『教行信証』の化身土巻を読む(13) 一楽 真 師
2017/ 04/ 21
方便化身土巻ということで、我々を真実に導く如来のおはたらきですね、如来の方便ということを明らかにする、これが第6巻目の大きな課題であります。でも云い方を換えれば方便ということを知らずにそれを握ってしまうと、ここは折角如来さまが教えて下さっていることを勘違いするということが起きるわけです。一つの例で云えば浄土は西にあると説かれる、それを実体的に捉えれば空間移動するような発想になってしまうんです。だから浄土は西に在るとなぜお説きになったかというお心をいただかないと西の方へ行かんならんという浄土のイメージがずっとつくわけです。これは浄土教だけではありませんで、更には修行しなさいとお釈迦さまが勧められた、そこにもご方便がある。つまり修行することを通して目を覚ませと仰っているわけなんですが、修行についてはこれをなかなか方便とは思えませんね。やっぱりやればやっただけ覚りに近付いているかのような錯覚に落ちるという、思い込みでありますけれども、それを親鸞聖人は自力という問題で押さえていかれるわけであります。方便を方便と知るということは真実と会うということと同時でありまして、方便だけ分かるということは勿論ありません。それから方便抜きに真実だけ分かるということもない。これが真実と方便併せて語らないといけない大きな理由だと思います。仏教には沢山の経典、論書が残されているわけですが、どこが要なのか、その要に導くための方便はどれなのかということを見極める、云わば依らなければならないことと依ってはならないことと云ったらいいでしょうか、方便としていただくべきものを説いて行かれるのがこの方便化身土巻であります。いま云う依るべきものと依ってはならないものというのは、実は化身土巻の後半、末巻の課題になります。ここは真実と偽、にせものですが、これを明確にしています。
お経をどう読むかという話ですので、どうしてもお経の本文でどうなっているかということを一回見た上で、それを親鸞聖人がどう受け止めているかという話をしているわけで、どうしても話がややこしくなるんですね。ややこしくなってくると今度は声が大きくなってね、皆さんに迷惑かけるんですけども、なんか普通はちょっと読めんなぁと云うそういう思いをボクはずうっと抱えてきておりました。しかし言葉で云われていることと、その言葉を通して出遇わせたいこと、これが方便と真実という関係として化身土は展開してきておりますので、その具体的な例を親鸞聖人はこの観経の13の文章を引いて確認をして下さっていると思います。だからこの読み方、ちょっと普通は取れないぞというのが逆に、あぁ観経はこう読むべきなのか、こう受け止めなければならないということが親鸞聖人から提起されているのであって、私たちの常識がそこで反対に問われることになっているわけです。私たちの基本的な意識は、やっぱり自分が覚りに近付いていくという、これしかないんですね。それでやり遂げられるんだったら親鸞聖人も山を下りる必要はなかったわけです。浄土の教えも起こってくる必要もなかったでしょうね。しかし、どうしても浄土の教えが起こって来たというのは、人間が覚りに到達するのを待っておれない、そのうちに覚ると云いながら傷つけ合うことを繰り返していく、こういう傷ましい現実をご覧になったからですよね。そういう意味で仏の方からこちら側に届いてくるはたらき、これをいただくしかない、こういう道を親鸞聖人は掲げようとしておられるわけです。でもこれはどうしても自分で修行することを放棄したようにも見えるし、なにか仏に助けてもらえるという甘えた教えにも見えてしまう。この辺が他力に対する偏見だと思うんですけど、それを解きほぐそうとしているのが親鸞聖人のお仕事ではなかろうかと思います。
いまこの観経というのは、普通に見れば定善と散善を説き、我々の努力に応答しながら教説が展開していきますので、私たちの為すべきこととして読んだ方が分かり易いのは当然なんです。しかしそれを通して何が呼び掛けられているかとなったら、努力を勧めている経典ではないということなんですね。努力が出来ない、あるいは努力が挫折するところにも道はあるということです。その代表が韋提希ですよね。韋提希も自ら仏法を聞いて、そして家庭に問題が起らないように一所懸命やって来た。いい国にしようと思って努力してきた、そんな人なんですね。ところがそれ全体が思いの食い違いによって破綻する。そこにこそ放っておかない他力というか、如来からのはたらきがあらわになる、こういうことを押さえて下さっていると思うんですね。
104頁に戻ります。最後の行に「於現身中、得念佛三昧」とあります。下の段では「この観を作せば、無量億劫の生死の罪を除く、現身の中において念仏三昧を得。」となっています。これはここだけ読めば第8観の成就ですよね。第8番目の像観ということをなしたならば、この現実に生きている身の中で念仏三昧を得るのだと書いているわけですから、第8観の成就の話、その利益と云っていいわけです。でも親鸞聖人はそうとってないですよね。「於現身中得念仏三昧」を抜いてどう云っておられたか。定観が成就するとはどういうことかと云えば、定観が定観として成就するんじゃないんですね。私やり遂げましたと云うて成就するんじゃなくて、念仏三昧を得るところに観の利益があると云うんですね。観門とあるでしょう、観察という門をくぐって出遇うべきものがあるんです。ここではそれが念仏三昧だと云われているんです。遇うべきもの、これを真実という言葉で親鸞聖人は押えて下さいますが、十三文引いている中で真実の方は本願成就の報土と云われ、あるいは本願成就の尽十方無碍光如来と云われ、そしてそのことをいただく念仏三昧、これが出遇うべきもの、いただくべきものとして語られているんですね。観はどこまでも方便の教えだと云い切って行かれます。これが「観門をもって方便の教とせるなり。」と結ばれているんですね。これで11番目の言葉まで来ましたが、次12番目。
観経の上品上生のところに説かれる経文でありますが、これを親鸞聖人は観経全体を貫くものとして先ず読んでおられる。それが「発三種心即便往生」という言葉と「復有三種衆生当得往生」という言葉です。だから後の三種衆生というのは上輩、中輩、下輩であると親鸞聖人は読み切っておられますね。でもその三種の衆生がそれぞれバラバラの心で往生していく話じゃないんですよ。本当に阿弥陀の世界に頷くという真実信心一つで下輩の者も、どんな者も平等に迎え取られる、それが即往生の方であります。この辺が化身土を一番初めの方からお聞きいただいている方にはもうピンとくると思いますが、親鸞聖人が何をなさろうとしているかと云うと、法然上人の教えを聞いて念仏して助かっていこうとする人は山ほどいる。ところが殆んどがどうなっているかと云うと、私はこれだけやっているから往生するに違いないとか、あの人はまだダメだろうというようなことが起っているわけです。念仏すればみな迎え取られるという教えの中にまた人間の側の努力意識であるとか、経歴であるとかがくっ付いてしまっているわけです。それは本当の往生じゃありませんよ、阿弥陀の世界に触れたとは云えませんよと云う中で、このように段階的に説いてあるのは実は方便の教えであって、本当はみな平等に迎え取られる世界が観経にも云われているんですよということを確認しようとしておられる。これを特に誤解しているのは法然上人の教えをいただいたお同行です。全然知らない人はこんなこと誤解するはずがない。でも私の念仏の方が本当だみたいなことが必ず起ってくるわけです。でもこれは後になるとまた出ますが、他宗派のことを批判するつもりはありませんけれども、法然上人亡き後浄土宗は途端にまた念仏も大事だけれども、やっぱり戒を持(たも)つことも大事やという方へ傾斜していきます。現代ではやっぱり戒を持っていられる人もあれば、戒を持てない人もあるということで、浄土宗は戒名と云うことをいいますね、そういうことを受けられた方の方がもっと往生し易いし、本来の姿だというふうになっていってしまった。これは法然上人のお姿が誤解を与えた面もあると思います。法然上人が終生戒を持たれて、そして浄らかな僧侶として生きられたということがあるからです。だから念仏も大事かも知らんがやっぱり戒を持てばその念仏に値打ちあるんじゃないあと云うことになっていくんですね。でも親鸞聖人はそれを雑行とか雑修という言葉で切り分けていきます。観経は一応、上品上生から下品下生までいろんな行に縁を持った人が書いてあるけれども、これはどこまでも方便の教えであって、本当に云いたいのはこの一心、真実信心をいただくところに皆平等ということを説いて下さっていると云う。だから同じ観経を読む中で違うように取っている人が沢山いたという現状、これが親鸞聖人をしてこういうふうに云わしめた問題なんですね。でもそう云うと、800年前の親鸞聖人の時代の話かということになりそうですが、この問題は親鸞聖人が決着をつけて下さっていても終らない。なぜか。私たちの意識の中に、念仏するについてもよく勉強してから称える念仏の方がいいんじゃないんだろうかという思いが湧くからですよ。同じ念仏かもしらんが、私の方が年季が入っているという思いが湧くからです。それは本当の往生ではありませんよと、どうしてもこのことを云わなければならない。でもこれは単なる否定ではない。これを通して真実に出遇ってほしいからなんです。ここへ立ち返ってほしいからなんですね。だからこれは単なる思いという意味じゃなくて、方便なんですよと。でも方便に腰を下ろしてはいけませんと。便というのは「すなわち」と読むんですが、方便の便でもあるんですよ。
