『教行信証』の化身土巻を読む(16) 一楽 真 師
2017/ 07/ 21
今日は聖典334頁の中頃から読んで行きたいと思っています。ここはどういう流れかということを少しだけ振り返りますと、331~332頁のところに大無量寿経の中に出てくるお言葉と観無量寿経の中に出て来るお言葉がどう重なるのか、あるいはどう違うのかという問答がありました。それは敢えて違うように説かれてあるということが親鸞聖人の大事な確かめであるというお話をしていました。同じことだったらね、同じ経典で繰り返せばいいんですけれど、大事なことを違うように表現しないと私たちの側が受け止めないという問題があるわけですね。例えば仏さまの世界を念じなさいと云われても、それどこにあるんですかという人間に対しては、じゃあまず、とりあえず西を向けと、こういうことを云うわけですね。しかしそれに対して、じゃぁ分かりましたと西に執着したら、これは変なことになります。その方角一つだけで他には仏さまはいないというような話じゃないからであります。だからどこを向いたらいいのか分からないという私たちに敢えて一つの方向を立てて下さいますが、それはどこまでも導くための方便だということが大事なんですね。
大谷大学ではいま安居(あんご)というのが宗派の行事として行われておりまして、2週間毎日講義がなされております。その安居を講じて下さっている先生が暁天講座をして下さるんですが、昨日は次講の木越先生でした。非常に興味深かかったのは先生は臨床仏教というのを提唱しているんですね、臨床というのは現場に向き合いながら、そこに仏教は生きてはたらくんだということを確かめたいと云うんですね。でも元々仏教はそうであったはずです。でもいつの間にか仏教は本の中だけに止まったり、あるいは本を読んで理解して、なんか自分は覚ったみたいに思う人も出てくると木越先生が話していました。そこに苦しみの原因は無明であるといくら云ってみても、頭で思っていても苦しみは越えられないんですね。そこで臨床ということをもう一遍潜らせる必要があると、こういう話をして下さっていました。ある意味で云うと、それに重ねて云えば私たち日頃言葉で考えていますから、方便というのは言葉からしか入れない。だから迷いを超えさせるためにあなた方は眠ってますよとか、酔っぱらってますよと云うわけです。覚りを目指しましょう、目を覚ましましょう、酔いから醒めましょうと呼び掛けるわけです。そんなことを立てた途端に今度は迷っているのはダメだとなったり、覚らなければ価値がないとなったわけです。こうなったらどうでしょうか、迷いの方が意味がなくて覚りに近づくのが価値が上がるとすれば、これが仏教の目指すことなんでしょうか。そして自分の修行が進んだと思っている人が、まだ進んでいないと思われる人を見て、もしかあいつはダメだと云い出せば、これは仏教の用語を使っていても、もはや仏教とは云えないでしょうね。人を裁くための材料というか、物差しになってしまいますね。この辺が昨日木越先生が臨床仏教という新しい言葉を使って、仏教は元々現場の問題、生の問題に応答する、ここに目的があったはずだという話をして下さったのですが、方便というのはこれしかないですね。方便を潜らずしては我々は真実に出会うということはあり得ない。しかしその方便に腰を下ろすという危うい問題があるんですね。でも危ういけれども、やっぱり言葉で悩んでいる人間には言葉をもって呼び掛ける。言葉で考えてしまう者に対しては言葉を通して何とか真実に触れてほしい、こういうことをずうっと仏教はやってきたのです。それが要門あるいは仮門という二つの言葉で云われる意味でありますが、話を元へ戻しますと、334頁の真ん中辺でありますが、敢えて方便に三福の行を開いて下さったわけですね。そして三昧に入れない、心を集中できない、そういう人間にも道はあるぞということを示して下さっているわけです。しかしこれは気を付けておきませんと、どの辺まで出来たか、私は10段階進みましたとか、20段階行きましたとかそういうランク付けにまた落ちていく危険性もあるということなんですね。でもこの文脈は基本的に観経が衆生を方便して下さっている、勧めて下さっている、そちら側に重きを置いてずうっとお経を読んで行こうとする文章が並んでいるわけです。前回この辺までお話ししてまして、今日は観経の三心についての善導大師の解釈、ここから読み進めていきたいと思います。先ず読んでみましょうか。
前回少しお話ししておりました観無量寿経に「三心を具すれば、必ずかの国に生ず。(具三心者 必生彼國)」と述べているところがあります。その一つ目が「一者至誠心」、二つ目が「二者深心」、三つ目が「三者回向発願心」と説かれるところがあるんですね。この部分について善導大師が解釈を加えて下さるところであります。念の為に観経の場所を確かめておきましょうか。聖典の112頁であります。5行目「もし衆生ありて、かの国に生まれんと願ずれば、三種の心を発してすなわち往生す。何等をか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具すれば、必ずかの国に生ず。」これが「具三心者 必生彼國」と勧めれられているわけです。ここについて善導大師は大変長い註釈をなさいます。この文章が出ている部分は上品上生という、人間を9通りに分けて、その第一番目のあり方のところに一応書いてあるんですけれども、これはこのあり方の人だけの問題ではないということで九品全員のすべての人に通ずるんだということを善導大師は云おうとするわけです。それがそれぞれどんな心かということを云うものですから大変長い文章になるんですね。もっと云うと、この観経の後半部分に出てまいりますが、前半は西に沈む太陽を観よから始って心を落着けて、そして阿弥陀仏の心にまでお遇いしていくというようなことが修行の様相として説かれてあるんですが、そこにも通ずるんだということを云うわけです。だから出ているのは終りの方の一部分に見えるけれども、これ実は観経全体を貫く根本のお心なんだということを云うんですね。云い方を換えれば、例えば西に沈む太陽を観るところから精神を集中して、いくらどれ程修行を重ねた人であっても、結局この三つの心が具わってなかったら阿弥陀の浄土には生れられないんだというわけです。だから逆にこの9通りの人の中で最後は下品下生と云われますが、今まで悪を造るような縁を生きてこられた、本当に傷つけ合い苦しめ合うような生き方をしてきた、そんな人であっても臨終のときに善知識の勧めに遇うて阿弥陀にお遇いすれば、そこにこれは具っておるんだとまで善導大師は云うわけです。今まで修行したかどうかという経歴は一切問わない。この三心というのが阿弥陀の浄土に生まれていく本当に要のことなんだというわけですね。まぁ普通どうでしょう。行の度合いと云うかね、長年やってきたとか、沢山お経を知っておるとか、それが救いを決めるように見えます。だが大事なのは仏さまに本当に遇うたかどうか、その中味の方なんですよ。外面的にいくら修業を重ねて来て、人が真似できないようなこともやっておられるかも知らんが、その心根がもしかするとですよ、人に負けたくないという根性でやっていたら、仏道修行と云えるかという問題が残るんです。ここに三心、信心こそが要だということを云うていく善導大師の眼があるんですね。ここの解釈の部分で先ほど一緒に声を出して読んだのが、一つ目の至誠心釈の解釈の一節であります。一節というのは全部じゃない。なんでそんなことになっているかというと、実は親鸞聖人は真実信心を語る部分については既に教行信証で云うと信巻に引いていらっしゃるわけであります。これを先に見ていただいた方が良いかと思います。
で、これをもうちょっとまとめておきますと439頁の6行目です。
もうちょっとさらさらと行けるかと思いましたが、やっぱり読むと時間がかかりますね。今日は深心と回向発願心まで行こうと思って出て来たんですが、これちょっとなかなか難しいですね。中味が本当に骨のある話なんで。一遍休憩しましょうか。
行を積み重ねろとしか読めないのですが、それはどこまでも特別な方便の教えだということです。それを通してここまで引張ろうとしているのですね。[これすなわちこの経の隠彰の義なり。]と述べられてありました。これを通して今日の引文があるわけなんですね。
もっとさらさらと行けるかと思っていたのですが、読みだすと本当に難しいですね。皆さんよう我慢して聞いて下さったと思います。申し訳ない思いです。ボクの話もややこしいんですけれど、方便化身土巻自体が非常に難しいと思います。でもこれを通さないと真実信心ということははっきりしないんです。だからあっちへ行ったりこっちへ行ったりしますが、聖典をつまみぐいするようなことになってますけれども、三心釈のところもう少し重ねて読みたいと思います。一応今日はこの辺にしときますかね。ありがとうございました。
顕彰隠密
