『教行信証』の化身土巻を読む(6) 一楽 真 師
2016/ 09/ 30
方便とは?
大谷派聖典327頁。方便化身土の「方便」は如来のご方便と受け止めないと大きく誤ることになります。真実に導くために如来さまが様々な手立て(手段)を立てて下さっておるという、これが基本の意味でありまして特に方便化身土というのは化身・化土といって、あえて私たちに分かる形になって下さる仏さま、あるいはその浄土ということが問題になるわけであります。逆に云えばそういう形を取って下さらないと私たちは仏に帰依するといっても仏が何たるかを知らないわけですね。あるいは浄土といっても勝手に想像することは可能ですけれども本当の浄土を知らないままに終わっていくということになります。形を敢えて示して、私たちに応答しながら真実の仏、真実の浄土へ引張っていこうとする、これが方便ということの意味であります。ですから方便として説かれるのは如来さまのお仕事でありますが、そこに止まろうとするあり方、それも問題になるわけであります。たとえば浄土は西にあるということは私たちを導くための呼び掛けですけれども、西にあるということを実体的に捉えますとどうやって行くのかとか、いつ行くのかとか、そんなことばっかりに心を奪われてしまうのですね。だから導くために立てられたことは仮であるという、こういうことが大事なんです。しかし仮ということは軽くなくて、仮のものを通さないと私たちは真実に帰依することは出来ないという、こういう人間の問題が根っこにあるからであります。も一つお話ししておりますのは、じゃ真実に帰依するための方便ならば一番初めにあるのが分かり易いのですね。六巻目じゃなくて。だって方便を通して真実に帰依すればその方便は要らなくなりますよね。普通私たちが仮と云う時にはそういうものです。仮の橋をつけて本工事を完了すれば仮の橋は撤去されるというようなものです。それは本物が明確になれば仮は要らないということなんですが、こと仏法に関しては真実に帰依したつもりのところに、またそれが見えなくなっていくという問題が起こっていくわけです。これはまぁ人間の業の深さ、迷いの深さもあるからなんですね。だから帰依したつもりのところへも働き続けるという意味で、この方便は前段階じゃないんですね。やっぱり仏に帰依するということと同時にいつもここに具わってあるような方便であります。だから帰依したつもりということをいつもたたき続けて、そして真実に返そう返そうとするそういうおはたらきでもあります。ですから教行信証のこの書物では冒頭に真実の巻が出ております。その帰依したつもりのところにまたそれを誤っていく我々の問題があるものですから方便は第六巻目ということで、ある意味でいのちある限りこの方便と私たちは縁を切るというわけにいきませんですね。いのちある限り方便のはたらきを受けながら真実に立ち返っていく、こういうことになろうかと思います。修諸功徳とは?
そして特に第19願と第20願が化身土巻では取り上げられるわけですが、前回はその第19願を読んでいたことでありました。聖典327頁前から4行目のところ、これが大無量寿経に出る第19願であります。まぁあまり繰り返してもいけませんが一応振り返っておきますと「ここをもって、『大経』の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、我が国に生まれんと欲わん。寿終の時に臨んで仮令大衆と囲繞して、その人の前に現ぜずは、正覚を取らじ、と。」これは第18願の後に出て来ますね。だから18願では念仏ひとつということが掲げられているわけですが、念仏ひとつに頷けない者、それを見越して、じゃぁここからやれといった形で非常に具体的な我々の実践項目が立てられます。それが十方の衆生に対してまずは菩提心を発せと云っています。一所懸命道を求めろというのですね。迷いを超えようと思うならば真面目にやれということです。菩提心を発す、ここからスタートなんですね。加えて、「もろもろの功徳を修し」と書いてあります。功徳というのは迷いを超えていくための善根功徳と云われるこの善を積むことでが、それを修めなさいと云います。そして「心を至し発願して我が国に生まれんと欲ったとしよう」と云うんですね。つまりその積み上げた功徳を以て我が国に生まれようと欲うという、そこまでやったならば必ず私が見捨てないということが、「寿終の時に臨んで」そのいのち終わる時には私が沢山の者とその人を取り囲んで、そしてその人の前に現れるようにしようと云っています。ここにはいくつかのことが説かれています。まずは私たちに功徳を修しなさいと呼び掛けるのが一つ目。二つ目はそれを以て私の国に生まれようと思いなさいということ。三つ目はその人がどこでいのち終わろうとも私が迎えに行くぞということが書いてある。だから一番最後から云うと、どんな者も見捨てないということが書いてあるわけです。だから功徳を修しなさいと書いてあるからと云って、功徳をどれだけ積んだら生れられるというような話じゃないんですね。一所懸命求めなさい、そして私の国に生まれようと思いなさい、そうすればどこでいのち終わろうとも、ということなんです、これ。功徳がまだ三つしか云ってないとか、九十九までいったとか、そんなこと関係ないんですわ。一所懸命求めて私の国に生まれようとしさえすれば私が見捨てませんということが云われておりました。
この前のところに願名が五つほど挙がっておりますが、一番初めが「修諸功徳の願」と云われてますね。これが功徳を修しなさいという、私たちに実践を呼び掛ける、真面目にやれということを勧める願の内容を表わす名前です。ところがその後に三つ続いています。「臨終現前の願」いのち終わる時には私が迎えに行きましょうという願、次が「現前導生の願」これは願文の中にはそのままこの言葉はありませんが、導いて生まれさせましょうと、私が導きましょうというんですね。そして三つ目に「来迎引接の願」。これも観経の内容から取られたと思いますが、私が来迎すると云うんですね。阿弥陀の方がその人の前に来て連れて行って下さるのです。この三つの願名を見ますと、どんな者も漏らさないと云っている、そういう意味が見えてきます。パッと見ると功徳の度合いによって助かるか助からないかの差が付きそうですが、そんなこと云っているのではないですね。これは私たちの努力意識に応答して、じゃぁここからやれというわけです。もう一回云いますが、念仏ひとつということは第18願ですでに云われていました。しかしそんなナンマンダブと云うたぐらいで助かるかいなという根性がボクらにあるんですね。それを見抜いてじゃあナンマンダブツを信じられないんだったら功徳を修するところからやってみろと云うんですね。一所懸命道を求めろと呼び掛けて下さる、これだったら目の前にやるべきことが与えられるものですから分かり易いんですね。お経写しますわとかね、滝に打たれてみますわとか、そういうやりがいのあることなんです。ただそれがどこまで行ったら助かるというんではなくて、それをやりながら私の国に生まれようと思いさえすれば後はどこでいのち終わろうとも私の方から迎えに行くからというのがこの三つなんです。