『教行信証』の化身土巻を読む(17) 一楽 真 師
2017/ 08/ 25
大経の三信と観経の三心
親鸞聖人がご引用なさったところへいま差し掛かっておりますので、引用文というのはどういう思いでお引きになられたかということになると、なかなか難しいわけであります。いつもややこしい話になっておりますけれども、私がお話ししているのもこれ答えでも何でもありませんで、一応こんなふうに読めるんやないかという材料を提供しているようなつもりであります。またお考えいただく何かのきっかけにでもなればと思います。いま読んでいるのは、差し掛かってなかなか進めないでおりますが、真宗聖典の頁で申しますと334頁から335頁のところを読んでおりました。どういうことかと云うと観無量寿経に至誠心、深心、回向発願心という三つの心が出て来ます。これを昔からの読み方で三心(さんじん)と濁って読んでおります。大無量寿経の至心、信楽、欲生の方は三信(さんしん)と澄んで読むことで聞いてパッと分かるようにというのが長い学びの伝統であります。三心と云えば、あぁ観経のほうだなぁということであります。中味はこの至誠心、深心、回向発願心のことなんですね。これは観経ではとても大事な心で、この三つの心を具えて初めて浄土に生まれることができると書いてあります。ところがその時に親鸞聖人はお経には文字に表れている,呼びかけている所とそれを通して気が付いてほしいところと二つあるので、これを一緒にしてはいけないと仰っています。分かり易い譬えで云えば、浄土は西に在ると書いてあるわけですが、しかしそれを実体的に西に在ると勘違いして西に向かって歩き出すというのはちょっと早とちりでしょ。そういうふうに空間移動して別世界に行くという話じゃないんですね。浄土に生まれようというのは日頃我々がいかに欲望によって汚した世界に執われているかに気をつかせるために、それを離れた世界を形どっているわけです。だから浄土を願う、あるいは浄土に生まれるということはこの世のあり方、日頃の生き方がいかにドロドロで欲望まみれであるかということに気がつかせるために第一義があるわけです。だから日頃は痛ましい、浄土に生まれよと呼び掛けるわけですが、それを勘違いするとこの世は意味がない、この世はダメなんだ、浄土に行かないと助からないというようなことになってしまう。これは浄土教だけではありませんが迷いと覚りを立てて教えようとされたお釈迦さまの教えが曲解されたのもそれであります、迷いはつまらない、叩き壊せみたいなことが起るわけです。そして覚った世界こそが本物やねとね。だからこの世間的なあり方をぶち壊すような危険思想もたまに出てくるわけでありますけれど、お釈迦さまはそんなことを云ってるわけじゃない。この世の価値観に振り回されることは痛ましい、目を覚ませと、自覚を促しているといっていいわけですね。でもお経の言葉はそれぐらい難しいわけです。浄土に生まれよと書いてあるじゃないか、それは結局この世を捨てるということだと、この世におさらばしてどこかに行くことだということになってしまうんですね。
まぁなんでこんなことを頑張って云うているかと云うと、さっきたまたま源信僧都の展覧会を見る機会がありました。今日は奈良に来るのでね、早めに出てご縁をいただきました。でも近鉄奈良駅から国立博物館まで行くだけで今日は汗だくになりました。ここは浄土と云うか天国みたいに快適でありますけれども。ただその展覧会に文句をつけるつもりはありませんけれども、成程なぁと思ったのは源信僧都が往生要集を書かれて、まずは娑婆は痛ましい、厭離穢土、その次に浄土を願えということを欣求浄土と書いてました。でもその後の部分はあんまり書いてないんですね。結局初めの穢土は痛ましい、その代表が地獄であったり餓鬼畜生の世界、この悲惨な姿を描いた絵が沢山残っておりますので、それを前面に出して浄土は素晴らしい世界だと書いてありました。それで浄土に往生するというのはどういうことかなぁと思ってみておりましたら、やっぱりいい死を迎える、人生の終え方、いま終活とよく云いますが、それと重ねてかも知れません。あるいは死後の世界、死後に素晴らしい世界に生れていく形での浄土、これが描かれていました。でも源信僧都のものをよく読めば、浄土は楽になるというか、私たちが願っているような楽を願うというような話じゃなくて仏道が完成するということがずうっと書かれているわけです。つまり傷つけ合ったり苦しめ合ったりしている生き方がどこで転じられるか、どこで超えて行けるかというために浄土でなきゃならないと云うんですね。それは地獄はいけないから早く浄土に逃げ込みましょうという話でもないし、まして死んだ後に浄土に行きましょうという話でもないんですけれども、そこは取り出しやすいんですね。実際源信僧都の後、それがもの凄く影響力を持ちましてね、そういう絵図も沢山出来るわけですけれど、それが中心になっておりました。やっぱりこう来るかと思って展覧会を見せてもらっておりましたけれど、これは今お話ししていることで云うと、そういう描かれ方をしている浄土は全部方便化土だというわけです。我々を導くために仏が敢えて方便して、そして真実が形を変えて現われた世界だと。だから宝物があるよとか、ここに来れば楽があるというのは呼び掛けるためであって、日頃の生き方が痛ましいんじゃないかということに気付かせるためのご方便なんですね。それを実体的に別世界として握るということになると、これはお経に触れたとは云えないということを吟味なさったのがこの方便化身土の大事なところなんですね。方便として説かれている浄土がつまらんという意味じゃない、そう云われないと先ず私たちは仏さまの世界を願うことも起きない。仏さまの世界を願わせることによって日頃のあり方に目を向かせるわけであります。こんな素晴らしい世界があるのかと云うときに日頃がどうなっているかということが見える。仏教のまぁ元々の言葉から云えば本当の世界に気づかせるために如は形をとるわけです。如の世界から来て下さっているのを「如来」というでしょ。それに対して如に触れれば私たちは本当でない世界を生きていたと、不如ということを一所懸命作っておったということが分かるはずなんですね。もう少し親鸞聖人で云うと、如を真実と云うのに対して不如の方を不真実あるいは虚仮不実と云うふうな云い方をします。本物に触れないと偽物だったと気が付かない。これが真実を形どって我々に示そうとする意味なんです。それを真実とか如と云うてみても掴みどころがないものですから、それを分かり易い形で極楽というふうにお荘厳して下さる。そこには花がそれぞれの色で咲いてるよとか、鳥もそれぞれのいのちを生かしているよと、本当に優劣善悪のない世界として形どるわけですが、そういう差別のない世界として描かれたら途端に、あぁそっちはいいなぁ、それに比べたらこっちはひどいなぁと、こんな話にすぐなってしまう。なかなか厄介です。だからこちらを知らせるために敢えて形をとったのが方便、そして方便化身土と云われるところなんですね。こう云う視点でお経全部を読み通していく。どこが真実を語ってどこが真実に導くための方便なのかということを吟味なさったのが親鸞聖人のお経の読み方なんですね。
前回から読んでいる観経の三心にも方便の部分と真実そのものを語ろうとする部分があるということで長々とお話ししておったわけですが、この化身土巻には方便の部分が引用されて真実の方は信巻の方に引いているという話をしておりました。だけどこれ真実に関る話なんですね。至誠心はまことのこころです。深心は深く信じるこころ、深信とも書かれておりますね。回向発願心というのはそれが相続していく、得て終りじゃないんですね。その信心に立って歩んで行く、そういうところにこの回向発願心ということが出て来ますが、これが信心の側面なんですね。その真実信心を表わすことについては信巻に引き、そこに導くための言葉が化身土巻にあると、こういう引き方をするわけです。この辺が難しいというかややこしい話に前回もなっていたわけです。信巻と化身土巻を見比べながらしゃべっていたものですから、あっち行ったりこっち行ったりで話がごじゃごじゃになっていたかもしれませんが、これは親鸞聖人がそういうようにお経を読まないといけないよと押えて下さっている、吟味して下さっているということを何とかお伝えしたくて、ややこしいことを申し上げていたわけであります。もう一遍念を押しますが、方便と云うのはだから本当じゃない、と取ったらダメですね。真実に導くための如来からのお手立てなんです。真実をポンと云っても受け止められない私だったということを見越して、じゃぁここから始めてくれと、こう云ったら分かるかと、これならなんとか了解できるかということを私たちに近づけて下さる、私たちの物の見方考え方にまで届けて下さっている、これが方便という言葉の意味なんですね。そういう意味で云うと人間の迷っている意識にまで寄り添って、迷っている心にまで応答しながら語り掛けて来るのが方便の巻でしょうね。方便というのは本当に有難いなぁ、方便に恩徳を感ずると云ってもいい。