ところが親鸞聖人からすれば長い長い仏教の歴史の中で方便のため、導くために説かれている教えと、本当に出遇わなければならない真実の部分とが混在している。場合によってはそれは取り違えられている、これが方便と真実を明らかにして行くというお仕事になるわけであります。で、この331頁から2頁のところで、先ずお経の言葉を13程挙げまして、ここに導くために説かれた教えと、それを通して出遇ってほしい要の部分があるということを示していたわけです。これが顕彰隠密ということでしたね。何遍も云いますが、顕は表に顕れた言葉として語られていることでありまして、そこには実は言葉になっていないけれども隠されているものがある、こういうことです。顕彰隠密という四文字ですけれども、意味で分ければ顕の義と彰隠密の義の二つに分かれます。これを観経の言葉を挙げて確かめていたわけであります。で、前回から読んでいたのは333頁から4頁のところへ来ているわけですが、ここは善導大師のお言葉でありまして、順序から云えば、まずお経の言葉を挙げて、そして次に善導大師の解釈を挙げるという順番ですが、親鸞聖人からすれば善導大師の受け止めが実は顕と彰隠密という両面があるのだということを教えて下さったのだという思いなんですね。だから善導大師のお心によって観経を見たということがちゃんと331頁のところに既に出ていましたが、その善導大師のお言葉を実際に引用してきて確かめているのが、前回読みました333頁からの部分でありました。まぁ一つ前のことだけを振り返っておきますと334頁を見ましょうか。真ん中の辺り科文番号28、三福とは世福、世間における福徳、仏道に入門していくときの戒福、仏道を行ずるときの行福、この三つなんですが、これを観経は勧めて下さっていると云うんですね。いきなり迷いを説けばいいものを世間の善から説き始めるわけですね。これをやることがいいことに繋がりますよと。それは我々を導くための方便だということなんですね。それをまとめて、「これは一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。」と云います。定というのは心が散らばらずに一点に定まる、集中することであります。だから仏を思って一日生きなさいと。365日一年間仏を念ずることに集中しなさいと云えばいいものを、そう云ったら漏れる人間がいるということで、散漫な心の者、散の者にも応答しながら説いてくれている、これがお経のお心だと善導が云ってるわけです。「もし定行に依れば、すなわち生を摂するに尽きず。」もし定の行だけを立ててしまえば、生というのは衆生のことですが、一切衆生を救い取ることができなくなるからだと云っています。であるから如来さまは方便して下さって「散動の根機」、定を行じ得ない散の衆生のために三福を開いて下さった、まずここからやれということです。でもこれさっきの話と重ねますと、たとえば世間における福徳、親に孝行しなさいでもいい、ああ分かりました私やってますとなると、やってない人より私の方が上だとなったりする。これは方便を握り締めた、方便に腰を下ろしたということになります。難しいですね。方便がないと真実に出遇えない、そういう意味では方便は必ず潜らなければならないのですが、説かれた者に対して私やれてますというところに腰を下ろしそうな問題も出て来るのです。それでもそこからしか始められないということがあるんですね。ですから親鸞聖人は方便は大事だけれども、そこに腰を下ろしてはいけない、しかし、必ず潜るという意味では「要門」とも云われます。それを通さずして真実に出遇えないから、肝要の要が書かれます。しかし同時にそれが真実に遇うための仮のものであって真実そのものではありませんよと云うときには「仮門」という云い方です。これが化身土巻を読み進めていますけれども、毎回話がややこしくなるのはここなんです。親鸞聖人のせいだと云うつもりはありませんが、何か一つ云った途端にということなんでしょうかね。大谷大学ではいま安居(あんご)というのが宗派の行事として行われておりまして、2週間毎日講義がなされております。その安居を講じて下さっている先生が暁天講座をして下さるんですが、昨日は次講の木越先生でした。非常に興味深かかったのは先生は臨床仏教というのを提唱しているんですね、臨床というのは現場に向き合いながら、そこに仏教は生きてはたらくんだということを確かめたいと云うんですね。でも元々仏教はそうであったはずです。でもいつの間にか仏教は本の中だけに止まったり、あるいは本を読んで理解して、なんか自分は覚ったみたいに思う人も出てくると木越先生が話していました。そこに苦しみの原因は無明であるといくら云ってみても、頭で思っていても苦しみは越えられないんですね。そこで臨床ということをもう一遍潜らせる必要があると、こういう話をして下さっていました。ある意味で云うと、それに重ねて云えば私たち日頃言葉で考えていますから、方便というのは言葉からしか入れない。だから迷いを超えさせるためにあなた方は眠ってますよとか、酔っぱらってますよと云うわけです。覚りを目指しましょう、目を覚ましましょう、酔いから醒めましょうと呼び掛けるわけです。そんなことを立てた途端に今度は迷っているのはダメだとなったり、覚らなければ価値がないとなったわけです。こうなったらどうでしょうか、迷いの方が意味がなくて覚りに近づくのが価値が上がるとすれば、これが仏教の目指すことなんでしょうか。そして自分の修行が進んだと思っている人が、まだ進んでいないと思われる人を見て、もしかあいつはダメだと云い出せば、これは仏教の用語を使っていても、もはや仏教とは云えないでしょうね。人を裁くための材料というか、物差しになってしまいますね。この辺が昨日木越先生が臨床仏教という新しい言葉を使って、仏教は元々現場の問題、生の問題に応答する、ここに目的があったはずだという話をして下さったのですが、方便というのはこれしかないですね。方便を潜らずしては我々は真実に出会うということはあり得ない。しかしその方便に腰を下ろすという危うい問題があるんですね。でも危ういけれども、やっぱり言葉で悩んでいる人間には言葉をもって呼び掛ける。言葉で考えてしまう者に対しては言葉を通して何とか真実に触れてほしい、こういうことをずうっと仏教はやってきたのです。それが要門あるいは仮門という二つの言葉で云われる意味でありますが、話を元へ戻しますと、334頁の真ん中辺でありますが、敢えて方便に三福の行を開いて下さったわけですね。そして三昧に入れない、心を集中できない、そういう人間にも道はあるぞということを示して下さっているわけです。しかしこれは気を付けておきませんと、どの辺まで出来たか、私は10段階進みましたとか、20段階行きましたとかそういうランク付けにまた落ちていく危険性もあるということなんですね。でもこの文脈は基本的に観経が衆生を方便して下さっている、勧めて下さっている、そちら側に重きを置いてずうっとお経を読んで行こうとする文章が並んでいるわけです。前回この辺までお話ししてまして、今日は観経の三心についての善導大師の解釈、ここから読み進めていきたいと思います。先ず読んでみましょうか。
観経の三心
[「また云わく、また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。「自利真実」と言うは、また二種あり。一つには真実心の中に自他の諸悪および穢国等を制捨して行住座臥に「一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、我もまたかくのごとくせん」と想うなり。二つには真実心の中に、自他・凡聖等の善を勤修す。真実心の中の口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃嘆す。また真実心の中の口業に、三界六道等の自他依正の二報の苦悪の事を毀厭す。また一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。もし善業にあらずは、敬んでこれを遠ざかれ、また随喜せざれとなり。また真実心の中の身業に、合掌し礼敬し、四事等をもって、かの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心の中の身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心の中の意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ぜるがごとくす。また真実心の中の意業に、この生死の三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨す。」]前回少しお話ししておりました観無量寿経に「三心を具すれば、必ずかの国に生ず。(具三心者 必生彼國)」と述べているところがあります。その一つ目が「一者至誠心」、二つ目が「二者深心」、三つ目が「三者回向発願心」と説かれるところがあるんですね。この部分について善導大師が解釈を加えて下さるところであります。念の為に観経の場所を確かめておきましょうか。聖典の112頁であります。5行目「もし衆生ありて、かの国に生まれんと願ずれば、三種の心を発してすなわち往生す。何等をか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具すれば、必ずかの国に生ず。」これが「具三心者 必生彼國」と勧めれられているわけです。ここについて善導大師は大変長い註釈をなさいます。この文章が出ている部分は上品上生という、人間を9通りに分けて、その第一番目のあり方のところに一応書いてあるんですけれども、これはこのあり方の人だけの問題ではないということで九品全員のすべての人に通ずるんだということを善導大師は云おうとするわけです。それがそれぞれどんな心かということを云うものですから大変長い文章になるんですね。もっと云うと、この観経の後半部分に出てまいりますが、前半は西に沈む太陽を観よから始って心を落着けて、そして阿弥陀仏の心にまでお遇いしていくというようなことが修行の様相として説かれてあるんですが、そこにも通ずるんだということを云うわけです。だから出ているのは終りの方の一部分に見えるけれども、これ実は観経全体を貫く根本のお心なんだということを云うんですね。云い方を換えれば、例えば西に沈む太陽を観るところから精神を集中して、いくらどれ程修行を重ねた人であっても、結局この三つの心が具わってなかったら阿弥陀の浄土には生れられないんだというわけです。だから逆にこの9通りの人の中で最後は下品下生と云われますが、今まで悪を造るような縁を生きてこられた、本当に傷つけ合い苦しめ合うような生き方をしてきた、そんな人であっても臨終のときに善知識の勧めに遇うて阿弥陀にお遇いすれば、そこにこれは具っておるんだとまで善導大師は云うわけです。今まで修行したかどうかという経歴は一切問わない。この三心というのが阿弥陀の浄土に生まれていく本当に要のことなんだというわけですね。まぁ普通どうでしょう。行の度合いと云うかね、長年やってきたとか、沢山お経を知っておるとか、それが救いを決めるように見えます。だが大事なのは仏さまに本当に遇うたかどうか、その中味の方なんですよ。外面的にいくら修業を重ねて来て、人が真似できないようなこともやっておられるかも知らんが、その心根がもしかするとですよ、人に負けたくないという根性でやっていたら、仏道修行と云えるかという問題が残るんです。ここに三心、信心こそが要だということを云うていく善導大師の眼があるんですね。ここの解釈の部分で先ほど一緒に声を出して読んだのが、一つ目の至誠心釈の解釈の一節であります。一節というのは全部じゃない。なんでそんなことになっているかというと、実は親鸞聖人は真実信心を語る部分については既に教行信証で云うと信巻に引いていらっしゃるわけであります。これを先に見ていただいた方が良いかと思います。
