『教行信証』の化身土巻を読む(4) 一楽 真 師
2016/ 07/ 16
親鸞聖人がお書きになられた『教行信証』の第6巻目であります化身土巻をご一緒に読んでいこうということで少しずつ始めておるところであります。前回初めのご自釈の冒頭のところを読んでおりました。少しく振り返っておきたいと思いますが、この聖典では326頁でありましたね。ま、始まっておるのは325頁の題目、標挙の文があるわけですが、この中味はそれこそ本文に入って確かめ直したいと思って簡単に触れるだけにして326頁に進んでおりました。
無上の方便
「謹んで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなわちこれ懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなわち疑城胎宮これなり。」と書き出されております。大事なのはその『無量寿仏観経』、『観経』、『菩薩処胎経』、『大無量寿経』と経典のお名前が出ておりますが、それぞれに「説のごとし」とついておりますね。つまり仏陀のお説きになられたお経で説かれていることであると、こういう押えであります。つまり方便化身土巻というのはどこまでも仏が私たちを導いて下さる、真実に引っ張って下さる、そのためにお説き下さったそこにあるのだというふうに押さえているお言葉なんですね。初めにもお話ししましたが決して親鸞聖人は大経を真実のお経と云っていることはありませんですね、大経の中にも方便の教えがあるわけです。観経は方便のお経だということを言っているのではなくて、観経の中にこの化身土、化仏、化身化土でありますけれども、これが説かれてあるということが全面に書かれておるわけで、しかし観経限定ではなくて菩薩処胎教や大無量寿経等によるとこういうふうに仰っておるわけです。これが化身土巻全体を貫く姿勢でありまして、どこまでも仏が私たちを導くためにお説きくださっているというのですね。ここをはっきりしておきませんと化身土というのはなんか一段劣ったような、真実の仏・土に対してなんかなくてもいいもののようなことを考えるのですが、そうじゃないということを初めに示されておったことであります。とくに前回お話ししていたのは観経の話で云うと例えば「真身観の仏」というのは、観経の中ではとても大事にされてきたところであります。ところがそれはどこまでも私たちを導くために敢えて立てられたものだということなんですね。そこを握り込みますと、そこを目指すべき境地のようになったり、そういう仏が本当の仏であると云って他を許さないような、そういう偏見を産むわけであります。どこまでもそれは私たちを真実に導く方便であるという、こういう押えなんですね。ただこれももう既に何回か云いましたが方便というなら教え全体が方便でありまして、言葉にするということも実は言葉にできない世界を言葉にするという意味で方便であります。前回も質問いただいている中でのお話でしたが、「畢竟成仏の道路」と云って「無上の方便」だという、浄土の教えそのものを成仏道の方便であるというふうに押さえるお言葉も親鸞聖人にはあるわけです。だからその方便というのは一段劣ったというよりは、それがなければ私たちは迷いを超えていくことは成り立たないという、とくに仏が我々をみそなわされた、ここからこの方便が出てきたということなんですね。
仏の三徳
これ後の話とも関係するのですが、仏のお徳を云う時に「三徳」と云われて、仏が具えておられるお徳に三つあると云われています。真実あるいは法そのものに目を覚ましたという智慧を得られているという智徳、そして迷いに繋ぎ止める煩悩等を断ち切ったという意味で断徳、そしてそれを今度は一切衆生に恵もうとする恵みの徳という意味で恩徳、これが仏のお徳としていわれます。敢えて云うと初めの二つは智慧でしょうね、智慧によって煩悩に振り回されないということも成り立つわけですから。三つ目は慈悲という言葉で表すことも出来ると思います。迷い苦しむ者を救おうという慈悲のお心、これが恩徳、恵みの徳であります。だから智慧と慈悲という二つで云われる場合もありますが、智慧を特に二つに分けて真実そのものに対する目覚めと何が我々を迷わすのかという、その迷わすものに対する目覚めと、これが智徳と断徳という言葉でも云われるわけであります。だいたい仏教という時には初めの二つ、智慧を獲得なさり迷いを断ち切った、あるいは煩悩に打ち勝った、こういう仏さまということがメインに語られるんじゃないでしょうかね。後に続く者もそれを目指すべきであると、これが成仏道を歩むときに一番大事なことになります。お釈迦さまは私の真似をせいとは仰ってないわけで、お釈迦さまはなんとかそれぞれの生きる現場で迷いを超えていくことが成り立つようにという、その恵みの徳ですね、それに生涯を掛けられたんです。年数で云うのは変ですけれども29歳で出家したお釈迦さまが覚ったのは35歳と云われます。ところが35歳で覚りを開かれてから80歳で亡くなられるまでの45年間は正に相手に応じながら道が開かれることを願った、苦しみを超えていくことを本当に願われたというこういうお釈迦さまです。だから年数で云うてお仕事の量から云えば、恵みの徳の方に重きがあるといってもいいわけですが、どうしても仏教は初めの覚りを開かれた仏陀というところに重きが行きましてですね、後に続く者もお釈迦さまの修行の真似をするということが取れないわけであります。でもこれはだいぶ仏教の中でも長い長い葛藤があったと思いますね。だって初めは智徳とか断徳とかは云わずにただ単に恵みの徳というとなんか覚りを開かれたお釈迦さまにぶら下がって、甘えて助けてもらうというような話になるわけです。そうじゃない、やっぱり一人ひとりが目を覚ましていくという、ここは仏教としては譲れないところがあるわけです。だからお釈迦さまが助けるのではなくてお釈迦さまが目覚めた法に出遇えば誰もが助かるという道筋でありまして、お釈迦さまがなんというかなぁ、やみくもに助けられるというそんな話ではないわけですね。これ本当に緊張関係を持った話だと思いますが、しかしながら初めの智徳とか断徳というところに重きを置くとどうしても修行は厳しいし、なかなか迷いを超えられないという実際問題があるわけです。この慈悲の面が大変大きく踏み出してきたのが今読んでおります方便化身土巻もそうでありまして、仏が衆生をみそなわして、衆生をほおっておいたんではとても迷いを超えられないという中からあの手この手で我々を導いて下さる、こういうことが特に慈悲のお仕事として強調されてくるところに、例えば我々がいま読んでおりますが、阿弥陀仏の本願によって助けられてくるという、そういう仏教が形をとって来ることになるわけであります。これお釈迦さまのパワーではなくてお釈迦さまが目覚められた世界を阿弥陀の名前で語られる、阿弥陀に助けられていくということが、共々に助けられていくところに仏道の歩み方が大きく変って行きます。も一遍云いますが、右側(智徳・断徳)を中心にすれば私がどこまでお釈迦さまに近付けるかというこっちがメインになります。しかしそれではなかなか目が出ないというか、道が開けないということをみそなわされて仏の方がこちらに近付いて来て下さる、そういう大転換なんですね。まぁでもこれは親鸞聖人ご自身も長年は比叡山で自分を磨き上げる道に立っておられました。しかしそれが立ち行かない、道が開けていくことにならないという中から阿弥陀に助けられないといけない我が身ということに出遇い直して行かれました。これが見つかったときに同じ仏教が全然違って見えますね。比叡山の上では私の覚りに近付けというお釈迦さまがお手本として頂かれていたと思います。しかし山を下りていかれる時には、私に近付くのではなくてあなたはあなたのままで迷いを超える道は開かれるということを教えて下さる、ひと言でいうと阿弥陀に出遇えということをお勧めになるお釈迦さまです。だからどのお経を大事にするかで全然違いますね。まぁそこから勿論『教行信証』はスタートしてるわけで、阿弥陀の浄土に生れていくという、この問題を踏まえてそして阿弥陀によって助けられていく仏道が語られているのが教行信証です。その中で6巻目にこの方便化身土巻が置かれているのですが、その意味を考える必要があるわけですが、一応前回のところを踏まえて第二段落目に今日は入って行きたいと思います。前回も少しそこをお話ししかかっていたわけですけども、方便の化身化土について初めに掲げられて、なぜこういうことが説かれなきゃならないのか、この意図を尋ねていかれるのが次の段に続いていくわけであります。
