大無量寿経講話【第16回】 2013/ 5/ 25 一楽 真 師
大無量寿経
何遍も申し上げておりますが、親鸞聖人が大無量寿経という名前でお呼びになりまして、ここに誰もが迷いを超える真実の教えがあると受け止められるわけでありまして、親鸞聖人からすれば、沢山あるお経の中の一つということではなくて、お釈迦さまの教えの根本が説かれているとご覧になっているわけです。その根本の法を誰もが迷いを超えていく法、これが阿弥陀という名前で語られていまして、インドの言葉でありますが、中味から云えば摂取不捨、どんな者もおさめとって捨てない、どんな者も分け隔てしない、ある意味で仏法の法そのものの世界なんですね。法と云ってもいいんですけど、法というといろんな法がありますから、それを一人も漏らさない、誰の上にも生きてはたらく法という意味で阿弥陀という名前を大事になさっているわけです。お釈迦さまは沢山のお経を説かれましたけれども沢山のお経の内の一つということではなくて、どのお経にも貫くような法則ですね、これが説かれている経典と頂いておられるわけです。極楽段
いま読んでおりますのは、その上巻のほぼ末尾でありまして、極楽段と呼ばれているところであります。これも何遍も云いますが、お経自身は段落がついておりませんが、お経を読んだ先人によって、そういう段落名というか、小見出しがつけられてきたわけであります。聖典で云いますと、前回見ておりましたのは39頁の最後の行、ここについて何遍もお話したわけでありますが、浄土に生れた者はみな自然虚無の身、無極の体を受けたりとこういう言葉が出ておりました。もう繰り返しませんが、身、身体ですね。つまり私たちはこの世でも身体を頂いているわけですが、その身のあり方が阿弥陀の世界においては転ぜられるということであります。この世はどうしても価値付けした身体でありますね、使えるか使えないか、役に立つか立たないかという、そういう身体しか見ていないわけですが、阿弥陀の世界は使えるか使えないを超えた身体であります。人間の価値というものを離れた身体というものを頂戴することなんですね。でもそれは物が変るという話じゃないんですね。人間のものの見方、あるいはこうであるはずだという執われから離れてみれば、その身というのは実はその価値付けを超えておるものが初めからあるわけですよ。新たな身体を今度頂き直すという話じゃありませんで、その身体を見る眼が転ぜられる。そこに同じ身をどう生きるかが変ってくるという転換が起るということで読んでおきたいわけです。その具体的な例を出す形で、聖典40頁からの経文であります。これが大変長いんですね、40頁から41頁まで2頁ほど続いていますが、非常に具体的な例を挙げて示しているわけです。ただこの例がこのまま取りますと誤解を招くような例でもあるんですね。お経というのは私たちに分かり易いようにと思ってかなり踏み込んだ表現、私たちの心に添うような形で表現することもありますが、裏を返せば本当は言葉に出来ないような世界なんですが、言葉にすることによってそういうものがあるように思ってしまうということが起きる。ここもその典型的な例の一つでありまして、私がお経に文句を云うわけじゃありませんけども、これを誤解して説教に使ってきたという歴史もあるわけです。中味を一応読んでからにしたいと思いますけど、ここはお読みいただけばすぐになんかひっかかる言葉だなぁと感じることがあると思います。しかし、云いたいことは何なのか、これを受け止めることがないと結局はお経の表現がいいか悪いかという、ボク等がそれを判定する側にまわってしまうんですね。このお経がどんな意味でこれを盛り込んだかということも含めて考えたいわけですが、一応そのまま読んでみましょうかね。40頁1行目、下の段であります。
仏、阿難に告げたまわく、「たとえば世間に貧窮乞人の、帝王の辺にあらんがごとし。形貌溶状、むしろ類すべけんや。」ずっと左の頁まで読みたいと思います。
14行目でちょっと切れるんです。ここまでは貧窮乞人という、貧しい者、身分の低い者という例で述べられています。それに対して、次に帝王、対比する形で出ています。
「世間に帝王の、人中に独尊なる所以は、みな宿世に徳を積めるによりて致すところなり。・・・積善の余慶に、今、人と為ることを得たり。たまたま王家に生れて、自然に尊貴なり。儀容端正にして衆の敬事するところなり。妙衣珍膳、心に随いて服御す。宿福の追うところなるがゆえに能くこれを致す。」
漢訳時の中国思想
いま読んだところが、現存するサンスクリット本であるとか新しい翻訳には入っていないんです。何遍かご紹介しておりますけど、私たちが読んでいるこの無量寿経は古い翻訳と新しい訳の中間地点にあるんです。つまり中国で阿弥陀の教えが伝えられるときに中国の価値観を取り込みながら解説しているわけですね。つまり阿弥陀の世界、今までにない考え方や世界観でありますんで、それを述べる時に世間の価値観と対比する形で述べるんです。ある意味で大変分かり易い面もありますけど、ここを読むと道徳的な儒教の教えのような感じがします。この辺りを文献学者によると、これは中国で加えられたものであって本来のお経にはないんだと云われています。しかしそれは古いお経の方が本来だという気持ちそのものを一遍問い直してみる必要があるんですね。つまり古い形のままでは通じなかったことがあるから翻訳を中国なら中国の価値観を取り入れながら訳していくことが起るわけです。ですからインドの例え話だけでは伝わらないと感じた人の中に、中国のこの土壌では、この文化の中ではこの仏の教えはどうなるだろうかということを確かめるのが、中国のものの見方がどんどん入り込んでいくことになります。これは後半ではもっと詳しくなりまして、いま云ったことと同じことが起るんですが、三毒五悪段と云われる部分があります。聖典57頁90番という番号がついています。ここはまだ三毒の話じゃないんですが、善悪段と呼ぶのがいいかもしれません、ここから善悪段という段が始ります。つまり、善を勧めて悪を戒めるという教説が長々と、どこまで行くかというと79頁5行目まで20頁余り続くんです。ここがさっきと同じようにインドから入ってきて新しく中国で阿弥陀の教えを云おうとするその翻訳として、この無量寿経には入っているわけです。でも今見るサンスクリットの本とか、新しい形で翻訳されたもの、ある意味で仏教が中国に定着してから翻訳される時代になると、この中国的な儒教の感覚のところは省かれていきます。文献的に云えば、中国の中に仏教を行き渡らせるときに入れ込んだものだという、これは一つの見方として正しいと思います。しかしなぜそんなことを信頼できなかったのかということを考えることを止めてしまうと、こんなものはお経じゃないという判定をしてしまいます。話が筋からずれてしまいますけど、この最たるものが日本の仏教が今どんな状況にあるのかと云えば、特に法然上人、親鸞聖人、これは在家の仏教ですね、在家の仏教とは出家・在家を問わずに誰の上にも成り立つ仏教ということを法然上人、親鸞聖人は明らかにして下さったのです。ところが本来の仏教から云うとこんなのは変質した形だという仏教学者が非常に多いのです。確かにインドのお釈迦さまの時の教団を見れば、みんな出家者ですね。修行をして覚りを開く、心を清らかにしていくという生活をしていたわけです。そこからすると日常生活で商売をしたり魚を採ったりという仕事をして、そんな中で髪も伸ばして酒も飲んでですよ、そんなのは仏教徒の風上にも置けないという話に大体はなっているんです。しかし仏教って何だろうとなったときに、親鸞聖人は少なくともその外形で仏教徒であるかないかが決まるのではないと明言した人であります。大事なのは仏の教えに生きるという中味であって、その中味はどこで確かめられるかということをずっと問い続けた方なんですね。