勿論真実は大事ですが、真実は真実だけでは触れられないというのが我々の問題。よくぞここまで云うて下さったなぁ、よくぞここまで近づいて下さったなぁと、この方便に恩徳を感じて親鸞聖人はここを書いておられると思います。例えば19願については行でね、「仮令の誓願まことにゆえあるかな」と、ようこういう本願が立てられたものだと19願を立てて下さったことに感謝しておられます。その後さらに「果遂の誓いまことにゆえあるかな」と、20願を立てて我々を導いて下さっていることに感謝しておられます。19願20願というのはものすごく大事なんですね。同じようにそれに対応して観経となって展開し阿弥陀経となって呼び掛けて下さっている、よう此処まで云うて下さったお釈迦さまのお仕事があったんだとまた感動しておられる。方便の巻というのはその意味で感動の讃仏だと云ってもいいでしょうね。しかしもう一面が、これは方便だから、そのままあるように執われてはいけないという面もある。これが何遍も云っていますが、方便として潜らないといけないという面では要門と云われます。必ずその方便を通さないと真実に出遇えない、これが要門、必ず潜る門なんですね。しかしそれは真実そのものではないという意味では仮ですよということを仰る。これが仮門という云い方です。これが化身土巻を読んでいくときにどうしても気をつけないといけないもんですから、私たち仮に説かれたものを握ることがあってはならないということが同時にあると云ってもいと思います。まぁその辺を踏まえながら前回の続きですね、深心釈の途中ぐらいまで行っていたんですが、そこへまた入って行きたいと思います。
深心釈
至誠心釈は聖典334頁の後ろから6行目からがずうっと至誠心釈の中味でありました。335頁の3行目まで、これが至誠心釈、我々にまことであれと呼び掛ける、真実であれと呼び掛ける言葉として親鸞聖人はここに引かれたんですね。その335頁の3行目の下の方から「また決定して」で始まるのが深心釈です。観経には三福とか九品とか定散二善という善いことをしなさいという方便が説かれてあるということがここに挙げられていました。これが深心釈の文章で5行ぐらい続いていましたね。それで今日は335頁の6行目「次に行について信を立てば」ここから読んでおきたいと思います。行について信を立てると云うんですね。漢文で書くと「就行立信」と云われます。「しゅうぎょうりゅうしん」と読んでもいいですが、昔からの読み癖で「じゅぎょうりっしん」と読んでいます。この頁最後の行まで就行立信の話、深心釈の中の話であります。長いですけど一回読みたいと思います。「次に行に就いて信を立てば、しかるに行に二種あり。一つには正行、二つには雑行なり。正行と言うは、専ら往生経の行に依って行ずるは、これを正行と名づく。何ものかこれや。一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。一心にかの国の二報荘厳を専注し、思想し、観察し、憶念する。もし礼せば、すなわち一心に専らかの仏を礼する。もし口に称せば、すなわち一心に専らかの仏を称せよ。もし讃嘆供養せば、すなわち一心に専ら讃嘆供養する。これを名づけて「正」とす、と。またこの正の中についてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを「正定の業」と名づく、彼の仏願に順ずるがゆえに。もし礼誦等に依るを、すなわち名づけて「助業」とす。この正助二行を除きて、已外の自余の諸善は、ことごとく「雑行」と名づく。もし前の正助二行を修するは、心常に親近し、憶念断得ず、名づけて「無間」とするなり。もし後の雑行を行ずるは、すなわち心常に間断す。回向して生を得べしといえども、すべての「疎雑の行」と名づくるなり。かるがゆえに「深心」と名づく、と。」深心釈はここまで続いております。
その次は回向発願心といって三つ目の話になってますね。まぁ深心釈は大変長いんですが、その後半のですね、行について信を立てるというところを親鸞聖人は方便の我々への呼び掛けとして読み取っておられるわけです。つまり行というのは正行を修しなさい、雑行では助かりませんよということです。正しい行を積みなさい。それ以外の行では迷いを超えることは出来ませんよと、往生できませんよと呼び掛けているわけであります。それを最後にまとめたところから見ましょうかね。335頁後ろから4行目の[この正助二行を除きて、已外の自余の諸善は、ことごとく「雑行」と名づく。]と云った後に[もし前の正助二行を修するは、心常に親近し]仏に近しい、親しい、それから[憶念断えず、名づけて「無間」とするなり。]仏を絶えず憶っている、だから名づけて無間とする、と云うんですね。それに対して[もし後の雑行を行ずるは、すなわち心常に間断す。]つまり憶ったり、憶わなかったりです。ある時は仏のことを考えていてもそれ以外は仏から離れて生きているということなんですね。だから[回向して生を得べしといえども]生まれられないわけではないが[すべて「疎雑の行」と名づくるなり。]間が抜けているわけです。疎はおろそかという字ですね。雑はいろんなものが雑ってくるわけです。それでは仏道を歩むということにならない。雑行では助からないということをここで云いたいわけですね。だから雑行ではなくて正行を修めて下さいと云うんですね。これならなんでこれが方便なんでしょうか。正行によって助かるというのなら真実の話と云ってもおかしくないですね。これがまた親鸞聖人の深~いところで正行ということを勧めておられるけれども、一応これは目安なんですね、仮なんですわ。なんでかと云うと、私たち、私はやってますと云うた途端にどうなります。あの人よりましやというふうなことになりませんか。例えば念仏一つということですら、私は一日何回称えてます、あの人はちょっとやないかと云うてね、念仏すら比べ合う種にしてしまう。それ念仏してるといえますかね。仏さまを念ずると云いながら、私は一日に何回称えていますと云うた途端に自分を念じていることになりませんか。単なる自己主張に落ちませんかね。結局正行と雑行ということを立てて、正行を修して下さい。雑行では助かりませんよと一応云うんですが、私、正行やれてますと云うた途端にそれは仏教ではなくなってきます。自分教ですわ、私偉いでしょうみたいな、自分を誇っている。すると逆に人を貶める。だからこれはどこまでも目安ですよということなんですね。行はとっても大事なんです。だから先ずここからやれということを立てて下さる。それでないと我々に仏道に入門できませんからね。しかしそれはやっていると云うた途端にまた問題を持つんですね。これが就行立信と云われる、行について信心を立てていくのはどこまでも方便だと親鸞聖人は見ておられるわけです。だから私はやれていると云うた途端にそれは仏道の行ではないということが起きるんです。実際これ親鸞聖人が出遇っておられたことから云うと、法然上人は一日7万回念仏しておられたと云いますね。まぁ6万回から最晩年には7万回だと云われていますが、これ云ってみれば阿弥陀を念じ続けて生きておられるわけです。裏を返して云えば、ナンマンダブツナンマンダブツということを離れたらすぐにいろんな妄念が起ってくる、いろんな心に振り廻されていく自分を法然上人は見据えておられたわけです。愚かな自分、すぐに大事なことを忘れる自分、だから7万回の念仏になったんですね。だから7万回ということは回数を誇っているわけじゃない。ボクは実際7万回も称えたことありませんけれども、7万回というのは1秒に1回称えたとしても20時間かかるわけですから、四六時中ということでしょ。ずうっと称え続けておられるのが法然上人です。でもお弟子の中で何が起るかと云えば、7万は無理やと、でもせめて3万ぐらいはという人が出て来るんです。3万は無理でも1万ぐらいは頑張ろうとね。頑張ればいいんですけどね、それがいつか阿弥陀の世界をいただく、阿弥陀の世界を思い出すための念仏というよりは1万回が目的になるでしょうね。あるいは3万回やり遂げたということも達成感が喜びになってしまうかも知れません。阿弥陀を念じてるんじゃないんです。やれてる私がエライという話なんです。すり替わってしまう。だから念仏はつまらんという話じゃない、念仏は大事なんですよ。しかしその念仏が自分を誇るための種になってしまうという面を抱えているという意味で、親鸞聖人は念仏の行ですらも私たちの自力の種として押えられていくことになるわけであります。難しいことですね、仏を念じて生きて行くということは。実際どうなんでしょう。ナンマンダブツは大事だと先ず教えて下さるわけです。しかしナンマンダブツナンマンダブツというのがね、慣れてしまえばナンマンダブツと云っていても別のことを思うているということがあるんですよ。念の為に云っておきますが、そんなことなら止めとけというんじゃないんですよ。ナンマンダブツしかないんですけれども、ナンマンダブツしながらナンマンダブツしているオレは偉いなぁとか、そういうところに落ちて行く、あるいはナンマンダブツと口で云いながら別のことを思っているということが起る。本当の念仏とは何かということですわ。それを吟味するために、これは我々への方向を指し示す、ここから始めてくれよという呼び掛けの言葉だといただかれたのが宗祖がこれを方便化身土巻に引いておられる意味なんですね。