しかるに濁世の群萌
326頁本文6行目から読みたいと思います。「しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといえども、真なる者は、はなはだもって難く、実なる者は、はなはだもって希なり。偽なる者は、はなはだもって多く、虚なる者は、はなはだもって滋し。」まだ続きますが、ちょっとここで一回切ります。「しかるに」これは前を受けている言葉です。順説と受ける場合もありますし、逆説と受けることもできます。化身土が説かれたということを初めに掲げているわけですが、そのことを知らないという意味であれば、そうであるのにという逆説で読むことが出来ると思います。どうなっているか、つまり既に方便化身土が説かれてあるにも関わらず、そのことに頷かずにおる娑婆世界の現実であります。それが「濁世の群萌」まずは五濁悪世を生きる群萌ということなんです、これも何遍もお話ししてますが、親鸞聖人はつながりの中にある人間の問題をこういう言葉で表されます。海という言葉もそうですね、「群生海」という言葉で云い表したりもします。つまり個人を磨けばなんとかなるという程、話は甘くないですね。個人を磨けば磨くほどそれをやっかむということが起きる、それが今度は人を脅かすことにもなるわけです。ちょっと例は良くないかも知れませんが、お釈迦さまがひとりお覚りを開いたということが周りから見れば羨望の対象になるということもあるんですね。お釈迦さまは真似してほしいわけじゃなくても真似することを目指してしまうことが起きてしまう。逆にそれが余りにも高い目標ということになって、俺には無理だと云って諦めてしまうことも起きてくる。本当は誰の上にも開かれる仏教であるはずなのに、そのことがそうならないんですね。それで一番いい例を挙げれば、お釈迦さまがお覚りを開いたことをやっかんだのは提婆達多という人でしょ。不思議な話です。お釈迦さまと非常に近い関係もおありで、お釈迦さまの教えを親しく受けてきたはずですが、そのことがやっぱり個人の比べ合いに終って行くわけです。私は大分近付いたとか、それなのに認めてくれないとか、そうやって最後は憎しみをもってお釈迦さまに接することになります。厄介ですね。それ全体がどう救われていくか、こういう関係の問題、ここにお釈迦さまは個人を磨き上げるということじゃなくて共々に救われていく道、これを教えて下さるということになります。これが大経をはじめとする阿弥陀の本願を説かれたお釈迦さまのお心だと思います。能力の有無を超えて誰の上にも成り立つ仏と、どういう関係の中にあるところにも開かれる道、これが云われていると思います。穢悪の含識
そこにもう一つ「穢悪」と書いてありますが、これは五濁悪世の中で煩悩に穢され、そしてそれによって傷つけ合っているものという意味で穢悪という言葉で云われていますね。「含識」というのは衆生という言葉と同じでありますけれど、特に含む覚りという、そういうひだりがなを親鸞聖人つけていらっしゃいます。覚りというのはある意味で本当に物事を認識していく正しい覚りもあれば誤った覚りもありますね。でもそういう意識を持ちながら生きているもの、まぁその中で悩んでいる者のことであります。これは総序のお言葉で云えば、人間のことをこの字を使って語って下さってましたですね、改めて開くまでもないかもしれませんが聖典149頁のところ上の段後ろから5行目、迷いに沈んでいる者のあり方を「穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの」と云っておられます、詳しく云えばここまでになるのでしょうね。一切衆生よ、あるいは悩みを抱えて生きる者よというお心だと思いますがこれを言葉で云うとここまで仰る。特に初めの「穢を捨て浄を欣い」というのは、これは我々何か目標を立てないと仏道を歩めませんよね、穢れた在り方をすてて清らかな世界を目指そう、それが今度は二項対立の中で修行が出来たか出来ないかとか、私の方が進んだかあいつの方が進んだかとか、こういうことにいよいよなっていくわけです。迷いを超えるためにやっていることが却って迷いを深めていくことになる。そんなあり方をこんな言葉でおさえてますね。「行に惑い信に惑い」と、これは行とか信を、まったく関係のない人の話じゃないですね。やっぱりどうやったら迷いを超えられるかという中で行に惑っていくわけです。これがいいのか、いや向こうの方が本当なのかということです。だから信ずるということにもなかなか本当に決まらない。行信というのは大事な仏教の課題ではありますけれども、やっぱりそれに振り回されていくことになる。ここが厄介ですね。「心昏く識寡なく」大事なことが何かということがはっきりしない、「さとり」これがさっきの言葉ですが、含識というところに使われる「識」でありますが、本当に物事を知る認識という意味では非常に大事な言葉ですが、それがなかなか得られないということがここでは「識寡ない」と云っています。結果として「悪重く障多きもの」悪はどこまでも傷つけ合うことですが、これが繰り返され迷いを出ていくことになかなかならない、こういう問題であります。ですからここは一切衆生よと云ってもいいんですが、具体的に悩んでいる者のために誰のための仏法なのかということを非常に示してくれていますよね。これが総序のところに置かれていた言葉でありました。こういうことを想うと何故「含識」と云う言葉を化身土で使うかということ、これ断定はとてもできませんけれども、いろんな思いの中で悩みを抱えておるということ、覚りを得たとか得ないとか、分かったとか分からないという、その中で結局また悩みに沈んでいくという、こういうことを仰って下さっているように思います。だから衆生とか有情という言葉は上の群萌でもう押さえられたということなんでしょうね。それを重ねて今度は「穢悪の中に生きる者よ」という呼び掛けの言葉がここにおかれてあります。九十五種の邪道
326頁に戻りますが、これ改めて読んでなるほどなというか親鸞聖人が考えておられる方便の意味を受け取らないといけないなと思うのは次のことばですね。そういう悩みの中にある者は「いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといえども」と書かれていますね、いま幸いにという意味ですね、ちょうど今という意味がいいですけども、たまたま九十五種の邪道を出ることが出来て、半満・権実の法門に入ったのだけれどもと書いています。つまり、これ仏法に入る前の話ではないですね、邪道を出でて仏法に入ったということが出ているわけです。因みに九十五種の邪道というのは細かく上げて下さっているものもありますが、有名なところでは「六師外道」といわれますね。阿闍世に悩まんでもええですよと、地獄なんかありませんよと云うて阿闍世を慰めようとしたその方が六師外道として信巻にも引かれています。ただし阿闍世はその6人の師匠に直接会うたわけではなくて、その6人の人を自分の師と仰ぐ6人の大臣のお勧めに遇うたわけです。私の人生の師匠を紹介しましょうかと云うわけですね。それが六師、6人の外道です。外道というのは仏法以外の教えを説く者というのが元の意味ですが、もうちょっと云うと外の条件を変えて問題を解決しようとする、でも人間の発想は基本そうですね、都合の悪いものは無くして都合のよいものを手に入れようとする、外を変えるわけです。これを清沢満之先生は外物、外の物という云い方をなさいますが、最後は自分の身体ですら外と感じられる時があるというんです。若い時はよかったとか、こんな顔やったらもっといいのにとか自分なのにですよ、自分の身体ですら外になる、外を変えれば自分は満足できるのだ、この発想が外道なんです。だから外道というのは仏教以外というのがもともとの意味なんですけど、そんなところに限定せずに状況を整えて満足していこうとする、安心を得ようとする、そのあり方が全部で本当は九十六あるそうです。これがそれぞれ6人の師に15人の弟子たちがいたと伝えられるんです。ぴったり15かどうか分かりませんが、それで6×15で90になりますかね、それプラス本家本元の6人を足せば96となるわけです。