道綽禅師 【第1講】 古田 和弘 師
2010年5月8日
中国高僧のお二人目は道綽禅師であります。
曇鸞さま、善導さまが大師ですのに、なぜ道綽さまだけが禅師なのでしょうか。その理由はご経歴にあります。
道綽さまはAD645年に生まれ、14歳で出家、その後北周武帝の仏教弾圧で還俗を強いられ、隋の仏教復興政策であらためて出家するといった、あまり順調とはいえない少年期を過ごされました。当時盛んであった『涅槃経』の研究に身を投じられましたが、厳密な禅定と持戒によって教団を指導していた慧瓚禅師のもとで実践面の研鑽に努められ『涅槃経』では第一人者の名声を得られました。
すぐれた僧侶の呼び方として、「法師」は教理に造詣の深い人、「禅師」は禅定三昧(仏教的瞑想)等の行にすぐれた人(後世の禅宗の高僧に対する尊称とは区別される)、「律師」は戒律に詳しい人です。
上の三つのどれにも当てはまらない方、あるいはいずれをも超えた方を「大師」と呼びました。道綽さまは教理のみならず、慧瓚禅師について禅定の修行を究められたので禅師と呼ばれたのです。
その道綽禅師に大きな宗教的転回がおこりました。48歳のときたまたま曇鸞大師の居られた玄中寺に立ち寄り遺徳が記された碑文を読まれます。仏教の常識が自力を信じて修行に励みさとりを求めていたのに反して、他力回向の信心の教えが刻まれていたのです。経典が命ずる長く厳しい修行はとても実現不可能である。ではどうすれば良いのか。信仏の因縁によって浄土往生を願いなさい。その信も自分で発(おこ)そうとして発(おこ)すものではなくて、如来のはたらきによって発(おこ)るのであるという曇鸞大師の教えに遇われたのです。道綽禅師はそこで卒然としてそれまで積み重ねてきた研究の成果や行法を捨てて浄土の教えに帰依されました。
その後も仏教の中心地になった都には近寄らず玄中寺に閑居して、『観無量寿経』を講説し、徳を慕って集ってきた一般大衆には、出家者の行である観相念仏ではなく、称名念仏をお勧めになりました。
北周のとき『大集経月蔵分』が漢訳され、末法の到来を警告する中、廃仏政策が行われ仏教界に危機感がひろがっていました。隋になって仏教は国策による隆盛を向かえましたが、それに伴なう世俗化と堕落が目に余るようになっていました。こんな時代背景の中で道綽禅師は自力修行の無功を力説し、もっぱら称名の念仏をお勧めになりました。
ちなみに正像末三時説とは、正法(仏滅後500年)は正しい教えを正しく行じることによって正しい証(さと)りが得られる時代、像法(次の千年)は教えはあっても形ばかりの行で証りが得られるはずがない時代、末法(次の一万年)はかろうじて教えだけは残っても行ずる人も証る人もない時代、です。
道綽禅師 【第2講】 古田 和弘 師
2010年8月28日
龍樹菩薩は「難行」に対して「易行」、曇鸞大師は「自力」に対して「他力」、そして道綽禅師は「聖道門」に対して「浄土門」を立てられました。末法の時代にあっては自力の難行をたのみとする聖道門は成り立たない。他力易行の念仏による以外には救われる道はない。これが道綽禅師の云われる浄土門です。
道綽禅師は、ご自身も還俗させられるというような北周の仏教弾圧下に青年時代を過され、続く隋の仏教復興政策に伴なう教団の腐敗を経験されたこともあって、新しく入ってきた『大集経』に説く末法到来を現実に感じ、強い危機意識を抱いておられました。
正像末の三時説は前回ご紹介いたしましたが、釈尊ご在世中は正しい教えを正しく行じた人が証(さとり)を得ることができました。
生きるためには悩み、悲しみ、争わなければならなかった人々に、お釈迦さまはその原因である煩悩を断ちきりなさい、そうすればきっと苦悩から解放され、安心して生活が送れますよと、一つの方法を教えられました。
戒・定・慧の「三学」です。生活を正しく保ち、精神を静かに安定させて、その上で実相を見極める智慧を磨くという行法です。
もう一つは苦・集・滅・道の「四諦(したい)」(「四聖諦」ともいう)です。人生は苦であることを深く認識し、その原因が煩悩であるのを見抜くことができれば、苦が滅する道が開けるとする真理をいいます。
四諦を学び三学を修すれば必ず苦悩から解放されますよとお釈迦さまは教えられました。この教えを行じて実際に証(さとり)を開かれたのが舎利弗や目連といったお弟子方でした。
500年くらいはこんな時代が続きますが、やがて大乗仏教運動が起ってきます。
