておきたいと思います。[おおよそ一代の教について、この界の中にして入聖得果するを「聖道門」と名づく、「難行道」と云えり。この門の中について、大小、漸頓、一乗・二乗・三乗、権実、顕密、竪出、竪超あり。すなわちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり]これだけの言葉が並んでおります。聖道門という仏教についてこう纏められるわけですね。ま、ひと言で云うと「この界の中にして入聖得果する」とあります。この界というのは娑婆世界、私たちがいま生きているこの現実社会の中で勝者の仲間入りをして覚りの果を得ていくという、まぁ云わばこの世において、あるいはこの身のままで覚りを得ていく、これが聖道門の目指すところだと云われているわけであります。大変大事な課題ですね。お釈迦さまはこの世において仏に成られたという、そのお釈迦さまのあり方を踏襲しようというわけですから、非常に高い理想を掲げて道を求めるということあるわけです。但しそこで一つ見落とされていることがありまして、私も頑張ればお釈迦さまと同じように覚りを開けるんだという、これが前提になっているわけです。それが本当かということを問うことが抜けている。あるいは自分をどう見るかという人間観、やればきっとお釈迦さまのようになれるだろうというところからスタートしているのが、この聖道門の問題であります。繰り返しますが、教えが悪いんじゃないですよ、教えは私たちをなんとか迷いを超えさせようとして煩悩を断ち切りなさい、そして覚りに至りなさいと云うわけですが、そう云われているからといって、ハイ今日から腹立つ心無くせますとかね、人を憎む心なくなりましたとは云えないという問題は残っているわけです。その意味で聖道門というのは私たちに迷いを超えていくときの課題を示すという面はあるけれども、これはどこまでも方便の教えであるという、これが親鸞聖人の断言になって行くわけです。そこもう一遍だけ当たっておきますと、[「聖道門」と名づく、「難行道」と云えり。]これは非常に難しい、本当にいろんな行を積み上げて行かないといけない。難と云いますけれども実際はもう不可能だということを親鸞聖人は実体験を通して観じておられると思うんですね。で「この門の中について」これはいろんな法門が立てられます、大乗小乗それから漸頓というのはゆっくり時間がかかる、頓というのは速やかに覚りを開くという道ですが、それぞれ自分たちはこうだと云いますけれども、実際にそのようになっておらないという現状があるわけです。例えば一乗・二乗・三乗というのはそうですね、比叡山は一乗、誰もが平等に成仏する一乗という教えを掲げていますが、結局中味は覚りに段階があるようなことになって行くわけです。仏の覚りまで行ける人と行けない人がこれが区分けされているという問題が起こる。まぁこれ比叡山、何遍も云いますが、奈良の仏教を批判して一乗の仏教、そういう看板を挙げたはずでありますが、親鸞聖人に至るまでもう350年ほど経っておりますと、実際には修行した者だけの道になったり、出家した男だけの道になったりしているわけです。一乗というのは看板倒れになっているんじゃないかと、これは親鸞聖人が比叡山でお感じになられたとこだと思いますね。だから一乗と云ったり、二乗と云ったり、三乗と云ったりしているけれども、ひっくるめて結局はこの世において覚りを得ていく聖道門だと云うわけです。同じように権と実、これは仮と実、実を結ぶという教えでありますが、これもいろいろ区分けはありますけれども、結局のところ本当の意味で我々に迷いを超えるということにならないというふうに親鸞聖人は見ておられる。で、顕密、これが一番大きな区分けかも知れません、顕教と密教。で、超え方が竪に出ていく、竪に超えるという意味で竪出・竪超とあります、これ一段一段いずれにしても階段を上っていくような超え方だという話をしてました。それをまとめて「すなわちこれ自力、利他教化地」ここはちょっと読み方が難しいという話をしておりましたね。自力の後に点が打ってありますので、まぁどう考えたらいいかなんですが、私はここは自力によって他を教化していこうとする、自ら励むことを通して衆生を利益する、あるいは教化する、こういう課題をもっていこうとするというふうに読んでおきたいと思います。だから利他教化地というのはこれ阿弥如来によって教化されていく、共々に教え導かれるという大変大事な意味もあるんですが、ここでは自力による利他教化地と読んでおきたいというふうに前回もお話ししておりました。それをまとめて最後には「方便権門の道路なり」であります。結局は私たちを導くための仮に立てられた、仮に表された道筋であって、これはどこまでも課題を示すという大事な面を持っていますけれども、一個一個やればなんとかなるという話じゃないってことなんですね、方便の道だと。私たちを真実に引張るための道だということです。ま、分かり易く云えば具体的な実践項目があるということ、これ非常にやりがいもあるし、やり遂げたという気持ちにもなり易いんですよ。しかしそれはややもすると自分は偉いというところに落ちて行く、執着を離れるための修行のはずなのが、いよいよオレはやったと云って執着していくということが起きるんです。ですからいろいろ立てられた教えを全部まとめて方便権門の道路と云い切っている。すごいひと言だということを思いますね。ま、これ聖道門の修行に励んでいる人からすれば、バカなこと云うなと何を云うんやということになるでしょうね。その最たるのが何遍も例に挙げてますが、法然上人の選択集を批判した明恵上人。明恵上人は法然上人が菩提心は不要であると云ったことを許さないわけですね。仏教は覚りを求める心からスタートしてるはずなのに、その菩提心は不要だというのはもう仏教徒じゃないと、そんなもの仏教とは云えない、仏教の敵だと、ここまで云うている。それに対して親鸞聖人は丁寧に信巻でも答えて行きますし、ここでも応答しているわけですが、法然上人が菩提心は不要だと云ったのは菩提の心なんかどうでもいいと云う意味じゃないですね。逆です。人間が起した菩提心では本当に覚りを開くなんていうことはあり得ないということを云っているわけです。だってみんなそれ自力各別ですものね、個人の素質や経歴に応じての菩提心が深いとか浅いとか云ってるわけです。そんなものでは助からない、如来のはたらき、これは如来回向の信心と云いますが、如来のはたらきによって導かれる、そこに本当に迷いを超えるという道が成り立つんだということを仰るわけであります。まぁ仏教の見方が全然違うということを思います。でも私たち日頃の常識ではやっぱり自分を磨いて覚りに近づくという、こっちの方が分かり易いですね、でもそれはある意味で方向を与えるため、人生に課題を与えるためにそう云われているわけです。覚りを目指せよ、あるいは迷いを離れよというように課題を示すわけです。しかしそう云われたからといって、もう迷いをどんどん離れつつありますとか覚りに近づきつつありますなんてことは誰が云えるでしょうか。一所懸命やっても覚りに近づいているなんてことは証明しようがないという問題を抱えているわけです。そこに親鸞聖人の聖道門というのはすべて方便権門の道路であるというこういう断言につながっていると思います。まぁこれは六巻目に来て漸くここまで云うんですよ。一巻目でこんなこと云うてたら、初めから教行信証読んでもらえないでしょうね。誰の上にも成り立つ真実の仏道ということを教・行・信・証で順番に述べて来ている、それが誰の上にも本当に成り立つことを支えている真仏土巻、これが第五巻目に述べられていました。そこに立って見るとこの修行をしなさいとか煩悩を断ち切りなさいというのは私たちを導くご方便の教えであって、それをやれたかやれないかという話じゃないんです。それをやれないところにも道はあるということです。これは第19願のときに何回かお話ししましたが、下手くそな絵ですけれども描いてみますと、私たちは大体私から覚りに向かうという、こういう努力を重ねているわけです。聞法するとか勉強するとか、あるいはいろいろな善根功徳を積むとかいうのは全部この発想でしょ。親鸞聖人は本当にこっちに向いているかどうか分からないということを問題にした人です。親鸞聖人ご自身20年修行したけれども、本当に仏の覚りに近づいているかどうかわからないというふうに悩んだ人なんですね。ところが、例えば自分はこの辺まで行ったという人はこの人バカにしますわね、お前まだその程度か、オレは大分進んだと云うわけです。この証拠は全然ないんです。で、ましてや横向いとるかもしれませんし、完全に後ろ向きかもしれませんが、こういう私たちに対して臨終現前の願と云われていた、あるいは現前導生のという名前がいいでしょうかね、どこで倒れても私が現れましょうと、私があなたの前に現われて導いて迷いを超えた世界に生れさせましょうと19願をこんなふうに読んでいましたね。だからここで終った人にも阿弥陀仏は導きに現れて下さる、ここで修行が終わった人でも現れて下さる、全然ダメだったという人にも現れて下さる。こっちの阿弥陀さまからのおはたらきが我々が迷いを超えて行く道筋であるということを云うわけです。方向逆でしょ、こっちから積み上げて近づくというのじゃないんです。向こうからこちら側にはたらいてくる。これを如来回向とも云うし、他力とも云うわけです。