『教行信証』の化身土巻を読む(19) 一楽 真 師
2017/ 10/ 27
顕彰隠密の義で観経を振り返る
今回は聖典337頁なんですが、どういう流れかと云うと、化身土巻前半は第19願と第20願に基づいて我々への呼び掛けを見ていかれるわけです。つまり真実に呼び返すために、法蔵菩薩は第18願で語らずに第19願を立てられた。更には第20願を立てられたということであります。そのお心に従って今度はお釈迦さまは第19の願に基づいて観経をお説きになられた。さらに第20の願に基づいて阿弥陀経をお説きになられた、こういう視点でお話がずうっと進んでいるわけであります。云い方を換えれば始めっから念仏一つの第18願と云ってみても頷かない我々がいるということなんですね。だから19願で諸々の功徳を修しなさいと呼び掛ける、そして20願ではいくつものことをしなくても良い、諸々の功徳の本を植えなさいと、念仏一つということを仰る。これが20願の大きな主旨であります。いまはその第19願のお心、観無量寿経でお説きになられたお心、これを読んでいるところです。少しだけ遡っておきますが331頁のところ、ここに観経をどう読むかという視点を親鸞聖人は立てて下さいまして、もう何遍もお話ししましたが、顕彰隠密というお経の読み方を我々にお示し下さいました。これ元々「顕彰隠密」という四文字の熟語でありますが、中を見ますと顕と彰隠密という一文字と三文字に分かれるわけです。顕の義というのは文字通りお経が説いていることでありますが、その奥に隠されたお心があると云うんですね。その顕を通して出遇ってほしいものがある、これが彰隠密だと云うわけです。これ昔から顕彰と云ったり穏顕と云ったり、そういう云い方で省略して先輩方は仰って下さいますが、親鸞聖人は顕の義と彰の義を観無量寿経に読み取らないといけないと云うわけです。顕の義について少しだけそこを通して見ますと[「顕」というはすなわち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。]と書いてあります。つまり定善散善という善を積むことを勧めている、これが観経の顕の義だと云うわけですね。善いことをしなさい、積み上げて行きなさい、それによって浄土に往生しなさいと云うわけです。我々の努力意識に寄り添いながら浄土に往生させようというのが顕の義であります。ところがこれはどこまでも如来の方便であると云ってますね。4行ぐらい後に「如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。」と云ってます。如来の特別なお手立てであって、浄土を欣慕させるためにこの善根を説いておられる。だから大事なのは善根を、例えば数値で表して100積めば往生できると云ってあったとしても、自分は90まで行きましたとか、まだ50ですとか、そういうように比べるのは意味ないんですよ、本当は。努力意識を持った我々に、じゃあ善根を積むところからやれと教えて下さっている。それによって浄土を願わせようとするのが如来の特別のお手立てだと云っているのが顕の義なんですね。それを通して出遇ってほしいのはその後に[「彰」というは]と云うのがありますね。「如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。」と。これは阿弥陀仏の広い願い、つまりせめて一人も漏らさない本願のはたらきによって誰一人漏れずに往生を遂げることができる、これを云いたいわけです。でも初めっから念仏一つで誰もが往生できますよなんて云ったら我々は魅力にも何にも感じないんですね。そんな教えはなんか有り難くない、やっぱり自分だけが選ばれた、私だけが到達できるという方が分かり易いんですね。それが顕と彰を分けて説かなければいけない意味であります。最終的には念仏一つを説く第18願で往生するという、ここに引張って行きたいわけです。一人も漏れないということを教えたいのですが、それと正反対の生き方になっている私たちが居るもんですから、じゃあ努力しなさい、ここからやりなさいと勧めて下さるということなんですね。この問答の前にも見ましたけれども、結局大経も観経も同じことを云ってるんだという話に一応なるんですけれど、それだったら態々違う説き方をした意味がないわけですね。なんで要は同じでも、違う説き方をするのか。つまり大経では念仏一つで誰もが助かりますよという、観経は努力して下さいと云うわけですから。その違う説き方をした意味を如来の方便として読み取って行った、これが親鸞聖人の観経の読み取りであります。ただそれはどこまでも曇鸞大師の意(こころ)に依ると書いてあります。331頁4行目で見ますと「釈家(善導)の意に依って、『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。」釈家にカッコして善導と補ってありますね。善導大師がそう読んでくれなかったらとても読めない、これが親鸞聖人の立ち位置です。自分で観経を読んだとは親鸞聖人は仰らないんですよ。「善導独明仏正意」と正信偈でいわれるとおり、善導大師お一人が観経をお説きになられた仏の正しきお心を明らかになさったのだというのが親鸞聖人の受け止めであります。だから観経の文章をいくつか挙げて、その後に善導大師の文章がずうっと続いている。いまそこを読んでるわけであります。「しかれば光明寺の和尚の云わく」とありますね、これ善導大師を呼ぶとき、こうお呼びになるわけです。昨日も大学院生のゼミでこれ話題になっていました。何故善導と名前で呼ばないのだろうかと。善導和尚と云ってもいいのにと。あるいは書物の名前を挙げてもいいのにとか。例えば浄土論註なんかでも「論に曰わく」と書いてあるとか。答えはないんですけれども、善導大師は沢山のものを書いておられるということもあって、その書物の名前よりも観経を読み取って下さった善導を云うときには光明寺の和尚で一貫するということで良かったのかもしれません。私も答えありません。昨日はゼミでもね、何でだろうかと話題になったということでありました。まぁしかし云われてみればその通りで、どこもかしこも光明寺の和尚で一貫しています。ここでまず観経疏の言葉が科文番号だけで読んで行きますと25、26、27、次頁へ行きまして28、29。この29が大変長かったわけであります。三心についての解釈でしたね、そうしてもう一枚めくっていただきました336頁の30番、まぁここには3行に亘って書いてありますが、これ全部が観経を解釈なさった善導大師のお言葉であります。こういう善導大師のお言葉によって観経を読む眼をいただいたとこれだけを引用しておられるということなんですね。終わるときは「文抄出」と書いてあります。善導大師の仰ったお言葉を抜き出しましたと。こういう形で引用文が一応区切りが付いていました。で、前回、前々回で次の往生礼讃にも入っておりました。それが31番、そして次の頁へ行って32番、この辺まで読んでいました。基本的に善導大師によって仏が観経をお説きになった意図を確かめて行こうとする、これがずうっと流れているわけですが、いろんな著作からなんです。でもそれ全然著作の名前を挙げずにまた云わく、また云わくと進めて行きますので親鸞聖人にとっては一つの流れがあると思います。これがなかなかこうだと云えないもんですから、もたもたしておるわけですね。今日はその往生礼讃の後の方に進んで行きたいんですが、少しだけ善導大師の著作について初めに確認をしておきたいと思います。善導の著作 五部九巻
『観経疏』は四巻から成ります。昔の人は四帖書とも呼んでおられます。これが一番大もとでありますが、その次に『法事讃』、それから『観念法門』、そして『往生礼讃』、『般舟讃』という四つがあるわけです。法事讃が上下二巻から成るわけでして、後はそれぞれが一冊本であります。全部で九巻になるので五部九巻と呼んでおります。観経疏は文字通り解説して下さった観経義疏と云っていい、観経の意味を解説して下さっている。始めから順番に一文字一文字文章の意味を取って、観経はこんなことを云ってるお経ですよと説明してくれているんですね。私たち善導大師といえば観経疏ばっかり見るわけですが、実はこれだけの本を書いておられる。観経疏以外の四部に注意しなければいけないということを繰り返し教えて下さったのが広瀬杲という先生でありました。ボクは大学院のときにゼミでお世話になったんですけれども、広瀬先生は気にしながらも、これを明らかにすることもなかなかできないとも仰ってました。キリスト教の方では儀式論というか、典礼と云うんだそうですが、儀式論とうのは教学に並んで大きいことなんだそうですね。広瀬先生も実際にキリスト教のNCC宗教研究所とかに呼ばれてお話しする機会があったときに、仏教ではこの典礼の部分はどうなってますかと云われた。いやぁと云うたものの、その時に考えてみれば善導大師がこれだけのことを云ってるということを改めてキリスト教の人から問われて考えさせられたと仰ってました。例えば法事讃というのはものすごく具体的でして、阿弥陀経を読んで行く法事というのが題名の意味ですね。仏法の行事をお勤めするその形なんです。