なにを以って仏の教えを聞いたと云えるのか、これ大問題ですね。一番分かり易いのはお釈迦さまが云ったことを聞いてるというのは分かり易いですけど、しかしそうなると今から2500年前にインドにいらっしゃった方ですから、発言していないこともいっぱいあるんです。例えば現代の日本の問題に発言はしておられないですね。原子力発電所のことやら遺伝子のことやら出生前の診断のことやら、こんなことをお釈迦さまは全然云っていません。そうしたら仏教はそれに答えられない教えとなるかと云えば、そうではないんです。方向を指し示して下さっている。いまお釈迦さまがいらっしゃれば必ずこう仰るはずだという、そこまで受け止めないと、お釈迦さまが仰ったことだけを墨守するというか、そこだけを踏襲するのは仏教徒といえるかという問題が残るわけです。これが親鸞聖人からすれば、仏教の根源を確かめたという意味ですが、原点中心主義というかインドの元の形にこだわる人にとっては、仏教は変質したとなるわけです。だから中国でこの阿弥陀の教えを広める時に中国の道徳観というか儒教の考え方を確かに取り入れて表現してるんですけど、これを一方的に変質というように見てしまわずに何を云おうとしているのかを読み取っていくと、ここには大事な呼び掛けがあるということですね。
比較不可能な比較
見当付けをして戻りましょうね、今日の40頁のところです。言葉を当たっていきますと、「仏、阿難に告げたまわく」お釈迦さまが仏弟子阿難にお告げになりました。「たとえば世間に貧窮乞人の、帝王の辺にあらんがごとし。形貌容状、むしろ類すべけんや。」
帝王の傍に貧窮乞人がいたら、その姿や形は比べることは出来るのかと云っています。いきなりこんなことが出ると不思議な感じがしますけど、これは実は直前の浄土の人民は「自然虚無の身、無極の体を受けたり」とこれを云いたいんです。でも自然虚無の身、無極の体と云っても掴みところがないですね。どんな身体やとなりますから、身近なところから行くわけです。ボロボロの服着た貧乏な食うに困っている人と、それから帝王ですね。帝王というのは世間では一番身なりも含めて立派な方となるかも知れませんが、比べることができるだろうかというこういう譬えであります。お釈迦さまはそう仰ったというんですね。そしたら阿難は次のように答えます。「阿難、仏に白さく、「たといこの人、帝王の辺にあらんに、臝陋醜悪にして、もって喩えとすることなけん。」るいる醜悪というのは劣っているという意味です。醜く悪いと書いてありますが、とても喩えとしても比べることはできませんと阿難は答えます。あえて数字で表せば、百千万億不可計倍ならんと書いてあります。数字はインドではいつも掛けるそうです。百×千×万×億、数えられない不可計、それ位倍しても追いつきませんということだから、比べものになりませんと云うわけですね。なぜそうなのかということが次に云われています。「然る所以は、貧窮乞人は底極廝下にして」程度が低いということをこんな言葉で云っているわけであります。「底極廝下」卑しい下劣のものだと、「衣、形を蔽さず」ですから、服を着ているけれども隠れてないんですね、ぼろ衣を纏っているということです。衣を着けているけれどもむき出しになっているんです。「食、趣に命を支う」やっとのこと食べられる程度だと。「飢寒困苦して、人理殆と尽きなんとす」飢えているし寒いし困っているし苦しいしとすごい言葉が並んでいます。人の理、道徳ということでしょうね、人が人である最低限の、それもなくなりそうなんです。命を支えるのがやっとのことで人としての体面であるとか、人としてやってはいけないこととか、そんなことが尽きかけていると書いてあります。「みな、前世に徳本を植えず、財を積みて施さず、有るに富みて益す慳み、」すごい言葉ですね、前世にとらわれなくてもいいとおもいますが前からそうだというわけですね、徳本を植えなかったし、財があってもそれを人に施さないのですね、あったらあったでけちん坊になるというのが、これが貧窮乞人なんですけど思い当たることがあります。たくさんあれば施せばいいんですけど、あったらあったでそれを惜しむと書いてます。「但、唐らに得んと欲うて貪求して厭うことなし、」むさぼり求め続けるんですが、そのことを痛ましいとか、このことは止めようとか思わないんです、もっともっとということに拍車がかかっていくんです。更に「肯て善を修せず、悪を犯すこと山のごとく積もるに坐してなり。」物を貯めていく方に心が向きますからそのあり方を反省して、こんな生き方をしてたらいけないとはならないということ、「坐」という字は親鸞聖人は罪してと読まれることがあります、坐というのはそこに止まっているということですけど、その罪すると読まれる場合もあります。要するにそれが罪を作っていくということです。「かくのごとくして寿終え、財宝消散して、身を苦しましめて聚積して、これがために憂悩すれども己において益なし。徒に他の有と為る。」苦しみが今度積み重なっていくわけです、自分にとって何の益するところもない。せっかく貯めたものも今度は他人のものとなる。「善として怙むべきなし。徳として恃むべきなし。このゆえに死して悪趣に堕して、この長苦を受く。」命終わった後は苦しみの三悪道に落ちていくと書いてあります。長い長い苦しみを受けて、そこから出られない。「罪畢りて出ずることを得て、生まれて下賤と為りて愚鄙廝極にして、人類に示同す。」また人のところに生れてきたけど人類に示同すと書いてあります。人としては生れてきたもののというようなことでしょうね、果たして人と云えるだろうかと前世と来世ということが出るわけです。仏教の大事なところなんですけど、三世ということを語るのは実体的に前世がどうだったとか来世はどうなるという話じゃなくて、今生のことが今生で終わらないというこの業の深さ、業の持っている重さ、これを云おうとするわけであります。蓮如上人になると平生業成ということ非常に大事にされますが、日頃の生き方というのはとても大事ですね。
これは昨日うちのゼミであった話ですが、発表に当たっている四回生から、前日から39度の熱が出て来られませんというメールが来ました。それをゼミで報告すると殆んど全員が口をそろえて嘘だと云いました。本当に熱が出ているかもしれませんけど、これが日頃の業ということやなと喋っていました。なかなか信用して貰えない、それを取り返すには大分かかりますね。壊れる方は早いですよ、でも信じてを貰えるのを積んでいくのは大変です。平生の行いというものはこれぐらいの事なんですね。それが更に現世の話だけじゃなくて、今生で作った業は、これが死んでも終らないというのが来世に続いていくという話なんです。次に私は何に生れるかとかそういう個人的な話だけではなくて、人間の作った業は必ず連鎖しますね。私は死ぬから後は知らんと云うわけにはいかないんです。来世というのは次の世代やその次の世代にも業を残していくということがあるわけです。逆に云えばどこに生れどういう境遇に生れたかによって、好むと好まざるとに関わらずいろんなことを抱えていかなければならないんですね。日本ではそういう例はないかもしれませんけど、紛争の地域では生れてこの方小学校で勉強するよりも銃の撃ち方を最初に覚えるという、そんな国がいっぱいあります。そうしないと生きていけないですから、これは先祖が作った業ですけど、生まれた子供たちが初めから勉強したり歌ったりというよりも銃の撃ち方を覚えるという、これは前世の業ですね。その連鎖が止まらないということ、それが痛ましいということを仏教は私のやったことは私一代では終らないと云うんです。世俗の例を出しているわけですが、ここを固定するとなにが起るかと云えば、貧乏な人を見つけてあの人は前世の業が悪かったとか、こういうことを云い出すと変な話になるんです。だからここだけ切り取ると具合悪いです。でもさっき云いましたけど説教のネタに使われてきた歴史があるんですよ。例えば下巻の五悪段はどこでもあります。病気を抱えているというとこれは前世の行いが悪かったと書いてあるんです。だからそれは行いに気をつけて生きて行きましょうという呼び掛けなんですけど、それを人を判定する物差しにしてしまうんですね。病気の人を見て、あの人は前世の報いやとか貧乏なのは前世の業の結果やとかレッテルを貼るというようにここの教説を使うと大変な間違いを犯します。