でも私たちこの自分から覚りに向かうという発想やっぱり抜けないですよね。10年聞法したら私は10年やったとか仏教用語に慣れてくれば慣れてきただけ私の方があの人より上だという発想が抜けない。そんな上下云ってること自体がまた迷い傷つけ合うことの延長なんじゃないですか。仏教学んだことですら人をバカにしたり、人を軽んじたり、あるいは自分はダメだというふうに落ち込んだりするわけですから、それは仏教学んだと云えないんじゃないですかね。だから本当にどんな者も漏らさない世界に出遇わせようとする、ここに第19願から始まっておるいまの一段があるということでありました。えー、それでこれが一応聖道門という仏教をどう見るかということで前回お話しておったのですが、親鸞聖人がもう一つこだわられるのが、浄土の教えの中にもやっぱり同じようにこの自分から覚りに向かうという考え方が出て来るんです。阿弥陀によって救われるならみんな阿弥陀さまからのおはたらきという考え方のはずなんですが、阿弥陀によって救われると云いながら、やっぱり私の方が念仏を沢山して来たとか念仏だけじゃなくて他の行もやってるとかね、いろんな善根功徳を積んだという発想が抜けないんです。だから聖道門だけじゃなくて浄土門に関っているところにもこの阿弥陀さまからのおはたらきと考える方向と自分から覚りに向かうという考えの問題が起こるんです。これが次に浄土門の中についてどういう関わり方あるいは教えの受け止め方があるのかということを丁寧に仰って行く、まぁこういう文章の展開になっております。ま、先に見当付けのために申し上げると具体的には法然上人がただ念仏一つで誰もが往生すると仰られたのを聞いてですよ、そのまま受け取れればいいんですけど、誰もが救われるといくら云ってもやっぱり念仏の度合いとか知識の度合いとかそういうものを比べる心が抜けないんですね。基本的に向上的発想というか、段々立派になって行くとか、これ私たちの体質と云っていいくらい、まぁ根性なんですね。だから浄土の教え、ただ念仏一つで誰もが助かると聞きながらそれを握っていく、こういう問題もあります。だから親鸞聖人はたくさん法然上人の教えを聞いた人がいるけれども、本当にただ念仏一つということ、人間の努力は不要であるということ、もっと云えば、人間の努力で助かるのではないということをどれほどの人が分かっているだろうか、ここを吟味するために浄土門について内容を確かめて行かれる大変長い一段が続いて行くことになります。浄土門の意義
前回読んでおりましたけれども、また一回区切りながら読んで行きましょうかね。じゃ、今の続き341頁上段の真ん中辺ですね。[安養浄刹にして入聖証果するを「浄土門」と名づく。「易行道」と云えり。この門の中について、横出・横超、仮・真、漸・頓、助・正・雑行、雑修・専修あるなり。「正」とは五種の正行なり。「助」とは名号を除きて已外の五種これなり。「雑行」とは正助を除きて已外をことごとく雑行と名づく。これすなわち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。]ちょっと一回ここで切りましょう。これ浄土門の中に横出・横超とこの二つがあるということで、はじめは横出の話をずうっと説明していますね。これは親鸞聖人の二双四重の教判と云われて、お釈迦さまの一代仏教を竪に超えて行く聖道門と横に超えて行く浄土門と二つに分けられるんですが、浄土門の中にも人間の努力を頼りにするあり方をここでは「横出」横に出ると書いてあります。で「横超」というのは正にこの阿弥陀からのおはたらきですが、本願のはたらきによって人間の努力あるいは才能・素質一切問わずに誰の上にも成り立つような超え方なんですね。これこる筈のないようなことが起こるんです。だから、あの人は聞き始めて間が浅いとか関係ないんですわ。仏教用語をなんにも知らないなど関係ないです。それこそ昔の妙好人であれば、文字が読めない、お経の言葉を読めないという人でも仏のお心に出遇うということが起こるんですから。まぁその意味で人間の努力を当てにするあり方を横に出る「横出」、それに対して「横超」というのは努力無用の超え方であります。その初めに「横出」についてやっぱり云うて行くんですね。横出についてというか、もう少し後の言葉では仮のものと真のものです。まぁこれは横出が仮であるのに対して、横超が真というふうに云われると思います。それから漸というのは段々と、漸く、少しずつという道は横出です。頓というのは速やかに、たちまちに、一気に超えるんです。これは横超の超え方ですね、だから言葉全部重なってますけれども。そして助・正・雑行とあります、親鸞聖人は正行ということを云いたいんですね。正しく迷いを超える行は何か、それを助ける行は何か、それ以外のいろんなものが混ざった雑行とは何か、こういうことを明確にして行きますが、ま、これはあとでもうちょっと喋ります。浄土門の中の自力
ですからこの初めの浄土門を「易行道」と呼んで、そこには横出・横超、仮・真、漸・頓、助・正・雑行とこういうふうにいってますが、ここで浄土門に関りながらも自らの努力を当てにしていくようなあり方をここで問題というか、吟味しようとしておられるわけです。さっきも云いましたが、こっちが非常に長いんですよ、これ実際343頁まで続きます。大変長い一段になっていますが、ここを云うておかないと結局は法然上人のただ念仏一つということの意味がはっきりしないということですね。ただ念仏一つと云うと、現代でもそうですが、たとえば仏壇の前でナンマンダブツ云うとっても助からんみたいに云う人もいます。ただ念仏と云うと口で音を出すようなイメージを持っている人もいますね。しかしそれ逆にいや私は毎日念仏してますと口に称えていることを自分はやっているというふうに誇っていくということも起るわけです。ま、いずれにしても本当の念仏ということになっていないという問題なんですね。それを吟味しておかないと、ただ念仏ということが明確にならない。そういう思いがこういう教判、教相判釈をしないといけない親鸞聖人のお心であろうかと思います。もう一つ、雑修と専修。これも大変後まで続いて行く話でありまして、ふつう専修と雑修というのは、雑修というのはいろんなもの雑ざって修めるという字ですね、専修というのは専ら修めるという字ですからただ念仏一つなんです。形として専修であってもその心根、どういうことを思って念仏しているか、ここを問題になさります。これが具体的には343頁辺りに展開していくことになりますが、これを始めにここで示していらっしゃいます。まぁこの辺沢山の具体的に起こっている現状を見ながら本当に立つべきあり方と、そうでない方便に止まっている、あるいは自力のあり方を握り締めている、ここを区分けしていくことになっていきます。
正助雑釈
次の行です、[「正」とは五種の正行なり。「助」とは名号を除きて已外の五種これなり。「雑行」とは正助を除きて已外をことごとく雑行と名づく。]とこうあります。一応言葉をどうしても説明しておかないといけませんが、これ善導大師が観経を解説する中で明記して下さった浄土に生まれていく五つの正しい行いということで「正行」というふうに仰られた、これ五正行と明確に受け止めたのは法然上人でもあります。善導・法然、この伝統に立って我々が迷いを超える五つの正しい行い、これを五正行と云ってるんですね。これ全部阿弥陀仏に関ってであります。読誦と云っても何でもいいわけではありません。阿弥陀仏のことを説く、そういうお経を読むということです。阿弥陀仏のことを学ばせていただく、知らしていただく、そのために読むわけです。これも音出しておけばいいという話じゃないでしょうね。私、今日は三回称えました、三回読みましたと云うてみても回数をつのる話ではありませんので、読むことを通して阿弥陀の世界を知らしていただくということでしょ、そこに次は観察となって展開しますね、阿弥陀とはどんな仏さまか見るわけです。あるいは阿弥陀仏の極楽浄土とはどんな世界か知らしていただく、これ観察となっていますね。そこに礼拝、仰いでいくということが起こるわけです。まぁ順序として面白いですね。読誦から始まって、そしてそこに見さしていただく、そこに本当に仰いで生きるということが起る。だからその後、称名と讃嘆供養というふうになっています。なんで四番目が称名なんでしょうね。まぁこれで云えば始めの三つを承けての称名だと思います。称名と云うても、ただお経を読むこれと重なったように見えますが、これはどこまでも阿弥陀の名を称えるところに、そこにいただけることがあるのです。ナンマンダブツと称える、そこに阿弥陀の世界を思い出す、そこに憶念することができる。これが四番目に称名ということが来る理由ではなかろうかと思います。それがもう一つ讃嘆供養ですから、その名を称えるところに展開するのは、阿弥陀の世界を誉め讃えると共に阿弥陀の世界を本当に尊敬して、仰いで生きていくということが始まろ。そういう意味では称名から展開する生活というところが讃嘆供養と云えるかもしれないですね。この五正行というのも善導大師がどこからお考えになったのかいろんな意見があるんですが、これ混ざるといけませんけれども天親菩薩は五念門ということを仰るでしょ、善導大師はこれを当然知ってるわけです。だって曇鸞大師そしてそれを承けた道綽禅師、これをちゃんと浄土論・浄土論註で大事にしておられるわけですから。