就行立信
335頁の6行目に戻ります。「次に行に就いて信を立てば、しかるに行に二種あり。一つには正行、二つには雑行なり。」正行によって迷いを超えて行け、他のことでは助からないと、まぁ目安、達成すべき実践目標を我々に呼び掛けて下さっている。「正行と言うは、専ら往生経の行に依って行ずるは、これを正行と名づく。」往生経というのは具体的には観経、弥陀経、無量寿経という、ここに出て来る順番ですが、これに依るわけであります。往生浄土を説く経典に依るわけです。それによって行ずるものを正行という。「何ものかこれや。」と云って五つ挙げていますね。一つ目が[一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。]これが五正行と云われますね。一つ目が読誦です。でもどんなお経でもいいんじゃありませんね。阿弥陀仏のことを説き、阿弥陀仏の国に往生することを勧めて下さるお経を読むわけです。二つ目が「一心にかの国の二報荘厳を専注し、思想し、観察し、憶念する。」阿弥陀仏とその世界あるいは阿弥陀仏とその世界に生きる人、これを二報と云っていますが、これを専注、思想、観察、憶念する、これを一つにまとめて観察という言葉で押さえて行きます。阿弥陀の世界を観るということですね。他の仏さんの話じゃなありません。三つ目が「もし礼せば、すなわち一心に専らかの仏を礼する。」これを礼拝と云います。四番目が称名「もし口に称せば、すなわち一心に専らかの仏を称せよ。」五番目が「もし讃嘆供養せば、すなわち一心に専ら讃嘆供養する。」全部阿弥陀仏に関ってのことですね。これを五正行と云ってます。だから我々が往生するのにはどうしたらいいですかと云うたら、じゃこれをやりなさい。まずこのお経を読みなさい。それを通して阿弥陀とその世界を観察しなさい。阿弥陀仏を礼拝しなさい。阿弥陀仏の名を称えなさい。そして阿弥陀仏を讃嘆して阿弥陀仏に供養しなさいと云ってるわけです。供養というのは尊敬の心を態度で表すことです。お供えするというのもその一つでありますけれども、物を差し出すことばかりが供養じゃありません。仏を讃嘆する、褒め讃えるその気持ちを形に表すことが供養と云われているわけです。この五つ、これが五正行というふうに後にまとめられて行きます。正定の業と助業
ただこの後にもう少し続きますね。[またこの正の中についてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを「正定の業」と名づく、彼の仏願に順ずるがゆえに。]ここでは弥陀の名号を専念してと云うてますが特にこの4番目、称名を取り出して「正定業」と云われるわけです。あとの四つですね、これが「助業」と云われます。だから五つ挙げましたが、五つがただ横並びにあるんじゃなくて四つ目の名を称えるというこれが要ですよということを善導は確認しているわけですね。後の四つはそれを助けるためです。阿弥陀の名を称える、それを「弥陀の名号を専念する」と云ってます。そのためにお経を読んだり、浄土を観察したり、礼拝したり、讃嘆供養したりがあるということですね。そして最後のところです。[この正助二行を除きて、已外の自余の諸善は、ことごとく「雑行」と名づく。]併せて五つの正助二業以外のものは、それがたとえ善であっても雑行と云います、と。いろんなことをしてみてもそれで浄土に生まれるのは難しい、だから正行に励みなさいと呼び掛ける、これが観経の我々を導く方便の教えですよと云っているわけです。だからあれもやれ、これもやれとは云わない。ここからやれということが端的に示されている。どうやったら往生できますかと云うのに対して善導大師はこう答えているということです。沢山のことせんでもいいんですよ。で、問題の称名念仏は既に前に引かれています。信巻に出ておりますが、217頁、またあっちこっちしてしまいますが、217頁の後ろから4行目[またこの正の中について、また二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるをば、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。もし礼誦等に依らば、すなわち名づけて「助業」とす。この正助二行を除きて已下の自余のもろもろの善は、ことごとく「雑行」と名づく、と。]こう続いています。これいま読んだ化身土巻と重なる部分が引かれてますね。前回、方便の部分は化身土巻に、真実の部分は信巻に分けて引いてあると云いましたけれど、これについては両方に引かれている。それで親鸞聖人はどういうお気持ちだったのかなぁということが、いろいろまた気になってくるところなんですね。私が答えを持っているわけじゃありませんが、この部分は真実を表わす面もあるんです。しかし方便として押えておかなきゃならん面もあるんです。なぜかと云うと、例えばですね、ここに五つ挙げていますが、あとの四つは助業で称名が正定業だと。私はこの正定業を誰よりも徹底してやっているともし云うとすれば、それはいくらナンマンダブツ一つを称えてます、他のこと何もしてませんと云うても、結局は自分の功績として積み上げて、誇ろうとする根性ですから本当の念仏に出遇ったとは云えませんよと、本当の念仏と云うわけにはいきませんよと云わないといけない。だから同じ文章なんですが、方便化身土巻にも出て来る。だからここは念仏一つということを云ってる部分ですから、信巻ではただ念仏ということになればいいんです。これが信巻です。真実の話です。しかしただ念仏をオレはやってますと云うた途端に、これは本当じゃないと云わんならん。難しいでしょう。これが両方に引かれる意味なんですね。浄土門とは
それを考えるために後々の引用と云うか、親鸞聖人のお言葉を少しだけ見ますと、聖典の342から343頁辺り、あ、先に341頁を開いてもらった方が良いですね。ちょっと難しい言葉が並んでいるんですけど、後ろから8行目、[安養浄刹にして入聖証果するを「浄土門」と名づく、]とあります。安養浄土において聖者の仲間入りをして証りを開く、これが浄土門、かの土において証りを開く、これが浄土門だと云いますが、それが「易行道」だと云います。その後に[この門の中について、横出・横超、仮・真、漸・頓、助・正・雑行、雑修・専修あるなり。]と、こんだけ並べて[「正」とは五種の正行なり。「助」とは名号を除きて已外の五種これなり。]これは先ほどの五つの正行と四つ目の称名が正定業と云われるのに対して、あとの四つが助業と云われているのをこんなふうにまとめてあるわけです。そして[「雑行」とは正助を除きて已外をことごとく雑行と名づく。]その次の言葉です。[これすなわち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。]「これ」というのは何を指しているのか、ここが難しいところなんですが、どうも「五種の正行」ということも包んで親鸞聖人は横出漸教、定散三福、三輩九品、自力仮門というように云おうとしていると思います。それと違うのが、これが真実の仏教を云うのですが、[「横超」とは、本願を憶念して自力の心を離るる]これが浄土真宗だと云おうとするのです。横超とは横さまに超えるという字を書いていますが、何かを積み重ねてそのうちに超えて行くのじゃない、一気に超えるんですね。今ここにおいて成り立つ仏道なんです。それはどういうことかというと本願を憶念するところに自力の心を離るると書いてあります。自力とは執われのこころでありますが、いろいろ思い計らう心でありますが、それを無くするとは書いてません。あるんだけれども、それを離れるというんですね。本願を憶念してその執われでいるあり方を離れる、具体的にはあぁまた執われていたなぁということが見えるということですわ。それを横超と云う。それ以外は全部横出漸教定散三福三輩九品そして自力仮門と、ここに摂めている。まぁここはどう読むかまた難しいところですが、どうも五種の正行と云ってもそれを握るところには、つまりそれを自力の心で握ってしまうところには、それは仮門だと云われる、こう云う眼があるんですね。それをずうっと解釈するのが342から343頁のところです。で、いまその結論部分だけを読みたいと思います。後ろから4行目。また正行の中の専修専心、これはただ念仏一つでそれ以外のことに心を動かさないわけですから専心と云われています。これはただ念仏一つと云うふうに考えますよね、普通。それがどうなるかですが、専修専心・専修雑心・雑修雑心はこれみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なりと書いてあるんです。