『教行信証』の化身土巻を読む(21) 一楽 真 師
2017/ 12/ 22
基本的に化身土巻は第19願と第20願のお心に従って、我々を導いて下さる如来の本願のはたらきを尋ねて行く書物であります。ずっと読んで来たのは第19願のお心に基づくものでありまして、何遍も申し上げて来たことから云うと、真実に対して方便というと、どうしても軽んじられてしまって本当じゃないという見方をなさる人もあるんですが、親鸞聖人にとっては方便はどこまでも如来の方便、如来が我々を真実に導き入れるためのはたらきかけだとご覧になっています。ただもう一つ、大事な意味を持っているんですが、方便を方便と知らずにそれを握ってしまう危うさ、これも同時に語っていらっしゃるものですから、どうしても方便化身土巻は読むのが難しいという問題を抱えています。始めから単に方便だと、真実でないんだと云ってしまうのであれば簡単なんですが、方便を立てないと我々がなかなか真実に行こうともしないということであります。例えば極楽という言葉一つをとってもそうですね。非常に踏み込んだ表現でありまして、極楽と聞くとあぁそれなら行ってみようかとなりますけれども、涅槃の世界と云われて我々果たして関心が動くでしょうか。涅槃なんて求めるはずもないというものを持っています。極楽あるいは安楽と云われて、漸くそれならばという心が起る。しかし私たちが思うような楽が転がっているわけじゃないということも云わんならん。この辺の方便の、それを通してしか呼びかけられないという面と、方便として立てられたものが文字通りあるわけじゃないという二面性を持っているということです。これが観経の顕の義と彰隠密の義ということで押さえられて、それが観経を受け止めた善導大師のお言葉を中心にでありましたが、前回は浄土論註のお言葉と安楽集の言葉を読んだわけであります。普通の七高僧の順番で云えば、龍樹・天親・曇鸞と行きそうですが、観経を受け止められた善導大師を中心にして、まずは善導大師の引用が出ていて、その後に曇鸞・道綽という形で、一応引文群の区切りがついたところまで来ております。それで今日は次のところ、338頁最後の行から、御自釈を読んで行きたいと思います。
大経・真→仮
もう一回云いますが18願から19願20願が発された、これが大経は「真実方便の願を超発す」と押さえられる言葉の意味であります。それに対して観経には「方便・真実の教を顕彰す。」とあります。観経には定善と散善、定散二善とも云いますが、これが説かれています。定善というのは心を静かに止めて阿弥陀仏の世界を念じて行く、仏道の行を勧めます。でもそれを出来ない者にも道はあるという形で、定善を修められない者にも出来る善、散漫な心のままでも積むことが出来る善も説いて下さっていますが、いずれにしても善を積むことをまず勧めるわけです。ただそれを通して本当に善を徹底しようとすれば、徹底できない我が身が必ず見えてくる。これが観経の一番云いたいところだと読み取ったのが善導大師でありました。もう読んで来たところを繰り返すことはしませんけれども、善導大師の読みがなければ、観経には分量的には定善十三観のところが一番多いわけですから、誰が見ても西に沈む太陽を見よから始まって、仏さまの姿を思い浮かべると云うものすごく具体的な行法を説くためのものだと見えます。しかしそれに敗れたところにも道はある、もっと云えば散善すらできない、悪を造る者も見捨てないということが最後の最後には云われます。これが称名念仏一つなんですね。ここに導くために徹底的にやってみろということを教えているのが観経ということになります。だから方便の教えを立てて、最後には南無阿弥陀仏を称えること一つで、一人も漏れないというところまで引張って行きたい。このことを「方便・真実の教を顕彰す」という言葉で云おうとしているわけです。この辺知識として知ってしまうと、なんや結局はこれはせんでもええんかと聞いてしまう。これだけでいいのか、答えが出とるやないかみたいなものですわ。だから方便が段々軽くなってしまうんですね。でもこれはここに頷けない者を導くための教えですから。答えは一緒かも知れません、でもここを潜っているのと潜っていないのとだいぶ違いますね。やりもせずにナンマンダブツ一つでいいんでしょう、それなら私やりますわみたいな、そんなこととは違いますわね。どうも信じられない、ナンマンダブツで助かるといくら云われてもいただけませんということになったら、これを潜ってみろということです。善を徹底してやってみろとね。ところが一つのことでも難しいんじゃないんですか。例えば日常のことで、殺生するなと云われてみれば、本気で殺生するなということを守ろうとしたら、殺生しまくって生きているということが初めて分かる。他のいのちを取らずして生きられないということを知らされる。そこに我が身の業、あるいは罪深さということを初めて知らされる。だから私たちは親鸞聖人のように比叡山に上ってというようなことはしていませんけれど、日常生活の中ででも我が身の業の深さ、罪の重さを知る道が観経を通じて知らされるのですね。そういう意味で顕の義に依っては違うけれども、念仏一つで一人も漏れないというここは同じだという意味でしょ、彰の義に依れば一つだというさっきの結論になるでしょう。そういうことを親鸞聖人はお経が説かれたそのお心も含めて尋ねて行っておられますね。
ここだけでも大変ですが、あとの20願のところをちょっとだけお話ししておくと、最後のところ、この中にもまた方便を親鸞聖人は見て行かれます。だって朝から晩まで称名念仏一つでそれ以外に何もやっていないという人が現れても、実はそのやってる心が問題だということを云っていくのが20願のところなんです。つまり称えたことによって何かご利益を期待するとか、自分のやっていることを誇るとかに落ちて行く。結局、形はいくら専修念仏であっても、その心こそ問題だと。結局これは最後は行の問題じゃなくて、信心の問題に極まっていくんですでもそれを一つひとつ確かめて行くために、まず19願のところでは行の選びということを丁寧になさるわけです。そういう意味で中間で纏めておくならば、19願は私たちに対して何を修していこうとするのかという行の選択を迫ってくるようなはたらきです。念仏に立つのか、それ以外の行を欲するのか。これどうでしょう、念仏一つと頭で分かっていても、こんなことだけではなんか頼りないなぁという根性が湧いて来るじゃないですか。他の行をする方がなんか値打ちがあるように思うんじゃないですか。となるとナンマンダブツ一つやということを頭で分かっていながら他の行に心が動いて行く、それを云うのなら徹底してやれと呼び掛けるのが19願です。それがさっきの信心のところにありましたが至心発願欲生でしょう。心を至して願いを発して我が国に生れんと思えと云われる。これ私たちの心を徹底的に浄土に生まれる方に向かわせる、私たちの心に基準を置いている、そういう信心なんですよね。それが問われてくることになるのですね。もう一回戻ると、19願は当面は何によって助かろうとしているのかという行の選択を迫るという言葉として関わってくると思います。「この願の行信に依って、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出だせり。」と云っておいて「この正助の中について、専修あり雑修あり。」この雑修の問題はあとでまた出てまいります。雑修というのは一応阿弥陀を念ずる五正行のはずなんですが、この中に他のものが雑(まざ)ってくるという問題があるんですね。阿弥陀一仏と云いながら他の仏さんを拝むのも悪くはないやろみたいな、まぁ二心なんです、決まらないということです。この雑修は20願のところで大きく展開してきますが、雑ざって来るという問題です。この専修でも20願のところでは専修と云いながら、その心根が問題だと云われますので大変難しい我々のあり方、心の襞を炙り出してくるようなことが後から展開して来ますが、その前振れになっているというか、それが今のここであります。そして「機について二種あり、一つには定機、二つには散機なり。」19願の呼び掛けの中に定機と散機があると云います。定機というのは定善を修して助かって行こうとするあり方、散機は散善を修して助かって行こうとするあり方であります。まぁいずれも善を頼りにして助かろうとしているあり方です。「また二種の三心あり」これはなかなか難しいところでありますが、一応定善にも散善にも至誠心・深心・回向発願心という三心は貫かれておりますので、二種の三心というのは直接には定善の機における至誠心・深心・回向発願心、それから散善の機における至誠心・深心・回向発願心を二種の三心という言葉で親鸞聖人は押さえようとしている。浄土に生まれるには三心がなくてはならないと云うんですが、その三心のあり方が定機と散機の二種あると。「また二種の往生あり。」こう云って内容を説明して、「二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心は、すなわち自利各別の心なり。」と云って、結局ここで押さえ切っておられる。定が上でとか散が下でとか、そんなことありません。どちらも結局は自利による各別の心であると云っています。これも説明が要るんですが、親鸞聖人がここで云う自利というのは人間の自らの力によって迷いを超えて行こうとするあり方、ほぼ自力という言葉と重なる自利であります。これ菩薩道の自利利他というのの自利で取ると、ここは読めない。自らが迷いを超えようとする、一所懸命修して行く、それをここでは自利と云っています。でもそれは能力や素質やら今までの経歴やらでみんなバラバラですわね。だから定の三心と云い、散の三心と云うかも知れませんが、結局落差があったり、格差があるようなランク付けされる心ですね。だから結局は阿弥陀の浄土に往生することにならないという意味で「二種の往生とは」と云って、「一つには即往生、二つには便往生」と云います。これも難しくて観経に元々「即便往生」という言葉があるんですが、これは「すなわち」と読むだけなんですが、親鸞聖人はそれを分けておられる。便往生の方が自利各別の往生ということで、「便往生とは、すなわちこれ胎生辺地・双樹林下の往生なり」と。