ただその九十六の外道の中でもジャイナ教という極めて厳格な戒を保ち、仏教と非常に似通っているところもあるということでそのジャイナ教の人は、この外道からは除かれるんだという見方があります。これもちょっと云い過ぎかも知れませんが、259頁を開いてもらうとここに六師の名前が出て来ます。阿闍世に大臣たちが進言するんですね。上は進言した大臣の名前です。一人目が月称、二人目が蔵徳、三人目が実徳、四人目は悉知義、五人目は吉徳、六人目が無所畏。それぞれ紹介した外道の先生が、富闌那、末伽梨拘賖梨子、刪闍邪毘羅胝子、阿耆多翅舎欽婆羅、迦羅鳩駄迦旃延、尼乾陀若提子といいます。親鸞聖人、でも不思議なんですが、この6人目の人の所説を引いてないんです。この6人目が実はジャイナ教の徒とも云われまして、ニケンダニャダイシと云う名前が付いています。この辺を親鸞聖人意識しておられるかもしれないです。でも涅槃経ではやっぱり六師外道として登場しますので、先の5人とも所説は同じであるからもう引く必要がなかったんであろうということが云われてます。でも少し配慮をしておられるかもしれませんが、ちょっと断定はできません。実際ジャイナ教というのは仏教の戒律よりも更に進んでまして、今でもインドで本当に数少ないですけど身体はほとんど裸なんですけど顔にマスクをしておられて異様な恰好なんですね。なんでかと云うと虫を下手に吸わないように、殺生しないということをそこまで心にかけて日暮らししておられるんです。ちょっと真似できるものじゃありませんね。ボクら吸わないどころか眼とかに虫が入ったら瞬間にどうかしますよね。だからジャイナ教というのは小乗仏教の一派と非常に似通っているという意味で、96人になるんだけれどもそれを除くんだと云われる解説があるんです。ま、実際に95のパターンがあったかと云うとそんなことは云う必要ないと思うんですね。別なところで云いますと、いま信巻開いていただいてますが、すこし前の251頁のところで云うと、「六十二見、九十五種の邪道」こんな言葉が出ています。これは定型句なんですね。96というのはどこから出たかということを解説するのに後付けだと思うんですけど、六師外道にそれぞれ15人がいて、元の6人と合わせると96になる。しかし1人はジャイナ教で仏教と近いからみたいな、こういうことは後で云われたことであんまり執われなくて良いと思います。そういう外道の思想のパターン、これをこれで収めきったということでしょうね。だから六十二見についてもいろんな解釈あります。でもこれは基本的に誤ったものの見方、正しくないですね。正見ではないものの見方です。これを「偽」と云ってます。教えを聞きながらもこの偽のあり方に落ちていくというんですね。これが六十二見、九十五種の邪道という言葉で既に信巻に出ているわけであります。このへんのことを受けて今日のところを細かく立ち入らずに読み進めたいと思います。半満・権実の法門
326頁に戻ります。大事なのはこの正しい迷いを超える道ではないあり方、外道のあり方を出たにも関わらずというところが「いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといえども」、ここなんですね。「半」というのは半字教、半分の字の教え、つまり全体を教えないんですね、まずは導くために説かれた教え。満字教というのは全体、これを満字教と云われます。半字教というのは批判的に云われたもので、それで全部を知ったつもりになるなよという意味で、たとえば大乗仏教からすると小乗仏教を半字教と云うたりもします。でもこれ別に大乗小乗と区分けせずに、例えば同じ大乗経典の中でも初めの方に出た般若経系統というのは否定ばっかりなんですね。私たちが有ると思っているものがない、空だと、無所得だと。有ると云ってるのは仮に形をとっているだけだと。つまりそういう云い方を通して執着しないということを教えようとするわけであります。ところがそればっかり聞いていると今度は何にもないんだという虚無主義のようなところに陥ることも起きるんです。それで今度はその後になると、涅槃経なんかは今までないないないと云っていたのを本当にあるのはこれだというような云い方をするわけです。ないないという教えを聞いた人からすると涅槃経の教えは外道かと邪道かと、はじめそういうふうに受け止めることが起きたようであります。しかし涅槃経の立場から勿論般若経を批判するんですよ、ないないないということだけを実体化するならば、それはまた批判されますよね。だからそこだけに囚われているあり方を半字教というふうに批判的に云うということです。ないないというのは本当のある世界に気が付かせるためなんですね、私たちが見ているとおりにあるわけじゃない、聞いたことだけがあるわけじゃないという、そういう世界です。ないないと云って虚無に陥るのは実はおかしいでしょ。ないないと云いながらないという考え方だけはあると云うているんですからね。これは懐疑論者もそういうことがあるんだそうですが、疑う疑う一切を疑うと云うけども自分は疑ってるはずだということは疑いないんだそうですね。それをやってしまうと自分の疑いすら成り立たないわけです。これは自己否定していると云いますけれども、どこでもおきますね。私は否定できているということは否定できないです。最後にこれは残るんです。半字・満字というのは小乗仏教と大乗仏教と一応解説書では云われますけれども、導くために教えられたこととそれを通して本当に出遇ってほしいものがあるんですよ、でもそれが縁をいただいたにも関わらず、そこにまた腰を下ろしていくということがあるんです。例えば半満ということで云えば、私は円満成就した教えに出遇った、あんたらは本当の教えじゃないということを云い出せば、どうなるでしょう。すべての者が迷いを超える教えに出遇ったと云いながら、あいつらはだめだということを云わんならんことになるんですね。満字教に出遇ったって、それ云えるんでしょうか?これが人間の厄介さなんですね。自分を正当化する限り誰かを必ず引き摺り下ろす、正当化していること自体は結局自己主張なんですね。教えに出遇ったということを云えるかということです。対立している限りはこれは本当の生きてはたらく仏教と云えるかという問題です。半がダメで満がいいとこんな話ではないと思います。対立するようなものの持つ問題、これを親鸞聖人は云おうとしていると思いますね。権実もおなじでありますが、権教・実教というのがあります。これは特に日本で云うとどちらも大乗仏教として伝わってきます。初めに入ったのは奈良の仏教ですね、法隆寺を中心とする法相宗、それから東大寺を中心とする華厳宗とか、あるいは唐招提寺に実を結びますが律宗とか、それぞれお寺が、学派が形成されていくわけですが、そこは基本的に学んで修行して覚りを開いていくということを中心にしますので、誰もが修行をすれば成仏できるけれども修行を出来ないものは漏れていくという形をどうしても取らざるを得ません。そこに修行の度合いに応じて菩薩まで行く人、縁覚止まりの人、声聞にしか行けない人、あるいはどこに行くか決まっていない人、さらにはどこにも成仏の可能性を見いだせない無生有情といわれる人、五姓格別というふうに云われて五段階に人間を見るということも起きて行きます。大乗のもともとの教えにはそういうことないと思うんですが、真面目に修行をやるという中でそういうことになっていくわけです。そこを批判して、例えば比叡山を開かれた天台宗ですね、伝教大師は奈良は仮の教えだと云います。段階付けて説いてあるのも、それは誰もが成仏するということに導くための教えであり、それは仮です。本当には一乗ですと云うのです、こっちが真の教えであると云います。ところが奈良の方は黙っていませんね。一乗というのはすべての者が成仏できるよと云う形で一切衆生を仏教に向けさせる、その意味で方便であって一乗こそが仮の教え、権教であると、奈良の三乗の教えこそが真実であると、まぁこういうことが云われるわけであります。この論争はずっと続きまして、200年後の源信僧都で一応の区切りは着くという、まぁそんな長い話です。親鸞聖人まで至ると350年という恐ろしいような時が経っておりますが、親鸞聖人はそれをまとめて奈良の方の法相宗とか倶舎宗などは権教であると云ってるところもあります。逆に天台宗とか真言宗であるとかは大乗の実教であると押さえるところもあります。教相判釈と云って、どれが依るべき教えかということを決判していく、そういう大事な面を持つわけですが、いま云いたいのはさっきも云った通り、片方が私こそが本当だと、あなたの方が仮であるということをやればやるほど、また論争に拍車がかかって行くばかりで対立をなかなか越えられないんですね。それを通して誰もが本当に迷いを超えるという一番根っこの願いの部分が見失われて行くということが起きてしまいます。この辺が親鸞聖人が見ていた現実なんでしょうね。真実と虚偽
