大無量寿経講話【第12回】 2013/ 1/ 25 一楽 真 師
極楽段
上巻の後半、極楽段と呼ばれている部分であります。これは法蔵菩薩が全ての者を救いたいという願いを起こされて、わが国に生まれるならば一人残らず安心できる世界をお建てになられた、一人も漏らさないということを形に表したのが国というものであります。それが西の方にある世界として説かれてきますけど、親鸞聖人はそれを実体的な場所というか、どこかにある別世界とは捉えておられませんでして、今の私たちの生き方と深く関ってくるはたらきとしての浄土ということを大事になさいます。その意味で今読んでいるところは親鸞聖人が直接たくさん教行信証に引用されるところではないんですね。しかし、それは決して極楽を軽んじてるという意味はありませんで、説き方に囚われますと西の方にあるとか、実体的な表現に囚われますと誤解を招くということを見抜いておられたからそういう部分をあまり引用されないのでありまして、ここには一人も漏らさないという精神がよく表れて説法が続いているところであります。とくに前回読んでおりましたのは、一人も漏らさないということを声聞衆が無数にいるという一段がありました。声聞無数の願
少しだけ振り返っておくと、真宗聖典の32頁です。下の段の真ん中に一段落ありますが、仏、阿難に語りたまわく、「かの仏の初会の声聞衆の数、称計すべからず。菩薩もまた然なり。」と続きます。菩薩がたくさん居るということは誰も疑いをなさないかもしれません。仏道を求めた者がその結果として浄土に生れるということについても疑いをなさないかもしれませんが、この声聞衆というのは菩薩に比べますと、それまで批判的に扱われてきていた方々なんですね。なぜかというと不真面目とか根性が悪いとかそういう意味ではありませんで、一所懸命なんですけど自分の迷いを越えるというところに止まってしまって他者との関わりが切れていくという問題を持つわけです。これは私たちの身近なところでもありますね。自分の救いを求める余り周りのことを考えられなくなるということがあるわけです。それは私たちの場合利己主義者と云われるかもしれませんが、この声聞衆は大いに真面目に仏道を求めるんでありますけれど、それがやっぱりまずは個人、関係の中にある自分という者が見えにくくなるという問題があるわけであります。自分だけじゃなくて他者と共に救われていくという、これを大乗仏教と云いますが、この大乗の視点からすると声聞衆というのは本当の覚りではないという意味で一段劣ったというか、本当の道を求めるあり方ではないということで批判を受けることになるわけです。そういうことを中心に書いてある経典もありますけど、この大経はその声聞衆がやっぱり見捨てられない、声聞衆もまた浄土の住人になっていくのだということが説かれているということ。すべて本願文に元がありまして、本願文の番号で云うと第14番目の願が声聞無数の願といわれるその願の成就文、成就とは完成しているということですね、そういう部分としてこの一段を読んでいくことが出来るわけです。普通はどんな者も見捨てられないと云えば悪人を思うんじゃないですかね、悪人も漏れないとか、あるいは善根功徳を積んでない者とか、もちろんこの経典でも視野に入っているわけですが、しかしもう一つの大きな問題として真面目に仏道を歩んできたけれども本当の大乗の教えから云うと背いているあり方、これを声聞衆に代表させまして、その声聞衆も間違いなく浄土の住人になっていくという、これが前回読んでおりました部分でありました。
浄土論、女人・根欠・二乗
これは云ったかどうか忘れてしまったんですが、天親菩薩の浄土論でこれが挙げられています。聖典では136頁の後ろから2行目上の段、天親菩薩が無量寿経を読まれまして、そのお心をまとめて下さっている、そういう偈文です。そこに「女人および根欠、二乗の種、生ぜず。」とあります。女人と根欠とは身体の機能が欠けている者という意味です。根とは能力といってもいいです、能力に欠けているところがある者という意味です。世間では当時中心から追いやられていたという価値観がここに現れています。例えば男性中心の社会では悟っていくのは男だろうという人が出て来るわけです。そういう所からすると女人はいくら修業を励んでも無理だろうという人もいるのです。これは古くからのインドの価値観もあるわけですね。世界的にそうなのかもしれませんが、男を中心に見ていくという価値観の中ではいつも傍らに女性は追いやられていくのです。でも浄土にはその女人がいないと書いてあるんですね。念の為に云いますが女性は生れられないのではなくて、浄土に生れたらもう女人と扱われるのではなくて、浄土の住人になるということです。男中心の社会の中で、あなたは女人ですということをこの世は云うかも知れないけど、浄土はそんなことを云わないということ、これが女人として生まれないということなのです。根欠も同じでありまして、この世ではあの人はここが足りない、あそこが足りないと云うかも知れません。しかし、そのことが問題にならないということです。これが根欠は生まれないということの意味です。身体に障害があるとか、これが出来ないとか、この能力に劣っているとか、そういう人間は生まれられないと云っているのではなくて、この世間はそれを問題視するかもしないんだと、こういうことなんですね。これが根欠もまた障りにならずに浄土の住人として生きられるということであります。もう一つそこに「二乗種不生」とあります。この二乗種というのは声聞と縁覚と云われます。これは前回にも声聞の話で云いましたけれど、二乗というのを二つ書けば声聞と縁覚、これは独覚とも訳されます。これは大乗仏教、我は人と共に迷いを越えていくという仏教からすると、この二つのあり方はやっぱり個人的なところに留まるというんですね。長い間ただの利己主義者かと思っていましたが、そうじゃなくて真面目であることが却って妨げになっていくという問題があるんですね。例えば声聞というのは声を聞くと書いてありますが、お釈迦さまの声、教えを聞くということを自分の使命としている人です。だから大変真面目に教えを聞いているんですよ。