これ真実報土の往生を遂げられないということを仰います。つまり自力というのは自分で思い描いた世界を理想としているわけでしょ。双樹林下というのは前にも云いましたが、お釈迦さまが亡くなったお姿が双樹林下の入涅槃ですね。沙羅双樹のことです。それを理想にして私らもそういう形で人生を完結して行きたい。願いは分かりますけれども、それを握ったら、出来た人はいいけれども出来なかった人はダメだという話になってしまいます。握ったものによって自分が縛られていく、あるいは人を判定することが起きるかもしれない。だからこれは本当の意味の往生とは云えないので胎生辺地・双樹林下の往生と云われる。即往生の方が、「すなわちこれ報土化生」と云われています。ただこれは次に続く話でありまして、いま読んで来た修諸功徳の善とか、至心発願の心は基本的に観経に説かれるところの、私たちの自力に応答しながら説かれているものであります。だから定の三心と云い散の三心と云う、この全部が自力のあり方なんですね。結論的に云うと、これでは本当の意味の、一人も漏れずに助け遂げられていく真実報土の往生にならないということ、これがここの大きな結論だと思います。まだずうっと続くんですが、まず初めに観経の内容を親鸞聖人がご自釈で押さえておられる部分を見ていただいたわけであります。一つひとつかなり背景があるというかね、いろんなことが繋がっているので、云い出すと話がややこしくなるんですが、最後の自利各別の心であり、本当の意味の真実報土の往生ではないというところに、観経の方便に止まる問題がある。これと区分けして真実報土の往生を次に述べてくることになります。
―休憩―
親鸞聖人はなぜここまで細かく分けながら仰って行くかという、そこが一番の問題だと思います。今まで述べて来ていた観経の引文から、善導曇鸞道綽という引文でも一応の方向は見い出せたと思うんですけど、それをここまで仰って行く。これは例えば観経一つを取ってみても、中国以来ですが、天台の聖道門の人たちも観経を非常に大事にして来ておられる。その観経の読み方を大転換しようとしておられるわけですね。もう一つ近いところでは法然上人の教えを聞いた人の中にも、念仏は大事やと云いながら雑行が混ざっているとか、後で出て来ますが、雑修という五正行を修めながら他のことも兼ねて修めて行くということが起ってくる。これは殆んどのご門弟がそれだったのでしょうね。念仏も大事かも知らんけれども他のこともやればもっといいだろうという、これ現代の私たちにも残る意識ですね。そこに念仏一つとはどういうことなのかということをよっぽどはっきりしませんと、結局念仏も大事やという話にどんどん傾斜していくと思います。現代の浄土宗のことをあれこれ云うつもりはありませんが、どうしても念仏も大事ということで、戒を保つことも大事ということになって行った。かなり早い時期から法然上人の教えがそうなって行くんですね。それを親鸞聖人は見ておられたと思います。だから先ず観経は念仏に出遇わせるために、阿弥陀の平等の世界に出遇わせるために念仏一つでいいということに導いて行く。このためにいろんな方便を立てておられるというふうに整理なさるわけです。しかしその方便を握っている人がいるもんですから、それは本当の往生ではありませんよとどうしても云わなきゃならん。だから導くための方便ということだけなら批判的なことを書く必要ないんでしょうが、それを勘違いしてそこに止まることの問題ですよね。これをいま読んで来たところでは「自利各別の心」とかね「便往生」という言葉で最後まとめておられるわけであります。観経の説かれたことの意味、我々を真実に導くための方便として非常に大事な意味がある、ということが先ず一つ。その方便を今度は自分がどれだけ善根功徳を積んだかと云うて誇って行くところに起る問題、これはどうしても押さえておかないといけない。この二つが両方出て来ていると思います。
もう少し続きますが、なるだけ整理してお話ししたいと思っていますが、なかなか細かい言葉が出て来るので、どうしてもそれに引き摺られることになりますけれども、今日はこの辺りまで見たということにしたいと思います。
引文群から御自釈へ
「しかるに今『大本』に拠るに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には方便・真実の教を顕彰す。『小本』には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもって三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなわちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。これに依って方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願は、すなわちこれ臨終現前の願なり。行は、すなわちこれ修諸功徳の善なり。信は、すなわちこれ至心発願欲生の心なり。」これは今までの引文群を親鸞聖人がご自身で纏めて下さっている、そういう位置に当ります。真と仮ということをもう一遍改めて押えて下さるわけであります。まずは大経と観経でお話しを進めて来ましたが、ここに阿弥陀経のことも合わさって出て来ます。ですから三経の真仮を展開するというように先輩方は読んで下さっているところですが、一応阿弥陀経のことも出ますけれども、中心はやっぱり観経のことをまとめていると見ておくべきかと思います。それがどこまで続くかを先に見当付けをしますと、一枚捲っていただきますとずうっと続いてますね、二枚捲っていただいて343頁の最後の行、ここに「仮令の誓願、良に由あるかな。」とあります。仮令の誓願とは第19願を指しています。ですから第19願のお心に基づいてご自釈にこれだけ費やしておられるんですね。教行信証は6巻ありますけれど、こんな長い御自釈が出て来るのはやっぱり化身土巻なんですね。その最後をまとめるのが344頁1行目の「仮門の教、欣慕の釈、これいよいよ明らかなり。二経の三心、顕の義に依れば異なり。彰の義に依れば一なり。三心一異の義、答え竟わりぬと。」とあるのがそれです。『大経』と『観経』に出て来る三心が一つなのか異なっているのかという問いを立てられた、それに対する答えがここまで続いているわけであります。だからしばらく、この御自釈を解説していくということになろうか思いますが、こんなに長い文章が続きます。でもそれは云ってみれば、ここまで述べないと観経の意味がはっきりしない、観経と大経は違うんだと云ってしまえば話それで終わりですけれど、違うような解き方を何故したのかということが大事なんですね。顕の義に依れば異なる、でも彰の義に依れば一つであると仰る。私自身のことでも何回か申し上げたことがありましたが、高校を出て、大谷大学へ行って、いろんな授業を取りました。一番分からなかったのは何かと云えば、やっぱりこの化身土巻でした。先生方の解説がなかなか頷けなかったということもありますが、結局は一緒なんやと仰る先生があるんですね。大経と観経は説き方が違うけれども結局同じことを云うていると仰る。でもそれならなんでこんな長い問答が要るのかと、ずうっと引っかかっていました。でもいま申し上げているのは、同じことを云うのに同じ説き方をしない意味、これが方便が立てられる意味です。例えば大経は唯念仏一つで誰もが助かると云いたいわけです。ところが唯念仏一つに頷けないこちら側がいるわけですね。やっぱり努力させてほしい、あるいは積み上げて段々迷いを超えて行くという方が分かり易い。念仏一つに頷けない者のために、じゃあここからやれと云うて、非常に分かり易い具体的な目標を掲げられたのが観経なんですね。でも結局念仏一つに帰すという、ここは変わらないとする意味で、説き方が異なるということを顕の義に依れば異なる、しかし本当に仰りたいことは一つである、彰の義に依れば一なりと云っているわけです。それを結局一緒やと云ってしまうと、この問答自体が意味をなさない。今はそう思っておりますが、ずうっと長い間方便の大事さが、私自身分からなかったんですね。方便がなくて始めっから真実でいいんじゃないかと思っているもんですから、方便を敢えて説かれるお心をいただけなかったのだと、今思っています。三心一異問答から結釈まで
大変長い問答でありますが、ここのところで一区切りということになっています。どこから始まっていたのかと云うと331頁からでした。3行目に「問う。『大本』の三心と、『観経』の三心と、一異いかんぞや。」大無量寿経に説かれる至心、信楽、欲生という三心と、観経に説かれる至誠心、深心、回向発願心という三心とは一つであるのか、異なるのかと。こういう問いがここから始まっていました。これの区切りが344頁まで行くわけです。沢山の引用文と親鸞聖人の長いご自釈とで漸くそれを明らかにすることが出来たということでしょうね。ですから今日のところに阿弥陀経のことも出て来ますが、全体としては、本願で云えば第19願のお心、お経で云えば観経と大経との関係を問うという、こういう中にあるものが問題になっていることを念頭において、今日の中味に入って行きたいと思います。じゃあ、338頁に戻ります。三経の真仮