もう一回戻ります、326頁「いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといえども、真なる者は、はなはだもって難く、実なる者は、はなはだもって希なり。」と。真なるあり方をしている者は本当にこれは難しいし、実なるあり方をしている者ははなはだもって希であると。逆に「偽なる者は、はなはだもって多く、虚なる者は、はなはだもって滋し。」と云ってます。実際には偽なるあり方、虚なるあり方、これが溢れかえっておるという現状を見ているわけです。もういっぺん云いますが、方便の巻と云いながら、実は外道を出でて仏法に入ったと云っているわけでしょ、外道を出でて仏法に入ったんだけれども真実なる者は希である、偽と虚なるは多いと云っているわけです。だから仏法に入ったんだけれども真実に仏道に立つものがおらんという話です。そして偽なるあり方、むなしいあり方に止まっている者が多いということですね。これは教えの問題と云うよりはその教えに遇いながらもそれが自分の上に成り立たない、こちら側、機の問題ですよね。これも細かいことですが、他のところで見ておきたいと思います。199頁、行巻に出て来る教えについてと機についての対論というものが出ています。後ろから6行目「しかるに教について、念仏・諸善、比校対論するに」という言葉があります。念仏とそれ以外のもろもろの善を比べて、突き合わせてですね、そして論じてみるとといって、こういう違いがあると念仏はこうであるけれどもそれ以外の善はこうであるということを教えています。その中に、いまの信ということに関るのは200頁、前から2行目、ここに「真仮対」とあります。つまり念仏は真であるけれども諸善というのは仮に説かれた教えなんだと、親鸞聖人はこういうことを云おうとしているんですね。真に導くために仮に説かれた教えというのです。でもこれはどちらも教えの話でありますから、教えについての時は真と仮と云っています。ここには真と偽とか虚偽という言葉は出ないですね。しかし実虚ということは出ます。それが出て来るのは左の方行きまして後ろから5行目、今度は機について、教えを受ける我々の上に違いが見出されます。「機について対論するに」と、「信疑対」ここに信ずるということと疑いというあり方、善なるあり方と悪なるあり方、正しいあり方と邪(よこしま)なるあり方、それから是なることと非なることと是非の対立、その次に実なるあり方と虚しいあり方、これは実を結ぶものと結ばないもの、教えに縁を持ちながらきちっと教えのはたらきが現れるあり方とどんだけ聞いておっても現れないあり方ですね、これが実虚対と。もう一つは真偽対、本当の意味で教えに出遇っているか、教えをゆがめて間違ったものにしておるかという、この実虚と真偽というのは機の側の問題として押さえられてますね。だから教えに真実と偽物があるのと違うんです。教えの方は真と仮と云うあり方です、でもそれを勘違いしていく問題は私たち側にあると云うことを実虚と真偽というのは機の方に押さえられていますね。こんなふうに親鸞聖人は言葉の対比を挙げておられます。そういうことから見ますと、さっきのところにもういっぺん戻りますと326頁「九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入る」ということは、少なくとも仏法に縁をいただいたという話ですね。外道のあり方を出た、そういうあり方を離れて仏法に入ったと云っているわけです。しかし入ったのにその教えをきちっと受け止めることが出来ないという我々の問題があると云うのですね。そこが「真なる者は、はなはだもって難く、実なる者は、はなはだもって希」である。「偽なる者は、はなはだもって多く、虚なる者は、はなはだもって滋し」と云います。この現状をふまえて「ここをもって釈迦牟尼仏」と続くんですね。何を云いたいかと云うと方便と云うとついつい真実に入る前段階となったら、ここで云うと「九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入る」そこに方便が関っているとおもいがちですよね、でも入ったけれども真実なる者は少なく虚偽なる者が多いという、この現実に対して方便ということが立てられたんだと親鸞聖人は見ておられる。方便とは単に仏法に入る時の入り口の話ではないんですね。入ったところにもなくてはならない、なぜかと云うと入ったといっても間違っていく我々の問題があるということです。このへんが一番初めにもおはなししましたが、方便化身土巻がなんで6巻目なのかという話なんですよね。普通真実に入らせるための前段階なら真実教の巻の前にあった方が分かり易いです。そして方便を通して真実に出遇ったという順番で、方便から真実と書いてくれたらいいんです。しかしそうではないですね、本物に出遇ってみたら、そしたら今まで迷っておったということが初めて判る、しかし同時にああやっても導かれ、こうやっても導かれという、いままでの方便が見えてきたということがあるわけです。初めから方便決められないです。いまやってるこれ方便です、そんなふうには出来ないです。遇うてみたら、あの迷っていたこともなくてはならないお勧めだったなぁ、お導きだったなぁと頂かれるということですね。だから出遇ったところに初めて見えるのが方便だという話をしていました。しかしもう一つは、出遇っておしまいじゃないですね、出遇ったところからいよいよ真実に立ち返っていく、そこにこの方便ということが関っているということを親鸞聖人は示して下さっていると思います。その意味で方便ということの、私たちが持つ先入観というか、イメージ、これが先ず取っ払われているというふうに思います。前段階としての方便ではなくて仏道に入ったところにもなくてはならない方便なんですね。入ったつもりのところに起こってくる問題をみそなわして仏が立てて下さった、これがお釈迦さまと阿弥陀如来のお仕事として云われてくる、こういう関係であろうかと思います。ですから、化身土の冒頭の御自釈は、まず初めに方便化身土を顕さばと云って、仏と土、これがお経に説かれているということが云われました。観経の説、そして菩薩処胎経の説、無量寿経の説であります。全部そう説いて下さることによって私たちを導き、あるいは今の話で云えば、入ったつもりのところに虚なるあり方に止まった、偽なるあり方に陥ったりしていることに気が付かせていく方便なんです。これが親鸞聖人が考えておられる方便化身土というふうに初めに見当付けをすることができると思います。でもこれはどれ程この仏門に入ることがむづかしいかということなんですね。後の話とも関係しますが、普通は仏を信ずるとか教えを信ずるというのはある意味仏門に入るための前提なんです。それがなかったら入門すらできない、だから信じて起こしてて当たり前と云われます。いまでも禅宗なんかでは大分儀式化しているとは聞いていますけども、永平寺に入る時三日間は入れてもらえないと。でも答えもわかってて三日頑張ればなんとか入れてもらえるとか、形式化している面もあるそうですが、そこはある意味で入門する気があるのか、その本気度、信が試されているんです。その信を持ったものに入門を許すという形で門が開かれるわけです。だから入る時には信があって当たり前と云うんです。ところが親鸞聖人はその信心が実は問題だとご覧になったんですね。だって親鸞聖人ご自身も20年比叡山で修行していた時にはあったはずでした。しかし自分が云っている信心とは何か、仏陀の教えを信ずるとか、この行を信ずるとか、その結果必ず成仏するとか、いろいろ信じているようだけれども全部自分の計らい、イメージしたものを信じているだけではないかということがあるわけです。もっとひどい場合には仏法を歩むと云いながら、結局は世俗の欲を満たすようになっていくこともあるわけです。比叡山の中で立派になるにはポジションを上げていくというような欲心も混じってくるという、これが果たして仏道かと云う問題にぶつかられた親鸞聖人はこの信こそが大問題だということになったと思います。