前世・宿世・宿業
これは親鸞聖人の歎異抄では宿業という言葉で使われます。歎異抄の第十三条でも同じことが起きまして、宿業というのは自分の業の深さを思い知った言葉なんですね。例えば、日本に生れたというだけで、例えば僕なんかも戦後の生れであります、だから先の戦争については直接ボクが何かしたことはないんです。しかし日本に生れたということで隣の国との関係を生きていますから、例えば中国や韓国に行ったりすれば先の戦争のことをどう思うんやと問われるのはボクの業なんです。それは知らんと、俺には関係ないというのは自由ですけど、そう生きてるなら過去からの流れの中じゃなくて孤立した自分になっていくと思います。その業を自分の背景として受け止めたときに、それは宿業と云えるんです。受け止めてない人に、あんたそういう業を抱えてますよといくら云ってもそれは本人が関係ないと云えば、それで終わりの話です。親鸞聖人はこの宿業ということは自覚するということを抜きには絶対に語りません。人にこれがあなたの業ですよということを押し付けるわけにはいかないんです。自分で知った、気が付いたと云うことを抜きに宿業を語ると、これはさっきから云うように実体化して人にレッテルを貼る、そういうものに使われてしまうんですね。だから日本人として過去からの重い重いものを抱えているなぁとなったとき、今度その日本人としてどう生きるかということは次のことが出てきますね。でもこれ強制は出来ないです。親鸞聖人に至っては、その過去からの長い長い業ということを表現するときに罪悪深重とか煩悩熾盛の衆生と自分のことを仰います。私一人が悪い人間ですと、そんな話と違うんです、いいことをしているつもりで争いを続けてきた、そういうことを積み重ねてきたという業の重さを云ってるわけであります。そんな昔のことや過去のことは知らんというのも勝手なんですよ。そういうふうに自分のことを過去と切り離して生きるところには、またそういう業を作ります。周りと関係ない、自分は自分やから昔のことなんか知るかという、そういう業をまた作っていきます。それがどういうことになるでしょうね。これはもう昔の話じゃなくて昨今はそれがものすごく強いと思います。個人主義ですね、最後は何でも自己責任と云います。飢えていくのも食べられなくなるのも個人の働きが悪いというレッテルの貼り方をしてしまって、助け合うということがないとするとそういう業を今どんどん作っているんじゃないですかね。昔が良かったと云いたいんじゃないんです。いつの時代も一所懸命生き方を求めながら、前のような家で縛ったりということがないようにと云って自由になってきましたけど、今度はみんなバラバラになって生きにくくなってるかも知れません。いつも上がったり下がったり、左に行ったり右に行ったりぶれながら、どう生きるのがいいか分からないと云って生きている気がします。親鸞聖人の仰る罪悪深重というのは、良かれと思ってやったことでもお互い傷つけ合うようになっているという、そういう罪の深さを自覚した言葉です。人間がワシに任せとけとか、俺だったらいい国にしてやるというは当てにならんということを云ってるんです。誰かに頼めばなんとかなるという程、話は簡単じゃないんです。人間のものの見方、考え方をそこまで当てにすることの危うさを云う時に、仏さまの教えを聞きましょうというんのです。人間の誰かの力で何とかしてもらえばいいという程浅くないんです。いい世の中にしたつもりが今度は何か必ず反動が来るんです。丁度薬の副作用と似てるかも知れませんね。確かに人間は科学技術、医療の発達によって、嘗ては治らなかった病気を治せる力を手に入れてきたわけです。しかし、強い薬というのは必ず副作用があるわけですね。だからそれは治ったように見えるけど、今度は別の問題を引き起こすということが必ずあるわけです。いいことだけというのは絶対ないんですね。それを何か、時にテレビというのはそういう方向にあると思いますけど、いいものと悪いものとを分けてこれを手に入れたら幸せになるというメッセージが多すぎませんか。でもいいことにはその反面も必ずくっついているというのが仏さまの眼だと思います。そういう便利で都合のいいことを手に入れたというなら、必ず裏に何かあるんです。だから人間の良かれと思ってやっていることも危ういという、これを自覚した言葉が罪悪深重という言葉ですね。宿業の深さ、これは何年前からとはいかないんです。人類が生まれて以来作ってきた業と云って下さってるんです。しかしそれと合わせて仏さまの呼び掛けがあるんですよ。人間の今度こそ今度こそという考え方に対して、いいものを手に入れるつもりかも知らんけどそこにまた迷いを深くするというものが必ずくっついていると云うことを教える、そんなことでしょうかね。話が横へ行きましたが、今ここには宿業という言葉はありませんけど宿世とか前世という言葉、あるいは死んだ後という言葉で前世と来世ということを感じさせる言葉が並んでいるわけです。それは決して私たちが死んだ後どっかに行くという話ではないわけです。云い方を変えればその迷いの連鎖をどう超えていくか、迷いの連鎖をどう断ち切るか、これが仏教の課題なんです。仏教はその三世、過去から未来へのつながりの中の自分ということを云いますのでこういう書き方をするのでしょう。そうするとやっぱり仏教は前世を説く思想なんだとか、そういう話になるんですよ。それを実体的に説くわけではないんです。そういう迷いをずっと連鎖させていくようなものをどう越えていくかということなんですね。一応これは貧窮乞人、世間で云うと貧しく下劣な生き方をしている者の背景としてこういう云い方を出しています。それに対して今度は帝王が出て来るわけです。こっちは世間の人間にとっていい者の代表です。もういっぺん云います、ここだけ取らないでくださいね。ここだけ切り取って読むと今回頑張っとけば来世は帝王に生れられるという誤った読み方をしてしまいます。そういうことじゃなくて、業の連鎖というか、それを呼びかけたいのです。非常に身近な譬えをあげています。40頁下の段、後ろか独尊なる所以は」世間における帝王、それが人の中で最も尊い、ほかに追随を許さなような尊さの理由はなにかというと、ということですね。これが「みな宿世に徳を積めるによりて致すところなり。」徳を積んだ結果だと云っています。「慈恵博く施し」慈悲と恵みの心がひろく施して、「仁愛兼ねて済う」仁は憐れみという意味です、愛は大事にする心です、それを「兼ねて」その心で人々を救っていったというんです。「信を履み善を修して」人々の信頼にのっとり、「履む」って書いてありますけど、それを踏襲していくことです。人々の信頼を土台にしてそして「善を修して、違諍するところなし」たがったり争ったりするところがないと云っています。「ここをもって寿終え、福応じて善道に昇ることを得、天上に上生してこの福楽を享く。」天にのぼったと云うんですね。そして「積善の余慶これ」善を積んだ余りのよろこびと書いてあります。これは儒教の言葉ですが、善を積むことを勧めるわけですが、それを取り入れながら云っているわけです。ちょうど積善の余慶というようなもので、「今、人と為ることを得」たんだと。それが「たまたま王家に生れて、自然に尊貴なり」自然の賜物だと云っています。そして「儀容端正にして衆の敬事するところなり」人々が敬い仕えるところであります。「妙衣珍膳」妙なる衣、珍しいお膳、「心に随いて服御す」なんでも思いのまま、それを着たり食べたりできると書いてあります。「宿福の追うところなるがゆえに能くこれを致す」これは過去からの福徳のけっかでありますと、こういう云い方です。こっちの方は気安く読めるかもしれませんね。さっきの貧窮乞人の方は偉いきついですけど。しかしこれ、対比して述べているんです。世間にいろんな違いがあるけど、それは過去からの業による、そういう縁の賜物だということを云っているわけであります。