始めに少し言葉を当たっておきます。「しかるに今『大本』に拠るに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には方便・真実の教を顕彰す。」という言葉から始まっています。これも折に触れて何回かお話し申し上げましたが、今日改めてここの言葉としていただきますと、大本の方は真実から方便へという願が発されている。観経の方は方便から真実の教えが彰されている、こういう順序です。まぁ言葉の並べ方だけで、そこまで云えるかと云われるかも知れませんが、読んで来た中でそういうことが推察されるわけですね。『大経』の方は先ず、真実の願、第18願、親鸞聖人は至心信楽の願と云われる。伝統的には念仏往生の願という名前があるとおり、南無阿弥陀仏ひとつでどんな者も迷いを超えることが成り立つ、浄土に往生できるということを誓っている願です。ただここには唯除が付いていますね。ただ南無阿弥陀仏一つということをいただけない者はその恩恵から漏れて行くというのです。阿弥陀さんが除外するのではなくて、南無阿弥陀仏ひとつで助かるぞと、あんたも漏れなく助かるぞと云われているのに、こちら側が勝手にそんなものは信じられませんと、南無阿弥陀仏一つなんて簡単すぎますと、まぁいろんな思いで受け止められない者は「唯除く」という部類に入ります。これ一番大事な本願文なのに、なぜ唯除が付いているのかということがずうっと課題にされてきましたが、親鸞聖人の受け止めからすると信じられない者、それを受け止められない者は、その恩恵に与かれないということです。太陽が全ての物を照らすのに、太陽を仰ぐことのない者にとってはその恩恵がないのと同じです。あるいは、いつも喩えに出しますが、親鸞聖人はこの本願を船に譬えて下さいます。どんな荒海をも航る船はとっくにあるのに、乗りたくないと云っている人間はその恩恵に与かれないということです。だから船はあるんです。それに乗るか乗らないかが決まるかどうか、これは信心決定ということでありますが、そこに立てない限り漏れて行くんですね。でも漏れて行く者を度外視して終りじゃないというのが、19願20願と展開している。こういうことを申し上げて来ました。19願は至心発願の願、20願は至心回向の願と親鸞聖人が名づけられた願名ですが、この三つが対応している。我々への呼び掛けが繋がっていますよね。それを明示するためにこういう願の名を付けられたわけです。普通には至心発願の願は修諸功徳の願と云われています。第20願の方は植諸徳本の願と云われる。いずれも我々に努力することを呼び掛けるお言葉が出て来るわけです。諸々の功徳を修めなさいというわけですね。18願は念仏一つで助かると云ってるんですが、そんなもので助かりますかいなと云う人間には、じゃぁ諸々の功徳を修しなさいと云う。あぁそれなら分かりますわとなりそうですね。写経するとか、早起きしてお参りするとか、形は何にせよ具体的な実践目標がある方が分かり易いということです。南無阿弥陀仏なんて何遍云えばいいのか分からんしね、どんな云い方すればいいのか分からん。念仏が受け止められないというものに対して、じゃあここからという非常に分かり易いことを立てて下さる、これが方便なんです。我々を本当に救い遂げたい、迷いから超えさせたいがために、仏法に縁を持たせようとするためなんです。ここからなら分かるかということです、これなら関りを持てるかということなんです。ただ、今日も云いましたが、じゃあ私は百功徳積みまいたとかね、私は二百功徳積みましたというように、功徳の量を自慢するようになったら、あるいはそれを握るようなことになれば、それは違うとまた云うんですよ。だって仏法に縁を持ってほしい、そして救われて欲しいというのが目的なのに、私の積んだ功徳は人より多いですわとそこに腰を下ろしていたら、それは違うということです。方便として立てられたことは修諸功徳なんですが、私だいぶ功徳積みましたと云うと、それはまた違うと云われる。これが第19願に両面があるということの難しさなんですね。でもここから呼び掛けないと仏法に縁を持てない。もしか念仏一つだけだったら、そんなの受け止められません、分かりませんわと云って、もう縁が切れてしまうかも知れませんね。そういう私たちの努力意識と云うか、進歩的な発想が大好きな私たちに応答しながら云ってくれているのがこれです。で、20願はまだそこまで云っていませんけれども、後で阿弥陀経の心として出て来ますが、中味としては同じですね。諸々の功徳の根本を植えなさいと云ってるわけです。あれこれしなくてもいい。念仏一つ、念仏がすべての功徳の本だからと教えるわけです。だから19願で呼び掛けられて、あれもこれも全部やれと云われて、私、無理ですとなったら、そんなら念仏一つでいいと云うわけです。これは沢山のことをせずとも念仏一つと云うことに立たせる呼び掛けでしょうね。念仏一つで阿弥陀の国に生まれて行けということを勧めて下さるわけです。でもこれも19願と同じことで、それはどこまでも念仏を縁として阿弥陀に出遇ってほしい、阿弥陀の国と縁を結んでほしいということなのに、いや私一日一万回やってます、誰よりも多いと思いますみたいなことになれば、それはまた方便の教えを握っていくことになりますね。それはそれでまた違いますよと云わんならん。だから19願20願というのは、どちらも私たちの自力意識、努力意識を撥ね除けずに、それに応答しながらここからやれと教えて下さる。その中でどこまでも阿弥陀の世界に縁を持ってほしい、阿弥陀の世界に生れてほしいという、そういう願なんですね。大経・真→仮
観経・仮→真
もう一回云いますが18願から19願20願が発された、これが大経は「真実方便の願を超発す」と押さえられる言葉の意味であります。それに対して観経には「方便・真実の教を顕彰す。」とあります。観経には定善と散善、定散二善とも云いますが、これが説かれています。定善というのは心を静かに止めて阿弥陀仏の世界を念じて行く、仏道の行を勧めます。でもそれを出来ない者にも道はあるという形で、定善を修められない者にも出来る善、散漫な心のままでも積むことが出来る善も説いて下さっていますが、いずれにしても善を積むことをまず勧めるわけです。ただそれを通して本当に善を徹底しようとすれば、徹底できない我が身が必ず見えてくる。これが観経の一番云いたいところだと読み取ったのが善導大師でありました。もう読んで来たところを繰り返すことはしませんけれども、善導大師の読みがなければ、観経には分量的には定善十三観のところが一番多いわけですから、誰が見ても西に沈む太陽を見よから始まって、仏さまの姿を思い浮かべると云うものすごく具体的な行法を説くためのものだと見えます。しかしそれに敗れたところにも道はある、もっと云えば散善すらできない、悪を造る者も見捨てないということが最後の最後には云われます。これが称名念仏一つなんですね。ここに導くために徹底的にやってみろということを教えているのが観経ということになります。だから方便の教えを立てて、最後には南無阿弥陀仏を称えること一つで、一人も漏れないというところまで引張って行きたい。このことを「方便・真実の教を顕彰す」という言葉で云おうとしているわけです。この辺知識として知ってしまうと、なんや結局はこれはせんでもええんかと聞いてしまう。これだけでいいのか、答えが出とるやないかみたいなものですわ。だから方便が段々軽くなってしまうんですね。でもこれはここに頷けない者を導くための教えですから。答えは一緒かも知れません、でもここを潜っているのと潜っていないのとだいぶ違いますね。やりもせずにナンマンダブツ一つでいいんでしょう、それなら私やりますわみたいな、そんなこととは違いますわね。どうも信じられない、ナンマンダブツで助かるといくら云われてもいただけませんということになったら、これを潜ってみろということです。善を徹底してやってみろとね。ところが一つのことでも難しいんじゃないんですか。例えば日常のことで、殺生するなと云われてみれば、本気で殺生するなということを守ろうとしたら、殺生しまくって生きているということが初めて分かる。他のいのちを取らずして生きられないということを知らされる。そこに我が身の業、あるいは罪深さということを初めて知らされる。だから私たちは親鸞聖人のように比叡山に上ってというようなことはしていませんけれど、日常生活の中ででも我が身の業の深さ、罪の重さを知る道が観経を通じて知らされるのですね。そういう意味で顕の義に依っては違うけれども、念仏一つで一人も漏れないというここは同じだという意味でしょ、彰の義に依れば一つだというさっきの結論になるでしょう。そういうことを親鸞聖人はお経が説かれたそのお心も含めて尋ねて行っておられますね。
阿弥陀経に方便の善なし
阿弥陀経もここに出て来ますが、これは後から展開されますけれど、ここで併せて仰っています。「『小本』には、ただ真門を開きて方便の善なし。」と。阿弥陀経の方では始めっからナンマンダブツ一つです。「執持名号一心不乱」と書いてありますね。毎日々々名号一つを持(たも)って行けと仰っている。念仏以外の善を勧めていないということを「真門」を開いてそれ以外の方便の善は説かれていないと云っている意味ですね。三経に真実あり
で、大事なのは次です。「ここをもって三経の真実は、選択本願を宗とするなり。」つまり三経ともに真実があると云ってます。非常に大事な言葉ですね。大経を真実の教えだと云うと、返す刀で観経・阿弥陀経は方便やという人がありますが、少なくとも親鸞聖人のここの言葉を取ればそんな括り方は出来ません。大経が真実の教えだと云っているのは、観経・阿弥陀経と比べて云っているのではない。真実と云うのならば三経ともに真実があると云ってあると云い切っている。それは選択本願、これが中心、要になっているということです。勿論直接本願の内容を説いているのは大経です。観経に詳しく説かれるわけでもありませんし、阿弥陀経となれば法蔵菩薩の本願も出ては来ませんよね。出来上がった阿弥陀の世界は説かれますけど。でも文字として出ていなくても、その選択本願ということが要になっている、それを拠り所としているということが三経の真実であると云ってます。同時に「また三経の方便は、すなわちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。」とあります。だから大経にも方便はあるのです。大経は特にどこかと云うと、下巻はずうっと唯除ということの展開になっていますが、なぜこの娑婆世界に執着するのか、どうして阿弥陀の世界に生れようとしないのかということを懇々と説いておられますね。その時に娑婆世界の方を悪と呼び、阿弥陀の世界を善と呼び、悪を離れて善を修める、このことを分かり易い目標をもって説いているのが三毒五悪段であります。非常に具体的なことが出てまいります。だから大経にもちゃんと悪を離れて善を修しなさいということが説かれている。これは私たちを導くためのものなんですね。善と悪というのは人間世界の価値観に基づいて云ってるわけであって、別に阿弥陀の世界は善だと云うわけじゃないんですよ。私たちに目標を与えるためにこの世界の傷ましいあり方を悪と教える。