結局18願と違うことを云ってるんじゃないんですね、阿弥陀が誰一人漏らさず救い遂げようということを誓って下さっているんですが、初めからそれを云うてもね、こっちが信じないわけです。誰もが平等に救われるということがあるかということなんです。やっぱりお経を沢山写した者の方が良いのだろう、あるいは仏教を長年勉強した者の方が近いだろうとか、こういう意識があるものですから、じゃあやってみるかということになるんですね。徹底的に頑張れということを勧めて下さる願文でありました。ですからこの19願を立てるということ自体が18願の念仏一つというところに引張るためなんですね。やってみてそれが破れてみないことには私たちは念仏一つに立てないということがあります。これ何遍もお話ししていますが、親鸞聖人ご自身がそうでしたね。親鸞聖人ご自身が20年の修行を積み上げてもそれで覚っていかないという我が身に出遇った。その時に念仏一つがあなたのために開かれているんだということを法然上人から云われるわけです。そこにあぁこれは私のための道だったかというふうに戴けた。だから自分の修行が有効だと思っている間は念仏なんかには心がいかないという関係であったわけです。まぁ19願のこの辺をお話ししていたわけですね。20願もこれと同じような主旨を持っていますが、それはまた読み進んでからにしたいと思います。つまり努力意識、右肩上がりの発想を持っている私たちに応答しながら、これからやりなさいという実践項目を示して下さる。中味を尋ねるとできる者だけを助けるとは云ってないんですね。功徳、修行の度合いによって助かり方にランクがあるとも書いてません。一人残らず私が導きましょうと書いてある。これが臨終現前、あるいは現前導生という言葉の非常に大事なところですね。阿弥陀のはたらきによって迎え取られるわけであります。でも人間の方はどうしても自分が積み上げた功徳、これによって近付いたとか、あいつはまだまだという根性が抜けませんよね。そこに止まるあり方はさっき云いました方便に止まる、方便に執着するあり方として厳しく批判されることになります。これはまた後程出て来ますが、その止まるあり方が胎生という問題です。浄土の中でも殻に閉じ籠もっているような、仏さまの世界に触れながらも狭い殻に閉じ籠もっていくあり方が述べられることになります。
非華経のご引用
もう一つ読んでおりましたが327頁の中程でありますが悲華経というお経の言葉をいただいておりました。これは直接に阿弥陀仏の本願とその浄土について書いてあるお経ではないんですが、基本的にはお釈迦さまのこの世での成仏がどれ程尊いことか、いかに難しいことか、それを成し遂げられたお釈迦さまはいかに偉大であるか、そういうお釈迦さまの穢土成仏ということを掲げるための経典なんですね。その悲華経の中に阿弥陀如来の本願のことも出て来るわけです。私たちが読んでいる大経では48願ですが、全部で50の願文にまとめられて出てまいります。ただ悲華経の方では法蔵菩薩という名前じゃなくて、元の国王の名前、無諍念王という名前で説かれております。親鸞聖人も法然上人もこの名前を非常に大事にしておられまして、爭い無きことを念ずる王さま、これが法蔵菩薩が国王であった時の名であると悲華経は伝えるわけです。この無諍念王が転輪王として君臨しているわけですけれども、仏の世界に遇って浄土を建てていかれる。こういう物語を悲華経は紹介しているのですね。親鸞聖人も教行信証に一ヵ所だけ念の字はありませんが、無諍王という名前で法蔵の前身であったということを紹介しているところがあります。人間はみなそうかもしれません、本当は爭いたくないんですね。争いのない世界、平和な世界が大好きです。ところがそれを手に入れるために敵を作るのですね、意見の合わない者は排除する。無諍を云いながら争いの真只中に入って行く。これが人間の業であります。なかなか超えられません。それを傷ましいと感じて爭い無きことを目指したのが法蔵の本願なんですね。『悲華経』の「大施品」に言わく、この大施品という品名は現存の悲華経では違うんですが大きく施すという意味を親鸞聖人は採られたのかもしれません。解説本によっては親鸞聖人は間違えたと書いているものもあります。しかしまぁボクらと一緒にせん方がいいと思うんで、親鸞聖人は分かった上で書いておられるかもしれないのですね。私たちがいま見る大蔵経と違うからと云って、親鸞聖人が間違えられたと軽々に云わない方がいいと思います。勿論逆に親鸞聖人は間違いを絶対犯さないとそんなことを云う必要もないんですけれども、一応いま見る大蔵経にはこの名前は載ってないということです。「願わくは我阿耨多羅三藐三菩提を成り已らんに、」私が仏の覚りを成ずるとしても、「その余の無量無辺阿僧祇の諸仏世界の所有の衆生、もし阿耨多羅三藐三菩提心を発し、もろもろの善根を修して、我が界に生まれんと欲わん者、臨終の時、我当に大衆と囲繞して、その人の前に現ずべし。」数えられない程の諸仏の世界の迷いの衆生が菩提心を発して、もろもろの善根を修して、私の国に生まれようと願ったとしよう。その人が臨終の時、私は大勢の者たちと一緒に現れるでありましょう。ここまではさっきの19願とほぼ内容が重なっています。ところが悲華経にしかない言葉がその後です。「その人我を見て、すなわち我が前にして心に歓喜を得ん。我を見るをもってのゆえに、もろもろの障閡を離れて、すなわち身を捨てて、我が界に来生せしめん」、これは19願文、先ほど読んだものにはありませんね。現前するというのですから勿論お会いするということは書いてなくても分かるだろうというようなものですけれど、親鸞聖人はやっぱりこの悲華経の言葉によって目の前に現れるということは、阿弥陀仏にお遇いするということだと、こういうように敢えて云っている言葉を採るわけです。つまりその人の前に現ところにその迷ってる者は私の姿を観て、私の前で心に大きな喜びを得るであろう。私を見ることによってもろもろの障閡を離れて、つまり妨げ、障りを離れることが成り立つのだと云っています。ここではまだ法蔵菩薩ですから阿弥陀になったとは云っておられませんが阿弥陀仏に遇うことによって様々な妨げ、障りを離れることが出来ると明確に云っている、こういう願文なんですね。親鸞聖人はこの言葉が大事だと思われて、重ねて引用なさったのだと思います。これもいつも申し上げるのですが、親鸞聖人のご引用というのは似たようなものがあるからこっちもついでに引いておけというような、そんなことで引用されるんではない。無量寿経に云われてないことが別のお経に云われている、だからそのお経も重ねて引かれるんですね。適当に並べとけというそんな引用じゃないです。それはどこから分かるかというと、折角写されたお経の言葉を1頁切ってしまって半分に綴じ直すとかね、そういうことを沢山しておられます。折角写したんだから載せといてもいいやないかとボクなら思いますが、やっぱり必要最小限、これ以上でもなければこれ以下でもないところまで吟味なさって教行信証の本文は書かれております。だらだら々々と長延ばしはしておられないです。その意味で似た願ではありますが、後半は悲華経にしかないんですね。だから私に遇うということ、私を見るということ、これが大きな問題なんですね。