『教行信証』の化身土巻を読む(22) 一楽 真 師
2018/ 01/ 19
まぁ話が大体いつもややこしくなるんですが、私のせいもあるんですけども、教行信証という書物そのものがやっぱりそう簡単なわけにはいかないということを思います。でもそれは本がややこしいというよりも人間の抱える問題がやっぱり複雑なんですね。例えばただ念仏せよと云われて、ハイ分かりましたとこうなれば話はそんなややこしくなくて済むんですが、ただ念仏せよというところになかなか行かない、こういう問題があるんです。ほかの行と比べたりしてですね、どっちの方が価値があるんだろうかということになってくる。いま読んでいる第19願の問題は特に諸行と対比して、ただ念仏にかえそうとするこういう方便の呼び掛けの部分を読んでいるわけですが、今度は他の行を方便として立てた途端に今度はまた握り締めてしまう、これまた人間の問題があるんですね。方便ですよと云うことをまた云わないといけない。方便がないと真実に入れないんですけれども、その方便をまた握りこんでしまうという問題がある。そこを丁寧に掘り起こして書いて行かれるもんですから、どうしても話が込み入ったふうになっていくことになるんですね。でもそれは本当にただ念仏一つにかえすための親鸞聖人の確かめであるという見当付けをして読んで行きたいと思うんですね。その意味でまだ先になりますけれども第20願の方は形とすればただ念仏一つなんですね。朝から晩までただ念仏一つだとなるんですが、問題はその心なんですね、どういう心で念仏しておるかというと、やっぱりいいことしているつもりで、他の行は無理だけど 念仏ぐらいだったらできるとか、必ず最後には、私は誰よりも念仏を頑張っているとか、また自己正当化と云うか、握り込んで行くことに落ちていくわけです。これは本当の意味のただ念仏、阿弥陀を念ずることではありませんよということを、また吟味しなくてはいけない。これが20願の問題で掘り起こされていくことになります。まぁその意味でどうしても毎回またややこしい話になるんですけれども、ご一緒に親鸞聖人の呼びかけをお尋ねできればと思っているわけであります。
ま、戻ります。339頁の言葉を一応当たっておきますと、「これに依って方便の願を案ずるに、仮あり真あり」というのは敢えてあてれば、仮ありというのは修諸功徳、頑張れということを勧める面であります。しかし、どこで倒れても、私はあなたを見捨てないぞと云っている。これが「臨終現前」とか「現前導生」という言葉に表されている阿弥陀仏のお心、本願のお心であろうと思います。だから方便の願にもちゃんと仮と真があるとこう読むことができますね。で、「また行あり信あり」と、これは後に説明ありますが、まず「願は、すなわちこれ臨終現前の願なり」とこれは仮と真を包んで云ってますね、ここでは。どちら側の名前だとは云えません。そういう意味で私の読み方も、親鸞聖人がそう云ってるからということを明示できないんですけども両方含んでいるようなことでありますね。ま、特に臨終現前ということを私たちが利益を期待するとようなことになれば、ある意味でまた間違っていくことになりますね。これだけやった私にはお迎えが来るだろうと、あの人はたいしてやってないからお迎え来んだろうみたいな。もしかそうすると、積み上げた度合いでお迎えがある人と無い人とこういうことになってしまうかも知れません。しかしどんな者も見捨てないということが根っこに流れているという意味では臨終現前というのは両方の面があって当然だなということも思います。ま、願はその名前を代表してますね。そして「行は、すなわちこれ修諸功徳の善なり」と。それはさっき云ったことで云えば文字通り、ここからやれということを勧めて下さる。これが第19願が説く行ですね。だから実践の目標が欲しい人間にはここからしか仏道に縁を持てないということがあります。なんにもせんでも助かりますよと云われても、そんな雲を掴むような話ですよね。やっぱりいいことをしなさい、悪いことを止めなさいとこういうふうに呼び掛けるのですよ。そしてそれを受け止める信心の方は「信は、すなわちこれ至心発願欲生の心なり。」とあります。心をいたして一所懸命願いを起して、そして阿弥陀仏の国に生まれようと思う、ある意味で自らを励まして、そして仏道を歩み続けようとする、往生して行こうとする、こういう信心だというふうに読むことが出来ますね。で、「この願の行信によっ依って、浄土の要門、方便権仮を顕開す。」とあります。この願、そして行信、これだけによって浄土の要門、そして方便権仮を顕開すとあります。これも何遍もお話ししておりますけれども、要門というのはこれ必ずという意味ですね。必ず潜らないといけない、これを潜らないと私たちは始めっからただ念仏一つなんてところに立てないですね。親鸞聖人の例をいつも出しておりますが、親鸞聖人は初めっから念仏一つに立った人ではありません。やっぱり比叡山の修行を通して助からなかったという、そういう迷いを超えられなかったところを潜って、そして法然上人の教えに出遇うことができたんです。初めっから法然上人と出会っていれば手っ取り早かったのにと思うかも知れませんが、でもそれ無理でしょう。皆さんもどうでしょうか。初めから念仏一つで助かると云われたら、なんか安易な道に思ってしまうんやないですか。誰でもが出来る、そんな簡単なことと。やっぱり私にしかできないとその努力を積み上げていくことを人間は発想的に慣れてますね、やっぱり。段々立派になって行く、進歩していくということに慣れている。その意味で、これを潜らないといけないです。要門というのはそれぐらいの意味を持っています。しかしこれと同時に、ま、ここには権仮という云い方をしていますが、別なところでは仮門という云い方もされますね。必ず潜らないといけないんだけれども、それは仮なんですね。だからこれを絶対化は出来ないです。だから親鸞聖人の例で云えば親鸞聖人は自らは比叡山を潜って出遇うことが出来た、あれはなくてはならなかったことなんです。でもどんな人にも、じゃ、あなたも比叡山に行って来いとは云わないんです。これ、同じこと出来ませんからね。人が違いますから、業が違うというか、今までの歴史も違いますからね。親鸞聖人と同じように、20年おることも大変やと思いますけれども、居って親鸞聖人と同じことができる、そんなはずはありませんよね。だからそれは仮であって、どこから入るか、これは人によって違います。その意味で一番分かり易い例は方便・権仮というのは、お釈迦さまの説法を思い浮かべていただくと、相手に応じて違う説き方をしますよね、同じことを同じようにやれとは強制なさらない、それぞれです、出家の道に立つ人もあれば、在家のままでという人もある。同じ出家の中でも、知識的に行く人もあれば、身体を使って行動的にいく人もあるわけです。相手に応じて説くのです。それは出遇わせたいものは一つであっても、その入り口はみんな違う、これが門ということですね。ま、後で八万四千という言葉も出て来ますけれども、門はいろいろなんですよ。しかし、云いたいことが山ほどあるわけじゃない、出遇わせたいことは一つ。お釈迦さまの説法で云えば、執着を離れさせたい。或いは誤ったものの見方に腰を下ろしていることに気が付かせたい。正しい物の見方、邪見を破って正見に立たせたいと、こういうことは説き方は違っても願いは一つですよね。まぁその辺の説き方の違いということをまずはここで観経を通して仰っているわけであります。ま、あとではお釈迦さまの教え全体に及ぶことになって行きます。ですから、この第19願をもととして、それによる修諸功徳の善、あるいは至心発願欲生の心、信心という、これを拠り所にしまして、浄土の要門、そして「方便権仮を顕開す」と云ってます。
元へ戻りましょうね、聖典の339頁であります。上の段後ろから3行目。「二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。」と云って「便往生とは、すなわちこれ胎生辺地・双樹林下の往生なり。」と、これ真実報土の往生ではないということを態々云うんですね。これがさっき云いましたが自利各別、人間の、自分の能力やら経歴の方に根拠を置くような信心、これでは阿弥陀の世界に本当に生まれることにはならないということを云っていますね。これが胎生辺地・双樹林下と云います。まぁ、これも言葉説明しましたけれども胎生というのは、胎児のあり方でお母さんのお腹の中にあるときには外が寒くてもお腹の中は寒くないですね、外は暑くてもお腹の中は暑くないですね、まぁ殻に護られているようなあり方です。つまり阿弥陀仏の世界に縁をいただいても自分の殻の中に閉じ籠もっているような、その狭い世界を観ているようなあり方が胎生となります。だから本当の意味の広い世界、誰もが平等に生まれるような阿弥陀の世界に生れたと云えないということを、これ批判的に云う言葉であります。辺地というのは端っこということですね。ま、いい云い方か分かりませんが、私はいつも端っこをかすっとると云うんですけれども、つまり本願のおこころの中心に触れていない、本願を知らないわけにいきませんけれども、本願を知ったと云っても自分の握ったところだけの本願を思っていますから、誰をも救うその本願の本当に中心をずれておるという意味でかすっておると云うんですが、ま、端っこというのはそういう意味です。だからこれも結局は自分の思い描いたところ、自分の想像するような浄土に腰を下ろして行くことになるんですね。で、双樹林下というのは、これはお釈迦さまの亡くなられたときのお姿を譬えに出しております。沙羅双樹の下で命終なさっていかれた、涅槃に入られたわけですが、それを理想的なあり方とするような往生であります。ま、確かに仏教徒であればお釈迦さまの亡くなり方というのが一つの理想になる、これは当然かも知れませんね。が、そのいのちの終え方ということを一つ立てた途端に、そうでないあり方がまたこれ貶められていくことが起きます。ま、双樹林下の往生までなかなか行かなくても、いのち終るときの終え方というのはいろんないいかたするんじゃないですか、やっぱり。畳の上で眠るように死ねたら、あの人は大往生やったと云うわけです。ご承知と思いますが、往生に大も小もないんですよ。にもかかわらずその亡くなり方によって大往生やったてなこという。そして思わぬ形で、事故で亡くなったりね、まさか今日逝くとはと思っているとそれは横死(よこし)にした、横死という言葉が使われたりします。こっちが受け容れられないだけであって、生まれたときからいのち終わるということは決まっているわけでしょ。その死に方について良し悪しを云うことが起きる。だからお釈迦さまの涅槃のあり方を理想とするのは心情的には分からないわけじゃないですけれども、それを握った途端に必ず死に方で人をまた差別していくことが起きるんですね。阿弥陀仏はその意味で云うと臨終の善悪を問わないんです。親鸞聖人お手紙にもちゃんと書いてありますね。臨終の姿は一切問いません。日頃どう生きてきたか、それがどこでどんなふうに終わろうともですよ、阿弥陀の世界と縁を持って生きておれば臨終の良し悪しということから解放されるということをちゃんとお手紙の中でも押さえて下さってますね。そんな意味で、即往生ということをここに立てまして、「即往生とは、すなわちこれ報土化生なり」と、真実報土に化生すると。化生というのは、これまた幅の広い言葉でありまして、一応生まれに対して胎卵湿化と云われる、四生と云いますね。まぁ胎児として生まれて来る、あるいは卵として生まれて来る、あるいは湿り気の中から生れてくる。衆生の生まれ方をこの四つに纏めたもので、化というのは上の三つに当てはまらないものを化生というふうに云ってるわけです。突然ものが誕生して来るようなことも化生という云い方するわけです。ここで云う報土化生というのは、それを云っているわけではありません。さっきの胎生もこれをいってるわけじゃないですね、これは引き合いに出してますけれども、これはいきものの生まれ方を四つに纏めてますけれども、ある意味で重なる部分があるとすれば、私たちが予想できるような生まれ方ではないということでしょうね。あり得ないことが起るような形をとるという意味で化生という四番目が重なることが云われます。でもこの四つの内の四番目という話じゃないですね。で、これどうやって生まれるかと云うと、教えに出遇うところに生き方が大転換するというような生まれ方です。今までの我執中心に生きておったことに死んで、新たな本願を依り処として生きるようなことがスタートするという、こういう生まれ方です。報土化生というのはそういう意味ですね。まぁ天親菩薩の和讃で云えば、「正覚のはなより化生」するというご和讃がありますね。つまりそれは人間の側に根拠を置くのではないんです、今までの資質や能力・経歴に根拠を置くんじゃなくて本願のはたらき、阿弥陀の覚りの智慧の中から生れるとこういうふうに云われます。ですからこれ誰の上にも平等に起るような生まれ方なんですね。さっきの胎生辺地・双樹林下の往生というのは、これは人のあり方によってランク付けがあるような生まれ方なんですね。そうじゃない生まれ方を報土化生というふうに云っています。ま、この辺はまた第20願のところとも重なって出て来ますので、一応これ観経の教説をこんな形で親鸞聖人が整理なさったという見当付けで終っておきたいと思います。一応この辺まで、お話を前回も進めておったというふうに思います。で、それを踏まえて今日、その続きのところ、ちょっと差し掛かっておったんですけれども、そこから読んで行きたいと思います。