例えば首座に坐った人がこういう偈文を唱えると、それに従って今度はお参りしている人がこういうふうに復唱すると、ちゃんと役割分担まで書いてあります。もっと云うと、座る前にはちゃんと身体を浄めてとかね、法事に臨む姿勢まで書いてあります。これは云ってみれば一日、夜に限ってそういう法事を勤めるときの形が決められている。これは阿弥陀経中心でありますけれども、そういうものが出てまいります。観念法門というのは、これ観念と書いてある通り阿弥陀仏を念ずること、これを形として定めてあるものなんですね。これは儀式の中では法門という字が付いているとおり儀式の教義を顕したものと云われる場合もあります。だから一応儀式を語るんですけれど、その中の教えの門、教門を表わすと江戸時代の講録などにはそんなふうに云われてますね。でも阿弥陀仏を念ずることの意味を確かめているわけです。繰り返しますが、観経疏もそういうこと云ってますが、これはお経の順番に従ってずうっと文章を説明していますからね。こっちは観念ということがどういう意味を持つのかということを義として押えている理論書と云っていいわけですが、往生礼讃は一日に六時勤める、六時礼讃という形を定めておりまして、これは毎日のことであります。朝から数えますと晨朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜と一日六回お勤めをする。日没から始まって次の日の日中に終わるというのが一応の形になっています。これは今でもその形は残っていまして、明日がご命日だというと前の日からお待ち受けというか、準備するわけですよね。その当日になってから、今日命日やったと、そんなのはあまりにも疎かでありまして、明日ご命日をお迎えすると云って前の日の日没からお参りするという形を定めておられる。だから日没讃から始まるのですが、夜中から翌日の朝の晨朝から日中とお迎えするわけであります。今は丁寧に勤めるところでは四座勤めるところはありますが、中夜後夜という勤行はありませんね。私こんど九州へ行かんならんのですが、丁寧なのは一日四座の報恩講にお参りせんならんのです。二泊三日で全部で11座あるのでよろしくと云われています。なかなか丁寧なところがあるなぁと思いました。11座何を喋るんでしょうね、そっちの方が心配になってますけど。でもちゃんと夜のお勤めと真夜中だけなくて、晨朝、日中、逮夜と四座勤めているところあるわけです。でもこれ善導大師から始まっているわけです。六時礼讃と云われます。大谷派では読みませんが往生礼讃というのは西本願寺の方では今でも読んでおられる。浄土真宗では長らく使ってきたお聖教だそうであります。これ毎日のお勤めですからね、それを形で示していくわけです。最後の般舟讃は般舟三昧ということですが、見仏三昧とか、諸仏現前三昧とも云われます。インドの言葉を音写して般舟三昧と云っているのですが、これは仏さまを誉め讃えることを通して阿弥陀にお会いする。これはずうっと偈文で構成されていて一大詩だと云った人もありますけれども、善導大師はそういうものも作っています。法事讃を読誦、観念法門を観察、法事讃を礼拝、般舟讃を讃歎供養というふうに称名以外の五正行に当てて解釈する人もあります。まずお経を読む読誦、阿弥陀を見る観察、阿弥陀を礼拝する礼拝、称名念仏は飛ばしまして、最後は讃歎供養に当てはまるという解釈もあります。善導大師はそんなこと云ってるわけじゃないんですけどね。で、称名念仏に極まるわけですが、云ってみれば全部称名念仏を勧めるための教えですよね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と毎日いただいていく、あるいはご法事を勤めるときにもそれをいただいていく形を定められたということであります。話は広瀬先生に戻りますが、善導大師はそういう儀式論、我々が日常の中でどうやって阿弥陀の世界をいただいて行くかということを定めて下さったというわけです。折に触れて思い出せばいいと、そういうものかも知れませんが、私たちどうでしょう。朝のお勤めなかったら勤行しますか。月々の行事あるいは法事がなかったら仏さんに手を合わせますか。そういうことがないとなかなか仏さんの世界をいただくのが難しい。日常生活の全体を仏法の中に位置づけようとした、これが善導大師の儀式論やと思いますね。この辺のことをやっておられたのが専修学院の竹中先生。あるいは石川県の平野修先生も法事讃を講義しておられましたけれども、なかなか観経疏が読まれるほどにはこちらは読まれないのですね。親鸞聖人はここに儀式の言葉として引くわけではありませんが、残らず往生礼讃から始まって今日読んで行くところ、全部の中から言葉を引いて来ておられる。これは引用文の特徴でありますが、他にはない言葉、これでしか押えられないという意味で引いておられるのでしょうね。だから一々題名は出しておられません。全部善導大師が「また云わく」またこう仰っている、またこのようにも仰っているという形で善導大師の一貫した文章として読むんですね。だから私らなんか元はどうだったかということが気になりますけれども、ここはこの文脈で読まないとどうしても読めないということを思うんですね。まぁ元はどうやったかを確かめて、その上でここはどこから引かれて云いるかということを見るのも大切で、ここは大切ではすけれども一連のものとして読んで行ったらどうかなぁと私は見当付けをしておるわけであります。
往生礼讃に出る雑業の九失
それで前回往生礼讃の引文を読んでおりましたが、決してここでは六時の勤行とかを云ってないわけです。そういう話ではなくて、まず336頁は前々回に読んでいましたが、「三心を具して必ず生を得」と云ってます。このことを勧めるために至誠心と回向発願心の文章だけが挙げられていましたね。肝心の深心の釈は信巻あるいは行巻に移されてました。出てないんですよ。それは真実信心を表わすからですね。真実信心に導くために至誠心、まことであれと呼び掛け、それを徹底して願いを起して歩んで行く、まぁ信心に立って歩むという回向発願心の課題がここに引かれていたと思います。で、前回337頁の往生礼讃の文章を読んでおりましたが、少しだけ振り返っておきたいと思います。「また云わく、もし専を捨てて雑業を修せんとする者は、百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。」こういう言葉から始まっていました。専というのは専らに念仏を修するということを勧めるわけですね。ところが念仏以外にいろいろなものを積み上げていくという雑業を修せんとする者は、結局それに取りまぎられていくわけでして、そういうあり方では百人いても希に一人か二人が往生を得られる。千人おれば希に三人か五人は得られると云います。大多数は往生を得られないと云う。それによって専らということを勧める。これがこの往生礼讃の趣旨でありました。専修を勧めるんですね。専ら阿弥陀仏を念ずることを勧めるお言葉であります。「せんしゅう」ではなく「ん」の次は濁るという読み癖でして「せんじゅ」と読み習わしております。いろんなことをやればもっともっと功徳があるんじゃないかと思うのが我々の人情でありますけれども、しかしそれは念仏を中心にしているんじゃないんです。やっている自分が偉いとかね、やっている自分をあてにするということに必ず落ちて行きます。だから念仏と云いながら結局、写経すればもっといいだろうとか、勉強した方がもっと価値があるだろうとか、まぁせんよりはした方がいいと思いますけれど、やったことに執われて行く、これが必ず念仏以外のものを当てにしようということになるわけです。あてにする心というのは自分なりの予想があるわけですね、到達点というか、これを得られるはずだという。それに向かって頑張ってるだけで、それは阿弥陀の浄土を目指しているかどうか分かりませんよね。自分が勝手に思い描いた覚りの境地であるとか、救いのあり方を思い描いているだけということがあります。仏を念ずるということは、仏にお遇いするという中味を持っていないといけないわけです。だから専修を捨てて雑業、それ以外のものに依ろうというあり方は浄土には生れられないと呼び掛けているのが、この文章ですね。なぜか、ということが九つ挙がっていましたね。「いまし雑縁乱動す、正念を失するに由るがゆえに。」仏の本願と相応せざるがゆえに、教と相違するがゆえに、いろんな縁が乱れ来たって仏を念ずるという正念が失われるからだと。二つ目が「仏の本願と相応せざるがゆえに」阿弥陀仏が念仏一つで迎え取ると仰っているのに、あれこれやった方がもっと良いに違いないと、こちら側を基準にしている、これは仏の本願と相応しないんですね。あるいは「教と相違せる」というのは、その阿弥陀仏の世界を教えようとするお釈迦さまの教えにも違って行くわけです。それと「仏語に順ぜざる」とこれ同じことでありますけれども結局は仏のお言葉に従っていないと云われています。そして「係念相続せざる」これは念ずること一つということに決まらずあれもこれもということですから、思いを係けるということがブチ切れになって行くわけですね、それが次に「憶想間断」阿弥陀仏を思うことが切れていくとなっています。