これは仏教の全体の課題から云えば見仏ということです。仏を見るというのは簡単なようで甚だ難しいわけです。これも何遍も例として挙げてますが一番分かり易いのは、歴史上に実在したお釈迦さまを例にとると話が見えやすいんじゃないかと思います。でもお釈迦さま、2500年前インドにいらっしゃいましたが、そのお顔を見ても仏としてお遇いできたかというと難しいでしょう。ああ普通の人間やないかと見る人もいるわけです。あるいは、背はオレの方が高いやと云うた人もいるかもしれません。知識の量で比べた人もいるでしょうね。でも仏というのは何か、そこが大問題なんですね。こちら側の迷いを照らし出して下さる、こちら側が真実でなかったということが明らかになる、こういうことがなかったら仏に出遇ったということになりませんよね。人間の能力や素質、経歴で比べるだけです。人間の延長上にお釈迦さまをみれば、それは仏を見たことにならないですね。その一番の代表例が提婆達多という人ですね。提婆達多はそろそろ私が後継ぎにふさわしいと云うてしもうたわけでしょう。その発想が間違っているということでお釈迦さまは提婆達多には後を譲りませんでした。だってお釈迦さまの出遇った世界は誰もが仏に成る、誰もが迷いを超えていく、その法則、道理を説いておられるわけですから。ところが提婆達多はオレは大分お釈迦さまに近付いたという発想です。結局能力か経歴かで人をランク付けしてますよね。誰もが仏に成るという世界を戴いてないわけです。だから提婆達多よ、あなたには任すわけにはいかないと云うんですが、それが結局逆恨みを買いまして、提婆達多はお釈迦さまを殺しかけるでしょう。正体がばれるわけです。
でも親鸞聖人は提婆達多を尊称で提婆尊者と云っておられます。提婆達多の姿は実は私の姿なんですね。お釈迦さまを見ても仏と思えない。ちょっと偉い人間、物知りやぐらいです。でも現代全部そうかもしれませんね。先生、先生と云われてるのは自分に利用価値がある時で、利用価値がなくなれば先生と呼ばなくなる。要するに使い物になるかならないか、役立つか役立たないかで先生という人ですら査定するようなことをする。人間に対してもそうですから自分の虚偽うそいつわりを破って下さる仏としてお会いするということがいかに難しいかです。だからこれ敢えて「我を見て」という言葉になっていますが、これは単に姿を見たというようなことではなくて仏として遇う、人間のものの云い方を超えた世界に出遇うろ云うことが「我を見るをもって」という言葉になっています。だから今まで役に立つとか、立たないと云っていたのは妨げでもなんでもなかった。人間の勝手な物差しで勝手に量っていただけだということから解放されるわけです。だからここの喜び「歓喜」の中身といってもいいのですが、喜びは何かと云ったら、自分が決めつけていたことが本当じゃなかったということを知らされての喜びでしょ。妨げとか障りと云っていたことがそうじゃなかった。これも何遍も申し上げている例ですが、安田先生がいつも仰ってました。病気で苦しむということもあるけれども、病気で苦しむのは身体が辛いという以上にそのことを誰とも共有できない、誰にも相談できない、もっと云えば自分には価値がないんじゃないかと云って自分を見捨ててしまう、これによって苦しむんだと。逆に病気であってもそのことを一緒に話し合う仲間が一人でもいれば、その病気と向き合うことが始まる。邪魔者ではなくなる、こういう云い方をしておられました。それが仏さまと遇うということの実際でしょうね。だから仏さまに遇うて助けられるというのは分別から解放されることです。決めつけから解放される、ダメだという執われから解放さるのであって、病気が治ったという話じゃないんですね。いままで障害だと決めつけていたことがそうじゃなかったという世界が開けてくること、これが大事なわけであります。ですからこの我を見るという言葉が悲華経には2回繰り返されてますが、これが19願文の方には出ておりませんので、これが悲華経が引かれる理由だろうということでお話をしていたことでありました。その最後には「すなわち身を捨てて、我が界に来生せしめん」と云います。身を捨ててというのは身を軽く扱っているのではなくて、娑婆にあるようなあり方を捨てて、そして我が世界に生れさせようと云っているわけです。身のあり方が変わるわけですよね、いままでの身が転ずると云ってもいいです。
善導和讃第12
これは何回もご紹介したご和讃ですが、善導讃の中に身のあり方が変わるということを分かり易い言葉で仰っているのがあります。聖典496頁上段「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなわち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ」煩悩具足の我が身であるということに本当に頷いて阿弥陀仏の本願力に乗ずるところに、その時すなわち「穢身すてはててとあるのが悲華経の「身を捨てて」に繋がると思います。身を捨てると云うとこの身体をどっかへ置いて来るとか、意味がないと捨てるとか、そんな意味ではなくて穢れた身であるということを捨て果てるわけです。穢れているというのは世間の価値付けの中ですよね。しかし身体自身はいつも法そのものを生きているわけです。それを「法性常楽証せしむ」と書いてます。法性、そこには存在の法則道理があります。人間にすれば楽なことと苦しみのことと都合によりころころ変わりますが、法性に立てば楽ならざるはない。つまらん事は一つもないという世界が開けてくる。これを我が身において証する、これが法性常楽証せしむということやと思います。私の父も今年満88歳になりましてね、一年一年もう来年はわからんぞ~と云って88まできたんですけれど、今年は夏が暑くて本当にキツかったと云います。去年出来たことが今年出来んとかね。しかしこれある意味で自然に帰らせてもらってる事かも知れんと云っておりました。無理して去年までしていたことは今はとても無理なんだそうですわ、もう寝とくしかないと云うんですね。ある意味で情けないことになったという気もするけども、それ自然かなぁとも云うてます。で、よく考えてみるとそうですよね、風邪を引けば鼻汁が垂れるんです。汚いと云えば汚いかもしれませんが、身体の中の雑菌を外に出すはたらきでしょう。熱が出るというのも身体の中で菌と戦っているのであって、熱が出たら仕事が出来んと云ってボクら無理矢理でも薬飲んで抑えようとするわけですけれど、熱が出たら寝とかんならんのでしょう、本当は。それは法そのものの世界なんですね。それを都合の悪いことになったと云うもんですから、この汚れた身体というふうに云うとるだけであって、いのちはいつも法そのものの世界を生きているわけです。だから年をいって身体が動かんようになったというのも法そのものなんですよ。若い時と比べて情けないことになったと云うてるのが実は価値付けの世界なんですね。人間の思いの世界であります。だから善導大師のこのご和讃のとおりで阿弥陀仏の本願に乗ずるところには穢れた身体なんて一つもないということです。法そのものを生きるということを頂戴するんですね。讃阿弥陀仏偈和讃第21