ま、いまずうっと観経の教説を依り処にして、そこには顕の義と彰の義があるという形で、我々を導くために方便として説かれた面とそれを通して出遇わせたい、その奥に隠れているお心とこれが両面あるんやということをずうっと述べて来たわけです。それを纏めてこの観経に方便真実の教えが顕わされてるという言葉から始まって今のところ、いま一応さっきまとめていたところは方便の面を挙げていたんですね。それに対して、今度はまた「この『経』に真実あり」とこういうふうに云います。ま、これも細かいことを前回も云うておったように思いますけれど「この」という字が、親鸞聖人やっぱり大分注意しておられて「この経」という初めの方には同じ「此」という字ですけれども、こういう字が使われていて、表わされている内容、真実が表わされているというときには、「斯」という字を当てておられます。「この『経』に真実あり」は「此」ですね、「これすなわち金剛の真心を開きて」というときは「斯」です。まぁ、こんな短いところでこんな字を使い分けておられるわけですが、これ教行信証の中では全部に統一してあるとは云えませんけれども、方便の巻に来て方便を指すときには「此」を使う時が多いですね。で、真実を指すときには「斯」が多いです。例えば、一番初めの総序でいうと、「専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」というときには「斯」を使ってますね。まぁ、これ字そのものにそんな区別があるわけじゃありません。しかしながら親鸞聖人はやっぱり字の感覚というのは、私どもとは比べものにならない漢字に対する見識をお持ちですから、ま、これを使い分けていかれるんですね。でも、念のために云いますが、真実の巻でも「此」の字が使われているところが沢山あります。だから「此」、方便という意味というふうにいま云ってしまいましたけれども、もうちょっと云うと具体的に表れて来たという、こちらの方を表わす字なのかもしれないですね。形を取ったということです。ま、これ方便という意味もあるわけですけれども、法そのものの世界が具体的に形を取ったという意味で方便に「此」の字が使われることが多いのかなぁということも思いますが、これ私答えを持っていません。そういう見方が出来るかなぁというぐらいのことで全体の法則性を見出しているわけじゃありませんのでね。でも「この経」というときに、観経のことをこれは指していますが、観経に真実があると云ってその内容を表わすときに「これすなわち」と云って「斯」の字で云ってるわけです。
で、戻ります。340頁ですが、そのときに「金剛の真心を開きて」という、これが大変気になるところであります。金剛心というのは親鸞聖人が真実信心を押えるときのキーワードであります。で、初めはこれ信巻のところ、もちろん行巻にも言葉出ますけれども、信巻で主題的に扱われるものなんですね。なんで信心をいちいち金剛心と云うのか、まぁこれが親鸞聖人の仏道の歩みというか、そこに関ってると思います。例えば菩薩道で云えばこれ不退転という問題、或いは間違いなく仏に成って行くそういう仲間に加えられるというので正定聚という問題、こういう課題に応答するときに、信心を金剛心というふうに云うのですね。金剛の真心と書くところもあります。だからここ真実信心を開きてと云うても全然おかしくないですが、何を云ってるかというと、一歩一歩仏道を歩んで行くという問題ですね。菩薩道では不退転とか正定聚、菩薩の歩みも本当に自分が迷いを超えるだけでなくて、他の迷いを超えさせるという自利利他を担って歩むという意味で大変重い課題になっていますよね。でもそれがやっぱり退転して行くという問題がずうっとついて回ったわけでしょ。それが親鸞聖人が取り上げるところでは龍樹菩薩しかり、天親菩薩しかり、だから浄土を願わざるを得なかったというふうに曇鸞大師も云っていくわけです。あの龍樹菩薩も浄土を説かないといけなかった。あの天親菩薩も世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来」と云って浄土を願っていかれた。菩薩さまでもそうなんです。それぐらい菩薩道、仏道の歩みから退転しないということは難しい、本当に重い問題なんですね。その時に問題になるのがその仏道を歩んで行く信心が本当に壊れないような信心であるのかどうか、金剛堅固の信心です。どんな問題の中でも砕かれない、くじけないという意味で金剛堅固と云われますね、固い。この問題であります。その意味で云うと信心の歩みということを問題にしている言葉なんですね。だから信心は得るのも難しい、阿弥陀によって生きて行くということが決定するのも難しいんですけれども、実は決定した後がもっと大変なんですわ、それがブレていくわけです。阿弥陀によって歩むぞということが、そういう心が起ったとしても、それが現実の中でやっぱり見失っていくという問題がある。だから信心は獲信の難というのがありますが、信楽受持の難とね、これが受けたことを保っていくという課題ですね。この難が信楽受持甚以難といって、正信偈で云われますね。受持することが難しいんです。受けることも難しいんですが、それを保っていく。あれだけ感動したのになぁということあるんですね、それが持たないんです。
私も小松の方でも若手と学習会してまして、もう何年か前になりますが、一人の若手のお坊さんがね、ボクわかりましたと云うたときあったんです。全部が輝いて見えますと云ってね、なんか世界が違って見えてきましたと云って、ものすごく感動して喋ってくれました。で、ボクわざとちょっとけしかけてみたんです。まぁ三日持てばええ方かなと云うたんです。そしたら一週間ほどしてまた会うたんですわ、三日でしたわと云うてました。感動したのも本当なんです、喜んだのも本当。あ、すごい世界に出会えたなというのも本当だったんですが、続かないと云うてました。もうホントに何でもが光り輝いていて、全部が宝物に見えると云うてました。これが仏さんの教えに遇うた利益かなと喜んでたんですが、その感動がもたない。もっと云うとあの感動をもう一度となろうとすればするほど焦るわけです。ちょうど寝られないということになったら、寝よう寝ようと思ったらもっと寝られないのと同じであの感動をもう一度と思ったら、もう聞法どころじゃないです。どうやったら感動できるかみたいな、どうやったらもう一回喜べるかみたいな、そっちの方、体験に縛られてしまうという話を後からしてくれました。だからこちら側に根拠を置こうとするとそうなるんです。感動した自分がなんかすごいという話でしょ、結局。してない時よりも、感動した私の方がなんかすごい体験をしたということが云いたいんです。そんなものを当てにしたらエライことになるんです。 だから念仏によって成り立つのが金剛心なんですよ、これ。私が感動し続けるとか、喜び続けるという話じゃないんです。お念仏のところにまたいただいて行くんです。ああそうだったなぁとまた知らしていただけることが起る、そういう歩みなんです。まぁだからこれ信楽受持、金剛心の問題として云われますが、それが何によって成り立つかと云うと、人間の力ではなくて阿弥陀の本願のはたらきによるということを押えるのが信巻の話であります。人間に根拠を置かないんです。だからその信巻の話題がずうっとここまで、化身土巻まで貫かれてあるということが、まぁここに真実信心を開いてとは云わずに、金剛の真心という言葉で云われることの意味があるように思います。ま、あちこちしてもいけませんけれども、ちょっとだけ金剛心ということが話題になっているところ、信巻で見ておきましょかね。ま、一番初めは210頁、信巻の序でありますが、その4行目に「定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。」とあります。こっちの信はまことの信ずるという字が書いてありますが、つまり定散の自心というのは自分の自力、あるいは自分の努力やら積み上げて来た経歴、そういうことを当てにする心によって、結局は本当に歩み続けるような金剛の真心ということが分からないんですね。自分に根拠を置くもんですから、本願によって歩めるというこちらが見えなくなっています。まぁ
そしてこれに対して、私たちが頑張って起すような信心は却ってこちら側ですということを云うのは、19願・20願で至心発願あるいは至心回向という言葉に着目していくんです。だから同じ信心と云っても本当の真実信心、本願のはたらきによって誰の上にも平等に起こるような信心と、それから自分の経歴やら能力やらによってバラバラなランク付けがあるような信心とは全く違うということを云う、これが化身土の述べ方になるわけです。だからこれが信巻と化身土巻、場所は分かれておりますけれども課題がくっついておるもんですから、ここに至心信楽の願が宣説されているというふうに押さえることになるんですね。ま、これ文字のことから云えばちょっと無理でしょうね、だって観経のどこを探しても至心信楽の願と云ってるわけじゃないですから。ただし、その言葉に出ていなくても、その背景にある、それをずうっと顕彰隠密ということで尋ねて来た、その結論部分にあたるところが今のところなんですね。で、それをまとめてもう一回読みますと、「しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまう。報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。」報土というのはさっきから云います、真実報土。阿弥陀仏が一人も漏らさないと誓ったその本願に報いた世界ですね。その本願に答えた、詳しくは本願酬報の土と云いますが、それを報土というふうに云っています。報土に生まれる真因はどこまでも本願のはたらきによって起る真実信心しかない。ま、これが信の巻での親鸞聖人の確かめでありました。
詳しくは次ということにしたいと思いますが、ちょっと入っておきましょうかね、もうちょっと。[宗師の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸・頓すなわちおのおの所宜に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れり」と云えり。]これ善導大師の観経の註釈書、観経疏といわれますが、その玄義分の冒頭に出てくる言葉です。「宗師の意に依るに」と括弧して善導と補ってありますが、その心によって勝行を起こす、「門八万四千に余れり」ということですから、まぁいろんな道があるということを云ってるわけです。「漸・頓」というのは、ゆっくり時間のかかるあり方も、「頓」というのは速やかに、たちまちに迷いを超えていくというのも、まぁ縁によっていろいろあるけれども、「おのおの所宜に称いて」ですから、よろしきところにかなって、そして「縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れりと云えり」とこう云われます。だから道はいろいろあるよとまずここで云ってるわけです。入り口はどこからでもいいんですわ、必ず解脱を蒙ることが起りますと、こういう励ましをして下さっているんですね。ところが、「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。」とこう来ます。これは善導大師が道はいろいろありますよと勧めて下さって、観経はその中で定善・散善を教えてくれているわけですが、その説明を用いながらも親鸞聖人は、それは難しいという話にしてしまっていますね、「定心修しがたし」と、これ三昧に入る、心が定まるということですが、ウロウロする私たちの心からすれば三昧に入るということは非常に難しい、ほとんど不可能という意味で云ってます。「息慮凝心」これおもんばかりを止めて心をこらすという字ですね。善導はもともと定心というのは息慮凝心のことだと云ってるだけなんですが、親鸞聖人は定心は修し難い、なぜかと云えば、慮りを止めて心をこらさないといけないからだというふうに云い切っています。道はいろいろあるんだけれども、それが本当にやり難しい遂げるということことは難しいという文章にしてしまっています。じゃあそんなら散漫な心で行う善ならいいかと云うと「散心行じがたし」と云っています。こちらはこちらでまた難しいんですね、「廃悪修善のゆえに」と。悪を止めて善を修しなければならないからです。話としては分かりますね、悪いことは止めましょう、善いことをしましょうと、もうちょっと云えば、他人を傷つけるのは止めましょう、生き生きといきることを取り戻しましょうと。出来ればそれに越したことないんですわ。しかしそれだから難しいんですという親鸞聖人の云い方になっています。だから道はいろいろあるかも知らんけれども、あれも難しい、これも難しい、これが私たちの現実ではないかということを「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、散心行じがたし」とこんなふうに云っていくんですね。だから道はいろいろあるから、どこでやっても勝手だろうとこうはならない、いろいろあるように説いたのは、実はそれは方便の教えであって、それを通して本当に立つべきところはどこかと、ここまで話を引っ張っていくことになります。