それから「回願慇重真実ならざるがゆえに」、回願というのは願いを回らす、それがねんごろに重く真実でないと云っています。つまり阿弥陀を思う心、浄土に生まれようとする心が重くないし、ねんごろでない、真心でないと云われています。そして「貪瞋諸見の煩悩来り間断するがゆえに」いろんな煩悩が起きるわけです。同じ念仏している仲間同志でもあの人は私よりスゴイみたいな妬みの心が起る。逆にオレの方が長年やって来たと云うて威張る心が起る。これ仏を念じているとは云えませんよね。結局自己主張なだけですから。だから仏教に関わりながらも煩悩に振り廻されて行く。そして九つ目が「慚愧懴悔の心あることなきがゆえに」。そのことがおかしいとも思わない、こんなあり方間違っているんじゃないかと振り返ることができない。まぁこれ仏教だけに限らないかも知れません。なんでも経験を積めば積むほどその自分の経験に固執するということが起きますわ。やってること間違ってない、自分は誰よりも分かっている、こういうことに落ちて行くんです。これが一番重い問題でしょうね。ちょっとおかしいんじゃないかとなれば誰かにお聞きすることも起きますが、自分はやれている、間違ってないとなったら、人に聞く気も起きないんじゃないんですかね。これが九つの過失でありますが、九失として挙げているわけです。第20願の問題 専修にして雑心の四失
善導大師はあと四つ続けて、ここにも云うんですが、親鸞聖人はその四つを専修念仏のところにも起る過失として挙げていくんですね。だから第20願の問題に譲るわけです。前にも云いましたが、第19願というのは念仏とそれ以外の行、その行の選びの問題です。第20願は念仏一つと選んだところにも、どういう根性で念仏しているかという、ある意味で信心に関る問題なんですね。だから今は専修念仏を勧めるためにこれ以外のことを修するのはいいことをしているようだけれども、それでは往生できませんよということを九つ云いましたが、たとえ専修念仏であってもその心根がこれでいいことがあるはずだとか、そういう自分の思いを握っていくなら、それは本当の念仏とは云えないという形で、そっちに四つは譲るんですね。それがどこだったか、355頁でありました。後ろから3行目「真に知りぬ。専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。」第20願の問題を述べて来てそれをまとめる部分です。本当にこのことがはっきりしました。専修、形は専修念仏なんですよ。しかし、そこに雑心があると云うんですね。やったことを握ろうとする、あるいは人と比べようとする。そういう根性が起きるならば本当の慶びにはならない。まぁ云ってみれば小さな慶びはあるんでしょうね。しかし本当の突き抜けたような慶びがないということを大慶喜心を獲ずと云っています。それを善導大師のあとの四つをこっちに回していますが、[かるがゆえに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし、業行を作すといえども心に軽慢を生ず。」と書いてあります。仏のご恩を念じ、それに応えようとすることのない念仏という行ない、これを業行と云っていますが、それをしていても心にあなどる心が起るんです。これ大体は人に対して起ることが多いですね。あいつはあの程度かみたいなことです。軽んじていくんです。それから同じ念仏している仲間でも、あれは口で云うとるだけやと、自分の念仏がさもいいものであるかのように云うわけです。その時点でもうそれは念仏じゃないでしょ、自己主張ですよね。自分を侮る場合もありますね、勿論。自分のようなものはダメやと、すごい人に会った時はそう思うでしょうね。鼻を折られたときに、あぁ勉強していたつもりだけど、これじゃダメやとか奮起すればいいんですけど、そうじゃなくて大体落ち込んで行くということがあります。でも人間の積み上げた経歴で助かるなんてどこにも云うてないんですよ。阿弥陀を念ずること一つによって、どんな者も平等に迎え取られるというのが真実信心に立つ念仏のあり方ですから、親鸞聖人はこれを後の20願の問題として分けているということです。二つ目が「常に名利と相応するがゆえに、人我おのずから覆いて同行・善知識に親近せざるがゆえに」。これどこで切るかいろいろ問題なあり方なんですけれど、「かの仏恩を念報することなし」ということが全体を支えていると云ってもいいです。で、「軽慢を生ず」が一つと「常に名利と相応す」が二つ目ですね。念仏すら、名誉欲でやるわけです。それがどうなるかと云えば、三つ目、念仏のお仲間にも近づかない、自分のあり方を教えてくれる善知識にも近づかない。壁を作ってね、その狭い世界に閉じ籠もっていくようなあり方です。最後にまとめて、「楽みて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆえに」結局迷いを超えていくあり方を自らも障え、他をも障えて行きます。この辺の一番分かり易い例は歎異抄の後半部分がここに相当します。歎異抄の第11章から第18章に異義の8ヶ条が出て来ますが、そこに出てくる人たちはみんな法然上人の教えを聞いた人、あるいは聞いた人から学んだ人たちなんです。だから念仏の教えに縁を持っている人たちの話ばっかりなんです。例えば第13条なんかに、これこれのことをした者は道場に入るなという貼紙がしてあると云うんですね。つまりこんな奴はこの道場で聞法する資格はありませんと云うんです。貼っている人は真面目なつもりでしょうね。この念仏道場を護るためには、あんな奴は来てほしくないということです。でもその発想がどんな者も分け隔てしない阿弥陀の世界を自分が狭くしてますよね。そのことにも気が付いていない。だからいい者だけが念仏するんですかと第13章には書かれています。悪人を救うための念仏でしょうと。そういうことを見失っているのを歎く言葉がずらっと並んでいます。ボクいつも云うんですけど、歎異抄はその辺の道を歩いている人が仏法を聞いていないと嘆いているわけじゃないんです。そんな方々は今から出遇うチャンスがあります。もっと云えば、仏法に対して批判を加えている人は求めているから批判するのです。念仏したぐらいで救われますかというのは本気で求めているから云うわけでしょ、そういう人はまだ今から出会う縁がある。一番念仏から遠いというのは、自分は分かっているというところに腰を下ろしている人です。オレほど分かった者はおらんというのがなかなか手掛かりを掴めないんです。一旦そこに落ち込むと問題なんですね。だから歎異抄はそこを歎くわけです。聞いていながら教えに食い違っていることを歎く、これが歎異抄やと思いますが、親鸞聖人も同じことを法然上人のお弟子の中で見ておられたのでしょうね。毎日何万遍も念仏している人はいっぱいいるんです。ところがその念仏している心が、法然上人にはかなわないけれどお前よりましやと、こんな心で念仏していたら阿弥陀さんを念じているんじゃないですよね。オレは偉いということを云ってるだけです。何とかこの問題を抉り出さねばならないと、念仏するところにどんな問題があるか、そこにも専修にして雑心ということがあるわけです。ここでは雑心の資質と云うておきましょうかね。形は念仏一つなんですよ。でもそこに自力の心が雑ざっているというのを分けていくわけです。さっきの善導大師のお言葉では一連の文章なんですが、そのようになっております。慚愧懴悔の心
それでは337頁に戻ります。一応こっちの文脈でまた読んでおきたいと思います。4行目まで行きましたね。「慚愧懴悔の心あることなきがゆえに」と云って「懴悔に三品あり。乃至」と中略しています。これはあとで述べますということがちゃんとここに出ているので、親鸞聖人はその意図を取って後に述べてあるところを持って来ていると云えばいいでしょうね。決して善導大師の往生礼讃の趣旨を無視したわけではありません。でも善導大師はここに懴悔に三品あり、後に詳しく広く説くと云って、そしてあとの四つの資質がずっと並んでいるのですが、それをカットしてしまっている。そして懴悔ということの大事さを云おうとして上中下が挙げられていました。もう一回読んでおきます。「上品の懴悔とは、身の毛孔の中より血を流し、眼の中より血出すをば、上品の懴悔と名づく。」ここまで為すことができて上品の懴悔だというわけです。「中品の懴悔とは、偏身に熱き汗毛孔より出ず、眼の中より血の流るるは、中品の懴悔と名づく。下品の懴悔とは、偏身徹り熱く、眼の中より涙出ずるをば、下品の懴悔と名づく。これらの三品、差別ありといえども、これ久しく解脱分の善根を種えたる人なり。」迷いを超えて行く分、因と云ってもいいですが、その善根を植えた人と云えると云うんですね。「今生に法を敬い、人を重くし身命を惜しまず、乃至小罪ももし懴ずればすなわちよく心髄に徹りて、よくかくのごとく懴すれば、久近を問わず、所有の重障みなたちまちに滅尽せしむることをいたす。」これ懴悔の大事さを云ってるわけです。ただここを早とちりすると、あぁ今日から上品の懴悔は無理でも下品の懴悔くらいは頑張ろうかみたいなことになるんですが、何遍も云いますけれど、これ化身土巻に引いてあるということが大事です。