これが大経の言葉で云えばですが、和讃で見ましょうかね。和讃は讃阿弥陀佛偈和讃に載ってます。聖典480頁、これはもと大無量寿経の言葉です。下の段21番「顔容端正たぐいなし 精微妙躯非人天 虚無之身無極体 平等力を帰命せよ」とありました。これ浄土に生れた姿を云うわけなんです。浄土に生れた者は顔も、その姿も端正であって並ぶ者はない。これコンテストで優勝するような顔になったというような話と違います。実は一人ひとりが誰とも比べる必要がなく、眼があり鼻があり口があり全部整っていて精密に行き届き、人間の体で云えば60兆の細胞がそれぞれにちゃんと役割を果たして、一部は血になり一部は肉になってね。あぁそう云えば、今年の大谷大学の開学記念日、10月13日に講演に来て下さるのは福岡伸一さんという分子生物学者で、朝10時からお勤めをしてその後1時間ちょっとのお話をしてもらいますが、福岡先生なんかから云えば、いのちというのは分子で見ると整ったとかそんなんじゃなくて毎日毎日動いているわけです。自然界から炭素やら酸素やら水素やらをもらいながら、入れ替えながら生きている。入れ替えるというのは器があって中味を入れ替えるのではなくて器そのものも毎日交換しているんだそうです。皮膚なら一週間ぐらい、骨なら一年で完全に分子レベルでは入れ替わるんだそうです。だから一年前専念寺へ来ていたボクと今日いるボクとは分子レベルでは違うんですが、違うと思わずにいるわけです。それを分子の形にした画まで見せて下さったこともあるのですが、本当に流れであります。自然界から頂戴したものを一時期ここに止めて、また不要なものを輩出して流しながら交換しながら生きている。普通は新陳代謝と云うているんですけれど、ボクら中味を変えるぐらいにしか思ってないんですが、器自体も実体はないんだそうです。仏教の縁起という考え方と重なるような面白い話なんですが、多分そんなお話をしてくださると思いますが、ここでは「精微妙躯非人天」本当に微妙な身体なんですね。なんでそんなうまいことに成っとると云うても、不思議としか云いようがないんです。ボクらお腹減ったら食べとるだけなんですが、それがちゃんと身体の隅々まで行き届いて身体を保ち続けています。ただ分子生物の世界で云うても120年すると、人間はその交換が出来なくなるんだそうです。だから130歳とか140歳とかは実際あり得ないんだそうです。それも不思議としか言えない。だから何にも使わずに、負担掛けずに生きた人でも120年で終っていくんですよ。で、よく使ったところから痛むんだそうです。足腰使った人は足腰から、肺に負担掛けた人は肺からとかいろいろあるわけです。それが「悲人天」人間に非ず天に非ずというのは、人間や天は一応形をとっていりうけれども、一応の話で決められないんです。だから浄土の住人は人にも非ず、天にも非ず、浄土の身をそのままいただくと云うのです。その浄土の身体はどのようなものかと云えば虚無の身、無極の体と書いてあるでしょう、虚無とは実体を超えているということです。ボクらボクの身体はこれだと実体的に云うてますけれど、これは形を変えるわけでしょう。それこそ怪我すればあったものがなくなることだってあるわけです。しかし私が私であるということが奪われるわけではないんです。これが私だと云ってますが、それは仮の形であって実体を超えている、それが虚無の身と云われております。無極の体というのは、私たち自分の身体だけを自分のものと思っていますが、これも外から押してくれてる気圧がなかったら私たちの身体は破裂するわけでしょう。ちゃんとこの気圧で整うようになっているということは身体の1ミリ外側も身体でないとは云えないわけですね。皮膚の内側を身体だと云うてますけれど、皮膚の外側を押してくれてるのもなくてはならない。そういう意味では地球全体の環境と一つになって生きている身体なんですが、日頃は見えないんですね。無極の体というのはここまでとは云えないんですよ。全宇宙とつながっているような体、これがさっきの法性常楽証せしむということから云うと、ボクらが見ている体というのは本当の上っ面、そしてそれで人と比べて整っているとかそうでないとか、背が高いとか低いとかやっとるわけです。どういう体を見てるんでしょうね。そういうことを捨てるのが穢身捨て果ててということです。だからここでは平等力、どんな者にも虚無の身無極の体、あるいは精微妙躯と云われるような身体、こういうことを成り立たせるのが阿弥陀のはたらきだ、浄土の功徳だと云われているわけです。それが化身土で云われております阿弥陀に遇うところにもろもろの障閡を捨て果てて、すなわち身を捨てて我が国に来生せしめんと。違う世界を戴くんです。同じ身体なんですけれど違っていただけてくる、これが身体が変り環境が変るということでしょうね。ここまで云うてあるのが悲華経に出る第19願に相当する願文であります。これが前回見ておりましたけれども大経のお言葉にはないので宗祖は補っておられるんであろうという話をしていたわけです。
行基の非華経
もう一つ引かれているのが、聖典161頁を開いて下さい、行巻でありますがこの2行目にやはり悲華経の願文が置かれております。「悲華経大施品の二巻に言わく」と親鸞聖人はここも大施品と書いておられるんですよ。二巻は間違ってないんですね。だから何をもって云われたのか、ここがずうっと気になるところなのですが、そこに曇無讖三蔵訳と書いてあります。ドンムシンという方はこの悲華経も訳されましたけれども有名なところでは涅槃経の翻訳者であります。もう一つ有名なところでは大集経という、化身土の末巻に長々と引かれますが、大集経の翻訳者でもあります。ものすごい沢山のお経を訳した方なんですね。ま、ここに名前を態々挙げておられます。ここは行巻なんですが、第17願と第18願が分かれていない、そういう願文をここに引いてあるんですね。これ大経にはないんですわ。大経では第17と18は分けてますし、親鸞聖人は17は行巻に18は信巻に引かれるんですが、実はこの二つは分けられないんだぞということを悲華経の文章は云うてくれているんですね。だからここに置かれているんです。分かり易く云うと17願は阿弥陀仏からのよびかけですわ。そのお名前を聞かしていただくのが18願。だが呼び掛けというのは呼び掛けだけが空中に浮かんでいるということはありませんよね、呼び掛けは聞いた人のところにあるのですから、呼び掛けとその返事は一つのはずです。それを悲華経の文章は仰って下さっているのです。だからここに引いてあるんでしょうね。一回だけ読んでおきましょうか。「『悲華経』「大施品」の二巻に言わく、願わくは、我、阿耨多羅三藐三菩提を成り已らんに、無量無辺阿僧祇の余仏の世界の所有の衆生、我が名を聞かん者、もろもろの善本を修して我が界に生れんと欲わん。」これ第20願の内容も入ってるような気がします。「捨命の後、必定して生を得しめん」だから「我が名を聞かん者」という聞其名号と一つになってここにあるわけです。次に18願にある唯除の文が付いてるんですよ。だからこの願文は17なのか18なのか20なのか分からないような感じなんですが、しかしそれが分かれる前別々じゃないということを示す願文として親鸞聖人は行巻に置かれるのですね。