専修専心まで辺地胎宮懈慢界の業因と親鸞聖人は云うんですよ。専修というのはただ念仏一つ、それ以外は私してませんと云うことでしょう。しかしそれが本当の往生ということでなくて、浄土の端っこである辺地、あるいは殻の中に閉じ籠もっているような胎宮、それから怠けているようなあり方の懈慢界、その業因であって真実の往生じゃないと云うんですよ。専修専心なら褒められていいはずなのに、何が残っとるかと云うと、私は誰よりも念仏一つですと、この根性です。私ほど立派な念仏者はいませんみたいな、これ全部自力の心なんですわ。自分を誇るだけで、例えば朝から晩まで7万回念仏したとしましょう、しかしオレほど立派な念仏者はいないと云った途端に、それは真実の阿弥陀の浄土に生まれて行く道ではないのです。自分だけが生まれるような、自分だけが立派な者に成るようなあり方に落ち込んでいるんですね。こういうことを後で云うんですわ。ですからさっきも見ていたのは、正定業を語るこの専修専心が信巻にまで引かれてとても大事な言葉であるのに方便化身土巻にも引かれるということは、我々のあり方を見つめ返させるために、問い返させるために方便のはたらきも持っているというふうに見ておられるんでしょうね。両方に引かれるというのは、そういう意味だと思います。この辺がどうしても難しいところでありますが、こんなふうに見ておきたいと思います。就人立信
335頁に戻ります。「行に就いて信を立てる」というのが、これからやれば往生できますよと、これを実践すれば間違いなく迷いを超えられますよと、ものすごく分かり易い実践項目を与えてくれる。しかしそれは同時に危うい面もある。私はやれているというところに落ちて行く者もある。だからそこに、始めに云いましたが、方便として勧められる面と、しかしそこに止まったら危うい面とがあるんですね。信巻に引くときにはここしか引かない。あとの長々とした五つの読誦、観察、礼拝、この辺のところは親鸞聖人は引かないわけですね。四番目のところだけ引いています。それに対して信巻、217頁後ろから4行目に「人に就いて信を立つ」という言葉が出てまいります。就人立信ということを親鸞聖人は真実信巻に引くんですね。今読んでいるのは全部善導大師のお言葉なんですが、善導大師が観経の深信を解釈する中で、行に就いて信を立てるというのと人に就いて信を立てるというのと、二つ挙げてるんですが、こちらを親鸞聖人はいまのところ信巻に引用されるわけであります。人に就いて信を立てると云うとその途端にちょっと待てと仰る方があるかも知れません。なぜかと云うとお釈迦さまの有名な言葉で「法に依りて人に依らざれ」という言葉がありますね。依るべきは法であって人に依ってはいけない。つまり私を当てにするんではなくて私が出遇った世界、法にあなたも出遇って下さいというのがお釈迦さまの最後に遺された教えなんですよね。そういう意味で人によるなんていうのはよくないんじゃないかと考えられる。しかしやはり法に生きられた方を通さないとその法に出遇えない。その意味でここに就人立信と云ってあるのは法に生きておられた人に遇う法を証して下さった人を通さないと私たちはその法をいただけないということです。逆に云えばこっちは分かり易いんですよ。行に就いて信を立てるのは、ここからやれと書いてありますから、あぁ今日からやりましょうと。これだけ読みました。次は何ですか、みたいなことですね。分かり易いんです。梯子段を上がるように達成目標も出て来ます。その中何が起るかというと、さっき云いましたが、私はやれているというところに落ちて行く。でもそれを破って下さるような人との出遇いが要るわけですよ。本当に法を生きるとはそんなことじゃないよと。お経をたくさん知ってるとかね、一日何回云ったとか、何年勉強してきたかとか、そんなこと誇っているようでは法に遇ったとは云えないよと。これを破って下さるのが法に生きられた人との出遇いなんですね。これを親鸞聖人の実際のことに重ね合わせれば、親鸞聖人が比叡山でやっておられたのは就行立信の方でしょうね。いろんなお経に書いてあることを次から次にやって大分積み上げて来たけれど最後のところが越えられないとなっていた。法然上人に遇ってみたら全然お経の読み方も勘違いしていた。お釈迦さまのお勧め下さっていること、要はどこにあるかも勘違いしていた。こういうことに出遇うわけですよ。法然上人に遇うて初めて仏教をいただくという眼が開けた。いままでの見方が破れたということが起るわけです。まぁ一言云うておくと、比叡山で仰いでいたのは自分の目標とするお釈迦さまでしょう。ちょっとでもお釈迦さまのようになっていく、自分を磨き上げていくというお釈迦さまでした。でも法然上人に遇うてみて分かったのは、阿弥陀に出遇えと勧めて下さるお釈迦さまだったのです。だから目標とするお釈迦さまじゃなくて、逆に誰の上にも開く法を説いて下さってるお釈迦さまだった。全然方向が違ったんですね。まぁそれを法然上人によって教えられたんです。だから実際に法に生きておられる人との出遇いがなければ真実信心は開けない。この就人立信ということを真実信巻において引用して来られる。ここに親鸞聖人の意図があると思います。ちょっとだけ読みますと、217頁の1行目、ここが深心釈の中に出る就人立信の釈であります。「釈迦、一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるれば、すなわち十方諸仏、ことごとくみな同じく讃め同じく勧め同じく証したまう。何をもってのゆえに、同体の大悲なるがゆえに。一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり、一切仏の化はすなわちこれ一仏の所化なり。」こんな言葉が出ております。お釈迦さまは阿弥陀の世界に生れることを専念専修しなさいという形で勧めて下さっているわけですが、それはお釈迦さまお一人のお勧めではなくて十方諸仏が一人残らずそのことを願っておられるということを云うわけです。それが「十方諸仏、ことごとくみな同じく讃め同じく勧め同じく証したまう」と。なぜかと云うと、「同体の大悲なるがゆえに。」大変有名な言葉です、大悲の心はお釈迦さまもそれ以外の仏さまも同じなんですね。これ仏さまの大事なところで、お釈迦さまが外の仏さまを蹴散らしてオレが一番分かっとると、そんなこと云わないんです。過去の仏さまも未来の仏さまもみな念じておられる。そういうのが仏さまの世界でありまして、願いは一つなんです。苦しみ悩んでいる衆生をなんとか救いたい、その大悲のお心なんです。だからどの仏さまも勧めるところは一つだということを云うために、その後に「一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり」つまり釈迦一仏が教化してくださるところはこれ一切仏の教化の賜物と云うことができるわけです。逆に一切仏の化はどこにあるかと云えば「すなわちこれ一仏の所化なり」と云われる。だからお釈迦さまによって目が覚めたということは全ての如来さまのおはたらきを得たということと一つなんですね。でもこれがここで云われる「人」の内容でしょうね。お釈迦さまという一人の人に遇うたという話じゃなくて、どんな仏さまにおいても共通するような世界に出遇うんです。そこに起るような信心を就人立信と親鸞聖人は云おうとしていると思います。だから私はお釈迦さまの弟子であって他の仏さま関係ありませんと、そんなことはあり得ないです。それはお釈迦さまに遇うたとも云えないんじゃないですかね。お釈迦さまに本当に遇えばどの仏さまも同じ法の世界を大事にしておられたんですねぇということがいただけるはずなんです。仏さんの話でちょっと分かり難いとすれば、例えば私は法然上人の弟子ですと云ってね、他の人を蹴散らすようなことになったら、これどうでしょう。同じ念仏しておられる他の人を軽んずるようになったとしたら法然上人は喜びますかね。法然上人は同じ念仏をしておられる人みんなを大事になさるんじゃないのですか。私は法然上人の弟子ですからあの人の云うことは聞けませんとなると、これは法然上人を大事にしているとはならないんじゃないですか。もうちょっと分かり易く云えば、私は法然上人が好きで法然上人の吉水へ行きます。でも法然上人のところへ来ている人みんな嫌いですとなったら、法然上人が大事にしておられる人をバカにしているということになりませんか。法然上人のお心をいただくということは法然上人が大事にしておられる世界をいただくということと一つであるはずなんですよ。それを大きく云うと、お釈迦さまを大事にするということはどの仏さまの世界とも響き合うような世界をいただくということが起るはずなんです。私はお釈迦さまの利益を信じてます、他の仏さまは嫌いです。こんなことになればお釈迦さまに遇うたと云えることでしょうか、仏さまに遇うたと云えるのでしょうか。そこなんですよ。就人立信と書いてありますが、一人の人にくっついて金魚のフンみたいな話と違います。