しかしながら五念門ということ善導大師は観経疏では触れません、往生礼讃ではあげますけどもね。分かっておられるんです、でも迷いを超える五つの行というときには五念門は挙げないんですね。ま、これもなぜか、いろんなことを思われますが、やっぱり一段一段私たちが段階を登って行くような行としてイメージされ易いんですね。だから善導大師の直接のお師匠さんでありますが、道綽禅師がこのことを、曇鸞大師が大事になさっておられるにもかかわらず、直接言及しない称名というところに行くわけであります。一ヶ所だけ道綽禅師のお仕事の和讃を見ておきましょうか、これすごい本願文の読み取りだと思いますが、495頁道綽禅師のご和讃7首ありますが、上段2行目に「縦令一生造悪の/衆生引接のためにとて/称我名字と願じつつ/若不生者とちかいたり」こういうご和讃です。これ元の安楽集の言葉を拠り所にしながら親鸞聖人が和讃にして下さっているのですが、「縦令一生造悪」というのは、たとい一生悪を造れどもとこういう意味ですね。悪というのは傷つけ合うことです、苦しめ合うことですが、たとい一生涯そういう生き方をしておる者であっても、そういう衆生をなんとか生まれさせたい、なんとか引張りたい、これが衆生引接のためにということです。だから一生悪を造るような衆生を救いたいと、もうちょっと云えば傷つけ合うことを止められない人間だからこそ救わずにおれないというのが阿弥陀仏のご本願だと道綽禅師は読むわけですよ。正信偈では「一生造悪値弘誓」と云うことばありますね。何の気なしに詠んでますけれどもすごい言葉でしょ。一生造悪と云われるといやいやたまにはいいこともしますよと云いたいところですが、でもいいことをしとることもまた人を傷つけたりあるいは潰していくようなことも起きるんですよ。だから生きとるのがダメや、そういう意味じゃないです、一生懸命生きていながら苦しめ合い傷つけあう、そういう者になんとか生きる道を示したい、傷つけ合ってるからこそ救い遂げたい、これが阿弥陀のご本願だというふうに受け止めたわけです。だから悪を造るものだからこそ救いたいというのが衆生引接のためにご本願文、第18願をこう読んだわけですが、「称我名字と願じつつ」これも第18願文には称我名字いう言葉はありませんね、乃至十念という言葉しかありません。十遍ほど阿弥陀仏を念ずるという言葉しかないのです。ところがそれを道綽禅師は我が名字を称えなさいと願って下さった、もしかそれで助からなかったならば私も覚りを取りませんと云っている。それが「若不生者とちかいたり」もし生まれずば正覚を取らじというふうに誓って下さった。だから私たちこの称名念仏の願というのは善導大師のお仕事として聞きますけれども、実は善導大師に先立って道綽禅師が既にこういうふうに仰っているんです。で、さっき云いましたがこういうふうにまとめたのは善導大師です。でも道綽禅師がこの称名念仏の大事さを仰った。ですから天親菩薩、それを承けた曇鸞大師のお仕事を道綽禅師が学んでおられるわけですが五念門ということを云わずに、私たちが一個一個修行の段を登っていくというふうに見えるといけないということで、要はここにあるということを云った、これが道綽禅師のお仕事であります。それを考えると読誦・観察・礼拝というのは称名念仏して生きるものを生み出すための道ですよね。先ず読む、阿弥陀さんのことを書いてあるお経を読む、それを通して阿弥陀さんの世界を知っていく、どんなおはたらきかということを観ていく、観察でしょ、そこにその世界を大事に仰いでいくという礼拝、それをいただいていくということが起きるわけです。そこに至るまでも中々難しいですね。私たち自分に有効なものがある間は阿弥陀さんなんかなくても大丈夫やと思っていますから、なかなか礼拝まで至らない。で、礼拝するものが名を称えて一日一日生きていく、あるいは一歩一歩歩んで行くというのが、この称名の生活だと思います。だからその称名のところにはほめたたえてそして供養していく、尊敬の心をもって生きていくという、まぁいわば信心の生活が讃嘆供養と云ってもいいかも知れません。正定業と助業
で、話戻ると、この五正行を四つと一つに分けたのがこれまた善導大師のお仕事でして、四番目の称名を正定業と云っている。これが正しく迷いを超えて行く、往生を遂げていく行いだと定めて、後の四つを助業と仰った。助けるわけですね、称名念仏していくことを助ける、そういう四つと一つを分けてよんだ、これが善導の仕事であります。341頁もう一回読みますね。[「正」とは五種の正行なり。]これは五つの五正行を指してますね。[「助」とは名号を除きて已外の五種これなり。]と云うわけです。あれっとなりますね。善導大師ではあとの四つを助業と仰ってる。でも親鸞聖人は「名号を除きて已外の五種これなり」と云うんです。本当は称名念仏が正定業だと云ってるわけですが、ここ称名と云わずに親鸞聖人は名号を除きて已外の五種と云ってます。となると正定業として善導大師が云うてくれた四番目も私たちが努力して励む行となれば、それもまた結局は私たちを本当に念仏に立たせていかしめるための助ける行いだと、こういうふうに云うわけです。だから読誦・観察・礼拝がそうであったように南無阿弥陀仏と称えるのも阿弥陀の世界を本当にいただいていくための助ける行いであって、これをひとつ握ればどうなるか、私の方がやれている、私の方が長年やって来た、そういう自分の積み上げる行いになってしまうんですね。だからこれ五種と書いてある、名号を除きてと書いてある。これ何遍かお話ししましたが、名号というのは親鸞聖人にとって招喚の勅命ですね。名号というのは本願が名乗って下さる、本願が呼び掛けて下さる、招喚なんですね。招き呼ぶ声、これが南無阿弥陀仏なんです。これは既に行巻で丁寧に述べられているところなんですが、私が称えても私への呼び掛けなんです、だから。これもどうしても行巻の話もちょっとしないといけませんけれど、親鸞聖人を例にとれば、一番はじめどうやって阿弥陀の世界に出遇われたかと云ったら法然上人のお念仏ですよね。阿弥陀に南無しなさい、阿弥陀が大事ですよということを勧めて下さる法然上人との出会いによって、ああそうなのかということを知らされた、気づかされたということがあるわけです。でも、もしかそれだけが迷いを超えて行く、本当のことを知らされるはたらきだとしたら、いつでも法然上人の隣にべったりとくっ付いておらんならんことになりますね。法然上人呼び掛けて下さい、法然上人教えて下さるから目覚められるんですみたいになったら、くっ付き虫みたいになりますわ。でもそうじゃない、一たびそういう呼び声を聞かせてもらったら、こんどは南無阿弥陀仏というのはもう阿弥陀自身からの呼び掛けだと親鸞聖人見ていかれる。これが本願招喚の勅命というふうに行巻でいわれるんですね。我が国に生れんと思えと云うて下さる、逆に云えばあなたいつまで傷つけ合う迷いの世界に止まっておるのかという呼び掛けでしょ。本国に返れという云い方もありますね、魔境に止まるべからずという云い方もある。ま、いろんな呼びかけがありますけれども、私たちを本当に傷つけ合うことを超えた世界に返らせようとするのが阿弥陀仏に南無せよという声なんです。そこが本当にはっきりすれば自分で称えてもですよ、私への呼び掛けなんです、阿弥陀仏に南無せよという声です。ま、それは同時にハイという返事の声でもあります。はい阿弥陀仏に南無しますという応答の声でもあると思います。だから呼び掛けであると同時に応答、それがたった六字の南無阿弥陀仏に込められておるわけですが、ここをわざわざ名号を除きての五種というふうに云ってあるところをみると、やっぱり私たちが努力して積み上げていく、こういう行と質を異にするものとして本願からの呼び掛け、これが本当の正行の要として云われていると思います。だから正行という言葉もあるいは助行という言葉もですが、私たちを念仏に返そうとする、本当に仏の呼び掛けを聞くものとして立ち上がらせようとする導きの教えなんだということを示しておられると思うんですね。もう一遍読みますが、「助とは名号を除きて已外の五種これなり」と。これ五種の読み方であるというふうに私はいただいております。違う読みもないわけじゃないんですが、これ五正行と云ってますが、最後の讃嘆と供養と分けると六種になりますからね、六種と考えて、これを除いての五種だというふうに読めないこともないんですわ。でもここではそういう読みが妥当かどうかと私はずっと思うんですね。それならここは「名号を除きて」と書かずに「称名を除きて已外」と云えばいいと思います。名号というときには私が称えるというのは実は本願からの呼び掛け、そういうことを名号という言葉に託しておられると受け止めるからなんですね。またちょっとこれ親鸞聖人から遺されたというか、私たちに考えなさいということを託された宿題だというふうに思いますけれど、いまはそんなように読んでおきたいわけです。で、もう2行その続き、[「雑行」とは正助を除きて已外をことごとく雑行と名づく。]と。正助ですから、これ全部を除いて已外、これは何をやってもそれは全部雑行だと云っています。良かれと思ってやることも全部です、善根功徳と世間で云われてることもやらんよりはやった方がいいだろうという思いは裏を返せばナンマンダブツでは頼りないと思っているからでしょ。