でもその形が仏教だということになるとどうなるか、あの人はよく聞いたからいいけど、こっちの人はまだ聞き足りんからダメやということが起きるのです。つまり努力ということは大変大事なことですけれど、努力したことが仏教の覚りに至る条件なんだと思わせることになってしまいますね。長年お釈迦さまの傍にいたお弟子さんもこの声聞に数えられます。真面目で一所懸命聞き続けてきたこと自体は尊いことですが、仏教が聞かないとダメだということになるとすると却って聞けなかった人を遠ざけていくことになりますね。だから努力を拠り所にするあり方、努力を当てにするあり方といっていいと思います。縁覚の方は縁起の法を覚ると書いてあります。ある意味で覚るんです。独覚というのは誰も教えないのに覚るというように云われます。これは才能の人ですね。だから才能有ってパッと聞けるわけです。でもこの聞けた人というのはなかなか人と共有できないんですね。その意味で云うと何故あなたは覚れないんだと、人を馬鹿にすることはないかもしれませんけれど、才能のない者は覚りから遠いということになっていくかもしれない。だから不真面目という意味ではなくて、この方も大変尊い道を歩んでおられるんですけど、才能によって仏教を量っていくというか、仏教は才能がないとダメなんだと思わせていく問題を持っています。これが二乗なんですね。大変厳しく大乗仏教から批判されたわけですが、その二乗もまた本願に遇うところにそのあり方を転じていくという意味で、浄土には二乗は居ないということが二乗種不生と云っています。種不生というのはその種が生じないという読み方もありますが、二乗の根性がなくなる、自分の努力を頼みにしたり才能を拠り所にしたりということからの解放があるんだとみることもできるわけです。
過去の経歴は問わない
これがそれぞれ願文にも表れておりまして、今の二乗の問題は前にも紹介しましたが第14番目の願、ここに声聞が無数に居るということが書いてありましたね、17頁下の段後ろから7行目、読んでおきましょう。「たとい我、仏を得んに、国の中の声聞、能く計量ありて、下、三千大千世界の声聞・縁覚、百千劫において、ことごとく共に計校して、その数を知るに至らば、正覚をとらじ。」つまり、どれ程の努力の人や才能の人が集まって数えたとしても数え切れないほど沢山の声聞が浄土には生れるのだということを願っている、誓っている、そういう願文であります。だから声聞も見捨てない。云い方を換えれば今までの経歴ですね、長いこと聞いて来たとか、たくさん知ってるとか、そういうことを条件にしないということであります。これが阿弥陀の浄土に声聞が無数に居るという意味でした。女人成仏の願
女人の問題は35番目に出て来まして21頁後ろから3行目です。「たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人あって、我が名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終わりての後、また女像とならば、正覚をとらじ。」寿終わりて必ず浄土に生れていくということが云われるのですが、そこでは女性の形を取らないと書いてあります。浄土の住人になるという意味でして、これはやはり女人ということがこの娑婆世界にあっては価値付けの中に貶められたりあるいは男と対比して量られたり、そういうことがあるということに基づいて云われるのです。現代の人権感覚からすると、ここにわざわざ女性を特別視していること自体が問題だと仰る方もあります。お経といえどもそういう女性を特別視したという意味で初めから差別の構造にあると、ここまで云う人もいます。宗派によってはこの願文を読まなくしたとか、そういう立場もあるんですが、表現には取り様によっては問題なしとは云いませんけど、しかし、この願文が置かれている意味は決して軽んじてはいけないと思うんですね。十八願で一応念仏すれば誰もが助かると云うてあるんですから、それでさっき云いました声聞の問題も根欠の問題も女人の問題も全部カバーしておると云っていいんです。ところが、十八願読んでも誤解する人間が出るんですよ。十方衆生が念仏ひとつで助かると書いてあるんですけど、例えば男中心の価値観に生きている人は十方衆生といっても、ここには女性は入ってないだろうという人が出るんです。そしたら間違いなく女性も迷いを超えていく、助かるんだということを敢えて断っておかないといけない。こういうことが起きるわけです。それが三十五願が別立てで、十八願があるにも関わらず、重ねて誓われないといけない理由だと思います。ですからこの願文が何のことを云ってるか意味わからないという時代が来れば、それはそれで男女の問題は超えられた時代だと思うんですよ。でもお釈迦さまから数えて2000年経っても未だに女性を特別扱いしてると云われればそうかもしれませんが、そういうように女性を価値付けの中で見ている世の中の状況の中で、どうしても念を押しておかないといけないという問題があるんですね。諸根具足の願
もう一つ先ほどの根欠の問題は、四十一願に出て来ます。聖典の23頁4行目です。「たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、仏を得んに至るまで、諸根闕陋して具足せずんば、正覚をとらじ。」諸根闕陋としてとありますが、もろもろの能力が欠けて或いは劣っていることがあるならば私は正覚を取りませんと云います。具足しないととは、もろもろの根が備わらないということがあるならば私は正覚を取りませんと云います。諸根闕陋というのは一人ひとり皆違うわけですよ、同じような能力を持つものに押並べて、平板化して皆同じ能力持ってますって、そんな話じゃないと思います。それぞれの違いが優れているか劣っているかというように価値付けされないという問題ですね。備わっているというそういう問題です。いま、大学は試験中でして、昨日短期仏教科の学生の試験がありまして、何でも書けるようにと思って2問目は、この授業を受けて学んだことを自由に書きなさいという問題を出しました。2年生ですから今年20歳になったばかりの子もいるし、まだ19歳の子もいます。