『教行信証』の化身土巻を読む(12) 一楽 真 師
2017/ 03/ 31
善導の意(こころ)
聖典331頁です。「問う。『大本』(大経) の三心と、『観経』の三心と、一異いかんぞや。答う。」と自問自答であります。「釈家の意に依って、『無量寿仏観経』を案ずれば」釈家とはカッコして善導と補ってます。この観経を解釈して下さった第一人者善導のお心によって読み解いていくわけです。正信偈で云う「善導独明仏正意」でしょうね。善導の眼がなかったら観経は読めないというのが親鸞聖人の受け止めであります。だから善導の心によってこれを読んでゆきますと、その次の経題については前にもお話ししましたが、善導大師が大事になさった読み方を親鸞聖人も踏襲していかれるんですね。無量寿仏観経と云います。普通にはこれ観無量寿経というお経ですね。こうして伝わってきたのです。でも善導大師はこれを変えるんですね。どう違うのか。観無量寿経なら私たちが無量寿仏とその世界を観る、ですね。観の主体は私たちですね。私がやるべきことでしょ。例えば西に沈む太陽を観るということから始まって仏さまの浄土はどうなっているか、更には仏さまのお姿、そのお心はどうであるのかということを私が観察していく、観ていくわけです。でも善導大師の読みは全く逆です。例えば西に沈む太陽を見よと云ってもね、観てるようで全然心は静まらない。波立たない水を見よと云われるといよいよ波立つ、そういう自分が必ず見えてくるはずなんです。だから太陽を見てない、波立たない水を思い浮かべることも出来ない。ましてや仏さまを見ると云うても何を見ているんでしょうね、自分の想い描いた仏像とかなら思い出すことができるかもしれません。自分の想い描いた阿弥陀の浄土も思い浮かべることができるかも知れませんが、本当に仏を見るとか、仏の浄土を見るということになっているかは難しいですよね。だから観無量寿経というのは観が出来ると思っている人の読み方なんです。やればなんとかなるという人はこう読むんですが、善導大師にはそんなことができるものかという眼がある。だから観経のことを「無量寿仏観経」というのです。「観」というのは私たちに成り立つことと云ってもいいですが、無量寿仏によって成り立つ「観」と云わなきゃならんでしょうね。無量寿仏のはたらきかけです。無量寿仏が表れて下さる、それによって気付かせられる。それによって教えられるというのが「観」なんですね。私がいて見るということじゃなくて無量寿仏による観と読ませようとしてるんですね。親鸞聖人はこの経題を非常に大事になさって、丁寧に云うときには無量寿仏観経と仰る。略すときは観経と云いますが、ここの略だと思います。こっち(観無量寿経を指す)の略じゃない。観経と親鸞聖人が云っても無量寿仏観経の略と云わなきゃならんと思います。勿論親鸞聖人は観無量寿経という言葉を全く使わないわけじゃありません。ご自釈の中に一ヶ所だけあります。浄土論註に「観無量寿経に言く」と論註の文章の中に組み込まれてるのを変えずにそのまま引用してあります。でもご自身の言葉として引くときには無量寿仏観経あるいは観経というだけです。どこまでも如来のはたらきかけによって観せていただくお経だということですね。だから観える内容は大分違うと思いますね。一応観経は西に沈む太陽から仏さまのお姿、そしてその世界を観よとずうっと書いてありますけれども、それによって見えるのはまずもって我が身が見えるんでしょうね。徹底できない我が身。でもそういう私のためにあなたを見捨てないぞと呼びかける阿弥陀の声が聞こえてくる。前に申し上げた二種深信というようなところに集約されますが、それが無量寿仏によって見えるものなんでしょうね。私が仏さまの世界を見ましたと、そんな話にしておられないと思います。顕彰隠密の義
これが経題でありましたが、次の言葉「釈家(善導)の意に依って、無量寿仏観経を案ずれば、顕彰隠密の義あり。」とありました。顕彰隠密と四文字で書かれていますが、上の一文字と下の三文字で意味になっています。顕彰とか穏顕という二文字で代表させられる場合もあります。顕というのは言葉となって表われている、表わされているということです。しかしその中に隠れていることがある。仏の秘密のお心がある。これを表わすときに「彰」という字が使われます。外に表わすに対して内に表わすと云われます。表だっては仏さまが語れないことがあります。しかしその語ったことを通して気が付いてほしいことがあるというのですね。いつも拙い例で申し訳ありませんが、ボクが一番分かり易いと思っているのは、例えば周利槃特(十六羅漢の一人、チューラパンタカ)には掃除しなさいと云ったわけです。箒を持ってね、塵を払え垢を除かんと云って掃除をしなさいと云われたのです。それは顕の方だったわけです。しかし掃除をしてほしかったわけではないでしょう。周利槃特に気が付いてほしいことがあった。それは何かと云えばお釈迦さまが取り除けと云われるのは心の垢なんだと。物憶えがわるい私はダメな人間なんだと決めつけているその心に気が付いてほしかったのです。それを表立って云って果して伝わるでしょうか。例えばお釈迦さまが物憶えがいいか悪いかというようなことで人間は定まらないから安心しなさいと云って、すぐハイ分かりましたとなりますかね。いくらお釈迦さまにそう云われても能力がある方がいいでしょうと、そうはなりませんか。だからお釈迦さまの言葉でも、私は愚かだと云いながらも聞かない周利槃特もいるんです。その時にそれは問題でなかったということに本人が気が付いていく、頷いていく、それを待たなくてはならない。それがお釈迦さまの、この言葉で届くだろうか、この言葉で目覚めてくれるだろうかという説法やと思います。だから言葉通りに相手が受け止めてくれるというわけにはいかない。これは周利槃特だけの話じゃありませんよね。我々で云えば念仏一つだと云われても、そんなものと云うてしまうんですよ。やっぱり修行した方が値打ちあるぞと云うてしまう。いやいや念仏も修行も意味は同じだといくら云われてもこちらが握っているものが破れない限り念仏が大事だというわけにいかないわけです。そのときに先ず「顕」を説くわけです。それを通して出会わしたいものがある、それが彰隠密なのです。そこを親鸞聖人は端的にまとめて述べて下さっています。何が顕であり何が彰であるかと。顕の義
まず顕の方です。「顕というは、すなわち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず、諸機の三心は自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなわちこれ「顕」の義なり。」まず観経には言葉として何が語られているか。文字通り定散諸善を顕わしていると。善を求めて止まない人間には善を以て示して下さるわけです。そして「三輩・三心」三輩は上中下の三つのあり方です。それにさらに上中下があって九品になるわけです。一応ここでは三輩とまとめられていますね。三心は先ほど見ましたが、至誠心・深心・回向発願心、まず私たちが発すべき、具えるべき心として望まれているものであります。三輩にはそのそれぞれに三心があると善導は云っています。それぞれにそれぞれの出会い方があるということが説かれてあるわけですね。ですからどんな者にも道がある。その時に縁に応じた形の善を勧めるというのが観経の説き方になっているわけです。これはご和讃で見て頂きましたね。「臨終現前の願により/釈迦は諸善をことごとく/観経一部にあらわして/定散諸機をすすめけり」勧めて下さっている。仏法と縁を持ってほしいからです。努力意識に執われている人間には実践目標が与えられる方が分かり易いようですね。ここからやれ、これから入門しなさいと云われた方が分かり易い。そういう形で勧めて下さっているわけです。ところがここに同時にもう一つの面を書いておられますね。「しかるに」そうであるけれども、「二善・三福は報土の真因にあらず」と。二善は定善、散善の二つの善。三福は世福、戒福、行福で、世間で修める福徳、戒を持つことによって得られる福徳、仏道によって得られる福徳なんですが、これらは阿弥陀の本願に報いて成就した真実の報土に生れる真因ではないと云っています。これちょっと不思議でしょう。だって前に「定散諸善を顕し」と云ってるわけですから、観経はそれを説いているわけです。そう説かれているけれども二善三福は阿弥陀の浄土に生まれる本当の因ではありませんと云うんです。聞く人が聞いたら暴れるんと違いますか、そんなこと云うなら始めから報土の真因を説いて下さいと云って。