教行信証というのは分厚い本で、なかなか読み解くのが大変でありますけれども親鸞聖人の引用の意図、なぜここに置かれたのか、どういうお心でお引きになったのかを考えていくと少しずつ読み解くことが出来るような気がします。これは安田理深先生が繰り返し仰ってたんですが、教行信証は引用文が本文だ、と。引用文は付け足しじゃないんですよ。ましてや自分の云いたいことを箔つけるために、この人も云ってるあの人も云ってると引っ張ってきたんじゃない。引用文を読んでほしいんですね。引用文は親鸞聖人が感動して引いておられるんです。それを読むために前置きとかまとめの言葉が置かれている、これが自釈であります。だからご自釈ばかり読んでいたら教行信証を読んだことにならんと安田先生が繰り返し仰ってましたけれども、なるほどなぁと最近少しずつ感じているようなことであります。でも答えを掴んだようなことはとても云えません。いま申し上げたように行巻では17願18願が分かれないものとして、私の名を聞くところに必ず我が国に生まれさせましょうということが云われている、そういう願文として見ておきたいわけです。見仏が要
327頁に戻ります。ここは第19の願にピタッと相当しますが、第19願にない、私を見るところに、私を見るが故にと、こういう言葉が付いている、これが阿弥陀仏との出遇いによって以下のことが成り立つという意味で非常に大切な言葉であります。とすると二つ合わせて、大経の第19願と悲華経の文を合せて読みますと阿弥陀との出遇いによって我々は思い込みや決めつけから解放されるということなんですね。一応第19願は修諸功徳の願であります。こう呼ばれますのでこういう中味をもっていることを親鸞聖人も踏まえておられるわけですが、大事なのは功徳を修したから助かるという話ではないんです。それはどこまでも功徳を修したい私たちの欲求に応答しながら、ここから始めなさい、こういうことを積み上げなさいと仏道に引張って下さっている願文なんです。こういう努力意識を持つ私たちに努力なんか無駄やと云わない、努力したいのならここからやれと云って下さる。しかしそれによって阿弥陀に出遇うということが要(かなめ)なんですわ。努力したから助かるんではない。阿弥陀に出遇うところにこんな世界があったかと自分の身に対する見方が変る。あるいは世界に対する見方が変ると云いましたけれども、そこに転換が起るんですよ。積み上げただけでは転換は起きません、私が頑張っているんだと云って終わりです。頑張るその気持ちは大事なんですけれど頑張ったから偉いという話じゃない。この辺が何遍もお話ししてますが、我々は頑張るのを努力と云っています。努力は大事なんですよ、しかしそれがいつの間にか自力に変わってしまう。努力と自力は一緒にしてはいけません。努力を誇る心、努力を威張る心、これが自力であります。だから自力では助からいと云っているのは自分で何もするなと云っているのじゃない。努力を誇った心では誰かを下に見ていく。自分が努力できなかった場合は、私みたいな者はダメやというふうにもなります。これが努力に縛られているあり方でしょう。それを親鸞聖人は自力というんですよ。だから努力やめとけという教えじゃないんです。やりたいならここからやれと。毎日正信偈を読めと云われなくてはならないんです。意味が分からないなら分かるまで聞けと云わなきゃならん。しかし意味が分かるようになったからオレは救われるという話じゃないんです。ここがギリギリで微妙なところでしょう。努力意識に生きている私たちに目標を与えて下さるのが修諸功徳なんです。しかし何によって助かるのかと云えば阿弥陀に遇う、阿弥陀にお遇いするから助かるのです。19願文はそうなってるんだよと親鸞聖人は仰って下さっています。19願文だけでは読み取りにくいということがあろうと悲華経の文章を態々挙げて「我を見て」とか「我を見るをもってのゆえに」という言葉を示して下さっている。つまり阿弥陀に遇わなかったら助からんのですね。どんな努力を積み重ねたからといっても、努力の分量で救われるのではないということなんですね。第19願成就文
このことを踏まえて次に続いていくわけであります、修諸功徳の願の成就文が次に書いてありますね、聖典327頁の最後から5行目です。これはここに示されるだけで挙げられないのですね。これは挙げると長くなるということもあるんです。しかし挙げてあるんですね。ちょっと見てみましょうか、468頁を開いてください。宗祖の83歳の著作『浄土三経往生文類』です。大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つのお経によりながら、それぞれ難思議往生、双樹林下往生、難思往生の三つの往生が示される。つまり三つのお経はそれぞれ往生を勧めて下さっているのですが、真実の往生は大経往生だと云おうとしている。あと観経往生と弥陀経往生は仮の往生だ、我々に真実の往生を教えるための方便の教えだと三つのお経と三つの往生を区分けしながら述べている本であります。ここには今云う観経往生については願成就の文を引いておられるんですね。471頁の後ろから7行目、ここを読みます。「万善諸行の自善を回向して」この回向というのは自分が積み上げた善を浄土に生れるために振り向ける、人間が行う回向がここに説かれています。「浄土を欣慕せしむるなり」欣慕ってすごい字でしょう、ねがわせる、したわせる。浄土に心が向かない者に、これをやれば浄土に生れられるぞと云ってその気にさせるわけです。救いなんかどうでもいいという人々に対して、いやここから始めれば浄土は遠くないぞと呼び掛けて下さるのですね。そして観経にはいろんな善が説かれてあると云います。自力の称名念仏も説かれている。しかしそれでもいい、そこからやってみろと云うんですね。そうするとだんだん念仏に育てられていくということがあるんです。もし始めから間違いのない真実の念仏でないと助からんと云われたらボクら手も足も出ないでしょう。まずは分かっても分からんでもいいから称えなさいと。称えているうちにお念仏が育てて下さることがあるんです。お念仏称えている中から念仏に対して疑問が出たり、私の念仏は真実の念仏だろうかと吟味したりすることが起きるんです。初めから真実の念仏だけだとは云わない。間口は非常に広くいろんな形で手掛かりがあるようにして下さっている、これが観経のお勧めなんです。「九品往生」はあとで見ますが、いろんな生き方をしている者が一人も漏れない、どんなところにも道はあるということをいってくれているのが九品往生なんですね。それをまとめて「これは他力の中に自力を宗教としたまえり。」阿弥陀に助けられる他力の教えなんですが、先ずは私たちの積み上げていくものを中心に勧めて下さるのです、そこからでいいと。「このゆえに観経往生ともうすは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生ともうすなり。」真実報土の往生じゃない。方便として立てられた仮の浄土への往生なんですが、これはこれで真実に帰入していくためには非常に大事なんですね。