これは私たちがどのくらい罪を犯しながら生きているかということを自覚せよという呼びかけでありまして、この懴悔ができれば位が上がるとか、修行が進んだとか、そんな話には決してならないです。ここだけ読むと私たち今日から上品は無理でも中か下は目指そうかとなりそうですよね。そうじゃない。だから親鸞聖人はもうちょっと引いてます。「もしかくのごとくせざれば、たとい日夜十二時、急に走むれども終にこれ益なし。差うて作さざる者は、知りぬべし、と。流涙流血等にあたわずあといえども、ただよく真心徹到する者は、すなわち上と同じ、と。」真心徹到について親鸞聖人は真実信巻に述べておられます。だから真実信心が成り立てば、そこに懴悔を上か中か下かとか、どこまで出来たかとか、そんなこと云わなくてもいい。云い方を換えれば真心徹到の中にはこの懴悔も具わっているというべきでしょうね。本当に罪深い我が身であった、そんなことも知らずに日暮らしをしておった。そういう愚かな私のために如来は仏を念じて生きよと教えられたのだという内容をそこに持つわけであります。235頁にあります。これも善導大師の観経疏のお言葉ですが、235頁の真ん中辺り62番と番号が付いています。「また云わく、真心徹到して、苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣いて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境、軽爾としてすなわち階うべからず。苦悩の娑婆、輒然として離るることを得るに由なし。」とこんなふうに云ってます。真心徹到してこの苦しみの娑婆を厭い離れる、そして極楽の無為を欣って永く常楽に帰しなさいと呼び掛けます。ただし無為の涅槃界、極楽はそう簡単にかなうというわけにはいかない。「階」という字を使っておられます。苦悩の娑婆はたやすく離れることは難しい。歎異抄では「苦悩の旧里はすてがたく」と書いてあります。「いまだうまれざる安養の浄土はこいしからず」と。いくら浄土を教えられても早く行きたいなんて思わないです。苦しみが渦巻くと云われても、この世界が好きなんです。もっと云えば勝った負けた、損か得かに、そう馴染んでしまっているわけです。それを超えた世界があるよと云われても、そんなところへ行ったら楽しみがないじゃないですか、みたいな、浄土はまだいいですわみたいなことになる。でもここだけ見ると真心徹到というのは、私が頑張ることのように見えますが、これどういう文脈かというと、三一問答と云われまして、至心信楽欲生というのが全部如来の心だということを仰る。親鸞聖人は真心、つまりまことの心というのは人間には徹底してないということを押さえられる。それが三心一心問答のところです。だから真心徹到と云われて、はい今日から真の心で頑張りますという話にはならないですね。まことたり得ない我が身がいよいよ見えるということ、そこに如来のまことをいただいて生きる、それしか私たちには道がないということがいよいよはっきりするのです。だから真心徹到というのも親鸞聖人からすれば、如来のまことの心が私たちに徹ってくる、至ってくると見ておられると思います。それがいまの文章で云うとその後半ですね。「金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。」とあります。この「金剛の志」というのは実は如来より賜わりたる信心のことなんですよ。私が今日からブレないようになるんじゃないんです。導いて下さる教えがブレないから、その教えに一歩一歩歩むということが成り立つんですよ。今日から自分が真心徹到しようとしたり、金剛になろうとしたりすると、それはまたオレは結構いけたとか、あいつに比べたらマシだということになって行くんです。まぁこれギリギリの話ですね。第20願の問題と、そして第18願の真実信心の問題とはギリギリの話です。でも自分に根拠を置く限り、自分に有功性を置く限り、それは全部第20願で問題にされる自力のあり方になるでしょうね。如来に根拠を置く、如来に導かれて歩むより他ないということが徹底して決まる。これは自分の虚仮不実ということが明らかになるからです。こういう問題が実は信巻で云われているわけです。その後もうちょっと読んでおきますと「金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。」それ以外に生死の元を絶つ道はあり得ないと云っています。「もし親り慈尊に従いたてまつらずは」これ基本的にはお釈迦さまを指しています。慈悲をもって我々を導いてくださる尊い釈尊に従うことがなければ「何ぞよくこの長き歎きを勉れん、と。」と云うているわけですね。だからこういうことがすでに信巻に述べられていることを通して、さっきのところへ戻ります。337頁で「真心徹到する者は上と同じ、と。」と云うわけです。つまり如来より賜わる信心に立って生きる、そこに上中下の懴悔を真似しなくても大丈夫なんです。どこまでやれたかということを比べる必要もないんです、懺悔になると云っていいでしょうね。その懺悔の心も自分から起すんじゃなくて、知らされて懴悔が我々に起るわけです。信巻では阿闍世の問題が長々と引かれますが、あの阿闍世は父親を殺して始めは地獄に落ちると悩んでいます。これをちょっと見ると、反省しているように見えるんですが、人間の反省というのは厄介なもので、そこに必ず取引の根性があります。なんとか逃れる道はないのか、みたいな。父を殺したことの愚かさを本当に反省できるか、と云えば難しくてちょっとやり過ぎたかな、その結果地獄に落ちるとなったら自分が困るなぁと自分のことを心配しているんです。本当にしでかした罪を心の底から懺悔するなんて云うことは人間にはあり得るのかということを阿闍世の物語は問題にしていると思います。本当に犯した罪を自分の問題として受け止めたのはお釈迦さまに遇うてからですね。とても逃れることなどできない。本当に愚かな自分だったということに気が付いた阿闍世は最後どうなるかと云うと、自分は愚かであった、こんなこと他の人に繰り返させてはいけない。自分は仏法を聞いて行く、それを他の人にもお伝えしたい。そのためには地獄に落ちてどんな苦しみを受けても構いませんと云える阿闍世が誕生する。これが本当の意味の懴悔の心が起った証拠でしょうね。反省しているという話じゃない。自分の愚かさを全面的に自覚できた、容れられたということにおいて罪から逃れようとする、自分の過去から解放されようとする、そんなことに別れを告げることができたんでしょうね。だからやったことが消えて助かったのではない。やったことを受け止めて助かったのです。その意味で云うと、懺悔というのは私が起すような懴悔ではないということを、前回お話ししておったことであります。専を捨てて雑業を修する者
で、今日はそれに続いてまず読んでおきたいのが337頁。観念法門の言葉が一句引かれておりますね。「また云わく、すべて余の雑業の行者を照摂すと論ぜず、と。」これもいきなりの感じがします。前や後とどうつながるのか分かりませんね。しかしながらこれは前の文章を踏まえると、一つ前の往生礼讃は「もし専を捨てて雑業を修せんとする者は」という言葉がありましたね、これとのつながりだと読めますね。「すべて余の雑業の行者」というのは「専を捨てて雑業を修する者」でしょ、念仏に立たずにいろんなことをやって助かろうとする者、そういう者は照摂して論ぜずとあるわけです。阿弥陀仏が照らし摂めて下さるとは論じていない。そういうことは云われていない。しかし照摂しないとは云ってないんですね。照らさないとは云ってないんです、摂めないとは云ってないんです。「照摂すと論ぜず」と云っている。微妙な言葉の違いかも知れませんが、論ぜずがあるとないでは大分違うと思います。だって阿弥陀さんは総ての者に呼び掛けている。あるいは光を降り注いている。でもそれをこちら側が受け止めないということがあるわけで、受け止めない者はその救いから漏れて行くわけです。ある意味でみんな本願の中にいると云っていいのですが、その本願に背いて生きている者が、ここで云う「余の雑業の行者」なんですね。だから阿弥陀仏が照らさないんじゃなくて、そのお照らしからこっちが勝手に漏れ、その恩恵に与からない、こういう問題ですよね。阿弥陀仏の本願を船に例えれば、船はとっくにあるんです。どんな荒海をも渡す舟が。しかしそれに乗ろうとしない者は、その船の恩恵には与かれない。阿弥陀さんが乗せないと云っているんじゃない、乗らないんです。なぜかと云ったら、そんな船に乗るより自分の泳ぎがあてになると思っている間は乗らない。分かり易く云えば、仏教なんかなくても生きられると思っている間は、阿弥陀さんがどれだけ念仏してくれよ、浄土に生まれてくれよと云っても私には関係ないとなりますわね。阿弥陀さんが除外するんじゃないんですよ。排除するんじゃない。乗りたくない、という者が勝手に阿弥陀さんの救済からはずれて行くという問題です。だから「照摂せず」じゃない。照らされているんだけれども、その光が届かない。受けておっても気が付かないというべきかも知れません。これを親鸞聖人が解説して下さっていたところまで紹介していたように思いますけれども、どこに出ているかと云いますと、522頁を開けて下さいす。ここには親鸞聖人の解説が付いているので分かり易いと思います。後から2行目のところ、これが元の観念法門のお言葉であります。『尊号真像銘文』という親鸞聖人が和語で書かれたお聖教であります。これは信巻にも引かれるのですが、そっちは原文そのものでありますので、こっちの解説の部分で見ておきたいと思います。「言護念増上縁者 乃至 但有専念 阿弥陀仏衆生 彼仏心光 常照是人 摂護不捨」ここで一応切れますが、その次が化身土に引かれているところですね。「総不論照摂 余雑業行者」この部分だけ抜き出しているわけですね。まことの心をえたる人をこのよにてつねにまもりたまう