信巻に引かれる三心
聖典214頁です。前後は無視しますが、最後の行に[また云わく、「何等爲三」より下「必生彼國」に至るまで已来は、正しく三心を弁定してもって正因とすることを明かす。]これがさっき読みました観経の何等をか三とすと云う三つの心を挙げて、この三心を具えれば必ずかの国に生まれるという段のところを指示しているわけですね。この一段は何かと云ったら「正しく三心を弁定して、もって正因とすることを明かす。」つまりこの三心を弁え、定めるわけですが、何によって浄土に生まれるかと云えばこの三心がその要なんだと善導大師は云い切っていく。善導大師はと云いましたが、お経がそういうことを定めて下さっている、それを明らかにしている部分だ、こう読み取ったということです。だからここは何かと云ったら真実信心を語っているわけですね。真実信心について述べる部分は親鸞聖人は信巻に引くわけです。そしてその真実信心に導くための我々への呼び掛け、方便の教えを化身土巻に引くわけです。念の為に云いますが、善導大師の文章を読めばずらずらと並んでおりまして、どこが真実の部分でどこが方便の部分だとは書いていらっしゃいません。分けて書いてあると分かり易いんですけどそうなっていない。でも親鸞聖人がこの部分は真実信心の内容だと思われた部分は信巻に、それに導くための方便の教えの部分だというところは化身土巻に引かれる、分けて引いておられます。どの部分かということを確認しておきますと、215頁後ろから6行目、ここにこんな言葉がありますね。「また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。乃至」これどうです、先程ちょっと読んだ言葉が顔を出しているでしょう。ここを開けたまま、さっきのところをもう一遍見ていただきましょうか。334頁を開けて下さい。信巻で「乃至」(中略) された部分
「また云わく、また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。」この部分は信巻にもありました。しかし信巻ではその次に、215頁に戻りますと「乃至」となってます。この乃至という部分が先ほどご一緒に読みました化身土巻に引かれている部分なんです。見事にというか、徹底して引き分けておられる。だからこの信巻は今ここはもう読みませんけれども、これだけのことが真実信心の内容を語るんだと信巻に引き、信巻で乃至と中略されている部分が化身土巻の内容として引かれている。項目だけは両方に引かれておりますね。「真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実」と云って、この自利真実についての部分が化身土巻に来ているということが分かります。始めから話がどうしてもややこしくなるんですが、親鸞聖人からすれば善導大師が真実ということに二種類を立てておられるところに着目されたわけですね。だってこの至誠心というのは、誠であれという心でしょう。徹底的にまことであれと呼び掛ける心です。でも本当にまことを至せと云われると、誠たり得ないことが自ずと見えてくはずなんですね。たとえば仏教で在家の信者も守らないといけないと云われる第一番目の戒律は不殺生です。不殺生ということは無自覚な間はそんなことしている積もりもなく生きておりますけれども、不殺生と呼び掛けられて本気でそれを守ろうと思ったらもう何も食べられなくなるんじゃないですか。殺生しながら生きているということが必ず見えてくる。だから一つとして戒を保てない。仏法に入門するその入口にすら立てないことが見えてくるはずです。だからまことであれということを云わなければ、そんなことも気にならずに自分はまあまあま共に生きているかなぁという話ですけれども、本当にまことであれと呼び掛けられてみると、まことたり得ない自分が必ず見えるんだというのが親鸞聖人の読み方なんですね。自利真実と利他真実
それを善導大師は真実と云うけれども、自利真実と利他真実と二種類あると仰っているというわけです。ちょっと言葉が難しいですが、ふつう自利と利他と云うと自らが迷いを超えていく方を自利と云い、他者の迷いを超えさせるのを利他という言葉で云われますね。自利と利他。ここはそういう意味で使われていないですね。はっきり云えば、自利の方は自力、自力による真実という意味です。利他の方は、本当の利他は如来にしかないという意味ですから如来による真実のことです。自利真実というのは人間の自力によって真実となろうという、ある意味で一所懸命の心、これが自利真実という言葉です。これが大変難しくて、難しいというのは、元々の意味では自利利他というのは、今も申し上げた菩薩道で自らが迷いを超えるとともに他も迷いを超えさせようと、ここからスタートするんですわ。しかし親鸞聖人はそれを本気で比叡山で20年修行したわけですね。すると何が見えたかと云うと、一所懸命修行はするんですけれど自利すら成り立たないという問題なんですね。20年やって自分の救いあるいは覚りがなんとかなったというんならば、自利はいけましたと云えるでしょうけれど、それは後の利他が難しいという話で、自利はほぼ完成したけれども利他が難しいんやという話でしょうが、親鸞聖人は自利すら成り立っていないという実感を持たれるわけです。それを結論的に云うもんですから、自利というのは課題を示す、我々に一所懸命やれということを教えて下さる言葉だというふうに受け止めていかれることになるんですね。その意味で云うと利他というのは人間にはあり得ない、ここまで云います。この辺は親鸞聖人の独特の押えと云っておかなければならないと思います。なぜなら今も自利利他の精神は大事にされてましてあっちこっちで利他の大事さということが強調されますよね。自利のみではいけない、利他だとね。でもその場合の利他というのは云ってみると利己的な、自分の利益という意味で使われていることが多いです。他者に向けて利益を施していく、これを利他というように使われている文脈が多いです。しかし自利と利他は本来分けてはいけないんです。同時なんですね。一番いいのはお釈迦さまを例にとりますと、一応35歳でお覚りを開かれるまでは自利の行をしていたと云えるでしょうね。自らが迷いを超える、真実を見定める智慧を獲得する行だったと一応云えるでしょう。35歳でそれを見出してから後は今度は他者にこれを伝えていく説法をなさったわけですね。だから35歳以後は利他の行に励まれたと一応云えます。しかし視点を変えれば全く逆転するというかね、同じことを自利と利他を入れ替えということも出来るんですね。例えばなぜお釈迦さまは出家したのか。生老病死といういのちの現実に触れたということが少年時代のこととして云われます。しかしもう一つ大きいのは、自分が生きて行くために他のいのちを食べないといけない、他のいのちの上に自分のいのちを繋いでいくわけです。でもどれだけ食べても食べても死んでいくんですよ。その死ぬいのちに意味があるのか、死んでいくのに他のいのちを食べていかないといけない。これ、他者との関係の中に悩まれたと云っていい。これは古い仏伝なんかでは、哀れなるかな、生きとし生ける者はお互い相食(は)むとね、食い合いながら生きていることを痛ましいと云った言葉が伝えられますが、これは云わば他者との関係の中で悩んだが故に出家したと見ることができるんです。自利を始めにやっていて次に利他だと一般に見られますが、他者との関係に悩んで出家なさったとも云える。そうすると今度は覚りを開いて食べながら生きて行く中にも道はあるということを云うわけです。善い悪いでなくて因縁なんですね。自分が生きているということは他者からのいのちを頂戴しながら生きている、資格があってじゃないですよ。或いは逆に云うと、私に食べられるために魚を誕生してきたわけでも何でもありません。お互い様です。それこそ自分がいのちを終えるときには親鸞聖人が云われるように賀茂川に入れて魚の餌にしてくれということです。今度は自分が食われる番ですわ。そういうふうにお互いさまやという話であって人間は偉いから魚を食べていいと、そんな話じゃない。そういうところから云えば、食べるところにも道はある。食べることによって人生を尽していくことの道に立たれたのがお釈迦さまだと思いますね。結局その後いろんな人に説法しますが、それは自分が目覚めた世界が本当に普遍的であるのか、誰の上にも通ずるのかということを確かめ続ける説法であったと云っていいと思います。それは仏が仏であることも確かめておられる。私の目覚めた法は真理なのか、時代が変っても届く法であるのか、これを確かめておられるのが説法だと思います。でもこれをあんまり云い過ぎると、ご自分のために説法しておられたように聞えると具合が悪いんですけれど。そうじゃなくて仏が仏であるという自利と、仏が他者を救うという利他の問題、これは同時であって重なっているということを云いたいわけであります。それを、まず自利をしてそして次に覚りを開いてから利他に入ったというように段階的に見られがちですが、そんなことではないだろうと云いたいわけですね。話戻りますが、親鸞聖人においては比叡山時代は先ず自利だと聞かされているわけですよ。迷いを超えられない者は他人の迷いを超えさせられるはずがないじゃないかと。まぁ、話としては分かります。しかしいくら自分が比叡山で修業していても自利すら難しい。ましてや他人を助けるなんでことは出来ないとこういう疑問の中で親鸞聖人は山を下りるわけです。そのときに自利利他という言葉の意味は大転換します。どういうことか。どちらもこれは如来さまのお仕事だということですね。阿弥陀の舟に乗って我々は共々に助けられる、だから利他というのはとにかく阿弥陀如来、仏のお仕事だと云い切るわけです。利他という言葉は他力という言葉と同じであります。或いは如来の本願力と云ってもいいかも知れませんね。こういう文脈で利他という言葉を使います。