浄土の住人と帝王の比較
もういっぺん繰り返しますが、この部分が云わばサンスクリット本にはない所でありまして、だからこれが付け加えられたわけです。それは対比しないと浄土の人の姿が分からないからです。もう一遍云いますが、浄土は虚無の身、無極の体を受けると書いてあります。人間の価値観で計れないような躰を頂くんだと書いてますが、それがどんなものか分からないから、例えば貧乏なものと帝王と比べられるかと云って比べられませんと云うんです。次からが大事です。この貧乏なものと帝王との対比を通して、何をいいたいのかというのが次の段落なんですね。「仏、阿難に告げたまわく」お釈迦さまが阿難に言います。「汝が言、是なり」正しい、その通りだと間違いないと言っています。そしてそのことから思ってみると、よく考えてみると「帝王のごとき」今あなたが云った帝王は確かに人中においては尊貴にして形色端正だといえるけれど、「これを転輪聖王に比ぶるに甚だ鄙陋なりとす」転輪聖王というのは特に帝王中の帝王であります。王さまの中の王さま、誰もが尊敬する人、これをインドでは転輪聖王と云われます。世間の帝王は確かに優れているけれど、その転輪聖王と比べたらやっぱり劣って見えるわけです。「猶しかの乞人の帝王の辺にあるがごとくなり」ちょうどそれはあなたがさっき云った貧窮乞人と帝王の違い位違うんです。ところがそこで止まりませんね。じゃ、その「転輪聖王、威相殊妙にして」威厳のあるお姿が非常にすぐれていて「天下に第一なれ」並ぶもののない天下一の王さまというけれども、「これを忉利天王に比ぶるに、また醜悪にして相喩うることを得ざること万億倍なり」というわけです。忉利天というのは地上の世界じゃなくて、帝釈天がおられる世界と云われます。地上の中の一番上、天上界であります。その忉利天王と比べると、やっぱり転輪聖王といえども、万億倍も比べものにならないと云っています。ところが今度は更に、その忉利天王を第六天王、他化自在天と云われます、天の中の天と云われる、そこと比べると「百千億倍相類せざるなり」となるわけです。はじめの貧窮乞人の話はどっかいってしまいましたね。どんな王さまでも、どんな天の王さまでもかなわない。ここまできてその次、最後。「たとい第六天王を無量寿仏国の菩薩・声聞」これは無量寿仏国に生れたもののことですから、別に天にのぼった人ではないんです。ここに菩薩・声聞と書いてますけど、今までずっと読んできましたけど、ここに加えれば人も天も入ります。どんなあり方をしてきたものも経歴を問わずに念仏ひとつで阿弥陀の浄土の住人になることができるんです。だから阿弥陀の国の住人と比べるならば第六天王も比べものにならないと云ってるんです。それが「光顔容色」ですから、輝く顔、姿形、それは「相及逮ばざること百千万億不可計倍なり」これは一番初めの譬えの言葉を使ってますね。貧窮乞人と帝王は百千万億不可計倍と書いてありましたが、第六天王と浄土の住人とを比べたら百千万億不可計倍なりだとこう云います。ひとたび浄土に生れれば、それはこの世で想像できるありとあらゆるもの、それを超えているのだと云うことを云いたいのです。初めは貧窮乞人という劣った者と帝王と対比してましたから、貧窮乞人はダメなもので帝王はいい者だと読めるわけですけど、最後まで読んでいくと、そんなことは関係ないんです。浄土の住人になるならば世間の帝王どころか第六天王ですね、他化自在天の王さまでもかなわない、そういう姿をいただくのだということを云いたいわけです。それが39頁の最後にありました「みな、自然虚無の身、無極の体を受けたり」とこれを世間との対比の中で語っているわけです。だから比べられない世界があるということを一応比較を通して語っているわけです。それは比較という根性で生きている私たちには、比較されないとどれ程すぐれているのか、どれ程尊い姿なのかが分からないからということです。始めからこの譬えがなくても本当はいいんです。譬えがなくても浄土の住人は第六天王よりも優れていると書けばそれでもいいんですけど、そこに行くために身近なところから順々に積み上げるような云い方をしてるわけです。でもさっき途中で云いましたが、これが非常に具体的でありますので、ここを実体化することが起ったわけです。貧乏なものは前世でけちんぼだったから今貧乏だと書いてあるわけでしょ。それから王さまは前世にも福徳を積んだから王さまなんです。いまのあり方を見て、これは前世の報いだということを云うことが起ったわけです。そういう云い方はいっぱいありますね。実際それを説教の中でも使ってきた場合もあります。それはいいことをしなさいよと進める時には大事な説法かも知れません。しかし、それを今苦しんでいる人に向って、あの人は前世の行いが悪かったに違いないと決めるのは、これやっぱりダメなんです。お釈迦さまの教えの中で諸行は無常であるという言葉がありますが、これをいろんな面から押さえることができますが、大体は全てのものは移り変わっていくという時に使われます。でもほとんどの場合、特に日本では平家物語の初めにこれが出たものですから、盛んだったものが衰えていくときに無常という言葉が使われます。あの平家が没落したと、諸行は無常だと云ってね、悲しい時ばかり無常と云われるから厄介なんです。これは逆もそうなんですよ、昨日まで歩けなかった赤ちゃんが急に一歩歩けるようになるんです、すごいもんですね。これが無常です。喋れなかった子どもが急にまんまとか云い出すわけです、劇的な変化ですね。勿論そこに行くまでにはものすごい母親の語り掛けがあって、急に喋れるようになるわけですが、成長する方も無常なんです。昨日と同じということはないという意味ですから、だから衰えていく方だけが無常じゃない、決まったことはないんです。日々刻々変化するというのです。今のは成長とか衰えるとか、身体の話かも知れませんが社会的にもそうです。例えばさっきも戦争の話をしましたけれど、生れてこの方戦争が好きなんていう人間はいないです。生まれたときから殺人鬼なんていないです。やっぱり戦争に投げ込まれて、だんだん人を殺すことを覚えていく。学校の勉強よりも銃を撃つことを覚える少年少女がいるというのは環境がそれを変えていくんです。逆に今まで人を殺すような縁を抱えてきたものでも、これからは生き物を殺さずに大事に生きて行くという生き方が成り立つんだというのがお釈迦さまの説法なんです。有名なのはアングリマーラという、999人の人を殺したといわれてますが、その人をお釈迦さまは入門させます。仏弟子の中には身内を殺された人もいますから、あんな人は止めて下さい、仏弟子になれませんからと云うんですが、誰でも変わりうる可能性はあるんだというのがお釈迦さまです。無常というのはそこにも使うべきと思ってます。ですから、決まった者があるんじゃないんです、変りうるんです。清らかな心をもってこの世に生れて来ても、世の中の価値観の中で、とんでもないことになる場合もあるんです。教えに遇わないといけないんです。生き方を教えてもらわなかったら人間の欲望だけに突っ走るんです。だから教えの大事さが云われる、ここもそうなんですね。何が善で何が悪か、これを教えられていくことが大事で、これを世俗の価値観を通して述べてますけど、そこを人にレッテルをはるための説法に使ったらいけないです。