これはちょっと次回ということにしたいと思いますが、今日読んだことで云えば、観経に説かれる真実のところ、そこに導きがあります。導くためにあの手この手で教えは説かれてあるんですが、あの手この手で説かれてあるところに、じゃこれやればいいんですねという、そういうわけにいかないんですね。まぁ本当にやってみれば判るはずです、これ。廃悪修善ひとつとっても今日からいきもののいのちを絶対に取らないという、そのこと一つでもいいです。本気で守ろうとすればそれがいかに難しいか、ま、これが親鸞聖人が「散心行じがたし」、「廃悪修善のゆえに」と、こんな言葉で押さえているような人間観になってくると思いますね。だから教えの方の話をしてきましたが、今度は機の問題ですね。本当に出来るのかという、こちら側の問題を突き詰めて、だから依るべきは本願の一道であると、ここまで話が進んで行くことになります。
ま、見当付けだけであります。まだずうっと文章続いてますんで、まぁ長いところですが、19願に基づいての観経の教説を押さえ直す、そういう部分を今日も読んだということであります。始めにも云いましたけれども、大変ややこしいようなことでありますけれども、辛抱してお付き合いいただければありがたいと思っております。
三部経を貫く真実は選択本願、方便は修諸善根
それでいま少し振り返りますけれども、339から340頁のあたりに差し掛かっておるわけですが、どこからそれが始まっておったかと云いますと、前回も読んでおりましたが338頁の最後の行、ここからお話しておったわけです。あんまり重ならないようにしたいと思いますが、この先人の経典あるいは論書を通して、引用を終えた後に全体をまとめて押えられている段であります。もうちょっと振り返っておきますと、これはどこから始まっておったかと云うと331頁ですね、ここに問答が出ておりました。「問う。『大本』の三心と、『観経』の三心と、一異いかんぞや。」とありました。大経が説く至心・信楽・欲生という三心と観経に説かれる至誠心・深心・回向発願心という三心と、これは一つであるのか、それとも異なっておるのかということです。これは結論から云うと、説き方としては違うんですね。やっぱり観経の方は我々の努力を勧める、一所懸命頑張れということを云うて下さる、こういう説き方です。その意味においては違う面を持っております。しかしその心とすると本当に阿弥陀の本願に出遇い、そして阿弥陀の国に生まれてきてほしいという願いが貫いているという意味では一つだということになります。何遍かお話ししましたが、結局は同じだと云うのか、あまり意味のない問答でありまして、云いたいことは一つでも態々違うように説かないといけなかった、これが大経と観経の「異なり」なんですね。なぜならただ念仏一つというのは大経に既に云っているわけですから、そう云っても聞かない私たちのためにじゃぁそれに頷けないならここからやれということをいわないといけない、これが方便の大事さなんですね。それを前回読んでいたとこまで行きますと、338頁「しかるに今『大本』に拠るに、真実・方便の願を超発す。」大経では真実から方便という、これ真実と方便ではありません。真実によって方便の願が生み出されてくるんですね。そして19願,20願と呼び掛けて来る、これが大経の順序であります。それは第18願の最後に唯除が付いている。ただ念仏一つ、これによって誰もが救われるということを第18願は云うんですが、それに頷けない者は漏れていくんですね。そりゃそうですわね、念仏なんか聞くかと云ってる人間が念仏で助かることはあり得ないわけです。本願があてにならんと云ってる人がいる。せっかく第18願があっても、それを受け付けない者は漏れて行くんですね。しかし漏れて行くものを放り出さないのが本願のお心です。それが19願と呼び掛け、更には20願と呼び掛けるという、こういう順序ですね。これが真実から方便の願が起されるという次第になっております。これに対して『観経』の方は「方便・真実の教を顕彰す」と書いてあります。方便の教えを通して真実に引張って行くと、方便を通して真実に出遇わせようとしている、これが観経ですよというふうに云っておられますね。これが方便・真実しか書いてませんけれども、順序が違うということが決定的だという話を前回もしておったわけです。で、小本について、これは後で出て来るんですが、ここで併せて親鸞聖人は予め押えておられますね。これ阿弥陀経でありますけれども、ここには「ただ真門を開きて方便の善なし」と念仏一つによって迷いを超える、その真実に出遇っていく門を開いたと云うんですね。それ以外の、念仏以外の方便の善は阿弥陀経には説かれていないと、こういうことを押さえています。で、いまここ阿弥陀経は主題ではありませんので、「ここをもって三経の真実は、選択本願を宗とする」三経ともに一人も漏らさず救い遂げたいという選択本願は貫かれているというのが親鸞聖人の押えでしたね。それに対して、「また三経の方便は」と、方便は三経ともにあるんですね、これが「すなわちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。」大経にも方便あるんです。これ大経は真実だと思い込んでいると、ちょっと読めない言葉ですね。しかし大経にもちゃんと既に方便はあるよと云っています。あるいは直前の小本には真門を開きて方便の善なしと云っているのに、これ三経の方便はと云っている。えっ、阿弥陀経には方便ないんじゃないのと思うと、ここもちょっと読みにくいかも知れません。しかしながら善根を修しなさいということを呼び掛ける、これは阿弥陀経にもあるんだということです。つまり名号、これ一つだと仰るんですが、それを善根としてとにかく称えること、そこから始めなさいというのは阿弥陀経の中にもあるんですね。ですから三経ともに真実は選択本願、方便はもろもろの善根を修する、こういうことが三経ともにあるということを親鸞聖人は押さえています。そしてそれに基づいて、ここは観経のことをまとめる一段であります。前回読んでおりましたが、ちょっとおさらいの意味で当っておきたいと思います。第19願にある仮・真、行・信
「これに依って方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。」とこう云いまして、この方便の願というのは今の観経の元にある第19の願、ここに仮と真があると云っているわけですね。まぁ方便の願に仮あり真ありとはこれもどう読むか、先輩方の中で意見が分かれるところでありますが、第19願が仮であるということは、これ誰も否定しないでしょうね、意見一致するでしょうね。でも真ありというのは結局はその仮をとおして念仏往生という18願に引張るんだということを仰る先生もあります。でも私はこの方便の願の中に仮と真があるというふうに一遍読んでおいた方がよいのではないかと思ってるんですね。ま、これは始めの方にお話ししておりましたが方便の願の名前がいくつかありましたですね、326頁冒頭のところでありましたけれども、ここで親鸞聖人は仮と真を分けておられるわけじゃありませんけれども、代表的なものを取り上げれば、326の最後の行に[「既にして悲願います。「修諸功徳の願」と名づく」とあります。これは私たちにもろもろの功徳を修しなさい、ま、いわば頑張れと云うてるわけです。さっきも云いましたが第18願は念仏一つで誰もが往生するということを誓っている願文です。でもそれに対して、そんなもので助かるはずないじゃないかと思うている、こちら側の先入観がありますよね、やっぱり。念仏一つ、なんとも頼りない、何か他のことをやらせろと、こういう思いが湧いて来る。それに対して、じゃ、もろもろの功徳を頑張って修めなさいといろんなことやりなさいと。そしたら往生できるよといわれると、あ、それなら分かると実践項目を明示して下さる、まぁ階段をステップアップするような感じが私たちには頷き易いということがありますね。これが方便の願の、特に仮の面が前面に出ていると思います。ところが、それがいつどんな形で終って行くか分かりません。例えば100まで到達したらね、その修諸功徳が完成するという思いを持っていたとしてもですよ、ところが身体は待ってくれませんからね、50ぐらいで終わらなきゃいけないかも知れません。ま、場合によっては10か20ぐらいで終ってしまうこともあるかも知れません。そしたらダメなのかというとそうじゃないです。それが後半の方に続きますが、次の頁327の1行目で云うと、「臨終現前の願」とか「現前導生の願」という名前があります。これはいのち終わったところに仏さまが現前して下さるということを云っているんですね。例えば、100功徳頑張って積まないといけないと思っていた人間が50で終ったとしても、そこに仏さまの方が現われて下さるということを云っています。「現前導生」となると更に目の前に現れて私たちを導いて生まれさせると書いてますね。だから私たちの積んだ功徳の度合いで生まれるんじゃなくて、結局は仏さまが目の前に現れて導いて下さると、こう書いてあるわけです。ですから第19願の中にもちゃんとどこでいのち終わっても見捨てないぞとそういうお心が流れているんですね。ま、こちらの面を私は方便の願の中の真の面というふうに読んだ方がいいのではないかと思っています。でも云ってみればそれ18願と別じゃないですよね、一人も漏らさないという意味では18願のお心が19願の中にも貫かれているというべきでしょうね。これがさっき読んだ言葉で云えば、「三経の真実は選択本願を宗とする」というお経にも三経ともに貫かれるのと同じで第18願と19願は違う説き方をしていますけれども19願の中にも、どんな者も見捨てない、この心は貫かれているというふうに見ることができると思うんですね。ま、戻ります。339頁の言葉を一応当たっておきますと、「これに依って方便の願を案ずるに、仮あり真あり」というのは敢えてあてれば、仮ありというのは修諸功徳、頑張れということを勧める面であります。しかし、どこで倒れても、私はあなたを見捨てないぞと云っている。これが「臨終現前」とか「現前導生」という言葉に表されている阿弥陀仏のお心、本願のお心であろうと思います。だから方便の願にもちゃんと仮と真があるとこう読むことができますね。で、「また行あり信あり」と、これは後に説明ありますが、まず「願は、すなわちこれ臨終現前の願なり」とこれは仮と真を包んで云ってますね、ここでは。どちら側の名前だとは云えません。そういう意味で私の読み方も、親鸞聖人がそう云ってるからということを明示できないんですけども両方含んでいるようなことでありますね。ま、特に臨終現前ということを私たちが利益を期待するとようなことになれば、ある意味でまた間違っていくことになりますね。これだけやった私にはお迎えが来るだろうと、あの人はたいしてやってないからお迎え来んだろうみたいな。もしかそうすると、積み上げた度合いでお迎えがある人と無い人とこういうことになってしまうかも知れません。しかしどんな者も見捨てないということが根っこに流れているという意味では臨終現前というのは両方の面があって当然だなということも思います。ま、願はその名前を代表してますね。そして「行は、すなわちこれ修諸功徳の善なり」と。それはさっき云ったことで云えば文字通り、ここからやれということを勧めて下さる。これが第19願が説く行ですね。だから実践の目標が欲しい人間にはここからしか仏道に縁を持てないということがあります。なんにもせんでも助かりますよと云われても、そんな雲を掴むような話ですよね。やっぱりいいことをしなさい、悪いことを止めなさいとこういうふうに呼び掛けるのですよ。