本当でないことを説くなんてあんまりですと云うんじゃないですかね。でもそれは定散諸善から入らないと受け付けない私たちがいるからです。念仏一つを喜ばない。そんなものと云うてしまう我々のためにここから入る。しかし忘れてはいけないのは、それは誰もが平等に往生する真実報土の真因ではありませんと云っています。なぜか。この善というのはどうしても積み上げた分に執われてしまいます。あるいは私は何年やってきたということを握ってしまいます。やればやった分だけ必ず比べ合うことが起きるんです。だから皆平等に成仏する阿弥陀の浄土の真因にはなりませんよね。有名な話によれば法然上人の教えを喜んでいた人がどんどん増えたあの時代でもですよ、法然上人の信心と親鸞聖人の信心がひとつというあの話、ウンと云わなかったご門弟がいっぱいいるわけでしょう。なんで入門間もない親鸞聖人とあの偉大な法然上人の信心が一緒なんやというわけです。でも法然上人は平等に救われていくという意味では私も親鸞も一緒やと答えられています。もしか信心が一つでないと云うんなら、それは私の行こうとする浄土には決して行かれますまいとここまで云う。厳しい言葉でありますけれども結局ランク付けて助かろうとしている人は平等に迎え取られる阿弥陀の世界を願っているわけじゃないんですね。私が一番行くはずだとかね、私ほど努力した者は助かるに違いないとか、これ全部ランク付けの中の話ですよね。だからこの報土の真因にあらずというのは努力に応じて説かれた教えなんですけれど、それをそのまま握る、それに執われるということでは浄土に往生することは出来ないと仰って下さっています。次の「諸機の三心」これは定散諸善を修めようとするあり方ですが、それぞれがそれぞれにやってそれで助かっていこうとするのですが、それは自利各別だと云っています。これは親鸞聖人独特の言葉の使い方でして、普通自利と云えば自分の利益ですよね、自らが迷いを超える、利せられるという言葉です。それに対して利他は他を利する。他の迷いを超えさせるという意味で使われます。しかし親鸞聖人はこう云うときに自利と使われるのは、これは自力と重なっています。我が身に励んで利益を得ようとするあり方だと云うんですね。それが各別だと書いてあります。縁によって違いますね。どんな努力が出来るかも違います。だから必ずそれを比べ合うようになるんです。そうじゃなくて「利他の一心」これがさっきから申し上げている誰においても平等の同一であるような信心であります。この利他はだから他力という言葉と同じであります。正確に云うときには如来利他と云った方がいいと思います。人間の側の自利各別の心じゃなくて如来の利他のはたらきによる一心。歎異抄の言葉では如来より賜わりたる信心ということですが、ここで云う定散諸善はそれでないということです。私は私の縁の中て頑張ってますという三心は他力の一心ではないと云っています。それは何のために説かれたかというと「如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり」と書いています。如来の特別なご方便、そして欣慕浄土、浄土を欣(ねが)い慕うと書きます。浄土の方にとにかく心を向けさせようとする、そのための善根を説いて下さったと云うんですね。念仏一つで助かると云えばなんかね、浄土も有難くないし行こうという気も起きないんですが、これを積み上げれば浄土へ行けるぞと云えば、あ、それならボクにも出来るかも知らんと、私にもやれるかも知らんというようにね、やる気が起きるんですよ。でもそれはやった度合いで助かる助からないというランク付けをする話じゃなくて、どこまでも私たちに浄土を願わせる、阿弥陀の浄土を求めさせようとするご方便である、そのために説かれた善根なんですと親鸞聖人は云い切るわけです、だから特別なお手立てなんですね。ですからこれを説かないと阿弥陀の浄土の教えを聞こうともしない、そういう人間のありようをようく見抜いた上なんです。ここにも二つのことがあるでしょう。「顕というは、すなわち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く」これは観経をお説きになるお釈迦さまのお心ですよね。でも気を付けておかなければいけないのは、それを実体的に捉えて私はこれだけやったから生まれるはずだなんてなると、それは違いますよと云わんならん。如来のご方便ですのに方便ということを知らずにそれを本当だと握りこむと危ういということも同時に云っておられるわけです。これが始めに云いました化身土巻を読むのが非常に難しい理由なんです。勧めて下さっているお言葉、それをそのまま鵜呑みにすると云うわけにはいかない。さっきの周利槃特の例で云えば、掃除をしなさいと云われて、ハイ分かりましたと真面目に掃除するのはいいんですけれど、私は三年もやって来たから私が一番でしょうみたいなことになってくると話が違う。その呼びかけを通して目覚めてほしいことがある。ここでは阿弥陀の浄土を求めさせるためのご方便であって、そこに居着いてしまってはいけないですね。それをまとめて「これはこの経の意なり。すなわちこれ顕の義なり。」顕の義を説くのがこの経の意なんです。敢えてこれを説かなければ、阿弥陀の浄土に向こうとしない人間を摂め取ることができませんものね。これ何回かお話ししましたが、本願文が大体そういう順序になっているのが非常に大事やとボクは思っています。18願があって、その次に19,20と来ます。19,20が真実に至らしめる方便であって、18願が目的なら18願の前に19,20とあればいいんですよ。でもそうじゃない、初めに結論を云う。念仏一つで誰もが助かるという18願のお心を云って、ただこれに頷けない者は除かれるという唯除五逆誹謗正法という言葉が付いています。念仏一つで助かるという教えなのですが、それに頷かない者はその恩恵に与からないということが云われています。でも除くと云って終わりじゃないですね。そういう者をなんとか引張りたい、なんとか迎えとりたいというのがその後に19願を説かなきゃならなかった阿弥陀仏のお心だと思います。漏らして終わりじゃないです。そういう者はなぜ漏れるかと云ったら、念仏を有難いと思わないからでしょう。こういうことが自分にとっての教えだといただけないからです。じゃあここからやれ、徹底的に善根功徳を積めと呼びかけて下さる。それを通してそれに破れるところにもちゃんと道があるということがいただけるんですね。一番厄介なのは善根功徳を積めと云われて、ハイ私は誰よりもやれてますというところにもし落ち着くとすれば、これはなかなか遠いかも知れませんね。本気でやれば必ず限界があるということが分かる。それはやる気の問題ではなくて身体に限界がありますからね。いのちは待ってくれない。30年やってもいのちが尽きていくことが起る。いのちの有限性ですよね。どこまでやればいいのかと。生きてる間に修行は完成しそうにないということが必ず来ますわ。その意味でさっきの自分から覚りを想定して近付いていく教えというのは、いつか、どこかで救いを得るという教えです。それに対して親鸞聖人の教えはいまここにある私にはたらいてくる如来の教えです。いのちは明日あるとも分からないですね。そういうときに10年後に必ず覚れる保証があったとしても身体は待ってくれませんからね。そういうときに善根功徳を積んでいつかそのうちにという教えでは間に合わんのではないかと問い返さずにはおれないというものを我々は持っているのですね。この辺顕の義ということで観経が文字通り言葉にしてね、我々に勧めて下さっていることなんです。彰の義