そしてそれを離れた世界を善と呼ぶわけですね。でもそれを勘違いして、私は大分悪を離れましたとかね、善は大分積み増したというように、善を度合いで考えるとこれは勘違いですよね。だから大経にもやはり善根を修することを勧める、これが方便としてちゃんとあるというふうに云っています。だから大経・観経・阿弥陀経を並べて、どれが真実の教えでどれが方便の教えだと、そんなこと云ってるんじゃないんです。どちらにも真実も方便もあるという見方をしておく必要があります。方便も真実も教えであって、真実の経と書いてあるところは一ヶ所もありません。お経に真実の教えがあるということであって、お経を真実のお経とそうでないお経とにレッテルを貼るとなると、人間の越権行為であります。親鸞聖人はお経を並べて、これは本物、これは本物でないというようなことは一切云われない。どこまでも真実に導くための方便の教えというふうに云われているのですね。これは和讃で見た方が端的に理解できると思います。浄土和讃の大経の意(こころ)聖典484頁、全部で22首作っておられる中の8首目、ここから第18願のお心、信心一つで誰一人漏らさず救い遂げようとする、それが8,9,10と展開しています。8番はいちばん分かり易い18願のお言葉が出てまいりますが、9番は第11願を本にその利益が書かれています。10番は第35願を本にして女性も間違いなく成仏することを詠っていらっしゃいます。誰一人漏れることなく成仏することが出来る、これが第18願のお心ですが、それを11、18、35願と云う三つの願に基づいて書かれているわけです。それを承けて11番目からが19願であります。「至心発願欲生と/十方衆生を方便し/衆善の仮門ひらきてぞ/現其人前と願じける」至心発願欲生と呼び掛けて十方衆生を方便して下さるのですね。如来が方便して下さる。それによって諸々の善の門を開いて下さって、現其人前と願じけると云ってます。先ほども云いましたが、第19願は一応修諸功徳、功徳を修しなさいと云っている願文なんですが、どこで終ろうとも私が目の前に現れましょうということを現其人前と誓っておられるというふうに親鸞聖人は読んでおられるわけです。本願文には「寿(いのち)終るときに臨んで」という言葉がありますが、その時に私がその人の前に現われましょうと云っています。つまり阿弥陀の浄土を願う人は一人ももらさないということを「現其人前」という言葉で語っておられる。功徳を幾つ積んだかとか、何年やったかとか、そういう功徳の分量の問題じゃなくて、阿弥陀の国に生まれたいと思ったならば、そのいのちがいつなんどきどんな形で終ろうとも、私の方から迎えに行くと云ってるんですね。一人も見捨てないというのが19願のお心だということをこういう和讃で明示して下さっています。18願と実は同じでしょ。念仏して浄土に生まれようとする者は一人も漏らさず往生させたいと云ってるわけです。そうでなければ私も覚りを取りませんと。19願は一応は衆善の仮門を開いてね、ここからやれと云って下さっているんですが、それがどんな形で終ろうとも私がその人の前に現われますと。これに依って阿弥陀の世界と縁を結ぶことが出来るわけですね。どれだけ功徳を積んだかという分量ではありません。これを承けて12番が観経をお説きになるお釈迦さまのお心を表わしておられます。「臨終現前の願により/釈迦は諸善をことごとく/観経一部にあらわして/定散諸機をすすめけり」いのち終わる時その人の前に現われようという法蔵の願によって、お釈迦さまは諸々の善を一つ残らず観経一部に著された。そして定散諸機を勧めている。定散諸機というのは善を積み上げて行こうという状態にある者ですね。これなら分かると云ってる人達ですが、そういう状態にある者に勧めて下さっていると云うわけです。だから観経に善根功徳を修することを勧める、これはお釈迦さまが19願に基づいたお心だというふうに云うわけです。ここに18願に何とか返そう、念仏一つで一人も漏れないところに返そうとする、そこから観経も説かれ出したのだということを読み取ることが出来ます。339頁に戻ります。教行信証だけでは難しいという感じは否めないかも知れませんが、なぜ大経だけでなくて観経が説かれたのかというお心、あるいは18願に止まらずになぜ19願がもう一遍誓われなくてはならなかったのか、そういうお心を尋ねているのが今の部分であります。三経ともに選択本願、これは一人も漏らさずに救い遂げたい、そのために選び取り、選び捨てるというお仕事をなさった。これ法然上人のお言葉ですよね。法然上人が大事になさった本願の受け止めですが、これが三経に貫かれていると読まれる。そこに導くために三経ともに諸々の善根を修するということを勧めて下さっていると全体をまとめて下さっている。ここから三部経全体をまとめる言葉があって、観経の話に戻って行きますね。19願のお心に戻って行きます。観経の穏顕
「これに依って方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願は、すなわちこれ臨終現前の願なり。行は、すなわちこれ修諸功徳の善なり。信は、すなわちこれ至心発願欲生の心なり。」これに依ってというのは直前を承けて、三経ともに選択本願を宗とする、あるいは三経の方便は諸々の善根を修するを要とする、こういうことに立っていま方便の願を案ずるにということですね。特に19願を指すわけですが、それを明記するために方便の願を案じてみるとそこには真と仮がある。仮というのはあくまでも私たちを導くために立てられたものですね、それを通して出遇ってほしいものがあるわけです。また、その方便の願の中に行も信もある。その内容はと云えば臨終現前の願だと。さっきも云いましたが、これ修諸功徳の願と云ってもいいんですが、ここは臨終のときには私が迎えに行くぞということを前面に出している願の名前ですね。同じ19願をどう読むかというのは場面々々によって変わるんですね。一番始めは修諸功徳の意味なんですが、それが出来ないところにも道はあるということを云うてくれる。これが臨終現前という言葉の大事なところでしょうね。18,19,20の願を並べるときには、至心発願の願という願名を取られます。ただここは願の名前とすると臨終現前で代表して、そこに語られている行のことを修諸功徳の善と云われる。だから親鸞聖人から見れば、願の名前はいくつもあるけれども、願いは臨終現前だと見ておられる。19願に説かれる行は修諸功徳という善を勧めるわけですね。その頷き方、信はすなわちこれ至心発願欲生の心であると云われています。面白いですね、願も行も信も全部あるわけです。少し後になると往生のことも出て来ます。云ってみれば、経は観経、願は19願、行は修諸功徳、信は至心発願欲生、そして往生は方便の往生と云われますが、いわば教行信証全部あるんですね、化身土というのは。無いのは真仏土だけかも知れません。でも我々が思い描き易い形にまでなって下さったという意味では如来からのお手立てでありますが、そこに止まろうとすると必ずそれを問い返す言葉も出てまいります。仮という言葉は一時的という意味ですね。そういう意味では仮門という言葉で押さえられます。この後にも出て来ます仮なんですが、軽いかというと軽くない。これを潜らないと我々は出られないという意味では必ずという意味で要門と云われます。同じものが「仮」と云われたり「要」と云われたりする。これが方便の二面性ですよね。仮と云えば本物でないとすぐとってしまいますが、その仮のものを示されることによって漸く浄土の教えに出遇うことが出来る。阿弥陀の世界に通入していくことが起こるんですね。仮を通って真に出遇うという意味では要門と云われる。これが次の話に移って行きます。要門の教行信証
「この願の行信に依って、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出だせり。この正助の中について、専修あり雑修あり。機について二種あり、一つには定機、二つには散機なり。また二種の三心あり、また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心は、すなわち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とは、すなわちこれ胎生辺地・双樹林下の往生なり。即往生とは、すなわちこれ報土化生なり。」まぁこの辺になると段々話が込み入っていくんですが、これは後の20願のところで一番細かいところまで行きます。親鸞聖人は方便というのは単に真実に入るためだけじゃなくて、本当に私がその教えを頷いているかどうかを確かめる試金石だから方便で19願から18願に入ったというふうに云うたとしても、本当に入ったかということを確かめるために、これだけのことをやっぱり云わなければならなかったのでしょうね。例えば始めのところで云いますと、「この願の行信に依って」と、これは前を承けていますから修諸功徳を勧める善、そして至心発願欲生の信でありますけれども、これに依って「浄土の要門、方便権仮を顕開す」と云ってます。様々な形で方便が立てられてくるわけです。「かり」という意味で「権」という字が使われますが、基本的に同じものです。これは敢えて真実が形を取って来た時に使われます。旧いところでは仏が神になって現れるときも権現という云い方をしますが、奈良では春日権現です。あるいは興福寺の仏さまが春日大社に現れるという仮に現れる、敢えて形を取るという時ですが。我々からすれば、それは仏の現れて下さったもので仮だということを最後に権化の化で押さえてると思いますが、でもそれを「この要門より正・助・雑の三行を出だせり」と云ってます。これは正行と助行と雑行とも云えますが、言葉の元を辿っておきますと善導大師が仰っている五つの正行のことを指しています。我々に浄土往生を勧める行として五つを立てておられます。これに対するものが雑行と云われます。例えば阿弥陀仏についてのお経を読むことが読誦の正行であります。阿弥陀仏以外のお経を読むのは雑行と云われます。観察もそうですね、阿弥陀仏を観察するのは正行ですが、阿弥陀仏以外は観察雑行となるわけです。同じように礼拝も称名も讃嘆供養もみなそうです。