これを双樹林下往生と云われます。双樹林下というのはお釈迦さまが沙羅双樹の下で涅槃に入って行かれた姿を理想とするようなあり方でしょうね。それが人生の完結するときのあり方として願われるのじゃないですか。死についてあまり語らなくなったのが現代でありますけれど、それでも話題になる時にはできることなら畳の上で眠るように逝きたい、出来ることなら家族に囲まれてとか、これまさにお釈迦さまの亡くなり方でしょう。お釈迦さまは双樹林下で仏弟子たちに囲まれて、人間だけではなく動物たちも回りを取り囲んで眠るように亡くなって行かれた。これある意味で理想なんです。それを理想とするならここからやれと云われているんですよ。本気で目指すならぐうたらな生活をしていたらダメだと云うんです。好きな物を好きなだけ食べ、好きな物を好きなだけ飲み、それでお釈迦さまのような人生の完結を期待するのは厚かましいですわね。だから本気で目指すのならここからやれというふうに、本気で仏道に志を立てさせようとする。仏道に引き込もうというのが欣慕させるという言葉です。その続きのところに大経の文と悲華経の文が引かれてますね。同じように引かれてます。「至心発願の願」「悲華経大施品」と。そして472頁、ここに「至心発願の願成就の文」として大経の三輩段の文章が全部引かれています。次に「道場樹の願成就の文」が化身土巻と同じように引かれます。だから観経定散九品の文はさすがにここは引かれていませんが三輩の文がここにあります。これだけの文章ですから化身土巻にも引こうと思えば引けないわけではないと思います。でもそうするとどうしても文章が長くなる。っすると引用の趣旨が見えにくくなる。ご自釈にだけここですよということを示して実際には引かないのですね。327頁に戻りますと「この願成就の文は、すなわち三輩の文これなり。『観経』の定散九品の文これなり。」というのは、これお経を読んでくれということでしょうね。だからここにはありませんけれども、そのお経を一遍見ておく必要があると思います。その次にある道場樹の文は引いておられます。これはやっぱり省略することが出来なかったのでしょうね。省略できるものとできないもの、どういうお心があったのかとても答えは云えませんけれども、そういうことに思いを至しながら読んでいくより仕方ないのがこの教行信証というお書物だと思っています。
大経下巻の冒頭
願成就というのは本願が成就しているということで、これは親鸞聖人が教行信証の中で願文と願成就の文をずっと行巻以後に挙げておられます。一番分かり易いのは、例えば念仏往生の願でしたら念仏する者は一人残らず助け遂げようとするのを本願文だとすると、この本願の呼び声を聞いて信心歓喜する者は即座に往生を得て不退転に住するということが、今度はお釈迦さまによってたしかめられる、これが成就の文であります。ですから阿弥陀の願いは既に完成しているということ、これは昔話でもなんでもなくて既に今のこととして私たちにはたらいているんだということを確認するのが本願文とそれが成就しているということを併せて仰る、これが教行信証の書き方ですね。この第19願についてもこれは既に成就しているということを仰る、それが三輩の文、これはまず大経の文です。聖典44頁から始まりますね。一番初めが第11願成就の文として受け止められ、その次第17願の成就文第18願の成就文という形で、下巻の冒頭が非常に大事なご文として法蔵菩薩の願いは既に完成している、あとは我々が仏のみ名を聞いてそれに頷く、一声の念仏によって一人残らずたすかるということ、それがお釈迦さまによって確かめられているところであります。三輩段
それに続いて三輩の文が始りますが、ここは第19願の成就文と書いてあるわけでない。そういう意味で云えば初めの部分も第11、17、18願の成就文だということがお経に書いてあるわけではありません。そう読み取った、受け取ったわけですからね。となるとこの三輩段、これ上輩、中輩、下輩なんですが、三種類の人のあり方を挙げて、あり方は違うけれどみな往生を遂げていくということが確かめられている部分であります。まず上輩をよんでみましょうかね。44頁後ろから4行目です。十方世界の者が阿弥陀仏の世界に生まれようと願うことがあったとしよう、と云うんですね。それに三輩あって、その中の上輩は家を捨て欲を棄て沙門となりですから出家の修行者となって菩提心を発して、一向に阿弥陀仏を念じ、もろもろの功徳を修して、ここに「修諸功徳」という言葉が出て来ます。彼の国に生れんと願ずれば、いのち終わる時無量寿仏がこの人たちの前に現れて下さるであろうと云います。「現其人前」です。この辺に修諸功徳と現其人前という言葉が第19願と対応して読めます。親鸞聖人はそこに着目して、これは第19願成就の文であると読み取っていかれるわけです。そして現れて下さった阿弥陀仏に導かれて阿弥陀の国に往生していくのだと云っているわけです。そうすれば二度と退転することはない、二度と迷いに沈むことはないと云っています。そして最後に今世において無量寿仏、阿弥陀仏にまみえようと思うならば功徳を修行してかの国に生れようと願いなさいともう一回勧めています。ですからこれは第19の願の文字通りお釈迦さまによっても確かめられた成就文と読むことが出来ますね。でもここだけ読むとやっぱり積み上げた功徳の分量かみたいな話になるんですが、さっきお話ししてたように出家してというのは一つの縁であります。出家しなきゃダメだと云ってるんじゃないんですね。それが続いて中輩の人のことが云われる理由なんです。上輩だけ読むとやっぱり修行した人の話や、私には無理やとなるかも知れませんが、それだけじゃない、それ以外のあり方にも道は開かれていると云われます。それが次に出て来る中輩です。「それ心を至してかの国に生れんと願ずることあらん。行じて沙門となり大きに功徳を修すること能わずといえども、当に無常菩提の心を発し」ですから、至心にかの国に生まれようと願う、これは要るんですね。生まれたくないの生れるというわけにはいかない。ただ上輩と違うのは上輩のように出家して大いに功徳を修することが出来なくても次のことが出来ればそれでいいというのです。「一向に専ら無量寿仏を念じ、多少に善を修し、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繪を懸け燈を然し、華を散じ香を焼きて、これをもって回向してかの国に生まれんと願ぜん。その人終わりに臨んで、無量寿仏、その身を化現せん。」一向に専ら阿弥陀仏を念じて、多少は善を修め、在家の信者の戒を保ち、出家者を供養する等の善を修するならば、いのち終わるとき阿弥陀仏は化仏として現れて下さる。その化仏に従って往生し不退転に住する。上輩と何も変わりません。上輩のように出家の縁をいただいてという人もあります。しかし出家できなかったらダメだとは云ってない。そこにも道はあるということが中輩で確かめられていることなのです。下輩になるとそこまでもいかない。下輩、いままで仏法の行を修するような縁があまりなかった者でも、心を至してかの国に生まれようと欲(おも)ったならば、善根功徳を積むことは出来なくても十遍ほどでも阿弥陀を念じてその国に生まれようと願いなさいと云っています。