その中から願ってほしいこと、これを通して見出してほしいこと、これが次に「彰」という言葉で云われておりました。「彰というは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多・闍世の悪逆に縁って、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提希別選の正意に因って、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなわちこの経の隠彰の義なり。」なにがこの経の教説に隠されているかということなんですが、それは如来の弘願を彰している。これが一人も漏らさず救いとりたいということが弘い願いという字で彰されていますね。あらわすはこの「彰」の字です。「顕」じゃないですね。だから本願のことが直接説かれているお経じゃないんです。観経はどう見ても善根功徳をやりなさいということが説かれているお経なんですから。しかしそれを通して如来の弘願が彰わされているんだと云うんですね。そして利他通入の一心を演暢す。如来の他力のはたらきによって通入する。浄土に入って行くとも読めますが、親鸞聖人のお言葉の使い方からすれば涅槃に通入していく、仏さまの覚りにまで通じていく、こういうことが通入という言葉で云われていると思います。如来の他力のはたらきによって、本願のはたらきによって涅槃に至る、どんな者も涅槃に至る、そういう一心です。誰の上にも平等に起る一心なんです。私に起るんですけれども私を超えているような心であります。私に起るんですけれど、私が起したとは云えない。これが如来よりたまわりたる信心という言葉でも云われます。それをもうちょっと確かめて、「達多・闍世の悪逆に縁って釈迦微笑の素懐を彰す」と云ってます。提婆達多と阿闍世の悪逆、これは頻婆沙羅王を殺してしまう、それを助けていた韋提希も閉じこめてしまう、その事件を指していますが、それによって釈迦微笑の素懐を彰すと云っています。親鸞聖人はこういう字「咲」を書いておられますが「笑」という字と通ずるもんですから聖典はもう直してしまっています。咲はほころぶという意味ですね。もうちょっとすると桜もほころんできますが、ほころぶということがないと咲くことができません。笑うということもそういうことなんですね。頑なな心では笑えないですよ、やっぱり。心がほころぶということが笑いになって現れるわけです。通ずる字だそうであります。これは実際に韋提希が阿弥陀の浄土を願うということを観無量寿経で云いますが、その時ににっこりと微笑まれたと云うんです。それを親鸞聖人は素懐、もとのお心と書いています。一番云いたいこと、私はそれを云いたかったんだ、よく気が付いてくれたね韋提希ということがお釈迦さまがにっこり微笑まれた、そこに表れているというように親鸞聖人は受け止めたわけです。まぁこれは別の言葉で云えば出世本懐という言葉でも云われます。あるいは出世の大事と、一大事という言葉がありますが、お釈迦さまが何のためにこの世に現れたのか、その本当のお心が現わされたと云うんですね。ボクら出世本懐と聞くと、それは大経でしょうとすぐ云うわけですよ。勿論大経には阿弥陀の本願を説こうとするお釈迦さまの一番の根っこの心が現れているわけですが、観経もそうだと親鸞聖人は仰るわけです。ニコっと微笑んだ、それは一番云いたいこと、お釈迦さまがこの世に現れて一番伝えたかったことに韋提希が気が付いてくれたんですね。阿弥陀の国に生れますと。そうでなければ私は助かりませんということになったわけですよ。お釈迦さまがその気にさせたというように云えないわけじゃないですが、お釈迦さまがいなかったらそういうことが起らなかったのは確かでしょうが、お釈迦さまが韋提希の心に手を突っ込んで無理矢理にその気にさせたわけじゃないです。やっぱりいろんな世界をお見せになって、どうなったら本当に助かるのということを吟味なさった。その中から私は阿弥陀の世界、一人も漏らさない、もっと云えばいろいろ問題を抱える中にも道が開けるということでなければ、家族もガタガタですしね、お城も壊れそうになっている。国が解体しそうになっている時ですから、問題をきれいに片付けてからの救いでは間に合いませんということです。それがさっき云うた話ではいつかそのうち、問題を片付けてから解決しましたというんじゃなくて、問題抱えている真っ只中で救われる、いまここの救いということを韋提希が気が付いてくれた。それがお釈迦さん一番云いたかったことやという、こういう言葉なんですね。これが提婆達多と阿闍世の悪逆、ただの悪逆で終わらずに、韋提希が阿弥陀の浄土を選ぶことになったと云うんですね。そこにお釈迦さまの出世本懐が現わされたということを微笑の素懐を彰すと云っています。ここの「彰す」は顕彰隠密の彰の字です。これは文字では出世本懐とは書いていない。大経の方はね、「如来、世に出興したまう所以は」とちゃんと書いてありますね。文言として出てますわ。でもこちらはニコッと微笑まれただけなんですけれども、そこに出世本懐が現れたと宗祖は見ておられる。そして「韋提別選の正意に因って」韋提希が別して選ぶと書いてあります。韋提希は始めは楽になりたい、憂い悩みのない所に行きたいと云っています。これ善導大師は「通請」と云っています。「通じて請う」です。後に阿弥陀の世界でないと助かりませんと云ったのは「別選」と云ってます。通じて請うというのは我々日常的なことで云えば、幸せになりたいなぁとかね、面白いことにないかなぁとか、どうやったら喜べるかなぁとか、そういうのみな通請ですわ。でもその中味を知らないことが多いんですね。ここに自分のやりたいことがあったか、自分が求めていたのはこれだったのかと、それが見つかることが別選です。韋提希は始めは楽になりたいと云っている、これ通請です。しかし本人も分からない、どうなったら救われるかが。阿弥陀の国でしたと云う、これが別選になるんですね。だから自分の救いとか満足ということが明確になったということを云っているわけであります。でも「韋提別選の正意に因って、弥陀大悲の本願を開闡す」と云っているでしょう。韋提希が選んでくれたことによって弥陀大悲の本願が開けあらわされたと。いくら本願があっても、それに気が付く人がいなかったら、その教えは空中に消えて行くんですよ。あ、こんな世界があったんですねと云う人に阿弥陀の世界ははたらくと云っていいでしょうかね。この云い方は逆でしょうか、はたらいているにも関わらず気が付かずに生きている、それが我々の日常なのか知れません。こんな世界があったんですねと韋提希が選んだものですから、そこに韋提希の上に本願が現れることになりました。実際問題そうですわね。これも学生とのやりとりの中でボク何遍も経験したんですけれど「阿弥陀さんてどこにいるんですか」とか「浄土なんて見えないので信じられません」ということをよく聞かれます。でも目に見えるものだけで我々生きているわけじゃないんです。例えば希望とか未来とかね、これ形にして出すことできませんわね。しかし希望とか未来のないところに我々は今日何をしていいのか分からないんじゃないですか。明日が見えなかったら今日生きる気力さえ萎えてしまうかも知れないですね。希望とか未来は言葉で説明できても目の前に出すわけにいかない。だから目に見えるものだけで生きてるわけじゃない。阿弥陀はどこに居るかと云えば阿弥陀を念じている人のところにあるんですね。韋提希は初めてそこで別選、選んだというところに阿弥陀の世界とつながった、あぁそんな世界大事ですねぇということになったんですね。そういうことを善導大師の言葉を承けながらですけれど韋提希が別に選んだという、その正しきお心によって弥陀大悲の本願を開闡す、だから選んで下さる人がないときには弥陀の本願は現れようがない。はたらきたくてもはたらけない。曽我量深先生のお言葉にありますね、これはロスアンゼルス別院で残された言葉でありますが、仏さまのことをやさしく教えてくださいというお願いに対して、仏さまとはどんな方ですか、我は南無阿弥陀仏と名告っておいでであります。その仏さまはどこにいらっしゃいますか、南無阿弥陀仏と称える人のところにおわしますと書いておられます。称える人のところへ仏さまは来て下さるんやとちゃんと云ってますね。あとそれをどうやって念じたらいいのかということが三つ目にあるんですがね、ひと言で仏さまのことをいただけるお言葉を下さいというのに、その三ヶ条を残して曽我先生はロサンゼルスから帰ったそうです。今から思えば先生80半ばにしてロサンゼルスに行って、亡くなる10年ほど前のことですからね、まぁすごい話ですけれどね。だから念ずる人抜きに阿弥陀さんを探しても無理です。ここでは韋提希が別して選んだという、そこに生きてはたらく阿弥陀仏がある。或いは本願のはたらきがあると親鸞聖人は見ておられる。「これすなわちこの経の隠彰の義なり」と云っておられます。これが言葉として表に出ていないけれども、お釈迦さまが経文を通して気が付いてほしい、なんとか出会ってほしいと遺して下さったお心だという意味です。親鸞聖人が経典を見ていくときには顕の義と彰の義の二つの視点で見て行かなければならないということを教えて下さっているわけです。例えば観経なら書かれた文字だけ見れば善根功徳を勧めている経典にしか見えません。殆んどの方々はそう読んだ、善導以外はね。聖道門でもそう読んでこられましたし、親鸞聖人は比叡山でも観経は何回も何回も読んでおられる。それはどこまでも修行を積み重ねていくための経典として見ておられた。ところがそうじゃなかったと云うんですね。そのことを通して私たちに出会わせたいこと、ここでは弥陀大悲の本願を表わすためだと受け止められているわけです。この視点でこのお経を読むと、次に13のお言葉が出て来ます。13文並んで出てきますが、それがどのように見えるかということも親鸞聖人は指し示しておられるのですね。そこへ入って行きたいと思います。