阿弥陀仏に関わるものを正行、それ以外を雑行と纏めるわけです。これは何に依って迷いを超えるかということを明示するために敢えて立てたものですね。もう一つ、「助」というのは4番目の称名を正定業と云われる、あとの四つを助業と仰る。要は称名念仏ですよ、あとの四つはそれを助けるものですよと仰る。これは何が重いかということを勘違いしてはいけないということです。私は読誦を他の誰よりもやってますというようなことになれば、結局称名念仏を軽んじて行くことになりますね。特に礼拝は身体で礼拝するわけですが、こういうことを誰よりもやれてますと云うならば、これは称名念仏を助けるためであって、こちらを優先させてはいけないと教えないといけない。だから様々な行が立てられてきますが、その中から何によって迷いを超えるかということをはっきりさせるために、正と云い雑と云うわけです。雑では迷いを超えることが出来ませんよ、正行ですよと。正行の中にも正と助がありますよと云ってるわけです。でもこれらは全部私たちを導くために立てられた方便の教えであるということを始めに抑えておられるわけですね。ここだけでも大変ですが、あとの20願のところをちょっとだけお話ししておくと、最後のところ、この中にもまた方便を親鸞聖人は見て行かれます。だって朝から晩まで称名念仏一つでそれ以外に何もやっていないという人が現れても、実はそのやってる心が問題だということを云っていくのが20願のところなんです。つまり称えたことによって何かご利益を期待するとか、自分のやっていることを誇るとかに落ちて行く。結局、形はいくら専修念仏であっても、その心こそ問題だと。結局これは最後は行の問題じゃなくて、信心の問題に極まっていくんですでもそれを一つひとつ確かめて行くために、まず19願のところでは行の選びということを丁寧になさるわけです。そういう意味で中間で纏めておくならば、19願は私たちに対して何を修していこうとするのかという行の選択を迫ってくるようなはたらきです。念仏に立つのか、それ以外の行を欲するのか。これどうでしょう、念仏一つと頭で分かっていても、こんなことだけではなんか頼りないなぁという根性が湧いて来るじゃないですか。他の行をする方がなんか値打ちがあるように思うんじゃないですか。となるとナンマンダブツ一つやということを頭で分かっていながら他の行に心が動いて行く、それを云うのなら徹底してやれと呼び掛けるのが19願です。それがさっきの信心のところにありましたが至心発願欲生でしょう。心を至して願いを発して我が国に生れんと思えと云われる。これ私たちの心を徹底的に浄土に生まれる方に向かわせる、私たちの心に基準を置いている、そういう信心なんですよね。それが問われてくることになるのですね。もう一回戻ると、19願は当面は何によって助かろうとしているのかという行の選択を迫るという言葉として関わってくると思います。「この願の行信に依って、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出だせり。」と云っておいて「この正助の中について、専修あり雑修あり。」この雑修の問題はあとでまた出てまいります。雑修というのは一応阿弥陀を念ずる五正行のはずなんですが、この中に他のものが雑(まざ)ってくるという問題があるんですね。阿弥陀一仏と云いながら他の仏さんを拝むのも悪くはないやろみたいな、まぁ二心なんです、決まらないということです。この雑修は20願のところで大きく展開してきますが、雑ざって来るという問題です。この専修でも20願のところでは専修と云いながら、その心根が問題だと云われますので大変難しい我々のあり方、心の襞を炙り出してくるようなことが後から展開して来ますが、その前振れになっているというか、それが今のここであります。そして「機について二種あり、一つには定機、二つには散機なり。」19願の呼び掛けの中に定機と散機があると云います。定機というのは定善を修して助かって行こうとするあり方、散機は散善を修して助かって行こうとするあり方であります。まぁいずれも善を頼りにして助かろうとしているあり方です。「また二種の三心あり」これはなかなか難しいところでありますが、一応定善にも散善にも至誠心・深心・回向発願心という三心は貫かれておりますので、二種の三心というのは直接には定善の機における至誠心・深心・回向発願心、それから散善の機における至誠心・深心・回向発願心を二種の三心という言葉で親鸞聖人は押さえようとしている。浄土に生まれるには三心がなくてはならないと云うんですが、その三心のあり方が定機と散機の二種あると。「また二種の往生あり。」こう云って内容を説明して、「二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心は、すなわち自利各別の心なり。」と云って、結局ここで押さえ切っておられる。定が上でとか散が下でとか、そんなことありません。どちらも結局は自利による各別の心であると云っています。これも説明が要るんですが、親鸞聖人がここで云う自利というのは人間の自らの力によって迷いを超えて行こうとするあり方、ほぼ自力という言葉と重なる自利であります。これ菩薩道の自利利他というのの自利で取ると、ここは読めない。自らが迷いを超えようとする、一所懸命修して行く、それをここでは自利と云っています。でもそれは能力や素質やら今までの経歴やらでみんなバラバラですわね。だから定の三心と云い、散の三心と云うかも知れませんが、結局落差があったり、格差があるようなランク付けされる心ですね。だから結局は阿弥陀の浄土に往生することにならないという意味で「二種の往生とは」と云って、「一つには即往生、二つには便往生」と云います。これも難しくて観経に元々「即便往生」という言葉があるんですが、これは「すなわち」と読むだけなんですが、親鸞聖人はそれを分けておられる。便往生の方が自利各別の往生ということで、「便往生とは、すなわちこれ胎生辺地・双樹林下の往生なり」と。これ真実報土の往生を遂げられないということを仰います。つまり自力というのは自分で思い描いた世界を理想としているわけでしょ。双樹林下というのは前にも云いましたが、お釈迦さまが亡くなったお姿が双樹林下の入涅槃ですね。沙羅双樹のことです。それを理想にして私らもそういう形で人生を完結して行きたい。願いは分かりますけれども、それを握ったら、出来た人はいいけれども出来なかった人はダメだという話になってしまいます。握ったものによって自分が縛られていく、あるいは人を判定することが起きるかもしれない。だからこれは本当の意味の往生とは云えないので胎生辺地・双樹林下の往生と云われる。即往生の方が、「すなわちこれ報土化生」と云われています。ただこれは次に続く話でありまして、いま読んで来た修諸功徳の善とか、至心発願の心は基本的に観経に説かれるところの、私たちの自力に応答しながら説かれているものであります。だから定の三心と云い散の三心と云う、この全部が自力のあり方なんですね。結論的に云うと、これでは本当の意味の、一人も漏れずに助け遂げられていく真実報土の往生にならないということ、これがここの大きな結論だと思います。まだずうっと続くんですが、まず初めに観経の内容を親鸞聖人がご自釈で押さえておられる部分を見ていただいたわけであります。一つひとつかなり背景があるというかね、いろんなことが繋がっているので、云い出すと話がややこしくなるんですが、最後の自利各別の心であり、本当の意味の真実報土の往生ではないというところに、観経の方便に止まる問題がある。これと区分けして真実報土の往生を次に述べてくることになります。
―休憩―
親鸞聖人はなぜここまで細かく分けながら仰って行くかという、そこが一番の問題だと思います。今まで述べて来ていた観経の引文から、善導曇鸞道綽という引文でも一応の方向は見い出せたと思うんですけど、それをここまで仰って行く。これは例えば観経一つを取ってみても、中国以来ですが、天台の聖道門の人たちも観経を非常に大事にして来ておられる。その観経の読み方を大転換しようとしておられるわけですね。もう一つ近いところでは法然上人の教えを聞いた人の中にも、念仏は大事やと云いながら雑行が混ざっているとか、後で出て来ますが、雑修という五正行を修めながら他のことも兼ねて修めて行くということが起ってくる。これは殆んどのご門弟がそれだったのでしょうね。念仏も大事かも知らんけれども他のこともやればもっといいだろうという、これ現代の私たちにも残る意識ですね。そこに念仏一つとはどういうことなのかということをよっぽどはっきりしませんと、結局念仏も大事やという話にどんどん傾斜していくと思います。現代の浄土宗のことをあれこれ云うつもりはありませんが、どうしても念仏も大事ということで、戒を保つことも大事ということになって行った。かなり早い時期から法然上人の教えがそうなって行くんですね。それを親鸞聖人は見ておられたと思います。だから先ず観経は念仏に出遇わせるために、阿弥陀の平等の世界に出遇わせるために念仏一つでいいということに導いて行く。このためにいろんな方便を立てておられるというふうに整理なさるわけです。しかしその方便を握っている人がいるもんですから、それは本当の往生ではありませんよとどうしても云わなきゃならん。だから導くための方便ということだけなら批判的なことを書く必要ないんでしょうが、それを勘違いしてそこに止まることの問題ですよね。これをいま読んで来たところでは「自利各別の心」とかね「便往生」という言葉で最後まとめておられるわけであります。観経の説かれたことの意味、我々を真実に導くための方便として非常に大事な意味がある、ということが先ず一つ。その方便を今度は自分がどれだけ善根功徳を積んだかと云うて誇って行くところに起る問題、これはどうしても押さえておかないといけない。この二つが両方出て来ていると思います。
観経の真実門