そして「此亦是 現生護念増上縁」これまたこれ、現生護念増上縁なりと、現生において護り念ぜられる増上縁を語る文章だと云っています。[「言護念増上縁者」というは、まことの心をえたる人をこのよにてつねにまもりたまうともうすことばなり。]「このよ」というのは特に大事です。親鸞聖人は現生の利益、現世の利益ということをちゃんと語ります。浄土に往生をするということが決まると云うと、何か死ぬのを待っているような、浄土に行くのを待っているように聞こえるかも知れませんが、行く場所が決まったということは今の生き方も明らかに変わるんですよ。これは阿弥陀に護り念ぜられて生きる生き方がこの世で決まる。それを[「但有専念 阿弥陀仏衆生」というは、ひとすじにふたごころなく弥陀仏を念じたてまつるともうすなり。「彼仏心光 常照是人」というは、彼はかのという。仏心光は無碍光仏の御こころともうすなり。常照は、つねにてらすともうす。つねにというは、ときをきらわず、日をへだてず]どんな時もと云うことですね。それから[ところをわかず]どこに居ってもです。[まことの信心ある人をばつねにてらしたまうとなり。てらすというは、かの仏心のおさめとりたまうとなり。仏心光は、すなわち阿弥陀仏の御こころにおさめたまうとしるべし。是人は、信心をえたる人なり。]このひとという言葉ですが、単なる指示語じゃなくて信心を得たる人を、是人と云ってますね、その人を常に護りたまうのです。[つねにまもりたまうともうす天魔波旬にやぶられず、悪鬼悪神にみだられず、摂護不捨したまうゆえなり。]このように生きるということは、さまざまな誘惑に呑み込まれ易い、これが天魔破旬にやぶられたり、悪鬼悪神にみだされずということだと云うんですね。それがない。世間の価値観は怒涛のように押し寄せて来ますけれも、その中で生きる価値があるとかないとかで心細くなることもありますが、そういうことに破られることがない。乱られることがないと云っているのです。それが護られるということの実際なんですね。それを[「摂護不捨」というは、おさめまもりてすてずとなり。]と云っておいて次の一句。これが先ほど化身土巻に引かれたところですが、[「総不論照摂 余雑業行者」というは、総はすべてという、みなという。雑業雑修の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまわずとなり。てらしまもりたまわずともうすは、摂取不捨の利益にあずからずとなり。本願の行者にあらざるゆえなりとしるべし。しかれば摂護不捨と釈したまわず。]とありました。この部分が引かれているわけですね。337頁に戻りますと、たった一行だけ観念法門からなぜここに引かれたのか、観念法門の元の文脈とどうつながるのかということも思うんですが、護られる方の利益については信巻に引かれている。真実信心の利益ね。護られない方をこっちに親鸞聖人は引いておられる。それによって前回の往生礼讃とくっ付けて読めば「専を捨てて雑業を修せんとする者は照摂すと論ぜず」と読めますね。だから専修念仏を勧める方便の教えがここにずうっと流れてあるということです。折角阿弥陀の世界があるのにそれを受け止めないということは、その救いから漏れる。これが云われていると見当付けができるかと思います。それを受けて今度は法事讃の一文と般舟讃の二文が続いて行くわけです。種種の法門みな解脱す、だけれども?
観念法門を終って337頁後ろから3行目の法事讃の引文に入ります。どういう流れなのかということ、なかなか難しいのですが、前の往生礼讃と観念法門は一続きのこととして専修念仏を勧める、逆に云えば雑業のあり方では阿弥陀のお照らしには与かれないということが流れとして読み取れましたね。このことを今度は法事讃の言葉でどんなふうに云っていくかなんですが、これ、ここで切るとちょっと分かり難いんです。まぁこのページの終りまで読みます。「また云わく、如来、五濁に出現して、よろしきに随いて方便して群萌を化したまう。あるいは「多聞にして得度す」と説き、あるいは「少しき解りて三明を証す」と説く、あるいは「福恵双べて障を除く」と教え、あるいは「禅念して座して思量せよ」と教う。種種の法門みな解脱す、と。」言葉だけ当っておきますと「如来」はおしゃかさまですね、この五濁悪世に出現して下さった。「よろしきに随いて」は相手の状態に応じて方便してといてくださった、これが群萌を教化するお釈迦さまのなさり方なんですね。だから相手に応じて説き方は違うわけです。「あるいは多聞にして得度す」は沢山聞きなさいとということです。よく聞く者に迷いを超える道は開かれますと。ある意味では努力を勧めるわけですね。でもこれだけに執われるとすれば、努力しない者はダメだということになるでしょうね。でもこれは方便して群萌を教化なさる形なんだとはっきり押えています。[あるいは「少しき解りて三明を証す」]三明というのは宿命通と天眼通と漏尽通だと云われています。自ら迷いを超え人を迷いから超えさせる智慧を獲得するというのですが、そのときに「少しき解りて」というのが面白いですね。これさっきの多聞とちょっと違うんですよ。つまり理解と云うとちょっと卑近な云い方に過ぎますけれど、ちゃんと分かれば、了解すればそこに智慧は獲得できるのだということを勧める。まぁこれは聡い人に向って云うということがあるのかも知れませんね。長く聞かなきゃいかんと云うんじゃない。努力を勧めるんじゃなくて勘を働かせなさいと云うことですね。ある意味で鈍い人じゃなくて聡い人向けの言葉と云ってもいいと思いますね。これ、相手が違ったらエライことになります。一を聞いたら十分かる人に長く聞かなきゃダメだと云うたら嫌気さすかも知れないでしょ。逆に一遍聞いただけではなかなか分からんという人に、ちょっとでいいからと云ってもダメです、長いこと継続して聞くのが必要です。人によって違うんです。でもこれはどこまでも如来の方便して群生を教化して下さるやり方だと云ってるわけです。[あるいは「福恵双べて障を除く」]これは福徳と智慧と云われますが、代表的に云えば菩薩の道と解釈しているものもあります。福と恵を並べて、それによって迷い傷つけ合っていくことを除いて行くと云うんですね。[「禅念して座して思量せよ」]これ座禅組めということですね。念は「しずか」とも読みます。あるいは思いを専らにするとも読める字ですが、雑念を払って座ることによって思量する。これは禅宗の言葉を視野に入れて云っているんですね。でもそれも方便だと云うんです。ただ最後に「種種の法門みな解脱す」と書いてあるもんですから、この文章をどう読んだらいいのかと先輩方も苦労しているわけです。全部方便だと云っておられるのに、どれでも解脱できますよと最後に云うもんですから、どう読んだらいいのかなぁ、親鸞聖人は方便の方を大事だと云っているんか、それは方便だから依るなと云っているのか分からない。意味が取りにくいと云ってる人もあります。だから、ここで切ると難しいんです。なんでかと云うと、実は親鸞聖人が後の方に回しておられる文章に続いて行くんですね。345頁にそれを引いておられます。1行目にこんな言葉があるでしょ。「無過念仏往西方 三念五念仏来迎」念仏して西方に往くに過ぎたるものは無し。次に上は一生涯を尽すような念仏から下は十遍の念仏あるいは三遍五遍の念仏に至るまで仏は来迎して下さいますよという文章なんですが、これが先ほどの後にくっついているわけです。くっつけて読んでみるとどうなるか。「種種の法門みな解脱す」とそこで切られていましたが、「しかしながら」という意味になりますね。どの法門でも解脱は出来るんだけれども、念仏して西方に往くに過ぎたるものは無いんですよ。三念五念で仏は必ず迎えに来て下さいますよと云っている。ここまであれば分かり易いんですよ。これが後に回されているもんですから、何でこうなさったのかと云っている人もあります。私自身これをどう読むべきかと悩んでいたころもありますけれども、法事讃で一区切りせずに次の文章に続いて行けば話がちゃんとつながっているんです。だからさっき云いましたね、337頁の往生礼讃の始めの言葉が観念法門に続いている。書物を飛び越えているんですね。元の書物の文脈をこえて善導大師が何を云おうとしているのか、そのお勧めとして読めば、ここは読めないことはないと思います。だから「種種の法門みな解脱す」だけれども、という接続詞はないけれども345頁の言葉にくっつけて読みたいですね。いろいろ相手に応じて道を説いて下さった。これはお釈迦さまが人を導くための方便なんですよ。どれによってでも解脱できますけれどもと読んで、次に行きたいと思います。次にどう続くかなんです。万劫功を修せんことまことに続きがたし