「便往生」という言葉も方便として示された往生であって、今ここでの往生じゃないです。そのうちにと云う話に必ずなります。でもそのうちにで人間は救われるんでしょうか。例えば10年後に救われるという保証が絶対あったとしてもですよ、いのちは10年待ってくれないということがある。いまここで救われるということが要る。それが「即往生」です。これが真実の往生であり、便往生はそれを教えるために仮に立てられた方便の往生なんですよということです。だから方便の往生に止まらないでください、即往生をいただいて下さいという思いがここにずうっと流れてあると思います。でも、どうしてでしょうね。いまも往生についていろんな考え方がおありですけれども、いまここででなくて、そのうちにみたいなね、そんな教えで私たちは満足できるんでしょうか。そのことが昔でもそうですし、いまも起っているということが、化身土巻にこういうことが書かれなくてはいけない大きな大きな理由だと思います。方便というのはそれを通して本当の往生を証(あか)すための教えなんですよ。だからボクたちが勘違いすることも材料になるんです。単なる否定契機じゃないです。私たちは必ず向こう側に往生とか三心を持っていくわけですよ。私の方が深いとか、必ずやります。しかし本当の信心は誰に起っても平等でしょ、如来のはたらきによって目覚めさせられるのですから。私の経歴やら素質じゃないんですね。
顕と彰隠密
いま読んでいるのは末巻に先立つ本巻の部分、ここは真実に導くための方便と、その方便を通して出会うべき真実とを明確にしながら述べて下さっています。聖典の331頁であります。「『大本』の三心と、『観経』の三心と、一異いかんぞや。」とありました。大本というのはカッコして大経と補ってありますが、大無量寿経のことであります。そこに説かれる至心信楽欲生という三心と観経に説かれる至誠心深心回向発願心という三心とは、一つであるのか異なるのか、どうであるのかということを問うて下さいます。考えてみるとなんで唐突にこんな問いを起されるのかは引っ掛かるところでありますが、後を読むとそれが段々見えてまいります。つまり大経の方で云うと、至心に信楽して我が国に生れんと欲え、まぁ云わば信心一つで誰もが往生を遂げるということが書いてあるわけですね。ところが観経の方は一つ目に至誠心、二つ目に深心、三つ目に回向発願心と云って、なんか段階的に三つの心を発さないといけないと読めるわけです。一心でいい、つまり信心一つでいいと云っている大経と三心を段階を踏んで発していくべきであるという観経と云い方が違うのはどうしてなのかということです。ここに既に方便ということが見えますね。つまり真実信心に導くために我々を教えて下さるのが至誠心深心回向発願心の教えなのだということを親鸞聖人は云おうとなさるわけです。だから二つのお経が違うことを云ってるわけじゃない。しかし違う説き方をしなければならなかったということがある。もう一つ、それが端的に出るのがその後の「顕彰隠密」という言葉、これも何遍もお話申し上げている顕と彰隠密というこの二つに分かれます。四文字で仰っておりますが、中味は「顕」の一文字と後の「彰隠密」の三文字に分かれます。[答う。釈家(善導)の意に依って、『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。]とあります。顕というのは文字に顕れている、言葉に表されているものです。それに対して彰隠密というのは、言葉で直接云われているわけではないけれども、その言葉を通して出遇ってほしいもの、これが先ほど云いました方便に対して真実なんですね。顕というのは言葉ではそう説いていますけれども方便という意味を持っています。それを通して出遇ってほしいのは彰隠密です。でもこれは直接云うわけにはいかないんです。それが隠されたあるいは秘密のという文字で書かれる意味であります。で、観経を見ますと表には善根を積みなさい、修行に励みなさいと書いてあるんです。しかしそれは我々に段階を踏んでステップアップして行きなさいという話じゃなくて、本気で修行をしてみれば修行が完成できない、徹底できないということが自ずと見えてくるはずだという呼び掛けなんですね。そこに修行出来ない者を見捨てないというお心が初めて見えてきます。まぁこれが念仏一つということで大経には説かれるわけですが、始めからただ念仏一つと云うと、努力したい、あるいは自分は出来ると思っている人間には有難くもなんともないんですね。念仏一つで助かるなんて、そんなバカなというようなもんです。私はもっとやれると思っている人には、じゃあやってみろと云わないといけない。本気でやれと云われたら、例えば殺生するなというこの一つを守るのが非常に難しいということが見える。生きものを殺さずして今日一日のいのちを繋げない、そんな私が果たして仏道を歩むことができるのかとなったときに、そこにも道はあるということが漸くいただけて来るということです。まぁでも始めからそういう答えがあるように云うてしまうと、結局、顕は本当じゃないんですねと聞こえてしまうから厄介なんですが、これを通さないと出遇ってほしい法に出遇えないんですよ。これは親鸞聖人で云えば、20年の修行に励まれたことは、それで助からなかった自分ということがあったものですから法然上人の教えに頷いたわけでしょう。始めから念仏一つと聞いたら、そんなのは簡単すぎるとやっぱり思いますよね。ましてや南無阿弥陀仏と口で称えるだけでいいなんて聞いたら、そんな安直なとなるんじゃないですか。でもそこに徹底してやることを勧める中から、どんな者も漏らさないという教えが改めていただけてくる、見つかって来るという展開でありました。これはもう読んだところでありますが、大事な言葉でありますので音読しておきたいと思います。顕についてこうありますね。[「顕」というは、すなわち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず、諸機の三心は自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなわちこれ「顕」の義なり。「彰」というは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多・闍世の悪逆に縁って、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意に因って、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなわちこの経の隠彰の義なり。]定散諸善を顕すというのが、あらわに観経に説かれている内容です。定散諸善とは定善散善の意味で、「定」は定まった状態、「散」は散漫な心の状態ですが、いずれの状態でも善を勧めているのが観経なんですね。そして三輩というのは上品中品下品という三つのあり方、そこにまたそれぞれに三心という順序立てて発していくべき心が説かれているわけであります。ところがその後です、二善三福と、善を積んだり福徳を積み上げていくことは阿弥陀仏の真実報土の真因ではありませんと云っています。だって阿弥陀仏は努力した人とできなかった人を分け隔てしないんですよ。或いはお経をたくさん知っているかどうかで選び分けたりなさらない。阿弥陀の世界を念ずる者をみな平等に迎えとるんですね。それが報土、一人も漏らさないという本願に報いて出来上がった浄土でありますので、善を積み福徳を修めて生まれるのではないということが云われています。そして諸機の三心というのは上品中品下品というそれぞれの生き方に応じて発すような三心です。私はだいぶ徹底出来ているとか、あるいは私はあの人に比べたらまだ全然ですみたいな、これ信心をランク付けしてませんか。やっぱりお経をたくさん知っている人の信心は深いように見えるんですね。それに比べると私はまだ駆け出しですがみたいな、これ非常に謙虚なようですけれど、裏を返せば「そのうち見とけ」みたいな根性が起きてるんですね。まだ駆け出しやけど10年20年聞いたら私もあの人のようになってやるみたいな根性があるんですね。結果ランク付けの中にあるような三心、これは自利各別であると云ってます。自力という意味です、ここでは。自力によるんですね。それぞれであります。利他の一心、他力のはたらきによって目覚めた真実の信心、一心の信心とは云えないと云ってます。それを如来の異の方便欣慕浄土の善根なりとありました。「異」とは特別のです。ここからやれと、努力意識に応答しながら勧めて下さっているわけです。「欣慕浄土」それによって浄土をとにかく願わせる、慕わせるという字を書いてますね。これすごい字でしょ。すでに読んで来たところでは誘引する、誘い引っ張るという言葉がありました。如来さまが私たちを誘って下さってるんですわ、その気になれと。