先ほど読んでいたところの続きが、今度は観経に説かれている真実の面ということで、先輩方は読んでおられます。態々番号を振り直していますね。339頁の最後の行ですが、43と振られています。「またこの『経』に真実あり。これすなわち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕わさんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまう。報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。ここをもって『大経』には「信楽」と言えり。如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆえに「信」と言えるなり。『観経』には「深心」と説けり。諸機の浅信に対せるがゆえに「深」と言えるなり。『小本』には「一心」と言えり、二行雑わることなきがゆえに「一」と言えるなり。また一心について深あり浅あり。「深」とは利他真実の心これなり、「浅」とは定散自利の心これなり。」これが観経が語る真実の面ということで親鸞聖人がまとめていらっしゃるわけであります。先程も「三教の真実は、選択本願を宗とする」と云われていましたが、私はこれ第18願に限定する必要はないと思っています。場面に応じて選択本願というのが第18願を指している時もありますし、48願全体を指すときもあります。ここでは特に一人も漏らさず迷いを超えさせたいというふうに広く取っておけば18願に限定せずともいいと思うんですが、ここに真実があると確かめた、それを承けて観経にも真実があるというのがいまの部分であります。だからその直前までは方便のことについて述べてあったということです。だからこれは我々を導くための方便でもあるし、そこに止まればそれは真実の往生とは云えないと云っていく、そういう両面がありましたが、観経は結局何を我々に勧めているかというのがいまの部分ですね。「またこの『経』に真実あり」と云って「これすなわち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕わさんと欲す」とあります。細かいことですが、この聖典では「これすなわち」を全部ひらかなにしていますが、親鸞聖人には思いがあって「これすなわち」をわざわざこの字「斯乃」と書いていますね。下の段で見ると340頁の1行目です。「斯乃開金剛真心」と。方便を承けるときは「此」の字を書くことが多いんです。総序のところでは「専奉斯行 唯崇斯信」となってますね。そして化身土に来て多いのは「此」の字であります。もう一つ全体を承けるときには「是以」という字もありますけれども、特にここは思いを持って書いておられるんでしょうね。念の為に云いますが、漢字の意味でこれが真実を彰わし、こっちが方便を顕わすとそんなことは一切ありません。しかしながら「この」という字をどういうときに使われるかというのも注意するところであります。これも全部法則を見出したとはとても云えませんので、こういうところをちょっと気をつけるぐらいの感じです。最初の「この経に」というのは観経を指していることを分かり易くするためかもしれませんが「此」という字を使っています。あまり断定的なことは云えませんが、字が違うということをちょっと指摘だけしておきます。金剛の真心
で、この金剛の真心というのはずうっと信巻以来継続している課題でありまして、親鸞聖人の根本問題の一つと云っていいと思うんです。金剛の真心て、どういう時に使われるかと云ったら、仏道から退転しないという問題、これは聖道門においても大問題なわけでしょう。仏道が仏道でなくなっていくということが起る、つまり歩みが継続しないんですね。それが一番厳しいのは現実社会を生きていく上でさまざまな誘惑であるとかいろんなものに引張られて行く、こういう問題です。親鸞聖人は信心決定とか獲信の難も仰いますけれど、それ以上に問題にしておられるのが信楽受持の難なんですね。獲た信心が壊れて行く。信心に立ったと云っても、それがなくなっていくという問題です。そういうときに金剛の真心ということが信巻以来非常に大きなテーマになっていると云ってもいいと思うんです。大事なのは菩薩道で、だいたい金剛ということは云われて来たわけです。弥勒菩薩の金剛喩定と云われるんですが、それが凡夫において成り立つんです。だから凡夫における金剛心というのは、私たちの心が乱れないように強くなるという話じゃない。どれほど私たちがウロウロしようが本願の呼び掛けが確かだから立ち返っていくことが出来る。私がブレないようになるんじゃない。本願が我々をブラさない。その本願のはたらきの確かさ、そこに金剛が成り立ちます。一番端的な例は信巻の二河白道の譬喩のところが分かり易いと思うんですが、信心守護の譬えと云われています。我々に起った信心は護られないと砕けて行くと云うんです。特に意見の違う人、思想の違う人の中を生きて行くことの難しさなんです。信心を守護するためにこの譬えを説くと善導大師ははっきり仰る。その意味では獲信の模様を説いてあるとも読めますけれども、獲信の後の歩みを語っている譬えとして読む、それが元々の意味と見ておいた方がいいんじゃないかとおもっています。そのときに何によって細い白道を歩み続けられるかと云ったら、こちら側から行けと励まして下さるお釈迦さまの声と、向こう側から来れと呼んで下さる阿弥陀さまの声、つまり二尊の発遣と招喚とによって歩めるわけでしょう。私みたいな重い者がこの道を歩めるやろか、こんな細いのにみたいな。見えていたものが見えなくなるという状態なんですが、そのときに行けという声に励まされ、来れという声に導かれて歩めるという、つまり金剛心というのは二尊の発遣と招喚によって成り立つということを善導大師ははっきり云っておられると思います。それがずうっと信巻ではキーワードのようになっている。それをここで一言挙げられるときに「金剛の真心を開きて」と仰る。これ真実信心と書いてあっても全然おかしくないわけでしょ。あるいは真実の一心とあってもいいのかも知れません。一心は後で出て来ますけれども、ここは金剛の真心と云われる。これが具体的な仏道の歩みですね。こういうことを念頭に置いたお言葉だと私は見当付けられるんじゃないかと思っています。教行信証のキーワード
私は改めて思うんですんが、教行信証は先ず題名が真実の教行証と云ってるので真実ということがキーワードであることは間違いないですね。つまり我々に実際に実を結ぶ、現実となる、真実ということが親鸞聖人の一番の問題だと思うんです。つまり比叡山を何故下りなければいけなかったかと云えば、煩悩を断ち切れば覚れると云っても、それが自分の上に実を結ばないという問題、だから真にして実なるというのが一つ目です。も一つが平等という問題です。修行出来た人だけじゃなくて出来ないところにも道はある、平等ということがキーワードです。まぁこれは一乗という言葉で云われることもあります。一乗海という言葉もあります。どんな者も平等に迎え取られる、それが平等です。そして三つ目が現生あるいは速疾と云われる。これはご和讃でも繰り返されます。「速やかに疾く」と。いまのことなんです。そのうちにとか、何年か後かに助かるというのではこの身体が待ってくれない。いまここに生きているところに成り立つ仏道なんです。だから真実に平等にしかも速疾に成り立つ、これを親鸞聖人は教行信証で本当にテーマのようにして語って下さっていると思います。そしてどんな状況においてもと云うときに金剛の真心、これは四つ目かも知れませんが、これが問題になる。どんな過酷な現実に投げ出されても、そこを歩み続けて行くことが出来る、人生全体が仏道になるというようなことですかね。安田先生がよく仰ってました、二河白道。一応前にある道のように書いてあるけれども、実は自分自身が道になるんやないかと。それを積極的に云うときには「念仏者は無碍の一道なり」という言葉があるやろと云っておられたのをボクは聞きました。これは歎異抄の有名な言葉ですが、言葉としてはちょっと引っ掛かりますよね、人が道であると云ってるんですから。だからあれは人によっては念仏は無碍の一道であると読むべきであると仰る。安田先生は人が道になるんだと云うんですね。人が道を歩くというのは、まだ外に見ているような云い方で、その人の人生そのもの、その人の生きていること全体がもう道そのものになる、こう云えるんじゃないかと仰るのです。だから念仏者は無碍の一道であると読むのは国語としては成り立たないかもしれません。普通は念仏者は無碍の一道を歩むのであると何か補わないといけないのかも知れませんが、念仏者が無碍の道であるということも云えるんやないかということをボクはお聞きしました。金剛の真心というのは正にそこに関っているんです。自分の人生そのもの、全部が仏道になるということです。そこに「摂取不捨を顕わさんと欲す」と続いています。これがさっき云ったキーワードで云えば平等ということですよね。どんな者においても成り立つ。だから金剛の真心というところに決してもう見捨てられることのない、阿弥陀に摂め取られて歩むということが起るわけであります。これもちょっと前の方で確かめておきたいと思いますが、特に最近思いますの に、教行信証は親鸞聖人が1、2、3、4、5、6と各巻に順番を振られましたね、順序次第をもって読むのが大事だと考えているんです。前に云うたことを完全に承けておられるんです。いまの摂取不捨というところですぐ思うのは、いま私は一応阿弥陀によって摂取不捨されるといいましたけれども、まだちょっと外に阿弥陀仏を立てるような云い方に聞こえてしまうんですが、行巻にはこんなお言葉があります。聖典190頁3行目、大行の利益を語られるまとめのところであります。[しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆえに、これを「歓喜地」と名づく。]歓喜地というのは菩薩の初地の話ですね。それに匹敵するということを云うわけです。信心を獲ることは菩薩が初地を得るのに等しいと仰る。「これを初果に喩うることは、初果の行者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。」初果に喩えるというは、小乗の仏教で四つの位が立てられますが、預流・一來・不還・阿羅漢の内の最初の預流、仏道の流れに預かるという意味です。