338頁、「また云わく、万劫功を修せんこと実に続きがたし。一時に煩悩百たび千たび間わる。」とこうあります。万劫というのは五十二位を立てたときの十信あるいはその上の三賢位を超えるのに一万劫かかると云っているんです。仏道に入るというのは大変な課題を抱えているということを時間の長さで表わすんですね。真面目に五十二位を全部やろうとすると三大阿僧祇劫かかるというわけです。いつのことか分らんという話です。でもこれ実体的な話じゃありません。仏道を歩むことの厳しさ、あるいは我々が煩悩を離れることの難しさ、これを時間の長さで示しているわけです。だから「万劫功を修せんこと実に続きがたし」というのは、まことに長い時間をかけて仏道を歩むことが続きがたいと、継続しにくいんですよ。それが「一時に煩悩百たび千たび間わる」と書いてあります。ちょっとした瞬間にもいろんな煩悩が襲ってくる。落ち着いて修行なんかしていられないんですよ。そういう我々の有様を云うわけです。だから前の文章と続けて読みますと、いろんな説き方で方便して教えて下さった、どの法門もみな解脱するんだ、しかしながらこの修行を継続して覚りの境地を得ようとするなんてのは本当に難しい。今まで長年修行して来た人でもちょっとした瞬間に雑念が湧いて来る。煩悩に搦め捕られることが起るのです。そして「もし娑婆にして法忍を証せんことを待たば、六道にして恒沙の劫にも未だ期あらじ」と。娑婆というのは、これまた修行がしにくい世界なんですよ、いろんな問題が起きますからね。この間も大きな台風が来ましたね、石川県でも大分吹いた、京都も相当木が倒れてます。新聞に載ったのは西本願寺の銀杏が折れたとか、植物園の大木が倒れて四屋がつぶれたとか。うちは報恩講の真只中で夜中に幕を下ろすことも出来ないし、幕が切れたときは切れたときやと思っていたら切れずに済みましたけれど、網戸が数枚飛んだくらいでした。この世にいるということはいろんなことが予定の立たないことが次から次へと起ります。台風一つ来るだけで夜も寝られないこともあります。娑婆において「法忍」というのは覚りでありますが、法忍を証していくことを待つならば、期待するならば、六道輪廻を繰り返し続けにゃならん。この娑婆世界で覚りを開くなんてことはあり得ない。そして次に「門門不同なるを漸教と名づく」門門不同はお釈迦さまが違う説き方をしておられますが、それはすべてだんだんと覚りに近づいて行く教え、漸教だと云うんですね。だから「万劫苦行して無生を証す」とてつもない長い間苦行を重ねて、ようやく無生法忍、生ずることも減することもないという、我々の二項対立を超えた覚りを証することができる。そんなことが私たちに成り立つだろうかということで、「畢命を期として、専ら念仏すべし」と、ここにいろんな行を積むことに対して阿弥陀仏を念ずることを掲げて行くんですね。これだけでは阿弥陀仏が分からんじゃないかと云われるかも知れませんが、もうこれ教行信証にずうっと引かれてきておりますので、これは阿弥陀仏を専ら念ずることとして読み取ることができます。我々が本当に為すべきは、万劫に苦行して無生を証すということではなくて、この一期のいのちを生き切って行く中で専ら念仏し、この一生で完結していくということを最優先しなさい、と云っておられるのですね。「須臾に命断うれば、仏迎え将てまします」須臾はこの瞬間であります。いつこの瞬間が来るかは誰にもわかりませんが、命終る瞬間は必ず来ます。そのときどこで終ろうが、どんな形で終ろうとも、阿弥陀仏が将(ひきい)て、引っ張って、つまり私の力で浄土に辿り着くのではなくて、仏が導いて下さると云っています。「一食の時なお間あり、いかんが万劫に貪瞋せざらん」さっき「一時に煩悩百たび千たび間わる」とありましたが、一食を食べる間にもまだ暇があると、面白い云い方ですね。ご飯食べるときどうですか、集中してご飯食べますか。ご飯食べる時もいろんな雑念が起きて来るじゃないですか。あぁあれ忘れてたみたいなものですわ。一食の間すらご飯にも集中できない、飢餓道に堕ちるぐらいの時は食べるのに一所懸命かも知れませんが。まぁその間ですら、いろんなことが次から次へと起って来ること、それを一食の時なお間ありと云ってます。そして、どうして万劫に貪瞋せざらんと云います。万劫とはさっき云いました聖者の位に入るだけでも一万劫かかる、この間に貪りや瞋の心を起さないということがあるはずなかろうと云うのです。だからこの修行の道、漸教ではとても迷いを超えられませんと。「貪瞋は人天を受くる道を障う」むさぼり、いかりの心は天に生れることすら障えると云うんです。そして「三悪・四趣の内に身を安んず」三悪は地獄・餓鬼・畜生です。四趣はそれに阿修羅を加えて四悪趣とも云われます。六道はその上に人・天があるのですが、この場合貪瞋は人・天に生まれることも難しいのです。大概は三悪道か四悪趣という身の置き方になりますよ、と云ってます。だから我々に修行して覚りを開く道はあるけれども、みんなそれによってみんな解脱すると云うんだけれども、実際のことを云うとそれはとてつもなく難しい、果てしなく遠い道だ、こういうことを呼びかける文章になっていると思います。ですから先程の法事讃の文章、あれだけを切り取ると、何で親鸞聖人は後の言葉をくっ付けておいてくれなかったのかと思うんですが、それは次の般舟讃の言葉をくっつけてあるから、ここでは云う必要がなかったんでしょうね。ですから後の「三念五念仏来迎」という言葉は20願の問題のところへ持って行くわけです。何故そっちなのかということは、またそこへ行ってからのことにしたいと思いますが、まぁこの親鸞聖人の読み取り方というのは本当にすごいと思います。全部が頭の中に入っているんでしょうね。だから点としか見えないものが繋がってあるんですよね。だから一々般舟讃に云わくとか法事讃に云わくとかいうふうにするとぶつ切れのような感じがしますよね。善導大師は次の文章で仰ったというように、ここは読んで行くべきだと思います。ですからいろんな道をお釈迦さまは確かにお説き下さった。でもその門門不同の教えは漸教、段々と覚りに近づく道であって、それではわれわれには成り立たねいということを云っているわけです。頓教に対して漸教と云うのです。普通考えればみなそうですね。だんだん一歩づつ近づいて行くというのが覚りへの道と考えられますが、この間にむさぼりやいかりの煩悩が渦巻くように湧いて来る、百たび千たびと書いてあります。修行している中にも襲ってくる。これは行巻にもありますが、魔物に襲われるんですよ。この修行、これでほんとに覚れるんだろうかという、修行者が抱く魔の誘惑もあるんですね。これが途中で終わったらどうするという死の畏れも襲って来る。全部が水の泡になってしまうという恐怖感もある。そういう中で念仏の教えはこっちだということが後で云われます。頓教の中の頓教だと。いまここでナンマンダブツによって誰の上にも開かれる道だと仰るんですね。だから漸教というのはそういうふうに説いてある、お釈迦さまがお説き下さったものであって、実際は私たちがその道を歩むことは私たちにはとても耐えられない、歩めないということを云っている文章だと思います。如来の異の方便
それでもう一つ般舟讃の言葉をまた云わく、として親鸞聖人は引いておられます。「定散ともに回して宝国に入れ、すなわちこれ如来の異の方便なり。韋提はすなわちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり、と。」とこうあります。後半からいくと韋提希、これ観経の主人公ですよね。「すなわちこれ女人の相」これ「女質」という云い方もしますが、これを女性だからと取ると男を優位において女性を貶めるように聞こえるかも知れませんが、韋提希は女性だ、問題を抱えて悩んでいるんだということを云いたくて、こういう云い方をしている。それが後に「貪瞋具足の凡夫の位」と書いてますね。これ善導大師は観経疏の中でも強調して云うところですが、実際に業の中で苦しんでいる人だと。なぜこんなことを態々云わないといけなかったかと云うと、善導大師以前の方々は、韋提希は「無生法忍」を得るということがお経に出てくるもんですから、これは菩薩の修行の第八地で得られる覚りなもんですから、凡夫の形をとって悩んでいるけれども、それは私たちを導くためにお芝居をしてくれているんだというふうに取っていた。韋提希は本当はこの境地に辿り着いている人がこの世界にまで出て来て我々を導こうとしているのだと読んだわけです。ですけれども善導大師は、いやいや凡夫ですよ、韋提希は業の中で悩んでいる人ですよと云い切った。これ何が違うかと云ったら、聖道の人たちの読み方は観経は無生法忍の覚りにまで上りつめる修業と説いた経典だと読む。善導大師はそれに対して、いやいやそうじゃない、凡夫が助かる経典だと。全然違いますね。