そしてそれを受け止める信心の方は「信は、すなわちこれ至心発願欲生の心なり。」とあります。心をいたして一所懸命願いを起して、そして阿弥陀仏の国に生まれようと思う、ある意味で自らを励まして、そして仏道を歩み続けようとする、往生して行こうとする、こういう信心だというふうに読むことが出来ますね。で、「この願の行信によっ依って、浄土の要門、方便権仮を顕開す。」とあります。この願、そして行信、これだけによって浄土の要門、そして方便権仮を顕開すとあります。これも何遍もお話ししておりますけれども、要門というのはこれ必ずという意味ですね。必ず潜らないといけない、これを潜らないと私たちは始めっからただ念仏一つなんてところに立てないですね。親鸞聖人の例をいつも出しておりますが、親鸞聖人は初めっから念仏一つに立った人ではありません。やっぱり比叡山の修行を通して助からなかったという、そういう迷いを超えられなかったところを潜って、そして法然上人の教えに出遇うことができたんです。初めっから法然上人と出会っていれば手っ取り早かったのにと思うかも知れませんが、でもそれ無理でしょう。皆さんもどうでしょうか。初めから念仏一つで助かると云われたら、なんか安易な道に思ってしまうんやないですか。誰でもが出来る、そんな簡単なことと。やっぱり私にしかできないとその努力を積み上げていくことを人間は発想的に慣れてますね、やっぱり。段々立派になって行く、進歩していくということに慣れている。その意味で、これを潜らないといけないです。要門というのはそれぐらいの意味を持っています。しかしこれと同時に、ま、ここには権仮という云い方をしていますが、別なところでは仮門という云い方もされますね。必ず潜らないといけないんだけれども、それは仮なんですね。だからこれを絶対化は出来ないです。だから親鸞聖人の例で云えば親鸞聖人は自らは比叡山を潜って出遇うことが出来た、あれはなくてはならなかったことなんです。でもどんな人にも、じゃ、あなたも比叡山に行って来いとは云わないんです。これ、同じこと出来ませんからね。人が違いますから、業が違うというか、今までの歴史も違いますからね。親鸞聖人と同じように、20年おることも大変やと思いますけれども、居って親鸞聖人と同じことができる、そんなはずはありませんよね。だからそれは仮であって、どこから入るか、これは人によって違います。その意味で一番分かり易い例は方便・権仮というのは、お釈迦さまの説法を思い浮かべていただくと、相手に応じて違う説き方をしますよね、同じことを同じようにやれとは強制なさらない、それぞれです、出家の道に立つ人もあれば、在家のままでという人もある。同じ出家の中でも、知識的に行く人もあれば、身体を使って行動的にいく人もあるわけです。相手に応じて説くのです。それは出遇わせたいものは一つであっても、その入り口はみんな違う、これが門ということですね。ま、後で八万四千という言葉も出て来ますけれども、門はいろいろなんですよ。しかし、云いたいことが山ほどあるわけじゃない、出遇わせたいことは一つ。お釈迦さまの説法で云えば、執着を離れさせたい。或いは誤ったものの見方に腰を下ろしていることに気が付かせたい。正しい物の見方、邪見を破って正見に立たせたいと、こういうことは説き方は違っても願いは一つですよね。まぁその辺の説き方の違いということをまずはここで観経を通して仰っているわけであります。ま、あとではお釈迦さまの教え全体に及ぶことになって行きます。ですから、この第19願をもととして、それによる修諸功徳の善、あるいは至心発願欲生の心、信心という、これを拠り所にしまして、浄土の要門、そして「方便権仮を顕開す」と云ってます。
専修・雑修、定機・散機、定の三心・散の三心
そして前回話ややこしくなってたのは、その後のところですが、これはまあ今日はもう置いときまして後で纏めてお話しをしたいと思っていますが、ここでは行のことで、「この要門より正・助・雑の三行を出だせり」と。正行、助行、雑行とあります。で、「この正助の中について、専修あり雑修あり。」ま、これがあとから念仏一つというところに立ったとしても残る問題として、親鸞聖人が上げてこられることと繋がっております。念仏かそれ以外かと云うなら話分かり易いんですけれども、念仏一つを選んだところにもなお残る問題があるということが20願と対比させていく中で整理されて行きます。まぁ一応は言葉が出されているということで止めておきたいと思います。で、その専修のあり方と雑修のあり方にまた「機について二種あり、」とあります。これはその行を行ずる人間の方ですね。どういう状態にあるか、どういう機の熟し方をしているかということです。「一つには定機、二つには散機なり。」とあります。まぁ「定」というのは、これ精神を本当に集中するような、そういうあり方に立つことが出来る状態にあるものを云います。「散機」というのは散漫な心で行を修していくというあり方でありまして、まぁ定善三昧を修するということに至らないものを云います。でもいろいろなものがこの浄土の行に関る道が示されてあるということを機にも二つありと云って定機と散機というふうに云われてました。更にそこに「また二種の三心あり、また二種の往生あり。」と云われてました。三心はこれずっと観経の至誠心・深心・回向発願心のことを云ってるんですが、それが「定の三心」と「散の三心」。これは大変細かい話ですが、三昧を修する行に立ってる人の三心と、そこまで行かない日常生活の中での善を修めている人の三心とやっぱり二つあるということです、一つと云うわけにはいかないですね。これをいま整理しているわけです。そして「定散の心は、すなわち自利各別の心なり。」と云ってます。この辺も一応喋りましたが、教行信証で自利というのは、菩薩の自利利他という言葉の場合もありますけれども、こういう化身土で使われるときには基本的には自力というんです。利他というのは如来の利他力、如来の他力のことを利他という言葉で云います。だから菩薩道における自利利他の課題ということと少しごちゃごちゃになりそうなんですけれども、ここで云う自利というのは一所懸命自らの力を励んで、そして即往生・便往生
そして「二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。」これも元々の経文では即便往生と云われているわけで、即と便とが分けられるわけじゃないんですね。一応言葉を見ておきましょうか。三心が出るところにこれがおかれるわけですが、聖典でいうと112頁でありますね。上の段で見ますと前から5行目、「佛告阿難 及韋提希。上品上生者、若有衆生、願生彼國者、發三種心、卽便往生。」とここに即便往生とあります、すなわち往生すという言葉がありますね。これを親鸞聖人は往生には即往生と便往生があると云っています。ちょっと経文からすると無理でしょうね。分けて読むということは、だれも想像つかない話かも知れません。しかしこの三心に自力と他力の三心があるということを見定めるものですから、自力の三心では本当の往生とは云えないという意味で便往生という言葉を出して来るわけです。で、その三心、さっきから何遍も云って云いますが、「何等爲三。一者至誠心、二者深心、三者回向発願心。」これが順序も示されて、三つの心がお釈迦さまによって押えられてますね。で、この三心を具するものが必ず彼の国に生まると、こういうふうに云ってこの三心を備えることを観経は我々に勧めてくるわけであります。一応これは上品上生者というところに説かれてあるんですが、この三心は観経全体に貫かれていると見たのが善導大師であります。親鸞聖人はその受け止めを大事にしています。だから上品上生の人限定ではありません。だからこの前には西に沈む太陽を見るから始まる13の浄土を観る方法が説かれておりますけれども、そこにも貫かれているという意味でさっき見てましたね、「定の三心」という言葉があるわけです、定の三心。「散の三心」というのはこれからあと、散善、まぁ九品ということが説かれますが、こちらにも貫いているという意味で散の三心という云い方をします。だから置かれている場所は上品上生のところですが、この三心を起さない者は定善の修行をした者であっても生まれられない。散善のあり方をしている者でも生まれられない、こういう見方がさっきの云い方、まとめになっております。元へ戻りましょうね、聖典の339頁であります。上の段後ろから3行目。「二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。」と云って「便往生とは、すなわちこれ胎生辺地・双樹林下の往生なり。」と、これ真実報土の往生ではないということを態々云うんですね。これがさっき云いましたが自利各別、人間の、自分の能力やら経歴の方に根拠を置くような信心、これでは阿弥陀の世界に本当に生まれることにはならないということを云っていますね。これが胎生辺地・双樹林下と云います。まぁ、これも言葉説明しましたけれども胎生というのは、胎児のあり方でお母さんのお腹の中にあるときには外が寒くてもお腹の中は寒くないですね、外は暑くてもお腹の中は暑くないですね、まぁ殻に護られているようなあり方です。つまり阿弥陀仏の世界に縁をいただいても自分の殻の中に閉じ籠もっているような、その狭い世界を観ているようなあり方が胎生となります。だから本当の意味の広い世界、誰もが平等に生まれるような阿弥陀の世界に生れたと云えないということを、これ批判的に云う言葉であります。辺地というのは端っこということですね。ま、いい云い方か分かりませんが、私はいつも端っこをかすっとると云うんですけれども、つまり本願のおこころの中心に触れていない、本願を知らないわけにいきませんけれども、本願を知ったと云っても自分の握ったところだけの本願を思っていますから、誰をも救うその本願の本当に中心をずれておるという意味でかすっておると云うんですが、ま、端っこというのはそういう意味です。だからこれも結局は自分の思い描いたところ、自分の想像するような浄土に腰を下ろして行くことになるんですね。で、双樹林下というのは、これはお釈迦さまの亡くなられたときのお姿を譬えに出しております。沙羅双樹の下で命終なさっていかれた、涅槃に入られたわけですが、それを理想的なあり方とするような往生であります。ま、確かに仏教徒であればお釈迦さまの亡くなり方というのが一つの理想になる、これは当然かも知れませんね。が、そのいのちの終え方ということを一つ立てた途端に、そうでないあり方がまたこれ貶められていくことが起きます。ま、双樹林下の往生までなかなか行かなくても、いのち終るときの終え方というのはいろんないいかたするんじゃないですか、やっぱり。畳の上で眠るように死ねたら、あの人は大往生やったと云うわけです。ご承知と思いますが、往生に大も小もないんですよ。にもかかわらずその亡くなり方によって大往生やったてなこという。そして思わぬ形で、事故で亡くなったりね、まさか今日逝くとはと思っているとそれは横死(よこし)にした、横死という言葉が使われたりします。こっちが受け容れられないだけであって、生まれたときからいのち終わるということは決まっているわけでしょ。その死に方について良し悪しを云うことが起きる。だからお釈迦さまの涅槃のあり方を理想とするのは心情的には分からないわけじゃないですけれども、それを握った途端に必ず死に方で人をまた差別していくことが起きるんですね。阿弥陀仏はその意味で云うと臨終の善悪を問わないんです。親鸞聖人お手紙にもちゃんと書いてありますね。臨終の姿は一切問いません。日頃どう生きてきたか、それがどこでどんなふうに終わろうともですよ、阿弥陀の世界と縁を持って生きておれば臨終の良し悪しということから解放されるということをちゃんとお手紙の中でも押さえて下さってますね。そんな意味で、即往生ということをここに立てまして、「即往生とは、すなわちこれ報土化生なり」と、真実報土に化生すると。化生というのは、これまた幅の広い言葉でありまして、一応生まれに対して胎卵湿化と云われる、四生と云いますね。まぁ胎児として生まれて来る、あるいは卵として生まれて来る、あるいは湿り気の中から生れてくる。衆生の生まれ方をこの四つに纏めたもので、化というのは上の三つに当てはまらないものを化生というふうに云ってるわけです。突然ものが誕生して来るようなことも化生という云い方するわけです。ここで云う報土化生というのは、それを云っているわけではありません。さっきの胎生もこれをいってるわけじゃないですね、これは引き合いに出してますけれども、これはいきものの生まれ方を四つに纏めてますけれども、ある意味で重なる部分があるとすれば、私たちが予想できるような生まれ方ではないということでしょうね。あり得ないことが起るような形をとるという意味で化生という四番目が重なることが云われます。でもこの四つの内の四番目という話じゃないですね。で、これどうやって生まれるかと云うと、教えに出遇うところに生き方が大転換するというような生まれ方です。今までの我執中心に生きておったことに死んで、新たな本願を依り処として生きるようなことがスタートするという、こういう生まれ方です。報土化生というのはそういう意味ですね。まぁ天親菩薩の和讃で云えば、「正覚のはなより化生」するというご和讃がありますね。つまりそれは人間の側に根拠を置くのではないんです、今までの資質や能力・経歴に根拠を置くんじゃなくて本願のはたらき、阿弥陀の覚りの智慧の中から生れるとこういうふうに云われます。ですからこれ誰の上にも平等に起るような生まれ方なんですね。さっきの胎生辺地・双樹林下の往生というのは、これは人のあり方によってランク付けがあるような生まれ方なんですね。そうじゃない生まれ方を報土化生というふうに云っています。ま、この辺はまた第20願のところとも重なって出て来ますので、一応これ観経の教説をこんな形で親鸞聖人が整理なさったという見当付けで終っておきたいと思います。一応この辺まで、お話を前回も進めておったというふうに思います。で、それを踏まえて今日、その続きのところ、ちょっと差し掛かっておったんですけれども、そこから読んで行きたいと思います。