その子たちが仏教を学んでの感想を書いてくれました。その中に一人、今まで自分に全然自信持てなかったという男の子が、自分らしさを出せとか自分らしく生きろと云われてきて、その言葉は分かるけど、どう生きたらいいか分からないと、自分は何か個性がないんじゃないかとずっと思い悩んできたと書いてあるんです。ところが仏教を学んでみると一人ひとりが皆初めから違っていて、そのままで個性的だと云ってるように思うから、僕は別の者になる必要はないという主旨のことが書いてあるんです。ものすごく嬉しかったですね。僕は初めから個性的やったということに気が付いたら、だいぶ楽になりましたと。何か人が出来ないようなことを身に着けたり、人と違ったことをわざわざしないといけないと。それを個性的だとずっと思ってきたし、煽られてきたような感じがしたというんですね。だいぶ楽になったとかいてありました。でも最後に面白いことが書いてありまして、でもこの気持ちはいつまで持つか分かりませんと。なるほどいいなあと思ってね、20歳の男の子です。
そういう意味で云うと諸根が具足する、全部備わるというのは何でも出来るような、皆がスーパーマンになるような話じゃなくて、違っていてもそれが貶められないというか、お前はダメだと云われないという問題なんですね。その意味では皆そうですよね、出来ることも出来ないこともあるし、得意なことも不得意なこともある。それが世の中の価値観の中では、例えばいまなら経済的な価値が一番優先される世の中だと、商売が得意だということが一番褒められたりするんです。やってることがお金儲けにつながらないと何か人間として価値が低いように云われるんです。しかしそれは時代が変わればまた変わるんですよ。そんな中で自分の価値を量ることから解放されるということが、あなたはこれが出来ないからダメだと云われない、これが阿弥陀の名前に触れる、阿弥陀のお心に触れるところに起こることとして書いてあるんです。諸根闕陋して具足せずと云いますけれど、皆が同じような人間になってしまうという話ではないと思います。
全盲全聾の智人
前にもご紹介しましたけど、今も東大にいらっしゃいますが、福島智という全盲で耳が聞こえない全聾の先生がおられます。この方は目は子どもの頃から片方が見えず、小学校の頃に両方見えなくなります。18歳の時病気で耳が全く聞こえなくなるということで、今は目も見えないし耳も聞こえない。でも今まで言葉を喋ってきた体験もありますから、相手が何か云ってくれることを受け止めさえできれば、自分の気持ちを語ることが出来るんです。その人の言葉というか、云ってることをどうやって受け止めるかという、お母さんが発明なさったのですが、指でどこをどう押すという指点字であります。指で相手の云ったことをタイプのように押す、五十音全部わかるようになってるんです。押すことによって即座に指点字の通訳さんがいれば、即座に答えられるのです。それを初めはお母さんがなさっていて、今は奥さまになられた方が、その指点字の通訳をしておられます。今は東京大学で教授をお勤めなんですね。その方が書いておられる本が何冊か出ていますけど、「生きるって人とつながることだ!」という本があります。繋がることさえできれば、自分は目が見えないし耳が聞こえないけれど、指点字を通して繋がることができれば、目が見えないことや耳が聞こえないことは障害ではないと仰っています。人とは違うかも知れませんが指点字のお蔭で意思疎通も出来るし自分の意見をお伝えできる。だから繋がることさえできれば障害じゃないと書かれてて、成程なと思いました。その意味では逆の場合もあるでしょ、目が見え耳が聞こえても人と全然意思疎通できないとなれば、この世がみんな敵に見えたりすることもあるのです。初めから邪魔者になったりするんです。能力が揃っているからといって繋がることが出来ない人はいっぱいいます。結局ここは何を云っているかといえば、目が見えなかったのが見えるようになるとか、耳が聞こえなかったのが聞こえるようになるとか、そんな問題ではなくて、そのことが妨げにならない。そのことがあっても通じ合っていく世界が開けてくるということなんですね。初めから無理だとレッテルを貼っていればもう駄目ですね、福島さんはそれを身をもって私たちに見せてくれていると思います。その意味では根欠と世間では貶められるかもしれないけど、それが阿弥陀の浄土では妨げにならない、根欠が根欠として浄土にいるんじゃないです。浄土の住人としているという、こういう世界です。浄土論の表現
前回は声聞の話をしておったのですが、これに加えて根欠と女人という世の中の価値観の中で端っこに追いやられたり、通じ合えないとレッテルを貼られたりする、そういうことが世の中ではあるんですが、浄土ではそれが妨げにならないことを確かめています。本願文で云うと、三つの願文に云われていることをさっき見て頂きましたが、浄土論では女人および根欠、二乗の種生ぜずと、生ぜずというのは浄土に行けないという意味じゃなくて、浄土には二乗としているのじゃないよ、根欠として生まれるのじゃないよ、女人としているんじゃなくて浄土の住人としているんだということを天親菩薩が云って下さったという、そういう言葉でありました。一人も漏れないということを、当時お経が説かれるときに端っこに追いやられている人、能力がない者として貶められている人、こういう方を具体例に挙げまして、この方々も間違いなく浄土に生れるんだと、決して漏れることはないんだということを確かめているという、これが前回読んだところのまとめとしておきます。極楽の宝樹