これが後で出て来ますが、第19の願を「至心発願の願」といって、どういう信心かと、どういう信心に立って歩もうとしているのかということを確認する願文を読んでいくことになります。基本的には信ずると云いますけれどもその信ずるということがいかに難しいかと、その信心を私たちに本当に成り立たせる、育てていく、そこに方便が関っているというふうにご覧になっていると思います。出遇ってみれば、とっくにあったという形で、この方便化身土の世界がいただき直されるということなんです。初めっからあの手この手で導かれておったということを改めて知らされたというのが、第6巻目に置かれる方便の巻、そういうことになっておると思います。この辺同じようなことを申し上げているわけですが、見当付けを先にしておきませんと一言ひと言がまた難しい言葉でなんかジャングルに入るような感じがするんですよ。でも真実に立ち返らせて下さるのも仏のおはたらき、お仕事であると親鸞聖人はみて行かれる。これが方便化身土の巻であります。出遇ってみてからでないと分かりませんが、出遇ってみればもとからその中に居たという形での出遇い、そういう二重性があると思われるんですね。これが前回この御自釈のところ差し掛かりましてお話をしておったようなことであります。振り返ると云いながらまた長くなってしまいましたが、もう一回だけ云いますと、初めの化身土を掲げて大経も含めてでありますが、そこに方便の説があるわけです、説かれてあること、その説かれてあることを通して私たちを真実に呼び返そうとする、それが如来のご方便だという見当付けを先にしておきたいです。それがどんな風な形で実際に働いているかということを次に「ここをもって」という文章から確かめることになります。振り返りにまた時間を要してしまいました。
真実なる者は少なく虚偽なるものが多いと、こういう問題ですね。そこにいかに仏道を本当に歩むということが成り立ちにくいか、難しいかということを見て、そしてお釈迦さま、そして阿弥陀如来と云う順番ですが、ここでは方便と云う言葉は出てませんけれども、こういう方便をして下さっているというふうに読むことが出来る文章が出て来るわけです。
福徳蔵の顕説
じゃ、そこに進みたいと思います。326頁後ろから3行目ですね。「ここをもって釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまう。すでにして悲願います。「修諸功徳の願」と名づく、また「臨終現前の願」と名づく、また「現前導生の願」と名づく、また「来迎引接の願」と名づく。また「至心発願の願」と名づくべきなり。」ここをもってというのは前のことを受けてますね、であるからということですね。そうであるからお釈迦さまはと云って、「福徳蔵を顕説して」と云います。これが何かと先輩方いろんな議論をなさいますが、これあと第20願のところを先に見ておきますと、20願のところでは何と云われているか、同じような言葉なんですが、347頁前から5行目。「しかればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。すでにして悲願います。」形式同じですね、ただ言葉が変っています。初めの第19の願を挙げる時には「福徳蔵」とあるところが、後では「功徳蔵を開演」開きのべるとあります。「群生海を誘引し」というのが「十方濁世を勧化したまう」と書いてますね。阿弥陀如来については「本誓願を発して」というところが「もと果遂の誓いを発して」となって、19願の方では「諸有海を化したまう」というのが「諸有の群生海を悲引したまえり」とあります。同じようでも言葉を変えてありますね。特に今の19願の方では「福徳蔵を顕説して」と。方便化身土巻はまず「『無量寿仏観経』の説のごとし」から始まっていますが、顕わに説かれてあるということの意図を尋ねていかれるんですね。何を説くかと云うと、ここに福徳があるぞと福徳の蔵を顕わに説いて下さる。ということは私たちがやっぱり福徳を求めているということですね。福徳を求める者に福徳をもって答えようと、これがお釈迦さまの説法であります。この中味を解説書なんかを読むといきなり「定散二善」ですと書いてあるんですけども、そんなことボクら初めから求めてますかね、福とはもっと一般的にとっていいと思います。幸せはここにあるぞと、安心はここにあるぞ、後悔のない人生はここに開かれるぞと、何でもいいと思います。それを様々な形で説いて下さって、そして「群生海を誘引」と書いてあるでしょ、私たちを誘う、引っ張るという字です。すごいことです、いざなうという字でもありますが、「誘」というのは「こしらうる」と読まれることもあります。有名なのは親鸞聖人が流罪になる縁となったというか、根本原因ですけども、興福寺奏状の中に念仏というのは大体愚かな者、劣った者を仏法に引っ張るための方便だ「下機を誘ふる方便」という言葉が出て来ます。親鸞聖人は完全に意識しておられるとボクは思います。解脱坊貞慶は初めから高い難しい修行をと云うたら皆諦めるかもしれないから、これでも助かるぞというふうに云うて仏は私たちを誘っているのだと云うわけです。それは入り口であって、やっぱり入門した上は修行をして覚りに向わないけないといけない、これが仏法の基本だと解脱坊貞慶師はこれは譲れないですね。しかし親鸞聖人は全くそれは逆だとここでは見ておられますね。つまりいろんな修行を説くのはそれを通して最終的には一人も漏れないというところにまで引っ張って行きたい、本当は念仏ひとつでいいんですけども頷かないものがいるから、じゃあここからやれと、でもそれが途中で挫折しても大丈夫だぞという、何を方便と見るかが解脱坊貞慶と全く逆でありますが、この言葉をここに使っているということはボクは完全に意識をしておられるんじゃないかと思います。でもこれ実はお経全体をどう見るかでしょ、お釈迦さまが念仏を説いたのを方便と見るのか、修行をする道を説いたのを方便と見るのか、全然違いますね。でもこれは800年前の話じゃなくていまだに仏教に対する誤解というか先入観というか続いているんじゃないですか。今もやっぱり山にこもって修行をするのが仏教本来のあり方だと、でも出来ない者には念仏でもしゃあないかみたいなこと。念仏が劣った者の道になっているのは、実は全く逆だというのが親鸞聖人の見方だと思います。ま、ここではそれをいきなり仰ってはいませんけれども、先ずは福徳蔵ということを顕わに説いて下さる、ここには福があるぞ、徳があるぞと説いて下さって私たち迷いに沈む者を誘引して下さっているというふうに読んでおられるわけであります。似たような言葉が既に行の巻に出ていまして、行の巻ではこれをどう読むか、また解釈しだすといろんなことを思われるんですが、あんまりややこしいことを加えなくてもいいんじゃないかと思うんですが、聖典202頁であります。実はこの長々と続いている一連の文章は201頁の2行目から始まってまして、「悲願は」というのは傷つけ合っていることを本当に助けずにはおかないという大悲による願いを譬えでいくつも挙げて下さってある、それが続いています。それを最後にまとめるところに6つほどのことが出て来るのですが、それが202頁後ろから3行目の所、悲願によってこういうことが成り立つというその利益を云うて下さっている、その悲願のはたらきを云うて下さっているのですが、「よく三有繋縛の城を出で、よく二十五有の門を閉ず。」迷いの縛りつける城を出て、そして迷いのあり方、最も多いのは二十五有といわれますが、これをすべて閉じてしまうと云います。阿弥陀仏の大悲の願によって成り立つのですね。「よく真実報土を得しめ」完全に迷いを超えた浄土を得しめると云うんのですね。一人も残らず助け遂げるようなその本願に報いた世界なので報土と云う字が付いています。「よく邪正の道路を弁ず」これは後序で有名ですね。「邪正の道路をわきまうることなし」ということがありますが、大体人間には無理なんですね。阿弥陀仏の本願によって初めて何がよこしまなのか、何が正しいのかをわきまえることが成り立つのです。これも響き合ってる言葉ですよね。人間が一所懸命やれば、だいたい正義を押し立てて人を傷付けることだって起きるわけですから。「よく愚痴海を竭かして、よく願海に流入せしむ」愚痴海という言葉もすごいですが、愚痴は松原先生の云い方を借りれ ば、たらいの中でチャポチャポ遊ぶようなものとは違うと、大海なんやと仰っていました。