このこと一つではなんか救われるだろうかという疑いが、だから念仏も大事かもしらんけどそれ以外のことをやればもっといいのじゃないかということが出て来るわけです。でもさっきの話、本願は我々に何を求めているかと云ったら我が名を称えよと云ってるわけです。それを頼りなく思うのはこちら側の思いですよね、勝手に握っているものがあります。それがどうなるかと云うと、悪人を救う本願かも知らんけれどもやっぱり善人の方が救われ易いんじゃないかという、こういう話にも行きます。さすが悪人を救う本願かも知らんけどもやっぱり善根功徳を積んだ者の方がやっぱり仏さまはお好きなんじゃないかということも起きるわけです。ま、とことん私たちは自分の積み上げていく努力意識というか、そう簡単に離れられませんよね。でもそれはどうなるかと云うと必ずやったらやっただけランク付けをしていきます。人を上に見るか自分を上に見るか、それはいろいろですけれども、あの人にはかなわんと云うたりあの人よりはましやと云うたりね、結局平等に迎えとる阿弥陀の世界からはどんどんどんどん背いていく、離れていくということになります。だからこれを親鸞聖人は云うことを通して何に依るべきかということを明確にしていますね。それが最後にまとめて、これすなわち横出、横超ではなくて横出と云われてるでしょ、それから漸教、頓ではなくて漸だと云われています。そして定散・三福、三輩・九品、これはいずれも善を積んで行くということを勧める教えでありますね。定散というのは定善・散善といって観経に説かれるものですね、三福というのは世の中での福徳、戒を保つというのは福徳、更には仏道の行の福徳、世福戒福行福と云いますが、これもやっぱり善きものとなって行く道であります。やっぱり善を積んで行くんですね。それから三輩・九品、これはどれだけできたかで人間を三つに分けたり九通りに分けたりしております。もこれ何遍もお話ししましたが、例えば九通りに分けるのは人間は差があるんだということを云いたいんじゃなくて、上品上生という人も救われる道はあるけれども下品下生にも救われる道はあるということを観経は云いたいわけです。上品上生は偉くて下品下生は劣っているという話と全然違うんですね。下品下生にもちゃんと道はあるというのが云いたいことなんですが、それをランク付けとして読んで行く、これが我々の側の受け止め、発想なんですね。それはどこまでも自力を中心とする仮の門、仮門だと云っています。だからここにないのは真がないですし、横超がないですし、それから頓がないということですね。漸教と横出と仮、仮門だと云っています。こういうふうに云われることを通して自分は念仏一つに立っているつもりだったけれども結局は助業を当てにしようとしていたとか、あるいは雑行も混じっていたなぁとか、更には他力の教えをいただいているつもりで自力を拠り所にしていたなぁと云うことが浮き彫りになる、顕わになるとこういうことですね。
まぁでもこれは法然門下沢山の人がいらっしゃいますけれども、こういう吟味をここまでなさったのは親鸞聖人なんですね。でもおられないわけじゃないですよ、親鸞聖人が尊敬なさった方お二人の名前出しておられますね。聖覚法印と隆寛律師、このお二人は善き人々だと云っています。どちらももちろん天台の学びを進められた方で、とくに聖覚法印は天台宗のお坊さんであることを止めてはいません。役職を持ちながら法然上人のお心をよくいただかれた、『唯心鈔』という本を書いてますね。法然上人が唯念仏と仰ったのをそれを唯信ずるというふうに受け止めた。ここに法然上人の教えのいただき方を示して下さったということで親鸞聖人非常に大事にしておられます。もうお一方の隆寛律師の方は『一念多念分別事』あるいは『自力他力事』という本を書いておられます。結局法然の教えを聞きながら、念仏して助かると云われながら一念がいいのか、多念がいいのかという争いをしてる人がいっぱいいるわけです。これ一所懸命念仏しているようですが、実は最終的には自分が偉い、自分が一番正しい念仏者なんだという主張なんですね。自分こそ法然の念仏を正しく受け止めているというのが一念を主張したり多念を主張することになるわけですが、主張して自分を良しとするあり方、結局誰かを切っていきますね。共々に阿弥陀によって迎え取られていく世界を見失っていくことになります。だから隆寛律師は一念往生でも多念往生でもない念仏往生だといっています、つまり一念往生多念往生は念仏していないということです。自分を当てにしているわけです、自分が一番立派ということです。そういうふうに親鸞聖人が崇めている人もありますが、そのお二人のことは直接教行信証には出ません。でもそういうお二人のことも思いながら、この教行信証はまとめて述べていかれる形になっているわけですね。
横超釈
で、もうちょっとだけ読んでましたね、最後いまの横出のあり方に対して横超でありますが、341頁後ろから2行目です、[「横超」とは、本願を憶念して自力の心を離るる、これを「横超他力」と名づくるなり。]とありました。横さまに超える、これは本願を憶念するところに自力の心ですね、これ執われの心と云ってもいいです、自らを良しと思う心、自分は間違っていないと自らのあり方を誇っていく心でありますが、これを「離るる」と書いてます。離れてしまったとは書いてませんね、「離るる」ことです、もっと云うと本願を憶念して自力の心を亡くすとは書いてません、無くならない。離るるというのは具体的には見えるということです。また捉われていた、また執着の心を中心に生きていたという自分のあり方が見えるということでしょうね。これもいつも同じ譬えで済みませんが、自力というのは自分の顔みたいなものやと安田先生は仰ってました。自分と一体になってますから近すぎて見えないんですね。背中が見えない、顔が見えないと一緒で鏡が要るわけです。だから阿弥陀さんの鏡をいただくところにあぁこんな生き方になっておったかと、これほど執われることになっておったかということが、見えるというのは顔を離したからでしょ。鏡に映すというのはここから離したわけです、譬えですけど。でも自力の心がなくなったわけじゃない、放っておけばそれを中心に生きることになるんですが、それを見て、見つめることが出来ると云うわけでしょうね。それを愚かだったなぁ、痛ましいことになっておったなぁと知らされれば、それを中心に振り回すということからは解放されます。しかし、その憶念する時でしょこれ、本願を憶念することから離れれば、また元に戻ってしまいますわね。親鸞聖人を補う必要はありませんが、これ少し補えば本願を憶念する時に自力の心を離れていくと、本願を憶念し続けて自力の心を離れ続けていくと、こういう意味だと思います。昨日憶念したからもう離れてしまった、そんな話じゃないですね。だから離れ続けていくあり方、これが横超他力というふうに名付けられています。だから横さまに超えるというのは本当に迷っていたなぁということに気付かされる、愚かなことになっていたなぁということが明らかになる。それ以外に日頃の生き方を超えるとか離れると云ってもどこにもないんですね。離れてしまってもう迷わなくなるなんてことはあり得ない。そんな意味で一念一念の念仏のところに自力の心を離れ続けていくと、こういうふうにここは読んでおきたいと思います。で、これをまとめて342頁ですが「これすなわち専の中の専」これは専修という言葉がありますが、専修の中の専だといいます、これ後でもうちょっと展開します。それから「頓の中の頓」というのは頓業と云っているのはいっぱいあるんですが、例えば比叡山も真言宗なんかも云うわけですよもう即身成仏みたいなことを云うわけです。しかしこの身このままで覚りに至れるかというたら甚だ難しい。だから頓業と云う看板はあるけれども頓でないんですね。ところが横超他力は本願を憶念するその時、その一念のところに迷いを離れることが出来るという意味で頓の教えの中の頓であると云っているわけです。それから真、これは比叡山も自分たちは真理を説いていると云うんですが、それが人間の上に本当に生きてはたらくということがなければお話に終ります。だからこの本願他力の教えこそが「真の中の真」だという、さらに「乗の中の一乗」と云っています。いろんな教えを乗物に譬えているわけですが、いろんな教えがあるかも知れないがその中で本当に同一に乗ることが出来る平等の乗物、これを乗の中の一乗と云っていますね。[これすなわち真宗なり。すでに「真実行」の中に顕し畢わりぬ。]とあります。真実行巻だといってますね、第二巻の行の巻に全部云いましたと云うことです。ま、さっき云いましたが諸仏の称名を通して本願の招喚の勅命にあう、そこに立てば自分が称えた念仏でも自分への呼び掛けだというふうに申し上げていたことです。もうちょっと云うたら隣の人が称えた念仏でハッとさせられることだってあるんですね、私たち。と云うことは念仏というのは誰が称えたかという、そこに意味は全然重きを置く必要はないわけで、南無阿弥陀仏という言葉そのものが呼び掛けという意味を持っているのです。ちっちゃな子どもさんが称えたナンマンダブツでハッとさせられるということだってあるんです。その人が意味を知っているかどうかというのは別問題です。南無阿弥陀仏そのものの持っている力なんですね。まぁこれが真実行巻でも云われていますが、これまた後とも少し関係します。