もう一遍云いますが、ナンマンダブツ一つで誰もが助かるというと、ボク等は魅力を感じないんですよ。でも善根功徳を積めとか、修行を積み重ねると云われると、あぁそれならなんかやった気になるというてね、仏道に縁を持ち易いわけですよ。でもそれは浄土を願わせるためのご方便だと云ってるわけです。そのために善根功徳を敢えて立てられているのであって、どこまでやれば上か下かというような話じゃないんですね。お経はこのことを云いたいんですよ。でも文字だけ見ていると善を積み上げることに意義があるように見えてしまう。これはどこまでもあらわに説かれたものであって、そちらに、このお経を説かれたお釈迦さまのお心があるように思い込んではいけないということがあります。それが次には彰隠密の義が押さえられることになります。彰は如来の弘願、一人も漏らさない弘い願いですね、誰をも助けようとする弘願が彰されているんです。でもパッと見ると観経には阿弥陀仏の本願が述べられているというわけじゃない。さっきも云いましたが功徳や修行を積んだ者が順番に助かっていくように見える、でも一人も漏らさないというその本願が彰されていると云うんですね。そして利他通入、如来の利他、他力のはたらきによって誰もが迷いを超える、覚りに通じていく、入って行く、そういう一心が述べられているんですよと、こう押さえるわけです。さらに「達多・闍世」、これは提婆達多と阿闍世でありますが、この二人によって頻婆娑羅王が殺されるという悪逆の事件が起きますが、それによってお釈迦さまが本当に云いたかった阿弥陀の世界が観経でも説かれることになります。これは韋提希の上に説かれるわけです。観経では提婆達多と阿闍世は説法の相手じゃありませんけれども、この二人が起した事件によって韋提希の上に家庭がボロボロ、今まで聞いた仏法も間に合わんと、そういう韋提希の上に改めて仏道が開かれていきます。これを釈迦微笑の素懐と云っています。ニッコリ微笑んだというのは、本当に云いたかったこと、本当に気が付いてほしかったことに韋提希が気が付いたからニッコリ微笑むんですね。素懐は素(もと)の心と書いてます。大経で云えば出世本懐と同じ意味です。一番云いたかったことがこの経文に表されているのですね。でも直接じゃないですよ。ニッコリ微笑んだということを通して、一番云いたかったことはここにあるということが明確になった。そして韋提希が阿弥陀仏の浄土を特別に選んだということによって弥陀大悲の浄土を開闡すと云ってます。韋提希個人が阿弥陀の世界に生れたいと云ったことになってますけれど、それは韋提希が凡夫の代表でありまして、いわば家庭に問題を抱えている、そして仏道、今まで聞いてきたことが間に合わなくなった、そこにも道はあるということを韋提希の姿を通して見せてくれてるわけです。観経は韋提希一人のための経典ではありません。韋提希を通して万人の救いが証(あかし)されていると云っていいですね。ここに韋提希が選んだところに弥陀大悲の本願が開きあらわされているということを本願が開闡すと云っています。だから顕彰隠密という視点を以て観経を読まないと私たちは言葉で表されていることだけに執われてしまうことがあるんですね。必ずそうなっていく、その言葉を通して出遇ってほしいこと、これに出遇わなくてはなりません。これは後々のことでもご紹介しましたが、お釈迦さまが最後に遺して下さったお経に、依るべきはお釈迦さまが伝えたかった義であって、語ではないぞという言葉があります。義に依りて語に依らざれと、はっきり言われています。例えば月を見てほしいから指さしているようなもので、指はあくまでも言葉だと云います。見てほしいのは義、月なんだと云うんですね。ところが人々は往々にして言葉尻に執われて月を全然見てくれないと云うんですね。これはお釈迦さまが涅槃に入られるときに仰った言葉として、本々涅槃経にあるのですが、それを親鸞聖人が化身土巻に引用されています。ここはいま観経のことでやってますけれど、実はお釈迦さまの教え全体に顕と彰隠密があるということを親鸞聖人は云おうとしています。これを踏まえないとお経を読み誤るのです。あまり結論を急いでもいけませんけれども、いま仏教と云うとどうしても出家の修行が悟に至るということが2500年経ってもそれが中心になっているんじゃないでしょうか。仏道修行では先ず頭を剃るところからという話です。或いは衣を着て袈裟を着けるとかね、これが仏教徒であるかのように見えるわけですが、でもそれに対して親鸞聖人という人は肉食妻帯をしました。日常生活を送る中、在家の真只中で生きられたわけです。蓮如上人のお言葉では在家止住と云われますね。在家を立場として仏法を聞いていった。それは在家がえらいと云ってんじゃないですよ。出家在家を問わない仏教がお釈迦さまの本当のお心だということを受け止めたから、肉食妻帯も仏道を歩む上での障りにならないということになったわけです。これはまた今となるとそれが、何をしてもいいんやというような開き直りになると話はまた違いますね。阿弥陀を念ずるということを抜きにして、浄土真宗はなんでもありみたいなことを云うとすれば、また話は違うわけです。仏法をいただいて仏法に生きるというのは、本当に難しいですね。何をもって決まるのかということです。親鸞聖人は少なくとも外面ではない。しかし内面は非常に難しい。そのギリギリのところが念仏して生きなさいという、ここなんでしょうね。でもボクら念仏して生きなさいと云われた途端に、一日何回ぐらいがいいんですかとか、声の大きさどの程度ですかというような、また形式に引張られていくんですね。なかなか厄介です。仏を念じて生きるのが要だと云われているのにもかかわらず、それをまた私はやれてますとか、あの人全然ですわ、みたいな比べ合う材料にしてしまいますよね。とことん仏にお遇いして仏の教えに生きるということがいかに難しいかということなんですね。それでいま顕彰隠密ということをお話ししまして、次に具体的に観無量寿経のお言葉を挙げながら、これをどう読むかということをお述べ下さっている、その辺りを前回からお話ししていたことでありました。まぁ一つひとつ説明しだしたら大分時間がかかりまして、さらっといくかと思っていたら半分もいかなかったのが前回であります。これまた同じようなことをやっていると、また同じところで止まるかもしれませんので前回読んだところはさらっと行って、一応次の頁の最後のところまで、今日は進みたいと思います。教我観於清浄業処
全部で13の観経のお言葉が引かれております。例えば始めには[ここをもって『経』には「教我観於清浄業処」と言えり。]という言葉が引かれています。この言葉はどこにあったかというと93頁であります。上の段では「教我観於清浄業処」下の段では「我に清浄の業処を観ぜしむることを教えたまえ」と書き下しになっていますね。これを親鸞聖人は化身土巻に引いているわけです。一応確かめますとこれは韋提希の発言ですね。韋提希がお釈迦さまに対して始めは憂い悩みのないところに行きたい、それを教えて下さいと云います。もうこの世は嫌です、地獄・餓鬼・畜生の渦巻いているこの世は嫌ですと云って、そしてその最後に「やや願わくは仏日」仏日は仏さまを太陽の光に譬えていますが、「我に清浄の業処を観ぜしむることを教えたまえ」と云っているわけです。つまり清らかな世界、業処というのは行いがそれによって苦しめたり傷つけ合ったりすることにならない清らかな業処、それを観ることを教えて下さいと云ってるわけです。だから韋提希から云えば、もう汚れた世界は嫌です。地獄・餓鬼・畜生のないような世界に行きたいということを求めている発言ですよね。これを親鸞聖人はなんと解説してるかと云うと331頁[「清浄業処」と言うは、すなわちこれ本願成就の報土なり。]と云ってるんですね。阿弥陀仏の本願が成就した。その本願に報いた世界、一人も漏らさないという阿弥陀の浄土でありますが、これを清浄業処という言葉は意味しているんだと云ってるわけです。さっきのお経ではこんなことを韋提希は求めているはずないんですよ、まだ。だって阿弥陀ということも全然実感してないんです。ただ単に清らかな世界に行きたいと云っただけです。しかしこれは突き詰めれば、究極的には本願成就の報土でなければ韋提希は助からないんだということを親鸞聖人は云ってるわけですね。求めたのは、私に清らかな世界を教えて下さいと、それだけなんですよ。しかしその願いが本当に満たされるのは本願成就の報土でなければならない。だからこれは観経の部分だけ取って解説したらこんなことにならないんですよ。しかし観経は全体として韋提希がどうなって助かったかという、最後まで読んでと云うかね、そういうことを踏まえると、ここに求めたことはこういう意味を持つのだということなんですね。ボクは長いこと頷けなかったことの一つに、学生時代に安田理深先生のお宅にお邪魔していて、ボクは会費払って行ってたものですから、勉強しているつもりでいるんすね。ところが金曜の夜八時半ごろになると大通りを暴走族が走るんですよ、バリバリバリバリと。安田先生の声が聞こえないですね。ボクはウルッサイナ早く行ってくれと思っていたら、先生がひと言、彼らも本物を求めて走っとるんじゃないかねえと云われた。ええっ、先生何云うとるんやと初め思いました。