われわれの悩みはそれぐらい底もないし、果てもないんやと仰っていました。盥の中の行水とは違うと仰られてボクは大変印象に残っています。安居でそれ仰ってましたね。明日から大谷派の安居がまた始まりますが、昔聞いた言葉というのはたまに思い出すものですね。愚痴の海をかわかして、そして願海に流入せしむと云うんですね。「一切智船に乗ぜしめて、もろもろの群生海に浮かぶ」智慧の舟に乗せさせて、今度は群生海に浮かぶと云っています。群生海はけすんじゃないですね、群生海の中を生きて行くと云われています。でも浮かぶんですから沈まないですね、迷いのあり方に呑み込まれないということが智慧の船のはたらきとして云われています。その最後に「福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ」これがいまのところに関っています。福智蔵と云ってますね、福徳蔵とどう違うのか、これいろいろ議論ありますわ。でもボクは解釈すればするほどややこしくなると思っています。解釈というのは当てはめるものですから、分かったような気になるんですね。それ以上考えることを止めてしまいますんで、分からんなぁと云って置いておく方がまだいいとボクは思っているんです、尋ねますから。方便蔵というのはここに展開するものでしょうね、福徳蔵、あるいはさっきの20願の方で云えば、「功徳蔵を開演し」と云われてました。功徳はここにあるぞと云うんですね。本当の功徳はここにあると蔵を開いて下さるといいます。これ方便蔵がその二つとしてあとで開かれると思いますが、その方便蔵を生み出すもとをここで円満しておられるという言葉が福智蔵ですね。福でもあり智慧でもあるわけです。これが今日はじめにお話ししておりました仏の三徳で云うと福というのは恩徳のことですね、恵みの徳でしょ、私たちに福徳を与えて下さるんです。智と云うと智徳と云いまして智慧の徳です。智慧とある意味で方便によって恵まれるものというふうに読むことも出来ますね。智慧も慈悲も円満してということが「福智蔵を円満し」、それによってどうやって衆生を導くかという時に後には福徳蔵をもって誘引し、福徳蔵を開いて勧化するとこんな云い方に展開をしていくと思います。大体読めばこれ名号のことだとか、行の巻ですからそう書いてあるわけです、それもまちがいではありません。しかしそれを後と響き合うような言葉で仰っていることの方が大事だと思いますね。阿弥陀仏、ナンマンダブツのことだと間違いないですけども、しかし何故ここでは福智蔵と仰るのかといったら智慧も慈悲もすべて円満して、それが後の方便に転換していくという、こういうふうに言葉が用意されてるというふうに思います。あと一行だけ読んでおきますが、最後に「良に奉持すべし、特に頂戴すべきなり。」これも教行信証の要所要所にこういう言葉がでてきますね。「仰いで奉持すべし、特に頂戴すべし」と、いただきなさい、あおぎなさいとこういう言葉が出てまいります。やっぱり私たちに応答してというか、福なんて言葉を特に使うのは福を求めて止まない私たちを見抜いたうえでこういう言葉が出てくるというふうに思います。前に大経を読んでおりましたが、大経の時にこれは私たちを導くための教説として読みたいと云うておりましたが、たとえば66頁辺り、ここから五悪段が始まっておりまして、でも悪だけが説かれているわけではなくて、それに対しての五つの善ともいえますので、善悪段というほうが適切だと思うという話もしておりました。下の段8行目ですが人間のあり方を痛んだうえで「仏の言わく、「何等か五悪、何等か五痛、何等か五焼」と痛ましいことを悪と云うだけじゃなくて痛むという字と火に焼かれていると本当に分かり易い言葉で云われておりました。「何等か五悪を消化して、五善を持たしめる」と云うのですが、この五善の中味を云う時に「その福徳、度世・長寿・泥洹」という言葉が並んでいました。泥洹というのは涅槃のことですから仏教用語ですが、その前の福徳とか長寿というのはいかにも人間が欲することですよね。でもこれ読んで判りましたけれども私たちの思うような福徳が転がっているというような話と違うんですね。あるいは私たちの寿命がちょっと延びた、長生きしたというそんな話ではないわけです、無量寿の話でしたからね。でも言葉は非常に近づいた呼び掛けになっております。だからこう呼びかけないと引っ張れない、仏法に関心を持ってもらえないということを見抜いたうえでお釈迦さまは福徳とか長寿というこんな言葉で語っていたことでありました。そう思うと福徳蔵とか福智蔵とかいう言葉に敢えて「福」とが付いていると仏法らしくないという人もいるんですけでも、やっぱり人間は福を求めていますよ、本当に。しかし何が福かがほんとは分かっていないという問題があるんです。鬼は外福は内というけれども、何が舞い込んだら本当に喜べるのかわかっていない、云うとるだけということがある。それを本当に知らせて下さるということが要るわけです。そこまで私たちを育み育てて下さる、これがお釈迦さまの説法、ここでいう「顕説福徳蔵」という言葉であります。
為衆開法蔵(重誓偈)重誓偈と法蔵(行巻)
ちょっと余談ですが、もう一つだけ云うときます。いま行巻見てもらっておりましたが、行巻冒頭で気になる親鸞聖人の字がありまして、157頁、真実の行を明らかにして下さる巻でありますが、後ろから2行目に重誓偈の文章が引かれています。「また言わく、我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚をならじ、と。」私が仏に成るとしても私の名前が声として十方世界に超えるように、どこまでも届いて行くようにしたいと云ってます。「究竟して聞こゆるところなくは」と云ってますから、もし聞こえないようなところがあるならば私は覚りを取りません、とこう重ねて誓って下さったという意味で重誓偈と云われてますね。これは初めの文章のあとに大分中を飛ばしまして「衆のために宝蔵を開きて」という言葉があります。これは偈文で確かめて頂きますと、「為衆開法蔵」教えの蔵ですわ、もうちょっと教えというふうに限定せずに法そのものの蔵を開いてということも出来ますが、しかし親鸞聖人が教行信証に書いているのは宝の蔵なんですね。これ解説書によっては書き間違えたんやろという人もあります。親鸞聖人ね、何遍も何遍も読んでおられて、この一文字を読み飛ばすかなということなんです。これは私たちに本当の宝ということを恵もうとして、宝という字を選ばれたと思わずにおれないですね。そんな勝手なことしてええんかという意見もまたあるんですけれども、最後に「抄要」と書いてあるでしょ、要を抜き出ずと書いてあります。「衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん」なんか重複したような言葉になっていますが、宝の蔵を開いて、そしてどこにでも本当の宝を施そうというのです。その中味は「常に大衆の中にして説法獅子吼せん」ですから、いわば南無阿弥陀仏という名号が与えられる、これが阿弥陀仏の説法獅子吼なんです。阿弥陀の世界に行かないと阿弥陀の説法を聞けないんじゃないんです。南無阿弥陀仏があるところが阿弥陀仏の説法がいつでも聞けるところなんです。その最後に「抄要」、要を抜き出すと書いてあるこの字が大変大事だといいます。ボクはあまりこのことを細かく考えたことなかったのですが、この間大学院生がゼミでね、これが何か所あると発表してくれる人がいました。云われてみると成程なと思って、抄出なら抜き出したということです、でもこれは要を抜き出したと態々書いておられます。となると何の要やろかということが話題になったんです。ボクは黙ってじっと聞いておりましたけれども、全体では重誓偈の要を抜き出したということではないかと議論してくれていました。ボクは云われれば云われるほど、成程なぁと思ったのはこれは大経全体の要を抜き出したに違いないとボクは思って聞いておりました。大経は一番最後に行くとどうなるかと云えば、名号を聞くところに無上の功徳を具足するとか、大利を得るとか云うわけですね。「其有得聞 彼佛名號」なんですけども、ここに「大利を得る、無上の功徳を具足する」という言葉が、流通分ですが、そこまで含めて大経全体のお心をいただくとここは私たちに本当の宝を恵もうという。もっと云えば宝を求めて止まない私たちに宝とはこれだということを教えてくださっている、そういうお言葉として受け止められたんではないかと思います。まぁ抄要についてはここだけであんまり云うてもいけませんけれども、中略ということを示す乃至とか、略して出しましたという略しょうとか略出とか云わずに、抄要としてることも含めて、改めてこれは書き間違えてると云うたらアカンなと院生の発表を通して考えさせられたことでありました。だからこれがさっきの話で云うと福徳というのもそうでありまして、私たちは福を求めながらも何が福か分からんと云いましたが、そういう私たちにまず福というならこれだと、そこから示して下さったわけです。そして導きたいのは最後の本当の宝、真実の功徳というところまで私たちを導こうという、これがお釈迦さまの説法というふうに見当付け出来るんじゃないかということです。本願の教化
