大無量寿経講話【第14回】 2013/ 3/ 29 一楽 真 師
浄土の荘厳
法蔵菩薩の願が成就して阿弥陀仏の浄土が建立されたとこのお経には説かれていました。ここで云われている浄土とは、すべての者が例外なく安んじて居ることができる世界を表わすものでした。このような、言葉にすることが困難な世界にあえて形を与えて語って下さったのが前回の宝樹や道場樹の比喩でした。何回も申し上げてますが法蔵菩薩が国を建てたというと、建設というか場所としてお造りになったようなイメージが拭えないんですが、親鸞聖人が大切になさったのは「荘厳」なさったということです。形をもって示して下さったということでして、どこかにそういう場所が実体的にあると思うと、厄介な話になるんですね。いつ行くんですかとか、何に乗っていくんですかとか、そこに行くにはどうしたらいいですかとか、すぐそういう場所を移動する他世界のようなイメージが湧くんですが、そうじゃなくて荘厳されたということは、こういう世界が大事だよということを私たちに呼びかけて下さっているのです。だからその荘厳された世界を私たちがそのまま、例えば物を貰うように、手に入れるというように考えると、浄土の教えは変なことになるんですね。まだ手に入りませんとか、長年聴いているのになかなかそういう心境になれませんとか、すぐ実体的なところに陥るわけです。初めから荘厳と書いてあります。これはあえて形にするということです。形にするということはそれに執らわれるという危険もありますけど、あえて形にしないと私たちには手掛かりがないですから、どういう世界が大事かということが分からない。そういうこちら側の問題を見抜いて、あえて形にして下さったのです。何遍も申し上げますが、お釈迦さまの説法は基本的にそうですよね。本当は言葉に出来ないような世界にお釈迦さまは出遇われた、言葉を超えた世界を見出されたわけです。語りえぬものを語る
ところが言葉を超えているから云えないと云ってしまったらお釈迦さまの覚りはわからないままです。言葉には出来ないけど敢えて言葉で語る、それに踏み切られたのが初転法輪の説法でありました。でも言葉にしたらその途端にこちら側にはまた様々な先入観や執われが起きるんです。例えば、お釈迦さまが覚ったと云うでしょ、覚ったという時に今までの在り方は迷っていたとか、夢を見ていたと云うわけですが、云った途端に迷いはダメで夢見ているのはダメなことで、それを捨ててしまって覚りに行かないといけないというイメージも付いてしまいます。でもそうじゃないんですね。覚りというのは、迷っていたということに気付く以外にどこにもないんです。迷いを壊してしまったら、覚りもどこにもないんです。でもあえて私たちに課題を示すために、迷いを超えて覚りに至れという言葉で説かれるわけです。浄土についても同じことで。浄土をひとたび立てると、迷いの世界は穢土と名付けられます。しかしそれが実体化されると穢土を捨てて浄土に逃げ込むような話になるのです。私たちが生きているこれは穢土だと、ダメな世界だと。覚りの世界に行ってしまわないといけないというイメージです。そうするとどうしてもこの世と浄土との関係、穢土と浄土との関係がいいものと悪いものというような価値付けの中で語られるのです。しかし、繰り返しますが、浄土はどこまでも穢土を見る眼を私たちに与えて下さる教えなんですね、はたらきであります。こんどまたそう云うと厄介なんですね、じゃこれはお話ですかとなってしまう。私たちが帰るべき世界として語られるという意味では、浄土に往生しなさいとも云われる。いつも表現された言葉に縛られるからではありますけれど、言葉とは私たちに動きを与えようとする、そういうものだということです。宝樹が意味するもの
前回から読んでいるところがそれが特に具体的に書いてありますので執われやすいんですね。聖典で云いますと33頁から36頁まで、一つには七つの宝で出来た樹が生えているという七宝樹の話をさせて頂きました。もう一つは、その中心に道場樹が立っているという話をしておったんですね。少しだけ振り返りますと、七宝樹の方は金の樹や銀の樹があると書いてあるわけです。ただこれも我々の日頃のものの見方に応答しながら説くのです。金とか銀とかいうことが我々にとって宝物のようであるがゆえに、阿弥陀の世界は宝物ばかりだと書いてあるんです。しかしそれは金目のものが転がっているという意味ではなくて、阿弥陀さんから見たら宝でないものは一つもないのです。一つの樹を見て人間はどうしても売れる樹と売れない樹とを量る癖がついていますけど、それぞれいのちという眼で見れば、いいいのちと悪いいのちというのはあるかという問題なんですね。自然界のものは全部そうです。もっとそれを広げて云えば、人間にも。ついつい我々は価値付けをしてしまいますが、人間のいのちに例えれば100点のいのちと50点のいのちという値段が付くのかという問題なんです。仏さまから見れば宝でないものはないというのが、この七宝樹の譬えでありました。つまり国中に金や銀や宝で出来た樹が並んで立っていると書いてあるんですが、もう一回云いますが、金目のものが並んでいるという意味じゃなくて宝でないものは一つもないという意味です。これが仏さまが見ている世界であります。それを教えられれば教えられるほど宝物に見えていない私の見方が問題だということが分ってくる。これが浄土が荘厳されるところに私たちに働きかけが起こりますね。宝物として見る眼が全然なかった、でもそれはある意味でやむを得ないんですね。生まれてこの方、競争社会に投げ出されて、とにかく一歩でも半歩でも人より上に行けと、こうやって育てられるわけです。それが人間としての価値だとなっている、ですからそれ自体おかしいと見る眼が人間にはないと云ってもいいです。でも浄土ですべてが宝物だという世界を見せられてみると、宝物として見られなくなっている私たちの生き方って何だろうかということが初めて問われることになるんです。これが浄土荘厳によって見せてもらえる私たちの日頃の事であります。だからどこかにある場所ととると変なことになるんです。ただそう云うのはボク自身、今から数えると37年も経ってしまったんですが、18歳で大谷大学に入学してずっと勉強してきたんですけど、初めの頃この辺りのところは読む気がしなかったというか、引っかかるんです、どこかにこんな場所があるって書いてあるわけでしょ。しかも西の方って書いてますから、西へあんまり行き過ぎたらまた地球を一周するやないかって思って読んでて、この辺りは何か、お経であるのにお経として読めないんです。自分の発想で掴もうとするからこんな場所はあるはずないとかね、例え話としてもあまり良く出来てないと思ったりしておったんです。しばらくすると、今度は欲深い私を導くために浄土には金目のものが転がっているぞと云ってくれているのかなと思った時期もありました。だから浄土に来ればあなたの願いは全部満たされるという形で引っ張ってくれているのかと思ったこともあります。主従関係を超える
前回ご紹介しましたが、親鸞聖人の受け止めで云うと、「七宝樹林くににみつ 光耀たがいにかがやけり」というご和讃を作っておられます。光り、輝き、お互いに輝かし合っているというご和讃を作られています。そのご和讃を改めて読んだときに初めてお言葉の意味が分かったんです。一本の樹が金、枝が銀、さんごの葉があって琥珀の実がなっていると書いてあります。でも別の樹は琥珀の幹から珊瑚の枝が出て、銀の葉があって金の実がなっていると書いてます。要するに、幹やら枝やら葉っぱがお互いに入れ替わっている、何が主人で何がそれに従うものとかいう関係がない。主従関係がないと云うことを書いてあるのがこの部分なんですね。しつこい程に、ある樹を見れば珊瑚の実、ある樹を見れば銀の幹とか書いてある。なんでこんな長々と書いてるのかと思ったら、主従関係がない、お互いが入れ替わっているという譬えだったのです。これは宗祖のご和讃を通さなかったら、とても読めなかったと思います。そして主従関係がないと云うことを教えられてみると、確かに我々は日頃主従関係をつけて生きてます。親であれば子どもが云うことを聞くべきやと云ったりしますね。会社であれば上司の云うことを聞くのは当り前です。しかし、そういうものの見方ではなくて、例えば親子で云えば子どもが生まれたことによって親にさせてもらってる、あるいは子どもがいろんな問題を引き起こすたびに親も一緒に悩んだり考えたりするということと出遇わされる。つまり子どもによって親がだんだん育てられていくという事実もあるんです。これがここで云う、お互いが入れ替わりながらお互いが支え合ったり輝かし合ったりしているという事実です。自然界との関係は完全にそうですね。いまどう見ても人間中心の世の中になってますわ、人間さまが自然界をも支配しようとしたり、自然界をも利用したり、利用できないものは邪魔物と考える癖がついてますが、しかし実は自然に支えられながら私たちは息できるのですね。あるいは大地に支えられながら、歩くことも成り立っているんです。だからどっちが主人でどっちが支える側ということはないんですね。一方的なことは一切ない。これが前回読んでいました七宝樹、入れ替わり立ち替わりお互いが幹になったり枝になったり葉っぱになったりしているという、こういうことを詳しく説いている意味だと思います。道場樹