初果の聖者が一旦その流れに預かりさえすれば後はどれほど眠っておろうが、怠けていようが、もう二度と迷いに沈むことはない。二十九有とは迷いのあり方を指す言葉でありますが、どれほど怠けておろうが、一旦仏道に立てば二度と迷いに沈み込むことはないと。これに対して「いかにいわんや」云うまでもないということでしょうね。「十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。」阿弥陀仏が摂取して捨てたまわずという云い方をせずに、「この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力という。」と。阿弥陀仏がいて摂取して下さると云わない。行信に帰命する。すると摂取不捨が起る。だから阿弥陀仏と名づけたてまつると。ご和讃では「十方微塵世界の/念仏の衆生をみそなわし/摂取して捨てざれば/阿弥陀と名づけたてまつる」とあります。念仏の衆生を摂取して捨てたまわないので、そのおはたらきを阿弥陀と名づけるんですよ、とこういう云い方です。阿弥陀がいて私たちを摂取して下さるとは書かない。摂取不捨のおはたらき、その事実を阿弥陀と名づけるんだと云っています。これも安田先生の云い方を思い出しますが、仏がいて私を助けるのではない、私を助けるはたらきを仏と仰ぐのである、あるいは名づけるのであると仰った。これは実は背景があって、清沢満之先生が如来あっての信か、信あっての如来かというテーマを出されたわけであります。それを承けた曽我量深先生がずうっと引きずっておられて、90歳になるときの講演でそのことをもう一遍確かめられた。それが本になるときには「我如来を信ずるがゆえに如来ましますなり」と清沢先生の問いに応答された。如来があって信ずるのか信があっての如来なのかというときに「我如来を信ずるがゆえに如来ましますなり」と。信ずるという事実がないところには、如来と云うてみても雲を掴むような話ですね。仰いでいる人にとって如来がある。そのはたらきを受け止めた人のところに如来はましますと云わなきゃならん。浄土も同じでして、浄土てどこにあるんですかとよう聞かれますけれど、それは仰いでいる人の上にはたらいてくる。浄土を念じているところにそのはたらきは届いて来ていると云わなきゃならん。それを抜きに、目隠しをして手探りで探すような話であります。そういうことから云えばこの言葉は正に如来があって、それによって摂取されるとという云い方ではなくて、摂取されている事実を云おうとしている。それを阿弥陀仏と名づけるのでありますと、こういう云い方になっていますね。すごいなぁと思うのは、阿弥陀に帰命するとは云わないんです。行信に帰命する。自分にまで届いているはたらき、それに頷いた、その頷きを信と云うのですが、それを崇めていく、それに帰命すると云っています。だから阿弥陀に帰命すれば摂取されるという云い方はなさらないということは既に行巻に出ていることが注意されます。340頁へ戻りますと、さっきも私は要らんことを補ってしまいましたが、金剛の真心を開いて阿弥陀によって摂取不捨されるみたいなことを云うたわけですが、それは本当は不要でありまして、金剛の真心を開くところに摂取不捨ということが起る現れるんです。それ以外に摂取不捨という事実はどこにもないというふうにも読めますね。で、観経はこれを語ろうとするんだと。これが観経の真実なんですね。まぁ観経を読んでもなかなかそうは読めませんよね。これを善導、道綽、曇鸞の引文を経て、観経を読み切られた宗祖の受け止めであります。普通に読めば方便のところに書いてあったように、一つひとつ善根功徳を修して行く、それによって浄土往生を願っていくということが説かれてある経典なんですね。でもそれを自分がやっていると握れば、必ずそれはそれで自力のあり方に止まる、本当の往生にならないということがさっきのところに押えられていました。でも、その方便の教えを通して金剛の真心が開かれる、ここに摂取不捨が現れる、これが観経の真実だと押えているわけです。信楽こそが報土の真因
で、ここからもう観経・大経・阿弥陀経は三つ別々のものではあるが重なることがあるという形で述べて来られます。それが次の言葉ですね。「しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまう。」と。これは直前を承ければ、どう見ても「観経に真実あり」というところから続いてますよね。でも観経には至心信楽の願心ということは直接に出ているとはとても読めないわけです。ここが観経の内容と大経の内容が重なっていると親鸞聖人は云おうとしているように見えますね。これはもう信巻に掲げられていますので第18願を指していることは明らかですが、観経にそのことが説かれているんだと読み取られたわけであります。でもどの部分だと云うわけにいかんでしょうね。でも敢えてそれを云えば、観経の前後に称名念仏一つで助かると云われてくる、あれが正に第18願と内容重なるわけですが、しかしここで親鸞聖人は行の話じゃなくて信心の話に持って行かれるわけです。これが[報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。ここをもって『大経』には「信楽」と言えり。]と、こう続いて行きます。この辺さっきの休憩時間にご質問もあったところですが、正行助行雑行は要門から出ているというのはどういう意味でしょうかということをお尋ね頂きました。その意味で云うとこれやっぱり立てたものなんですね。方便として立てられる、だから正行だからこれで往生するんでしょうということになったら、今度は何が問題になるかと云えば、私雑行はやってません、こればっかりですから、と云うて形式に止まることが起きるんじゃないですか。或いは、念仏なら私一日に一万遍やってますから誰よりも多いと思いますみたいなことになって行くかも知れません。それはあくまでも我々を阿弥陀の世界に縁を結ばせるための方便だというのが、この要門より正・助・雑が出た、とこういう云い方なんでしょうね。それがここまで来ると、今度はどこまでも信心の問題なんです。だから“やってます”ということで許さないわけですね。信心がはっきりしてなかったら、それは本当の阿弥陀の法土に往生を遂げることになりませんということが、340頁の[しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまう。報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。]となって、[ここをもって『大経』には「信楽」と言えり。如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆえに「信」と言えるなり。]こう続いて行きます。これどうしても信巻の話がここまで響いて来ているわけでして、大経に至心信楽欲生と呼び掛けられる、これを親鸞聖人は本願の三信と押さえられます。それがここまで響いて来ているわけです。普通の信心と云えば、私たちが起す心にどうしても見えてしまいますが、親鸞聖人は至心信楽欲生というのは如来の心なんだと仰るのです。如来の願心なんですね。なぜなら至心はまことの心、真実の心と云われますが、人間には真実など無いということです。それを見そなわして、如来の至心を我々に回施して下さる、こういうことを信巻では云うて行くわけです。だから我々は如来の真実心を頂戴する、如来の真実心によって歩んで行く、これしかないということをずうっと確かめるんですね。三信ともにそうです。信楽と云っても私たちがその気になって信じたり楽うという意味じゃなくて如来の信楽を回施して下さる。欲生もそうですね。これは大悲心とも回向心とも押さえられますが、私たちが起す心じゃなくて、私たちは如来のお心を頂戴するほかないと信巻で既に云われている。ちょっと場所だけ確かめておきましょうか。それを承けていますので、ここは一般的な言葉でもいいんでしょうが、一々こだわっておられるように思います。一番始めで云えば、信巻の冒頭がすでにそうなっているんですが、210頁ですね。「それ以見れば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。」信楽というのは信心と云ってもいいんでしょうが、これが後の話と関係するものですから、まず冒頭のところで「信楽を獲得する」と云っています。つまり如来の願心を獲得するという云い方です。まぁ賜わるという言葉とちょっと違うように思うかも知れませんが、これは親鸞聖人のギリギリの表現だとあボクは思うんですね。賜わると云うとじっと待っているように思うかも知れません。獲得というと今度は私たちが自分の努力によって勝ち取るという意味になって、これも誤解を招く可能性もあります。しかしながら始めから丸投げでね、じっと待っているということではないという意味で、獲得という言葉は非常に大事にされます。ただ獲得と云っても、それは私たちの努力ではなくて“如来の願心より”と、しかも「より」は自然の自という字が使われます。おのずからそうなるという本願のはたらきによってそうなるということを自という字で表します。「真心」は「金剛の真心」とつながりますが、これが開き闡(あらわさ)れることは「大聖矜哀の善巧より顕彰せり。」この「より」は「従」です。これは外からの縁によってということを意味する字でしょうね。始めの自(より)はある意味で私たちの本来持っていながら芽を出していないものが芽を出して来るということを云おうとしている面もあるかも知れません。でも本来持っていると云うと、またこれ危うい表現になるんですね。どこに持っているんですかとすぐなるんです。でも内在と超越という問題でしょうかね、これは。内にあるとも云えない。しかし私と無関係なものをもらうという話でもない。ギリギリのところの表現だと思います。だから信心のことなんですが、これを信楽という言葉でずうっと語って行かれる。信巻の信楽釈