上りつめていく経典として観経を読んだのが聖道門の人たちですが、貪瞋を抱えた者が助かる経典だと云い切ったのが善導大師です。これが正信偈で「善導独明仏正意」と云われる中味であります。だから善導大師は絶対譲らない。観経疏にも出て来ますが、この般舟讃にもこの言葉が出ているわけです。前半で「定散ともに回して宝国に入れ」と書いてありました。定善散善が観経には説かれていますね。宝国は阿弥陀の浄土です。極楽世界を宝国と云っているわけですが、それを「すなわちこれ如来の異の方便なり」と云っています。いま一つ飛ばした言葉がありますが、「回して」をどう読むか。これをまた先輩方いろいろ悩んでおられるんですね。「回して」を「翻して」と読む人が非常に多いです。つまり定散二善はもう捨てて、念仏一つで生まれて行けと云っている文章だと読まなければいけないと仰っているわけです。確かにそうも読めないことはないですね。だって一つ前には「畢命を期として、専ら念仏すべし」とあるでしょう。今日読んだ337頁の1行目で云えば、「もし専を捨てて雑業を修せんとする者は」から始まっていましたから、専修念仏を勧める文脈としてよめば「定散ともに回して」は定散散善を翻し捨てて、そして浄土に入れと読むことも出来ます。ボクはでもここはそう読まなくてもいいと思っています。なぜかと云うと「異の方便」という言葉がここにあるからです。これ今日の一番初めにその辺まで遡ってお話ししましたが、どこにこの言葉が出て来たかと云うと331頁であります。8行目に「如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり」という言葉がありましたね。これは顕の義だと親鸞聖人は云ってます。つまり定善や散善を説くのは我々を導くためのご方便の教えだと。それを通して、出来ないところにも道はあるということをとくのが観経だと。定散を積み上げて助かるんじゃない。あるいは散善、日常の中で善を積み上げて助かるのでもない。それが出来ないところにも道はある。それを観経は最後に称名念仏一つというところに我々を導いて行くわけです。始めっから念仏一つでいいと云わないのはなぜかと云えば、そんなことで助からんやろと念仏一つをバカにする私たちがいるからですよ。やっぱり修行して助かるのが仏教でしょうという先入観,予定観念があるからです。だから、じゃぁここからやれと云うてくれて入りうのが定善散善であって、それはあくまでも我々を励ますため、それを通して浄土を願わせるためなんですね。そしてそれが挫折したところにも仏さまはちゃんと迎えに来て下さる、これが観経の大きな筋であります。ここで云うと彰の義のところでそれが明らかになります。だから意の方便という言葉がここにあるということを思うと、さっきのところを「翻して」と読まなくてもいいとボクは思っています。じゃあどう読むか。338頁に戻ります。これは定善散善ともに回らして、自分で積み上げた善を浄土に生れるためにさし向けて、それに使ってと読んでもいいと思います。「回す」というのは自力の回向のことですから。「回向発願心」というのも自力の回向として云われていました。自分が積み上げたものを迷いを超えるために方向転換していく、そういう意味の「回」として読んでいいと思います。でもそれは如来の特別なご方便の教えですよと云っているのが「すなわちこれ如来の異の方便なり」という言葉に読めるんじゃないかということです。ただこれはさっき云いました先輩方の読み方を否定しようという思いはありません。ここで「回」を翻し捨ててと読んでいるのもありだと思います。しかしながらあくまでもこれは如来の方便だということを云う、これを確かめるためのものだと思います。一つ前で云えば法事讃の文章がそうでしたね。「如来、五濁に出現して、よろしきに随いて方便して群萌を化したまう」これを承けているわけですよ。これを承けて定散を回らして浄土に入りなさいというのも、これ如来の特別の方便の教えです、それを通して誰もが助かることを教える、これが観経なんですね。「韋提はすなわちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり。」これは善を積み上げるような存在であるのかどうか、ということですよ。積んでいる中から貪りや瞋りの心がいつも混じってくるわけでしょう。こういうあり方をしている者のためにある道、これが底流となって専ら念仏すべしという言葉で押さえられていくんじゃないかということなんですね。まぁいつもここをどう読むかというときにね、方便の意味で読むか、真実の意味で読むか、あるいは顕の義で読むか彰隠密の義で読むのか、これが迷うところでもたもたしているのですが、この流れはずうっと善導大師の言葉を一連のものとして読めばそんなに戸惑わなくていいのじゃないかなと思います。特に先ほど紹介していた法事讃の文章が完全に方便をある意味で勧めているので、それを承けてであります。だから観経でも「定散ともに回して宝国に入れ」というのは方便の教えですよというふうに確かめている。そしてそれに耐えられない者、漏れて行く者として「韋提はすなわちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり。」という言葉が続いているわけです。これも一つ前の貪瞋という言葉ともつながっていますね。だからこの短い文章から長めの文章やら混じってますけれども、前を承けて次がある、でもそれを承けて又次があるというように見て行くと、ここには方便を勧められるお釈迦さまのお仕事と、その中から我々が依るべきことは何かということを示そうとする教えの両方が流れているのを見ることができます。
曇鸞の論註 人間が抱える問題
そういうように読むことができると見当付けをしまして、次の論註、曇鸞大師のお言葉、その次の安楽集、これは道綽禅師のお言葉も見ておきたいと思います。これ教行信証では珍しい引き方です。七高僧はだいたい順番通りに出てくるんですね。行巻なんかは特にそうですけれど、龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、源空と順番どおりです。順序が逆というのはないんですね。ところがここは、善導大師のものをずうっと云うて来たのですが、善導大師のこの言葉では終われないということが親鸞聖人にはあったんじゃないかと思うんですね。それをまとめる形で遡って曇鸞の言葉、そして善導大師の直接のお師匠さんであります道綽禅師のお言葉、これが並んで引かれてまいります。[『論註』に云わく、二種の功徳相あり。一つには有漏の心より生じて法性に順ぜず。いわゆる凡夫・人天の諸善、人天の果報、もしは因・もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。かるがゆえに、不実の功徳と名づく、と。已上]これは論註が真実功徳相ということを云うところに引かれる文章なんですが、親鸞聖人は実は行巻にこれを引いているわけです。そっちを見ておきますと170頁7行目ですね。浄土論、天親菩薩の偈文のお言葉ですが、それを曇鸞大師が註釈されます。[「真実功徳相」は、二種の功徳あり。]と云って、そして化身土巻に引かれている「一つには、有漏の心より生じて法性に順ぜず。いわゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因・もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。このゆえに不実の功徳と名づく。」とこう云っています。ここではそれに続けて「二つには、菩薩の智慧・清浄の業より起こりて仏事を荘厳す。法性に依って清浄の相に入れり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳と名づく。いかんが顛倒せざる、法性に依り二諦に順ずるがゆえに。いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入るがゆえなり。」これ前半は不実功徳、後半は真実功徳と分けて説いてある。だから行巻は不実の功徳に対して真実の功徳を語るために、真実功徳相の意味を確かめるために両方共引いているわけですね。化身土巻の方は真実功徳を引かずに不実の功徳を云うわけです。ちょっと細かいことを云いますが、[「真実功徳相」は、二種の功徳あり。]とありますね。これが元々の論註の文章です。でも化身土巻の方は面白いことに「二種の功徳相あり」と「相」という一文字が加わっているんですね。なんでかなぁと思います。功徳には二つの相があるぞということを云っておかなきゃならなかったからかも知れません。でも相(すがた)ですから、これ本当の功徳じゃないんですね。功徳はすぐれた徳でしょ、すぐれたはたらきのことを功徳というわけですが、それは本当でないものが本当のような、功徳があるかのように形をとって現れるということがある。ボクらで云えば、儲かったというのが一番いいことのように云われる。あるいは誉められたというのが嬉しいわけです。でも誉められて調子に乗って勘違いすることも起きたりするんです。