観無量寿経の真実
じゃ、339頁の最後の行、ここから読み進めたいと思います。[またこの『経』に真実あり。これすなわち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕わさんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまう。報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。ここをもって『大経』には「信楽」と言えり。如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆえに「信」と言えるなり。『観経』には「深心」と説けり。諸機の浅心に対せるがゆえに「深」と言えるなり。『小本』には「一心」と言えり、二行雑わることなきがゆえに「一」と言えるなり。また一心について深あり浅あり。「深」とは利他真実の心これなり、「浅」とは定散自利の心これなり。]ちょっと一応ここで切りたいと思います。ま、いまずうっと観経の教説を依り処にして、そこには顕の義と彰の義があるという形で、我々を導くために方便として説かれた面とそれを通して出遇わせたい、その奥に隠れているお心とこれが両面あるんやということをずうっと述べて来たわけです。それを纏めてこの観経に方便真実の教えが顕わされてるという言葉から始まって今のところ、いま一応さっきまとめていたところは方便の面を挙げていたんですね。それに対して、今度はまた「この『経』に真実あり」とこういうふうに云います。ま、これも細かいことを前回も云うておったように思いますけれど「この」という字が、親鸞聖人やっぱり大分注意しておられて「この経」という初めの方には同じ「此」という字ですけれども、こういう字が使われていて、表わされている内容、真実が表わされているというときには、「斯」という字を当てておられます。「この『経』に真実あり」は「此」ですね、「これすなわち金剛の真心を開きて」というときは「斯」です。まぁ、こんな短いところでこんな字を使い分けておられるわけですが、これ教行信証の中では全部に統一してあるとは云えませんけれども、方便の巻に来て方便を指すときには「此」を使う時が多いですね。で、真実を指すときには「斯」が多いです。例えば、一番初めの総序でいうと、「専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」というときには「斯」を使ってますね。まぁ、これ字そのものにそんな区別があるわけじゃありません。しかしながら親鸞聖人はやっぱり字の感覚というのは、私どもとは比べものにならない漢字に対する見識をお持ちですから、ま、これを使い分けていかれるんですね。でも、念のために云いますが、真実の巻でも「此」の字が使われているところが沢山あります。だから「此」、方便という意味というふうにいま云ってしまいましたけれども、もうちょっと云うと具体的に表れて来たという、こちらの方を表わす字なのかもしれないですね。形を取ったということです。ま、これ方便という意味もあるわけですけれども、法そのものの世界が具体的に形を取ったという意味で方便に「此」の字が使われることが多いのかなぁということも思いますが、これ私答えを持っていません。そういう見方が出来るかなぁというぐらいのことで全体の法則性を見出しているわけじゃありませんのでね。でも「この経」というときに、観経のことをこれは指していますが、観経に真実があると云ってその内容を表わすときに「これすなわち」と云って「斯」の字で云ってるわけです。
金剛の真心
で、中味が「金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕わさんと欲す」とこうあるんですね、ま、これいろんなことを思わざるを得ない言葉でありまして、まずあとの摂取不捨を表わすという、これは観経にだいたい出て来る言葉でありますから観経はどんな者も漏らさず救いとるということを表わしている経典であります。一人も漏らさないという利益を語るわけです。これも念の為にですが、場所を見ておきましょうか。観経では第九真身観に出て来る言葉でありますけれども、105頁であります。上の段、後ろから3行目の下の方から、「一一光明、遍照十方世界。念佛衆生、摂取不捨」とあります。下の段で云いますと後ろから4行目、「一一の光明遍く十方世界を照らす。」の後に「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。」とあります。摂取不捨という言葉は観経自身に説かれておりますね。これを表わす、ここに要があるというふうに親鸞聖人は見ておられます。この摂取不捨、一人も漏らさないということが観経の真実なんだというふうに云っておられるわけであります。ただよく見るとここ念仏衆生ですわね、仏を念ずる衆生、阿弥陀仏を念ずる衆生は一人も漏れないんです。だから細かいことを云うと、念仏しない者は漏れて行くんですよ、やっぱり。どんな者も救いたいと阿弥陀ははたらきかけるんですが、その阿弥陀の世界に出遇わない者は残念ながらその恩恵に与かれないということがある。これ本願文でも一緒ですね、第18願に唯除が付いているのと同じですわ。仏さんの方がお前はいやだと云って除外するんじゃないんです。気が付かない者はそういう摂取不捨という利益があってもそこから勝手に漏れて行くという、自分の方から外れて行くということであります。ま、これ曇鸞大師の譬えではね、太陽は誰をも平等照らすけれども、それに気が付かない者はその恩恵に与からないというふうに、障りはこちら側にあるんですね。碍は衆生に属すと曇鸞大師は云います。そういう問題なんですが、いまここでは化身土ではその話は出て来ませんけれども、摂取不捨ということ、これが観経の真実なんだというふうに云うわけですね。で、戻ります。340頁ですが、そのときに「金剛の真心を開きて」という、これが大変気になるところであります。金剛心というのは親鸞聖人が真実信心を押えるときのキーワードであります。で、初めはこれ信巻のところ、もちろん行巻にも言葉出ますけれども、信巻で主題的に扱われるものなんですね。なんで信心をいちいち金剛心と云うのか、まぁこれが親鸞聖人の仏道の歩みというか、そこに関ってると思います。例えば菩薩道で云えばこれ不退転という問題、或いは間違いなく仏に成って行くそういう仲間に加えられるというので正定聚という問題、こういう課題に応答するときに、信心を金剛心というふうに云うのですね。金剛の真心と書くところもあります。だからここ真実信心を開きてと云うても全然おかしくないですが、何を云ってるかというと、一歩一歩仏道を歩んで行くという問題ですね。菩薩道では不退転とか正定聚、菩薩の歩みも本当に自分が迷いを超えるだけでなくて、他の迷いを超えさせるという自利利他を担って歩むという意味で大変重い課題になっていますよね。でもそれがやっぱり退転して行くという問題がずうっとついて回ったわけでしょ。それが親鸞聖人が取り上げるところでは龍樹菩薩しかり、天親菩薩しかり、だから浄土を願わざるを得なかったというふうに曇鸞大師も云っていくわけです。あの龍樹菩薩も浄土を説かないといけなかった。あの天親菩薩も世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来」と云って浄土を願っていかれた。菩薩さまでもそうなんです。それぐらい菩薩道、仏道の歩みから退転しないということは難しい、本当に重い問題なんですね。その時に問題になるのがその仏道を歩んで行く信心が本当に壊れないような信心であるのかどうか、金剛堅固の信心です。どんな問題の中でも砕かれない、くじけないという意味で金剛堅固と云われますね、固い。この問題であります。その意味で云うと信心の歩みということを問題にしている言葉なんですね。だから信心は得るのも難しい、阿弥陀によって生きて行くということが決定するのも難しいんですけれども、実は決定した後がもっと大変なんですわ、それがブレていくわけです。阿弥陀によって歩むぞということが、そういう心が起ったとしても、それが現実の中でやっぱり見失っていくという問題がある。だから信心は獲信の難というのがありますが、信楽受持の難とね、これが受けたことを保っていくという課題ですね。この難が信楽受持甚以難といって、正信偈で云われますね。受持することが難しいんです。受けることも難しいんですが、それを保っていく。あれだけ感動したのになぁということあるんですね、それが持たないんです。
私も小松の方でも若手と学習会してまして、もう何年か前になりますが、一人の若手のお坊さんがね、ボクわかりましたと云うたときあったんです。全部が輝いて見えますと云ってね、なんか世界が違って見えてきましたと云って、ものすごく感動して喋ってくれました。で、ボクわざとちょっとけしかけてみたんです。まぁ三日持てばええ方かなと云うたんです。そしたら一週間ほどしてまた会うたんですわ、三日でしたわと云うてました。感動したのも本当なんです、喜んだのも本当。あ、すごい世界に出会えたなというのも本当だったんですが、続かないと云うてました。もうホントに何でもが光り輝いていて、全部が宝物に見えると云うてました。これが仏さんの教えに遇うた利益かなと喜んでたんですが、その感動がもたない。もっと云うとあの感動をもう一度となろうとすればするほど焦るわけです。ちょうど寝られないということになったら、寝よう寝ようと思ったらもっと寝られないのと同じであの感動をもう一度と思ったら、もう聞法どころじゃないです。どうやったら感動できるかみたいな、どうやったらもう一回喜べるかみたいな、そっちの方、体験に縛られてしまうという話を後からしてくれました。だからこちら側に根拠を置こうとするとそうなるんです。感動した自分がなんかすごいという話でしょ、結局。してない時よりも、感動した私の方がなんかすごい体験をしたということが云いたいんです。そんなものを当てにしたらエライことになるんです。 だから念仏によって成り立つのが金剛心なんですよ、これ。私が感動し続けるとか、喜び続けるという話じゃないんです。お念仏のところにまたいただいて行くんです。ああそうだったなぁとまた知らしていただけることが起る、そういう歩みなんです。まぁだからこれ信楽受持、金剛心の問題として云われますが、それが何によって成り立つかと云うと、人間の力ではなくて阿弥陀の本願のはたらきによるということを押えるのが信巻の話であります。人間に根拠を置かないんです。だからその信巻の話題がずうっとここまで、化身土巻まで貫かれてあるということが、まぁここに真実信心を開いてとは云わずに、金剛の真心という言葉で云われることの意味があるように思います。ま、あちこちしてもいけませんけれども、ちょっとだけ金剛心ということが話題になっているところ、信巻で見ておきましょかね。ま、一番初めは210頁、信巻の序でありますが、その4行目に「定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。」とあります。こっちの信はまことの信ずるという字が書いてありますが、つまり定散の自心というのは自分の自力、あるいは自分の努力やら積み上げて来た経歴、そういうことを当てにする心によって、結局は本当に歩み続けるような金剛の真心ということが分からないんですね。自分に根拠を置くもんですから、本願によって歩めるというこちらが見えなくなっています。まぁ