第二十願の問題とも重なって来るんですが、我々にとっての呼び掛けとしての念仏、これを親鸞聖人はもう一遍ここで確かめようとしておられると思います。ですから話もう一回戻っておきますと、何遍称えようが私への呼び掛け、これが真実の行、これが迷いを超える如来からの呼び声であります。ところがそれを自分の功績として握っていくという、この問題がここで云われる浄土門の中に横出とか漸教とかあるいは自力仮門というふうに云われる、こういうあり方なんですね。でもまぁここからしか始りませんね、まず読みなさいと。で、阿弥陀の世界についてちゃんと見なさいと、そして仰いで生きていきなさいと非常に分かり易い。でも分かり易いだけに今度は私は大分読みましたとか、私はちゃんと崇めて生きています、あの人に比べればと、そういう話にまた落ちて行く。どこまでも称名念仏一つに立たせるための助ける行いなんです。でもその称名念仏がまた本当の正定業として大事な意味を持っているんですが、私は人よりやれてるとなったら、それもまた正行とは云えないという意味で「名号を除きて已外の五種」の助業というふうに云われる、親鸞聖人は名号と区別して呼びかけをいただいていくための助ける行いということを云うわけです。助業はやっぱりものすごく大事なんですね。これをやらずに名号の呼び掛けがいきなり聞こえるなんてことはありませんよね。お経を読むあるいは疑問をもって尋ねて行く、一所懸命求めて行くというここが本願の呼び掛けをいただいていく本当に大事な面を持ちます。もう一遍云いますが、如来の方便という意味では、私たちを導いて下さる大事な大事な道筋であります。しかしそれはどっかに腰を下ろせば、これは仮ですよというふうにまた教えなければいけない、こういうことを吟味して下さっている一段だということですね。まぁ前回見ておったところを振り返ってまた長くなりましたけれども、聖道門と浄土門ということの内容を確かめることを通して、私たちの本当に依るべき名号一つというところに立ってほしいということがこの一段から読めると思います。でその後はさっきから申し上げている、同じ専修という言葉についても親鸞聖人は問題を掘り起こして行かれる、ここからが第二十願の問題にも関ってまいりすけれども、これまだ十九願の問題として話をずっと続けていくのが342から343頁の辺りになります。
ちょっと休憩してからそっちにまた入りましょうかね。一旦休憩をさせていただきます。
えー、それはちょっと待てということになるかも知れませんが、善導大師は雑行と正行とこれを決判なさったお仕事でありますね。ところが正行と云ってるその南無阿弥陀仏がまたオレはやれてるアイツはやれてないとか、こういうことに落ちて行くわけです、それは念仏と云えるのかという問題なんですね。それはさっき一念多念とかでも云いましたけれども自己主張でしょ、オレほど念仏してるものはおらんというのは仏を念じているのではなくて、それ自分を念じているだけですね。それを云わなきゃならんので、これがダメだと云ってるわけじゃないです、この行を通さないと本願の呼び掛けを聞くなんてことはあり得ないと思います。しかし私は大分やってますということを誇り出したら、それは本当の意味で本願の呼び掛けに出遇ったとは云えませんよということを云わないといけない。だから雑行と正行を決判する善導のお仕事とその正行の中味は何かと云うことを押えて、しつこいようですが、本願招喚の勅命だと、これが我々の迷いを超えさせる行なんだと云った親鸞聖人のお仕事だと思います。もうちょっと云い方を換えれば善導大師はたくさん行がごろごろと転がってる中でこれが要ですよということを選んだわけでしょ、ある意味私たちからの行ですわね、でも親鸞聖人が仰る行は如来からの行なんですね。如来が呼び掛けて下さっている、それに依らないとどっち向いて生きるかも私たちは決まらないんですね。だから一所懸命やってますからこれで仏道でしょと云うわけにいかない、本当に何に向いてるか分かりませんよね。ちょっと生々しい云い方をすれば、親鸞聖人比叡山で一所懸命修行なさっているそのお仲間の中にですよ、やっぱり人に負けたくないと云って修業している人もいるわけですよ。それは仏道の行なんでしょうか。もっと卑近なことを云えば教団の中でトップになるぞとそういうことを目指していたらそれは仏道の行と云えるでしょうか。でもこれ比叡山の悪口じゃなくて遡ればお釈迦さまの教団でも起ってるでしょ。お釈迦さまの跡継ぎになることを目指した提婆達多というのはある意味真面目な人ですわ。お釈迦さま亡き後は私が継ぐぞと云うてるわけですが自分が後継ぎとして相応しいと思うてるということは誰かよりマシだと思うてるわけでしょ。その物の見方はお釈迦さまのみな平等に迷いを超えて行くという法を聞いたと云えるでしょうか。いくらお釈迦さまの身近に居てもなんというか能力によって人を区別する、差別するということが起きてしまう、どこにでも起る問題なんですね。その心根をはっきりさせておかないと形は南無阿弥陀仏一つでも、それは何をしているか、迷いを超える仏道の行にならないということがあるということを親鸞聖人は見たんですね。ですからさっき云いました聖道門と浄土門の決判ということもなさってますけれども、もっと云うと浄土門の中での本当の迷いを超える行は何かということ、これを仰るんですね。その心根をはっきりしておかないと形はナンマンダブツと一つでも、それは何をしているか、迷いを超える仏道の行にならないということがあるということを親鸞聖人は見たんですね。ですからさっき云いました聖道門と浄土門の決判ということもなさってますけれども、もっと云うと浄土門の中での本当の迷いを超える行は何だということ、これを仰るんですね。だから親鸞聖人の行巻で云えば、称名念仏というのは我々の行ではないですよね、諸仏が称えて下さる。我々に本当の世界を教えて下さるお勧め、それによって本願からの呼び掛けを聞くという、だから諸仏の称名と衆生は聞名という方に、その責任がありますね。善導・法然は我々の行として念仏を掲げましたけれども、その念仏というのは本願の呼び掛けを聞くということがなければ行にはならんのだということを親鸞聖人は仰っておられるわけであります。そう云う意味で行という言葉が同じなもんですから話がどうしても込み入るというかややこしくなるんですね。もう一回云いますがこれ決して善導大師のお仕事を否定なさったわけではないです。そうじゃなくて善導大師が折角このこと一つで誰もが助かると云っておられるのに、こんど出来たか出来ないか、長年やっているかやらないかで差別していく、ランク付けしていく人間の根性を洗い出そうとしておられるというふうに見ておきたいわけであります。
雑行釈
それでいまの話の続きになりますけれども、今度は雑行と雑修という問題が出て来ます。最後には雑心という言葉も出て来ます。もう一つ話ややこしくなるかも知れませんが人間が行を握っていくという問題ですね、これが根っこにありますので、もう少し読み進めておきたいと思います。では聖典342頁の上の段3行目ですね。「それ雑行・雑修、その言一つにしてその意これ異なり。」こういう言葉から始まっています。雑行と雑修というのは、先に雑行ということとそれから雑修と専修という言葉を挙げた、これがあるもんですから、それを承けて先ず「雑行と雑修、その言一つにしてその意これ異なり。」とこう云います。言葉は一つであると云ってますね。でもその意味は違うと云うんですね。もうちょっと読みましょう[「雑」の言において、万行を摂入す。五正行に対して、五種の雑行あり。]これ雑ということばをもって全ての行を摂め取っていく、摂めこの中に入れていくんだというんですね、で五つの正行に対して五種の雑行があると云います。これ云えば阿弥陀仏のお経を読むのが読誦正行だと云ってましたが、その阿弥陀仏のことを説くお経以外を読むのはこれ全部読誦雑行なんですね。同じように阿弥陀仏以外を観察する、これは観察雑行なんですね。まぁ五種ともにそういうことがあるわけです。阿弥陀が要だということです。これも今まで、今までというか、読んで来たところで云えば、ちょっと前を振り返りますが、例えば331頁、ここは観経をどう読むかという一段で後から8行目ですね、「彰」というは、これは表に顕れた意味ではなくて言葉の背景にある、その意味を語ろうとするところですが、観経の彰の義は「如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。」とまず書いてありました。観経はパッと読むとこんなふうに読めません。如来の弘願、つまり一人も漏らさず救おうという本願の世界を表わしているとは見えませんね。なんか修行を勧めて出来る人出来ない人にランク付けがあるというふうに見える経典なんです。でもそうじゃないと云うんですね。利他通入の一心ですから他力によって、これは如来の利他と読んでおきたいと思いますが、如来のおはたらきによって迷いを超えて行く、覚りに通入するというふうに云ってもいいと思いますが、その一心ということを述べて下さっている。これが観経だと云うんです。パッと見、そういうことはとても表立っては見えないんですが、親鸞聖人はこういうふうに押えられました。そして「達多・闍世の悪逆に縁って、釈迦微笑の素懐を彰す。」と。