それを踏まえて、もう一つ35頁辺りからでしたが道場樹の話でしたね。これも繰り返しませんが、阿弥陀の世界にはどこからでも見える高い高い樹が一本立っているんです。ここに仏法がありますという目印であります。四百万里という高さですから、スカイツリーどころじゃないです。どこからでも見えるということはあそこに仏法があるという、その樹を見れば仏法を思い出させていただくということです。高い樹を見て値打ちがあるという話と違います。珍しいものを見たという話じゃなくて日頃の生活の中では忘れていることがいっぱいあっても、その樹を見るところに仏法を思い出させていただくわけです。この樹を見るという言葉が出てましたが、見るだけじゃなくて耳にその音を聞き、鼻にその香りを知り、舌にその味わいをなめと書いてありましたけど、五感をもって触れることができるのが道場樹なんです。目に見えるか見えないかもあまり関係ない、耳が遠いか遠くないかも関係ない、私たちのどんな感覚器官にも訴えかける、つまり何を通して見ても出遇うことは可能だということを云ってるんです。そこに触れれば必ずこの世の中に耐えていくことが出来る法忍と書いてありました。仏法による忍という字です。忍という字は、言(ごんべん)が付いた字とも通ずるそうです。ですから法に依って覚るという認識の認と重なるんですが、あえてごんべんのない字で伝えてるのも面白いです。本当に認識すればその事実に私たちは立っていくことが出来る、忍といっても我慢じゃありません。我慢というのはいつかご褒美をもらうために我慢するとか、いつか仕返しするためにしばらく黙っておくとか、そういうのが我慢です。いつか見ていろというのは我々が云う忍耐かも知れませんね。でもそうじゃなくて、現実を耐え忍んでいくことが出来るのが本当のことをはっきり見たからです。これは仏陀で云えば諦という、四諦八正道の諦とも通ずるわけです。これも諦めじゃないですね、明らかに見るという意味です。仏陀は事実をハッキリと見たからこそいろんなことが起ってくるその現実に耐えながら、我がこととして受け止めながら生きられた方です。一つだけ例を出せば、お釈迦さまは命終わられるときはチュンダという人が差し出した食べ物が消化できずにお腹をこわして亡くなっていくわけです。周りの人がチュンダを責めることは分かっていました。お前が持ってきたものは腐ってたやろとか、お前が悪いものだしたんやろというの分かってますから、お釈迦さまは前もってチュンダの供養は一番初めのスジャータの供養と平等だと、悪いものを出したんじゃないと、私の身体がもうそれを消化できなくなっているだけなんだと決してチュンダを責めてはいけないと云うんですけれど、お釈迦さまの予感どおりチュンダは周りから大分責められることになるんです。しかしお釈迦さまはチュンダのせいで命終わるんじゃないんです。もう食べ物を消化できない、寿命が尽きると云うことをはっきり見ておられた、そういう時期が来ていのち終っていくんです。でも人間はなかなかそんなわけにはいきませんね。自分の不摂生で病気になってもなかなか自分のせいとは思えないです。同級生で云えば、あいつの方が不摂生やのになんで俺なんやと云ってしまうんですね。つまり自分の不摂生であっても自分の事として認識できない、明らかに見ることが出来ない。ましてやそれが他から貰ったものでお腹こわしたら、あいつのせいやって必ず云いますよね。貰って食べたのは自分でしょ、その責任はどこへいったんですか。食べてお腹壊した時だけ文句云うんです。お釈迦さまは身に起ったことは全部我がことなです。もう少し大きく云うと、提婆達多に殺されそうになるでしょ、しかしお釈迦さまは提婆達多はひどい奴やとか、あれだけ教えてやったのにわかっとらんとか、そんなことは云いませんでした。提婆達多が嫉みの心を起こす。それは自分という存在がここに居るからだと見ているわけです。だから提婆達多がお釈迦さまのことを嫉む心も自分と無関係じゃない、そういう縁を生きておられるわけです。こうなるとすごいですね、提婆達多は他人ですからね。なんであいつに恨まれんといけないのかと普通は云いそうですが、提婆達多との関係も自分の人生だと云うんです。提婆達多が私を傷付けてくるのも自分の業であると引き受けて、それを生きていかれた。だから我慢するという話と違うでしょ。事実にはいろんな関係があるんだということに目を覚ましておられるから、怨みをかうこともある、でもそれを自分は生きていくというところに立っている。だから忍ぶという字も当てはまらないかもしれません。忍ぶと云うと我慢するというイメージがくっつきますからね、その現実に立ち上がっていった、現実を自分の事として受け止めていったということが諦という字でもあるし、忍という字でもあります。いま、お釈迦さまの話をしたわけです。ここまでお話しすると、わしも今日から気をつけてそんな心でとなりそうなんですが、そうなれるんだったら、浄土の教えはいらないです。親鸞聖人で云えば、比叡山下りなくてもよかったんです。20年修業しても、明らかにものを見るとか事実を自分の事として引き受けていくという、そんな心持にならなかったのが親鸞聖人が山を下りられた原因ですね。そういう心になれる人ならそれでいいかもしれません。でも少なくとも私はその道では突き進めないという中から、法然上人をご縁としてこの浄土の教えに出遇われたのです。そこに見えてきたのは浄土の教え、この道場樹を見るところ、道場樹に出遇うところにこの法忍を頂いていくことが出来るというわけです。だから私の根性がなおったんじゃないんですね。私の根性はなおらないけど阿弥陀仏の世界を戴いていく、それは目印としての道場樹、どこに居ても見える樹、これに触れれば阿弥陀の教えを頂きながら歩んで行くことが出来るのです。これもしくこく喋ってますが、阿弥陀というのは分け隔てのない世界、分け隔てのない心を阿弥陀と云うのです。無量寿と翻訳されますし摂取不捨とも云われるでしょ、つまり命に値段をつけない、貴いというのならどの命も貴い宝物だと知らせて下さるんです。道場樹を縁として私たちはその阿弥陀の世界を思い出させていただく、受け止めていくということが起きるわけです。反対に云えば道場樹を見ることが生活の中でなければ、すぐに世間の価値観に呑み込まれていく、勝ったか負けたか、得か損かです。ですから前回最後に、道場というのは大変大事ですよという話をしてたんです。お寺も道場として開かれているんです。仏法に遇うための縁なんです。一軒一軒のお内仏、お仏壇も道場としてあるんです。その道場に集いながら、あるいはお内仏にお参りしながら、これだけお参りしたからわしにはいいことが起るだろうとか、わしは儲かるはずだと云って自分の欲望を延長するなら、残念ながらそれは阿弥陀の道場にはなってないんです。「助」と「拯」