その次もっとびっくりしたのは、キミらも家に居れんからこんなとこへ来とるんやろと云われたんです。ちょっと待ってください、ボクは聞法会に来てる、彼らは唯バイクに乗っとるだけですよという思いやったですけれど、家に居れずに外に飛び出したのは彼らもキミらも一緒やと云われたわけです。でも、もうひと言。でもキミらを家から出した、それが仏法なんやと仰ったんですね。ここで勉強して何か理解して掴んで帰るのが仏法じゃなくて、家に居れない、じっとしておれない、そこに仏法のはたらきがあると。求めているものは、彼らはいまバイクに乗ってバリバリ云わしているかも知れない、キミらはたまたま聞法会に来て坐っているかも知れない、しかしじっとしておれない、そこに根源的な要求があるんやないかと仰るんですね。そういうことを聞かせていただいたものですから、韋提希のことを善導大師は何と云うかというと真心徹到と云うんですね。まことの心が徹到したと云います。親鸞聖人はそれを承けてなんでしょうね。これ決して阿弥陀の世界を教えて下さいなんて云っていないんですよ。にもかかわらず根源的な要求は表に現れたと云うんでしょうね。それがちゃんと自分の中に自覚的に着地するにはもう少し時間がかかりますが、本物に出遇わなくては満足できないという、これが噴出したという意味では親鸞聖人の仰る通り本願成就の報土を求めているんだと、そうでなければ韋提希は解決出来ないんだと、こういうことを仰っている言葉だと思います。ボクは安田先生に云われた言葉がずうっと、何で先生あんなことを云われたのかと思っていたのですが、こういうことと合わせていただく時に漸く何か着地できたように思います。逆に云えばボクらどっかで自分の方が上やと思うとったわけですよ。自分は真面目に仏法を求めている、彼らはただ走っとるだけやと思っていた。しかし現われ方は違うんですよ、初めっから宗教的な要求というのは宗教の装いをもって現れるとは限らない。ほんとに家で暴れる子どもたちというのも暴れざるを得ないものをもっているかもしれない。それを聞き止められない大人の側の問題もあるんですね。それをどうやったら暴れんようになるやろうかとね、何か美味しいものを買うてやろうかとかね、そんなことでは暴れるのはおさまらない。その本物を求めるというのは、どんな形をとるかはパターン化できない。そこに徹底的な要求が起ったというのが親鸞聖人のここの読みだと思います。ですから観経の経文だけだったら、とても読めない。それを親鸞聖人はこういう意味だと読んで行くわけです。そういう意味で全編に顕と隠がある。韋提希はここではきれいな処を教えて下さいと云ってるだけです。でもその文字の深いところにあるもの、これが善導を通してではありますけれども本願成就の報土として親鸞聖人が述べられる意味だと思います。教我思惟と教我正受
331頁に戻りまして[「教我思惟」と言うは、すなわち方便なり。「教我正受」と言うは、すなわち金剛の真心なり。]これも経文を確かめておきますと93頁、唯願世尊の後に「教我思惟、教我正受」という言葉があります。これは阿弥陀の世界を願うと決まった韋提希が、私に阿弥陀の世界を思惟することを教えて下さい、そしてそれを正しく受け止める、きちっと阿弥陀の世界をいただくということを教えて下さいと云っている言葉であります。これは普通は韋提希が阿弥陀の世界を観ずることを求めている言葉ですので、どちらも教えて下さいと云った心だと云ってもいいんですが、親鸞聖人はこの二つを区別していますね。331頁で教我思惟は方便だと云ってます。教我正受は金剛の真心だと。つまり方便を尋ねたということと、金剛の真心を求めたということと分けて述べていらっしゃるわけであります。思惟というのは善導大師が元々西に沈む太陽を観よということから始まります。阿弥陀の世界を観る方法が具体的に説かれるための方便という言葉が観前の方便です。それに対して正受の方は浄土を観察する方法そのもの、と善導大師は云うわけです。親鸞聖人は勿論それを踏まえて云うわけですが、更に踏み越えて正受の方を観察を求めたのではないと云うんですね。浄土を観る方法を求めたのではなくて本願成就の報土を願う、そういうことを求めたんだと云うわけです。韋提希の発言からすればこんなこと求めているはずないんですけれど、そこまで行かないと韋提希は着地しない、こういう眼でしょうね。これが金剛の真心という言葉で教我正受ということを押さえ切っていく意味になってきます。ちょっと云い足りませんでしたが、善導大師が観前の方便と観察そのものとの二つに押さえる意味は、善導以前の方々がここで韋提希は思惟によって散善を求めた。つまり散漫な心のままでの善を求めた。正受の方は観察を求めたのだが思惟の方は散善を求めてのではないと云うのですね。なんでそんなことを態々云うのか。韋提希は散善を求めていない。散善は仏の自説である、こういうことを態々云うわけです。散善とは日常的な善でしょ、三昧に入って行うような善ではなくて、仏道修行的な善ではなくて、日常的な生活の中で行える善です。でも韋提希は息子の阿闍世に裏切られるということで、日常的な倫理とか善悪には、もうすでに破綻しているわけです。だから特別の世界を求めたんだということを善導は云おうとするのですね。日常の道徳がもう壊れてしまっているのにどうやって日暮ししたらいいですかと、そんなこと聞くはずないと云うんですね。ところが観察だけを教えたならば仏道修行をする者だけの教えになってしまう。漏れていく者があるからどうしてもお釈迦さまは説かずにおれなかったのがこの、韋提希は求めていないけれども、日常における善を自らお説きになられたんだということを云っていくわけです。観経を善導以前に読んで来た諸師の解釈を踏まえて善導はそうじゃないと、一遍ひっくり返していますね。親鸞聖人はそのことを承知の上で更にもう少し押していくわけです。教我思惟は方便だというのは全体ですね。善導が云ったこの全体を方便だと云ってます。そして教我正受は阿弥陀の世界を正しく受け止めること、その世界に頷くこと、それを金剛の真心という言葉で押え直していくんですね。これは善導とはちょっと違うことを云っているように見えますが、善導大師のご苦労を更に押し進めてこういう云い方になっているわけです。これは後とも関係しますが、観経は基本的にこれを説くわけでしょう。浄土を観る方法を説くわけです。その前段階であるのが観る方法なんですが、いずれにしろ観を説いている経典なんです。しかし親鸞聖人はそれ全体が我々を導くための方便であると云い切っていきます。大事なのは阿弥陀の世界に頷くこと、この真実信心が要ですよと云いたいもんですから教我正受という言葉、これをすなわち金剛の信心なりというふうに云っていたわけです。「正受金剛心」という善導大師の偈文の言葉、これを非常に大事にされます。正(まさ)しく受ける、これは信心をいただくという意味です。正しく受けるというところに真実信心の意味を見ていく、これが親鸞聖人の仕事なんですね。諦観彼國淨業成者
次に「諦観彼國 淨業成者」とありました。原文は94頁ですね。[「汝いま知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」]これはお釈迦さまが韋提希に語った言葉であります。[その時に世尊、韋提希に告げたまわく、「汝いま知れりやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず。」』大変有名な言葉です。つまり阿弥陀の国に生れたいと願いますと直前に韋提希は云うんですが、ニッコリと微笑まれたお釈迦さまが初めて語った言葉が、韋提希あなたは知っているか、それとも知らないかと聞いて説かれた。それが「阿弥陀仏ここを去りたまうこと遠からず」という言葉です。つまり西の方、遠いところにいらっしゃると、あなた思っているかも知れないが、実は願う人のところに阿弥陀はいるのだということなんですね。阿弥陀の世界は求める人のところに届いているということを云おうとします。どうでしょうね、これもいろいろご質問いただきますが、阿弥陀さんの世界いつまでたっても辿り着けませんわという途方に暮れたようなご質問いただくことがあります。でもようくお聞きしてみますと、やっぱりその方は自分はまだ勉強が足りませんとか、年数が少ないとか、阿弥陀の世界をこの辺に置いておられるんですね。こっちに来ている阿弥陀の世界ということをあんまりご存知ない。ナンマンダブツを称える、そこに実は阿弥陀は来て下さる。これが如来の回向、向こうからのはたらきかけという親鸞聖人の大事な阿弥陀仏の受け止めであります。でも行かないといけないというイメージが抜けないんですね。仏法の覚りについても同じです。いつまでたっても覚れない私たちを見越して、仏の方が私たちの方に届いて下さる、如の世界が私たちの方にはたらいて下さる、如来回向という親鸞聖人の云い方になりますが、それをお釈迦さまが仰っているのがここであります。ですから遠くないぞと云った後に、あなたは正に思いをかけて、浄業成じたまえる者(ひと)、阿弥陀仏を見よと云ってるわけですが、これを親鸞聖人は何と解釈するか、それが331頁最後の行、[「諦観被國浄業成者」と言えり。