釈迦は至心信楽の願心を宣説したまう
いま読んだところ「またこの『経』に真実あり。これすなわち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕わさんと欲す。」と、これ大変大事な言葉でありますね。そこの続きのところちょっと進んで行きます。今の展開でありますが、「しかれば」はそうであるのでということですが、「濁世能化の釈迦善逝」お釈迦さまをこんな言葉で誉め讃えてますね、「至心信楽の願心を宣説したまう」と。濁世というのは五濁悪世でありますね。これもいつも云いますが、濁世というのは宮城顗先生の云い方がボクは本当によく教えていただいたなと思うんですけれども、大事なことがないわけじゃないと仰ってます。あっても濁っていて見えないんだとこういう云い方をなさいます。だから濁世というのは正に大事なことと大事でないことが区別付かない、そういう世の中を濁世と云うと云うのですね、だから宝物あっても分からないですね。その中にあって、私たちをよく教化して下さる、これが濁世の能化と云われます。しばらく前に善導大師のお言葉で「娑婆の化主」という言葉もありましたが、お釈迦さまは敢えてこの世の中に形を取って現れ出てくださった、そんな意味で私たちにとっては応化身ですよね。人の姿にまでなって下さった仏さん、法であります。応じて教化して下さる。でも、ここを親鸞聖人非常に大事になさいます、具体的な歴史の上に現れたんですね。その意味でお釈迦さまは80年の生涯を終えたと云いますけれども、それはまた私たちを導くためのお姿だというふうに受け止めてます。これは信の巻に出ていますが、涅槃経の言葉を通してそれが押えられてますね。なぜかと云うとお釈迦さまはある意味で衆生教化のためには自分の寿命も、まぁ随意自在なんですけれども、しかしずうっと居るというと怠けてしまう人間おるわけです。あぁいま聞かんでもええかみたいなもんです。だから私はあと三か月でなくなるぞと、涅槃に入るぞということを云わんならん。するとまたそれ勘違いする人が出て来て、なんやお釈迦さまも結局有限やないかという人がまた出て来るという、こういうやり取りが少し涅槃経のところにありますけれども。だからどっちにしても私たちを導くためなんですね。敢えて有限の形をとる、それも応化身なんです。入涅槃ということを示さないとお釈迦さまにいつまで経ってもぶら下がる、独り立ちしないという問題がありますね。入涅槃というのは最後の説法のお姿ですね、これ。だからお釈迦さまはなんか有限だったとそんなことを云いたいために80歳で涅槃に入られたと云うんじゃなくて、それもお姿なんです。その意味で云うと、誕生の姿も我々を導くためのお姿ですよね。全部が教化のお姿という意味では八相化義という云い方しますね。お生まれになる以前もあるんですが、お生まれになる以前の姿から誕生の姿、全部私たちを教え導く、教えなんですよね。これは人間釈迦という云い方をする今の文献研究の世界では大分違う受け止めかも知れませんね。念の為に云いますが、お釈迦さまは人間じゃなかった、そんなことを云うてるわけじゃないんですよ。しかし、私にとってとなったときに、お釈迦さまというのは生まれたことも亡くなっていくことも全部教えを授けてくださったという受け止め方、これが応化身としての仏陀観、釈尊観ですよね。それが親鸞聖人で云えば法然上人にもそれをもちいられるでしょ。皆さんは分かりませんが、私は始め法然上人の和讃を読んだときには、いくら何でも、自分の師匠といえども、持ち上げ過ぎじゃないかと思ったことありました。だって阿弥陀如来来化してと仰るわけです。阿弥陀如来が法然上人の姿を取ったと。いやぁ自分の師匠を尊敬する気持ちは分かるけれども、ちょっと云い過ぎじゃないのとどっかで思ってました。でもそれは結局仏さんってなんだという話ですよね、これ。法然は人間だということを頑張って云おうとする、その根性は何なんでしょうか。そうじゃなくて法然上人は確かにお一人の人間としてこの世に生きられたけれども、私にとってあれが正に仏さんの姿でしたということでしょ。ある意味で凡夫としての苦悩も抱えられておるわけです。しかし、その苦悩の中にあって生きる道を見せて下さった。云ってみれば、流罪に遇うてもですよ、そのことでくさらずにそして仏法を輝かすような生き方を見せてもらった。ものすごく大きな教えじゃないでしょうか。だから法然は結局一人の人間じゃないかということにどれだけの意味があるんでしょうね。まぁそれが今はどうしても流行りの方向でして、人間仏陀としてお釈迦さまの実像を明らかにするというのは盛んですけれども、そうなるとお釈迦さまの足の大きさは何センチぐらいだとか、そんなことが研究対象に本当になるんでしょうかね。肌の色はどんなんだったろうか、知りたい気持ちもあるかも知れませんが、ボクはそれは殆んど週刊文春と変わらないと思いますね、そうなると。あ、すみません、特定の雑誌のこと云う必要なかったです。それは興味の対象であるかも知れませんが、知ったところで自分の人生の生き方に何か影響を及ぼすでしょうかね。知識として釈尊トリビアみたいなことが増えるだけで、結局教えとして私は何をそこから頂戴するかということを抜きにしたら、お釈迦さまといえども、単なる客観的なただの研究対象になってしまうんですね。だからお亡くなりになったことも私への大きな大きなお導きだと云うのが、さっきからいう応化身、そういうお釈迦さまなんですね。その意味で云うと親鸞聖人はどなたに対してもそういう眼を持っているということ、お釈迦さまは当然でありますけれども、法然上人、あるいはちょっと遡って聖徳太子。私たちからすると多分に伝説的なことをなんか批判もなく受け入れられているように見えるんですが、そうじゃなくて、そういうふうに仰がれたということでしょ。ただ人とは思えないと。例えば聖徳太子で云えば、49年しか生涯ないんですが、49年であれだけのことを果し遂げられたとはとても常識では考えられないとなった時に、それは中国では南岳慧思としてお仕事なさった、インドに行けば勝鬘夫人だったと、こんな伝説がお経に沢山、伝記にあるのを取っておられるわけです。まぁこの辺、応化身としての釈尊であり、自分との関係の中で仏をどう仰ぐかということです。ちょっと話が横へ行きましたけれども、これ実際仰ぐ人にとってしか仏さまというのはあり得ないんですね。ま、これお釈迦さままで遡ってもいいですが、お釈迦さまは誰もが認める仏陀として、いまお釈迦さまの存在を否定する人はないですね。しかしながらインドでお釈迦さまに会うた人でも、お釈迦さまを仏として仰げなかった人もいるんですね、やっぱり。お釈迦さまの話、あんなものは何の役にも立たんと云うた人います、或いは商売敵のように思った、彼が出てきたためにワシらの宗教が廃れたやないかと云う人も出て来たわけです。その人らは仏陀、釈尊として仰いだと云うわけにいかないですよね。もっと云うと、お釈迦さまのお弟子の中でも、説法を直接聞いた人の中でもお釈迦さまに背く人もいたわけです。ま、そういう意味では仰ぐ人にとって仏さまとなり得るわけです。でもこれ私たちの身近なところで云えば、身近な人をあの人のお蔭で仏法に出遇えたとなったら、私に取っては身内であってもですよ、あの人は仏さまのおはたらきをして下さったという、仰ぐこと起きますよね。だから誰が仏さまですか、誰が仏さまじゃないんですかという、そんな決めてレッテル貼るような話とは全然違うんですね。その意味で釈尊のことをここでは「濁世能化の釈迦善逝」と、こんな言葉で云っています。「善逝」という言葉も善く逝ったという字ですね。元々は如の世界に行ったと云う意味ですから、如に去ったという意味では「如去」というふうに訳されるものもあります。それに対して私たちのために来てくださったという意味で「如来」というふうにも云われます。まぁここは如来と云っても全然おかしくないですね、濁世能化の釈迦如来と云ってもいいんですが、善く逝った方を書いておられる。何故かなぁというふうに思いますけれども、敢えて云えば如の世界に行かれた方、如の世界に本当に帰られた、出遇われた方とこっちの面が出ています。そこに立って私たちのために今度教化をして下さっているということなんでしょうね。だから「如去」と「如来」というのはもともとは切り離せない言葉なんです。お覚りを開かれたというのは「如去」です。覚りに立って私たちを教化して下さるというのが「如来」ですね。両面あるんです、片方だけということは絶対ありません。善く逝った人、そっちで終らないです。善く逝ったからこそ今度は如の世界を知らない我々のために来て下さっていると云う、こっちの面なんですね。その意味で限定する必要ないですけれども、善逝というのは一般の云い方でありますけれども、これは阿弥陀の世界に善く行かれた人というふうに読んでも良いようにも思います。お釈迦さまをこう仰がれて、そしてひと言云うのが「至心信楽の願心を宣説したまう」とあります。これはちょっと話が必要になると思いますが、これ「またこの経に真実あり」と云って、これは観経のことを指して云っているんですが、観経はどこを開いても至心信楽の願心というのは文字では出て来るわけではありませんですね。でもこれ観経の真実というのは、そこに至心信楽の願心が述べられている、説かれているというふうに親鸞聖人は受け止めているわけであります。もうちょっと後読んでからにしますが、「報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。」と。ですから、さっきも云いましたが「金剛の真心」という言葉もこれ信の巻以来ずうっと息の長い文章でこれ連なって来ておるような言葉でありましたが、「至心信楽の願心」というのは文字通り信巻の主題ですよね。だから信巻で云われていること、そこに返そうとするのが、実はこの観無量寿経のお心なんだということをここで敢えて確かめているわけです。だからこの経の真実というのは、真実は至心信楽の願を宣説することにあるんですが、そのためにあの手この手の方便があるということですね。だから要は大経と寸分たがわないわけです。云いたいのは至心信楽の願心、これなんですね。で、ちょっと前にもお話ししておりましたけれども、三願をね、これが第18の願ですが「至心信楽の願」、第19願が「至心発願の願」、そして第20願は「至心回向の願」、これ三つを対比させて親鸞聖人は教行信証の柱にしておられます。特に信の巻とこっちが化身土巻でありますけれどもね、三つ対応させるために特にこの願の名前を取り上げておられるというふうに云うことが出来ます。ま、昨今ね、この至心信楽というのが、もともと明恵上人が『墔邪論』という本の中で法然を批判するために使った言葉だと指摘がなされておりまして、そういう面もないわけではありません。でももしかそれだけをこの願の名前を取った理由だとすると明恵に対抗するためにこの言葉を使ったみたいな話になるんですね。教行信証はボクはそんなちっぽけな本ではないと思います。明恵に応答するということは有ると思います。でも明恵が使ったから、それを逆手に取ってみたいな、そういうなんかうっちゃりかけるというような話ではなくて、どこまでも顕真実なんですね。本当のことを表したい、真実の仏道を開顕したいこれが教行信証ですから、明恵上人が使った言葉が発端になっているとは云えると思いますが、そのためだけにこれを使ったとはても云えないと思います。で、ちょっと云うた序でですが、明恵上人はなんでこの言葉に注目したかと云うたら、法然上人は第18願を「念仏往生の願」と云ったんですね。でも言葉とすると第18願は乃至十念とありますけれども、そこに至心信楽もあるわけです。で法然上人はこちらだけを取ることによって、たった十遍の念仏で一人残らず往生できますよというふうに云った。だから、個人個人が起す菩提心は不要であるということを云ったわけです。そしたら明恵上人はちょっと待てと云うんですね。菩提心、覚りを求める心を起さぬものは仏教ではないと、そんなもの仏教徒と云えるかと、こういう批判しまして、で、あんたが大事にする第18願にはちゃんと至心信楽という信心を表わす言葉があるじゃないかと、これは伝統的な言葉で云えば、菩提心のことやと云うわけです。だからあんたは念仏一つで助かると云うかも知らんけれども、ちゃんと大経の本願が信心、菩提心ということを云ってるじゃないかと、こういう批判なんですね。それで親鸞聖人はこれを注目するんですが、親鸞聖人が云うのはこれは私たちが起す菩提心ではありません。さっきから云ってるように、如来からのはたらきかけによって誰の上にも平等に起こってくるような目覚め、気づきそういうことなんです。私がその気になるという信心と違うんです。そんなものは昨日起してみても、今日無くなったりするんですよ。