仏にお遇いするということは、普遍の法を証しておられる人との出遇いを通して目覚めをいただく、これが就人立信なんですね。こちらを真実信心の内容として親鸞聖人は信巻に引くわけです。逆に就行立信は非常に分かり易いのですが、これは我々が腰を下ろしてしまう危うさを持っている。どこまでもこれは方便のお勧めですよ、ここからやれと、分かり易いけれどこれは方便としていただくべきであって、それを通して出遇うべきものがあるんですよと。そこまで行かなかったら結局私は何年やって来たとか、誰よりも行を積んでますということに必ず腰を下ろして行きます。それがさっき云いました、たとえそれが正定業と云われる称名念仏であっても、私は一日7万回やってますと威張った途端に、共々に迷いを超える道じゃなくて、他の人を貶めて自分だけを持ち上げるような危ういところへ落ちて行く。それでは本当の往生ではありませんよということを後々親鸞聖人が云っていかざるを得ないんですね。この辺が始めに云いましたが方便の難しさですね。方便として掲げてもらわないと何からやったらいいのか分からない。でも掲げられたことを一つひとつやり出せばやった途端に私はやれてますというところに腰を下ろす。これが無くてはならない要門ですが仮ですよ、仮門ですよということを押さえておかないと勘違いが起きてしまうんですね。この方便の二面性ですね。ここからしか我々は真実に出遇うことができない。しかしそこに腰を下ろす危うさを持っているということなんですね。ここまでが一応深心釈として化身土巻に引かれるところを見てもらったわけであります。次は回向発願心釈ですが、ちょっと一服しましょう。
回向発願心釈
335頁の最後の行、今度は三つ目の回向発願心のところを読んで行きます。[「三つには回向発願心。「回向発願心」と言うは、過去および今生の身口意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡・聖の身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもって、ことごとくみな真実の深信の心の中に回向して、かの国に生まれんと願ず。かるがゆえに「回向発願心」と名づくるなり、と。」。この回向というのは如来回向という言葉ではなくて、「さし向ける」とか「振り向ける」とかいう元々の意味の言葉です。だから一応主語は我々、我々が回向するというふうに読ませようとしていますね。回向して浄土に生まれんことを願っていく、願いを起す、そういう心だというわけです。その内容が336頁の1行目ですが、「回向発願心と言うは、過去および今生の身口意業に修するところの世・出世の善根」ですから、これは自らにおいてという意味ですね。私が過去から今生にかけて身口意の三業に修してきたところの世間における善も、仏道における善根も全部回向して行くというわけです。ただ面白いのは自分が積み上げたものだけじゃないんですね。「他の一切の凡・聖の身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して」と書いてます。これ他者が修したところを喜ぶと書いてある。これは甚だ難しい話ですね。人が一所懸命仏道に励んでいるのを見たらどうですか。大体負けたとかね、今に見ておれとか、そんな根性が起るんじゃないですか。他者が一所懸命仏道修行しているのを喜ぶと云うんです。すごい話でしょ。これが本当の回向発願心、つまり共々に迷いを超えて行く、自利利他という課題があるからです。私一人が抜け駆けして助かる、そんなのは仏道でもなんでもないんですね。だからやるならここまでやれという呼び掛けなんです。今日からハイわかりましたといくかどうかです、これが。他人の修しておられる善というのは、大体ケチ付けたかるんじゃないですか。あいつはあんなこと云うてるけど裏ではなぁみたいなことですわ。本当にその人の修しておられる行を立派だなぁ、大したものだ、本当に偉いなぁと、そんなこと云うことすら難しいんですよ。それを共々に喜んでいく。そしてそれを合わせて「この自他所修の善根をもって、ことごとくみな真実の深信の心の中に回向して」、これがまたすごい言葉ですね。真実の深く信ずる心の中において回向するんです。これ深信については前に述べてきたわけですからね。その時深く信ずる心に立ってということであります。これで回向するわけです。仏道が完成するように、共々に迷いが超えられようにということを全身全霊を挙げてさし向けて行く、振り向けていくというのがここで云う深信の心の中に回向してということでしょうね。そして[かの国に生まれんと願ず。かるがゆえに「回向発願心」と名づくるなり、と]とあります。だから共々に傷つけ合ったり、迷ったりを超えて行こうとする。一切衆生と共にというのはそんな心ですね。ここまで云って初めて回向発願という観経が呼び掛ける言葉を受け止めるということになるわけです。ただこの部分については親鸞聖人は信巻には引かないわけであります。一応確認をしておきますと、218頁でありました。信巻の所ですが、218頁の1行目に「三者回向発願心」とあります。これは先程の化身土巻にも引いておりますね。その次に「乃至」とあるでしょ、これは中略してますよということですが、この中略してあるところが今読んだ化身土巻に引かれている部分であります。だからまず観経の三者回向発願心という呼び掛けを善導大師は自他共の善根を回向すると読んでいるわけですが、その部分は我々への方便の呼び掛けとして親鸞聖人は化身土巻に引きます。そして真実信心の内容を表わす部分は次のように「また回向発願して生ずる者は、必ず決定して真実心の中に回向したまえる願を須いて」と。回向したまえると如来が回向して下さっていると読み替えているわけです。つまり我々に徹底して回向するなんていうことがあり得るのかという自覚に立ったときに、如来のはたらきかけ、如来の我々に与えて下さっていることをいただいていく他ない。これが「回向したまえる願を須いて得生の想を作せ。」という言葉になっている。これが真実信心、本当に我が身に何ができるのか出来ないのかを潜った上での回向発願心になるのだということでしょうね。化身土の呼び掛けを聞いてハイ分かりました、今日から頑張りますと云うなら、まぁ頑張ってみろということですわ。やれるところまでやれと。でもそれが自分が善根功徳を積むだけじゃなくて、人が積んだ善根功徳も共々に随喜する、喜んでいくという、そこまであった上での話です。そして自他共々に助かっていこうという、これが本当の回向発願心の呼び掛けをいただくということなんですね。まぁこれが信巻と化身土巻に引き分けてあるということの非常に端的な分かり易いところだと思うんですが、どこまでも我々への呼び掛けなんですね。だから出遇ってほしいのは如来の回向したまえる願を須いる、ここまでなんですが、これも如来がどれ程はたらきかけて下さっていると云っても自分に善根を積み上げている自負がある間は如来のお助けは要らんでしょうね。本当に如来の回向したまえる願を須いるということになるのは自分が砕けたときでしょうね。これが第19願のときずうっとお話ししてきましたが、普通は善根功徳を積むというところに立つんです。が積めなくなったところに如来が迎えに来て下さるんです。第19の願の読み方と云えばね、普通は修諸功徳なんですよ。ところが途中で倒れていく、やり遂げない中に臨終を迎えるということがあるんです。そのときにどんな者も見捨てずに私から迎えに行くぞという本願の心が聞こえてくる。同じ本願文を親鸞聖人は修諸功徳の願とも臨終現前の願とも読まれる。修諸功徳は我々に徹底して功徳を修めなさい、歩みを励めと云ってるわけです。しかしそれがどこで倒れても100行けなくて20で倒れても私が迎えに行くからと書いてあるんですね。この本願文にも両方の意味がちゃんとあるんです。一人も漏らさず救い遂げると云うんです。でも初めっからこっちを思いませんよね。臨終を迎えて見ないとオレはまだまだいける、そのうちに見ておけというような心は捨てられません。やっぱり無理となったときに初めて、あぁ私を漏らさない本願があったかということに出遇うんですよ。まぁこれ第18願に戻せば初めから本願文は念仏一つでいいと云っているわけです。それを念仏一つで足りんもんですから、なんかやらせろという努力意識に応答して説いて下さっているんです。それでやっぱり念仏一つでしたかというところに帰ることができるのは倒れるときでしょうね。そういうことがずうっと底に流れているのがこの化身土巻の引用であります。だから今の回向発願心釈の化身土巻に引かれている部分というのはすごいことを我々に呼び掛けているでしょ。やるならここまでやってこそ仏道なんだと云ってるわけです。ちょっと怯みますよね。他者の修めた功徳まで喜ぶと書いてあったら。私には無理やと。でもそういうことを突き付けられないと、なんかいけてる気になるんですね。私はやれているような気になってしまうんです。他者と共になんてとんでもない、自分のことしか考えてない自分が初めて見えるんじゃないんですかね。そのときに仏からの呼び掛けが漸く見えてくるわけです。序分義引用のおこころ