善導大師の本願加減の文
「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」前半だけ書きましたが、もし我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下(しも)十声に至らん、もし生れずば、正覚を取らじ、と読みます。つまり私が成仏するときにですね、十方の衆生、衆生というのは迷い苦しむ者ですが、私の名号を称えること、たった十遍でもいいんだと云います。下とありますが上は一生涯の念仏ですよ。下はたった十編の念仏でもいい。それでもし私の浄土に生まれることがないならば、私も正覚を取りませんと云うてます。大経の第18願は「設我得仏 十方衆生」でこちらは「設我成仏 十方衆生」ですから意味的にはそんなに大きく違いませんね。次はどうですか。「至心信楽 欲生我国」を善導大師は「称我名号」という言葉に変えて、「乃至十念」を「下至十声」にされます。称えると云いましたから十念を十声と声にしておられます。そして次の「若不生者 不取正覚」は変わりません。なぜ善導大師はこういうふうにお経の言葉を勝手に変えるということをなさったのか。そして法然上人はその言葉を大事になさったのか。これを少し考えておく必要があるんですよ。さっきも云いましたように私たちは浄土の教えを聞いてもなかなかそっちに向こうとしません。善導大師、法然上人はとにかくそちらの方向に私たちが向くことが大事だと強調なさった方です。そっちに方向さえ決まれば後は自ずと苦しみを超えていくことができると仰るんですよ。だからまず仏の方向に向くこと、浄土の方向を向くこと、これをお勧め下さることに生涯を尽くされた方なのです。この「称我名号」はどこに出て来るかと云いますと、大無量寿経には十遍ほど南無阿弥陀仏を称えるということは出て来ないんですね。これもえらい細かい話に聞こえるかもしれませんが、どこにあるかと云うと、実は観無量寿経の中に出て来るんです。善導大師はこの観無量寿経を大変よく読まれた方でして、そこから来ているわけなんですね、聖典120頁をご覧いただきたいと思います。「仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「下品下生」というは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を見せるかくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。」と書いてあります。観無量寿経というのは上品上生という生き方をする人から下品下生という生き方をする人まで9通りの人間の生きざまをじぃっと見ている、そんな経典です。それは決して上品上生がまともな仏教者で下品下生がダメだと云うんでなくて、上品上生はそういう縁に遇うた人である。仏の教えをよく聞き、戒を持ち、善根を積み決して教えに背くことのない、そんな人です。中品になりますと教えをよく聞くとまではいかないけれど、世間で云われる善根功徳を大変よく修めるという人たちです。下品になると善いことを成し遂げるご縁に遇わなかった人だと云うんです。だから縁の違いによって上品上生から中品、さらには下品下生まで九通りの生きざまがある。そのように縁の違いによって、どんな生き様をしている者であっても、必ず迷い苦しみを超えて行く道があるということを観経は云おうとするのですよ。勿論これ善導大師の受け止めです。
ここにこう書いてあるでしょう。今まで悪を造ってきたのだから「悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし」と。きっと地獄に落ちるのに違いないんです。そうなることが決まっているんです。そんな人が善知識に遇うとどうなるかということが書いてあります。今まではたまたま縁によってそんな生き方をしてきたかもしれない。しかしそれを見直す機会を与えられたならば苦しみ悩んで死んでいくのじゃなくて、自分の一生を受け止めて命終って行くことができる。そういう世界があるのだということを書いているのですよ。「かくのごときの愚人命終のときに臨みて」とあります。この命終が大事です。いよいよ終りにならないと今までを問うことにならないんですね。また今度と云うている間は問われるということがなかなか来ないですね。いよいよ終わりやとなると、オレの一生これで良かったんやろかと、こういうこと問われるわけですよ。命終というのが大事なんですよ。ボクは枕勤めに行く機会はなかなかないんですけれど、うちの住職から聞くと、あの頑固な人がとかね、あの欲張りが最後にはこういうことを云いましたということを家の人から聞かされると云うんです。臨終の一念というのはお経に書いてある通りに重いもんです。自分の一生の最後の最期にこれで良かったのかということをどっかで云いたい。それがなければ死んでも死にきれないんですよ。そういうことをボクは住職から聞きますけれども、それも一つの象徴的な出来事ですね。最期にならんと仏法に目が向かんかも知れません。「善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん」善知識が念仏せよと教えるんです。ところが「この人苦に逼められて念仏するに遑あらず」と書いてあるでしょう。つまり苦しくて、あるいは身体が痛かったり、不安に苛まれたりしていて、心を落ち着けて仏を念ずるなんてことが出来ないと云うんです。ここでいう念仏とは精神を集中して心を落ち着けてする念仏のことなんです。その心を落ち着けての念仏がそんな暇ない、そんなことできないとなると、どうなるか。「善友告げて言わく『汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし』と。」念仏ということと称名ということの違いがはっきりとここで出ているのです。念仏は仏教の常識で云うと天台宗の比叡山でもされているようなことで、その場合は精神を穏やかに保って、晩飯のことや世間のことを離れて仏をひたすら念じ続ける。そのためには、まず精神を集中するところから入るのです。ここではそうではなくて、無量寿仏ということを十遍ほども称しなさいと云うんです。観経の念仏というのは観想念仏とも云われるものですが、こころ静かに仏のことを思い浮かべることなんです。このような観想念仏をする暇のない、出来ない者には称名を勧めるんです。「かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。十遍ナンマンダブツと称えさせる。私について一緒に云おうということかも知れませんね。ナンマンダブツと一緒に云おう、と。その念仏の声を通して、あぁこんな世界があったのかということを初めて気が付かさせていただくことができる。これは苦に逼められて遑のないものにおいても成り立つものだということを観経は云っているのだと善導大師は仰っている。善導大師はここに中心を見られるんです。観無量寿経は上品上生の人も修行を重ねて迷いを超えたように見えるんですけれども、念仏したということが大事なんだと云うんです。下品下生の人も今まで善いことをして来なかったけれども善知識に伴って念仏した、このことによって私は私で良かったのだという世界に出会うことができる、と云うんですよ。だから善導大師は必要なのは立派な功徳を積むことでもなければ、お経を全部読み切ることでもなければ、世間で褒められる善根功徳を積むことでもないと云うんです。十遍ほどの念仏をするかしないか、これが我々が迷いを超えるか超えないかの別れ道だと云うんです。ですから善導大師はここを踏まえて、先程の第十八願の文、至心信楽欲生我国ですから、いつでも信じ願って我が国に生れようとする人間にならなければならないように読めてしまう。しかしこれはそういうことを我々に要求しているのではなくて十遍ほどの念仏を称えれば誰でも間違いなく浄土の方をむくことができる。