それには本当の自利も具わっているような話なんですが、一応それと区別するために自利のみを目指すようなあり方、まずは自分だけが覚ろうとするようなあり方、こちらを自力という意味で親鸞聖人は使われるんですね。これが菩薩道で云われる自利利他という言葉と、それを親鸞聖人が使われるときのズレと云いますか、展開してきた意味との開きを感じられるかも知れません。また戻りまして、自利真実の部分これを信巻からは抜いてしまっている。あっちには引かずにこっちの化身土巻に載せるわけです。まぁ「乃至」というのは態々信巻に書いてあったように、ここは中略してますよということを指示しています。この部分はここに引きませんということを意思表示してるわけですね。だから気になる人は読んでくださいということなんですよ。で、どこにあるんかなと思うと化身土巻に載ってるわけです。ということは真実信心を語る利他真実、あるいは如来の他力、あるいは本願力のはたらきによって我々に与えられる信心の面は信巻に展開されています。そして我々にまずここからやれと勧めて下さる面、それを化身土巻に置いておられる、こういうことなんです。そういう見当付けをしてもう一回読んでみましょうかね。334頁、始めのタイトルのところは両方に引かれてますね。「また云わく、また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。」そして自利真実の方だけがここに引用されるわけですね。我々への課題を示す呼掛けの言葉として読んでいただくと了解しやすいんじゃないかと思います。自利真実
[「自利真実」と言うは、また二種あり。一つには真実心の中に自他の諸悪および穢国等を制捨して行住座臥に「一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、我もまたかくのごとくせん」と想うなり。]とこう云ってます。これは真実の心をもって自らと他者との悪を厭うわけです。仏教で悪というのは傷つけ合う、苦しめ合うことを悪と云います。そして穢国という国のあり方を制して捨てていく。だから悪を痛む心、一所懸命悪を離れようとすること、これがまず自利真実の一つ目だと云われています。そして行住坐臥ですからいつでもですよ、いついかなる時もですよ、横になってもですから休んでる暇ないんですわ、本当に。いつでもこういうことを課題にして生きると云うんですね。これが一切の菩薩が諸悪を制捨する、つまり自力の行を励んでこられた傷つけ合うあり方を離れようと努めて来られた、それと同じように私もそうありたいと思う、これを自利真実というのだというわけであります。これ何のことかと云うと所謂聖道門の修行のことですね。菩薩道として迷いを超えることを目指して行く、これが自利真実と云われています。ただここでは自力とは書いていません。自力と云ってしまうと何かそれは他力の教えに対して本当でないとなるかも知れません。だから先ずは一所懸命迷いを超えることを課題にせよという呼び掛けが観経の至誠心には込められてあるのだと読んでますね。二つ目、これは今度は阿弥陀に関って云われます。ちょっと読んでみますと「二つには真実心の中に自他・凡聖等の善を懃修す。」まずは善を修めていくと云います。そして「真実心の中の口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃嘆す。」阿弥陀仏とその国、依というのは依り処ですから環境のことです。正というのはそこに住んでいる住人のことですが、阿弥陀仏とその国および住人のことを誉め讃えるというのです。本当に真実の心から口で阿弥陀を呼びその国を誉め讃える、これ阿弥陀に関っての自利真実ですね。「また真実心の中の口業に、三界六道等の自他依正の二報の苦悪の事を毀厭す。」これは阿弥陀の国を讃嘆することによって今度は自分たちが苦しみや悪を作っていくあり方を痛んでいくということです。阿弥陀の国を願うところにこの娑婆世界のあり方、これを三界六道等の自他依正の二報の苦悪の事を毀厭す、そしりいとう心を離れていこうとする心ですね。「また一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。」一切衆生が、傷つけ合うことを超えて生き生きと生きる、迷いを超えて覚りに向う、そういう善を誉め讃える。それによって「もし善業にあらずは敬んでこれを遠ざかれ、また随喜せざれとなり。」とあります。善業でないもの、これは不善あるいは悪と呼ばれるものですが、それはつつしんで、面白いですね敬遠という字なんですが、親鸞聖人はつつしんでと訓点をつけておられます。だから善でないようなあり方、それは敬遠しなさいと云うんですね。またそれ喜こんではいかんというんですね、随喜せざれと。人間を迷わせるようなものを誉め讃えてはいけないんですよ。すごいなぁなんて云ったらいけないんですね。でもみんなして迷いのあり方の方を誉めるんやないですか、喜ぶんやないですか。非常に具体的なことを挙げてくれてるでしょ。「また真実心の中の身業に、合掌し礼敬し、四事等をもって、かの阿弥陀仏および依正二報を供養す」今度は身の業であります。合掌し礼拝し敬い、四事等というのは供養するときの基本なんですが、例えばお釈迦さまで云うならば、衣服、飲食、臥具、湯薬と云われますね。着る物、飲み物、食べ物、座布団、お薬、これはお釈迦さまを尊敬するときに差し出す物として云われます。尊敬の気持ちを表すのが四事供養、四つの最低限の供養の道具なんですが、これがここでは阿弥陀仏と阿弥陀仏の世界について供養の品を差し出す、尊敬を表しなさいということです。いつも云うことですが、供養というのは大体布施という言葉とも重なってまして、布施は大事なものを差し出すんですよ。要らんものをやるのは布施じゃないんですよ。自分にとって大事なものを差し出すことによって執着を離れさせてもらう。本当の尊敬の心を形にするのが布施であり、それを供養の行と呼ぶわけであります。だからお供えするというのは、これだけ上げときゃええやろって、そんな話やないですね。自分の執着を離れるということが阿弥陀に関って云われてますね。もうちょっと読みます。「また真実心の中の身業にこの生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。」と云ってます。だから阿弥陀の国の大事さを礼拝するということの裏返しで、今度はこの「生死三界」ですから迷いのあり方、そこの環境とそこに生きる者のあり方、これを軽んじ慢(あな)どるという字が書いてあります。これではいかんということですね。それを重んじないそして厭い捨てると云います。この娑婆世界の生き方を離れていこうという心が阿弥陀を供養するということの裏返しに必ずあるというのですね。非常に具体的な課題を示して下さっているでしょ。今度の三つ目が心であります。「また真実心の中の意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ぜるがごとくす。」阿弥陀の世界を念じ、阿弥陀仏を念じながら正に目の前に現れるがごとく生きて行けと、こう云ってるわけです。だから裏返しで「また真実心の中の意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨す。」迷いの世界のあり方に生きている者の姿を軽んじ賤しめ離れていこうという願いを起すこと、それが厭捨すと云われています。だから口と身と意(こころ)の三業をもって阿弥陀の世界を敬い、それに対応してこちら側のあり方を厭い離れていこうとする、これがもう一つの自利真実と云われているわけです。自利真実に二つと云いましたけれど、これは一つには一般の菩薩道として菩薩のあり方を目指すということと、もう一つは阿弥陀に関わって、阿弥陀を身口意をもって敬うと共に、この世のあり方を離れていこうとする、こういうことが云われているわけであります。これどちらも、まずは自らが頑張るべきこととしていわれる、これが観無量寿経に説かれている至誠心、まことであれ、まことを至せと云うそこに込められている呼び掛けだと善導は云っているわけであります。もう一遍云いますが、これは善導の観経疏ではずらずらと並んでいます。でも親鸞聖人はその中の利他真実に関わる部分、あるいは真実信心を表す部分、もっと云えば如来のおはたらきによって我々に起る真実信心と読める部分を信巻に先に引いていました。そこに導くための方便として、課題として、為すべきことはここからやってごらん、頑張れと云って下さる、これが化身土巻に引かれてくるわけであります。まぁそんなこと、ここ読んでも分からんやないかといわれそうでありますが、これも化身土巻と信巻になぜ分かれて引かれるのか、その引用のされ方を注意することが先ず化身土巻を読んで行くときに大事になるんですね。ここだけ読んでみても確かに観経疏のお言葉ですから、何で違うように引いているのかというふうに始めは引っ掛かるしかないです。私も何遍も同じ観経疏の文章を並べてみて、この部分は信巻、この部分は化身土巻とね、票を作ったりしながら考えさせられるわけですが、ここを読んでいく上で参考になるというか、親鸞聖人ご自身が書き遺して下さった書物があります。愚禿鈔