阿弥陀の道場というのはどこまでもいい悪いを超えた世界を教えて下さる、自分の願いが叶う叶わないを超えた所になおも道があるという話をしていました。学生の発表を通してハッとさせられたという話をしてましたが、学生が歎異抄の第一章を発表する時に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」ということばがあります。阿弥陀仏の我々の思いを超えたはたらきによって助けられると書いてある。その「たすけられて」は歎異抄では仮名書きであります。ところがどういうわけか、コンピュータの変換ミスか気が付かなかったのか、こう書いて来たんです。これが皆で話題になりました。「拯けられて」とは書いてないよねっていう話になった訳です。これどんな時に使うかなぁって考えてみたら、自分に答えがあってこうなりたい、こうしてほしいという時に補助してもらうサポートしてもらう時にこういう字を使いますね。足が悪いから肩貸してという時の助け方はこれですね。だからこちらにどうなりたいという予定があって、それを補助してもらう時はこの字でしょうね。でも阿弥陀仏にたすけられると云う時はこの字を使ったらだめだという話になりました。だってこの字はこうなりたいとかああなりたいというのがあって、そのために阿弥陀さんちょっとよろしくという話ですからね。阿弥陀さまにたすけられるのはそうじゃないという話になってね、ピタッとくる字はすぐにはないけど、あえて正信偈などから出せばこの字がいいかなという話をしてたんです。これは溺れている者を救い上げるということです。今の話で云えば世間の価値観の中に沈み込んでいる、溺れている者をそこから助け上げるという助け方です。別の世界に引き出されるというような助かり方なんです。予定していたことが与えられるのではなくて、思ってもみなかったような世界に引きずり出されるというような助かり方、これがこの「拯」という字にあるのです。この時に一番いい例が、毎回お話しするんですけど観無量寿経の韋提希という人がその典型だと思います。韋提希という人は息子に裏切られて宮殿に閉じ込められて、初めは憂い悩みのない世界に行きたいと思います。もうこんな世界は嫌ですと云うていたんです。その時ある意味で答えがあったんです。地獄餓鬼畜生がない世界に行きたいのでお釈迦さまどうぞ助けて下さいと云うてるんです。ところがお釈迦さまはそれには答えませんでした。分かった、云う通りにしてやろうとは云いませんでした。どうやったらそんな世界が実現するだろうと一緒になって考えて下さった、悩んで下さった、それが韋提希にずっと寄り添って下さったお釈迦さまのお姿なんです。その中から韋提希はいい悪いを超えた世界に出遇います。最後どうなったかというたら、宮殿の奥に閉じ込められたのが解放されたとはお経には書いてません、あるいはいうことを聞かなかった息子の阿闍世がまたいうことを聞くように戻ったとも書いてありません。にもかかわらず韋提希は大きな喜びを得ていくんです。宮殿に閉じ込められたままですよ。いわば現状は何一つ変わってないんです。にもかかわらず、その前はそこが嫌で嫌でたまらなかった韋提希が、そこを自分の現場として生きていくことが出来るようになった。条件は変わってないんですけど、韋提希がそれを見る見方が転換しているんです。思っても見ないような救われ方だったと思います。初めは阿闍世が云うことを聞くようになったら助かるとか、宮殿から出して貰ったら助かるとか、予想してた助かり方でしょ、でもそうじゃないんです。これは親鸞聖人の言葉で云うと求めず知らざるにという、求めた者が与えられるんじゃないんです。知ってたことが貰えるんじゃないんです。求めたものでもない、知りもしなかったような形の利益が与えられるんです。これが云わば浄土に触れるところの利益として大事じゃないかと思います。そんなことを前回お話申し上げておりました。阿難よ、目を覚せ
その続きのところへ今日は進んでいきたいです。聖典で云うと36頁下の段前から4行目、読んでみます。「仏、阿難に告げたまわく」これは勿論お釈迦さまが弟子の阿難尊者にお告げになったということですね。経典はたまに誰の言葉かを確認するためにこういう主語を置いて下さっています。これはお釈迦さまが説いているわけです。大無量寿経というのはお釈迦さまが阿弥陀の世界に行くとこを勧めて下さっている経典なんです。云い方を変えると、お釈迦さまは私の真似をしなさいとは云っておられません。阿弥陀の世界が大事だと仰る、この経典を受け止めるということは阿弥陀の世界を大事に生きることだということがはっきりすることです。でもこれは云うほど簡単ではなくて、800年前親鸞聖人の時代でいえば、このお経がお釈迦さまの教えの中心だと云った人は法然上人や親鸞聖人しかいないんです。もちろん天台宗でもこのお経を読んでますけど、沢山あるお経の一つなんですね。天台宗では観音さまも大事にされますし、薬師如来も大事にされますし、沢山の仏さまのお一人に阿弥陀仏さまもいるという話です。しかし、法然上人を通しての親鸞聖人の受け止めは全く違います。いろんな説き方をなさったかもしないけれどお釈迦さまが一番云いたいのは阿弥陀の世界だと。なぜかと云うと一人も漏れずに助かる道がここに開かれているからです。繰り返しになりますが、お釈迦さまの説法は対機説法ですね、相手の状態に応じながら説くわけです。説かれた法門は八万四千と云われるわけです。八万四千というのは数えられないほど沢山という意味ですね。なんで教えがそんなにたくさんの数になったかと云うと、八万四千というのはもともと人間の煩悩の数ですね。つまり、煩い悩みは人それぞれ、あるいは状況に応じて時代と共にも変化するわけです。その悩みの数に応答して説かれたのが八万四千の法門なんですね。お釈迦さまの教えは確かに山ほど残ってますけど、沢山のことをいいたいわけじゃないんですよ。お釈迦さまが云いたいことは貫かれている根本があるわけです。その説き方に捉われてはならないということが法然上人や親鸞聖人がはっきりなさったお釈迦さまの教えの要はどこかという問題になります。これは仏教をどう見るかにも関わるわけで、そういう見方をした人の方が少ないんですよ。だってほとんどのお経は修行をして覚りに近づいていくお経を説いています。お釈迦さまはその第一人者ですね、修行をして覚りを開かれた第一人者ですから、それが仏教の基本だということにずっとなってきたわけです。なってきたと云うか、今もそうでしょうね。いまも仏教と云えば出家して修行するというのが仏教です。反対に在家の生活しながら結婚したり、その中で念仏すれば助かるなんで、そんなものは仏教徒と云えるかという批判があるわけです。その形に執われるならば、仏教というのはどこまでいっても特定の人にしか成り立たなくなりますね。出家して山で修行してる人だけの仏教になる、これが親鸞聖人の大きな悩みでありました。でもお釈迦さまが説きたいのはそうじゃなくて、いろんな説き方はなさったけれど貫いているものがある、それは誰もが助かっていく法なんですね。これが大経で云うと「群萌を救い」という言葉がそれを表わしています。真実の理、誰でも救われる、そこに本当の迷いを超えるということが成り立つ。群萌の方は普遍と云った方がいいかもしれません。あまねく、平等に誰でもがということを表わす、これが群萌という言葉で表されています。普通真実の法を阿弥陀の本願として説いているのが大無量寿経であります。だから八万四千の法門という説き方は、この普遍の法に出遇わすために、こっちから引っ張ったりあっちから引っ張ったりするわけです。一番極端に云えば、物事があるということ、自分が持っているということに執着している人に対しては、あると思っているけどそれは仮だと云わないといけない。持っているというけど、それは壊れれば消え去るよと、つまり実体化に執われている者にはないという形、そういうものは実体はないんだと否定する形から説法するんです。逆にないということに執われている人もいるんです。生れてきた意味なんかない、どうせこの世はなんにもない。ニヒリズム的というか虚無主義に堕ちている人には本当の存在の価値があるんだという説き方をしないといけないです。これ表面だけ取ったら、片方はない。ないと云ってるし、片方はあるんだあるんだと云うから結びつきませんよね。しかしどちらも共通しているのは執われから解放したい、あるという執われから解放する、何もないという執われから解放する。この願いは一貫しているわけです。それを形に表したのが阿弥陀の本願だと見るわけですね。ここまでお釈迦さまの教えをずっと根源化したのが親鸞聖人のお仕事だと思います。説かれている表面ではなくて、それは何に出遇わせようとするための教えかということです。義に依りて語に依らざるべし