もう一回もどりますね。326頁でしたが、仏法に入ってもなかなか真実の仏道を歩むことにならない、嘘、偽りにとどまっていく私たちを見越してお釈迦さまは福徳蔵を顕説して群生海を誘引なさったと云います。誘って下さる、こしらうると読めば段々だんだんと育てて下さるわけです。そこを通して見えてくるのは「阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまう」と。阿弥陀如来はもと法蔵菩薩であったときにという意味、「本」という一言でそれを云っています、阿弥陀がもと菩薩であったときに誓いを立てられた。つまり、この誓いが完成しないならば私も仏に成りませんという約束ですね。そして「あまねく諸有海を化したまう」と「化す」というのが化身土全体の話ですね。教化の化でもあります。それから大悲による教化という意味では悲化。要するに私たちを変えていくということでしょ、変えるわけです。化身土というのはもともとの意味は形のない法が敢えて形をとるという、私たちに分かり易いように近づいてくるというのが化身化土という意味ですけども、単に変わった形になったという、姿かたちをとったという意味だけじゃなくて、私たちをそれによって変えていくという、教化して下さる、そういうはたらきをそこに見ておられる。だから化身化土というのは両面ありますわね、形のないものが形をとったと真実が方便して化身化土となって顕れたという面もあります。それが元の意味ですが、どこまでも私たちを教化して下さるというこの「化」ということを重く見ておられるのがこの言葉であろうと思います。さっきも見ましたが、20願のところではお釈迦さまのお言葉として勧化という言葉がありましたね、勧めて下さる。教化も悲化も勧化もこれ全部仏のお仕事なんですね。現場では「きょうか」という言葉で、たとえば仏法に出遇った者は今度は人に仏法を勧めていくのは大事な仕事だ、教化事業ということを云われますね。それも教えに出遇った者の責任としては大事なことだと思いますが、勘違いしてはいけないのは、昨日までは教化される側だったものが今日から教化する側になるという話ではないです。教えられていることが人に仏法を伝わることに繋がることはあります。教えられてないのに何かテクニックで誰かを教化するなんてことはあり得ないです。自分が仏によって教化されることを抜きに教化ということをボクは云うてはいけないと思っています。でも自分はこう教えられたということは教えに出遇った者として語る大きな責任はあると思います。この辺親鸞聖人の言葉というのは非常に厳密で人間が教化するということは見当たらないと思います。「自信教人信」ということはありますけれども、あすこは「教化」とは云うてないですね。教化はどこまでも「如来の教化」ということです。しかしこれもまた云い過ぎると人間は何も出来ないんですねみたいなことをまた云われるんですが、そんな意味ではありません。教えられたということは語る、大事な教えに出遇ったということを近い人にお伝えすることは大事なことです。でもこれはもともと如来のお仕事として云われていることをみておきたいです。もいっぺん云いますが、化身化土というのは形のないものが形をとって顕れたというのが元の意味ですが、しかしそれによって我々が変えていかれる、化されていくというという内容を持っておるということであります。すでにして悲願います
それでこの阿弥陀如来が興して下さった誓願をもとに確かめられるために「すでにして悲願います」と仰っています。前にも触れたことでありますが、真仏土と化身土にこの云い方がされます。真仏土の場合は「すでにして願います」でしたね、これが仏土の巻に共通する云われ方でした。初めの行の巻、信の巻、証の巻は「〜〜の願より出でたる」という云い方で、真実の行、真実の信、真実の証は何から出て来る、たとえば信心を例にとれば、信心は弥陀如来の至心信楽の願から出て来るんですよ、至心信楽の願なしに真実信心が起るということはあり得ないです。真実証は必至滅度の願から出て来るとこういう云い方をします。だから願によって生れるのが行・信・証ということが押さえられているわけですね。それに対して起こってみればです、真実の世界、真実の信が起り真実の証の世界に出遇ってみれば既にあったというのが仏土の巻なんですね。これは何回かお話ししましたが、気が付く前はなんか本願てどこにあるんやという話です。でも気が付いてみれば本願ならざるはなかったというのです。ボクは例として一番頷き易いもんですから、すぐ語ってしまうんですが、安田理深先生が大事にしておられたお言葉で、世親菩薩の仏性論に「一切衆生悉在如来智内」、普通は「一切衆生悉有仏性」と私たちに仏性があると云う言葉が有名であります。涅槃経もこれを云います。でもこれは気をつけておかないと、私の中に仏になる種があるみたいなことになって、磨けばいつかそれが輝き出すようになる、まだ輝いてないのは磨き方が足りないんだという話にどんどんなっていく。親鸞聖人は私の中にあるというふうなことを云わさないためにか「一切衆生悉有仏性」ということを出遇ってみれば初めからそうだったという事実ということを仰っていて、一回も読み下してないですね。安田先生はこれを別な言葉で一番分かり易いではないかと「一切衆生は悉く如来の智慧の内に在り」と仰って下さいました。でも殻の中にまだ閉じ籠もっているものですから、破れて見ないと如来の智慧の存在が分からない、そんな広い世界があるとも思わない、殻の中だけで生きているんです。破れてみれば既にあったという世界ですね。安田先生はそのことを本願の仏道に合わせて仰る時に「本願内存在」という云い方をなさいました。気が付いてないだけで実はとっくに本願の中におるんやと、本願の中に居って殻を作って、そしてああだこうだとか良いとか悪いとか勝手に悩んでいると、それをよく云われた例が太陽はとっくに照らしているのに雨戸を閉めて家の中に閉じ籠もっているようなもんやと。雨戸をあけてみたらとっくに陽は出ておったと、そういう云い方もなさいました。陽が出ているのに暗い暗いと云っているわけです。物を見せて下さるおはたらきが既にあるのに見えない見えない、見えないのはまだいいです、見えてる積りの方がもっと厄介です。ま、そういう譬えで仰るんです。それが「すでにして願います」とか「悲願います」というときに、ものすごく自分に届いてきたお話しであります。本当は本願に出遇った人だけが本願の道を歩んでいるのではないのです、本願に背いておる人も実は本願の中にあるという、でもそれは遇ってみない限り分からないというものなんですね。こんな世界がとっくにあったか、こんな世界というのは別な云い方をすれば「摂取不捨」という言葉でいわれますね、どんなものも価値付けする必要がない、どんなものも大事というのはみな大事なんです、見捨てられるものは一つもない、無駄なものは何一つないという世界です。でも人間の価値観の中におるといいものと悪いもの、役に立つものと立たないものという世界にどっぷりはまっていくわけであります。破れてみれば初めから摂取不捨であったという話です。これが「すでにして願います」と云う仏土の世界ですね。で、真仏土がいま云う阿弥陀の世界そのものでありますが、これを「悲願います」と仰るのは、お願いだから気が付いてくれよ、そうじゃないぞそうじゃないぞと呼び掛け続けるのが悲願ですね。まだ本来の世界に気が付かないのか、まだ本当の世界に気が付かずに嘘偽りの世界に閉じ籠もっておるかと、これも安田先生が良く仰った言葉が「本物を知らないと偽物を本物にしてしまう」と。