今日は次のところへ進んでいきます。聖典33頁下の段の5行目からです。ここは阿弥陀の世界極楽浄土ですね、その国には木が沢山ある、7つの宝で出来た木が生えていると書かれています。ボクは初め学生時代、浄土教を教えられて一番受け取りにくかったのがこの辺りの記述です。分かり易く書いてあり目に見えるように書いてあるんです。こういう木が浄土には生えていると云うんですね。ところがそれが受け容れ難いんですよ、そんな場所がどっかにあるなんてお伽話みたいな話、信じられるかとずっと思ってました。でもこれは親鸞聖人のご和讃を先に見ると成程なぁと頂けてくるんですね。これは何回もご紹介したご和讃ですけど、聖典の482頁上の段、いま38番だけ読んでおきます。「七宝樹林くににみつ/光耀たがいにかがやけり/華菓枝葉またおなじ/本願功徳聚を帰命せよ」。七つの宝で出来た樹の林が国中に満ち溢れているというんですね。光り耀きがお互いに輝かし合っていると云うわけです。花も実も枝も葉もみな同じだというんです。お互いがお互いを輝かし合っている、それを本願功徳の集まりと仰いまして、それを帰命せよ、大事にしなさいと呼び掛けて下さっています。これを読んで少し成程と思うことが出来ました、つまり互いに輝かし合っている世界、それが七つの宝で出来た樹がいっぱいあると云うだけなら何か宝の山みたいに聞こえるかもしれませんが、大事なのは親鸞聖人のご和讃の互いに輝いているという、ここが大事なんですね。だから宝物がいっぱいあるよという話じゃなくて、その宝はお互いに輝かし合っているという、これをご和讃から頂いてみると先ほどの文章が少し読めてきたわけであります。33頁の5行目に戻って言葉に当たっておきましょう。「またその国土に七宝のもろもろの樹、世界に周満せり」とあって初めには金の樹があるわけです。あるいは銀の樹が、瑠璃の樹があり、玻瓈これは水晶の樹、珊瑚の樹、瑪瑙の樹、硨磲というのはシャコガイという貝の名前でああいう輝くものでしょうね、硨磲の樹がありと一本一本云ってるわけです。その次は二宝・三宝、乃至、七宝ですから今度は二つの宝で出来た木がある、三つの宝で出来た樹があると混ざっているんですね、乃至ですから書いてありませんけど四、五、六が全部ここに入ってまして最後は七宝、七つの宝が合わさって出来た樹があるということです。これが「転た共に合成せるあり」と書いてありますね。それを少し具体例を挙げているのが次です。例えば金の樹に銀の葉と花と実があるという、また別の樹は銀の樹で金の葉と花と実があると。それが次に瑠璃樹、水精樹、珊瑚樹、瑪瑙樹、硨磲樹というように七宝それぞれ一本の樹から別のものが宝の葉となり花となり実となると書いてあります。その次は今度は七つの宝が合わさって出来たということの例が33頁の後ろから4行目でしたね、「あるいは宝樹あり」でして、まずは根っこは「紫金を本とし」これ金の中でも一番輝きがあるという紫金を根とし、「白銀を茎とし」ですから幹でしょうね、「瑠璃を枝とし、水精を条とし、珊瑚を葉とし、瑪瑙を華とし、硨磲を実とす。」とあります。七つの宝がそれぞれ枝になったり葉っぱになったり実になったりと書いてあります。これがあと全部入れ替わるような形で、「あるいは宝樹あり、白銀を本とし、…」七つ全部書いてあります。お互いにそうなってるよと云ってもいいですけど、いちいち云わないとこちら側に先入観があると読めないですね。
いのちの平等性
こう云われてみると、親鸞聖人がご和讃にしておられる通り、光耀たがいにかがやけりですね、これは主従関係がないことだと思います。先ほども云いましたが、先ほどは声聞と女人と根欠で話してましたが、過去の経歴とか能力のあるなしでこの世の中では価値のある者と劣った者と云われるかもしれませんが、浄土では同じ住人だと話しましたね。これはありとあらゆる者が今度はお互いに輝かし合っているという意味で、誰かが主人で誰かがそれに従う者ではないということです。だから主従関係を越えているということです。これをこの言葉は語っていると思われます。この世はどうしても何かを主にすれば何かが従であります。一軒のお家でもそうですし、会社でもそうです。誰かが中心になれば、それに云うことを聞けという周りが出て来るわけです。でも事実から云うと、支えられてあるという意味ではみなお互いさまというのが本当なんですね。もちろん役目としての会社の社長とかあるかもしれません。しかし社長さん一人で動く会社ってないんですよ。社員がいて掃除して下さる人がいて全体で成り立つわけです。だから主になってるつもりでも支えられてるということがあるんですね。俺は大黒柱やというのもありですけど、大黒柱も一本だけでは立たないです、建物もそうです。本来そうなんですけど、大体世の中は主従関係で優劣つけて、価値のあるものとない者を分け隔てしていくという構図になっています。それがないということが今書いてある通り、一つの宝が根っこになったり今度は別のものが幹になったり、お互いが枝になったり葉っぱになったりするということです。一本の樹が完全にそうでありまして、どれ程太い幹でも葉っぱのない樹はないんです。目には見えませんけど根っこがあって支えられているでしょ、それぞれの役割があるわけで幹だけ立派やという話じゃないいんです。残念ながら人間は幹だけ見る癖がありますね、幹ばかり見て枝葉は落とすもんやと思ってますからね、でも幹だけの樹はあり得ない。それが親鸞聖人のご和讃では互いに輝けりという、これが本当にそうなんですね。価値づけを越えている、だから一本の樹を譬えにしまして、優劣で量れない、そういう関係を表わして下さっているということであります。これが国中に満ちているというんですから阿弥陀の世界は宝物で溢れているわけです。でもその溢れていることが妨げにならない。これもすぐ曽我先生の言葉を思い出すんですが、昭和46年にお亡くなりですから直接お話しを聞いたことはありません。その本を読んでいると、人間というのは一人で居ったら寂しい、しかし大勢で居ったらうっとおしいというんですね。浄土はそうじゃないというんです。一人で居れば静かやなぁと云うし、たくさん居ると賑やかやなぁと云うんです。たくさん居ることがうっとおしいとかうるさいとか邪魔者にならんという、これが阿弥陀さんの仏の世界だと書いてあります。成程なぁと思いました。でも仰る通りにはなかなかなりませんね。ボクらは一人で居ると寂しいし誰か来たら予定が狂ったと云って邪魔となるんですよ。ここは山ほど樹がある、つまり樹が国中に満ちているんです。普通に考えたら、そんな樹があったら有り過ぎと違うかとか、お互い邪魔になるのと違うかと思うんですけど、それが決して妨げにならないということが後のところに書いてあります。対立せず向い合う