本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。]と。これはだいぶ親鸞聖人にすると言葉を補っておられますよね。もしか阿弥陀仏を観よと云われたら、私たちどうなりますかね。また仏像をイメージするかも知れませんね。或いは金色に光る仏さまを思うかも知れません。或いは今までのご縁の中でお出会いになってきた丈六の巨大な阿弥陀仏像を思う人もいるかもしれませんし、そうじゃない、お名号一つでいいんですという人もいるかも知れません。しかしその形式にこだわっている間結局は自分が掴んだ阿弥陀さんでしょ。自分のイメージですわ。それを破ろうとして本願成就の尽十方無碍光如来という云い方をされる。尽十方無碍光ということに特に注意を置けば、どっかに居て、そこに止(とど)まっているような仏さまと違うんですよ。十方を尽してどこへでも届いて行くような、何ものにも碍げられずにはたらいて行くような光としての如来なんですね。物を見せて下さるはたらきです。だから我々は阿弥陀さんという姿を思うんでなくて、その尽十方無碍光如来によって世界を見せていただくということやと思いますね。しかも観知すべしと書いてある。観察すべしだたら完全に誤解するでしょうね。観なさいというのは同時に知りなさいと書いてますね。観なさいと云われたなら、ハイ観ましたとなりますね。でも阿弥陀さんの世界を知ったかと云われたら、そう簡単にうんと云えないかも知れませんね。仏像を見ただけならね、この辺が阿弥陀に出遇いなさいと阿弥陀の世界を観なさいと云ってる言葉でありますけれども、どういう阿弥陀を観るのか、ここまで踏み込んで表現をして下さってますね。広説衆譬
次に[「広説衆譬」と言えり、すなわち十三観これなり。]とあります。十三観というのは心を静めて、一定の対象に定めて、そして丁寧に観察していくということ、これが全部で13説かれています。普通観経を観れば、これは観経の中心なんですね。西に沈む太陽を観よから始まって、水を思いなさい、大地を思いなさいとこういう形でどんどんどんどんその内容が述べられて行って、7番目に来て阿弥陀仏の台座を見る、そして阿弥陀仏のお姿を見る、そしてさらに阿弥陀仏のお姿を超えたまことの阿弥陀仏のお身体を見るというふうに続いて行きます。だから観経は誰が見ても阿弥陀のお姿、あるいはおはたらきをいただいていくお経だということになるでしょうね。「広説衆譬」というお言葉、どこにあるかも一遍確かめておきます。94頁、先程の「諦観彼國 浄業成者」に続いて「我今爲汝 廣説衆譬」とあります。もろもろの譬を説かんと云ってますので、一番近くで見ればその後に「三福」というような言葉が出て来ます。世福、戒福、行福の三福を指すのかなぁという解釈もあります。もうちょっと幅を広げて観経にいろんな譬えが出て来るからそれを指しているんだろうというのが一般的な見方なんですね。広く多くの譬えを説きましょうと。つまりお釈迦さまがあの手この手で浄土のことを云って下さっている、その譬えの部分が広説衆譬という言葉で表されているというのが大方の見方です。ところが親鸞聖人は全然違うんです。十三観これ自身が譬えだと云ってます。先程観察は方便だと云うていましたね。浄土を観察するということ、これが実は方便の教えなんだと云うんですね。一つ前でしたか、教我思惟のところでお話していたことです。本当に出遇うべきは本願成就の報土であり、本願成就の尽十方無碍光如来だと。だからそれに出遇わせるためにあの手この手で説いてくれているのが定散十三観であって、これはどこまでも譬えだと云い切っているわけです。これは観経をずうっと読んで来た人から見れば恐ろしいことを云ってる話やと思います。だって観経の本文が定善十三観と見るのが普通なのですから。でもそれは方便であって、譬えであって、その方便を通して出遇うべきもの、これは本願成就の報土であり、本願成就の尽十方無碍光如来であると親鸞聖人は云い切っておられるのですね。経文だけ見ていたらとてもこんなふうには見えないわけですが、善導大師の解釈も踏まえ、そしてさらには観経全体の意味を受け取る中からこの読み方が出てきております。十三文全部をそういう読み方で押さえていかれるわけですが、この辺まで前回見ておったかと思います。汝是凡夫心想羸劣
332頁、「汝是凡夫心想羸劣」この言葉、場所を念の為に確かめておきますが、95頁「佛告韋提希」とあって「汝是凡夫、心想羸劣」とあります。これはお釈迦さまが韋提希に対して仰ったお言葉ということが分かります、ここを抜いているわけですね。善導大師に遡れば、これが韋提希が凡夫であることを確かめることができる経文であると云ってます。善導大師以前の方は韋提希を勝れたお方として見ている。私たちのために敢えて凡夫の姿を見せて下さったに過ぎない、こういう解釈が行き亘っていたわけです。ところが善導は韋提希自身が凡夫である、これはお釈迦さまの言葉から確かめることができると押さえていかれます。親鸞聖人はそれを承けながらでありますが、韋提希が凡夫であるという韋提希個人を指す言葉ではおさまらないと云っていく。これが332頁の解釈になります。[すなわちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。]悪人が往生の機であると。悪人というのは世間でいうような犯罪者というような意味ではありません。一所懸命生きておりながら傷つけ合うことを離れられない、苦しめ合うことを止められない。そういう者を仏教では悪人と云います。悪人だからこそ助けないといけないわけです。傷つけ合わない人間は放っておいていいんですけれど、そんな人間はおらんでしょうね。悪人を助けてにゃならん。それが汝はこれ凡夫なりという言葉に込められているんだというふうに親鸞聖人は読むわけですね。「心想羸劣」の「羸」は弱いという意味です。よく見るとこの字は真ん中に羊という字がありまして漢和辞典には羊へんに収められていますね。要するに身体が弱い、病気の羊というのが元々の意味だそうです。「羸」というのはいろんなことに負けていくわけですね。しかも劣っていると。弱くて劣っているとは何のことかと云えば、我々強く生きようと思っても世間の価値観にすぐ負けますよね、世間から褒められることには流されるし、世間から批判されることなら止めとこうとすぐなる。結局人の顔色を見て生きて行くことになるわけです。強い人のように見えても実はものすごく弱い。すぐに負けてしまうようなものを持っている。でも、そういう者のために本願の教えはなくてはならないんだということなんですね。ですから観経は韋提希を中心に話は進んで行きますけれども、韋提希一人の救いを語っているんじゃないということを親鸞聖人は受け止めているわけですね。[これ悪人往生の機たることを彰すなり。]という言葉で云うています。諸仏如来有異方便
次には[「諸仏如来有異方便」と言えり、すなわちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。]とあります。これもまぁすごい読みでありまして、元を見ますと95頁、さっきの続きですね。下の段で見ますと「諸仏如来は異の方便ましまして、汝をして見ることを得しめたまう」と云ってます。元の文脈から云えば、あなたは凡夫であって心が大変弱く、遠くを見ることができないと云われています。遠くというのは実際に距離の話でありますけれども、未来を見られない、これも天眼を得ないということを表しています。ただボクはいつも宮城顕先生のお言葉を思い出しますが、先生は未だ天眼を得ずというとあっちが見えないとか未来が見えないと云うかも知らんけれども、遠くが見えないどころか自分のことも見えていない、近くなら見えるという話じゃないんやということを教えて下さいました。だから[未だ天眼を得ず、遠く観ることあたわず。]ということは自分を離れてみることができない。いつも自分中心に見ているものですから、周りばっかり見て自分も見てないと、こういうように教えて下さったのを思い出します。だから近くなら見えてると云う話じゃないんですね。何にも見えてないんです。しかしそういうあなたをして、諸仏如来は「異の方便」これは特別の方便が御有りになって、汝をして観ることを得しめたまうと。だからあなたは凡夫であって遠くを見ることは出来ないんだけれども、仏の力に因ってなんとか阿弥陀の世界を観ることを得せしめましょうと、得せしめて下さるのが諸仏如来だと云っているお言葉なんですね。でも親鸞聖人は文脈とは全然違う読み方をしておられるでしょ。「すなわちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり」と仰る。ここではさっきの定散ばかりでなく散善も含めてでありますが、定善13観と散善の全部が如来の特別のご方便だと仰って、定善散善を通して見えてくるものがあるということなんですね。ここではもう繰り返していませんが、それがさっき見るべきものとして云われていた二つ、本願成就の報土と本願成就の尽十方無碍光如来であります。それに出遇わせるために定散十三観もあるし、散善も説かれているのだとこう読んでいるわけです。だからあの手この手いろいろ教えて下さって、結局阿弥陀に出遇わせようとする方便なんだと読み切っておられるわけであります。