本物を偽物にしてしまうということもありますけどね。いずれにしても本物を知らないと本物でないものに囚われていくということが起る、だからそれは本当じゃないぞということを云い続けようとするのが悲願なんですね。この大悲の願を通して本願の世界に私たちは引っ張り出される、こういうような関係でしょうね。もうちょっというと方便があの手この手で私たちを本来の世界に返そうとする大悲そのもののおはたらきなんでしょうね。これが真仏土には「悲」の字がない、化身土巻には「悲」の字がある、そういう違いとして読むことも出来ますね。ある意味でこっちの世界は気が付くと気が付かずに関らず何も変わらない世界ですわ、覚る人がおっても真理は増えない、覚らないからと云って真理は減ってはいかない、法そのものの世界です。しかしそれは法にはなんの支障はなくても、こちら側に法を知らないと傷付けおうたり苦しめおうたりと云う支障が連続して起こるわけです。なんとかそのあり方を破ってくれ、なんとかそのあり方に気が付いてくれというて呼び掛けてくるのが特に悲願の意味ですね。ですから方便に涙するんでしょうと云うてくれた先生もありました。真実に遇うて喜ぶんじゃなくてその方便に、ああここまでご迷惑かけておったか、ご苦労掛けておったか、ここまでお手を煩わせておったかと方便に涙するんやというふうに云った先生があります。涙するかせんかはまた感情の話になるんで比喩的な表現として置いておきますけども、ここまでお手を掛けておったかという話です。親鸞聖人からすればまたそれは晩年になるほどまた強くなって、聖徳太子の恩徳も御養育と仰るでしょ、あれもあの手この手で私たちを導いて下さっておったという、この方便のお仕事としてご覧になったと思います。身近なところでは、よき師である法然上人、よき友であるいろんな方々ご同行のお力、そういうありとあらゆる所に方便を見ていかれたんではないかと思います。それをどこで見るかということは後にしておいて、いちおう方便の願の内容を見ておきたいと思います。五つの願名
五つの願の名前が挙がっていますね。326頁最後の行です。「すでにして悲願います。「修諸功徳の願」と名づく、また「臨終現前の願」と名づく、また「現前導生の願」と名づく、また「来迎引接の願」と名づく。また「至心発願の願」と名づくべきなり。」初めの四つは名づく、名づくとあって、最後の一つが名づくべきなりとあります。これ教行信証のいつもの仰り方でして「べきなり」というのは名づけることも出来るという、またこのようにも名づけることが出来るといいます。やっかみょうという、漢文では「亦可名」という字も書いてありますね。並列のまたという字が付いております。これは親鸞聖人のご考証、親鸞聖人がご自身でこうも云えるであろうという意味で付け加えられた願の名前ですね。逆に云えばそれまでは云われていない、親鸞聖人の独自の願の名前です。しかしここにまた大きな意味があるんですね。ただそれに行く前に初めの四つを見ておきます。これも先輩方はそれぞれどこに典拠があるかということを詳しく調べて下さっていますが、そんなことは一々覚える必要もないと思います。大事なのは初めの四つ並んでますが、一つ目と後の二、三、四は意味が違うとボクは思います。初めの「修諸功徳の願」これは誰が読んでもそう読めます。19願文そのものはまた次にしたいと思いますが、327頁の4行目から引かれていますね、ここに「もろもろの功徳を修し」という言葉が出て来ますので、もろもろの功徳を修することを勧めている願なんですね。ところが次の「臨終現前の願」、ピタッとそのまま四文字で出て来るわけではありませんが願文の中を読んでおりますと意味が読めてまいります。「寿終の時に臨んで仮令大衆と囲繞して、その人の前に現ぜずは、正覚をとらじ」、命終わる時には沢山の方々と周りを取り囲んでその人の前に私が現れましょう、もしそうならないのなら覚りを開きませんという云い方ですね。その現前と云う言葉に導くと云う字を加えたのが次の「現前導生の願」、ここは少し内容を取ってこういう言葉が付け加えられています。これは親鸞聖人に先立つ人の中に出て来る言葉なんですが、それを取ってます。その人の前に現れて導いて生まれさせましょうという願です。もう一つが「来迎引接の願」、これは願文には出て来ませんが伝統的にそう読まれてきたんですね。来迎というのは迎えに来るということでしょ、仏さんの方からこっちに来て下さるんです。引接というのは引っ張る、接する、親しく接して浄土まで引っ張って行って下さる、いずれにしても後の三つは仏の方から迎えに来て下さるという願文なんです。初めの一つは私たちに何をしなさいという、もろもろの功徳を修しなさいよと為すべきことを云うている言葉です。そしたらこんなことが起きますよ、行とその結果と云ってもいい、そう分けることが出来るものですね。でも後の三つも云わなければいけないのはなんでかなぁと思うんですね。ま、伝統的なことを踏まえながらなんですけれども、今日はもう時間もないので方向づけだけ申し上げておきますと、親鸞聖人は観経には顕わに説いてあるお心と顕わには説いてないけれども隠れているお心があると云うのですね。言葉として説かれてあることと、言葉にできないけれども気が付いてほしいことの両方がある、「顕彰隠密」と云います。願文にそれを当てはめておられませんけれども、願文で云うとこっちが顕わに説かれていること、もろもろの功徳を修しなさいよとこう説かれているのです。ところが寿命はいつまであるか分かりませんわ、修行がちゃんと出来ないうちに終わるかも知れません、まぁ80、90まで修行できればいいかもしれませんが、若死にせないかんこともある。そしたらどこで終っても、いのち終わる時にはどこでも前に現れて、私の方から迎えに行きましょうと書いてある。表では書いてありませんけれども、一人も漏らさないということを誓っているのが第19の願なんです。修行を出来た人だけ迎えとるなんてこと云うてない、出来ないところにも道はあるということが云われている。なんでそんなこと云えるんやとなるかも知れませんが、一言で云うと、これは観経のお心で読んでいきますので、表向きという言葉はよくないですけれども、一応は心を静めて太陽を見なさいとか、波を思い浮かべなさいとか書いてありますが、それが出来ないところにも道があると最後の最後にちゃんと書いてあるんです。心を落ち着けられない時は口で10遍ほどナンマンダブツ云うだけでもいいです、ここまで云います。それをここに当てはめると、やるなら徹底的にやれと云います、でもやれないところにも道はあるぞと云っているんです。結局は修行出来ない者も見捨てないということが云われる、これが親鸞聖人が後の三つで第19願のお心を抑えていかれる意図ではないかなぁと、ボクは見当付けております。ただこれは顕と隠とは書いてませんね、願についてはそんなことは仰いませんので云い過ぎかも知れませんが、お経のお言葉については顕と隠と見て行かれる。隠の方は一人も漏れないという世界です。じゃ、なぜそんなややこしいことを云うのか、初めからみんな漏れないよと云えばいいのにということです。これは次にお話ししますが、大経では第18願が先に出ています。念仏ひとつで誰も漏れないと書いてあるんです。でもそれにそんな簡単なことで救われんでしょうとケチつけるこちら側がいるんです。だから第18願の次に第19願があります。つまり念仏ひとつで助かるなんて信じられないわという人に対して、じゃあ、ここからやれ!今日から功徳を積め!そしたら道は開けるぞと呼び掛けて下さる。念仏ひとつに頷けないものをなんとか導きたいというのが方便の意味なんですわ。だから、みんな助かりますよというのはもう第18願で終っているんです。それで頷けるんなら、この方便は要らないです。でも念仏ひとつ、そんなことで助からんでしょうという私たちが居るわけです。今日読んだことで云えば、仏法に縁をいただいても真実なる者は少ない、嘘偽りの者は多いと書いてあります。そうなるんです。うそ偽りの方に心奪われていく私たちが居るもんだから、真実はこっちですよというところまで、なんとか引っ張って行かないといけない。これが「福徳蔵を顕説して」、顕わに説いて、そして「群生海を誘引」したまうと、こういう言葉になっていると思います。ちょっとまぁ見当付けだけですが、第19願の中身ともういっぺんまたお話ししたいと思いますが、一応ここまでということにしたいと思います。