自己完成だけを目的として励む修行が釈尊の目指された仏教といえるのだろうか。ご自身がさとり、そのさとりを万人と共有するために釈尊は45年間を遊説に捧げられたのではなかったのか。自利が同時に利他であるのが本当のあるべき仏教である。仏教は大乗(大きな乗物)でなければならないとして、自利に止まる小乗(小さな乗物)を批判しました。
こうして大乗は大きく展開し、行法にも利他行が加えられました。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜です。像法の時代を生きた龍樹菩薩はこれを普通の人には不可能な「難行道」だと指摘されました。そして行によることなく証に至る「易行道」をお勧めになりました。それを承けて、五濁の世、無仏の時の末法には他力をたのんで浄土往生を願う他ないと断言されたのが曇鸞大師でした。
玄中寺で曇鸞大師のお言葉に出遇われた道綽禅師はそれまで学んできた仏教をすっぱりと捨てられました。
末法の時期に聖道門はまったく間に合わない。むだなことは止めてはやく浄土門に帰入すべきだ、と『安楽集』は主張します。
このことを宗祖は正信偈で
「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」とまとめて下さいました。
ちなみに古田先生の名訳では次のようになります。
「道綽禅師は、聖道門では覚ることが困難であることを明らかにして、ただ浄土門のみが通りやすく入りやすいことを明らかにされた。さまざまな善を自力によって勤め励むことを退けられた。欠けることのない徳を具えた名号をもっぱら称えることを勧められた。」
道綽禅師 【第3講】 古田 和弘 師
2010年9月11日
北周(556~581)の廃仏によって経蔵は焼かれ教団は解体されました。ところが次の隋は再び仏教を重用しました。政策の転換は仏教を蘇らせたかというとそうではありませんでした。かえって厚遇された僧尼を堕落させる結果となりました。そんな社会の変遷と仏教教団のあり方を目の当りにされた道綽禅師は末法の到来を確信されました。そんなとき偶然玄中寺で出合われたのが曇鸞大師の碑文です。碑文の教えに深く感銘を受けられた禅師は、その後玄中寺にこもって念仏の教えを世に弘められました。
末法濁世には絶望しかないのか。たしかに人間の自力は無効である。しかし道を閉ざされた者のためにこそ弥陀の誓願はかけられているではないか。すみやかに自力聖道門を離れて他力聖道門に帰入し、諸行を捨てて専ら弥陀の名号を称えよと道綽禅師は勧められました。
続いて正信偈は道綽禅師のお仕事を次のように讃嘆されます。
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生像悪値弘誓 至安養界証妙果
三不信と三信の教えを懇切に説いて、像法と末法と法滅のいずれの世でも、大悲の本願は同じくはたらく。(『正信偈の教え』下27頁/古田和弘・東本願寺)
三不三信とは曇鸞大師の「三不信」と道綽禅師の「三信」という二つの言葉を宗祖がつづめられたものです。
まず三不信は1.不淳心:淳(あつ)くない、あるようなないような、影のうすい、たよりない心 2.不一心:このこと一つと決定しない、あれもこれもとぶれる心 3.不相続心:持続しない、断続的でしかない、一貫性がない心の三つのことです。こんな心を以て信心が定まるはずがないと曇鸞大師が仰らなくてはならなかったのは、自力無効の懺悔であると同時に、その対極にある天親菩薩の「我一心」こそが如来回向の真実信心であることを明らかにされるためでありました。
この三不信を更に進めて、本願力のゆえに本来三不信しかない人間の上にも三信が成り立つことを道綽禅師は懇切丁寧にお説き下さいました。そして像法でも末法でもたとえ法滅の時代になっても、心配はいらない、無量寿の徳を具えられた阿弥陀仏の本願力は必ず私たちのところまで至り届くのだと元気を与えて下さいます。
だからこそ本願に値(あ)って下さい。
それが仏の願っておられることだからです。ただそのことひとつで、一生の間罪悪を重ねた者であっても浄土往生を果たし涅槃を証することができのです、という勧励のお心を「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」と謳われて道綽章は締め括られます。