これが34頁後ろから4行目まで飛びますが、樹の中味を云った後にこんな言葉が並んでいます。「このもろもろの宝樹、行行相値い、茎茎相望み、枝枝相準い、葉葉相向かい、華華相順い、実実相当たれり。」行行相値いというのは並んでいるということですね、行列の意味の行であります。いっぱい生えているんだけれどお互い邪魔するようにはなっておらん、妨げにならないでちゃんとそういう並び方をしてるんですね。その並んでおることがお互い向かい合っているというのが行行相値いという言葉であります。次の茎茎相望み、茎というのは茎、相望みというのはこれもお互い向かい合っているということですね。そして枝枝相準い、これ枝でありますが、枝もいっぱい出ておるんですけど、それがお互いに邪魔するような生え方をしておらんのですね。葉っぱも花も実もお互い向き合いながら葉をつけ、花を咲かせ、実をつけているんですね。当たるという字は突き当たるという時も使いますが、ここでは向き合っているという意味で使われています。だから山ほど生えている樹が決してお互いを妨げずにきれいに並んで向かい合っているというんです。お互い照らし合うような存在ですね。これが互いに輝けりという言葉からもう一遍読むことが出来ますね。「相向かい」ということは、相手を通して今度は自分が見えるということでもありますね。たくさんいても向き合ってなかったら、そっぽ向いてる場合もありますからね、向き合うことを通して自分が見えるという関係でもあります。これは全部樹の譬えではありますけど、浄土の存在、浄土にあるものは皆宝だという、まず一つの意味ですね。その宝がお互い主従がないというのが二つ目の意味ですね。そして今度はお互い自己主張せずにちゃんと並んでいる、お互い向き合っているというこういう関係です。これを樹の譬えを通してお経は説いて下さっているわけです。こういう譬えをお聞きしますと、長いことどこかの場所だと勝手にこんなこと信じられるかといつも思ってましたが、そうじゃない、浄土はどこまでも私たちのことを照らし出すのですね。だから互いに輝けるという世界を知らされれば、こうなっていることが見えるんです。お互いに輝かし合うんじゃなくて俺が上だ、あいつは下だとやる、だからいうことを聞けというような関係になっていく。親子でもよく云われるのは、子どもが来てくれて親にさせてもらうわけです。ボクの友だちにも何人か孫が出来ましたという年賀状が来てましたが、おじいちゃんおばあちゃんになれるのも孫が来てくれてそうなれるのです。同時なんです。ところが先に大人がいて子どもを産むとか思ってるんです。それが一番ひどい時になると、子どもをつくるとか、うちはいりませんとか、こういう言葉にもなるんです。子どもが来てくれて親にさせてもらう、これ同時ですね。だから子供が育つところに親もだんだん親にさせられていくわけで、決して主従では量れない。これがいのちの事実であります。だから、そういうことを忘れているあり方で生きているということが照らし出されるということですね。これはいつも申し上げますが、浄土を光に譬えれば、私たちが見ている世界は本当のことを見えていないという闇がはっきりするわけです。だからお話として、浄土は樹がいっぱいあるのかと見てたら何の話か分からないです。でもそのいっぱい有る樹が宝物でないものはないと云われる、その教えからこの世もいろんな存在、いろんなものがあるけど、それを宝として見れなくなっているという自分の眼、物が見えていない、本当のことが分っていないことを教えられるのがまず一つ目でしょう。それがお互いに入れ替わり支え合うという関係を見せられれば見せられるほど、一方的に決めつけている関係が本当じゃなかったということが見えます。最後にはそれがお互い邪魔し合うんじゃない、敵対し合うんじゃなくて、お互いが向き合い自分のことを見せてもらうということが最後の「行行相値い、茎茎相望み」というような言葉で象徴的に語られているように思います。だから樹の譬えとして読んでいると、えーっていうお話なんですけど、それが私たちのあり方を照らし出すものとして働いて来るわけです。差異を超えた調和
もう一つだけ読んでおきましょうね。34頁の最後の2行。「清風時に発りて、五つの音声を出だす。微妙にして宮商自然に相和す。」五つの音声というのは今も使っているそうですが、ボクはその楽符全然知りませんけれど、宮・商・角・緻・羽という五つの音階があるそうです。その中でキュウとショウという音は調和しにくいそうです。だから風がさわさわと吹く時にキュウ・ショウ・カク・チ・ウというあらゆる音を奏でると云うのですが、普通は和音にならないキュウとショウが自然に相和すと書いてあります。だから世間的には相容れない、和音になりにくいそのものも調和する、これが阿弥陀だと云うんですね。さっき云ったこととも関係しますがみんな平板なんですね。一つの音になるんじゃないいんです、皆が個性なくなって一種類に染められてしまうんじゃないんです。皆それぞれ違いがある。しかしその違いがあることが邪魔者にならない、これを樹が奏でる音で譬えられているんです。宮商自然に相和すと書いてありますが、宮と商というのはどんな音か、一遍音楽の専門家に聞こうと思いながら、なかなかこういう古い音楽をやっている人と出会う機会がないもので、どんな音かは知らないんですけど、しかしここは譬えでありまして、普通は調和しないものが調和するんですね。これが親鸞聖人のご和讃、482頁上の段37番が全体の音楽のことを云ってますね。「宝林宝樹微妙音」、宝の林であり宝の樹であると、この世では一つの価値観を立てれば宝の樹と宝でない樹があるでしょうね。しかし阿弥陀の世界は全てが宝なんですよ、使い物にならんという木はないんです。それぞれがそれぞれの役割、存在の重さを持っている。だから全部が宝なんです。宝の林、宝の樹、妙なる音を出すのです。「自然清和の伎楽にて」、自然に清らかな和す音楽を奏でるわけです。「哀婉雅亮すぐれたり、清浄楽を帰命せよ」清らかな音を帰命して下さいと。音から入るということありますね。例えば専念寺さまもよく音楽法要をなさいますね、普通の勤行で古臭いとか慣れんとか云ってる人でも音楽法要に会って、今日の歌はよかったとか何か感ずるものがあったとかあるわけです。