前にも言いましたけど、月を指す指に譬えられます。こっちが本当に出遇ってもらいたいのは月であります。指も月ももちろん譬えですよ。指はいろんなものを指し示すわけです。しかしそれを通して出遇わせたいものがある。だからその指に執われてはならんということなんですが、こういう受け止めがくるまで長い時間がかかっているんです。これ、お経に戻れば、阿難という人自身がこっち側に迷っているんですよ。お釈迦さまの生きられた姿があまりにも立派ですから、私はまだまだやけどちょっとくらいはお釈迦さまに近付きたいのは真面目な人間の気持ちですよね。でもそれがだんだん間に合わないようになってきたんです。お釈迦さまと阿難は35歳違いと云われますから、80歳でお釈迦さまが亡くなっていく時、阿難はまだ45歳です。20歳過ぎからお釈迦さまの旅のお供をして、山ほど教えを聞かしていただいたのに自分は全然覚りに近付けないと思っているんです。だからお釈迦さまが亡くなっていくということが近づいて来たら、もういてもたってもいられないんですよ。お釈迦さまが亡くなってしまわれる、私はまだ覚っていないのにと、こういう中からお釈迦さまがいなくなったらもう仏教は成り立たないのかという疑問にぶつかったのが阿難です。そしたらお釈迦さまは、私がなくなっても大丈夫だと、だって私が救うんじゃない、法があなたを救うんだと、私の云い方があなたを救うんじゃなくて法に出遇えば私がいない後でも迷いを超えることはちゃんと成り立つんだということでした。それに初めて気が付くのがこの経典の序文でありましたね。阿難という人はお釈迦さまの教えを25年間聞き続けたと云われますが、お釈迦さまの教えを25年間聞いてもなかなかそのお心に気が付けないと云うことをよく見せて貰ってますね。ですからいま仏教が分らないのはお釈迦さまがいないからと思わない方がいいです、おられても分からないんです。邪魔するものはこっちにあるんです、イメージが先にあるからです。教えを聞けば心がきれいになるとか思ってませんか?そういうイメージを先に持っていると、私は何年聞いて来たけどあんまり根性なおらんと云わんならんのです。でも仏教はそんなこと云うてるのかという話なんです。それが阿難という人が代表になって、長いこと聞いていてもお釈迦さまのお心に気付けないということを実証して下さったんですね。だからずっとこのお経では阿難は呼びかける相手ですね。阿難、いいかというわけです。阿弥陀さんはこんなことを願われたんだよ、阿弥陀さんの世界はこういう世界だよということを丁寧に丁寧に語り掛けて下さる、これがお釈迦さまの説法が続くこの段落であります。それを折に触れて、「仏、阿難に告げたまわく」と、こういう言葉で確かめて下さっているわけであります。もう一遍申し上げますと、お釈迦さまの教えを本当に聞くというのは何かと云えば、お釈迦さまのあれこれ仰ったことに執われるんじゃないんです。お釈迦さまが本当に遇ってほしい、出遇ってほしいと思っていたその教えをいただいていくことです。それがこの経典では阿弥陀仏の本願として語られているんですね。いま読んでいるのはその本願が成就して浄土、極楽世界が出来上がったことが説かれているわけであります。無量寿国の音楽
そこでそのお言葉を当たっていきますと、非常に近いところから挙げていますね。「世間の帝王に百千の音楽あり。」この世の王さまは百も千も音楽を持っているというんです。「転輪聖王より、乃至、第六天上」と段々上がっていくんでしょうね。第六天というのは欲界の最上天であります。他化自在天ともいわれますが、その天のところに段々上がっていくと、この世間の帝王がいろんな音楽を持っているのと比べものにならない位の音楽が天にはあるんだと云うわけです。これが「展転して相勝れたること、千億万倍なり。」といいます。インドの数字はいつも掛けると云われます。千×億×万と云われます。ものすごい数でありますが、比較にならないと云う位と云うわけです。その欲界の最上天と云われる第六天に他化自在天ですが、ここに万種の楽音、万を超える数のその楽の音が無量寿国と比べたら、無量寿国の七宝樹は一種の音声に如かざると書いてあります。如かずというのは及ばないということですね、だから七宝樹の一つの音声にも及ばないと云っています。これが千億倍なりと、近いとことから譬えてるんですけど、実は比べものにならないというのがこの譬えなんですね。こう云わないと無量寿国が我々の思いを絶していると云うことを表せないということですね。それを更にその浄土には「また自然の万種の伎楽あり」と云ってます。だから七宝樹の一種の音声だけじゃなくて、また万の伎楽があるんですね。「その楽の声、法音にあらざることなし」ここが大事なんですね。音楽が鳴っているのではないです、なっている音が法の音です。私たちに法を語り掛けて下さいます。これは阿弥陀経なんかの方がもっと具体的に書いてありますが、ちょっとだけ見ておきましょうか、聖典127頁下の段の後から8行目くらいです。阿弥陀経では鳥の声から譬えに出していますが、阿弥陀の国には沢山のいろんな鳥がいると云うことを、「白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥」と書いてます。「このもろもろの衆鳥、沢山の鳥たちが昼夜六時に和雅の音を出だす」という、鳥たちがいつでも鳴くわけです、四六時中というのが昼夜六時です。「その音、五根・五力・七菩提分・八聖道分、かくのごときらの法を演暢す」これは仏の力を表わすものが五根・五力・七菩提分・八聖道分、八聖道は有名でありますが、こういうものを知らせる声となって届くというんですね。だから「その土の衆生、この音を聞き已りて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧をねんず」と。鳥の声を通して、あっそうだったという形で仏を念じ、法を念じ、サンガを念ずるということが起るんです。大事なのは浄土に行ったらその気になるという話じゃないんですね。声を通して三宝を念ずるということが起ってくるのです。それが同じように次の128頁にも書いてあります。1行目の下、「舎利弗、かの仏国土には、微風、もろもろの宝の行樹および宝の羅網を吹き動かすに、微妙の音を出だす。」かすかな風が微妙の音を出すんです、やかましい音と違うんですね。サワサワサワかもしれませんし、サラサラサラかもしれませんけど、それが「たとえば百千種の楽の同時に俱に作すがごとし」と云ってます。本当にかすかな声なんですけど、それが我々に届いて来るんです。それが「この声を聞く者、みな自然に念仏・念法・念僧の心を生ず」とあります。樹がサワサワと鳴る、そこに羅網でありますから樹に掛かっている網にいろんな鈴やら何かが付いているんですが、それが鳴るところに念仏、念法、念僧の心を生ずると書いてます。これが大経に戻れば、阿弥陀仏の国の音、音楽でありますが、法音にあらざることなしと書いてあります。法の声が届くがゆえに我々に仏法をいただいていく心が引き起こされるということです。私たち個人の根性がどうというよりも仏法にずっと縁を頂き続けることが出来る、それだからこそ大事なことを忘れないということが成り立つんですね。環境というのは非常におおきいわけです。そういう場を頂くという、場の力です。
自然清和の伎楽
36頁にもどりますと、「清揚哀亮にして微妙和雅なり。十方世界の音声の中に最も第一とす。」あらゆる世界にいろんな声や音があるけれども最も第一であると。第一というのは大きさの第一ではないですね、どんなところにもちゃんと至り届くし、そしてそこに法の声が響いてくるという意味での第一です。これを一つだけ宗祖のご和讃で見ておきます。聖典の482頁上の段37という番号が付いています。「宝林宝樹微妙音 自然清和の伎楽にて 哀婉雅亮すぐれたり 清浄楽を帰命せよ」宝の林、宝の樹から微妙の音が届いて来る、それが自然の清和の伎楽だと書いてます。清らかなんですね、前にも読みましたが、決して音同志が邪魔しない、調和しているのが清和の和で云われています。その音が「哀婉雅亮」これは先ほどの大経の中にあるものの中から抜かれてますね。清揚哀亮、微妙和雅という、そこを哀婉雅亮という言葉で押さえてます。それが清浄楽、どこまでも清らかなんですね。清らかなものに触れるところに私たちに仏・法・僧を念ずるというような清らかさが呼び起こされるんです。私たちの心が清らかになってしまったという話ではないということです。この浄土というのはどこかにある場所とか一つの境地となってしまうと、私はなかなか清らかな心にはなれないんですという人がいるんですが、この辺を読んでみると私の根性が直るとは書いてなくて、音を聞かしていただく時にそれが想い出されてくるわけです。具体的には、前回からの道場樹で云えばお道場に入ったときに周りの人が念仏するその声につられて、お念仏できるということがあるんです。