だから不実、本当でないということを云うときに、これは功徳の相だと云っているのが化身土巻の面白いところです。338頁に戻ります。私たちには功徳に見えるような、功徳の形を取るようなものがあると云ってるんですが、厄介なのは二種の功徳相ありと云いながら、二つ目が引かれないんですよ。教行信証にはこういうところが結構あるんです。いきなり「三つには」と始まったりね。何のことやと思うんですが、それは原文を見てくれということやと思うんですよ。親鸞聖人は決して都合のいいところだけ引いて来て、都合の悪いところは止めとくというようなことはされないですね。それならここで二種の功徳相ということを云わなくてもいい。気になる人はどうぞ論註を見て下さいというお心があるからだと思いますね。ここでは真実功徳の方は不要なんです、文脈と関係しませんから。ここで云いたいのは不実の功徳、功徳の相を取った不実功徳、それが要るんでしょうね。もう一回そう思って読んでみますと、二種の功徳相あり。一つには有漏の心より生じて、煩悩の心から生じたものなんですね。だから法性には順じない。法を法たらしめるものを法性と云いますが、物事の道理であります。別の云い方では真如とも、一如とも、あるいは後の言葉では自然という言葉もそれに当たると思いますが、全部我々の思いはからいで作っていくものでありますね。それをまとめていわゆる凡夫や人天の諸善、人天の果報と云っています。特に凡夫ということを出してありますね。人天と云うといろんな人もあるということになりますが、凡夫という縁に依ってどうにでもなる者、それを表に出して凡夫や人や天が作る善やそれによって得られる果報は「もしは因、もしは果」因も果も全部、因のところからもう既に濁っている。だから転倒、さかさまでしょ。良かれと思ってやっていても良くならないことがある。人を育てるという名のもとに、その芽を摘んでいくことも起きますからね。一所懸命と云っても自分の思いに一所懸命なだけということがある。一所懸命に人を傷つけることだってあるんです。そう いうことを因も果もみな逆さまになっているというわけです。これみな虚偽である、真実じゃない、嘘偽りなんですね。本当のことが分かってないのに、それに突き進んでいく。だから大義名分とか人間がいう正義というのはだいたい厄介ですね。正義の名の下にいのちが奪われることだってあるんですからね。その辺を曇鸞大師は見ているわけですが、これを「かるがゆえに不実の功徳と名づく」本当でない功徳だと云ってます。さっきも云いましたが、功徳の相を取って来る、これが親鸞聖人が相の一字をここに入れておられる大切な意味ではなかろうかということを思うわけであります。これに騙されるでしょう、私たち。これを先ほどの文章を重ねるとどうなるか。普通はこれをずうっとやっていくのはいかにも覚りを目指して真面目に歩んでいるように見えます。しかしこれが途中で覚れないまま終わってしまったら何をやっていたのかという話です。ましてやその中で自分はこの辺まで来た、あんたはこの辺かと比べ合うようなことが起れば、それは仏道を歩んでいると云えるでしょうか。自慢のため、名誉欲のために仏教に関っているだけかも知れません。人に負けたくないための勉強かも知れませんね。それは仏道の歩みには程遠いですよね。この不実の功徳というのは、初めから不実と分ればいいんですけれども、大真面目に人を傷つけることが起る。実際親鸞聖人が比叡山で実感なさったのは、そこじゃないでしょうかね。自分たちは真面目に菩薩道を歩んでいると云うんですけど、女性は入れないとか、あの人は身体が悪いから修行出来ないとか、あの人は文字が読めない家に生まれたからお経は無理だというような、誰もが成仏するということを掲げながら、いろんな人を漏れ落としているのが比叡山の現実でしょ。だから親鸞聖人は山を下りられたんだと思います。ただ単に修行が辛くて逃げ出だしたんじゃないですね。そんなんだったら20年もいませんわね。これは本当の仏教と云えないんじゃないか。人を蹴落としたり排除したりすることになっていることに大きな疑問を感じられた。これがまさに顛倒であり虚偽だと。嘘偽りだということをどっかで見ておられた。そんなふうに思わずにいられないんですね。ですから善行は真面目な話なんですけど、それ自体が仏道でなくなって行くという問題があるのです。まぁこれははやくに曇鸞大師が菩薩道を歩むことが孕む問題として、難行道はもはや成り立たないと仰る。論註全体に関ることでもありますが、その中からこれを抜き出して来ているわけであります。だから先ほどからの流れで云えば、今日の法事讃の言葉が一番いいかと思うんですが、お釈迦さまは「五濁に出現して、よろしきに随いて方便して群萌を化したまう」と、いろんな道をお説きになった。しかしながらその道がその道のままで成り立つのは極めて難しいと。全部解脱できるとは云うものの、実際には凡夫においては成り立たない道だと。これが貪瞋を具えた者にとっては、全く不可能と云わざるを得ないということです。だからこの凡夫においても成り立つ道、それがただ念仏として呼び掛けられている。もっと云えばこの方便を通して、方便が教えることによって帰るべきところは念仏一つよりないというところに我々を導くための教えなのだということになると思います。道綽の安楽集 時代の問題
次の安楽集の引文は、そのことを時代の問題として述べております。[『安楽集』に云わく、『大集経』の「月蔵分」を引きて言わく、我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得る者あらじ、と。]ここに「と」がありますが、これで一応「月蔵分」、『大集経』の中のお言葉ですよと『安楽集』は云ってるのです。その後は道綽禅師の言葉ですね。「当今は末法なり。この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。」昔は「と」と書くことによって、カッコ閉じということを示しているわけですね。だから始めの「と」はお経の引用、後の道綽の言葉の引用となっています。まず一つ目の『大集経』、『月蔵経』とも云われますが、ここに末法ということが説かれてあるのですね。これはお釈迦さまの言葉として「我が末法」ですから、お釈迦さまが亡くなられて1500年経ったら、億億の衆生ですからね、どれほど沢山の衆生がいて迷いを超えようとして仏道を修したとしても、一人としてそれを得られる者はないであろうと。これはお釈迦さまのお言葉ですよ、お経にそう説かれてますよと云うんですね。それを承けて道綽禅師が「当今は末法なり」と云います。その次の「通入すべき路」というのは覚りに通入する、涅槃に入る路、とまで云っていますが、これは「唯明浄土可通入」という正信偈のお言葉になっていますね。その元のお言葉であります。道綽禅師はこれを教えてくれた。つまりお釈迦さま亡き今となっては導いて下さる方がいない。だから浄土の一門のみが通入できるというわけです。で、これを承けてもう一つ「また云わく、未だ一万劫を満たざる已来は、恒に未だ火宅を勉れず、顛倒墜堕するがゆえに。」一万劫ですから、さっきの話引きずってますね。十住という聖者の位にも入って行くことができない、だから火宅のあり方を免れないんだと道綽は押さえるわけです。その中にいれば顛倒墜堕ですから、ひっくり返ることもある、また落ちて行くこともある。仏道から転落するわけです。顛倒というのは逆さまですから、仏道を歩みながら仏道でなくなって行くことが起る。そして「おのおの用功は至りて重く」一所懸命に励み、それによって功徳を積もうとしても、なかなか積み上げることが難しい。それを積み上げたとしても、折角積み上げたとしても、それによって「獲る報は偽なり」きつい言葉ですね。それによって得られる報いは偽物だと。これ一万劫でしょ。ここだけでも大変なのに、やっと見えて来たと云っても覚りからはほど遠いんですね。で、仏道でなくなっていくという。全体を得る報は偽なりという。道綽の言葉から云えば、だからただ浄土の一門のみが迷いを超える道ですよということを掲げるわけですね。獲る報は偽というのは先ほどの曇鸞大師の「みなこれ顛倒虚偽」という言葉とつながってますね。曇鸞大師の方では、だから念仏だとか、浄土の教えだとかまでは云うてはいませんけれども、これが見え隠れしながら流れているんです。だから全体とすると、いろいろお説き下さったお釈迦さまの教えは、我々を浄土に導くための方便ですよと。いろいろ説かれている方はどれほど真面目にやってみても、それ顛落していく危険がある。煩悩を抱えた者にとっては歩み難い道だと云っているのが、今日のところだと思います。
駈け足だったかもしれませんが、一応この流れを見ると、なんとかこの一段は読めるのではないかと今思っています。却って一文一文を元の文脈に返って読もうとすると、なんでここだけ引いたのかとか、そんなことがやたら気になるのですが、これを善導大師の一段、それを承けての曇鸞、道綽の一段と読むことによって方便と、それを通して出遇うべき真実、これを教えて下さっているということが、ここから読み取れるんじゃないかということです。 一応こういうことにしておきましょうかね。