深い法を聞いて喜びが起こる。疑いなくたった一遍でもまことの心をもってその国に生まれたいと願えば終わりに臨んで夢のように仏に遇い往生を得ることが出来るのだと云います。三輩それぞれに仏法との縁によって差はありますけれど往生を得るということ、これは三輩に通じて云われているのですね。善根功徳の度合いとは違いますよ。でも違うからといって往生にランクがあるとはこのお経では云わないのです。古いお経ではそれをランク付けしているものもあります。それはなるだけ上輩になりなさい、なるだけこちら側のあり方、本当の往生を目指しなさいと云われるんですが、それは縁に依りますからできる場合もあればできない場合もある。だから時代と共に教えが展開して、下輩の往生はつまらないとは云わない。往生は下輩であっても成り立つと云いたのです。この辺について法然上人が注目された「一向専念無量寿仏」という言葉がここにあります。三輩に通じてこれが一貫しているというのですね。法然上人の読み取りでは功徳の分量の話じゃなくて、上輩も中輩も下輩も無量寿仏を一向に専ら念ずるということにおいては変わらない。念仏によって助かるんだから善根功徳の度合いは無関係だと断言されます。親鸞聖人はそれを当然ご存知で、お経にこう書いてある意味をもう一遍考え直される。お経に上中下と書いてある意味をいただかれて、これは私たちを導くためのご方便だと位置づけられたのが親鸞聖人です。これ決して法然上人を軽んじたのではありません。法然上人はただ念仏ひとつと云われましたけれども、そしたらそんなもの簡単すぎるという人が出て来るんです。そんな誰でも助かるなんてありえないという人もいるんです。じゃぁ信じられないならここからやりなさいとお経にはちゃんと書いてくれている。善根功徳を積んで真面目に生きよと云うてある、とここから仰るわけです。やってみたらわかるんですよ、まじめに生きると云ってみても、やれる間はやれるんですけれど身体がいうこときかんようになったらそれこそお仏壇の前まで行けないということも起きるんです。お仏壇の前でお参りできない奴はダメやとそんな話じゃない。寝た切りのベッドの上で念仏してもそこに阿弥陀ははたらいて下さるのです。そうなるとできるかできないかの問題じゃなかったということがやって見て分かる。だから敢えてこう説いてあることの意味は我々を平等の世界に引張って下さる方便の教えだということをもう一遍云い直されるわけです。法然上人と違うとそちらばっかり云うていたら話にならんので、法然上人が念仏一つと云ったそのことを踏まえて、そこにどうやって導くかということが既にお経にわざわざ違う形で説いてあると親鸞聖人は云われるのです。しかし大事なのは一貫して上輩も中輩も下輩も阿弥陀にお遇いして往生を得るということ、これはちゃんと書いてあるんです。下輩は往生を得られないとは書いてありません。でも微妙に違いましたね。上輩は阿弥陀仏にお遇いする、中輩は真仏のごとき仏にお会いする、下輩は夢のごとくにと書いてありました。そこがちゃんと違うところです。しかし仏にお遇いするということは人間の常生活からすれば稀有なことですわね。日常は勝ったか負けたか、役に立つか立たないか、それをシャワーのように浴び続けているわけでしょ。そこに仏さまが出て下されば、あぁ忘れておったなぁと違う世界をいただける。一遍でも念ずることがあれば阿弥陀の世界に往生することが出来るんだと云うてくれている経文なんです。だから一人残らず往生させるということを結局は云って下さっているのです。しかし化身土巻では「結局は」ということを始めから云いません。それぞれに応じた道でそれぞれが出遇っていってくれよということなんです。だから上輩が偉いとか下輩がダメだとか云わないでどこにも道はあるとちゃんと仰る。これが修諸功徳の願成就文でもありますし、一人も漏らさないという意味では臨終現前の願、現前導生の願成就の文とも読めます。本当はこの辺分けた方が話はすっきりするかもしれませんが、ボクは第19願には二つの面があるといつも云うてます。頑張れよという面と頑張れなくなったところにも道はあるという面と両方あります。これがもうちょっと読み進みますと頑張れよが文字通り現れている「顕の義」です。経文にも両面あるんです。話が混じって分かりにくいかもしれませんが簡単に分けてはいけないと思っているんです。第19願の表の義は功徳を修しなさいということです、しかしそこに隠されている義は修せなくても大丈夫だよと呼び掛ける背景もあるんです。この三輩の文も両面読めますね。それぞれに応じて修行に励めと云ってる面もある、しかしどんな者も漏らさず迎えとるぞと云ってる面もある。これ両方が読み取れるわけであります。
観経の定散九品
もう一つ観経の定散九品の文といわれるのも併せて見ておきたいと思います。これは観経全体に関る話なんですが、一応95頁を開いて下さい。最後の行から定善をまず説くんですね。もう一つは散善です。「定」は定まるという字で、精神が集中する禅定ということで、三昧に入って、心を集中して、その中で行っていく善を云います。いはば仏道修行における善と云っていいでしょうね。散善は散漫な心のままでも行えるような善で、世間における善き行いも全部入ったものです。観経は定散を説くだけでなく散善も説く経典でありまして、一応前半の方は定散を勧めます。しかしそれが出来ないところにも道はあるということでお釈迦さまは散善をお説きになるのです。そしてそれをさらに展開したものが定散九品の門と云われる九通りの人の生き方です。親鸞聖人はこれを第19願の成就文として読み取っておられるわけです。これはとても引用できませんね。これをしていたら写経したようなことになってしまいます。だからこの中から読み取りなさいと云っているのが「定散九品の文これなり」というお言葉なんでしょうね。そこへ入る前にちょっと確認しておきたいのは95頁の最後の行、ここから定善が始ります。これは詳しくは「定善十三観」と云われます。13の観察の方法なんですね。観察とは仏さまとその世界を観ていくことなんですが、先ずその前に心を集中するという意味で西に沈む太陽を見よということから始まっています。その前に云っておきたいというのは、観経は韋提希のための経典だと大体云われます。間違いではないんですけど、ここを読むと韋提希のこの問いに応答してお釈迦さまが説法を始められるのです。それが後ろから5行目です。「時に韋提希、仏に白して言さく」お釈迦さまに次のように申し上げました。「世尊、我がごときは、いま仏力をもってのゆえにかの国土を見つ。」私はいまお釈迦さまのお力をもって阿弥陀の浄土を見ましたと云っているんです。韋提希は既に阿弥陀の浄土を教えてもらったんですね。人間が救われる本当の世界はこれだということを教えてもらっている。ところが韋提希に疑問が出たんですね。私はお釈迦さまがおられたので阿弥陀の世界を観ることが出来ました、でもお釈迦さまに会えない人はどうなるんですかと云うんです。それが次の「もし仏滅の後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかにしてか当に阿弥陀仏の極楽世界を見るべき」。