だから全体を跳ね返すかのように最後には貧窮乞人とか帝王とか関係ないでしょ、だって世間の帝王も比べものにならない劣った者と云われてますから。となれば貧窮乞人も阿弥陀の教えに遇えば、そこに輝いていくことが成り立つわけです。世間の帝王も阿弥陀の教えに遇うところに人と比べて上だとか云う必要のない生き方があるわけです。もっと云えば第六天王、他化自在天の王さまでもやっぱり阿弥陀の教えに遇うところに、みな平等に光り輝いていく道があるんです。世間のものが想像できる一番すごい存在でも、一番下のものでも分け隔てしないということが、この阿弥陀の浄土の功徳として説かれることになっているわけです。初めに云いましたが、この部分は中国で入れ込まれたからと云って経典としてどうかという人がいるんですけど、表現として気をつけないといけないことはありますが、何を云おうとしているかを頂いていくときに、これを入れて下さったお心です。こういう具体的なことを云わないと自然虚無の身、無極の体だけでは頷かないこちらが居るということを見て下さった結果だと思います。お経が後から勝手に付け加えられたと云う話じゃなくて、こう云ってもらわないと確かに頷かないのが私だなという話です。これは無い方がすっとしていいかもしれませんよ、自然虚無の身、無極の体と云って、浄土はそんな世界ですで終わっとけば、現代語の感覚からしても疑問は起きないかもしれません。でもこういうことを敢えて盛り込まれた理由、そこを考えていくのが大事だと思います。もういっぺん一言で云っときますと、比較を超えた世界を語りたいわけですが、比較を通して生きてる私たち、比較でしかものを見てない私たちに比較の世界から引っ張って行こうという教えであります。
大無量寿経にも方便が混じってるんです。大無量寿経は真実の教えだからといって頭の一文字から最後の一文字まで全部真実だとはいかない。やっぱり真実に阿弥陀の世界、分け隔てのない世界、そこに引っ張っていくためには比較を通して呼びかけるということもあるんですね。これが方便、我々に近付いて教えて下さった方便の教えという意味であります。
一切衆生悉有仏性
沢山のことを云っているんではなかったですね、要点とすると最後の浄土に生れたものの姿というのはどんなものも及ばないということ、これが一番云いたいことです。繰り返しますが、浄土に生れるには念仏ひとつ、これをずっと説いているのが大無量寿経でありまして、それまでの経歴とか素質能力とかは一切問わないということが大事であります。初めにも云いましたが、それが実はお釈迦さまの目覚めた法そのものがそうですよね、誰の上にも行き渡っているんです。でもいつの間にか覚りを開くのは特別な人だけと思われてきたんです。でも法というのは誰の上にも行き渡っているということに釈尊は目が覚めたんですよ。お釈迦さまからすると自分がブッダに成れたということは、ありとあらゆるものが仏に成るということを確認したということであって、私だけが仏さまだとは云ってないんです。誰もが仏に成る法があったということ、もっと云うと誰もがそれに気が付いてないかもしれないけどその法の中にいるということに目覚めたわけであります。それを主張したのが「一切衆生悉有仏性」という言葉です。法を離れて生きている者は一人もいないということです。それに気が付けばいいんです。でも厄介なのはその一切衆生悉有仏性もオレの中にはあるのかとか、まだ私は磨き方が足りないとかなってくるもんですから、みな平等の法と云いながらまたそれがランクづけられたりとか能力や経歴によって区切られたりすることが起きるんです。いつもそれを破ろう破ろうとする、もっと云えばお釈迦さまの本当の心に還ろう帰ろうとする動きが仏教にはあったのです。繰り返しますが、その誰もに行き渡っている法、それが阿弥陀という名前で語られるんです。だから阿弥陀に出遇えば、阿弥陀を念ずれば誰の上にも捉われからから離れていく道があるという筋からしてもそうです。一番最後に行くと分かりますが、その阿弥陀というのは一番人間からは遠いんですよ。なぜかと云うと比較の世界を生きてるのが人間ですから、比較を超えて世界があるなどということは出遇いようがないのです。それはそうですよね、長年ずっとそれで生きてきたんです。長年とは生れてからだけじゃないですよ、生まれる前からその業に生きてるわけですから比較を超えた命の輝きがあるなんて云われてみても、そんなのはきれいごととしか思えないんです。そうは云ってもやっぱり金やろとか経歴やろという話になるもんですから阿弥陀の世界は難中の難なんです。これは一番最後に云われます。でも今ここはどんな者も浄土の住人となるところに比較を超えた、輝くというならどんな輝きも比べものにならないようなものを手に入れることができるという、これがさっき読んだところであります。ここからもういっぺん話は戻りまして、人天の姿を具体的に確認していくことになります。浄土環境の相
41頁の終りから2行目下の段、一段落、これは浄土の住人ですね。浄土に生れたものが得られる回りの環境を特に述べてあるわけです。何ひとつ不足がないということ、本願文とも一々対比できますけど遡らないでおきましょうね、そっちの話で終ってしまって終われなくなりますから。つまり環境として足りないものは何一つないということを云ってます。それが無量寿国のそのもろもろの天人、「衣服」着るもの、「飲食」飲むもの食べるもの、「華香」荘厳のものです。華香からずっと仏法の荘厳にかかわるものです。お花を立てお香をたき飾り付けをする。「繒蓋(ぞうがい)」というのは布でおおっている傘や身を守るもの、「幢幡(どうばん)」は旗ぼこです。要するに仏法を頂いていくお荘厳の道具も何一つ不足しない。仏を供養し褒め讃える時に必要なものは全部そろっていると云っています。身の回りのものだけじゃなくて仏法を頂いていくその環境が整っているということですね。これも何遍も云いますが、浄土に往ったら仏法はもう聞かなくてもいいんじゃないんです。逆なんです、いつでも聞けるのを浄土というんです。この娑婆世界ではたまにしか聞かないです。一日の内どれくらい仏法に心が向くでしょうね。それよりも世間のいい悪いというようなことばっかりに心が向くんです。今日もボクは電車に乗ってきたんですけど、隣の話を聞くつもりはなくてもでかい声で話されると耳に入ってきますよね。京都駅出てから西大寺着くまで誰かの悪口でした。はぁと思って、よくこれだけあるなぁと思いながら、知り合いならそんな云わなくてもいいんじゃないかと云いたくなるくらいでした。でも人のことだから云えるのであって、ボクも二人寄ったら同じことしてることもあるんですよ。そこに居ない人の悪口です、いる人の悪口って云わないですね。だから娑婆世界というのは仏法をいただいていくというのが難しい、折角寄り集まったのなら生き方の話してもいいはずです。最近どうって仏法の話してもいいはずですけど、残念ながらそっちには心が向きませんね。法事の席とか聞法会とか、こういう所へ来ると自ずと心が向くということはあります。浄土はいつでもその環境が整っていると書いてあります。仏法を頂ける、そういうことなんです。それがその後、「微妙の音声・所居の舎宅」と書いてあります。妙なる声がそこに響いてくるんです。勝った負けた得した損したとかそんな声が聞こえてくるのとは違うんですね。妙なる声が響いてくる、それがちゃんと居る所の住まいでしょ、「宮殿・楼閣、その形色に称う」必要なものに応じて与えられるのです。宮殿というのも譬えでありまして、広い場所がいる時にはちゃんと整うということが書いてある。それが「高下大小」ですから、それぞれの条件に応じてということです。「あるいは一宝・二宝」一つの宝であったり二つの宝であったり、乃至とありますから七宝も入ってますが、更にそれを開いて「無量の衆宝」ですから限りない沢山の宝、それが全部「意の所欲に随いて、念に応じてすなわち至る」とあります。