提婆達多と阿闍世によるビンバシャラ王殺しの悪逆によって釈迦微笑の素懐を彰すと云ってます。釈迦微笑の素懐というのはお釈迦さまニッコリと微笑まれた、素のおこころ、もとのお心、出世本懐のことです。お釈迦さま何のためにこの世に現れたかというと、ただ阿弥陀の本願を説くために現れたのだという、これを親鸞聖人はニコッと微笑まれた、そこに見ているわけです。だから最後に「韋提別選の正意に因って、弥陀大悲の本願を開闡す。」と書いてます。韋提希が阿弥陀仏の浄土を特別に選んだ、そのことによって、弥陀大悲の本願ですね、一人も漏らさず救いたいという本願を開きあらわして下さった、これが観経ですと云っているわけです。さっきから云っているようにパッと読んでこんなふうに読むことはとてもできませんね。西に沈む太陽を見よというものすごく具体的な修行方法が説いてあるわけです。ま、出来る人と出来ない人で九通りの人間のあり方があるとみえますね。でもそれを通して云いたいのは一人残らず助けようという本願を説こうとしている、それがお釈迦さまの出世本懐でもあるとここまで云っているわけです。だから阿弥陀さんは偉くて他の仏さんはもう一つだとそんな話じゃなくて、お釈迦さまも一番云いたいのは阿弥陀の世界なんですね。お釈迦さまがそうであるように他の沢山の仏さまもみなそういう願いを持っておられるとこういうふうに親鸞聖人は仏教を受け止めていきます。仏教だけじゃなく諸仏の教えも受け止めていきます。ですから正信偈で云えば「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」あの二句に親鸞聖人の仏教理解がありますね。如来がこの世に現れた理由は何かと云ったら、ただ弥陀の本願を説くためであります。ここまで云うんです。ま、他の仏さまを大事に思っている人からすればバカなこと云うなとなるかも知れません。それは仏さまを横並びにしているからですね。違うんですよ、形を取って現れた仏さまはいろいろな国にいろいろな時代に現れるけれどもその願いは貫いている、これが阿弥陀の本願という法で語られるというのが親鸞聖人の仏教理解であります。これ仏教の歴史をどう見るかということで親鸞の仏教史観という言葉でかつて曽我量深先生がご講演なさっておられるのが本になっていますけれども、まぁいわばお釈迦さまが阿弥陀さんのことを説いていると云うけれども、実はお釈迦さまを生み出したのが阿弥陀の世界だとこういう見方です。阿弥陀から始まる仏教なんですね。そういうものの見方に立って仏教全体を見ていくことになるわけであります。ちょっと話大分横へ行きましたけれども、もう一回戻りますと、342頁ここではなにか阿弥陀一仏を立てて他の仏さまを蹴散らすというふうに見えるかも知れませんが、阿弥陀の世界に遇うことが他の仏さまの願いでもあるわけです。だから他の仏さんも仏さんだから同じようにと云うて大事にしとるようだけれども実は他の仏さまのお心を軽んずることになるんですね。だから五正行と五つの雑行というのは質が違う。やってるから或いはたくさんやったからいいだろうと、そうはならない。阿弥陀に出遇うということが要なんだと云うわけです。もう一回戻ると342頁4行目でしたね、[「雑」の言において、万行を摂入す]すべての行をこの中に入れていく。「五正行に対して、五種の雑行あり。」と云って、他の仏さんを念ずることはつまらんと云ってるんじゃないです。例えばお釈迦さまを大事にする、ホントに大事にする心があるならお釈迦さまが一番云いたかった阿弥陀に出遇えということに極まって来るわけでしょ。それ抜きにお釈迦さまはああも云うたこうも云うたと云うことに執われていたらお釈迦さまを却って軽んずることになるんです。ま、これはいつも同じ例ですみませんが、お釈迦さまは相手に応じて法を説きますから周利槃特には掃除せよと云ったわけでしょ、一つのお勧めなんです。でも掃除をしなさいと云うことを通して気が付いてほしかったのは自分の心が汚れておった、私は愚かだから価値がないというふうに執われておったということに周利槃特は目覚めるわけですから、掃除してほしかったわけじゃないですね、掃除を通して愚かであるとか賢いということに執われていることから離れる、そういうことに気が付かせようとした。勿論この周利槃特の逸話、エピソードには阿弥陀という言葉が出て来るわけではありませんが、そこに阿弥陀という法ですね、これが貫かれているというふうに親鸞聖人は見ておられると思います。これは前々回も読んでいましたが、八万四千の法門がある、相手に応じて説かれた法門ですが、それは全部阿弥陀の世界に勧め入れるためにあの手この手で云われているんだとこういう仏教全体の受け止めの違いなんですね。だからここで阿弥陀に遇うことに要がある、これを正行と云うのに対してそれ以外のものはすべて雑というところに入るんだと云っているわけです。でこれを続いてこんなふうに云っていますね。[「雑」の言は、人天菩薩等の解行雑せるがゆえに「雑」と曰えり。本より往生の因種にあらず、回心回向の善なり、かるがゆえに「浄土の雑行」と曰うなり。]こう続きます。雑というのは混ざっていると云うのは人天菩薩等と云っています、まぁこれ、ありとあらゆる仏教に関るものを押えていると思いますね、人も天も菩薩らもとあります。普通は菩薩と云えばね、自利利他の修行が進めておられる人として高く位置付けられるんです。それに対して凡夫人とかね、仏道の中では低く見られてきた。ところが人天であっても菩薩であっても、そういう課題をもって歩んでおるものでも、その解行ですね、自分なりの理解そして自分なりの行い、これが混ざってくると云うんです。で、それを雑というと云ってます。これをまとめて「本より」本来的にという意味ですね、もともとと云うんですが、それが迷いを超えて行く種ではないということを「往生の因種にあらず」、なぜかと云うたら「回心回向の善なり」、だから自分の心を回らしていく、「回」というのは方向転換という意味です。自分の心を仏教に向けていく、あるいは自分の積み上げたものを覚りに向けていく、あるいは救いのために使っていく。振り向ける、さし向けるという意味で回向は使われますが、「回心回向の善なり」、つまり自分のやったことを頼りとしていくあり方なんですね。ま、これがさっきから云う如来からのはたらきかけじゃなくてこちら側を膨らましていく、こちら側を伸ばしていくという発想です。ま、私たちそれしか日頃思いつきませんよね。でも、如来からのはたらきかけじゃなかったら本当に覚りの方向に向いてるかどうかも分からないです。それを[かるがゆえに「浄土の雑行」というなり。]と云います。ま、ここね人天・菩薩ということが混ざっておるのが非常に興味深いと思うんですが、実はこれは大経にもとがありまして、例えば50頁を開けていただきますと、上の段で3行目ですが、「聲聞或菩薩 莫能究聖心」という言葉があります。これは「東方偈」と呼ばれていますが、大経の下巻に出る唯一の偈文であります。上巻には「嘆仏偈」と「重誓偈」がありますね。下巻にはこの「東方偈」が置かれてますが、ここの部分は実は今まで説いてきた教えを後の世にどう伝えるかという流通文の課題と重なっている、そんな部分なんですね。そこでお釈迦さまは念を押すような形で云ってるんですが、声聞あるいは菩薩であってもという意味ですね、「能く聖心を究むるものなし」、つまり仏の清らかな心を究めるものはないと云っています。普通大乗仏教では声聞というのは自利に止まるものとして低く見られる、菩薩というのは大乗を歩む非常に理想的なあり方として云われるのですが、ここでは声聞と菩薩が一緒くたになっています。ま、ちょっとビックリするようなあり方ですわ。大経は菩薩であっても、菩薩の修行をしてきた者であっても超えられない問題ということを見ている、だから菩薩も浄土に生まれてくれよということを云うんです。だからここでは東方の世界から始まって十方の世界からさまざまな菩薩がやって来るということが書かれている、これが「東方諸仏の国より」と云って始まる偈文なんですわ。だから菩薩も阿弥陀の世界に行かんならん、弥陀仏にお会いせんならんのです。あの人は菩薩道の修行してるから別枠だろう、そんなことないです。ここには人天は出てませんけれども、人天はもちろんのことです。声聞という一つの覚りを得たものであっても更には大乗の菩薩道を歩んでいるものであっても「能く聖心を究むるものなし」と云っています。もう一つ、一行飛ばして次の「如來智慧海 深廣無涯底」そこに「二乘非所測 唯佛獨明了」とありますね。これも下の段で読むと「如来の智慧海は、深広にして涯底なし。」と。これなに如来と別に書いてませんが、如来の智慧の海に譬えています。広いこと深いこと及ぶもののないのが海でありますが、深広にして底が無いと。そして「二乗の測るところにあらず」とありますが、ふつう二乗と云うと声聞と縁覚なんですね、大体。菩薩は除いて声聞と縁覚というふうに云われるんですが、これは先輩方が解釈するところで、直前に「声聞あるいは菩薩」とありますんで、ここでは縁覚は省略されているんであって、声聞であっても菩薩であっても測ることは出来ないという文章として読むべきであろうということを、沢山の先輩が仰っています。「唯仏のみ独り明らかに了りたまえり。」仏だけが覚られるところであると。仏の境涯というのは仏と仏が念じ合うことなんですね。