そして自分の一生を改めて受け止めてそこに安住していける道が開かれるのだということを云おうとしているんだと思うんですね。ですから観無量寿経の心を通して本願文を読み直した、読み替えたと云った方が良いでしょうか、これが善導のお仕事なんですね。お経を変えるというのですからすごい話なんですが、、善導はこう云わないと、どうも念仏がこっち側(観想)に取られるという危険性を感じていたのです。これだったら結局精神を集中する暇がある人だけの話になるんです。苦しみや痛みでなんとも出来ない者にとっては遠い話になるんです。でも一声でも良い念仏するところに、あっ忘れていたけれどもこういう世界があったと思い出されれば、いつでも私たちはそこへ帰ることができる。だから私たちがいつでも仏法を喜ぶ気分になるとか、心がけが良くなるとか、そんなことをボクらに期待していないわけです。反対に云えば、そういう気分は有る日は有るかもしれませんが、有ったり無かったりする気分を根拠に助かろうというのは大間違いでして、仏がナンマンダブツと呼び掛けて下さる、このことを通してあぁそうだったというふうに思い出す、これがまたナンマンダブツです。そういう意味で読み替えられたのですね。善導大師の本願加減の文と呼ばれています。加減というのは加えたり減らしたりです。つまり善導大師が加えた文字は「称我名号 下至十声」これ増やしましたね、本々ない文字です。減らしたのは「至心信楽欲生我国」です。だから本願加減の文というと、あぁこのことだなぁということを共有することができる便利な言葉です。
曽我量深の本願還元の文
でも曽我先生がね、これは加減をしたというようなことと違うと仰ってね、本願還元の文だと云うておられました。本願の大本の心に戻したんだと云うんですね。つまり本願48願あるけれども、その大本の心はなにかと云えば一人も漏らさず救いたい、これが大本の心だと云うんですね。それをはっきりさせるために大経の至心信楽欲生我国であるのに我々がなんか立派な心掛けにならねばならないように取られていく、そういう誤解を招くことがあると。それを称名という一点に押さえ込まれたと云われるわけです。だから本願加減の文、これで一人も漏らさんということです。ここではっきりするんですが、称名念仏というのは決して口に出して云う音の話じゃありません。誰もが出来る、どこでもできる、どんな状況でも出来るということを表している。それがこの称名という形なんですね。あんたの称名は声が小さいとか、何遍称えなければとかいうのは称名の精神じゃない。称えるところ、あぁそうだった、浄土を向いて生きるんだと、浄土という世界が与えられているんだと思い出させていただく。還って行くべき世界を教えられるわけです。阿弥陀経のお言葉で云えば「俱会一処」ということを思い出す。これはある意味で浄土を一言で言い表す言葉だと思います。みんな還るところは一つだよということでしょう。俱に一処に会すると書いてあります。私たちは日頃の生き方どうでしょうね。同じところに還って行くなんて嫌なんじゃないですか。あの人と一緒は嫌やとかね、自分だけ選ばれた特別な利益をいただきたい。ところが浄土というのはそうじゃない。みんな還るところは一緒なんです。金があった者も、力があった者もみんな還るところは一緒なんですよ。昔の人はみんな土に還るんやという云い方をしました。どんな者もです。私らの還るべき世界はそこしかないということがはっきりすれば、隣を見て勝ったとか負けたとかいう世界から解放されることが今始まるのです。ボクらが還る世界をあの人とはちょっと別のところへ行きたいと思うもんですから最後の最期まで勝ち負けで争わなければならないことになるんです。俱会一処が自分の還るべき世界だと見えるということは、いまの生き方も変わるでしょ。ところがさっき云う称名を通して見る世界は一つの表現です。どんな世界に還るんかと云うと、善いことができた人も、今まで悪事をはたらくような縁しかなかった者も還る世界はみな一つや。つまり私は私の人生やったということを本当に受け止めてそのいのちを生き切って行くことができる。これが称名のところに与えられる利益だと思います。だから一遍の念仏でも良い、それを通して阿弥陀仏の浄土、例えば俱会一処といわれるような世界に触れるということが大事なんですね。これが善導大師の、曽我先生流に云えば、本願還元の文を通していただかれるところであります。ですからどこでもいつでもどんな状況でもすることができるのが称名です。そのことを通してあぁそうだったなぁと、どこに還るのか忘れとったなぁと思い出さしていただくのが称名の利益なんですね。加減の文の後半
さっきちょっと話が途中になってますが、教行信証後序にはこれ以上触れませんけれども、加減の文後半の三句は聖典399頁「彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」彼の仏今現に成仏してまします、今現在に成仏したまえり、と云ってもいいですね。まさに知るべし本誓重願虚しからざることと。衆生称念すれば必ず往生を得、と書いてあります。これは法蔵菩薩の本願がもう既に成就しているということを語った、大経で云うと下巻のことを押さえている言葉なんですね。ですから称えれば必ず生れることができるというこれは本願文ですが、それが虚しくないぞと、阿弥陀仏は成仏しておられるんだから我々が称えれば必ず往生を得る、迷いを超えることができるということは間違いないと、こういうことをお勧め下さっている、そんなお言葉なんです。善導大師は繰り返したった一声の念仏でもいいから仏のみ名を称える、そこに我々は今までの生き方を翻して浄土の方に向う人生が始まるのだと云うんです。本当に俱会一処の世界に還って行くような生き方になるのだと云っておられる。それがなければ善い悪いの世界に巻き込まれるのみであります。これが念仏往生の願、もっと云えば称名念仏によって間違いなく往生するということを誓った願として読んで来た善導大師、そしてそれを承けた法然上人のお仕事なんですね。ところがこのことを親鸞聖人は大変大事になさるでしょう。にもかかわらず今度は善導大師が落とされた至心信楽欲生我国というところをもう一回着目なさるのです。教我観於清浄業処
聖典331頁後ろから四行目「ここをもって経には」という言葉から始まります。顕と彰という二つの表わされ方があるということを押さえた上で経典のお言葉を全部で13引かれます。一つ目が「教我観於清浄業処」と言えり。経典では93頁。これは浄土を欣う縁、欣浄縁と云われるところが92頁の後ろから3行目から始まってますが、宮殿の奥に閉じ込められた韋提希がお釈迦さまに先ず愚痴を云いました。その後段落を設けまして「やや、願わくは世尊、我がために広く憂悩なき処を説きたまえ。」これがさっき云いました憂い悩みのない世界を説いて下さい。私はそこに行きたいんだということを「我当に往生すべし。」と云っています。「閻浮提・濁悪世をば楽わず。」閻浮提というのはこの娑婆世界です。ヒマラヤの南にあるので南閻浮提ともいわれますが、「濁悪世」濁りに染まって傷つけ合うことが繰り返されているそんな世界もう嫌ですと云ってるわけです。「この濁悪世は地獄・餓鬼・畜生盈満して、不善の聚多し。願わくは我、未来に悪声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かいて、五体を地に投げて、求哀し懺悔す。唯、願わくは仏日、我に清浄の業処を観ぜしむることを教えたまえ。」こう云うんですね。ここも云い出したらいろんなことがあるんですが、例えば私は人を罵るような声も聞きたくなければ、悪人も見たくありませんと云ってます。そしてお釈迦さまに五体投地して求哀し懺悔してますと自分で云ってるのです。お願いですからと云うわけです。パッと見もここまで来ると計算高い心が見えますね。私ここまで求めているんですからみたいな。お経ってなかなか細かいなぁ、深いところを説いて下さっているなぁと思います。でもちょっと悪い云い方をすれば取引ですわね、お釈迦さまに対して。ここまでやってる私にぜひとも教えてください。その文脈の中で清らかな業の処を見ることを教えてくださいと云っているんですね。だから濁悪世とかね、地獄・餓鬼・畜生が溢れているようなそんな世界でなくて、清らかな世界を教えてほしいと云ってます。でもここは韋提希がもうこんな世界嫌です、もうちょっといいところへ行きたいですというふうに云っている、まぁそんな言葉とも読めますよね。