それが次のところに展開して行くんですね。336頁でありますが、面白いなぁと思いますね。4行目(序分義)と書いてあります。これ観経疏で云うと、一番初めは「玄義分」と云って観経の奥深い意義を述べた部分、これが一巻目です。二巻目が「序分義」です。そして三巻目が正宗分の「定善義」、四巻目が正宗分の「散善義」となってるわけです。でも今読んでいたところは散善義でしょ。観経疏四巻あるうちで4巻目の文章を先に読んでいたわけです。ところが今度ここに来て二巻目の文章が出て来るわけです。要するに順序を変えているんですね、親鸞聖人は。ということはこの散善義にある観経の三心についての解釈を踏まえて漸く次のことが聞こえてくるということを親鸞聖人は見ておられるんですよね。初めからこれ云うても分からんということですわ。ここまでやってみろと。信ずるならこう云うことまでやれ、具体的にはこういう行をやれとずうっと云うて来たわけですが、その上で次なんて書いてあるか。それが序分義のこういう言葉です。「また云わく、定善は観を示す縁なり、と。また云わく、散善は行を顕す縁なり、と。」これは元々は訓点を振らずに「定善示観縁」という言葉と、「散善顕行縁」という部分を表す、序分の六つの浄土の教えが明かになる縁を示す、六つの名前の中の二つなんです。お経の順番で云うと散善顕行縁の方が先で6番目に定善示観縁がある。序分に六つの縁があるうちの5番目と6番目の名前をここに引いて親鸞聖人は定善は観を示す縁なり、散善は行を顕す縁なりという言葉にしておられる。結局何かと云ったら、定善というのはずうっとお話ししてきましたが例えば西に沈む太陽、次には波立たない水を思い浮かべるに始まって13の観察の方法が書いてある。しかしそれを通して何が明かになるかと云えば、観とはどういうことかですよね。まぁこれ読んで来たところで一つだけ振り返りますと、332頁の8行目です。「若有合者名為麁想」という言葉があります。観経で云えば観法がものすごく進んできたところに出る言葉なんですが、もし合するところあれば名づけて麁想とすと。合しなかったらそれは観たと云えないんですが、ピタッと合ったとしてもアラアラと浄土を観たことになるんだと、そういう文章がお経に出ているわけです。そこを親鸞聖人は捉まえて「これ定観成じがたきことを顕すなり。」と書いています。定善ということがいかに成り立ちにくいか、心を静めてそして阿弥陀の世界を観ていくということがいかに成じ難いかと云っておられます。それに続いて[「於現身中得念仏三昧」と言えり、すなわちこれ、定観成就の益は念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕す。すなわち観門をもって方便の教とせるなり。]とこう云われています。つまり観は方便だと云ってるわけです。西に沈む太陽を観よと非常に分かり易い修行を説いてくれておりますが、それはあくまでも我々を導くための方便ですよと。そしてそれはなかなか成り立たないんですよと。結局念仏三昧だと。このこと一つを明らかにするためにこの観法は説かれているんだということですね。先程のところに「定善は観を示す縁なり」とありましたが、定善をやれということは、観とは何かということを示す、そういう縁だと読めるわけですね。観が方便の教えであるということ、それは我々には成り立ちにくいということ、こういうことを示すわけであります。336頁に戻りますが、ここには「散善は行を顕す縁なり」とあります。ここにも念仏三昧ということが非常に大事であります。いろいろ善を修めなさいと説いてあるけれども、これは念仏一つということを表わす。そのためにあれもやれこれもやれと、散漫な心のままでも修めることができる善が説かれているんだというふうに親鸞聖人は観ておられると思います。定散諸善、これはとにかく方便の教えなんですね。それを通して真実の行、迷いを超えていく行とは何か、これを露にしてくれていると読んでおられます。観経は定善十三観から始まって散善は上品上生から下品下生まで九品が説かれてます。そして最後に何が説いてあるかというと称名念仏一つ、南無阿弥陀仏と称えるだけで迷いを超える道が出て来るんです。そこに行くまでに定善の教え、散善の教えが方便として説かれているということを親鸞聖人は観たものですから、観経全体が南無阿弥陀仏、称名念仏一つということを説く経典だと受け止められたということでしょうね。いま三心釈を挙げていましたが、これは観経疏の四巻目に出ることを踏まえた上で、それを通した上で何が見えるかと云えば南無阿弥陀仏一つという行が明かになる、これが大事なんだということです。それからもう一つ挙げていますね。これは散善義の言葉です。四巻目の一番最後の言葉であります。「また云わく、浄土の要逢いがたし、と。」原文は「真宗叵値、浄土の要難逢」で「真宗叵値」の方は行巻に譲っていますが、ここでは浄土の要はなかなか逢い難いんだという言葉を置いています。ということは、「定善と散善は方便の教えですよ。そしてそれを通して称名念仏一つ、ナンマンダブツ一つに逢わせたい、これが観経ですよ。でもそれに逢うのは難しいですね。」とこういうお言葉でしょうね。要がお経を読めばそうなっとる、もっと云えば善導大師の解釈のお言葉から明らかなんです。しかしそこに逢うのが難しい。実際そうですわ。善導大師のお仕事がなかったら観経一つ見ても我々はやっぱり西に沈む太陽を見ることから実践を始めますよね。そして二段階三段階と大分進んで来たなと思う方が分かり易いんですよ。しかしそれを本当に徹底できるかとなったら、西に沈む太陽を見ていても妄念妄想が起ってくる自分が見えるはずなんです。波立たない水を見ると云われたら波立つ心が見えるはずなんです。善導大師はそういう者のために観経は念仏一つのところへなんとか導こうとする。そういう教えだということなんですね。これ四巻かけてずうっとやられたことを親鸞聖人はいまの三心の解釈と、そしてそれを通して見えてくるはずのものとして定善は観を示す縁であり、散善は行を顕す縁だとして、それに逢うのは難しいと仰っています。ここには「文抄出」とあります。抄出とはすごい話で序分義からわずか2行でしょ、散善義の終りからまた1行、ポーンと抜いてくるわけです。これ観経蔬全体をね、ここで押さえていると云っていいくらいの言葉なんです。善導大師の観経の読み方もすごいですけれど、それを受け止めた親鸞聖人の読みもこれちょっとすごいなぁと思います。ただ私はいま申し上げたような受け止めをしていますけれど、先輩方はいろんな解釈をしておられてね、これがなんでこう並んでおるのかなかなかよう分からんと仰っている方もあります。あるいはただ単に解説に終止しておられる方もありますが、私はもう一遍云いますが、この散善義の三心釈の解釈があって今のところまで話は展開してきている、進んできていると思います。往生礼讃のことば
もうちょっと見ておきたいのが次の文章ですね。336頁の7行目、往生礼賛の文章へ行きたいと思います。が、見当付けのため337頁も見ておきますかね。337頁はこの同じ往生礼賛の言葉の中から、慚愧懴悔という言葉が出てまいります。上品の懴悔、中品の懴悔、下品の懴悔ということが出て来るんですね。つまり親鸞聖人はここに集約をしておられると思います。つまり観経の呼び掛けを本当に聞けば、何が起るかと云えば懴悔が起るんです。至誠心、誠であれと云われ、深心、深い信心を起せと云われ、そして回向発願せよと云われたわけでしょ。そしたらハイ分かりました、私頑張っていますって、そんなこととても云えない。そこから深い懴悔が起ってくるはずだという流れがここにはあると思います。懴悔に集約するんですよ。それの橋渡しになるのが336頁の往生礼賛の文なんですね。これも大分長いんですが、一回読んでおきましょうかね。「また云わく、『観経』の説のごとし。まず三心を具して必ず往生を得。なんらかを三とする。一つには至誠心。いわゆる、身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。おおよそ三業を起こすに、必ず真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく、と。乃至 三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、かるがゆえに「回向発願心」と名づく。この三心を具して必ず生を得るなり。もし一心少けぬればすなわち生を得ず。『観経』に具に説くがごとし。知るべし、と。乃至 また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法、回して仏果を求む、すなわちこれ自利なり。衆生を教化して未来際を尽くす、すなわちこれ利他なり。しかるに今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、未だ悪道生死等の苦を勉れず。縁に随いて行を起こして、一切の善根具に速やかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん。かの国に到り已りて更に畏るるところなけん。上のごときの四修、自然任運にして自利利他具足せざることなしと、知るべし、と。」