それが清浄楽でしょうね。でも同じ音楽法要の歌でも、今日のはもうひとつやったとなると、品定めすることになるんです。本当はそこから仏法が響いて来るんですね。これは阿弥陀経にも語られますが、鳥の鳴き声すらも仏法が届いて来る、鳥の鳴き声を聞いてああ命が生きていると感ずる時があれば、それははたらきを頂くことが出来るんです。それが阿弥陀の極楽世界の音楽として云われてるんですね。そのところを直接歌っているのは次の真ん中の段39番であります。「清風宝樹をふくときは、いつつの音声いだしつつ、宮商和して自然なり、清浄勲を礼すべし」先ほどのお経の言葉から説かれています。勲とはいさおという字ですが香りというように限定する必要はないですけど清浄なるはたらきがそこから漂ってくるという意味ですね。浄土にある樹が音を奏でまして、その音が人々にはたらいていくわけであります。これは私たちの娑婆世界でもそういうことを感じないわけでもないですね。山に行って、風が吹いて、葉っぱの音が聞こえて時に何か心が日常では感じられないことがあったというようなことが、はっとさせられることがあるわけです。それは一瞬でありますけどね。そういうことがいつも聞くことが出来る、つまり風のささやきを通して法に触れていくということなんですね。これが私たちにはたらきかける功徳として押さえて下さる、それが浄土論のお言葉です。願生偈136頁1行目「宝華千万種 弥覆池流泉」微風、華葉を動かすに、交錯して光乱転すとあります。これは水の功徳と云われてます。これも風が吹くけど風が光となって波立つときらきら光りますね、ああいう形で私たちに届いて来る水のはたらきとして浄土論は押さえています。次は大地の功徳です。「宮殿・もろもろの楼閣にして、十方を観ること無碍なり。雑樹に異の光色あり、宝蘭遍く囲繞せり。」大地の功徳と云っていいけど、そこに建物が建っている。宮殿と書いてあり、もろもろの楼閣、高い建物のことです、それによって十方を見渡すことが出来る、無碍と書いてある。これが浄土の大事さなんです。浄土は山も谷もない平ぺったいと書いてあるがなぜかと云うと、ありとあらゆる所が見えるということです。言い換えれば私たちの世界は山があって向こうが見えないこともあるけど、自分の眼に垣根を作ってい て相手が見えない、隣の家のことが分らない、外国のことも知らないということがあるんです。浄土はどこまででも大地が広がっている、だからそこらじゅうのことが見える、つまり人のことが分るというのが「十方を観ること無碍なり」で云っているのです。建物の功徳として書いてありますけど、浄土は平坦、何でも見渡せると云われます。
浄土論の虚空功徳
三つめが虚空功徳といわれますがここに音のことが出てまいります。「無量の宝交絡して、羅網虚空に遍ぜん。種種の鈴、響を発して、妙法の音を宣べ吐かん。」これは虚空に、空間に網が張り巡らされていて、そこに様々な音色を出す鈴が付いてるという、それに風が吹いて鈴が鳴るんです、これを妙法の音を宣べ吐かんと書いてます。これを先ほどの樹と重ねて読めばいろんな葉や花や実が付いてますが、それがそれぞれの音を奏でるわけです。妙法の音、つまり法なんです。法の声が聞こえるんです。樹が鳴っているだけじゃなくて、樹を通して法を聞きとどめることが起こる。これが浄土の虚空、空間の功徳として云われてますが、今日よんだとこでは樹の功徳と合わせて読むことが出来ると思います。浄土を究めて分かり易い形で目に浮かぶような形で説いて下さってるわけです。しかし、それをそのままどっかにあるという話ではないということ、これだ先ほど云いましたが親鸞聖人も浄土論を通してそこから何を頂くかというと、功徳として私たちにどんなふうにはたらくかということを頂いておられるということです。言葉ばっかりの説明をしましたが、一応七宝樹の譬えのところ一段を見たということにしましょう。光に照らし出される凡夫
七宝樹の一段、これは極楽段の中でありますけど、阿弥陀の世界には宝で出来た樹が満ち満ちているということでありましたが、人間の欲望から見ると宝であっても宝に見えないということが起きるのです。宝を頂いておりながら、そのことを有難いとは思えないということがあるんですね。そういうものを照らし出す根源的なはたらきが阿弥陀の光なんでしょうね。阿弥陀の光に遇わないと私たちは宝物に会っていても宝だと分からないということが起きるわけです。その宝を宝として見れないという、お互いに輝かし合っているという事実に気が付かないと大体左側にどんどん落ちていくのです。大真面目にやるから大変なんですね。ワシがなんとかしてやらんならん、皆ワシについて来いとね。それって人を傷付けているつもりはありませんわ、いいことをしてる積りです。一所懸命というのは褒められるときに使いますけど、何に一所懸命かが問題なんですね。言葉は悪いですけど、いま話題になってる大阪の桜ノ宮高校の先生にしても一所懸命指導していたと云うわけですよ。あの先生、あの事件が起こらなかったら、今から先もずっと続けておったでしょ。一人の生徒が自殺したということがあって初めてあのことを問うことになったんですが、今までは3年間も連続して全国大会に連れて行ってくれたすごい先生やといってね、誰も何も云えなかった。今でこそその体質を問題にするように一気になりましたけれど、その意味ではあちこちで同じようなことがあるでしょうね。事件が起こったからあの高校が矢面に立たされて集中的に非難されてます。これも前に云いました短期仏教科の学生に君たちはあの事件どう思ってるって1月の授業で聞いてみたんです。意見はいろいろ分かれました。例えば体罰については、口で云うても分からん奴には体罰が必要なんや、自分もそうやって育てられてきたと云う。高校の時に部活の先生に叩かれたことが今の自分に繋がっていると云うた学生もいました。また体罰というのはその時云うことを聞いた振りをしてるだけで相手の気持ちを受け取ったとは云えないんじゃないかと、女の子でしたけども、云うてくれた別の子もいました。またまた別の女の子が犬でも体罰では育たないと云ってくれました。