でも親鸞聖人はそこをどう解釈されるかです。まぁ善導大師はここに韋提希の本心が見え隠れしていることもちゃんと云っておられます。しかしそれが実は本心が噴き出したこととして、この一段を真心徹到とも押さえるんですね。この娑婆世界では助からない。まことの心が徹到したと。真心徹到というと私たちは本気の一所懸命のね、求めている、そういう姿を思い浮かべるかもしれませんが、本心が出たということが大事なんですよ。だから真心徹到したからと云っていきなり仏教に入門するというようなわけにいかない。家を飛び出すだけかも知れませんね。しかしそこにいままでのことでは満足できないということが噴出する、このことが大変大事なんだと思います。これを善導大師が真心徹到と云っている、そのお心をいただいて親鸞聖人は先ほどの解釈に移って行くわけです。もう一遍云いますが、ここには非常に計算高い心も動いているのです。その心の奥底にある要求が噴き出したという意味で真心徹到と善導大師は押さえられ、それを踏まえて親鸞聖人の解釈になるわけです。もう一遍戻りましょうか。「教我観於清浄業処」ですから、普通には私に清らかな業の場所、傷つけ合うことのないような、悪口も聞こえないようないい処を教えてくださいと云っている、まぁそんだけの言葉なんですよね、本々は。しかし親鸞聖人はそれを「清浄業処というは、すなわちこれ本願成就の報土なり」と云うわけです。こんなこと全然書いてありませんよね。阿弥陀仏の本願が成就した、一人も漏らさず救いたいという本願に応えた報土であるという云い方をしています。いろんなことがここで思われますけれども、本心が噴出したというその問いに応えるのは本願成就の報土しかないということを親鸞聖人は仰って下さっているようにも思います。韋提希は直接にはこんな処嫌ですと云っただけなんですが、その願いに本当に応えるものは本願成就の報土しかないとも読めますね。韋提希は意識の上ではとてもそんな本願の阿弥陀の世界を求めているわけじゃない。それはもうちょっと後です。それを前倒しして本心の噴出したところにこういうことを当てておられる。まぁこれが善導の真心徹到を受けての親鸞聖人のお言葉やと思いますね。
ボクは学生時代に安田理深先生の聞法会に四年ほど寄せていただく縁があって、まぁある意味で自分とすると真面目に勉強しに行っているつもりでした。云い方かえれば、そこに行っている時だけなんか勉強したつもりになって帰っていたわけです。ところが安田先生の相応学舎というのは、今も同じ場所にありますけれども、紫明通りの烏丸という広い通りから一歩入ったところですから車の音がよく聞こえるわけです。普通の車の音なら全然気にならないんですけれど、金曜日の夜とかになるとバリバリいわして走る暴走族が来るんですね。ボクはこっちは勉強しているのにうるさいなあと思っていたら、安田先生がひと言なんと云うたか。「彼等も本物を求めて走っとるんじゃないかね」と仰った。へぇと思いました。その後「キミらも家に居れんからここへ来たんやろ」と云われた。えぇっと思ってね。一緒にせんといてほしいと思ったんですけれど、「キミらが家を出たということが仏法なんや」とこういう云い方をしておられました。ここへ来て何か掴んで返るのが仏法と思ったら大間違いやということなんですね。キミらを促して家でジッとしておられんと押し出したものが仏法のはたらきなんやとこういうことを仰ってました。ボクは仏法のはたらきでそこは来ているつもりは全然ないもんやから、始めは分からなかったんです。でも彼らも本物を求めて走っとるんやと、その言葉と通じ合いましてね、成程この善導大師が仰る真心徹到とか、韋提希の求めたことは本願成就の報土としてしか答えられないんだということを仰って下さっているように思うんです。つまり偽物とか中途半端なことで落ち着かないんですね。本当にこれだったかということに出会うまでは、我々は求めることが止まらない、落ち着けない。そういうことを仰っている言葉だと思います。でもこれ観経を文字だけ追っていたのではとても見えませんよね。お話しの中では清浄業処、清らかな世界を求めたのですね、というだけのことですから。しかしその根源にあるものは何かということを仰ろうとしていると思います。だからさっきは顕と彰というのはお釈迦さまの教えで、中に言葉として表されたものと底にある深いものということでしたけれども、顕と彰は実は人間の思いの方にもあるんじゃないでしょうかね。表に現れていることと、その言葉の中に本人も分からんような形で渦巻いているような本当の欲求が形をまだとっていなくても動いているということです。この韋提希の求めた言葉は本願成就の報土しかそれに応答するものはないというのです。念のために云いますが、私は本願成就の報土を求めてますという話じゃない。そんなことを表向きに云われたら、また本気かと云わんならんところで、怪しいわけです。しかしどんな者の中にも本物を求めて止まない心が動いておるということですね。清沢満之先生の言葉で云えば、人心の至奥より出ずる至盛の欲求ですね、人の心の最も深いところにある、最も盛んであるような欲求、このために宗教はあるんだと云うんですね。中途半端なことを満たすためにあるんじゃない、パンとか国家のためとか職責のためとか、そんなもので人間は落ち着かない。いくらそんなものが役に立ったとか、意味を見出したと云っても、一時的だったりするんですよ。大勢が変れば、状況が変れば失われてしまうようなものです。その深いところの欲求、そういうことと通じ合う言葉だと思います。この辺が観経をどう読むかということを、いくつかの文章を挙げながら親鸞聖人ご自身が確かめて下さっているわけですね。
教我思惟、教我正受
続いて「『教我思惟』と言うは、すなわち方便なり。『教我正受』と言うは、すなわち金剛の真心なり。」これは93頁観経にある「唯、願わくは世尊、我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ。」というお言葉です。これも善導大師が非常に注意をしておられて、普通はこれどう読むかと云えば、思惟は散善を指すのです、聖道の諸師がそう読んでいたように。正受は正しく受けるということですから心を落ち着けて三昧に入って行う善、浄土を観る観察、これを求めたと云うわけです。でも善導大師は違うと云うんです。悉く先人の観経理解を覆していくのが善導大師のお仕事なんですが、何故そう云われるのかと云うと、韋提希はそれに破綻しているんですよ。つまり善い人間として立派なお妃として生きようとしてきた韋提希は善悪が粉々になっているわけです。いま何に救いを求めているかと云ったら、宗教なら助かるかも知らんと。こういう思いです。つまり日常生活に破綻したものが敢えて日常における善なんていまさら求めない。こういう視点が善導にはあると思います。だから宗教の世界に入ればということです。つまり日常ではうまいこと行かんかったけれど、宗教に入ったら、そこではまぁうまくやっていけるかも知らんという思いです。宗教別枠論と云った人がおりましたけれど、私たちにとっての宗教というのはいつも日常生活とは別の次元とかね、別の枠で考えようとするんじゃないんですか。本当の宗教は日常生活にまではたらいて来なければならないはずです。でも日常に不満を抱えていたり、うまいこと行かないとなったら、別枠に逃げ込んだところに救いの境地があるように夢を描く、韋提希はそういう状態にあったと思います。だから善導は聖道の諸師の読み方は違うと云うんです。これは観前の方便と云いますね。観察に入って行くための前段階を開いただけで、正受が観察そのもの、定善のことでありますけれど、これを求めたんだと云うわけです。韋提希は思惟も正受もどちらも日常を超えた観察の世界、宗教的世界を求めたんだと云うんですね。なんでそんなことを態々云うのかと云えば、散善というのは人間が求めるようなものじゃない。それなら私の方が詳しいみたいなもんですわねぇ。わざわざお釈迦さまに聞かんでもいい。日常的な善悪の世界は前から知っているからです。しかし敢えて韋提希が求めてないところに散善を説いてゆく。これがお釈迦さまのお仕事なんだと善導は云うわけです。実際いまの経文の後ですが「その時に世尊、すなわち微笑したまうに」と親鸞聖人は微笑の素懐と受け止めていますけれども、ニッコリほほ笑んだだけです。その後に何が説かれるか、94頁に行きますが、ここに散善が説かれます。こういうところに善導は着目したんですね。