念ずればすなわちそれが与えられるというんです。これも同じことが何回も出てました。前は水の譬えがありましたね。今度は百味の飲食という食べ物でも譬えが出てました。その時も云ったと思うんですが、それは都合のいいことが叶えられるという話ではないんです。逆に都合の良し悪しを超えて、それぞれのことを戴いていけるということだと思います。だって百味の飲食というのは身につまされるんですが、ご馳走を出されていても自分の嫌いな物ならいい顔しなかったりするんですよ。同じ酒でも銘柄によって顔に出たりするわけですよ。結局それぞれをそれぞれに楽しむということが出来なくなってる。それは何が邪魔してるかと云えば、こっちの執着ですね。ところが浄土は執着を離れるから百味の味をそれぞれに味わえるということなのです。なんでもかんでも貰えるという話とはちょっと違うんですね。今の季節はこれかとか、今日はこれだけかと、全部それを時に応じて頂戴できるというのが浄土に不足がないという意味だと思います。余るほど皿に盛ってあるという話とは違うんです。ここも念に応じてと云いますけど必要に応じて与えられるという書き方ですけど、これは都合がいいという話ではないと思います。「また衆宝の妙衣をもって」沢山の宝で出来た妙なる衣をもって「遍くその地に布けり。一切の天人これを践みて行く。」とあります。それから「無量の宝網」ですから、今度は宝が覆っています。「みな金縷・真珠・百千の雑宝、奇妙珍異なるをもって荘厳し交飾せり。」宝物を頂いていくわけです。「四面に周帀して垂るるに宝鈴をもってす。」宝の鈴ですから妙なる音もなるわけですね、それが「光色晃耀にして」輝いているわけですが、「尽極厳麗」極まりですが、厳かにきれいに飾られています。「自然の徳風、徐く起りて微動す。その風調和にして、寒からず暑からず。温涼柔軟にして遅からず疾からず」これも丁度いい風が吹いているという話ですけど、その時その時の気分で違うんですね。作物を作ってらっしゃる人はこないだから天気が良すぎますからそろそろ雨降らんかなと思ってらっしゃるでしょうし、しかし明日行事抱えている人は明日雨降ったら困ると云うわけで、結局雨を邪魔物にするのはこっちの根性ですね。それをちゃんと必要に応じて頂戴していくんですね。今日は雨かということをいただければ、雨は雨で大事、晴れたら晴れたで大事ということがあるわけでしょ。その反対を願ってると、今度はいつもあれが足りない、これが邪魔物やとなってしまうんです。浄土に生れるということはその憎む心から解放されることでしょうね。何かを邪魔物にしてこれを手に入れなければ幸せになりませんという、その捉われから解放されるということがあるから全部が邪魔物じゃないんです。そうは云っても、こないだのアメリカのようなトルネードが来たらどうなるか分かりませんからね、本当に思ってもみないことが起きるわけです。しかし人間からすればこの邪魔物、起こってはいけないことですけど地球のことから云えばああいうことも起きるんですよね。人間からすればね、都合はよくない。しかし自然は私たちを苦しめてやろうと思ってああいうことを引き起こしたわけじゃない。ましてやどこかに神様がいて罰を当てたという話でもないです。仏教ではそこが徹底していまして、これはいい悪いを超えて縁が整って起こる縁起なんですね。その縁起をある時は都合がいいと云ったり、ある時は都合が悪いと云う、こちらの根性が逆に問われるわけです。都合の良し悪しを云っていく限り最後は自分の身内であっても都合が悪くなったりします。最後は自分を支えてくれたこの身体でも動かなくなったら都合悪いでしょう。その根性を破って下さるのが浄土の教えなんです。見方が変りますよね。若い時のようには動かないけど長いこと支えてくれたなぁというのが実際ですね。心臓ひとつでも、よく今まで黙って文句も云わず打ってくれたなという話で、若い時のように元気には動きませんね。でも受け止め方によって、ああ今日もちゃんと動いてくれているというのは、ここで云えば多くもなく少なくもないという話でしょ。だから邪魔物にしている心からの解放ということが根っこにあるということを読まないと、都合いいことが浄土には転がっているというような話になってしまうんですね。繰り返しますが、百味の飲食ということがなかなか受け止められなかったんです。浄土に往ったらうまいもんがあるとずっと思ってたんです。でも何が出て来ても文句を云う自分が見えたときに、そうではなかった話が分かりました。どれだけ沢山のものを頂戴していても、まだ文句を云ってる自分が見えたときに、浄土は沢山あるという話じゃないことを初めて受け止めることが出来たわけです。あと全部そうです。水も風も音楽もそうなんです。都合のいいものが都合のいいようにあるという話ではないんです。
「もろもろの羅網およびもろもろの宝樹を吹くに、無量微妙の法音を演発し、万種温雅の徳香を流布す。」そこに音が聞こえてくると同時に功徳の香りが行き渡るというわけです。音だけじゃなくて香りも漂ってくるんですね。前に光のところでありましたが、光は目で見るだけじゃなくて耳で聞く、あるいは体に触れる、あるいは潤されるということが出ておりました。五感で感ずるんですね、光も。ここでは音、風でありますけど、風も耳で聞きそして香りで嗅ぐというように云われます。環境全体を戴いていくということでしょうか、だから「それ聞(か)ぐことあれば」とルビ振ってますね。聞(き)くでもいいんですけど、音を聞くだけじゃなくて香りを嗅ぐということもあるので、聞(か)ぐとしています。実際お香の世界も香道というのは聞香と云うんですね、お香を嗅ぐと云わずに聞くという。でもこっちの方が古いでしょうね、匂いを嗅いでるだけじゃないですね、いろんなことをそこに聞いていくんでしょうね。音を聞き、香りを嗅ぐところに「塵労垢習、自然に起こらず」と書いてあります。塵労というのは私たちの煩悩のことを云います。塵と労というのは私たちを煩わせるものでしょ、だから煩悩の異名なんですけど、ちり程沢山あるんです。いろんな形で出てきます。そしてその縁に応じて、ああでもないこうでもないと煩わさせられている、これが煩悩を塵労と云っている意味です。それが「自然に起こらず」起こらないと書いてます。塵労がなくなったと書いてないでしょ、有るんだけどそれが出て来ないんです。同じ場所に居ても違うというんです。腹立つ心が消えたんじゃないんです。でも阿弥陀さまの教えを戴くところに見る眼が変る、それが塵労起こらずということです。だから自分の根性が立派になったんじゃないでしょ。阿弥陀の法の教えの力によって起こらないということが自然なんです。もう一つ、垢習とこれも詳しくいってます。垢習とはあか、あるいはならいと書いてあるでしょ、腹ばっかり立てていると、それがだんだん習いになっていくんです。ケチクサイことばっかりしているとだんだんケチ臭くなっていくんです、習い性となるというようなものです。いつもそう思っているとそれが身についていってしまう。習慣ですね、分厚い垢のように染み付いていくんです。これは煩悩とその残りかすとも云われますが、それも出て来ないわけです。長年積み重ねてきた習慣、これは本当は出やすいんです。本当はすぐそっちの方へ生き易いんですけど、阿弥陀の教えを戴く、阿弥陀の世界に生れるところにその長年の習慣も顔を出さないようになると書いてあるんです。繰り返しますが、垢が取れてきれいになったとは書いてないんです。垢は洗われてもうなくなりましたとは書いてありませんから、阿弥陀の世界を離れればやっぱり長年の習慣の方に一気に戻りますよ。こっちは慣れてますから早いです。阿弥陀さまの方はたまにしか念じないものですから、なかなか出て下さいません。厳密な云い方だと思います。「自然に起こらず」と書いてあります。