ある時には深いような気になったり、ある時にはさっき云ったようにその感動が消えたりするんです。そんなもので仏道を歩み続けるなんてありえない、出来ないんですわ。本願に導かれて歩む、その意味で如来より賜わりたる信心だと云って、これを云い直します。だから明恵の批判も受けてるとは云えますが、全然言葉の意味、あなたの云ってるのと違いますよというのは親鸞聖人あると思います。で、もう一遍云いますが、明恵上人をやっつけるための本ではなくて、批判している明恵上人にも救われて欲しいという思いが親鸞聖人にはあったに違いないと思っています。この浄土の教え、念仏の教えを批判する人にも、あなたらの願いも満足するのはここですよと云うんです。そしてこれに対して、私たちが頑張って起すような信心は却ってこちら側ですということを云うのは、19願・20願で至心発願あるいは至心回向という言葉に着目していくんです。だから同じ信心と云っても本当の真実信心、本願のはたらきによって誰の上にも平等に起こるような信心と、それから自分の経歴やら能力やらによってバラバラなランク付けがあるような信心とは全く違うということを云う、これが化身土の述べ方になるわけです。だからこれが信巻と化身土巻、場所は分かれておりますけれども課題がくっついておるもんですから、ここに至心信楽の願が宣説されているというふうに押さえることになるんですね。ま、これ文字のことから云えばちょっと無理でしょうね、だって観経のどこを探しても至心信楽の願と云ってるわけじゃないですから。ただし、その言葉に出ていなくても、その背景にある、それをずうっと顕彰隠密ということで尋ねて来た、その結論部分にあたるところが今のところなんですね。で、それをまとめてもう一回読みますと、「しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまう。報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。」報土というのはさっきから云います、真実報土。阿弥陀仏が一人も漏らさないと誓ったその本願に報いた世界ですね。その本願に答えた、詳しくは本願酬報の土と云いますが、それを報土というふうに云っています。報土に生まれる真因はどこまでも本願のはたらきによって起る真実信心しかない。ま、これが信の巻での親鸞聖人の確かめでありました。
信巻の信楽釈
一ヶ所だけ、ちょっと見ておきましょうかね。至心信楽の意味を尋ねる文脈で、228頁を開いてみて下さい。これ信楽釈といって信楽の言葉の意味を親鸞聖人が丁寧に確かめておられるところでありますけれども、ちょっと前の頁からどうしてもみないといけませんかね、227頁後から4行目から見ますと、[次に「信楽」というは]、普通に読めば、これ至心に信楽して我が国に生れんと思えと云ってますから、私たちが起すべき心として説かれてあるように見えるんですよ。至心というのはまず心を至す、徹底してまことであれということです。で、信楽というのは信じ願うという言葉です。だから徹底して真実に立って信じ願えと、そして我が国に生れようと思えという呼びかけてる言葉に見えるんですが、しかしそれを押えるとこうなるんですね。[次に「信楽」というは、すなわちこれ如来の満足大悲・円融無碍の信心海なり。]こんなふうに云う、人間が起すような心ではないということをスパッと云うてしまうんですね。如来の心だという。これがまた難しいことですわね。如来の心と云うたって、ねぇ、どうやって私たちのところにやって来るのか、これ真実・不真実と云う方がいいかもしれませんね。あるいは、如と不如という方がいいかも知れませんが。私たちは本物に触れるまでは自分が握っているものを疑ってないわけです、これが大事であるとか、これが価値があるとか。本物に触れたときに初めて不真実ということを知りますね。だから真実に触れるまでは不真実もないんですよ、これ。全部本当だと思い込んでるだけだと。それを仏教の本当にお釈迦さまが目覚めた世界では如と云うわけです。ありのままの世界です、価値付けを離れた、そのようにあるという。何々の如しと云う字を書きますが、それに触れたときにそうでない、如でない世界を握っておったということに気が付かされる、こういう関係ですよね。だから如来の心だと云いますけれども、私たちの中からそれは出てくるのではなくて、それを教える教えを通して、教えの言葉を通して本当の世界はこうだぞと、如の世界はこうだぞということに気が付かせるということが起きるわけです。出会ってみれば、真実がこれだったかということに気が付く時に不真実に気付く。別な云い方で云うと、清沢先生はこっち、無限・無量に触れたときに初めて自分には有限だったということが気が付く、有量だったということが分かる、こういう云い方もなさいます。だって日頃智慧とか慈悲とか人間にもないわけじゃない、人を慈しむ痛む心ないわけじゃないのですけれども、でも無量・無限のそういう智慧・慈悲に触れたときに、あぁ私の慈悲或いは智慧というのは限りがあったなと、狭い範囲だったなと本当に知ることになります。何でも出来るように思っているだけで出来ないことがいっぱいあったということに初めて気が付くということがある。そういう意味では気が付く縁はいろいろ与えられているんですけれども、それを本当に認めることが難しいんですよね。だから如来がなにかボーンとやってくるというそういう話じゃなくて、教えを通して我々の不真実に目が覚めるところに、真実を今度は聞いて行く、戴いていくということが起るわけであります。この辺がなかなか難しいのは二元的に説くしかないんですよ、向こうは衆生の側でこちらは如来の側です。衆生と仏さまというのは対立する形で説かないといけないのですが、二元的に説くと今度は何か外から別ものが注入されるように思ったりするものですから、ここはまた難しいんです。曽我量深、清沢満之の感得
だからこの辺、先輩方は本当に苦労なさってて、大谷派で云うと曽我量深先生、一番それに取り組んだと思います。如来に救われるということが果してこれ仏教の伝統に適うものなのかという問題なんですね。だって自らが智慧をもって真実に目覚めていくという、お釈迦さまはそうなさったわけですから、私たちもお釈迦さまのようなことを目指すべきじゃないかというのが仏教の基本だとずっと思われているわけでしょ。その中に阿弥陀によって助けてもらうというのは、なんか甘えた、他者が介在してくるわけですから、おかしいということが云われるわけです。そこに曽我先生は如来が我を救うというけれども、それは如来が我となりて我を救うんだと、こういう云い方をなさるわけです。如来が我となるとは法蔵菩薩が本当に迷いの真只中に誕生して来ることだと、こんなことを。また難しい表現でしたね。法蔵菩薩どこにいるんやみたいなことにまたなるんですけれども、そう云わないと如来によって助けられるというこの二元論がなかなか超えられないということになるわけです。しかし二元的に説かれることにはまた意味があって、曽我先生もうひと言云いますね、如来我となりて我を救い賜う、されど我は如来にあらずと、こう云うわけです。だから如来がどっかに居って、なんか私たちをつまんで救ってくれるという、そんな話じゃない。私の現実の問題のところにまではたらいて来て立ち上らせてくれるという、私の生きる力にまでなるという、こういうことを仰ろうとするわけです。しかしだからと云って、私が如来になってしまったとは絶対に云えない。私はいくつになっても何年教えを聞こうが、その教えをいただき続ける、その力を頂戴し続けるとしか云えない。だから分けて説けばどうしても二元的な説明になる、でもそれを一元化してしまうとまた危ういんですわ。私は如来になったみたいな、もう覚ってしまったみたいな、そういうことにもなってしまう。ま、その意味では浄土教は敢えて仏と衆生という二つを分けて、特に浄土と穢土とかね、分けて説く説き方をしてきたんですが、二つあるという話じゃ実はないんですよ、これ。救われるというのは一つの事実です。だから現実的には真実に触れたところに自分が不真実であったと目覚めるという、ここに今までと生き方が変ります、必ず。だって不真実を根拠に生きるわけにいかないわけですから。これを本当だと思っている時はそれを振り回しているんですけれどもそうじゃなかったと気が付けば、自ずと世界の見え方も変われば生き方も変わるんですね。だからこれ清沢先生の云い方ですが、宗教というのは有限と無限が接するところにあるという云い方してますね。内とも外とも云えないと云うんです。無限が内にあると云えば内在的な表現になります。外と云うとなんか他者から救われるようなことになってしまいます。外とも限ることは出来ないし、内側にあるとも云えない。これ内在と超越という問題なんだそうです。これ、でも片方に出来ない、両方の表現を取るのがギリギリのところなんですね、やっぱり。まぁ、でもこれはだから立てたものです。我々のどうやって救われるかということを説明するために言葉として立てたものであって、如来がどこかにおるんじゃないです。その間はやっぱり仏さんお願いしますと云うてね、他者としての如来にぶら下がるような救いになるでしょうね。その辺がさっき云いました曽我先生が如来が我となってくださる、法蔵菩薩、苦労をほんとに担って下さる、そこまで来て私を救って下さるとこういう云い方をなさることになるんですね。ま、ちょっと話しましたけれども、この親鸞聖人の表現はいま云うたような言葉は出ませんけれども、この親鸞聖人の如来の至心であるという、如来の信楽である、如来のこころであるとはどういうことかということを清沢満之先生やら、曽我量深先生やらが格闘する中で仰ってくださったことをちょっと紹介したわけであります。私たちに真実はない
で、なぜそうなのかと云うと、我々には真実はないということを云って来ます。それが228頁の方に行きますね、あ、227頁の最後の行から行きますか、「しかるに無始より已来、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せらて」我々の迷いをこんだけ言葉重ねてますね。無明の海に流転し、諸有の輪っかにぐるぐるグルグル回って惑っておるわけです、そして衆苦輪、諸々の苦、沢山の苦に縛られておると云ってますね。「清浄の信楽なし。法爾にとして真実の信楽なし。」と云ってます。だから真実信心を起せというふうにたとえ呼び掛けられても、私たちにそれがない。じゃどうするかと云うときに如来が真実をもってはたらきかけて下さるという、こういうことをこの中で云おうとしておられるわけであります。もうちょっと行きます、「ここをもって無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得しがたし。」と。信心というのは普通は仏門に入るこれ出発点ですね、信心起こしてから入門する。その意味では起こしてて当たり前と云われるようなものですが、それが実は大問題なのだということを親鸞聖人云うわけです。私今日から仏教徒になりますと宣言したとしてもですよ、なに目指してるかが非常に怪しいわけです。頭を剃って衣を身に着けることは出来るかも知れませんが、それはその業界の中で一番になろうとしているだけかも知れませんものね、それはそれだったら世間信ですね。本当に仏教に生きるということは頭を剃って衣を着けるというような格好の話じゃないはずです。だから信心というのは出発点のようですけども、その出発点が一番の根本問題なんですよ。怪しいんですよ、仏法をいただいて歩むということにならない、これがここで無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得しがたしと云ってます。で、「一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。」と云ってます。いまちらっと云いましたが、貪り愛着の心によって、善き心というのは迷いを超えて行こうとする心、も汚して行くんですよ。同じ仏法を学ぶ仲間同士ですら諍いするんですわ、あいつに負けたくないと云って。瞋憎の心というのは怒り憎しみの心でしょ、これで法財を焼くと書いています。お経を読んでおってもそれがお経にならない。あいつの方が理解深いとなれば、嫉妬の炎でお経が読めないかも知れませんね。まぁそういう私たちが仏教に関ることの難しさを云うています。正体が貪愛・瞋憎の心なんですね。だから仏教の言葉を使って人をね、切り刻むことも起きるんですよ。人を排除することすら起きますね。で、それを譬えでありますが「急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども」、これもと善導大師が仰ってますが、一所懸命、急いで慌ててですわ、頭燃ですから頭についた火の粉を払うようにすれどもです。