そちらも併せて見ておきましょうね。437頁の真ん中辺に「一者至誠心というは」という言葉が出て来ます。これ『愚禿鈔』という書物でありまして、親鸞聖人の愚禿釈親鸞というお名前の上の部分、愚禿が標題になっているんですね。ただこれ少し読んでいただくとすぐ分かりますが、項目ばっかりが並んでおりまして解説が殆んどない。だからどんな書物なのか未だに断定しにくいところを持っています。ただし大きく云うと二つの説がありまして、項目をメモしたように見えるものですから、教行信証などの書物をお書きになるその前段階に書かれた若い時のノートじゃないかと仰る方があります。これ結構いままで根強いご意見だと思います。でももう一つが対極にありまして、いやいやそうじゃなくてこれは愚禿鈔とあるとおり、親鸞聖人が法然上人からいただいた中味をもう一遍自分で確かめるために整理なさったものであって、ある意味で法然上人の教えをどう戴いたかということが直接出ているから晩年の書物だと仰る方もある。ボクはどちらかと云うと後者の方ですね。だって教行信証という本は親鸞聖人の主著であるということを誰も否定しませんが中を読んで行くとどうしても聖道門の批判に対してどう応答するか。例えばただ念仏で助かるなんてあり得ないという批判があるわけですよ。やっぱり修行するのが本来の教えだという意見もあるわけですよ。それに対して丁寧にただ念仏でなければ万人が助かる道はないんだということを云っていく、これが教行信証なんです。だからいろんな疑問に対して丁寧に答えますので、段々だんだん部厚くならざるを得なかったのです。でもそれはただ念仏を頷かない人がいるから、ああいうことになるんですね。だからちょっと誤解を招くかもしれませんが、法然上人のただ念仏の教えの真意を語るためにあれだけの言葉を費やさないといけなかったのが教行信証やと思います。で、要は何かと云うと愚禿鈔という題名で云い切っておられるんだとボクは思います。これはご自分のお名前を付けておられるからです。だから対外的な本ということでなくてご自身が要の部分、エッセンスをまとめられたと見れば、これは晩年の著作と頂き直すことは十分できると思っています。理由はそれだけではありませんで、愚禿鈔の方は教行信証より踏み込んだ表現がある、というのがもっと大きな理由なんですけれど、いまその前後の話をするわけではありませんので、私は晩年の著作として、まぁ80歳を越えてからの著作として見ておるということを申し上げて、中味を見ておきたいと思います。竪超 竪出
437頁の中程「一者至誠心というは」とまず言葉の意味を押えますね、これは勿論善導大師の言葉を抜いて来てるわけですが、「至とは真なり。誠とは実なり。すなわち真実なり。」至誠心とは真実である。真実の心を起せと云われている。その真実と云ったときに「真実に二種あり」と云って先ほどの「一つには自利真実なり」そして飛ばして「二つには利他真実なり」という言葉があるんですね。ここを見ていただきますと自利真実の方に「難行道聖道門」その中味に「竪超 竪出」とあって、それぞれ下に「竪超」の方は「即身是仏 即身成仏 自力なり」とあって、「竪出」「自力中の漸教 歴劫修行なり」だんだんと覚りに近づいて行く、そして長い時間を経て修行を完成して行く道、これらがたてに段階を上がって行くという意味で「竪」という字が使われていますが、それがたてに超えるというのと、たてに出ていくという二つのあり方に分けられています。これが自利真実、ここにはっきりと自利は自力だという言葉で押さえられていますね。でもさっきも云いましたが、観経疏の文章では菩薩となっていく方、自らも菩薩であろうとする方にまとめているわけですね。だから自利真実に二つあるというのの一つ目なんですね。横超 横出
次に「利他真実」これが「易行道浄土門」と云います。さらに「横超 横出」と云います。だから利他真実というのはどちらも浄土門にかかって云われてますね、一番の利他真実の中味は「横超 如来の誓願 他力なり」という、これです。もう一つ「横出」というのは本願のはたらきによって超えて行くんですけどそこに自力が混じるんですね。念仏一つと云いながら結局回数がまだ足りないとかね、まだ私聞き始めてしばらくですみたいな、ある意味真面目なんですけれど、念仏一つというところに自力が介在してくるんですね。だからこれが「他力中の自力なり 定散諸行なり」と云われています。厭離と欣求
もう一つ、「自利真実についてまた二種あり。」というふうに云われます。これがもう一つの区分けなんですが、これは教行信証では云われていないことですが、「一つには厭離真実」これは厭い離れることを先に立てるんですね、これが「聖道門 難行道」です。つまり迷いのあり方を離れていこうと目指す。先ずはこんなあり方ではダメだ、迷いを超えないといけない、こういう課題をもって歩みを進めようとするのですね。「二つには欣求真実浄土門易行道」とあります。「横出 他力」とあって「横出とは易行道の教なり。欣求をもって本とす。」浄土を願う方が本なんですね。先ほど読みましたけれども、阿弥陀の世界を敬うことによってこちら側の世界を痛むということが起るわけであります。本願力によって生死(迷い)を厭い、捨てさせようということが起る。ただ面白いことに横出とあって横超はこっちに出ません。やっぱりこれは一つひとつ求めて行こう、浄土を求めて歩んで行こうという自利真実の面もあるんですね。これを云ってるからです。本当の利他の教えというのは本願に遇うところに、あぁこれがあった、これであったか、ここに道があったかという即座に頷けるような道なんでしょうね。この辺愚禿鈔を読むのは大変難しいことでありますが、項目しか書いてありませんからね。でもこれが先ほどの観経疏のお言葉を自力と他力にわけて聖道門難行道それから浄土門易行道というように当てていることであります。横出の大切さ
次に「横出の真実にまた三種あり」と云います。「横出の」というのは阿弥陀に関っての自利真実ということがありましたね。自利真実にも菩薩になって行こうという道と、阿弥陀を念ずるところに迷いを離れて行こうというあり方がありましたが、それを横出の真実についてと云います。これが化身土巻に引かれている部分を親鸞聖人は想定しているわけですが「一つには口業に欣求真実 口業に厭離真実なり」これは浄土を願う、口で敬うということと逆に口でこの世のあり方を厭い離れるということが出ています。それが二つには「身業に欣求真実 身業に厭離真実」身をもって浄土を求める、礼拝するということです。そして身をもってこの穢土のあり方を離れて行こうとする。三つ目意業、心で浄土を求める欣求真実と、心で穢土を厭う厭離真実。面白いのは全部真実が付いていることですね。これが大事だということです。その意味で方便というのは必ず潜らなければいけない、大変大事なんです。他のことでは助からないと云ってるんです。ここに迷いを超える道があると云っている。しかしそれを親鸞聖人は化身土巻にひいている。それはいくら我々に勧められていると云っても、ここには自力が残るんです。私は長年やって来たということです。でもそこを進めるしかない。他力と云ったって、初めから阿弥陀さんが救ってくれるから何にもせんでいいですね、お任せですわ、そんなんと違う。迷い苦しみを超えること、人生の道を発見すること、これは一所懸命求めないといけない。しかしそれが実は如来からのお勧めだと、方便だと、真実を教えて下さっていたのだと、こういうことが方便としていただき直されるということなんですね。だからこの愚禿鈔の記述を読まないと、先程の化身土巻のところはすっと入って来ないと思うんですね。で、これをもうちょっとまとめておきますと439頁の6行目です。
化身土巻における親鸞聖人の竪出と横出の読み
[宗師の釈門を案ずるに「一者真実心中」已下より「自他凡聖等善」に至るまでは、厭離を先となし、欣求を後となす。すなわちこれを難行道、自力竪出の義なり。「真実心中口業」已下より「自他依正二報」に至るまでは、すなわちこれ易行道、他力横出の義なり。]これ一応場所を確かめておきましょうか。334頁後ろから5行目[一つには真実心の中に自他の諸悪および穢国等を制捨して行住座臥に「一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、我もまたかくのごとくせん」と想うなり。二つには真実心の中に、自他・凡聖等の善を懃修す。]先ほど菩薩道のことだと云いましたけれども、ちょっとここの部分を重ねながら読んでおられます。439頁に戻ります。化身土巻に引用されているものを一つには難行道の自力竪出の義、それから後半の方は易行道他力横出の義だと云ってるわけです。ややこしい話になりましたけれども、これが後の愚禿鈔からみることができる観経疏の文章の読み取りなんですね。まぁどちらも、阿弥陀に関っていてもそこには自力が介在している。けれども、それはまず自力を励まして善を求めさせようとする、迷いを越えさせようとする、そういう呼び掛けの心ということになります。これが一番目の至誠心釈のところということになりますね。もうちょっとさらさらと行けるかと思いましたが、やっぱり読むと時間がかかりますね。今日は深心と回向発願心まで行こうと思って出て来たんですが、これちょっとなかなか難しいですね。中味が本当に骨のある話なんで。一遍休憩しましょうか。
「二善・三福は報土の真因にあらず」を読み直す
釈文の解釈の文章に一つひとつ入って行くとまた前後等を確かめるのがなかなか大変でありますけれども全体としてどんなことだったかということをちょっとだけ振り返っておきますと、331頁、ここにさっき申し上げていた「顕彰隠密」ということが出てましたですね。4行目[釈家(善導)の意に依って、『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。]とありました。「顕」の方が定散の諸々の善を具体的に説いて下さいまして、それによって往生浄土を目指せと我々に勧めて下さいます。三輩というのは上輩、中輩、下輩、もっと詳しく分ければ上品上生から下品下生までの九通り、九品ということになりますが、それがそれぞれ三心を起して往生を遂げて行くのを勧めて下さっているんです。ところがその後です、[しかるに二善・三福は報土の真因にあらず]定善散善の二善と世福戒福行福の三福を積むことは報土の真因ではないと云ってます。つまり真実報土、阿弥陀の浄土は皆平等に迎え取られる世界ですが、そこに生まれるための因ではないと云うんですね。因にならないものをなんで勧めるかという問題は残りますわね。でもそれは念仏一つで誰もが平等に生まれるということはとっくに説いてあるわけです。18願にも云ってあるし、教行信証では云えばもう信巻に書いてあるわけです。ところがただ念仏一つと聞くと、そんな簡単なことでと云う私たちの方に疑問が起きる。そんなことで助かるはずがないやないかという疑いも起きますよね。その人間の努力意識に応答する形で、じゃあここからやれと、これを積み上げて頑張れということを勧めて下さる、これが如来のご方便だということなんですね。何遍も云いますが、努力意識を離れられない私たちに応答しながら、じゃあここからやれと示して下さるのが方便の意味であります。本当はと云ってしまえば、始めっから念仏一つと云われてるんですよ。