ペットでも可愛がる時に勿論ある程度仕込むということはいりますけどね、しかし殴り続けて育つかというと無理やと思うと、そういう意味では人間は言葉が通じるんやから言葉で育てて努力せないかんという話も出てね、いろんな若い人たちの意見を聞かせてもらいました。その中にツワモノが二人ほどいまして、そんな事件あったんですかと云いました。いまの橋下市長の力で大分動いたわけですけど、その前でしたか、橋下さんのやり方に対して一つ意見を云ってくれた子がいました。短期仏教科の中では年いってて、30歳くらいの人でしたが、抵抗できない相手に加えるのが体罰とか暴力だと云いました。その意味では橋下さんがやっているのは今だれもが後押しするに決まってるから、抵抗できない相手を抑えつけようとするあの体育教師と似ていると思うと云った人もいました。もう一回話を戻しますと、やってる本人は大真面目でこれが指導だと云うわけですね。そこにはまり込んでいる時にはそれを問い返す眼すらないんです。なんで云うことを聞かんのや、ここまで云ってるのになんで分からんのやと、ここまでいくんです。親鸞聖人からすれば私たちは同じものを抱えているということを、あの姿からどこまで学べるか、教えてもらえるかということです。もちろん私もそうやからといって事件をうやむやにしようというのではないですよ。そうじゃないですけど、あの先生一人あの学校一つを責めて問題は終わらないということです。私も危うい、そこを本当に何によって保っていくか、正していくかが成り立つかと云うと、親鸞聖人は少なくとも教えに遇わない限り自分のあり方というのは振り返ることも出来ない、そういう危うい人間というのを見ておられたと思うんですね。都合の良し悪しですべてを裁いていくというか、都合のいいものは取り入れようとするし、都合の悪いものは邪魔物として排除しようとする、この根性が問題なんですね。
浄土が顕らかにする穢土
後に読むことになりますけど大経はその意味で云うと左側の問題を丁寧に解き明かしてくれる、それが下巻の説法なんですね。なんで右側の浄土という世界を知らずに左側の穢土に止まるのかと。(右、左は板書の位置:編集註)なんでその左側のあり方をいつまでも続けるのかと、なんでその痛ましいあり方生き方を止められんのかと、お釈迦さまが繰り返し説法して下さるんです。両方セットなんです。右側だけ読んでいると、ああ浄土ってきれいだなぁとか、そんな世界どこにあるのかという話になるんですけど、浄土のことを聞けば聞くほど自分中心に好きか嫌いか、云うことを聞く奴か聞かん奴かとやっていく自分の日頃が見えてくるという関係です。だから上巻と下巻は切り離したらいけないんです。上巻の説法によってはっきりする我々の生き方、あり方が下巻に押さえられているんです。下巻は44頁から始まりますが、大きな流れを云いますと44頁は傷つけ合うような生き方をいつまで続けるんですかという説法なんですね。浄土に生れることを勧める、浄土に生れたらこうなるぞという利益を説いて下さる。だから阿弥陀の浄土を願いなさいと勧めて下さるんですが、なのに世の中はどうなっているかとこの私たちの在り方を掘り起こすというか私たちの日頃の生き方を言い当てるのが58頁からです。むさぼりの過失
下の段「然るに世人、薄俗にして共に不急の事を諍う。」世の中の人は薄俗、薄というのは薄っぺらいところしか見てないんですね。軽薄とか云う意味の薄です。上辺だけ見てるんです、人を見る時もあの人は使えるか使えんかと見てしまいますね。成績がいいか悪いかとか上辺だけ見てその人の背景とか、その人の深い願いとか、そんなことは一切無視でしょ。俗というのは世俗の価値観に呑み込まれていくわけでしょ。軽薄、そして世俗の中にあってそして共にですからお互いに不急の事を諍うと書いてます。急がなくてもいいことを争っていると云うんですね。裏を返せば本当に急がなければならないこと、大事にしなければならないことを後回しにしてるということです。ボクらはやっている時はこれを一番優先しないといけないことだと思ってるんですけど、もっと大事なことがあるんじゃないかということです。昔、安田先生がいっておられた言葉に、昔は痛くも痒くもなかったんですが今は響くんです。どんな言葉かというと、忙しい忙しいというのは怠けている証拠だと云うのです。ボクがそれを聞いた当初は学生時代だったから忙しい忙しいと云うてなかったんで誰がそんなことを云うてるんやと思って、他人ごとやと思って聞いてたんですけれど、今はよう云うてますわ、忙しい忙しいって。でも安田先生は忙しい忙しいというのは結局世俗のことに追われていて一番大事なことを後回しにしているということじゃないか、つまり怠けているというのはごろ寝しているという意味じゃなくて、忙しいと云ってあくせくしていることが実は一番大事なことを忘れているんじゃないかと云うんですね。安田先生は別の云い方で、本物が分らないと偽物を本物にすると仰いました。だから本当に大事なことが分らないと大事でないことを大事だと勘違いしてしまう。今の言葉はそれとセットなんですね。だから不急の事というのは何を急がないといけないのかが分からないから急がなくてもいいことに追われてしまうんですね。本当に生きている間、何をしなければならないか、一番大事なことは何なのかということが分れば、急がなくてもいいこと、これは後でもいい、出来なくてもいいとなるんですよ。でもそれが見えないから皆不急の事を諍うとこうなるのです。ここは貪欲の過というように先輩方は仰います。貪りの過失ですね、これを述べる一段として読んでくださいます。59頁の真ん中辺まで続くわけです。もっともっとという心で落ち着く時がないというんですね。いつまで経ってもまだまだ足りんと云うわけです。いくつになってももうこれで十分とはいかない、そういう私たちの日頃の生き方を痛ましいというように教えてくれるんですね。
いかりの過失