「風その身に触るるに、みな快楽を得」、阿弥陀の浄土の風を戴いていくんです、それを「たとえば比丘の滅尽三昧を得るがごとし。」滅尽定といって、すべての思いや計らいが滅し尽きたような、定というのは三昧のことです、滅尽三昧インドの言葉で三昧、サマーディですが、それを訳して定という字を書いています。精神が集中したということです。ボクは現地であったことありませんけど、インドの本を読むと今もそんな修行者がおられて、呼吸法を徹底してやると最後は仮死状態にまで行くことがあるそうです。しばらくは肺呼吸しなくても大丈夫なんだそうです。それをやる人は首を土の中に埋めて息をしないということをやってるんです。それは仏教の覚りでもなんでもないですよ。無心定ともいわれます。心の働きがなくなったような状態と無想定と二つあります。仏陀は座りながらそのまま身体を休ませることが出来たそうですね。ボクらには横にならないと無理ですね。横になって夢も見ないようなときというのは、本当にぐっすり寝たなという時あるでしょ、身体が休まってますね、自然と。たまにボクらに起るのは寝てる時です。仏陀がすごいのは、それが起きてるままですよ。もっとすごいのは目を開けてても大丈夫なんです。目を閉じてじゃない、半分開けてても外のものに脅かされないし誘惑されずに、それで身体が休まるんです。これを滅尽定といって、仏陀はたまに身体の休憩のために、そういう定に入られたそうです。でも仏陀はそれを覚りとは云いません。天上界の一番上の精神状態だそうです。何にも思わない、思わないということにも捉われない、本当に身体がスーッと休まっている状態です。でもまた滅尽定から出て来て日常のところに向き合っていくんです。もしか定にずっと逃げ込んでいるなら、それは覚りではありません。苦しんでいる人がいても知らん顔してるわけですから、それは覚りではないです。仏陀は身体を休ませて、またそこから世の中の問題や悩んでいる人に向き合っていくわけですから、大事なのはここまで到達してもこれは覚りじゃないということです。これは覚りの境地ではありません。ただある意味で身体が一番休まる楽なあり方ですから、ここでそれを引き合いに出してるわけです。滅尽三昧なんか得られませんけど、阿弥陀の浄土の風に触れるならば、あぁ心の底から休まったということが起きるわけです。まぁぐっすり寝られる日が来るということです。追い回されていたことから解放されるということが起こるんです。阿弥陀さまの話を聞かなかったら、結局は勝ったか負けたか、損か得かで心休まるときはないです。寝たときでも何時間寝てても休まらないんです。なぜかというとやっぱり比べる世界に呑み込まれているからです。本当に阿弥陀の世界を戴くところ、阿弥陀の世界に生まれるところに滅尽三昧を得るようなものだと書いてある。本当の安らぎということの譬えとしてこれが出ているわけであります。こういうのを引き合いに出すというのは面白いですね。でも裏を返すと滅尽三昧を得ることを頑張らんでもいいですよ、こんな話すると急に今日から頑張りますという人が出て来るんですけど、そんな話じゃないんです。大丈夫なんです。南無阿弥陀仏をいただいていくところに滅尽三昧を得るのと同じことが起るんだと書いて下さってるんです。今から修行を積み上げなくてもいいんです、そのための引き合いにこういうことを出しておられるんでしょうね。出家の修行、比丘の修行をしなくても、在家の信者にもこれが成り立つということです。
あと最後の一段、42頁の後ろから3行目からの一段落を読みましょう。
ここで、極楽段が終わるわけです。最後にはまた浄土の環境のことが出て来るわけでありますが、今まで出てきたようなことが前半続いてました。「また風、華を吹き散らして遍く仏土に満つ」、華が世界中を覆うというんですね。「色の次第に随いて雑乱せず」、ぐちゃぐちゃにならないということですね、ちゃんと色なりにまとまっているということでしょうね。「柔軟光沢にして馨香芬烈せり」柔らかく光って潤すようなものがあって、香りが盛んであるという意味です。「足その上を履むに、陥み下ること四寸」、四寸も沈むということはふわぁーっとしてるということですね、「足を挙げ已るに随いて還復すること故のごとし」足を上げ終わるとまた元に戻るというんです。ふわぁーふわぁーっと歩いていくんです。ボクらが日頃歩く中で障害や邪魔物に躓くということが起らないと云っているんです。私たちの歩みが妨げなく歩んで行けることをこう例えて云っています。「華用いること已訖れば、地すなわち開裂して、次いでをもって化没す」ですから、地面が割れてそこにその華がちゃんと収まっていくんです。つまり役目を終えた華がいつまでもそこにないというんですね、シワシワになったり足にまとわりついたり、そんなことがないと一々こういうことが書いてあります。「清浄にして遺りなし。その時節に随いて、風華を吹き散らす。かくのごとくして六返す。」「六返」というのはいろいろ解釈ありますが、歩みがつづいていくことです。六種震動という言葉がありますが、何回も歩みを重ねるということを六返と云っています。歩みということが最後の方に出て来るということが象徴的かと思います。つまり浄土にただじっと居るんではなくて歩んで行くんですね。その歩みになんの妨げもないという譬えとして読みたいです。
この最後の一段、これがまた古い方の大経にはでてきませんで、こういう形で終っていくというのは非常に興味深いです。梵本、サンスクリット本にも出てきますがここまで詳しくはありません。あとで和讃にまでなっていますんで、それを最後に読んでおきたいですが、親鸞聖人はやっぱりここを大事にしておられます。
最後の一段をもう少し詳しく読みますが、3行目、「また衆宝の蓮華、世界に周満せり。一々の宝華、百千億の葉あり。その華、光明、無量種の色なり」といって六種類の色が出てきます。「青き色には青き光、白き色には白き光」「玄黄朱紫」ですから、青・白・黒・黄色・朱色に紫、六種類あげて「光色もまた然なり。暐曄煥爛として、日月よりも明曜なり。」太陽や月よりも明るいと云うんです。これは阿弥陀経の方が有名かも知れませんね「青色青光、黄色黄光、赤色赤光。白色白光」と詠んでいます。浄土には青い蓮の花には青い輝き、黄色い花には黄色い光、赤い花には赤い輝き、白い花には白い輝きと云ってますが、ここでは更に加わって黒と紫が入っています。でも六種じゃないですね、無量種の色なりとありますから、数限りないそれぞれの輝きをもって輝いているということです。阿弥陀の世界は色によって差が付きません、ランク付けはありません。値段付きませんね。それぞれがそれぞれの輝きですから華もそうでありますけど、そこに居る住人もそこに居る人も上も下もないんです。これが花がそれぞれに輝いているということで云われます。それが更に「一一の華の中より三十六百千億の光を出だす」なぜこうなるのか分からないですけど、一つの華の中から三十六百千億の光が出る、昔の解説を見ますと百千億の葉っぱから6×6=36の色が出るからと書いてあります。有限の数をもって無限を表わすということだと思います。だからあんまり数にこだわらんでもいいと思います。その証拠に次にもう一つ云っています。「一一の光の中より三十六百千億の仏を出だす」そして「身色紫金」とあります。身の色が紫金、紫金というのは金の中でも色褪せないものと云われます。それが「相好殊特なり」と云われます。その「一一の諸仏また百千の光明を放」つのですから、数はわからなくなってきたでしょ、もう計算できませんよ。捉われない方がいいと思います。でも一つひとつが沢山のものを展開してくるという、そういうことを云おうとしてるんです。一つの仏さまが一色じゃないんです、いろんな働き方をするんです。確かにそうですね。お釈迦さまお一人とってみても相手の悩みに応じて法を説かれた。これが八万四千の法門という意味ですね。