これが信巻の大きな流れなんですが、信楽のところだけ見ましょうかね。至心信楽欲生、これ三信全部がそうなんですが、227頁へ行きますと、信楽釈でありますが、[次に「信楽」というは、すなわちこれ如来の満足大悲・円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし、かるがゆえに「信楽」と名づく。]如来の満足大悲・円融無碍の信心海だと押えて、だから疑いが決して雑ることがないと云っています。蓋というのは煩悩のことでもありますね。疑いによって封じられていくわけですが、そんなことが一切混ってくることがない、一点の曇りもないわけであります。これを信楽と云うと云うんですね。だから私たちがその気になって信ずるというのは信楽とは呼べないわけです。「すなわち利他回向の至心をもって、信楽の体とするなり。」如来の利他のはたらきによって回向された至心をこの信楽の体とすると云っています。だから如来の至心、これに基づいて信楽があるということを押さえています。「しかるに無始より已来、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし。法爾として真実の信楽なし。」これは三心釈全部に貫かれますが、我々のあり方が明らかになるわけですね。だから至心に信楽して我が国に生れんと欲えと呼び掛けられて、ハイ分かりましたとならない。至心から始まりますが、至心であれとか信楽たれと云われると、そうでない我が身が必ず明かになる。真実であれと呼び掛けられて真実たり得ない自分が見える。それを元にしてこの真実の信楽ということが云われてくるわけですが、我々にそれが無いということも見えて来るんですね。ここは如来のはたらきを語っているようですけれども、その如来のはたらきに遇うところに自分のあり方が知らされるということにもなります。先輩方は讃歎と懴悔は同時だとずうっと云って来られました。如来に遇うということは如来のお徳、はたらきがいかにすぐれているかを讃歎すると同時に、それに背く自分を懴悔する。近いところでは清沢満之先生の如来を無限の智慧、慈悲、方便、能力と押えて下さった言葉がありますが、「無限の能力に触れたときに自分の能力が有限であったことが初めて分かる。無限の智慧に触れたときに自分の知恵に限りがあったことが分かる。無限の慈悲に触れたときに初めて自分の慈悲の有限性に気が付かさせられる。」宗教というのは有限と無限との接する出遇いのところにあるということを教えられますが、無限だけを知るということは有り得ないですね。無限に触れるとは有限が知らされるということです。まぁこれは親鸞聖人のお言葉に返れば、真実に触れると不真実が明らかになるということですね。これが無明海に流転する中で清浄の信楽はない、真実の信楽はないということです。「ここをもって無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得しがたし。一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。」これも大変面白いのですが、貪り愛着と瞋り憎しみの心が常に善心を汚し、常に法財を焼くと書いてあります。人間に常ということはなかなかないんですよ。でもここだけは常と書いてあるんですね。これだけは我々ずうっと継続しているんですね。そしてどれほど一所懸命してみてもということが「急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども」。[すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名付けざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生れんと欲する、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しく如来、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念・一刹那も疑蓋雑わることなきに由ってなり。この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに、必ず報土の正定の因と成る。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまえり。これを「利他真実の信心」と名づく。]これが回向成就の信心と云われたり、平易な言葉では如来より賜わりたる信心と云われる理由です。このことを信巻では丁寧になさっているわけであります。だから化身土に来て、いきなり信心というのはね、我々が起すものということはあり得ないのでありまして、これを承けて信心を押さえ直して行かれる、それが先ほどのところと繋がっているわけであります。「信楽」の「楽」がはずされている理由
340頁までもう一回戻ります。言葉遣いが信巻以来ずうっと重なっている息の長い文章やと思いますね。どれだけ響き合うような形で言葉を選ばれていったかということを思います。340頁の2行目です。[報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。ここをもって『大経』には「信楽」と言えるなり。]これは私たちが起こす信心ではなく、如来の願心を顕す言葉として云われています。その[如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆえに「信」と言えるなり。]まぁここは僕は信楽と云ってもらった方が分かり易いと思ってるんですけれども、それが我々の信心にまで成るということを仰ろうとしているのか、ここは信楽とは仰らない。楽の字ははずれてますね。だから我々に起る信心が実は如来の願心の回向成就である、如来の願心を根拠としているということを仰ろうとしているのだと思います。これが先ほどの金剛の真心を開くというところから展開するのは観経が顕わそうとしていることであり、それが実は大経のお心でもあるんだというように云っているわけです。心の深浅
それをまとめる形で[『観経』には「深心」と説けり。]と云ってます。この深心も私たちが起すような、私たちが深く信ずるような心に見えるかも知れませんが、観経が深心と云っているのは大経に云われる信楽ということを内容としているんだと。この順序を逆にするとまた分からなくなると思います。大経を挟むことによって観経の深心の意味を確かめています。そして深いということは、[諸機の浅信に対せるがゆえに「深」と言えるなり。]と云います。「諸機の浅信」というのは、さっき読んだことで云えば自利各別の信ですよね。これまでの経歴や素質、能力によって起すようなものです。これはどれほどあの人の信心は深いと云うてみても、それは程度問題なんですね。本当に深いということにならない。だから観経で云われる深心は私は深く信じてますというような心ではなくて、どこまでも如来のはたらきによって目覚めることなんです。だから諸機の浅信と自力各別の信は同じものと見ておかなきゃならんと思います。それに対して深と云えるんだとお経には仰っているんだということですね。そして[『小本』には「一心」と言えり、二行雑わることなきがゆえに「一」と言えるなり。]これは後で20願のところでもう一遍出て来ますが、先に出してるわけですね。阿弥陀経で云うと「一心」というのは、こういう内容を持ってますよということを押さえて下さっています。これを「二行雑わることなきがゆえに「一」と言えるなり」と。これは二心が無いということとも重なってきますが、念仏一つということですね。これに決まるということが阿弥陀経で云われる一心ということだと云うんです。ただそこに後のことを匂わせる言葉が並んでいますね。[また一心について深あり浅あり。「深」とは利他真実の心これなり、「浅」とは定散自利の心これなり。]とあります。だから一心と云うけれどもその一心にも深い一心と浅い一心があるんだと。これも前倒しして云っておられるわけです。そして深というのは利他真実、どこまでも如来の利他による、如来の利他力による真実の信心がこれであって、浅とは定散自利の心、さっきの言葉で云えば諸機の浅信ですわね。もう一つ前の言葉では自利各別の心でありますが、これはどれほど念仏一つだと云うても浅いと云わなきゃならんと。前を承けてと後に展開するということが全部重なって出てきておりますんで、なんでこんなこと一つひとつ仰るのかと思うとややこしい気がするんですけれども、これはどこまでの真実の信心をはっきりさせるために、そこへ導くための方便の教えであり、それによって明らかになるものと分けていくということなんですね。一応ここはずうっと観経の流れ、19願の流れで読んで行かないとなりません。それは次の次の頁までそうだと見ていただきましたが、阿弥陀経も折に触れて出しておられます。これは三経の関係、もっと云えば、18願と19、20願の関係を念頭に置いておられるから、こういう記述になっているんだと思います。途中でも申し上げましたが、親鸞聖人がこれほどこだわられるというのは、念仏一つということがいかに難しいかということです。それは先ず形式的に決まるということも難しいのです。他の行に心を奪われますから。しかし念仏一つと例え形として決まっても今度はその心が問題なんですね。結局ここでも「信楽」という真実信心を表わすこの言葉がここまで云われるということは結局どういう心で念仏するのかというところがはっきりしておきませんと、念仏一つに形式を整えたとしても自力の信心であり、それでは本当の阿弥陀の世界に生れることにならない。そらそうですわね、自分の努力意識ですから人を分け隔てしますね。出来た人と出来ない人、やった者とやれてない者と、必ずランクが付きます。だから阿弥陀の世界への往生ということは本当にどんな者をも分け隔てしない広い世界との出遇いであります。逆に云えば、作っていた狭い壁が砕けるということがここに問われなければならないわけであります。これが三経からの呼び掛けという形で親鸞聖人がまとめていかれる部分かなぁと思われることであります。もう少し続きますが、なるだけ整理してお話ししたいと思っていますが、なかなか細かい言葉が出て来るので、どうしてもそれに引き摺られることになりますけれども、今日はこの辺りまで見たということにしたいと思います。