だから人天はもちろんのこと菩薩であってもと、こういうことがここに読むことが出来るわけです。だからこういうことを親鸞聖人は念頭に置いておられると思いますが、もう一遍さっきのところ戻りますと、342頁でありますが、「雑」というのはいろんな行を混ぜて行じて行くというのが元の意味ですから、そこに「人天・菩薩等の解行雑せる」と云ってます。「解」の字が加わっていますね、行が混ざっていると云うだけじゃないです。それをどう理解しているか、解釈しているか、こちら側の受け止めがそこに加わっている、これをした方がもっと価値があるんじゃないか、念仏だけじゃなくてね、念仏以外のことをやればもっといいんやないかと。それ結局は念仏一つで我が国に生れようと思えと云ってる阿弥陀の本願を疑っていることなんですね。それが浄土に往生する種にはなりませんよね。ま、これ具体的なことで云えば、これいつも同じ例ですみませんが、法然上人のお弟子の中で信心一異の争論というのがありましたね、あの時に親鸞聖人は私の信心も法然上人の信心も一つだと云った。ところが、先輩方はなにを云っているんだという話になったんです。あの法然上人とこの間入門して来たあんたと同じはずないじゃないかというんです。やっぱり先輩方の中には法然上人は智慧才覚が広いし、お師匠さんですから本当に駆け出しのあなたと同じはずないじゃないかと云うわけです。でも結果的にはご承知のとおり、法然の信心も如来より賜わりたる信心、善信坊の信心も如来より賜わられた信心、されば唯一つであると、これが法然上人のお答えでしたね。つまり如来に導かれて往生していく、如来のはたらきかけによって一歩一歩歩んで行くという、これは法然においても親鸞においても変わらないという、こういうことを断言して下さっているものであります。でも先輩方は我々の代表ですよね、やっぱり。私たちどうですかね、親鸞聖人と信心一つだと云えますかね、法然上人と一つだと云えますかね。やっぱり、いやいやあんだけ勉強してませんとか、修業もしてませんしみたいな。これ謙遜しているようですけれども結局それは知識の量であるとか、修行の度合いでやっぱり往生は決まると握ってるわけでしょ。これが解行、要するに理解・解釈してそしてまだまだ足りない、あれをやったらもっと近付くに違いないと思ってるんですよ。ま、この根性が抜けないんですね。これがさっき述べました「本より往生の因種にあらず」の後の「回心回向の善なり」。結局自分の心を回らし振り向けていくという、そういう善を積まなければ助からないというふうに思っているわけです。だから[かるがゆえに「浄土の雑行」というなり。]とあります。まあ、ここに自分は念仏一つに立っていると称名念仏一つですと云ってるところにもこの問題は出て来ます。それがまた次に続いて行くんですね。もうちょっと読みましょうかね。
[また「雑行」について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。」と云います。ちょっと不思議な話ですよね。「雑行」と云ってるのに「専行あり専心あり」と出て来ます。雑行というのはさっき混ざっていると云ってるんですが、次に専ら行ずると「専行」と出てくる。あるいは「専心」心を専らにするということが出てくる、これ我々が考えたらどう見ても正行に思えるんじゃないですか。でもこれ形は専行であり、形は専心であっても雑行と云うべきものがあるんだということをここで云おうとなさるんですね。もう一つ「また雑行あります。雑心あり」これはいろんな行を混ぜておる、あるいは心が雑ざっておるという、雑心ありと云ってます。でその次ですね、[「専行」とは、]これ雑行の中ですよ、雑行の中の専行でありますが[「専行」とは、専ら一善を修す、かるがゆえに「専行」と曰う。]これさっきの「回心回向の善なり」ということから云えば、善いことしとるということです、やっぱり。自分は善いことしてる、沢山のことは出来なくてもこれ一つだけはやっていると、良いことを積み上げているということがぬけてないということを雑行の中の専行と云ってるんですね。まぁこれは他の善根功徳出来なくても念仏ぐらいは頑張ってますわというのが全部ここに入るわけです。専行というのはものすごく大切な言葉でありますが、ここにも自力心を親鸞聖人は見ておられる。それから専心とは心を専らにするというのですが、それをなんといってるかというたら、「回向を専らにするがゆえに」これは自力の回向であります。自分が積み上げたことを往生のために向けていく、覚りのために使っていく。これだけのことやったんだからということを捨てられない。これが「回向を専らにするがゆえに専心と曰えり。」と云ってます。だからこの専行も専心も共に雑行の中だということが大事ですね。形は雑行とは云えないでしょ、でも結局はそのやっているあり方の中に自力の心が雑ざっておるわけです。で、もう一つ雑行と雑心、これについて見ます。これは雑行の中のまた雑行と雑心なんですが、[「雑行・雑心」とは、諸善兼行するがゆえに「雑行」と曰う、定散心雑するがゆえに「雑心」と曰うなり。]こうあります。おもしろいですね、これも。雑行・雑心というのはもろもろの善ですから、たとえばさっきは一善と云っていましたが、善といわれるものはありとあらゆるものを兼ねて行じていく、これが雑行の中の雑行だというわけですね。で雑行の中の雑心は定散心雑心と、これは定善散善と云われる、やっぱり善を積み上げていこうとする心が混ざっているわけであります。ま、定善というのは心を静めて、一点に集中して行うような善、散善というのは散漫な心のままで日常生活の中でも修めることが出来る善と云われるものですが、要するにそれを善として修めていこうとする心がある。それが定散心が雑ざってくる、だから雑心と云われるといいます。これも雑行の中の雑心であります。
正助釈
そしてもう一つ承けて[また「正・助」について]と。これがさっきの五正行と名号を除きて已外の五種ですね、これが助と云われた、あそこを承けているわけであります。ちょっと読みましょう。[また「正・助」について、専修あり雑修あり。この雑修について、専心あり雑心あり。「専修」について二種あり。一つにはただ仏名を称す、二つには五専あり。この「行業」について専心あり雑心あり。「五専」とは、一つには専礼、二つには専読、三つには専観、四つには専名、五つには専讃嘆なり、これを「五つの専修」と名づく。専修その言一つにして、その意これ異なり。]こう出てまいります。ま、これさっきのところを承けているわけでありますが、正・助というのは、もともとの善導大師では五正行の中に正定業と助業があるという話なんですが、ここではそれにまた専修と雑修があると続いて行きます。で、「この雑修について専心あり、雑心あり」とまず先に押えます。雑修というのはさっきもあった通り、後でも出て来ますが、「助正兼行する」という言葉が左の頁になって出て来ます。後から説明するんですね。左の頁の前から5行目に[「雑修」とは、助正兼行するがゆえに雑修と曰うなり。「雑心」とは、定散の心雑するがゆえに雑心と曰うなり。]とあります。ま、似たような言葉でありますけれども、これが、正・助の中にもあるんだと云うわけです。ちょっとしつこいですが、親鸞聖人が吟味なさりたいのは、ただ念仏と云って、形はホントに専修なんですけれども念仏一つ、あるいは五正行頑張ってますと云うところなんですが、その中に根付く自力の心を掘り起こしたいということがあるから、これだけしつこいと云ったら変ですけれども、細かにこれを並べていかれると思います。で、もう一回当たっておきますと、正・助について、「専修あり雑修あり」といって、この「雑修について専心あり、雑心あり」と、あと「専修について二種あり。一つにはただ仏名を称す、二つには五専あり。」これが先ほど云うてましたが、五つをちょっと順番変えてあるんですが、[この「行業」について専心あり雑心あり]と云って、[「五専」とは]一つには「専礼」これ専ら礼拝するということでしょ、これ阿弥陀を礼拝するということの意味であります。二つには「専読」阿弥陀仏を説く経典を専ら読誦する。三つには「専観」阿弥陀仏とその浄土を専ら観察する。四つには「専名」称名という意味で云っておられると思いますが「専名」、そして五つには「専讃嘆」これを五つの専修と名づくと云いますね。まぁここがさっきの「名号を除きて已外の五種これなり」というのが正定業なんだけれども、ここに自力の心が出る限り、これもまた私たちの回向して行く、そういうところに組み込まれていくということになるということを読み取りたいところなんですね。まぁでも本当に細かいでしょ、これ一遍ご自身で図に書いてみられるといいと思いますが、定義していることを定義して更に定義するみたいになって、これ何段にも書かないといけないです。いろんな参考書が大体をそれをやって下さっていますけれども、どれもスキっと行くものはないです。参考書が悪いという意味ではなくて、親鸞聖人はどこにでも自力の問題が残っている、巣くっていくというか、そこに。そういうことを掘り起こすためにそういうことを云って行かれるように思います。ちょうどそうですね、先に結論のところを読んでおいた方が見え易いかも知れませんが、左の頁の後ろから4行目、ここを見るといまここに出る専修とか専心という言葉もこれは浄土に往生する本当の意味の迷いを超えて行く道ではないということを云い切って行きます。