でもそれを頷けない者のためにこれがあるんですね。そこを確かめて二善三福は報土の真因にあらずと云って、次に[諸機の三心は自利各別にしている。利他の一心にあらず。]自利各別がさっきから云っている自利真実ということですね。それぞれに応答して説かれてくるわけです。それは如来の利他、あるいは如来の本願のはたらきによる一心とは云えないと云うんですね。どこまでも[如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり]とあります。如来の特別の方便、お手立てであります。浄土を願わせるために勧めて下さっている善根なんですね。この部分がさっきの善導の解釈で云えば自利真実と云えるでしょうね。ここに真実があるぞと、これで迷いを超えて行けるぞということを勧めて下さるわけであります。どこまでも特別のお手立てなんです。実際そうなんじゃないんですかね。始めっからナンマンダブツ一つで助かると云われたら、フンと云うてね、鼻にもかけないようなことがあるわけです。しかし本当に人生に満足を得ようとするなら、空しく終わらないようなことを求めるなら、ここからやれと具体的な目標を与えられるとあぁそれなら分かると、それならやってみようかということが起きるんですね。それが先ほど自利真実として口業、身業あるいは意業と云って、全部真実、真実、真実と並んでましたけれども、これは如来からの方便としての真実なんですわ。しかしそこに腰を下ろせば、これは本当じゃないぞと云われんならんのですね。出遇ってみればあれも全部如来さまのお手回しであったかと仰る方もありますね。悩んだことも大事な意味を持っていたかと、あるいはいろんな宗教にはまったことも無駄ではなかったということがあるんですね。全部が方便として出遇ってみれば真実だったと云えるんですね。だから途中で腰を下ろしたならば、ここにあるとおり報土の真因ではないと明言しとかなければいけないわけです。それに対して「彰」の方はこう云われています。[「彰」というは如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。]とあります。如来の本願は一人も漏らさない、弘願と云われていますね。利他通入の一心、これは本願のはたらきによって浄土に通入していく、もっと云えば覚りに通入していく一心ということが観経には述べられているんだと云うんです。でも言葉として述べられているのは定善散善三福九品の行でしょう。でもそこを通して誰の上にも平等に成り立つ如来のはたらきによる一心ということが述べられているんだと親鸞聖人は云い切るわけです。それがその後[達多・闍世の悪逆に縁って、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意に因って、弥陀大悲の本願を開闡す。]と云われます。だから釈尊の出世本懐も彰されているし、弥陀大悲の本願もそこに開き闡されているというふうに読んでいるわけです。まぁちょっと観経をよんでもそうはなかなか見えませんね。行を積み重ねろとしか読めないのですが、それはどこまでも特別な方便の教えだということです。それを通してここまで引張ろうとしているのですね。[これすなわちこの経の隠彰の義なり。]と述べられてありました。これを通して今日の引文があるわけなんですね。
利他真実
で、もう一つさっきの愚禿鈔に戻ってみていただきますと、もともと善導大師が云うてないことを、親鸞聖人はここで云っていくわけですね436頁になります。後ろから7行目。[また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり」と。文]という引用の後に[利他真実について、また二種あり。]とあります。これは二段組になっているとおり、元々の引用にはありません。観経疏にはこういう言葉ないんですね。ないにも関わらず親鸞聖人は利他真実にも二つあると云うんですね。これ自利真実に対応させてこう云うんでしょうね。それを「一には」あるいは「二には」の方は善導大師の観経疏の文章の中から引いて来ております。一つ目が[「おおよそ施したまうところ趣求をなすは、またみな真実なり」と。]と。二つ目は[「不善の三業は必ず真実心の中に捨てたまいしを須いよ、またもし善善の三業を起さば必ず真実心の中に作したまいしを須いて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須うるがゆえに、至誠心と名づく」と。文]と。まぁこういう読みをしてます。これが先ほど申し上げてまして、詳しくは読みませんでしたが真実信巻ですね、ここに引用されている言葉の一節がここに、愚禿鈔では述べられてあります。ちょっとそこだけ確認しましょうかね。聖典215頁後ろから7行目に「おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」とあります。この「施したまうところ趣求をなす」という言葉が大事であります。元々「施為趣求」という四文字の漢字でありますが、善導大師の元々の文章では「凡(おおよそ)施為する所も趣求する所も」というように施為と趣求を分けて読むことができます。施為というのはほどこしをなすといういみですね、それから趣求はおもむきもとめるです。どちらかと云えば施為と云えば他者に対して施していくこと、趣求と云えば自分自身で求めること、こういうように読めないわけではない。でも親鸞聖人はそう云うとこれは私たちが為すべき二つの項目というふうに見えてしまうものですから、そう読まずに「おおよそ施したまうところ趣求を為す」とこういう読み方をなさる。施したまうと。こうすることによって如来が施して下さっていること、如来のご回向だということです。如来がはたらきかけて私たちに与えて下さっていること。それが私たちにとっては、あぁここに求めるものがあったかというようになるんだという話ですね。施したまうところ趣求をなす、だから真実なんだと云うんです。つまり如来がこれをもちいよ、あるいはこの道を歩め、あるいは我が名を称えよというようにね、如来が施して下さっているから間違いのない真実なんだとこういう云い方なんですね。だから私たちが施為したり趣求したりと、そんな話に全然なってなくて如来の施して下さったところが我々の求めるところになるんだというわけです。実際そうかもしれませんね。親鸞聖人でいえば比叡山時代はいろんな行をなさっておられるわけでしょう、一所懸命他者の為にも自分のためにもと行を積んでいるわけです。しかしそれが行になっているかどうか分からない。それが山を下りて法然上人に遇ったときに阿弥陀に助けられよと云われる。あ、ここに道があったかということです。これを求めないといけなかったのかということが定まる。だから自分で歩く道を定めているときには仏教かどうかも分からないのです。でもこれじゃないかと云われてみたら、あ、それだったということになる。長年これを求めて迷ってきたのかとなったら、さっきも云いましたが、迷っていたことが無駄じゃなかったという感動もここにあったでしょうね。だからわずか四文字の言葉なんですが、これが利他の真実、如来が我々の迷いを超えさせようとするはたらきの真実と読み切られることになる。これが愚禿鈔では「利他真実に二あり」の一つ目に引かれているところですね。それを教行信証では信巻の方に引いてあるわけです。同じような読み方ですね。「施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」と。信巻の利他真実
そしていまの続きを読みますが、215頁の後ろから6行目、「また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。」これは化身土巻にもありましたが、次の「乃至」の部分、信巻に引かれていない部分は全部化身土巻に行ってましたね。その化身土巻の続きの部分が信巻に引かれてあります。何と書いてあるか。「不善の三業は、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。」ここにも「たまえる」という敬語が付いているでしょう。如来が真実のお心の中にお捨てになられたことをいただけ、ということです、須(もち)いなさいというのは。つまり私たちが頑張ってこれを捨てたり、あっちを離れたりという話じゃなくて、如来が捨てられたことをいただきなさい。つまり如来が教えて下さったこと、これは捨てるべきことだと示して下さったことを頂戴すればいいんだということです。その後もうちょっと読みます。[またもし善の三業を起さば、必ず真実心の中に作したまいしを須いて、内外・明闇を簡ばず、みな真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく。]今度は善の三業、身口意の三業については如来が真実心の中になして下さったことをいただきなさい。どこまでも如来の真実をいただくということ。そのときに内か外かとか、あるいは無明にあるか無明を超えたとか、そんなことを分け隔てせずにとにかく如来の真実を須いていく、これが利他による真実だと親鸞聖人は言葉にしているわけですね。だからここは完全に如来のはたらきかけによって我々がこれだったかと知らされていく、ここに大事なものがあったかということを気付かされていくという、それを真実の信心の内容を語る至誠心釈として引いているわけです。ただ今読んだこの部分は化身土巻にはやっぱり惹かれないですね。この部分は乃至されています。見事にというか徹底して引用を区分けしておられるということが見えるわけです。いま信巻にあるところがさっき見ました436頁の「利他真実についてまた二種あり」というところの言葉になっておりましたね。後ろから5行目のところに利他真実にまた二種ありと云って、二ヶ所読んだところを引いていますね。どちらも「作したまう」「施したまう」と敬語が使われているところであります。だから至誠心にも二つあるということです。普通に読めば誠を至せと読めます。誠であれと読めます。でもその呼び掛けの部分は化身土巻に引いているのですね。そこから何が見えるかと云うと、誠であれと呼び掛けられてみると誠たり得ない、真実たり得ない我が身が見えるという問題です。