だからこれ観経の一つひとつのお言葉の解説と云うわけにはとてもいきませんね。結局観経全体が何を我々に示そうとしているのかということを受け取ったが故に、こういうようにお経が違って見えてくる。お経の文脈を変えているように見えますけれど、突き詰めればこういうことになるというとこまで話を進めておられるわけであります。お経をどう読むかという話ですので、どうしてもお経の本文でどうなっているかということを一回見た上で、それを親鸞聖人がどう受け止めているかという話をしているわけで、どうしても話がややこしくなるんですね。ややこしくなってくると今度は声が大きくなってね、皆さんに迷惑かけるんですけども、なんか普通はちょっと読めんなぁと云うそういう思いをボクはずうっと抱えてきておりました。しかし言葉で云われていることと、その言葉を通して出遇わせたいこと、これが方便と真実という関係として化身土は展開してきておりますので、その具体的な例を親鸞聖人はこの観経の13の文章を引いて確認をして下さっていると思います。だからこの読み方、ちょっと普通は取れないぞというのが逆に、あぁ観経はこう読むべきなのか、こう受け止めなければならないということが親鸞聖人から提起されているのであって、私たちの常識がそこで反対に問われることになっているわけです。私たちの基本的な意識は、やっぱり自分が覚りに近付いていくという、これしかないんですね。それでやり遂げられるんだったら親鸞聖人も山を下りる必要はなかったわけです。浄土の教えも起こってくる必要もなかったでしょうね。しかし、どうしても浄土の教えが起こって来たというのは、人間が覚りに到達するのを待っておれない、そのうちに覚ると云いながら傷つけ合うことを繰り返していく、こういう傷ましい現実をご覧になったからですよね。そういう意味で仏の方からこちら側に届いてくるはたらき、これをいただくしかない、こういう道を親鸞聖人は掲げようとしておられるわけです。でもこれはどうしても自分で修行することを放棄したようにも見えるし、なにか仏に助けてもらえるという甘えた教えにも見えてしまう。この辺が他力に対する偏見だと思うんですけど、それを解きほぐそうとしているのが親鸞聖人のお仕事ではなかろうかと思います。
いまこの観経というのは、普通に見れば定善と散善を説き、我々の努力に応答しながら教説が展開していきますので、私たちの為すべきこととして読んだ方が分かり易いのは当然なんです。しかしそれを通して何が呼び掛けられているかとなったら、努力を勧めている経典ではないということなんですね。努力が出来ない、あるいは努力が挫折するところにも道はあるということです。その代表が韋提希ですよね。韋提希も自ら仏法を聞いて、そして家庭に問題が起らないように一所懸命やって来た。いい国にしようと思って努力してきた、そんな人なんですね。ところがそれ全体が思いの食い違いによって破綻する。そこにこそ放っておかない他力というか、如来からのはたらきがあらわになる、こういうことを押さえて下さっていると思うんですね。
以仏力故見彼国土
それでさっきの続き、言葉を確かめておきたいと思いますが、332頁、「以仏力故見彼国土」と。原文は95頁後ろから5行目です。次の「若仏滅後諸衆生等」も親鸞聖人は併せて引かれます。これは韋提希の発言ですね。下の段で確認しますと[世尊、我がごときは、いま仏力をもってのゆえにかの国土を見つ。]とこう云っています。つまり、私の場合は仏のお力をもって阿弥陀の国を見ることができましたと云ってるんですね。これに続いて[もし仏滅の後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。]と云ってます。お釈迦さまが入滅なさった後のもろもろの衆生はお釈迦さまに遇えないじゃないですか。じゃあどうやって阿弥陀の世界を見たらいいんですかという質問なんですね。私はお釈迦さまがおられたので阿弥陀の世界を見せてもらうことができましたけれども、お釈迦さまに遇えない人はどうなるんですかと問うている言葉であります。それを親鸞聖人はどう述べておられるか。332頁に戻ります。[「以仏力故見彼国土」と言えり、]と云って[これすなわち他力の意を顕すなり。]と仰います。非常に端的に他力ということを押さえて下さっていますね。他力というのは、ここで云うと仏力によって見ることができる、これを他力と云うんですよ。これが未だに誤解されておりまして、他力の救いなんて云うと誰かにお願いするみたいな話になるんですが、誰かにお願いするというのは基本的に我がはからいですわね。あの人に頼めばなんとかなるとかね、この仏さんにお参りすれば、あっちの神さんにお願いすればみたいな全部自分のはからいでしょう。他力でもなんでもないんです。仏力によって見えたというのは私の思いをこえた世界、それを仏によって与えられたと云っているんです。こちら側のはからいの話じゃない、質が違うんですね。他力というのをね、誰かとか自分以外の他者を云うんじゃなくて、仏のお力です。親鸞聖人はそれを丁寧に云うときには「如から来た本願の力だ」と云って、如来の本願力だと仰います。如の力なんですね。ありのままの事実を知らせるはたらきが私たちのところへ至り届いた、これを他力と云うんであって、人にお願いすればなんとかなるというのは他力でもなんでもないです。ましてや、もう自力優勝はありません、後は他力本願ですと云うのは全くの見当違いであって、そこには仏力は全然はたらいていません。他のチームが負けてくれる、そういう話でしょう。それを期待するのは私ですから、他力でも何でもないんですが、ここが非常に言葉として分かり易いだけに他力ということがずっと誤解されてきたと云っていいと思います。序に云っておきますと、他力ということを最初に押さえて下さったのは曇鸞大師ですよね、曇鸞大師が、私が修行すればそのうち覚れるという考え方に対して、それは自分の計らいや思いはあるかも知れないけれども、それを証明するものがどこにもないじゃないかということです。自分一人のつもり、自分一人の思い込みとどう区別がつくんだということなんです。もっと云うと、これをやると必ず覚れると云っておるけれども、それ本当に仏道を歩んでいると云えるんですかと、仏教を学んでいると云えるんですかと。自分で勝手に掴んだものを仏教だと云うているだけかも知れない。これが他によって証明されることがないということを自力のみだと批判するときに使われるんですね。だから他力と云っても誰かに甘えるという話では決してないんですが、これが現代に至るまで甚だ難しいことになっています。ですからここは明確に仏力によって阿弥陀の世界を観ました、これが他力だと、これが他力のこころを表しているんだというふうに親鸞聖人は明解に押えて下さっていると思います。若仏滅後諸衆生等
その次、[「若仏滅後諸衆生等」と言えり。]これは仏滅の後の諸々の衆生はどうなるんですかという質問でしたね。これに対して「すなわちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり」と云います。さっきは悪人が往生の機であるという言葉がありました。悪人だからこそ救わないといけないという言葉でした。今度はお釈迦さまが私に遇えない未来の者、それも対象にしているんだという内容なんですね。これ韋提希が聞いた言葉ですから、仏滅後の衆生はどうなるんですかというのが元々の文脈です。でも親鸞聖人はそれを取って、これは未来の衆生が往生を遂げていく正しき目当てでありますと、仏滅後の衆生のことをこの観経はみそなわして説かれているんですよと云われます。だからお釈迦さまに遇える人は極端に云うともう観経はなくても大丈夫だ、お釈迦さまに手取り足取りして教えてもらえばいいんですから。でも仏にお会いできない者のためにこそ、この観経という経典がなくてはならないのですね。仏滅後の衆生を救う経典なんです。それを仏滅後の衆生とか未来の衆生と云ってあるんですが、それをギュッと縮めて親鸞聖人はそれが往生の正しき目当てであります、対象でありますということを表しているのだと云うわけです。ここまでが観経の序分のお言葉であります。実際まぁここまでを序分にしたのは善導大師のお仕事ですけれども、ここまでを序分にして下さったことによって観経は誰のための経典かということが明確になりました。ひと言で云えば、仏滅後の凡夫のための経典なんです。さっきの言葉をもうちょっといただけば、仏滅後の悪人のための経典なんですね。間違いを起こさない人間なら読まんでも大丈夫ですわ。でもそんな人間いないだろうというのが親鸞聖人の眼やと思います。一所懸命生きる中にも過ちを犯していく、傷付け合うということを超えられないんですからね、でもそういう者をみそなわして観経は既に説かれたのです。若有合者名為麁想