どこかと云いますと、343頁の後ろから4行目。「また正行の中の専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。かるがゆえに極楽に生まるといえども、三宝を見たてまつらず」こんな言葉が出てまいります。これ雑行がね、辺地・胎宮・懈慢界の業因なりと云われたら分かるかも知れませんが、専修専心ということまでが辺地・胎宮・懈慢界の業因だと云われてるわけです。要するに辺地・胎宮・懈慢というのは全部我々が思い描いた浄土に腰を下ろすことですね。私は助かったとか、聞法のお蔭で平穏無事ですとか、ま、要するに自分の救いを全部思い描いたあり方です、あるいは私は阿弥陀さんに出会ったといって喜んでおられる。それはいいんですけれども、阿弥陀仏というのは誰もが平等に迎え取られる世界なのに私だけが助かったみたいなところに片寄っていくんです。これが浄土の端っこ、辺地であり、胎宮というのは宮殿でしょ、殻に閉じ籠もっておる、懈慢界というのは怠け怠っているあり方であります。ここに専修専心ということが置かれてあるということ、これは結論なんですが、それ先取りしてここを読んでおかないと専修というのは誉められているように思うわけです。しかしその専修というのは私は専ら念仏一つで修めてます、あるいは心を専らにしてやってますという、これは全体が自力の問題なんですね。ま、いまのところちょっと該当部分だけ読みましたが、その2行前から読むと「経家に拠りて師釈を披くに、雑行の中の雑行雑心・雑行専心・専行雑心なり。また正行の中の」というふうに続くわけです。だからここでは形としての雑行とか、専修というあり方、それ我々形で区別しそうですが、結局はどれほど専修念仏一つだと云うてみても、そこに私は積み上げて善を修してるという心が混ざってくる限り、念仏していいことしているんだというつもり、もっと云えば段々いいものになっているという思いがあれば、これは全部阿弥陀の浄土に本当に生まれるということにならないんですね、かすってるようなものです。自分の思い描いた浄土を掴んでいるだけなんですね。ま、これさっきお話しした親鸞聖人と真実一異の問答をした勢観坊念仏坊というような人はやっぱり自分はやれていると思う、自分こそは浄土に往くと思っていたでしょう。でもそれに対する法然上人の言葉きついですよね。信心が別だという人は私が参ろうとしている浄土へはよも参らせ賜いそうらわじと。往かれることはありますまいと、ここまで云われる。つまり願っている浄土が違うんじゃないですかということですね。やっぱり善くなって助かる、いいものになって迎え取られる浄土というのは結局善人と悪人を分け隔てしている、出来たものと出来ない者をランク付けていくと、こういうことになって行くんです。だから歎異抄で云えば、ああいう問答のところを丁寧に押えようとして親鸞聖人は形は専修念仏であっても、そこに自力ということが巣くってくる限り、それは阿弥陀の世界に生れることにはなりませんということを一個一個押えているわけです。ですから専修専心までが辺地・懈慢と業因だというふうにいわれる、ここが大きいと思います。でも私らはそうなると何か手掛かりが無くなるような気もしますけれども、だって念仏一つというのは、私が頑張って念仏するかと思ってますもんね。さっき途中で云いましたけれども、こういう努力を通して、そこでやっぱり頑張らなくちゃいけないです。読んだり見たり学んだりが大事なんです。尊敬の心を持って生きる。そこで出遇うべきものは本願からの呼び掛けなんですね。こっちで助かるんじゃないです、これは本願からの呼び掛けに出遇うための行いなんですね。この行を私は何年やってきましたって云えば云う程、ここから遠くなるんじゃないですか。やれている人いない人また区別するでしょ。でもさぁこれどうでしょう、本当に阿弥陀の教えに触れた者の中に起る問題なんです。ですからこれ何遍も云いますが、阿弥陀の教えにまず触れる、そういう縁を持つまでも難しいですが、触れたところに今度また腰を下ろしてそれを握っていくという問題がもっとややこしいです。だから親鸞聖人からすれば阿弥陀の教えで救われるかと云うてる人の方がまだ可能性高いかも知れません。批判しているというのは救いを求めているわけですから。ところが私はもう救われましたとか私ほど分かっている者はいませんとなったら一番危ういんですわ、なかなかそこから出られない。だって出遇ったつもりですから、おかしいとも思わないんです。だから本当に本願の教えの縁をいただくことも難しいけども本当にその教えに従って一日一日歩んで行くということ、もっと難しい話やと思います。まぁこの専修にして専心というような問題、これが後の20願の問題にも関って来るんですが、ちょっと今日これぐらいにしておきたいんですが、前にも云いましたが、19願と20願の問題が教行信証では立体構造になってますね。三経往生文類というのは18願と19願と20願、こういうものが横並びになっています。そしてこのあり方が正しくてこちらは本当の往生ではありませんと非常に分かり易い、区分けして述べてますね。ところがこの教行信証では19願の問題の奥にこの20願がある、つまり19願と云うのは念仏に立つのかそれ以外の行に立つのかということを我々に迫って来る、選びを迫ってくるものがある。ところが念仏に立ったという20願のところにまた出て来る問題あるんです。念仏一つと云いながら実は念仏していない、私を念じている、私を偉いだろうというところに出ている、結局貫いているのは自力の問題です。これが最後まで残るんですね。その意味でここはまだ19願のおはたらきとして親鸞聖人仰いますが、これが次の念仏一つというところにも出て来る問題としてもう一遍今度は本願がそれに応答して呼び掛けて下さるということをいうのは20願のところに続いてまいります。だからこれ今のところもね、専修・専心というのは20願の問題とも重なるようなことなんですがね、これが少し既に顔を出していると云わなきゃならないと思います。ま、この辺ちょっと専修と雑修と専心と雑心と、こういうことが、ものすごく難しい言葉が出てまいりますけれども、これを少し整理をもうちょっとできればと思っております。ここはいま区分けして述べているんですけれども、和讃でいうとこれ全体をまとめて、基本的には同じことになって行くということを仰ってる言葉があります。善導大師のご和讃ですね、495頁の2段目5番6番そして7番です。「助正ならべて修するをば/すなわち雑修となづけたり/一心をえざるひとなれば/仏恩報ずるこころなし」この助正というのは五正行の中の助業と正定業を並べてどっちも同じように大事だというふうに云うていく、それを雑修と云うてるんですね。それは「一心をえざるひと」つまり阿弥陀仏に依って迷いを超えて行くという、その一心が決まらない、得ない人であるので仏恩をを報ずる心が無いと云っています。6番は「仏号むねと修すれども」とこれは一所懸命ナンマンダブツしてる人の話ですが、「仏号むねと修すれども/現世をいのる行者をば」何のために念仏してるかと云うたら、現世です、目の前の幸せとか都合の悪いことが除かれるということを願いながら念仏してる者です。「これも雑修となづけてぞ/千中無一ときらわるる」千の中に一人も生まれないとこういうふうにお釈迦さまによって嫌われていますと、そのあり方ですね。だからこれ形は専修なんです。しかしその心が現世を祈るとなるとこれも雑修だと云っています。で、もう一つ7番目「こころはひとつにあらねども/雑行雑修これにたり」と、雑行と雑修は心は一つでないけれどもと云ってますね、心と意味は違うと云ってるんです。だから雑行と雑修というのは決して同じ意味とは云えないんだけれども、これは似ていると云ってます「これにたり」。「浄土の行にあらぬをば/ひとえに雑行となづけたり」結局阿弥陀の浄土に生まれていく行いでないもの、これはすべて雑行と名づけられる。今日は細かく分ける方の話をずうっと見て来ましたけれども、最終的には専修・専心と云っていても、自分がやれてるということになれば、それは阿弥陀の浄土に生まれていく行ではないんですわ。どこまでも阿弥陀の浄土に生まれていくのは本願からの呼び掛けを聞くという、ここに親鸞聖人は重きを置いている。もう一回同じ言葉使えば、如来からの行です。こちら側からの行ではないんです。如来のはたらきによる、如来の呼び掛けを聞いて行くと、これしかないということですね。その意味で云うと、まぁ一所懸命念仏してる人も含めて、親鸞聖人は本願の呼び掛けに遇うことは難しいなぁということを思いながら今日のところを書いておられると思うんです。出遇ってほしいから書いておられるんですね。なんか難しいややこしいことの論理展開ということではなくて出遇いの願いがあると思います。
ちょっと半分ぐらいしか行けませんでしたけれども、雑行と雑修ということを纏めて述べておられるところを和讃で見ていただいたことであります。
ややこしいことにまたなったと思いますけれども、この辺どうしても親鸞聖人の抱えておられる課題と云いますかね、直面しておられた問題が唯念仏一つにならないという現状があったということから、こういう言葉が出ておるだろうということであります。ここまでにしておきましょうかね。ありがとうございました。