なぜ教えが八万四千になったかと云うと、悩みが八万四千だからですわ。患いや悩みが人それぞれ違うから悩みに応じて説くわけです。だからお釈迦さまの説法は八万四千の法門、悩みの数だけです。ここで云う仏さまも華の中からいろんな仏さまが出てきますが、それがまた百千の光明を放つ、相手に応じて法をお説きになるからそうなるんです。その輝きは相手との関係によって光り輝くんです。お釈迦さまは同じことを云いたいのかも知れません、貫いている方があるわけですけど、相手がそれを引き出してくれるわけです。お釈迦さま一人だったらその輝きは出来ないかもしれません、相手との関係の中でお釈迦さまの光は膨らんでいく、展開していく。あと最後ですね。「普く十方のために微妙の法を説きたまう」たくさんの諸仏がそれぞれに百千の光明を放って残すところなく十方世界の十方衆生のために微妙の法を説いてくださる。「かくのごときの諸仏」これだけたくさんの仏さまはそれぞれに無量の衆生を、「仏の正道に安立せしめたまう」と書いてあります。これがさっき云いました無量寿経の古い方にないんです。新しい方の如来会とサンスクリットにはちょっと出てきますけど、こんなに詳しいのはこの無量寿経だけなんです。
極楽段の締め括り
ここから少し話を展開したいんですが、浄土は浄土の世界だけで固定化されているんじゃなくて、最後を見ると、そこから無数の仏さまが出て来て十方衆生のために無数の光を放つことによって法を説くと書いてますね、阿弥陀の世界は一応西の方にあると書いてありますけど地域限定じゃないんです。そこからたくさんの仏さまが出て来て十方衆生を仏法に立たせていくと、こう書いてあります。まとめますと、阿弥陀の浄土というのはどこにでもはたらいていく、どこにでも届いていくようなそんな功徳を持っていると書いてあります。だから西に行かないといけないという話じゃないんです。私たちが教える時には一応西にあると教えます。それは仏さまの世界に向けよという呼び掛けです。しかしそれは具体的にはどっちの方角ですかという話じゃなくて、ここにも届いて来て下さるはたらきなんです。浄土は行く世界、往生する世界として語られますけど、この最後のところを戴くならば浄土は既にこっちに来ていると云っていい。私の生活の現場にまで南無阿弥陀仏として届いていると云っていいと思います。これを親鸞聖人のご和讃で頂いておきますが、聖典482頁真ん中の段40,41,42の三首がいまの部分から作られたご和讃です。40「一一のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし」
41「一一のはなのなかよりは 三十六百千億の 仏身もひかりもひとしくて 相好金山のごとくなり
42「相好ごとに百千の ひかりを十方にはなちてぞ つねに妙法ときひろめ 衆生を仏道にいらしむる」
ご和讃というのは七五調の歌ですから、入って行き易くありませんか。さっきのお経は覚えるのは大変です。しかしこの和讃三首だったら、何回か唱えれば入ってきますよね。この和讃でお経の心を戴いていけばいいんですよ。これは大無量寿経があって、これを曇鸞大師が漢文の歌にして下さっていま。それを親鸞聖人は更にやまと言葉にして下さった。言葉に当たっておきます。「一一のはなのなかよりは、三十六百千億の光明てらしてほがらかに」明るく輝いているんです。「いたらぬところはさらになし」阿弥陀の世界の様々な光がそこら中に届いている、届かないところはありませんということです。二つ目は、一一のはなの中から出て来る三十六百千億の仏さまのお身体も光りも等しくはたらいて来るわけですが、そのお姿は「金山のごとくなり」金の山のように輝いていると書いてあります。生活の中で目印というか、何を拠り所にしているかということが具体的にお示し下さるということを金の山に譬えてます。それが光であり、仏さまのお身体そのであるのです。三つ目はそのお姿ごとに百千の光を十方に放っておられるというのです。その光を通して仏法、大事な法を説いて広めて下さっているんです。それによって衆生を仏道に入らせてくださいますという、こういうご和讃です。阿弥陀の光はこの娑婆世界、十方世界に至り届いている、その光を通して仏法が響いてくる。それによって迷い苦しむ者は仏道に入ってくることが成り立つんだということを親鸞聖人は歌っておられるんです。
圧倒的に働きかける浄土
云い方を変えますと、我々が仏道に入っていくのはどこまでも仏の働きかけによるということが出来ます。仏法に入るのは心がけが大事でしょと云う方がおられます、心がけが大事でないとは云いませんけど、心がけが大事でしょと云うと、私は一所懸命求めたから入りました。あの人は不真面目やから無理と云い出すんです。でも親鸞聖人はそういうことを云わない。仏法に入るのは仏の働きかけによって入れさせてもらうんであって、私の心がけが立派で入ったんじゃないんです。云い方を変えると、私は辛い体験をしたから、仏法に出遇ったという人はあります。それはご縁だったかも知れませんが、でもつらい体験をしたからと云って仏法に出遇えるかどうかわからないです。仏法に出遇う、いろんな友達の力や引っ張って下さる人があったりということがあったわけで、つらい体験したから私は出遇ったという人は、必ずあんたはまだつらい体験してないから分からないと云います。結局個人に基準を置くと、そこで分け隔てしていくんですね。でも親鸞聖人は絶対そうは云わない。自分は子どもの頃から漢文読んでたとか、20年比叡山で頑張ったとか一切云わない。法然上人のお蔭で念仏に出遇いましたという。苦労なさったのに間違いないんですが、それを一切云わない。ご和讃に戻せば、私が仏法に入れたのは仏法の力だという。こちらからの話じゃなくて向こうから法然上人を通して阿弥陀のはたらきを戴いて歩むことが出来るようになりましたということです。自分を立てない、自分の経験や素質に根拠をおかないということの裏側の云い方だと思います。もういっぺん云いますけど不真面目でいいという意味ではないですよ。求めなくていいという意味ではありません。しかしどれほど求めたからといって出遇ってみれば、それは仏法の力だったなぁとなるはずです。自分に根拠を置けば必ず求めてない人を馬鹿にしたり、出遇ってない人の体験が足りないと云って貶めたりするんです。だから仏法に出遇うものはどこまでも仏の方からの働きかけがこっちまで届いて来てくれる、それに依るんだということが常に妙法を説き広め、衆生を仏道に入らしむるという言葉なんです。そういうようにここを読んでおきたいです。「各各安立」という言葉がありましたけど、私たちを仏法に立たせる、本当に安定して立たせる、これは仏法の働きとして頂いていくべきだということを親鸞聖人は確認しておられる、そんなご和讃だと思います。今日のお経の最後は長いですから読むと大変ですけど、たった三首の和讃ですから、これは仏教讃歌にもなってますし、いろんな形で口ずさんでいただければ仏法が確かに日常生活の現場まで届いているなぁということを確かめて行くことができるご和讃であります。これを口ずさめば、こっちへ来てるんです。日頃は来てないわけじゃなくて、忘れているだけでね、思い出せばいつでも来ているというそういう世界が浄土の極楽段ですが、一番最後のところに確かめられているということが、非常に大きいと思います。
もういっぺん云いますが、行ってどうご利益をいただくかということがずっと説かれてましたが、最後は行った話じゃなくて行かないまでもここに居ながら頂戴できる利益、これが語られています。これは実は親鸞聖人が大事になさった浄土の受け止めの本当に要のところだと思います。一応浄土は行く世界です。往生しなさいと云われますけど、場所としてどこかに出かけて行く話じゃないんです。こっちに来ているはたらきを受け止めるということ、これが要だということですね。