次は正宗分に入ってのお言葉でありますが、[「若有合者、」と言えり]これはどこにあるか。104頁、正宗分に入って第8番目の阿弥陀仏のお姿を見る、そういう観察の方法を説く中に、今の言葉が出て来ます。後ろから3行目にありますね。これ下の段で読むと面白いんですが、[行者の所聞、出定の時憶持して捨てざれ、修多羅と合せしめよ。]と先ずこんな言葉があります。行者が聞いたところでは、定を出た時にも、三昧を出た、定まった心のあり方を一遍解いた時にも、それを憶持して捨てざれと云ってます。つまり三昧に入って精神を集中している時だけじゃなくて、その集中を解いた時も忘れずに捨てるなと云っています。そして修多羅と合せしめよ、法を説いているお経とぴったり合うようにしなさいと云ってます。定善というのは一応入定といって定に入った時、三昧に入った時の話なんですが、出た時もなんです。これちょっと別のところで云うと一番難しいのが閉目開目という言葉がありますが、目を閉じて阿弥陀仏の姿を思い浮かべる、これはまだできると云うんですね。しかし目を開けた途端、世間のことが入ってきますから、もう阿弥陀さんどころじゃなくなるわけです。夜のネオンが見えたりね、ラーメン屋の看板が見えたりするわけです。つまり目を開けた時に阿弥陀のことを忘れずに思い続けるのが非常に難しい。これが閉目開目という言葉です。いずれの時も阿弥陀を念ずべしと云われますが、ここでは出定の時と云われます。実際目を開けていたら無理でしょう、これは。世間のことに一気に執われますわ。問題はその後です。それを親鸞聖人は引いているわけですが、修多羅と合せしめよと云った後に、[もし合せざるをば名づけて妄想とす。]と云ってます。お経とぴったり合わない、そういうことなら仏さまを見ているとかいくら云うても、それは単なる妄想だと。すごい言葉でしょ。実際そうですね、私たちご本尊を拝んでもですよ、仏のお姿をいただける、そういう時どのくらいありますかね。掃除せんならんなぁと見ている時もありますわ。大分古くなってきたな、買い替えんなんかなという時もあります。それは仏像を見ながら何を思っているんでしょうね。ましてやこの家の仏像はかなり立派やなぁとなれば、美術品ですよね、それ。年代物かも知れんというのは骨董品でしょう。仏さまを見てないんです。エライことに成っとるんです、これ。だから修多羅と合わないものは妄想だと云うんです。阿弥陀仏の仏像を拝んでいてももうそうなんです。そしてその次の言葉を親鸞聖人は抜いているわけです。「もし合することあらんをば、名づけて麁想に極楽世界を見るとす。」と云ってます。麁想というのはあらいです。あらあらと見たということです。だから修多羅と合することがあっても、それは麁想であると云ってるんですね。まぁお経にピッタリ合うことはなかなかない。もしあったとしても、あらあらと見ただけやと云うんです。お経の譬えにありますよね、象の足だけ触って象とは柱のようなものだとかね、胴体を触って象とは壁のようなものだとか、尻っぽを触ってロープのようなものだとか云うとるようなもんです。まぁそんな話ですわ。自分が触れたとこだけ見て、これが仏法だと、これが阿弥陀さんだと云う。それがたとえ合することがあったとしても、あらあらと見たにすぎないんだと云ってるわけです。それを親鸞聖人はなんと云っているかというのが、332頁に戻ります。「若有合者、名爲麤想と言えり」の次、「これ定観成じがたきことを顕すなり。」これお釈迦さまの言葉として云われていますから、もし合したとしてもあらあらと見たにすぎないんですよということを仰っているもんですから、定観は成じ難いと。これは成り立ちがたいということを云ってる、これはいかに難しいことかということを云っているお言葉なんだ。これをやりなさいと観経は云ってるけれども、これは全部方便の教えだ。いかに難しいかということに出遇わせるための教えなんです。私何段階まで進みましたとかね、あの人よりだいぶ上ですわとか、そんなことを云うためにこれがあるんじゃなくて、精神を集中しなさいと云われてもそれがどれ程難しいか。あるいは仏さまを見なさいと云われてもそれがいかに難しいか、こういうことを知るための教えなんだということなんですね。於現身中得念仏三昧
その後[「於現身中得念仏三昧」と言えり、すなわちこれ、定観成就の益は念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕す。すなわち観門をもって方便の教とせるなり。]と断言しておられます。つまり観察せよと十三観が説かれているけれども、これは方便の教だと云い切っておられます。我々に定観が成じ難いということを気付かせるための教えである。気付かせて何に導くかといえば念仏三昧に導くための教えだと云うんですね。これがその中に説かれている言葉を元に仰っているわけです。104頁に戻ります。最後の行に「於現身中、得念佛三昧」とあります。下の段では「この観を作せば、無量億劫の生死の罪を除く、現身の中において念仏三昧を得。」となっています。これはここだけ読めば第8観の成就ですよね。第8番目の像観ということをなしたならば、この現実に生きている身の中で念仏三昧を得るのだと書いているわけですから、第8観の成就の話、その利益と云っていいわけです。でも親鸞聖人はそうとってないですよね。「於現身中得念仏三昧」を抜いてどう云っておられたか。定観が成就するとはどういうことかと云えば、定観が定観として成就するんじゃないんですね。私やり遂げましたと云うて成就するんじゃなくて、念仏三昧を得るところに観の利益があると云うんですね。観門とあるでしょう、観察という門をくぐって出遇うべきものがあるんです。ここではそれが念仏三昧だと云われているんです。遇うべきもの、これを真実という言葉で親鸞聖人は押えて下さいますが、十三文引いている中で真実の方は本願成就の報土と云われ、あるいは本願成就の尽十方無碍光如来と云われ、そしてそのことをいただく念仏三昧、これが出遇うべきもの、いただくべきものとして語られているんですね。観はどこまでも方便の教えだと云い切って行かれます。これが「観門をもって方便の教とせるなり。」と結ばれているんですね。これで11番目の言葉まで来ましたが、次12番目。
発三種心即便往生
[「発三種心即便往生」と言えり。また「復有三種衆生当得往生」と言えり。]これがどこにあるか先に確かめておきたいと思います。これは散善について説く九品の中に出てまいります。観経では112頁であります。ここは大切なところですので、先にお経で内容を見ておきたいと思います。下の段前から4行目からです。最初の[三種の心を発してすなわち往生す。]これはこの通りです、分かりますね。[何等かを三つとする。]と云って、一つには至誠心という心、二つ目は深心という心、三つ目は回向発願心という心、この三心を具えれば必ずかの国に生ずと書いてます。問題は「上品上生というは」の後に出て来ますので、この三種の心というのは上品上生の人の話だとずうっと読まれてきたわけです。つまり上品上生というのは仏道に今まで縁を持ってきた、あるいは修行を重ねるような状況を生きて来た人です。その人がこの三種の心を発すというのはよく分かる話なんですね。当然そうだろう、そのような心を具えておられるだろう。だからこれ三種の心というのは上品上生の人の話だというふうになっておりました。ところが善導大師はこの三心は実は九品に通じての話だということをまず云います。後で出て来る下品下生にまで通じると云うんですね。これちょっとお経の並びから云ったら少し無理があるんですが、無理を承知で善導は云うわけです。[「上品上生」というは、]とあって、その後に三心が出るんですけれど、上品上生だけでなくて、上品中生も上品下生も中品上生も中品中品も中品下生も、更には下品上生も下品中品も下品下生も九通りのあり方の人みんなこの三種の心がなくてはならないんだと云うわけです。も一つすごいことを云うのは、これは今散善のところで説かれているわけですね、九品のところで説かれているわけですが、その三心は実は定善にも通ずるということを云います。この行をやっている人にもこの三種の心がなければ、その行は行にならないと、こういう云い方をします。要するに何を云ってるかと云うと、どうやって生まれるかと云えば、至誠心、深心、回向発願心、この三つを具えさえすれば、上品上生の者も下品下生の者もみな生れると云っているのです。逆に定善の修業を積み上げている人でもこの三つの心がなければ生れられないということ云っている。観経全体を貫いているのがこの三心だと、これが善導の見立てであります。まぁだけどこれもね、ここだけ読むとなかなかそうは取れないですよね。でも親鸞聖人はそのお心を承けてさっきのところに引いて行きます。復有三種衆生当得往生
もう一つ「復有三種衆生当得往生」はこの文脈で見れば、明らかに次のことを云うてますよね。「何等かを三つとする」と書いてあって、その次に「一つには」「二つには」「三つには」と書いてあるでしょう。だから三種の衆生というのはどう見ても上品上生の中に出て来る三種の人、三つのあり方だということに、大概なるんですわ。一つ目は慈心にして殺さない、二つには大乗経典を読むということ、三つには六念を修行するという、こういう行を重ねてる人ですわ。こう読むのが普通ですが、親鸞聖人はそこに触れないんですね。そして九品全体、もっと云えば観経全体を通して、これをいただくとどうなるかということ、こういう形で化身土巻で解釈を加えていかれます。これはちょっと読み取ることのできないような見方だと思うんですが、化身土の方に戻りましょう。三種の三心と二種の往生