お釈迦さまが亡くなった後の衆生たちは濁りに染まったり傷つけ合ったり不善に振り廻されて五つの苦しみ、これは生老病死と愛別離苦等と云われていますが、沢山の苦しみに責められるでしょう。だから仏の世界を見るなんてことは無理なんじゃないんですか、とこういう質問なんです。私はお釈迦さまがおられたので阿弥陀の世界を見ることができました、でもお釈迦さまに会えない人はどうなるんですかと訊くのです。ここまでを善導大師は序文だと云い切りまして、これに対して次からの定善十三観の説法が始ります。だから善導大師の読み取り方を重視しますと、観経は韋提希に面と向かって説いていますが、お釈迦さまに会えない時代の人たちに阿弥陀に会う方法を説いてくれている経典なんです。仏滅後の衆生のための経典なんです。この辺が善導大師によってはっきりしたものですから、親鸞聖人は「善導獨明仏正意」と云われるでしょう。善導大師だけがこんな読み取り方をなさったんです。他の人は自分が修行するための経典だと読んだのです。でもお釈迦さまに会えない時代の凡夫のための経典、苦しみに責められてる、そういう人間のためにある経典なんです。とするとはっきりしますが、定善というのは情況が整っている人はこれからやれます。まず西に沈む太陽を見るとかね。それはやらなくてもいいと云ってるんではなくて、やるならここからやれと、まず心を静めるところからやりなさい、そして仏さまの世界を見ていくということが始っていきます。でもそれを出来ない者のためにもと云ってお釈迦さまがお説きになったのが散善です。散漫な状態、あれもやりこれもやりと日常に追われている、その中でもできる善を説かなければ漏れていく人がいるんですね。だから釈尊は定善を説くだけではなくて、つまりこれは韋提希が聞いたこと、阿弥陀の世界を見る方法を教えてくださいと云いましたから、じゃぁと云ってここから始めるわけです。でも韋提希が聞いていないのに散善も説く、これが韋提希の要求を超えて自らお説きになったと云われるところなんです。定善だけでは漏れる人がいるからです、そんな状況が整っていない人がいるからです。だから一応ここもやりたければ、やるならここから徹底してやれと云われるんですね。これ面白いんですけどね、本気でやれとなると西に沈む太陽を見て心が落ち着けばいいんですけれど、どうでしょう、3日間ぐらいならもつかもしれませんね。でも一週間、10日、一ヶ月となったらいつまでこんなことやらされるのかという気が起こってきませんか。本当に心を落ち着けようとすると心が却って波立つのです、一向に落ち着かない。そんな落ち着かない心で仏さまを見ようとしても無理です。この間は仏さんのことよういただけたけど今日は仏さんどころじゃない、とか。その自分が段々見える。だから普通は1から13まで修業が進んでいくように読む人が多いんですが、善導大師はそう読まない。やればやるほど仏さまの世界からほど遠い自分が見えるだけだと。そしたら7番目の所でお釈迦さまがもう一遍云うんですね。あらためてあなたのために苦悩を除く法を説きましょうと。第7華座観と云います。仏さまの座を見るのですが、そこに無量寿仏がいきなり現れるんです。ここが観経の一大転機であります。もう一遍云いますが善導大師以外の人は第1の西に沈む太陽を見る日想観から積み上げていって、だんだん心が清らかになっていく、集中していくと読んだんですよ。ところがやればやるほど集中しない人間を見越して、そういうあなたのために本当に苦悩を除く道を説くと云ったら阿弥陀の世界も見えたのです。不思議な話のようですが、いま前半で云っていたことで云えば、親鸞聖人も比叡山の修行が有効だと思っている間は阿弥陀の教えは遠いわけです。あれは弱い人のためのものだろうなぁと。ところが自分が20年修業しても心がきれいにならないということを潜ってみるとナンマンダブツが私のための教えだったといただける、こういう関係です。ここも阿弥陀がいきなり出てきたようになってますけれど、それは前からあった世界が改めて頂戴できたということなのです。自分を磨き上げて第7番目まで行ったんじゃないんです。磨けば磨くほど磨き上げられない自分が見えたということです。これが今日の第19願で云えば同じことでしょう。修諸功徳、ここからやれと云われる、でもやってみれば徹底できずにいのち終っていかねばならん自分が見えるわけです。例えば功徳を百積めと云われても、百まで行かずにまだ20や、ということもある。そういうあなたのために道があるということは阿弥陀の方が迎えに来る教えが初めていただけるのです。私たちが仏の覚りと聞いたら初めから上の方に理想を置いているものです。そして自分は近づいたとか、大分行けたとか、あの人は全然やとやっているわけです。でも行けてないということにおいてはみな一緒なんです、実は。近付いたと云っても、それは目糞が鼻糞を笑うということもありますが、そんな話なんです。50歩100歩と云っても50歩より100歩の方が上だと云うかもしれませんが行ってないという意味では全然変わらない。その時にどこで終ろうとも私が迎えに行くという臨終現前の願あるいは現前導生の願という形で19願のお心がいただけてくるわけです。修行の度合いじゃなかったなぁということが初めて分かる。これが観経で云うと第7番目の華座観のところへ行って私のための阿弥陀さんだったということが頂戴できるという関係なんですね。あとは韋提希に阿弥陀に出遇うとはどういうことかを吟味するのが8から順に13へと展開して行きます。だから積み上げて13番目まで上がりつめるという話とは全然ちがう。これは善導大師の読み方をいただかないと、とても読めない観経の読み取り方になります。まぁこれ中味も読まずに云うてますので分かりにくいと思いますが、13観というのは阿弥陀に出遇う方法として説かれるのですが、積み上げて出遇うんじゃないんです、実は。積み上げられない私が見えたときに阿弥陀はあなたを見捨てないという形で立ち上がって下さる。私にはたらきかけて下さるという形の出遇いなんですね。方向は全く逆です。登ったところにある覚りじゃない。阿弥陀さんに近付いて行ってじゃなくて、登れない私となったときに、ここに届いて下さる阿弥陀さんがおったという話です。さっき仏壇の話もしましたが、仏壇の所に行ってお参りしてから助かるんじゃない、行けなくなった私のところへも来て下さる阿弥陀がとっくにおられたんだなぁという世界との出会いなんですね。逆転でしょう。これを云うときに親鸞聖人は地獄一定というわけです。どっかへ行ってから助かるわけじゃないんです。地獄の真只中に道が開ける、それが本当に阿弥陀に遇うた救いだと云うんですね。上り詰めて助かろうとしている発想からすると阿弥陀さんはいつまでたっても遠いんです。何年聞いても、どんなに勉強してみても阿弥陀の世界は遠い。でももう無理やとなったところに、そんなあなたのために南無阿弥陀仏ひとつという形でここに届いて下さる阿弥陀が前からおられたという出遇い直しでしょうね。それがこの関係で云うと定善13観では漏れる人がいるからと散善が説かれる。これは日常生活の中における善も併せて説くのですが、これを9通りのあり方で語られるのです。