聖道の諸師方もここに散善が説かれているということには同意見ですが、でもこれは韋提希が求めていないのに仏自らが開きたもうた、あるいは仏自らがお説きになったという、仏自説という言葉があります。求めてないのに説いたのですね。ということは、あなたは宗教を別世界のことのように求めるかも知らんけれども、実は日常生活の中で生きてはたらく、それが一番大切なんだというところから押さえていかれるわけであります。定善の前段階を求めた、観前の方便、これが善導の受け止めなんですね。お釈迦さまが自らこれを説いて下さったということを押さえ切っているのが善導の受け止めだと思います。これがあるもんですから親鸞聖人は更にそこを徹底させていく、ちょっと善導とも違う表現になさるんですがね、こんな言葉になっていきます。331頁のところですね。「『教我思惟』と言うは、すなわち方便なり。」これは観前の方便という言葉とも重なりますけれど、もっと云えば、どうやったら助かるのかということを先ず求めたということですね。それによってその助かる道はここにあったかということが正受という言葉に見ておられる。これも正信偈にちゃんとありますね。行者正受金剛心、とね。あそこと響き合っている言葉です。正受は観察の方法じゃなくて観察を通して本当にいただけるものは何か、それは金剛の真心だと、ここまでさらに進めて行くわけです。善導の意(こころ)に依って観経を読みますと云ってますけれど、善導の云っていることをそのままというわけではないですね。おうむ返しに繰り返してるわけじゃないです。この辺が親鸞聖人の読み方のすごいところで、これ決して善導の意に背いてるわけではない、全体を通してさらにそれを凝縮すると、要はここにあるとなってくるわけです。さっきの教我観於清浄業処という言葉にしても善導はここまで云っていません。本願成就の報土なんてそこまで云うてない。これは観察が成就するというような話じゃなくて、ここに本当に我々が正しく受けるものは何かと云ったら、金剛の真心を頂戴するのだと親鸞聖人は読み切っていくことになります。こういう形で13の言葉がずうっと出て来るのですが、一つづつ善導の言葉はどうなっているか、それを親鸞聖人はさらにどう云うのか、その辺をね、丁寧に見るときには注意をしなきゃならんところであります。そういう意味で観経疏を見るということがどうしても必要になってくるんですが、あんまり細かい話をずらずらしてもいけませんので、親鸞聖人がそれをどう受け止めたかというところに止めて話をすすめたいと思います。金剛の真心
先ほど真心徹到という言葉がありましたが、親鸞聖人はこの真心という言葉を非常に大事になさいます。これを金剛の真心と云っているわけですが、まことの心、まぁ基本的に人間にこのまことという言葉は使わないんですね。ボクは一楽真と云う名前なんですけれど、これは嘘ばっかりが多いからせめてもということでつけられた名前ですけれど、親鸞聖人の著作を見てみるとまことという言葉は人間には使わない。如来にしか使わない。だから私に起った心でも如来からのこころだということをまず云おうとしておられます。それであるからこそ金剛、つまり何があっても壊れない、どういう状況に投げ出されても失われることはない、それがダイヤモンドに譬えて云われます。云わばこれは世間を生きていくときに、一度仏法に頷いたとしても心が折れそうになることもある。前はあれ程喜んでいたのに最近喜べなくなったということがある。それが世の中を生きる厳しさですよね、そういうことに関わって金剛の真心ということを親鸞聖人は非常に大事になさいます。信巻序文との関連
特にこれは信巻の課題なんですがね、何故金剛心ということが成立つかと云うと、如来より賜わる心だからということを押えていかれる。この世にありながら仏道を歩むことを失わない。私に起きるけれども、如来からいただく心が私を歩ませるのだということなんです。いまもう化身土まで来てますけども、例えば信巻の冒頭に出て来ます。信巻は何を課題にしているかと云えばね、まぁ信心が課題だと云ってもいいんですけれど、もうちょっと押えて云えば金剛の真心としての信心を明らかにしようとしています。聖典210頁を開いていただきますと「それ以みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。」とあります。信楽も真心もどちらも信心のことなんですが、敢えてこんな言葉で書かれます。信心という言葉は行き亘ってますし、誰でもがあぁと頷き易い言葉でしょう。それに対して信楽とか真心はちょっと難しい。しかし敢えてそれを使うということは信心と云ったんでは誤解される恐れがあると親鸞聖人は思っておられた。信楽は第18願にある言葉です。真心は善導の真心徹到の中にある真心です。だから信心を本願の内容を表わす信楽という言葉と、金剛の真心を意味する真心という言葉で表しておられます。大事なのは両方ともこれは如来のはたらきによると云っておられます。阿弥陀如来の本願のお心より起るのだと。「より」の字が「自」おのずから、みずからという意味です。人為的ではなく、本願の心からおのずから起るというのです。真心の開闡、これは観前の方便とまことの心が人間の上に開きあらわれる言葉ですね。「大聖矜哀の善巧より顕彰せり」大聖はお釈迦さまのことです。矜哀は衆生を哀れむ善巧方便から顕彰するんだと云ってます。ここに顕彰という言葉がすでに出ているわけです。我々いま化身土巻を読んでいますが、信巻の序は化身土の方便をも視野に入れて云われていますね。信巻だけの序文じゃないですね。顕彰ということは化身土を説かなくてはいけない。化身土を説かないとこの金剛の真心は明らかにならない、そういうことまで視野に入っていると思います。「しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。」末代というのは末法の時代、無仏の時代を生きる出家の者も在俗の者も、近世の宗師、特に近頃の人から師匠と仰がれているような人を名指しで挙げていますね、それが浄土の真の証(さとり)を貶(おと)しめている。つまり浄土は誰の上にも成り立つ本当の迷いを超える道であるのに、本当の仏教からは一段劣っているみたいに云うわけです。これが貶めるということの実際です。その根拠は自性唯心でしょう。これは難しい言葉ですけれど、始めの自と終りの心で自心です。自分の心です。分かり易く云うと我が計らいで浄土の教えなんか本当じゃないと云ってるんですね。自分の掴んだものを正しいと思いこんで、浄土の教えをバカにしている。これが末代の道俗も近世の宗師も皆そうなっているということですね。もう一つが「定散の自心に迷いて」ここにもうちゃんと定散という言葉がありますが、定善散善を修めようとする自らの心、そういう計らいの心に迷って結局「金剛の真信に昏し」、ここは字を少し変えていますが、金剛のまことの信に昏しと云ってます。何が本当に仏道を歩み続けることができる金剛心なのか、そういうことが分からないんですね。云わば自分に根拠を置こうとするわけです。私は分かっている、やれている、善を積んでいると自分の真面目さに根拠を置くことによって本当の意味の金剛心が分からないんです。さっきも云いました、金剛心は如来のはたらきによる、如来の心であります。それが私たちを歩ませる、導くわけであります。それを自分が迷わないようになろうとするのです。これは人間の根性で当たり前かもしれませんが、立派な者に成りたいという真面目な心は誰の中にもあるんです。折角勉強するんなら、勉強する前よりもちょっとでもましになりたいという根性がある。こういう進歩的な向上的な発想で仏教を捉えるわけです。それは悪く云うと、自分がブレないような、もう二度と迷わないような立派な者に成ろうという心でしょ。そこには私はやればできるんだという心が必ず具わっていると思います。でもそれは本当かと問うたのが親鸞聖人です。ですから金剛心はどこまでも如来のはたらきによってブレないことが成り立つのです。私はいくつになっても危ういんですわ。何年聞いておってもすぐに世間の迷いの中に巻き込まれていくようなものを抱えているんです。これは信巻の序ですけれど、ここからずうっと化身土まで貫くようなものが見て取れます。「ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く。」三部経の光沢を受けて、併せて浄土論、三経一論を特にいただいて行きます、その時に「しばらく疑問を至してついに明証を出だす。」これは信巻に二つの問答が出ます。