これもっとも慌てて緊急課題に取り組んでいる有様でしょうけれども、全部が[すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。「虚仮・諂偽の行」と名づく。]と云います。毒が混ざっておると云うんですね。仏教のことやっていると、いろんなことがそこに混ざって来ておる。善でないとまでは云ってないですが、雑毒の善なんですね。それから虚仮・諂偽というのは本当でない、「諂」というのはへつらうというふうに親鸞聖人フリガナを付けられます。諂い偽る、へつらいというのは人の評価を気にするということでしょうね、誉めてもらえるんならやるんですわ、でも結果が出ないんだったら、あほらしいと云ってやらない。こういうのが諂いでしょうね。ま、これももともと大経の五悪段に出る言葉でありますけれども、やることなすことが全部雑毒・雑修、虚仮・諂偽だと云ってます。まぁこれ前にもお話ししたかもしれませんが、関西弁ではまだ残っているんですけれども「そんなどくしょうな」という言葉があります。まぁ今は日常会話ではほとんど使いませんね、関西の人も。落語に出る位かも知れません「そんなどくしょうな」という、あんまりにも酷いというときに使います。でもうちらの方では、まだ蓮如さんやらのご縁もあるのかも知れませんけれども、日常会話で使うお年寄りが僅かですけどもいますね。どくしょうなとこれ他人に対して云うんじゃないですよ、自分のことです。これはどくしょうなという関西弁のことと重なったかも知れませんが、ここは虚仮雑毒の性ということやとボクは思っています。これ雑毒ですわ、良いことをしておってもそこに全部毒が混ざっている、あるいは大事なことに見せているけれども全部それ本当でないという、虚仮雑毒の性という、こんな言葉がなんとかまだ残っています、もうほとんど云う人ないです。自分のことを毒性やという人は数えるほどでありますけども。でもそういうことが本当に見えれば、私が頑張って信心しますとそんな話にならないです。私が信心起こしますということにならない。そこにさっき云いましたが如来の教えに導かれて歩むほかないということが決まるんです。これが本当に見えないと、今日から頑張ればなにか清らかなものが自分から出て来るかのような錯覚、これ捨てられないですね。その意味で本当にさっき云った言葉で云えば、教えに背くもの、本当に阿弥陀の世界から逃げ続けるような自分、こういうことが見えるところに私が頑張ればということではないということが自ずと決まるというふうに云えると思いますね。ま、ちょっと長々と読み過ぎたかも知れませんが、この信楽と云うことが如来の心として信の巻に出ているということを見てほしくて開いていただいたわけであります。大経の信楽、観経の深心、小経の一心
じゃ、ちょっと戻りましょうね、340頁。だからこれ観経にも真実があるということを云っているその文脈なんですが、そこで[『大経』には「信楽」と言えり。如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆえに「信」と言えるなり。]だからここも如来の誓願が疑い、「疑蓋」の「蓋」はこれ煩悩に覆われているという字でありますけども、そういう煩悩による疑いがまじわらない、どこまでも如来の誓願を表わす言葉としてここに信楽を押えてますね。だから私たちが起す信ではないんです。で、[如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆえに「信」と言えるなり]と、ここも信楽と書いてもいいんでしょうが、そういう信心だということを云うために「信」という一文字を特に挙げているのかも知れません。それは観経では[『観経』には「深心」と説けり。]とこうあります。これも何回か読んで来ましたが、観経の説かれる至誠心・深心・回向発願心、これを信の巻にも引用してるところありましたね。そして化身土にも引っ張ってるところあるわけです。化身土の方はまことをいたしなさいよと深く信じなさいよと私たちに起こすべき心として云われるんですが、ここはそういう文脈ではありませんね。如来の本願のはたらきによって我々に起る信心、これが観経では深心と云われてますよと。こちらの方は信の巻で引かれていました、二種深信なんかがそうでしたね。だからここが本当になんと云うのか、信の巻と対比をしながら読んで行かないといけないという意味で化身土を読むのはなかなか大変だという面ありますが、でも観経には真実信心を深心という言葉で説いていますよというふうに押さえているわけです。で、この深いというのが[諸機の浅心に対せるがゆえに「深」と言えるなり。]と。諸機の浅心というのは、情況あるいは状態に応じて起すような信心は、これは深心とは云えないということですね。能力やら資質、経歴によって起きるような信心ですから、ランク付けがあるようなものです。それはどれほど人と比べて深いと云ってみても浅心だというんです。本当の信心じゃないんですね。だから深心というのはそういう機に応じて起すような信心とは違うというんです。で、さらに[『小本』には「一心」と言えり]と、これはまた後で出て来ます、20願のところで出て来ますが、阿弥陀経では一心というふうに云われると云うんですね。でそれは[二行雑わることなきがゆえに「一」と言えるなり。]阿弥陀仏の名号一つということに決まる。その面を一心というように阿弥陀経は説く。つまり三経ともに真実信心を勧めているということが、大経では信楽、観経では深心、阿弥陀経では一心と云う、こういう言葉だというふうに云ってるわけです。ところがそのあと、また続くでしょう。[また一心について深あり浅あり。「深」とは利他真実の心これなり、「浅」とは定散自利の心これなり。]と云ってます。ま、これが後から出る阿弥陀経の一心の二つの意味ですね。阿弥陀経の一心にも二つあるんです、だから。結局私が頑張って起すような一心、これは浅いと云われてます。「浅」とは定散自利の心ですね。善であるということにこだわって自分で励まして起すような心、そういう一心です。今日から頑張らないかん。もちろんそれも大事なんですよ。しかし、頑張らなあかんて頑張ったら、必ず私ほど頑張っている者はおらんとなっていくんです。なかなか厄介でしょ。努力は大切なんですが、努力したことに執らわれるという問題、ここが今度20願で洗い出されてくる問題になります。だから一心と云うても二つありますよということを前もって云ってるんですね。それに対して「深」という深い一心というのは「利他真実の心これなり」と。利他というのは何遍も云いますが、如来の利他であります。如来が他を利する、それによって起る真実の信、そういう一心です。だから一心にも二つあるということをもう予め云っているというのが、ここの文脈なんですね。ま、大分ちょっと言葉の説明に終止しましたが、今日読んだところは観経に真実があるということを云って、これは決して大経と別な話ではなくて、大経と本当に重なっているということを云っています。表現は違いますね。今まで述べて来たのは観経では私たちの努力意識に応答して頑張れということを云うてる面を方便として見てきたわけです。しかしそれを通して出遇わせたいものは、大経と本当に通じ合っていますよということを押えた言葉ですね。だから大経の信楽という言葉、それと観経の深心、これは一つだということをここで云ってるわけであります。まぁこれはただ信巻で云えば、とっくに深心釈を引張ってますので、真実信心を表わす面は信巻を読めば分かるんですが、ここでさらに念を押しているのが、意味を読みとることが出来ると思いますね。方便に腰を下ろす危うさ
ですから、もう一回だけ云いますと、観経は我々を導くための非常に分かり易い方便の説とそれを通して出遇わせたい、気が付いてほしい世界が同時に説かれておるということであります。で、方便に拠らないと真実に出遇えないんですが、方便にやっぱり腰を下ろしていくことの危うさ、これをちゃんと見極めなさいということも云っていくんですね。それが次に続いてくことになります。詳しくは次ということにしたいと思いますが、ちょっと入っておきましょうかね、もうちょっと。[宗師の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸・頓すなわちおのおの所宜に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れり」と云えり。]これ善導大師の観経の註釈書、観経疏といわれますが、その玄義分の冒頭に出てくる言葉です。「宗師の意に依るに」と括弧して善導と補ってありますが、その心によって勝行を起こす、「門八万四千に余れり」ということですから、まぁいろんな道があるということを云ってるわけです。「漸・頓」というのは、ゆっくり時間のかかるあり方も、「頓」というのは速やかに、たちまちに迷いを超えていくというのも、まぁ縁によっていろいろあるけれども、「おのおの所宜に称いて」ですから、よろしきところにかなって、そして「縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れりと云えり」とこう云われます。だから道はいろいろあるよとまずここで云ってるわけです。入り口はどこからでもいいんですわ、必ず解脱を蒙ることが起りますと、こういう励ましをして下さっているんですね。ところが、「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。」とこう来ます。これは善導大師が道はいろいろありますよと勧めて下さって、観経はその中で定善・散善を教えてくれているわけですが、その説明を用いながらも親鸞聖人は、それは難しいという話にしてしまっていますね、「定心修しがたし」と、これ三昧に入る、心が定まるということですが、ウロウロする私たちの心からすれば三昧に入るということは非常に難しい、ほとんど不可能という意味で云ってます。「息慮凝心」これおもんばかりを止めて心をこらすという字ですね。善導はもともと定心というのは息慮凝心のことだと云ってるだけなんですが、親鸞聖人は定心は修し難い、なぜかと云えば、慮りを止めて心をこらさないといけないからだというふうに云い切っています。道はいろいろあるんだけれども、それが本当にやり難しい遂げるということことは難しいという文章にしてしまっています。じゃあそんなら散漫な心で行う善ならいいかと云うと「散心行じがたし」と云っています。こちらはこちらでまた難しいんですね、「廃悪修善のゆえに」と。悪を止めて善を修しなければならないからです。話としては分かりますね、悪いことは止めましょう、善いことをしましょうと、もうちょっと云えば、他人を傷つけるのは止めましょう、生き生きといきることを取り戻しましょうと。出来ればそれに越したことないんですわ。しかしそれだから難しいんですという親鸞聖人の云い方になっています。だから道はいろいろあるかも知らんけれども、あれも難しい、これも難しい、これが私たちの現実ではないかということを「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、散心行じがたし」とこんなふうに云っていくんですね。だから道はいろいろあるから、どこでやっても勝手だろうとこうはならない、いろいろあるように説いたのは、実はそれは方便の教えであって、それを通して本当に立つべきところはどこかと、ここまで話を引っ張っていくことになります。
これはちょっと次回ということにしたいと思いますが、今日読んだことで云えば、観経に説かれる真実のところ、そこに導きがあります。導くためにあの手この手で教えは説かれてあるんですが、あの手この手で説かれてあるところに、じゃこれやればいいんですねという、そういうわけにいかないんですね。まぁ本当にやってみれば判るはずです、これ。廃悪修善ひとつとっても今日からいきもののいのちを絶対に取らないという、そのこと一つでもいいです。本気で守ろうとすればそれがいかに難しいか、ま、これが親鸞聖人が「散心行じがたし」、「廃悪修善のゆえに」と、こんな言葉で押さえているような人間観になってくると思いますね。だから教えの方の話をしてきましたが、今度は機の問題ですね。本当に出来るのかという、こちら側の問題を突き詰めて、だから依るべきは本願の一道であると、ここまで話が進んで行くことになります。
ま、見当付けだけであります。まだずうっと文章続いてますんで、まぁ長いところですが、19願に基づいての観経の教説を押さえ直す、そういう部分を今日も読んだということであります。始めにも云いましたけれども、大変ややこしいようなことでありますけれども、辛抱してお付き合いいただければありがたいと思っております。