往生礼讃も善導大師の著作であります。日没から始まりまして初夜、中夜、後夜、晨朝、日中と一日を六つに分けて、四時間毎に儀式をちゃんと勤めて一日中阿弥陀の世界をいただいていく礼拝の形にまで定めて下さったのが善導大師ですね。観経疏というのは観経の注釈書ですので観経の意味を押えることに主眼がありますが、往生礼讃を始めとする観経疏以外の著作は日常の中で阿弥陀の世界をいただいていく儀式を定めたものです。一日六回念じなさいと云うわけです。私たちは一日六回はとても無理やということで、その中から晨朝と初夜あるいは逮夜、朝の勤行と夕方の勤行、まぁ朝晩ぐらいはお勤めせえと、これが蓮如上人以来ずうっと大事にされて来たところなんですけれど、善導大師はとにかく1日6回、六時礼讃と呼ばれます。中味は何かと云えば、ちょっと読んでいただくと分かるように「まず三心を具して必ず往生を得。」これ先程の散善義に触れられていた三心と同じところですね。至誠心・深心・回向発願心、これを善導大師は往生礼讃でも解説しているわけです。親鸞聖人はなぜ同じようなところを引くのかということです。これも教行信証の引用を考えるとき大事なことと思っているのですが、似たようなところがあるから引いとけとそんなんじゃないんですね。ボクらの論文やったら、こっちも引いといたら頁数延びるかもとかそんなこと有り得るんですけど、そんなケチクサイ根性と違うんですよ。これしかないというものを引くんですね。だからこの部分ね、今日本明先生も来ておられますけれど、坂東本をみるとね、切ったり貼ったりの後があって多分もっともっと長かったと思うんですが、それをここまでぎゅうっと縮めておられるんですね。さっき読んだ三行もそうですわ。なんか貼り付けたようになっているんですね。長々と引いておられたのを極力短くした。その意味で云うと教行信証はこれ以上短く出来ないという本なんですよ。これしか押えられないというものを引いておられる。三心釈はさっき引いてあるからね。至誠心・深心・回向発願心のことを云うなら往生礼讃重ねて引かんでもいいようなもんですわ。それがなんでかということです。それを思うときに不思議なのは、もう一回読みますが、「なんらをか三とする」と云うて[一つには至誠心。いわゆる、身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。おおよそ三業を起こすに、必ず真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく、と。]身口意の三業を挙げて阿弥陀仏を専念し観察する。それをなぜ至誠心と云えるかと云えば、必ず真実を須いているからだと。不真実は混じってないんです。これを至誠心と云うと書いてあるんですね。これは散善義にもないわけじゃないです。でもそのことを端的にまとめているのが今の言葉ですね。もう一つ不思議なのは次に乃至としているでしょ。三心が大事だと云いながら、次の深信の解釈を抜いてしまっているんです。だから三心のことをずらずら述べるのなら、次に深信が欲しいですわね。でもそれを抜いてしまうんです。そして次に「三つには回向発願心」に続きます。[所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、かるがゆえに「回向発願心」と名づく。]と云ってます。そして「この三心を具して必ず生を得るなり。」と。不思議な言葉でしょう。三心と云いますが、二つ目を抜いているのにです。あれっと思います。だから気になるんならそっちを読めということで「乃至」、中略してますよと云うんです。どういうことになるかと云えば、ここからはボクの意見ですよ。次に「もし一心少けぬればすなわち生を得ず。」と云ってます。つまり三心のうち一つでも欠けたら生を得られないんだ、というここが往生礼讃でしか云えない言葉なんです。ということは抜けた深心の部分はどこに引いてあるかと云うと、二つあるんですが、真実行巻と真実信巻に引いてあります。とすると真実の行信として語られるのが深心釈なんですわ。とするとここはどうなるかと云うと、三つを具えれば往生できますよという文章なのに、その真実を表わす文章は抜くことによって、我々にはこの三心をきちっと具足するなんと云うことはあり得ないということを云う文章になっていると思います。一つ目と三つ目はなんとかいけるつもりになるかも知らんけれども、二つ目の深心これは真実の信心、あるいは真実の行のところ以外にはあり得ない。だから一つ目と三つ目を起こすから何とかなりませんかとは云えないんです。二つ目は成り立たないということを云う、そういう文章に親鸞聖人はしてしまってると思います。まぁちょっと意地悪な気もしますけれどね。三つ挙げてくれても良さそうなんですよ。だからもう一遍読みます。[もし一心少けぬれば生を得ず。『観経』に具に説くがごとし。知るべし、と。]これを云いたいんですね。これが往生礼讃で三心釈を引いてくる意味だと思います。
行巻の一念釈
で、先に深心釈の方を見ましょうか。行巻と信巻にあると云いましたが、まず行巻の一念釈に引かれるんですが191頁の4行目、「おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。」これ親鸞聖人は行巻で行だけ云えばいいのに信についても必ず語られるのです。行と信は切り離せない。これは何回かお話ししたかもしれませんが私は安田理深先生のお言葉がピタッと腑に落ちているところがりまして、行というのを安田先生は仏さまからの呼び掛けと仰います。信というのはそれについてあぁそうだったのかという目覚め、こう云うふうに現在の言葉にして下さっています。呼び掛けと目覚め。安田理深講義集にその一環があります。ボクはその編集に関ったものですから、この言葉が特に残ったんですが、行とは何かと云うたら、仏に呼び掛けられることなんです。仏から呼びかけられることが無かったら私たち迷っていることすら気がつかない、このままでいいと思いながら日常生活してるわけですから。そうやって一生終えるつもりかと呼び掛けられて初めて自分の生き方を振り返るということが起きるんですよ。まぁこれどこから来るかは人それぞれですよ。身近な人からこういう呼び掛けをいただいたという人もあるでしょうね。それを通して阿弥陀さんの教えを聞くようになったという人もあると思います。ボクの場合で云うとね、ボクは大学一二年のとき剣道しかしてなくてね、まぁ元気いっぱいでしたわ。三年生くらいになった時にね、「一楽お前はいつも元気やな」と云われてね、ハイ元気なのはボクの取柄ですからと云うたら、その先生はね「そんなもの取柄だと思うてるのはお前だけじゃ」と云われました。お前の元気でまわりは迷惑しとるんじゃと云われてね、もうびっくりして元気なのは取柄にならんのかと初めて思ったことがありました。そしてさらにそれに加えて「お前そのまま死んでいくつもりか」と云われました。ドキッとしましたね。まぁある意味でボクに一番近い呼び掛けはあの言葉だったのです。それまではまともに生きているつもりでしたし、どこか問題でもありますかと思っていたわけですからね。でもそのまま死んでいくつもりかと云われて、ちょっと本気になって勉強せんならんという気になって、大谷大学に入って三年目になって漸く安田先生のところへ行くとか、そんなことが起ったんですわ。ボクの一番近い呼び掛けはあれですが、あそこから始まっていろんな親鸞聖人の呼び掛けが聞こえて来たり、阿弥陀さんの我が国に生れんと思えと云う呼び掛けをいただいたりということもようやく起ったわけです。どんな形で来るかは人それぞれですが、ハッとする、ドキッとするということがなかったら始まりませんね。どころがその時、ボクの場合で云うとそのまま死んで行くつもりかと云われて、放っといて下さいと云えば終りだったのでしょうね。ドキッとしたということ、そこから何か始まったわけですよ。つまり呼び掛けは届いたということがなければ呼び掛けにならないのです。これを仏さまの言葉で云えば我が国に生れんと思え、あるいは阿弥陀仏に南無せよと云われてるわけですが、それが届かなかったら呼び掛けの意味を持たないでしょ。だから行というのは信をもって至り得るのですね。信のない、つまり目ざめのない呼び掛けだけ単体であると云うことはあり得ない。だから親鸞聖人はいつもセットでお話しになるんですよ。だから今のところ「行の一念」と云ってね、仏の呼び掛けの話なのに呼び掛けに目覚めた心、深心がここに出て来るわけです。これが191頁の後ろから7行目「光明寺の和尚は」と云って善導大師の言葉をいくつか挙げてます。「下至一念」とかね「一生一念」とかあるいは「専心専念」とかをあげて、そしてそれを善鸞大師の本からではなくて「智昇師の『集諸教礼懴儀』の下巻」、ただこれは善導大師の往生礼讃に引かれた文章をそのまま引用したものですが、「深心は、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。かるがゆえに深心と名づく、と。」これがさっきの化身土巻で乃至されていた深心釈です。こんな短い文章なら入れといてもいいと思いませんか。でもここは真実の信心とはっきり書いてあるでしょ、これ真実の信心の内容なんですよ。だから呼び掛けを語る真実行巻で真実信心もまず親鸞聖人は押えておられる。行というのは信とセットなんです。信巻に引かれる深心