自分一人では恥ずかしくてできなくても、お念仏の声の中に身を置くと素直に出来ることもあるのです。でもそれは私が立派になったという話じゃないです。この音楽というものをずっと大事にしてきて、現代では音楽法要という形をとって浄土の声が私たちに届くようにと考えている人もいるわけです。本当はお経の声も全部そうなんですが、お経の声がなかなかすっと入ってこないということがあるものですから、それを歌にしてということがあるのです。昨今急に始めたのではなくて、宗祖ご自身がご和讃をお作りになったということがそうなんですね。口で唱えてそれを耳から入れば、文字を知らない人にもこの法の世界や仏の世界が届いて行くのです。どんなふうに唱えられていたのかははっきりとわからないんですけど、今様という当時のはやり歌の形式を宗祖は使われて、数からいうと五百首以上の和讃をお作りになったわけです。だから現代の音楽法要の一番初めは宗祖にあると云ってもいいと思っています。これは安田理深先生のお言葉として聞かせていただいたんですけど、洗練されたものはちゃんと偈になる、歌になると安田先生は仰ってました。安田先生は天親菩薩の教学を大事に学ばれたのですが、天親菩薩は千の論師と云われるくらい沢山の本をお書きであります。大乗に縁を持つ前から阿毘達摩倶舎論というすごい論を書いておられますが、しかしその思想が洗練されてくると最後には歌になると云って、唯識三十頌という歌にまとめられています。音写では伽陀と云いますけど、ガーターというインドの言葉で歌なんですね。偈頌であります。浄土論も願生偈と云われるように歌なんです。歌というのは余分なものを取らないと歌には出来ないですね。和歌とか俳句とかなさる方はどうやってあの言葉に思いを込めているか、沢山のことを絞っていくかというのを苦心なさるわけですが、これ以上は削れないというところまで削るわけでしょ、エキスですね。そういう意味で安田先生は洗練されると歌になると云うことを講義の中で仰っておられたことを思い出します。そういう意味で云うとお経自身もそうなんですね。お経は散文で書かれた部分もありますけど、この大経では三つの偈文があります。上巻の二つ、嘆仏偈と重誓偈は読んできました。下巻にいくと、東方偈というのがあります。それは散文の部分を重ねて大事だから述べているということもありますけど、云い方を変えるとこの偈文のところをちゃんと戴けば散文で書かれているところを押さえるということになっているんです。だから大経は長いですけど先ずどこからと云った場合、まず嘆仏偈からとか、重誓偈からとか偈文を頂くということは大事です。大事といっても正信偈に縁を持っている方はお分かりと思いますが、正信偈について勉強しようと思うとどうしても教行信証全部勉強しないといけないんですね。正信偈は120句にまとめてるから簡潔だと云えますけど、一句読んだら結局教行信証全部と関っているんですね。
法の声
話戻りますと、この万種の音楽、どんな音楽かと云いますといろんな声が聞こえてくる、いろんな音が聞こえてくる、それがすべての法の声になって聞えると云うわけですね。でもこれは娑婆世界では難しいですね。好きな音は大きくても文句言わないんですよ、嫌いな音はそんなに大きくなくてもやかましいって云わんならんしね、厄介です。すべての音が法の響きとなって届いて来るというのは、今日はじめに云った荘厳ということで云えば、これが我々の帰るべき世界としてかたどられているということです。どこへ行ったらそんな静かな世界がありますかとは云わないでください。実体的にとらわれてはいけないということでこの浄土をいつも確認しておかないといけない理由かと思います。これがまた次にも展開していくわけですが、ちょっと一服してから次の段を読みましょうかね。方便化身の浄土
続けてお話しさせていただきます。聖典36頁の下の段、後ろから4行目。「また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して自然に化成す。」前回の道場樹というところに、親鸞聖人これも併せてご和讃にしておられますね。七宝講堂道場樹と、だから講堂に精舎とか宮殿、楼観といろんな建物をおさめまして、あのご和讃を作っておられました。「七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり」と親鸞聖人はそう云い切られていましたね。化身というのは私たちを導くために形を変えて現れて下さったということです。方便というのはもともと近づくという意味で、真理の方が、法の方が私たちに近付いてきたと云うことです。だからそれは私たちを導くという大事なはたらきを持っています。ただ私たちを導くために形を敢えてとったりね、形をかえてますからそれをそのまま真実だと捉えてはいけないんです。道場樹って四百万里の道場樹って書いてあったでしょ、そんな樹は世界中探してもないぞって執われたらダメなんですね。どこからでも見えると云うことを譬えて云って下さってるんです。講堂もそうであります、聞法の道場でありますけれど講堂に入った時だけ聞法するとなったら変ですよね。そこから聞法がスタートすることは確かにありますが、そこがはっきりすれば家庭がそのまま聞法の道場になることもあるわけでしょ。自分の根性を見せて貰うことだってあるでしょ、そういう意味では日常生活全部が道場になるんですよ。講堂だけ、あるいは道場樹というのに執らわれというのがあってはいけないという意味で、それは仮なんです。どこまでも真実というわけにはいかない、仮であると。基本的には方便化身の浄土と仰ってるのは大事な意味で仰ってる。それなくして真実に出遇うはずがない、仏さまの世界を我々が感ずることが出来るはずがない。敢えて形にして下さる、ご本尊という形になって下さるところに、手が合わさることがあるんです。四六時中なにもない所で手が合うような人間であれば、仏像はなくても大丈夫です。なかなか難しいでしょ。でも掛け軸一つあるだけで手が合わさる、私たちを引っ張って下さるという意味で、無くてはならないのが方便であります。自然化成の世界
最初に講堂、精舎、宮殿、楼観、これがはじめに出ます。もう一つ八功徳水という池のことが出て来ます。その辺通して長いですけど見ていきます。聖典36頁の下の段後ろから4行目の所から38頁の最後までずっと読みますね。大変長い一段でありますけど、最後に「このゆえにその国を名づけて安楽という」と、この阿弥陀の浄土を大経では安養国とか安楽国と云われますが、その理由を丁寧に説いて下さっているところです。「自然に化成す」でありますから、どこまでも場所を埋め尽くすような話じゃないんですね。ボクらの建てた建物は、ン年経つと後で処分に困るようになるんですよ、便利なのは初めの何年かでね、いまどうでしょう。高度成長の時に建てたもの全部建て直さないといけないようになってきてるんですね、どうするんやとなっています。これは建物として形どりますけど、それは我々が身を置くところがあるということを云うわけで、建てた物が古くなったらどうするという話ではないんです。これは化成という言葉もそうですね。浄土というのは実体的な場所のように書いてありますけど、それどこにあるんやという話になると変なんです。必要に応じてちゃんと与えられるということが書いてある。だから自然という言葉が非常に大事だと思います。願力自然
この自然というのも曽我量深先生が注意なさったんですけど、大経に自然という言葉が頻繁に出るけれども、ボクらは自然という言葉を知ってるものだから勝手に予断を以って解釈してしまうんですね。一番悪いのは自然に助かると聞くと、ほっとけばいいんですかとこういうことも起きるんです。ほっといても自然にそうなるんでしょうというイメージです。曽我先生は迷いが繰り返していくのも自然ということがあるから、そういう迷いの自然は業道自然と呼ぼうと仰います。業の道が自然に続くことです。これイライラしてくるとだんだんイライラがひどくなるようなもんですわ。嫉妬の心が起ったらその心がどんどん雪だるま式に大きくなる、迷いの道が続いていく自然派これです。だから自然に助かるならほっといたらいいんでしょと云うたら、そう簡単にいかないです。迷いを深めることの方が起きます。本願に遇ったところに助かる、これを曽我先生は願力自然、これは前半でお話ししたことで云えば、本願に遇えば自ずとそうなるということです、必ずそうなる。さっき韋提希の例をだしましたが、韋提希はお釈迦さまを通して阿弥陀の世界に出遇ったら、宮殿の奥に居ながら喜ぶ心が起きたわけです。喜ばないといけないと思って頑張ってそういう心を起こしたんじゃないんです。宮殿の奥に居ながらそういう心が起ったんです。自分からしたら起こるはずのないようなことが起るんですが、本願に触れたところのはたらきによって、自ずからそうなったというのが願力自然です。これは人間の方の根拠は問いません。長年聞いて来たとか、仏教の言葉をたくさん知ってるかとか、今まで善根功徳を積んだかとか、一切関係ない。本願に出遇えば自ずからそうなるのです、これが願力自然です。無為自然