同じく化身土にも二つの問答があります。疑問というのは化身土の疑問も包んでいると思いますね。だから信巻の序文ですけれども、信巻限定ではなくては化身土巻まで及ぶ序文だと見ることができるんですね。この辺が曽我量深先生が信巻以降を親鸞聖人の己証の巻だと仰った大きな理由であります。教行二巻は伝承の巻だと仰いますね。後の四巻が己において証(あか)しした親鸞聖人の己証であると仰います。これが曽我先生の教行信証を読んで行くときの大きな視点です。ただまぁこれは答えとして仰るわけではなく、こう読むことによって信巻以下の課題が明確になると云うんです。伝承はどういう仏教に出会ったかということでしょ。お釈迦さま、そして七高僧、これが伝承です。最期に正信偈が置かれていますね。これがご自分が出遇った仏道を詩にまでして下さった。曽我先生は伝承の巻の終りだから正信偈が置かれていると見られる。ご自分が何を問題にするかということがあるから己証の巻の冒頭、信巻の始めに序が置かれている。こんなふうな着眼をしておられるわけですね。そうしなきゃならんと云ってるんじゃなくて、こう読むことによって見えることがあると仰ってます。ボクは直接聞いたわけじゃないですけれど、それを受け止めた安田先生がよく仰っていたのが、己証なき伝承は習慣だ、悪しき習慣だと仰ってました。つまりお経にこう書いてるからとかね、先人が云うたからとか、自分の責任何もないです。自分を通してということがあってこそその伝承は生きたもので、己証なき伝承は唯の習慣だと仰ってました。しかし逆に伝承なき己証は独断だと仰ってました。自分勝手にこれが仏教だといくら云うて見てもそれはただの独断。やっぱり先人たちが証ししてこられたという伝承がとっても大事だということを仰るんですね。そういう曽我先生の着眼を承けて、信巻の序が化身土巻まで一貫しているというふうに見当付けをしておきたいですね。そしてここに、字はちょっと違いますが、真信という言葉が置かれているということを見ていただいて、これが何によって成り立つかということを如来回向として押える。それがどういう利益を我々にもたらすかということを信巻ではちゃんと云っておられます。そのことが如来の方便によって我々に恵まれることが今度は化身土の問題になってるわけですよね。
話戻りますと331頁、観経の教我思惟と教我正受という言葉でしたが、これは韋提希がお釈迦さま私に教えて下さいと求めた二つのことでありますが、親鸞聖人はそれを観経だけではなくて大経も、信巻以降述べて来た金剛心というような問題も全部ひっくるめて、ここでは教我思惟は真実に出遇わせるための方便ということ、どうやって助かっていくかですよね。それによってはっきり見えた、これだったかということが分かったということが教我正受と云われる。その中味を「すなわち金剛の真心なり」と押さえていきます。これは本当に結論みたいなものですね。なんでこうなるかということを善導の言葉やら、信巻以降の展開やらで尋ねていくということがボクらに残された宿題みたいなものだと思います。
諦観彼国浄業成者
次に「『諦観彼国浄業成者』と言えり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。」とあります。一応元の位置を確認しておきます。94頁になります。ここから散善顕行縁という名前がつけられています。散善が具体的に説かれている部分であります。善導大師から云えば定善を求めた韋提希に対してお釈迦さまが求められていないのに散善を説いたという部分です。四行目です。「その時に世尊、韋提希に告げたまわく、「汝いま知れりやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず。汝当に繋念して、あきらかにかの国の浄業成じたまえる者を観ずべし。」これは阿弥陀の浄土に生まれることを願いますと云った韋提希の発言を承けています。ニッコリと微笑んで韋提希に対して、あなた知っているかそれとも知らないか、そして云ったのが有名な言葉、「阿弥陀仏ここを去ること遠からず」と。阿弥陀の世界は遠くにあるんじゃないぞと云うわけです。ちょっとビックリする言葉ですよね。阿弥陀経や無量寿経では十万億の国を過ぎた西の方に阿弥陀の国があると云ってるんですから。ここでは願うあなたのすぐそばに阿弥陀仏はいらっしゃる、こういうことです。大経や阿弥陀経で十万億の国を過ぎたところにあるというのは、あれは私たちの意識から云えば求めないことを距離の遠さで表してあるわけでしょう。だって私たちこの世に絶望したと云っても、どうしても今度こそというようになかなか本当に絶望しきるなんてことありませんよね。十万億どころか二つ目か三つ目で腰を下ろすそうです。だからなかなか行けないんです。我々の平常の日常的な心から云えば、阿弥陀の世界なんて求めるはずがないというのが、十万億の国を過ぎたところにあるんだと云われることの意味です。しかしここで韋提希はもう本当に行き詰って道がない。私が助かるのは阿弥陀の世界しかないということがはっきりした。そうやって阿弥陀の世界に生れたいと云ったもんですから、阿弥陀さんは遠くにいるんじゃないと。その願う人、足下とまで書いてませんけれども、そこにいらっしゃるというぐらいの言葉やと思います。その韋提希に対して汝まさに念を繋けて明らかにかの国の浄業成じたまえるひとを観ずべし。「諦観彼国浄業成者」と云っている。これも親鸞聖人の読みを反映してますけれど、たまえる者(ひと)というのはこれ敬語にしてありますからね。つまり如来さまということです。だから阿弥陀如来を観じなさいと、こう呼びかけている言葉であります。これが化身土の方ではさっきの言葉と重なりますが「本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。」観ずるという言葉に知るという言葉を付けて観知しなさい、阿弥陀を知りなさい。これを「本願成就の」という言葉を態々つけてますね。さっきも清浄業処が本願成就の報土なりとありました。だからこれは我々が思い描く仏さんや浄土じゃないんですよ。一人も漏らさないというその願いが形をとって下さった浄土であり、阿弥陀如来、尽十方無碍光如来と呼ばれる阿弥陀如来であります。それに出会えと云われるわけですね。もう一回94頁に戻りますと、次の次の言葉が「我今爲汝、廣説衆譬」我いま汝がために、広くもろもろの譬えを説かん。ここを親鸞聖人は化身土に引くんですね。これなんて書いてあるか。「広説衆譬と言えり、すなわち十三観これなり。」こんなこと云うんですよ。十三観というのはさっきからお話ししているように観経では西に沈む太陽からずうっと観ていく、これ観経の分量的にもね、誰が見ても中心に見えるところなんです。でも親鸞聖人はこれを広く諸々の譬えを説くと云う。十三観はたとえやと云うんですね。すごい話です。観経の中心は何かと云ったら、譬えを通して本願成就の尽十方無碍光如来を観知せよということなんでしょうね。でも普通観経を読めば、それ話が逆になるんじゃないですか。西に沈む太陽を観るのを頑張るぞから始まって、梯子段を上がって行くようなことで、結局私は七段階行きましたとか、十段階行きましたみたいなことで終って行くんじゃないですか。結局本願成就の尽十方無碍光如来には遇わず終りですわ。遇わねばならんのは本願成就の尽十方無碍光如来、そのために広く諸々の譬えを説きますよというのが十三観だと。これ観経を読んで来た沢山の方々から見たら、腰抜かすような言葉やとボクは思います。こんなふうに観経を読んだ人はないと思いますが、親鸞聖人はこれは自分勝手に読んだのではなくて、善導大師のお心をいただいて読み直してみると、こういただけるというんです。だから観経は一人も漏らさない阿弥陀の世界に出会えということを勧めて下さっている。普通広説衆譬というのは何かと云うといろんな譬えが出て来る。例えば浄土にはお飾りがあるとか、阿弥陀仏の身の丈がどれだけとか、それが譬えだということになってるんですよ。それはそれで筋は通ってます。聖道の諸師の読み方も筋は通ってます。でも明確に定善十三観、これ全部譬えだと云ってるわけですから、恐ろしい読み方やと思います。でもそれが顕の義と彰の義、つまり表に現れている言葉とそれを通して出会ってほしいもの、これを読み間違えると観経は何遍読んでも読んだことにならんと云うて下さっているように思います。
今日は十三文の中、五文ぐらいしか行かなかったのですが、観経全体に関わるので、ここはもうちょっと時間をとって読みたいと思います。