332頁。[これらの文に依るに、三輩について三種の三心あり、]こういう云い方をするのです。三輩というのは上品、中品、下品の三つのあり方で、上輩には上輩の三心があり、中輩には中輩の三心、下輩には下輩の三心があると云ってます。それぞれのあり方に応じて発す至誠心、深心、回向発願心がありますよと云ってるわけです。それはそれぞれの縁の中で発す、行を積み上げてきた人はそういう三心を発す、世間の善をやってきた人はそういう三心を発す。或いは下品のように悪をつくってきた人はその中で三心を発す、こういうように云ってるのが[三輩について三種の三心あり、]という言葉になっているわけです。これは善導大師が観経全体に三心が通じていると云ったことを承けてこう云っています。そして次の言葉ですね、すごいのは。[また二種の往生あり。]これ未だここでは明確に出ませんが、これが観経で説かれている往生を見るときに大事な二つのあり方です。即往生、便往生という云い方もあります。どこに出るかと云いますと、339頁、これは後の引用文が終わったところにまとめて出て来るので、今日読んでいるところはその先駆けというか、後に出ることを前もって示している部分になりますが、[二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。]とあるでしょう。そして[便往生とは、すなわちこれ胎生辺地・双樹林下の往生なり。]とあります。これは方便化土の往生なんですね。自分で握った往生とはこういうことだということを予想した、そういうところに止まっているあり方です。それに対して[即往生とは、すなわちこれ報土化生なり。]これは真実報土の往生のことを云ってます。ですから往生と云っても、真実に阿弥陀の浄土に生まれるあり方と、自分の思いを中心にしてからに閉じ籠もっているようなあり方と二つあるということを後で云って下さるんですよ。それに対して「二種の三心あり」と直前にあるでしょ。二種の三心というのは定の三心と、散の三心だとあります。[定散の心は、すなわち自利各別の心なり。]とありますね、これは実はこちら側の話なんですよ。利他の一心、他力によって導かれる利他の一心という言葉がさっきありました。でもここで二種の三心と云っているのは、一心の内容に三心があると親鸞聖人は見ておられると思います。観経は一応は頑張れよということを云いますので、至誠心を発し、更に深心、回向発願心を発せと云っている。それをその通り、ハイ分かりましたとやれば、必ずやれる範囲で程度があります。あの人の信心は深いとか、私はまだ浅いとかなるわけです。これが自力によってそれぞれの違いが出て来るような三心なんです。それに対して本当に阿弥陀の世界に頷くという三心もあるんですね。これは実は教行信証ではもう既に信巻に引かれてあるんです。至誠心、深心、回向発願心がこの真実信心の内容を表わすものとしてとっくに述べられてあるんですね。私ら、今そこを読まずにここへ来てるもんですから、これとこれがどう重なり合うかということがちょっと分かりにくいかもしれませんが、親鸞聖人はこの自力の三心と利他の内容を表わす三心とを信巻と化身土巻に分けて引かれる、こんなことなさるんですよ。これを踏まえて、さっきの332頁に戻りますと、「三種の三心あり、また二種の往生あり。」とありましたが、三種の三心というのはこっちを指しているでしょうね。上輩・中輩・下輩、これによって違い目が出来るような三心です。それに対して阿弥陀の世界に頷けば、上輩であろうが、中輩であろうが、下輩であろうがみな平等に生まれるというのがこの心です。ランク付けがあるように説いてありますけれど、それはお経が人をランク付けしているんじゃなくて、私たちがどうしてもランク付けをする心で人を見ますので、それに応答して上中下を説いていますけれども、本当に生まれるのはこちら側の心なんですね。それによって即往生ということが語られるわけであります。ここは説明がまだないものですから分かりにくい感じをどうしても拭えないんですが、いま開いていただいた339頁のところまで話を持って見ていきますと、前倒しで当てているんだなぁということが分かります。もう一遍、332頁で確かめておきます。観経の上品上生のところに説かれる経文でありますが、これを親鸞聖人は観経全体を貫くものとして先ず読んでおられる。それが「発三種心即便往生」という言葉と「復有三種衆生当得往生」という言葉です。だから後の三種衆生というのは上輩、中輩、下輩であると親鸞聖人は読み切っておられますね。でもその三種の衆生がそれぞれバラバラの心で往生していく話じゃないんですよ。本当に阿弥陀の世界に頷くという真実信心一つで下輩の者も、どんな者も平等に迎え取られる、それが即往生の方であります。この辺が化身土を一番初めの方からお聞きいただいている方にはもうピンとくると思いますが、親鸞聖人が何をなさろうとしているかと云うと、法然上人の教えを聞いて念仏して助かっていこうとする人は山ほどいる。ところが殆んどがどうなっているかと云うと、私はこれだけやっているから往生するに違いないとか、あの人はまだダメだろうというようなことが起っているわけです。念仏すればみな迎え取られるという教えの中にまた人間の側の努力意識であるとか、経歴であるとかがくっ付いてしまっているわけです。それは本当の往生じゃありませんよ、阿弥陀の世界に触れたとは云えませんよと云う中で、このように段階的に説いてあるのは実は方便の教えであって、本当はみな平等に迎え取られる世界が観経にも云われているんですよということを確認しようとしておられる。これを特に誤解しているのは法然上人の教えをいただいたお同行です。全然知らない人はこんなこと誤解するはずがない。でも私の念仏の方が本当だみたいなことが必ず起ってくるわけです。でもこれは後になるとまた出ますが、他宗派のことを批判するつもりはありませんけれども、法然上人亡き後浄土宗は途端にまた念仏も大事だけれども、やっぱり戒を持(たも)つことも大事やという方へ傾斜していきます。現代ではやっぱり戒を持っていられる人もあれば、戒を持てない人もあるということで、浄土宗は戒名と云うことをいいますね、そういうことを受けられた方の方がもっと往生し易いし、本来の姿だというふうになっていってしまった。これは法然上人のお姿が誤解を与えた面もあると思います。法然上人が終生戒を持たれて、そして浄らかな僧侶として生きられたということがあるからです。だから念仏も大事かも知らんがやっぱり戒を持てばその念仏に値打ちあるんじゃないあと云うことになっていくんですね。でも親鸞聖人はそれを雑行とか雑修という言葉で切り分けていきます。観経は一応、上品上生から下品下生までいろんな行に縁を持った人が書いてあるけれども、これはどこまでも方便の教えであって、本当に云いたいのはこの一心、真実信心をいただくところに皆平等ということを説いて下さっていると云う。だから同じ観経を読む中で違うように取っている人が沢山いたという現状、これが親鸞聖人をしてこういうふうに云わしめた問題なんですね。でもそう云うと、800年前の親鸞聖人の時代の話かということになりそうですが、この問題は親鸞聖人が決着をつけて下さっていても終らない。なぜか。私たちの意識の中に、念仏するについてもよく勉強してから称える念仏の方がいいんじゃないんだろうかという思いが湧くからですよ。同じ念仏かもしらんが、私の方が年季が入っているという思いが湧くからです。それは本当の往生ではありませんよと、どうしてもこのことを云わなければならない。でもこれは単なる否定ではない。これを通して真実に出遇ってほしいからなんです。ここへ立ち返ってほしいからなんですね。だからこれは単なる思いという意味じゃなくて、方便なんですよと。でも方便に腰を下ろしてはいけませんと。便というのは「すなわち」と読むんですが、方便の便でもあるんですよ。
「便往生」という言葉も方便として示された往生であって、今ここでの往生じゃないです。そのうちにと云う話に必ずなります。でもそのうちにで人間は救われるんでしょうか。例えば10年後に救われるという保証が絶対あったとしてもですよ、いのちは10年待ってくれないということがある。いまここで救われるということが要る。それが「即往生」です。これが真実の往生であり、便往生はそれを教えるために仮に立てられた方便の往生なんですよということです。だから方便の往生に止まらないでください、即往生をいただいて下さいという思いがここにずうっと流れてあると思います。でも、どうしてでしょうね。いまも往生についていろんな考え方がおありですけれども、いまここででなくて、そのうちにみたいなね、そんな教えで私たちは満足できるんでしょうか。そのことが昔でもそうですし、いまも起っているということが、化身土巻にこういうことが書かれなくてはいけない大きな大きな理由だと思います。方便というのはそれを通して本当の往生を証(あか)すための教えなんですよ。だからボクたちが勘違いすることも材料になるんです。単なる否定契機じゃないです。私たちは必ず向こう側に往生とか三心を持っていくわけですよ。私の方が深いとか、必ずやります。しかし本当の信心は誰に起っても平等でしょ、如来のはたらきによって目覚めさせられるのですから。私の経歴やら素質じゃないんですね。