だから自然に助かると云うたときには、これを云わなかったら自分の思っている自然で、ああこのままでいいんですねみたいなことになったら危ういんです。その一番根っこにあるのが無為自然と曽我先生は仰いますが、これは法そのものの世界をいうと云うんですね。法そのものが相続していくようなあり方ですから、いま浄土の姿というのは無為自然を語ると見るべきかもしれませんね。法というのは、分かり易く云うと水は高い所から低い所へ流れる、これが法です。誰かを脅かしてやろうと思って流れているんじゃないですから法則なんです。それに人間は解釈をつけるもんですから、俺んとこには少ないとか向こうには多いとかやるわけです。本願に触れたところに、その無為自然ということをはじめて頂ける、水はボクらを困らしとったわけではない、いじめとったわけでもないということが初めて判るのです。法則でそうなっていたということです。でも法則そのものにはいきなり触れられませんので、本願を通してその自然に触れさせていただくのです。だから大経の自然、三つを区分けしなさいと云うわけじゃないんです。しかし自然という言葉をきっちり理解しておかないと、そのままとか、自然にと云った時、大概こっちになっていくんです。仏法に関るのはこちら側の世界です。だからいまがどれに当たるかということを限定する必要はないと思ってますが、自然に化成すというのは法のはたらきで自ずからそうなっているという意味で、無為自然を語ると云っていいでしょうね。しかし、私たちがそこに触れるということを頂いていく時には、これは本願のはたらきとしてですからその自然に出来上がっている荘厳に触れたときに私たちには、例えば宝でない世界を生きとったということを知らされると云うことが起きますね。そういう意味では無為自然と願力自然とは二つに分けてしまえるというわけでもないんです。でも一応根っこのところでというのなら、法そのものの世界を語るという意味では、無為自然の言葉として読んでいくことは出来ますね。宝池
その建物が真珠・明月摩尼・衆宝ですから代表的な真珠と明月摩尼をあげて沢山の宝をもって飾られているということ、もって交露とすと云っています。その上に覆蓋ですから網のように覆っています。建物はすべて宝で飾られているということなんですね。これももうすでに云いましたけど、金目のものがあるという意味じゃありません。宝でないものは一つもないということがこの姿で表されています。それが次にもそのまま続いていきますが、今度は宝の池ということになっていきます。それがその建物の周りに「もろもろの浴池あり」と、沐浴する池、身を清めることが出来る、そういう池であります。非常に大事だなぁと思うのは、インドの方々にとって今もガンジス河というのは沐浴の場所であって、あそこで垢を落とすということをしたらいけないのです。旅行で行った学生が気持ちいいなって石鹸で洗おうとしたら怒られましてね、沐浴というのは少しかけるだけですよ。日本で云えば戒を保って身体を清らかにする、斎戒清浄というあれと同じでありまして、あそこで水浴びしてるんじゃないんです。嗽もしますけど簡単に口の中をそそぐということであって、あそこでガラガラペッとやったら怒られます。浴池というのは、日頃汚れているからガンジス河で落としてやれと、そういうのじゃないです。ボクらにとっての都合のいい風呂があるという話と違うんですね。沐浴のため、清らかにするための池、それが浴池であります。広さはいろいろであります。「あるいは十由旬、あるいは二十・三十、乃至、百千由旬なり。縦広、深浅、おのおのみな一等なり。」と云ってます。一等とは縦と横と深さとが等しいというわけです。由旬というのはすごい単位ですよ。由旬というのは、牛が大体一日に行く距離でしょ、ものによって違いますが、12kmとも24kmとも云われています。一由旬の池でもすごいですね、縦24km、横24km、深さ24kmですから、どんな池でしょうね、深すぎますよね。でもこれは縦・横がすべて等しいということを云う、揃っていると云うことをこういう形で表すんでしょうね。百由旬の深さの池はどんなふうになってしまうんでしょうね、溺れ死にそうですけど、しかし偏っていないというかね、そう云うことを長さで表そうとするということですね。大事なのは揃っているということ、それぞれが一等と云ってます。云い方を変えると、浄土にはいろんな人が行くかもしれませんが、いろんな方が行ってもここは深すぎるぞとか、ここは浅すぎるぞということにならないのです。縦横見れば深さも判るわけですから、自分に合ったところに入ることが出来るということかも知れません。これもさっきの話で、自然に化成すると建物がすべて応じて与えられるということが書いてありますけど、池も同じなんですよ。何ひとつ不足がないということ、これがここにいろんな形の池があるというように書かれてあるのです。そこに八功徳の水と書いてあります。八功徳というのはもちろん毒の水ではありません。すぐれた特性を持っている水、なので八功徳、一つ目が清らかである、澄んでいるということです。もう一つは清らかでぬるくない、きれいな水でもちょうどいい温度ってありますよね、清らかであると同時に冷たさがある。もう一つは甘さ、旨さですね。旨味があるという、今度は軽やかで軟らかだというんですね、重くないんです。同時にそれは潤す、潤沢と云います。潤して、我々に潤いを与えて下さいます。更には安和と書いてありますから、飲んで安心する、和らぎを得ていく。最後には飢渇などの患いを除く、飲み終わって体の健康を増すとここまで書いてます。これは岩波文庫本(『浄土三部経上』305頁参照)の解釈でありますけど、要するに私たちにとって本当に必要なものがすべて揃っているということ、これが八功徳で象徴されているわけです。反対に云えば私たちは喉が渇いてたまらん時は多少汚れた水でも飲んで意気が出るということもありますが、飲んだために後で身体をこわすということもあるんです。そんなことが一切ない、そういう憂いがないという私たちに寄り添ってくる形のそういう水のはたらきがあるわけですね。八功徳水
聖典37頁一行目「八功徳の水、湛然として盈満せり」静かに湛えられている状態ですが、満ち満ちているのです。静かなんだけれど足りないわけでもないし溢れてしまうわけでもない、これが湛然という言葉で云われています。「清浄香潔にして、味い甘露のごとし」八功徳の中味をこんなふうに譬えてます。次が七宝樹と同じでいろんな池がありますが、お互いその光や輝きが違うんですね。「黄金の池には、底に白銀の沙あり。白銀の池には、そこに黄金の沙あり」つまり、いい池と悪い池があるのではないんです、お互い入れ替わっているんですね。お互いが黄金の池ですから周りが金に輝いてるんでしょうけど、そこには銀のいさごがある。念の為に云いますけど、うちにも一つ欲しいとは云わないでくださいね。そうじゃなくて主従関係がないという七宝樹のあの和讃から、ここは頂くべきだと思います。どの池がいい池で、どっちが悪い池かじゃなくて、お互いに壁になったり底になったりしてるんです。それがずっと続いてるでしょ、前から8行目くらいまで詳しく云ってあって、最後は「紫金の池には、底に白玉の沙あり。あるいは二宝・三宝、乃至、七宝、転た共に合成せり」ですから、七つの宝で出来上がっている池もあるのです。混じり合ってる池もあるんです。いろんなタイプ、いろんなものがここに全て備わっていると云います。繰り返しますが、ボクらは金を最上にしてしまいますが、金は金で一つの単に底の砂、沙になることもあるんです。優劣がないというのがこの譬えです。そこに今度は樹が生えていると云って、「その池の岸の上に、栴檀樹あり。華葉垂れ布きて、香気普く薫ず。」「天の優鉢羅華」これが青い蓮の花、「鉢曇摩華」赤いれんげであります。「拘物頭華」黄色の蓮の花、「分陀利華」白れんげであります。だから青い、赤い、黄色い、白い、そういう蓮の花が水の上に覆っているというのです。「雑色光茂にして」いろんな色が混じって、そして広く水の上に覆えりと、これ以上はないという譬えです。これで不足を云う人がいたらどうでしょう。どこ行っても不足を云う人はいるんですけどね、いい水もあり浴池もあり、きれいな花がその上を覆っている、これで不足云う人はどこ行ってもダメでしょうね。そういう私たちのすべての者に応答しているのがここの譬えだと思います。さっきも云いましたが、ただ単に私たちの欲望を満たすんじゃないんです、ここには不足がないということをこの形で表して下さっているわけであります。それが更に続くのが次の段であります。自然随意