そしたらようやく如来の真実をいただくしかないということが決まるんですね。自分に可能性があると思っている間はこれ止められないですよね、誠であろうとすることは止められない。その間は徹底してやってみろというしかないんですよ。まぁ親鸞聖人は20年かかったわけです。出遇ってみれば、これも如来の方便のお勧めだったんかなあというふうにいただくことがお出来になったんです。そういう意味で云うと中途半端で終るからね、聖道門の修行も中途半端になるし、そうかと云って念仏に帰したことも中途半端になる。念仏に帰したところにも何か色気が残るんです、やっぱり向こうやったかなぁとか、もうちょっとあっちに粘っておればなんとかなったかなぁみたいな。親鸞聖人は徹底なさったからこそもう二度と戻ることはなかったです。不徹底ということが問題なんですね。でも実際何でもそうやと思うんです。まずは頑張ってみろというところからしか始められないでしょ。少ない子どもに何かを教えるときにも一所懸命やれと云わんならん。でも出来ないとなったときに、そこにも道があるということが初めて見えるわけです。スポーツでも勉強でも全部そうじゃないですか、始めっから頑張らなくっていいよという話じゃないですよ。自分の出来る限りやってみたらと云います。ボクはここまでやとなったときに、じゃあ自分の本当に得意なことをもうちょっと頑張ってみたらということになるんです。でもやれる範囲、その時にここまでだということが本当に見えたときに、それで終わりかと云えば終わりじゃないんです。そこにもちゃんと道は開ける。まぁそりゃ世間のことと一緒にするわけにもいきませんけれど、いざ迷いを超えて自分の人生の方向が見つかるかと云うたら、不真面目じゃ見つからないですよ、やっぱり。一所懸命求めなさいと云わなければならない。やっぱりお聖教を読めと云わなきゃならない、必死になって求めろと云わなくてはならない。でもそれがオレほど求めている者はおらんと云うて握ってしまったら今度は求めてない人を上から馬鹿にするだけの生き方になるでしょうね。それは如来の真実に出遇ったとは云えない。適当な、比べた中の自分の真実に腰を下ろすことになります。その意味では絶対これは自利真実と云われる。自らを励ます努力意識に止まっているというふうに云わなきゃならん。それが先ほどご自釈で読みましたが、これは報土の真因にあらずと云われる意味なんですよ。これは阿弥陀の世界に生れていく本当の因とは云えませんと云わねばならない。じゃぁ何に因って生まれるかとなったら、これ如来のはたらきかけによって、これだったかというふうに見つかるまで、如来との出遇いが要ということになるんですよね。出遇いというのはどこまでやればいいんですかと云っても答えはありませんよね。出遇うまで求めろというしかない。或いは分かるまで聞けとしか云えない。それがまた人によって違うんですよ。でもそれは勧めるしかないということでしょうね。かつて安田理深先生が本当の意味での方便ということが我々にはないんだなぁと仰っていたことを思い出します。つまり答を知ってるわけです。ボクら厄介なのは化身土巻を読んでいると、これは方便でしょうみたいな、徹底してやる前からこれ本当じゃありませんみたいなことになると如来が方便して呼び掛けて下さったことですら軽んじてしまうことになるんですね。なかなか厄介です。真実と方便を比べ合うようなことになると、方便すら方便でなくなるということがあるもんですから、この辺が読むことが甚だ難しいということになるのでしょうね。ただそうは云っても、そこまでは先ず我々に自ら迷いを超えることを課題にして、徹底して歩めということを云って下さる、これが自利真実の大事なところなんでしょうね。信巻の深心
そして先に信巻を読んだ方が分かり易いかと思います。信巻で云うとさっきの続きを見ていただきます。真実たれと呼び掛けられることとそこから見えてくるのが真実たり得ない我が身だと云いましたが、それが215頁、どんなふうに続いていくかと云うと後ろから3行目。如来のはたらきかけをいただく、如来のお捨てになったことを捨てる、あるいは如来が為して下さったことをいただいていく、こういうことが書かれてましたが、そういうことを通して私たちに起る信心の中味が「二者深心」とありました。[「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。]と、こう押さえられていますね。深い心とは深く信ずる心だと善導大師は仰います。そしてそこに[また二種あり二種あり。一つには決定して深信ず。]と。これは機の深信と云われますが、我が身に対する目覚めですね。我が身は凡夫であったということ、過去から迷い続け今も迷っている、これからも迷いを出ることはないと。これ過去にも現在にも未来にもということでありますが、これをはっきりと分ったというのが機の深信として云われています。だから如来の真実に触れるところにこちらには真実がないということがはっきりしたと云っておられるのですが、単なる絶望の言葉ではありません。真実がなかったということがはっきり分かれば自分を当てにしてそして自分を磨けばなんとかなるという夢から解放されるんですね。オレもそのうちにという話と違うんですね。如来によるしかないということが決まる。これが次の二つには決定して深く「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。]という二つ目の法の深信につながります。我が身の目覚めが不徹底ですと、本願に依らないといけないということが決まりませんね。まだ磨き方が足りない、いまに見ていろということになったら、いつまでたっても本願に乗ずるということがないんですよ。だからこの第一に機の深信、第二に法の深信と云う順序は大変大事です。一つ目が我が身に対する目覚め、しかしそこに同時にそういう私が助かっていく道が既にあったかという形で、この四十八願に乗ずるということが決定するんですね。まぁこれが至誠心の呼び掛けを通して我々に起る目覚めの内容として、信巻では真実信心の中味として挙げられるわけであります。それで、同じ三心の深信釈でありますが、ここを親鸞聖人は今度は深信釈についても、やっぱり我々を促す言葉があると思われる方を化身土巻の方に引かれるわけであります。これ先ほどの続きになりますが、335頁前から3行目の下の方からです。ここは至誠心釈とか深信釈とかいう言葉はなくてですね、いきなり始まりますので何のことかと思われるかもしれませんが、3行目の下の方からが実は深信釈の中味の言葉であります。ちょっと読んでみましょうかね。[「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証賛して、人をして欣慕せしむ」と深信す、と。乃至 また深心の深信とは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のために退失傾動せられるざるなり、と。乃至]ここまでが所謂深信釈と云われるものの中から二つを挙げています。親鸞聖人は深信釈全部で七つ挙げられるのですが七深信と云われる中の第3と第7、これを挙げておられます。また細かい話になるのですが、第7の方は信巻に挙がっていません。この化身土巻だけです。ところが第3の方は信巻にも挙げられているんですね。だからこれ両面あるということでしょうね。真実信心の内容としてもあるし、しかし我々にまず勧めて下さるお勧めの言葉としてもあるということでしょうね。だからこっちの方を読んでから信巻を見た方が良いかも知れませんね。どういうことかと云うとこれ、観経が勧めて下さっているものを挙げてますね。また決定して「「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて」ですからね、世福・戒福・行福という非常に分かり易いところから仏法に入らせようとするわけです。そして九品それぞれに応ずる道があるということを説く。それから定善散善という善を修めることを勧める。これが観経の主題なんですね。それによってかの仏の依正二報を証賛してと、阿弥陀仏の浄土およびその住人ですね、それを誉め讃えて、それを人をして欣慕せしむと、欣慕というのは願い慕わせるという字ですね、まぁ云ってみれば、あぁ浄土っていいなぁということです。極楽に生れてみようかなぁと、そういう心にさせるというふうに深信すると云ってます。だから、まず観経にこう云うことが勧められているんだということをいただく、これがここの深信釈で親鸞聖人が特に方便化身土巻に引かれる意味でしょうね。でもこれは信巻に引かれるときに、同じ文章が引かれるんですが、意味が違ってきますよね。云わば、観経に説かれていたのは浄土を欣慕せしむるためだったんだなぁと。この私をして阿弥陀の浄土を願わせるために、あぁいうことが説かれていたんだなぁということが見えてくるということでしょうね。例えば極楽という言葉一つをとってみてもそうですよね。極楽と聞いたら、そんなら行ってみようかという気になるかも知れません。でも行ってみたら僕らが思っているような楽が転がっているわけじゃないんですね。善い悪いを超えた世界があるんですよ。あぁそういう欲深い私を引張るために極楽と云って下さっていたんだなぁということが見えれば、正に観経のお勧めには表面のことと、それを通して出遇わせたいことがあったなぁということです。だからまず欣慕させているということを知ることが化身土巻の意味でしょうし、同じ文章が信巻にあるのは、その観経のおこころをいただくということになると思います。その意味で云えば、第7番目は信巻に引かないんですね。それはなぜか。335頁の5行目[また深心の深信とは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のために退失傾動せられるざるなり]とあります。深心に説かれる深く信ずる心とは建立自心、自らの心を建てていく、これは大事な言葉ですね。それは何ものにも惑わされないということが後に書いてあるわけです。教えに順じて修行していく、そして永く疑い誤りを除く、それによってすべての、別解、別行というのは同じ教えを聞いていても別の理解をしたり別の行じ方をしている人、あるいは異学異見というのは違うものを学んだり違う見解あるいは思想に立っておられる方、異執というのは違うことに執われている、そういう人のために退転したり失われたり、傾いたり動じたりしない。しっかりとした自らの心を建てることを建立自心と云われているわけです。これは信巻では自力を表わすということで、そちらに引かずに七深信ある中の六つまで引かれて7番目は化身土巻に引かれている。化身土ではまず迷わないような者となって、どんな誘惑の中にあっても歩めるような歩みの心を建立しなさいということが勧められているように読んでいるわけであります。これが徹底して深信ということを云うならここまでやれということでしょうね。深く信じていると云うなら、他の何ものにも惑わされないようにまでなれ、とこういう心を建てることを求めているのですね。愚禿鈔の深心