もう一ヶ所、真実信巻に引いてあるところを見ておきますが、聖典では222頁前から2行目、『貞元の新定釈教の目録』云々とあります。これずうっと『集諸経礼懴儀』の説明であります。これが4行くらい続きます。まぁこういう理由があるから往生礼讃はわざわざ『集諸経礼懴儀』から引くということがあるんですね。その中味は今日は止めておきますが、4行ほど云った後222頁の5行目に先程と同じ「二つには深心…」という言葉が引かれていますね。これが真実信を表すお言葉だということで親鸞聖人は信巻にも置いておられるわけです。これは始めの方は自身は凡夫であるということを云う、所謂機の深信という、二種深信の一番目です。二つ目は本願によって往生を遂げて行くということを語る法の深信、この二種の深信について語っています。これが真実の信心の内容だと表してあるんですね。これを親鸞聖人は化身土巻の方では引かずに信巻に置いておられるということですね。だからなぜ往生礼讃の文が化身土巻でもう一遍三心釈で同じようなことを云うのに引かれるかと云うと、336頁に戻ります。三心ということを始めに云いながら、「三心を具して必ず往生を得」と云いながら、「もし一心少けぬれば生を得ず。『観経』に具に説くがごとし。知るべし」と。これを親鸞聖人は云いたいんでしょうね。だから真実信心については真実行の呼び掛けを通して目覚めること、そこにある。それ以外にはない。だから三つの中、例えば私は至誠心は何とかなりましたとか、そんな話じゃない。三つ揃わないといけない。真実の信心は我々の努力で起すような信心ではないということ、これが呼び掛けとして示されている、そこまで包んで方便なんです。この深心はどこまでも如来のはたらきに依らないといけない。呼び掛けによらないといけないということなんですね。唯心鈔文意の三心
「もし一心少けぬれば」ということをもうちょっと親鸞聖人ご自身の註釈を見ておきましょうかね。いくつかありますが、一つには唯信鈔文意の解釈を見ておきましょうか。556頁の後ろから4行目、ここにまず観経の「具三心者 必生彼国」という言葉が引かれて「というは三心を具すれば、必ずかの国にうまるとなり。しかれば善導は」と云っていまの往生礼讃の言葉が引かれてますね。「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」と引かれて親鸞聖人ご自身が解釈しておられますね。そこ読みます。[「具此三心」と言うは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生というは、「必」は必ずという。「得」はうるという。うるというは往生を得るとなり。」こう進めてその後、[「若少一心」というは、「若」は、もしという、ごとしという。「少」は、かくるという、すくなしという。一心かけぬれば生まれずというなり。一心かくるというは、信心のかくるなり。]と云って、信心がかけるというのは「本願真実の三信のかくるなり。」とここまで云うわけです。これはちょっといきなりで分かりにくいかも知れませんが、本願真実の三信というのは、大無量寿経の「至心信楽欲生」という三信のことを云ってます。これは内容的には真実信巻で表されているんですね。一心かけぬればというのはパッと読むと至誠心深信回向発願心のうちの一つでも欠ければという意味に読めるんですよ、一応。化身土巻はそのうちの深心が欠けている形で述べてあるんですね。でもそれが欠けているということは、結局何かと云うと本願真実の三信のかくるなりと云っているように、これは大経に説かれている至心・信楽・欲生もかけているという話なんです。だから真実信心の内容をまず観経で云う場合には深心のところに押えておられる。でもそれが欠けるということは、実は大経で云うと至心・信楽・欲生というこの三信が欠けるということなんだと。だからもうちょっと読みますと[『観経』の三心をえてのちに『大経』の三信心をうるを、一心をうるとはもうすなり。このゆえに『大経』の三信心をえざるをば、一心かくるともうすなり。この一心かけぬれば、真の報土にうまれずというなり。]とあります。だからどこまでも観経の三信をえて後というのは、観経の三心というのは我々に呼び掛けて下さる三心なんですね。それを通して何がはっきりするかと云えば至誠心はいけました。次深心頑張りますと、そんなんじゃない、観経の三心を得てのちというのは観経の三心の呼び掛けをいただくということですね。それが我々で云えば、一つづつやり遂げてますとは云えずに、まことであれと云われてもまことたり得ない自分が見えるはずはずです。そこに今度は我が身は凡夫であるということがいただけるはずなんです。これが深心釈で述べられますが、それは真実信巻に親鸞聖人は譲っておられるということなんです。この辺本当に引用の仕方という意味で云うとなかなか難しいものを持ってますが、観経はどこまでも我々の自覚を促がす、我々が真実たり得ないということを潜って、如来のはたらきをいただくほかないというところに立ち返らせようとする呼び掛けの言葉として親鸞聖人は読み取っておられると思うわけです。336頁に戻って、往生礼讃で観経の三心について述べる文章がもう一遍引かれるというのは似たようなところを重ねて引いたわけじゃなくて、深心が欠けるというところ。深心というのは真実の信心として先に述べたところに押えてあるわけですから、そこを読み取れという言葉としてここを見ることができるんじゃないかということですね。和讃に見られるおこころ
いまのところもうちょっと分かり易くなるかどうか、善導大師の和讃のところで見ておきたいと思います。496頁。善導和讃の17番「真実信心えざるをば/一心かけぬとおしえたり/一心かけたるひとはみな/三信具せずとおもうべし」これ先程の往生礼讃では「もし一心少けぬれば」とありましたけれども、一心が欠けるということはここでは真実信心を得ないことだとはっきり云ってますね。三つのうちの一つじゃないんです。真実信心を得ないこと。その一心かけたる人は「三心具せず」、これは大経の三信心を表わす「三信」という言葉を使っていますが、至心・信楽・欲生の三信を具していないと思わなければならないと詠っています。どこまでも観経の三心で云うと深心に重きを置いて、それを真実信心として語る信巻でいただけということなんでしょうね。だから我々において真実信心はどこまでも行巻のよびかけと、それに目覚めるところにあるということを親鸞聖人は示しておられると思います。あと見当付けとして496頁の善導和讃の14番、これが次の引用とも関係しますが、「真心徹到するひとは/金剛心なりければ/三品の懴悔するひとと/ひとしと宗師はのたまえり」これが往生礼讃の次の引用文に関っている和讃ですが、まことの心が徹底して到るひとは金剛心であると云っています。金剛心だから上品中品下品という三品の懺悔をするひとと等しいと善導大師は仰っておられますと。三品の懺悔を我々が一つづつクリアしなければならないという話と違うんです。懺悔ということを実際に行として行わなければならぬのじゃないです。真心徹到、そこに金剛心ということがある。真実心であればそこに三品の懺悔をすると等しいというふうに善導大師は云いますね。ただ化身土巻ではこの三品の懺悔を勧めてくるのが次の引用になります。ということは我々に至誠心、誠であれと呼び掛け、深い信心を起せと呼び掛け、回向発願心を起せと呼び掛けるわけですけども、それを通して我々に突き付けて来られてくるのは、それに至らない我が身、これが懺悔ということと結びつくようなこととして出て来ると思います。なんとか化身土巻の文脈というか、流れ、展開があるんじゃないかということを見当付けしながら読もうとしているので、少し無理あるかも知れませんが往生礼讃の文章でここに一つの大きな転換が我々に勧められて来るということを思うものですから、こんな話を申し上げたことであります。大分ややこしいことになってますが、どうしても信巻と、それに導くための方便の呼び掛けとの両方を併せて読もうとするものですからご容赦を得たいと思います。もうちょっとで善導大師の呼び掛けを読み切るところまで行きますけれども、もうしばらくお付き合いをいただかなくてはなりません。