「かのもろもろの菩薩および声聞衆」これ菩薩と声聞衆を代表していますが、浄土は人天もいろんな人がいると既に出てましたね、つまり今までの経歴とか、今までの在り方を名前に一応出して菩薩と呼んだり、声聞と呼んだり、人と呼んだり、天と呼んだりしてますけど、ランク付けは一切ありません。みんな浄土の住人であります。だから浄土の住人がもしこの池に入るならばというのが次のところであります。一応、菩薩声聞しか出してませんが、全部入っていると読むべきだと思います。逆に云ったら、もし菩薩しか書いてなかったら、やっぱり菩薩さまだけの特典に見えるかもしれませんが、そうじゃないですね。声聞衆という、今までは救われるはずがないという者がちゃんとここに挙げられている。どんな者も浄土の住人はと読むべきだと思います。それが「もし宝池に入りて意に水をして足を没さしめんと欲えば、水すなわち足を没す。」足というのは足首くらいまでですね、足首まで洗いたくてズボンめくってる時に、膝の上までかかったら、わぁーって云いますね。次に「膝に至らしめんと欲えば、すなわち膝に至る。」膝を洗いたいのに水が足りなかったら文句言いますが、ちゃんと膝まで来るんです。「腰に至らしめんと欲えば、水すなわち腰に至る。頸に至らしめんと欲えば、水すなわち頸に至る。」これは風呂につかった時そうですね、ぬくもりたいのにこの辺までしか水がなかったらたまらないです。ここまで欲しいのにね、ちゃんと私たちの思いに応じて与えられるのです。「身に灌がしめんと欲えば、自然に身に灌ぐ。還復せしめんと欲えば、水すなわち還復す。」その時には上から自然に降り注ぐ、還復とは元に戻るということ、だからいらん時にはちゃんと消えていく、必要に応じて与えられます。大事なのは、「調和冷煖にして、自然に意に随う。」つまりすべてのものに不足を感じさせない、そういうあり方なんですね。でもここだけ取ると確かに思い通りの世界に見えるんです。これは後のところの譬えを一つ出しておきますと、食べ物のところで百味の飲食が自然に与えられて、十分なくらい満ち足りると書いてあります。ここを初めて読んだときには、浄土は好きなものを好きなだけ食べられるところだと思ってました。でも裏を返すと、この世では好きなものが出て来ても文句言ってることもあるんですね。これ昨日も食べたとかね。ボクはお酒結構お好きなんですけど、飲みすぎたせいか最近銘柄を選んだりするようになりましてね、お酒が出てきたら喜んでいた時もあるんですよ、ところが最近はこれ何という酒ですかと云う。好きなものが与えられてても結局文句言うんです。好きなものと嫌いなもの、満たされるか満たされないかはこっちの根性でどうにでも動いてしまう。浄土に行ったら百味の飲食だというのは好きなものを好き放題にという意味じゃなくて、それぞれをそれぞれに頂けるという意味だと思います。実際に百の味わいがあれば、それぞれをこれも美味しい、こっちも十分だというように頂ける、そういう境遇を開いてくるのが浄土の世界なんですね。だから意に随うと書いてあると、こっちの根性に合わせて何でも貰えるとなると、・・・天上界は自分の願い事を叶える世界、都合の悪いことを取り除いた世界ですから天上界はそうです、でもそこから落ちる日が来るんです。どれだけ満足しててもまだ足りないという日が来る。あれだけ満足してきたことにも飽きてしまうということが起る。だから天上界は落ちるんです。だから落ちずにいつも満足が与えられるとはどんなことかと云えば、こっちの好きか嫌いかというものを超えたものにであうことです。自然に意に随うと書いてあるとボクらの欲求を一つひとつ満たすかのようでありますけど、決してそうじゃない。かえってどうなれば喜べるのかという根本のところに触れさせて頂くが故に、ちょっと自分の思いとは違うからと云って文句を云わなくても大丈夫という道があるんですね。でも念の為に云います、これは私がそういう心境になるという話じゃないですから、私が食べ物に文句を云わないようになりましたとはとても言えないと思います。しかし、仏さまの世界をいただく時に、ああまた文句を云ってる、好きなものを貰いながらまたケチ付けてるということは教えてもらえるんです。これが浄土の荘厳のはたらきです。もう一遍云いますが、どこかに百味の飲食が転がっているという話じゃない、百味の飲食にどんなものもそれぞれに頂けるということに触れると、何を貰っても足りない足りないと云っているこっちが見えてくるんです。そういうふうにここを頂くべきかと思います。水が適当に与えられると書いてありますが、これは何一つ不足ないと云うことをこういう形で云おうとするわけです。必要に応じて現れる、必要がなくなればちゃんと元に戻って消えていくんです。開神悦體
それが結論的に出るのが次の言葉です。聖典38頁1行目。「神を開き体(み)を悦ばしむ。心垢を蕩除して、清明澄潔にして、浄きこと、形なきがごとし。」開神悦體という言葉は非常に有名な言葉です。有名というのは、曽我量深先生がこの言葉を本当に大事になさいまして、かなりあちこちでこの字を書いておられます。曽我先生は雑誌を何回かご生涯の間に作って、毎月のように論文を書かれて投稿したりしておられますが、その雑誌の一つが開神と名付けられています。大経のこのお言葉を非常に大事に思われたということですね。浄土の人民は神を聞き体を悦ばしむという、こういうことを与えられると書いてあります。裏を返すと、私たちは日頃閉じているんですね。聞くに対しては閉じている、悦ぶに対しては悦べない。念の為に云いますが、神というのはこれは神様という意味ではありませんで、精神の神という意味です。神髄という場合にもこの字を使うでしょ、だからここで神、たましいというのはそういう意味でありまして、精神の神です。どうでしょうね、心という字でもいいんですけど、心というとまた動きますよね。その心のさらに根っこにある神髄は何か。神髄というのは「真髄」と、まことという字も書きますけれど、あの人の精神の根本、髄は何かという時にこの神髄という字を書くわけです。本体というかそれを支えているようなものを神という字で書くのです。これが開かれるということですから、日頃は閉じているものが浄土のはたらきによって開かれていくということ、これを聞神と云ってます。体を悦ばしむとありますね、それは具体的には次の言葉、心垢を蕩除してとあります。心の垢でありますけれど、心の垢を洗い除くと、蕩除という言葉がつかわれています。これも先ほどの声を聞いて仏法僧を念ずるということから云えば、私たちの心がきれいになってしまうという話じゃないと思います。心にはいくつも垢が付いてくるわけですが、この浄土のはたらきに触れるところに、ここでは水を譬えに出してありますが、浄土の水のはたらきに触れるところに心の垢が除かれていくんです。しかし世間を生きればまたくっついてきますね。長年生きてきた心の垢は一回や二回仏法聞いて取り除かれるかというと、そんな軽くないです。上っ面をふやかす位かもしれませんね、なかなかそれが取り除かれないんです。でも必ずその仏法の水は固まっている精神の在り方を開いて、そしてその心の垢を取り除いていくと書いてあるわけであります。
その次が「清明澄潔にして、浄きこと、形なきがごとし」形ないというのはいろんな形をとる、決まってるんじゃないんです。どんなところにもはたらきかけていく、それがさっきの譬えで云うと必要に応じて与えられてすべての者の心を開いていくということです。これは菩薩と声聞衆が水に入った時に起こることとして書かれてますが、決して菩薩声聞衆が自ら身につけた徳ではないですね。どこまでも水の徳なんです、水のはたらきだということが大事です。