ただこの辺ちょっとむつかしいんですけれど、先程の愚禿鈔をもう一遍開けていただきます。今度は深信についてのところですが、439頁後ろから5行目に「二には深心」これはまず善導大師の言葉を引いてます。「一つには」「二つには」とね、機の深信と法の深信、この二つだけをここにあげてますね、「二種あり」と云ってね。そして「今この深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。」と云って、この深信が真実信心であると。そして他力による極まりの金剛心である、と云うてます。こう押さえた後で、440頁へ行きます。「文の意を案ずるに深信について、七深信あり、六決定あり。」と云います。そして七深信を並べて、元は長い言葉ですが、その中から要となる部分だけ抜いて来ていますね。[第一の深心は「決定して自身を深信する」]深信自身ということ、自らの身、これを深く信ずる。信ずるという字です。信ずるということが引っ掛かるなら、はっきりと分ったということですね。自らが凡夫であるということ、迷いを出るということがないと、はっきり分かったということ。ここで難しいのが、「これ自利の信心なり」と云われていることです。これは自力とはとても読めないですね。しかしさっきから云うように、自利というのは自力にも関わることとして云われるのです。でも直前にこれが「他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海」とあることから考えるとここは、この自利というのは自らの迷いを超えるという意味も隠されているように、二重の意味を持っている言葉として読める。ここが一番読みにくいところです。愚禿鈔は解説をこれ以上して下さらないのですね、どう読んだらいいのかが非常に難しいところです。二つ目、これが[第二の深信は「決定してかの願力に乗じて深信する」すなわちこれ利他の信海なり。]これが他力による信心の海というふうに云われてます。これが「深信乗彼願力」かの願力に乗じて深信するとも云われますし、かの願力に乗ずることを深信するとも云われています。これによって誰もが助かっていく道を深信する、ここに道があったかということですね。ここはちょっとほじくって云いますと、もし始めの深信自信ということだけに止まるとすれば、私は凡夫だと、どうしようもないと、もしかそこに腰を下ろすとすればそれは広く開けた信心というふうにはいかないということを云ってるかもしれません。つまり二種深信はどこまでも、一つ目と二つ目が揃ってこそ本当の意味の真実信心と云えるということを云うために、私凡夫です、私は救われません、と云ってるだけなら、それは真実信心を本当にいただいたことにならないということを云うために「自利の信心」という言葉を当てているというふうにも読めるんですね。あと、第2の深心からの展開で、3,4,5,6,7を見てますが、第3は決定して観経を深信すと纏めています。観経がはっきり分かったんですね、観経の心をいただいた。第4は決定して弥陀経を深信す。弥陀経のお勧め、そのお心をいただいたと。第5はただ仏語を信じ決定して行による。唯信仏語という言葉です。第6はこの経によって深信すと纏めて、第7はまた深心の深信は自心を建立せよと、こう呼びかけている。もうブレないような自らの心を建立しなさいという呼び掛けをしていただいていますね。ここで第5以下のところなんですが、440頁最後の行の右肩にまた「利他信心」という言葉があるんですね。これに対して第7番目まで見ますと443頁4行目[第七の「又深心深信」]とあるところの右肩に「自利信心」という言葉があるんですね。まぁ説明がないので本当にこの愚禿鈔読み取りにくい、意味をいただくのが難しいんですけれど、ここでは「自利の信心」というのは自らを励まして自心を建立するという意味で使われています。この辺先生方いろいろ苦慮なさっています。自利と利他という言葉が単なる菩薩道という自らを利す、他を利すというそんな意味じゃなくて、自力他力を含めて云われていることが窺える。そんな文脈でありますね。まぁこれ以上立ち入るとややこしいことになるので一応愚禿鈔に出ているということを見ていただいたことにして、もう一回戻ります。335頁。深心から回向発願心へ
だから化身土巻には我々に対する呼び掛けとして至誠心釈、深心釈、そして後に回向発願心釈も続きますが、三心の教えがあると親鸞聖人は受け止められて、それぞれの中から化身土巻と信巻に分けて引いて行かれるということをしておられるわけですね。で、いまの深心釈については第3番目と第7番目を方便化身土に位置付けられました。3番目の方はまず浄土を欣慕させる、こういう呼び掛けとして観経に三福、九品、定散二善が説かれてるということをお勧めの言葉として読んだということですね。そして7番目の自心を建立しなさいと、ブレない心をしっかりと建てて行けと、ここまで呼び掛けている、これが第7の深信としてこちら側に云われるわけです。でもさっきも云いましたが、これを自らが果たそうとすると難しいんです。実はこの一切の別解・別行・異学・異見のために惑わないというのは次の回向発願心の問題に続いていくんですね。これはどういうことかというと今日の流れでは至誠心というのはまず私たちに真実であれと呼び掛ける心だと云いました。そしたら真実たり得ないという形で本当の真実を凡夫の身の上にいただくということが起る、ここまで来ましたね。ある意味で信心を得るというのはここの話なんです。ところが得た信心をもってこの世の中を生きて行くというのはもっと難しいんですね。だって信心を得たことを誉めてくれる人はなかなかいないわけです。私信心いただいたわと云ったら、あんた変ってるなぁと云われるかも知れません。言葉では奇特な人やなぁと云われるかも知れませんが、心の中では何か変なものにはまっているのと違うかと思っているかも知れませんね。つまり世の中は信心をいただいて私生きてますと云っても決して評価なんかされません。ひどい場合はお寺へ行く暇あったらもっと家の事してよと云われたりするわけです。そのぐらい聞法に励んでますと云っても全然誉められない世の中です。これが信心をいただいてこの世の中をどう生きるかという問題に関わる、これが回向発願心です。これは信巻を読むとはっきりしますが、曇鸞大師で云うと信心の相続という問題と重なっているんですね。いただいた信心をもってどう歩んで行くかという信心の生活の問題です。だから信心はいただいて終りじゃないんですよ。信心を得ることも難しいですけれど、得た信心が失われていくという問題がある。これに関っているわけです。そこを見据えてみると7番目の建立自心があるものすごく大事な意味を持っていますよね。信心は得て終りじゃないぞと。意見の違う人とも居れるような、その中を歩んで行けるような、そういう自身を建立せよと呼び掛けているんですよ。要するにこの世の中を生きるのにぶれない信心がもの凄く大事なんやと云っているんです。あなた一人が信心をいただいて、あぁ結構なご利益やと、そんな話じゃないんですよ。いただいた信心をもってこの世を生きるということ。だって世の中が傷つけ合ったり苦しめ合ったりしてるわけですから。しかしそれは云うほど簡単じゃないわけですよ。だから化身土巻は先ずお勧めですね、こうしなさいよと呼び掛けて下さるのです。しかし本気でこれをやろうとしたら自分には成り立たないという問題が出て来るときに、今度は回向発願心という問題が信巻ではどうやって成り立つか、分かり易く云うと、二河白道の譬えが出て来ますが、お釈迦さまに励まされ阿弥陀仏に導かれて歩んで行くことができるんですよ。私がブレないようになって歩むんじゃないんです。私に先立って道を教えて下さったお釈迦さまのお心をいただいて行く。そして阿弥陀仏に導かれて、ようやく道を踏み外さずに歩むことが成り立つ書かれています。そういう非常に動的なものなんですね。だから信心を得て腰を下ろすような話なら、後の回向発願心釈は要らないんです。しかしそこに展開するものとして第7番目の建立自心という課題が私たちに投げかけられているんですね。もう一回そこを読みますと「一切の別解・別行・異学・異見・異執のために退失傾動せられざるなり」こういう心であれということでしょうね。方向を見失わずに何を大事に生きるのか、仏法を本当に確かな歩みにして下さいという呼び掛けがなされているわけです。これを通してもう一遍今度はいただける世界があるんでしょうね。信巻と重ねて読んでしまったので却ってややこしくなったかも知れませんが、一応呼び掛けの言葉が並んでいるということを見てほしくて対比しました。信巻の方はそれによって気が付いた、目覚めた内容が書かれているということであります。次には、まだ回向発願心まではいかないんですが、もう一段深信釈の後半に展開する部分が出て来ますが、これは具体的に我々がどうやって歩むのかという、その歩みを成り立たせるものを並べて下さってあります。もっとさらさらと行けるかと思っていたのですが、読みだすと本当に難しいですね。皆さんよう我慢して聞いて下さったと思います。申し訳ない思いです。ボクの話もややこしいんですけれど、方便化身土巻自体が非常に難しいと思います。でもこれを通さないと真実信心ということははっきりしないんです。だからあっちへ行ったりこっちへ行ったりしますが、聖典をつまみぐいするようなことになってますけれども、三心釈のところもう少し重ねて読みたいと思います。一応今日はこの辺にしときますかね。ありがとうございました。