さっきは音に触れる、音楽に触れるという話でした。その前は道場樹を見ると云う話でしたけども、五感を通して私たちに浄土は働きかけてくるということがいろんな譬えをもって説かれてあると思います。
「宝沙映徹して、深きをも照らさざることなけん」どんなところにも光が届いて行くと。「微瀾回流して」これはさざ波という意味だそうですが、これが回って「転た相灌注す」。水は止まっていると濁っていきますけれど、止まらないと云うことをこんなふうに云ってます。「安詳にして」静かという意味、「徐く逝きて」だんだんと動いていくわけですが、「遅からず疾からず。波揚りて無量なり。自然の妙声、その所応に随いて聞えざる者なけん。」さざ波が立って、そこから聞こえてくる音があるんですね。その音がまた全部仏法の音なんです。「あるいは仏の声を聞き、あるいは法の声を聞き、あるいは僧の声を聞く」仏法僧が聞こえます。「あるいは寂静の声」これは涅槃の覚りですね、「空無我」もそうです。「大慈悲」仏の慈悲の声が届いてくる。あるいは「波羅蜜」迷いを超えて行く波羅蜜の行でありますけど、そういう声が聞こえる。「あるいは十力・無畏・不共法の声」全部仏の具えておられるお力でありますが、そういう声が聞こえる。更には「諸通慧」ですから、諸の通力であります。更には「無所作の声」これは我々の思いを問い直してくるような、作ということに執らわれることを否定するのが無所作ですね。「不起滅」起こるとか滅するということを超えている、更には「無生忍の声」これ全部覚りの内容をさまざまに挙げてあります。「乃至、甘露灌頂」これ不死の法でありますが、上から注ぐような形の声、「もろもろの妙法の声、かくのごときらの声、その所聞に称いて、歓喜すること無量なり」とあります。八功徳水に入るところにこれだけの声を聞かせていただくということでありますが、これは環境の大事さだと場所の持っている力だとさっきちらっと云いました。
寂静無為の楽(みやこ)
対称的に思われるのが親鸞聖人が引いておられるところで見ますと、聖典の321頁です。真仏土の巻に引用しておられますが、善導大師のお言葉です。真ん中辺に40という番号がついてます。これは真仏土、阿弥陀の本当の世界、本当のお姿を我々に伝えるために引いておられる文であります。「また云わく、西方寂静無為の楽は、畢竟逍遙して有無を離れたり。」これは涅槃のことを挙げておられます、西方というけれども西にこだわってはいけないんです。有無を離れた世界です。「大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること等しくして殊なることなし。」大悲が世界中を覆っているんです。迷っているものを利していく、迷いを超えさせていくのはどこにでもはたらく、仏のはたらきを云っているのです。それがこの世と次に対応してます。「帰去来、魔境には停まるべからず。」私たちが生きているこの世界を魔の世界と云ってます。いざいなんというのは、さぁ帰ろうという言葉ですね。上に述べた西方寂静、無為のみやこにさぁ帰ろう、帰るべき世界として親鸞聖人は受け止めたんだと思います。魔の世界に止まってはならないいと云っています。「曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。」まさに迷いの世界をずっと経巡ってきたということですね。「到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。」そこら中で聞いたのは楽しい、本当の楽ということに出遇わなかった、いろんなところに愁いと歎きばかり聞いてきたと云うんです。「この生平をを畢えて後、かの涅槃の城に入らん、と。」涅槃の世界に帰ろうという、こういう呼び掛けを善導大事がして下さっているのですが、それを受けて親鸞聖人が引いているということです。いま特に見たかったのは「ただ愁歎の声を聞く」ということです。これを対比されていると思います。浄土の世界、八功徳水の波の音でありますけど、そこから聞こえてくるのは仏法僧の事であり、あるいは仏のおはたらきの声であり、更には覚りの世界を我々に語ってくるわけであります。あまり云い過ぎると、そんないい世界どこかにあるんですかと、また聞こえてしまうかも知れません。そうじゃないです、すべて聞こえてくる声が仏法の声だと云われれば云われるほど、日頃どうなっているか、たまに仏法を聞く時間もあるかなぁということがはっきりするんです。四六時中聞いてるとはとても云えないですね。皆さんの話じゃなくてボクもそうです。ボクがここで喋らして貰ってると、一楽は仏法に縁を持っていると見えるかもしれませんが、ここで喋らして貰ってる2時間は確かにお経の言葉を聞いてますけどすぐ離れるわけですよ。仏法を朝から晩までいただいているとはとても云えないです。お念仏の声を聞くところに漸くその世界を取り戻せるのが実際でしょ。少なくとも阿弥陀の世界はいつでも法に出遇い続けることが出来る世界だと書いてあるんです。でもそういういい世界がどこかにあるのかなぁという話じゃない。それを聞かされれば聞かされるほど、法に背いて生きている私たちのあり方が見えてくるということです。自然快楽の音(こえ)
もう一遍戻りますと、さっき読んでいたところ38頁の後ろから5行目です。「その所聞に称(かな)いて、歓喜すること無量なり」いろんな声が響いてくる、それを聞けばその声によって、声の響きに随って喜びを与えられることが限りないと云っています。その後に利益が語られています。「清浄・離欲・寂滅・真実の義に随順し、三宝・力・無所畏・不共の法に随順し」力とは十力の事です。無所畏とは四無所畏といわれます。不共法は十八不共法です。これら全部仏の境界でありますが、それに随順していくことが起こる。更に、「通慧、菩薩・声聞所行の道に随順し」つまりその声によって導かれるんですね、私たちがそういう心境になってしまえるのではなくて、声のはたらきによってそういう道に随順していくことが始まるんです。裏を返せば、声を離れればそれに背いていくばっかりですね。随順するところに与えられるのが「三塗苦難の名あることなし」です。三塗とは地獄・餓鬼・畜生のことです。そういうお互い傷つけ合ったり、罵り合ったり、踏みつけ合ったりする、そういうことがない。そういう名前すらない、どこまでも浄土のはたらき、その声に導かれて、その三塗苦難の名を離れていくことができるんです。そこに「但自然快楽の音あり」です。さっき見ました通り、この浄土のはたらきを離れれば実際にはただ愁歎の声を聞くとなるんです、何か大きなものを手に入れても、もっとでかい人がいたというようなもんです。比べて生きている限りは満たされることは絶対にない。仏のはたらきに触れるところに愁歎の声を離れて、この自然快楽の音を頂いていくことができる。だからそれを安楽と名付けるというのは、我々の日頃のあり方を離れるからです。もう一首だけ最後になりますが、親鸞聖人のご和讃でこのところを頂いておきます。聖典482頁です。下の段一行目。「七宝の宝池いさぎよく 八功徳水みちみてり 無漏の依果不思議なり 功徳蔵を帰命せよ」いさぎよいというのは清潔の潔という字ですね、高潔の潔の字を書いて読んでおられます。煩悩を離れたその果が与えられるということが云われます。次が今のところですね。「三塗苦難ながくとじ 但有自然快楽音 このゆえ安楽となづけたり 無極尊を帰命せよ」こういうご和讃にして下さっています。浄土の声、これは八功徳水のはたらきを通してでありましたけれど、我々にさまざまな形に応答してはたらいて下さる。そのはたらきを通して三塗苦難がとじていくと親鸞聖人は読んでおられます。ここに浄土とこの世の関係をよく示して下さっていると思うんです。もし、浄土に行ってしまうんだったら、こんなこと云わなくていいでしょ。ボクらは三塗の中を生きてるんです。でも三塗の中にありながら浄土に触れるところに勝った負けたとか、価値があるないという、そういう傷つけ合ったり罵り合ったりすることを離れていくことが成り立つんですね。もし、こんなことがない世界に行ってしまうんだったら、こんなご和讃いらないですね。宗祖のご和讃はいつもこの世との関係で浄土をいただいて下さっているなぁと読むたびに感じさせられることであります。
ちょっと長い部分でしたので、時間が超過しましたけど、この段落まで見たということにさせて頂いておきたいと思います。一応今日はここまでにさせて頂きます。どうもありがとうございました。