次の段が59頁の真ん中辺り93番のところから始まってます。ここは瞋恚の過と云われてます。瞋恚とは怒りです。いつも怒りの心に振り回されている、そういうあり方を瞋恚の過としてここに述べられていきます。初めの3行は私たちに競うなよ、お互い敬いなさいよということを勧めています。でも結局どうなっているかというと59頁の後ろから5行目です。「言色常に和して相違戻することなかれ」とここまでが私たちへの呼び掛けなんですね。言葉も、色というのは形ですね、形に現れることも「常に和して」ですから言葉と姿とがいつも調和して食い違うことがないようにしなさいと云うんです。ところが実際はどうかと云えば、「ある時には心に諍いて恚怒するところあり。」と心に畜生とかあいつのせいでとか思うことが湧いてくると云うんです。怒ること、これ恚も怒も怒りの心ですが、恚怒するところありと書いてあります。そしたら「今世の恨みの意、微し相憎嫉すれば、」この世で恨みの心が少しばかりお互いを憎んだり嫉妬したり嫉んだりしたならば、「後世には転た劇しく大怨と成るに至る。」後の世にはそれは益々雪だるま式に大きくなって激しい大きな恨みとなると書いてあります。この後世というのは自分が生きている間と考えていいですよ、いま起こした心が10年後にこんな大きな恨みとなるんです。でもそれはボクらが死んだ後にも続くわけですよ。自分が恨んだことが次の世代にその恨みを残すことがあります。よくあるのは土地の境界線を巡ってやってます、あの家は昔からああやとか云ってね。つまりその家のお子さんが何もしてなくても先祖の恨みが次の子どもたちにまで伝わるということはあります。これが正に後世の問題です。これは大きく云うと民族問題は全部それでしょ。恨みを忘れるなと云って、何千年の恨みを抱えるということがあります。これが怒りの咎であります。いつまで経っても止まらんのですね。だからこのあり方を痛ましいと教えて、そこから離れなさいと呼び掛けていくんです。本物が見えない過失
もう一つ三つ目愚癡の過、無明の咎であります。60頁後ろから5行目。「かくのごとく世人、善を作して善を得、道を為して道を得ることを信ぜず。」これは因果の道理ですね。例えば恨みを作れば恨みは大きくなる。恨みを離れれば恨む心がやまっていくという道理なんです。それを信じないから、目先のことに追われ善根功徳を積もうというような殊勝な心にならないんです。腹が立ったら腹立ったまんまでどこまでも止まない。特にこれは日本人の体質だと云う人もいますが、相手が弱いと見ると大きく出るんですね。これでもかと云う位クレームをつけるとかね、それがお互い様やないかとか、こんな痛ましいことを繰り返したらあかんやないかとなかなか戻れないんですね。いよいよそれに拍車がかかることもある。これをこんな言葉で云ってるわけです。次、「人、死して更りて生まれ、恵施して福を得ることを信ぜず。」これは死んで終りじゃないぞと云ってるんです。すごい言葉ですね。「死して更りて生まれ」だけ読むと生まれ変わることを実体化してるように見えるかもしれませんが、今やったことは今で終わらんぞというんです。だから「恵施して福を得る」つまり人に施すならばそれが必ず未来には跳ね返ってくることになるのに、それを信じないからケチって人に与えることもしない。最後に「善悪の事、すべてこれを信ぜず。これを然らずと謂えり。」善と悪という事を全然わきまえずに目の前の利益であるとか、自分にとって気分がいいとか便利だとか、そっちの方にどんどん流れていくわけです。ここは一応道徳的な云い方で書いてありますけど、この本当の善というのが浄土に生れなさい、阿弥陀の世界を願いなさいという形でお釈迦さまはまとめていかれます。ボクらが善根功徳を積んだか積まないか、そんな話じゃありません。貪欲と瞋恚と愚癡の咎と云います、これが三毒ですね。三つの毒と云われます。正に三毒と云われる通り、これによって自分も毒されていく、傷ついていく、人をも傷つけていく。でもそれをやっているのが普通は頑張って生きてるということになっているんです。世の中に負けるな、やられたらやり返せ、それのどこが悪いんやと云ってやってるんです。これが痛ましいぞというように見えてくるのが仏さまの世界に触れて漸くこちら側の問題が見えるんです。この中にいたらこれは痛ましいとも感じない、周りが全部そうなっているから、自分だけ正直に生きたらあほらしいとなるんです。その意味で云えば、あの桜ノ宮の先生にしたってですよ、全国大会に3年連続で出たといえばもう次の年は落ちられないという恐怖を抱えていたかもしれないですね。それをぶっつけるところがない。自分がプレーするわけじゃないですからね、それで高校生にぶつけていくわけです。しかし考えてみればスポーツをやるという事は別に全国大会に出るためにやってるんじゃないんです。もちろんやって勝てれば嬉しいことには違いないです。しかしスポーツを始めた動機は、あの先生にしたってバスケットが好きやったというのが絶対あったはずです。それが勝つためにやるというか、そうなってきた時に負ける位ならやめてしまえというようになっていくという、人間の考え方は本当に狭くなっていく、これしかないと思い込んでいくんですね。繰り返しますが、それはあの先生一人の問題じゃなくて誰もが抱える危うさなんです。だからそういう危ういことをどうやったら繰り返さずに済むのかということをお釈迦さまは私たちにこんなことは前からずっとやってきたと云うのですよ。このお経そのものは1600年ほど前に翻訳されたものですけど、もっと古いものでも同じように出て来ます。大体2000年の歴史があるんですけど、読んでると2000年前と何も変わっていないと、そんな感じがします。世の中は確かに進歩したけど、人間の根性は何一つ変わってないです。そしてもっともっとという心、邪魔者は取り除けという心、それは間違ってないと思っている、まさに貪欲、瞋恚、無明です。この三毒によって傷つけ合うことを繰り返し続けてるんですね。
為楽願生の浄土
上巻だけ読んでますと浄土はきれいでいい場所があるなと見えるかもしれませんが、それを聞けば聞くほど全然違う生き方になっている私たちがはっきりしてくるんです。だから浄土を願いなさいと云うのは、互いに輝かし合っているという存在の事実に立ち返って下さいという呼び掛けなんです。互いに輝くような生き方を取り戻してくださいという呼び掛けなんです。さっき途中で願うという言葉を質問してくださいましたけど、浄土を願うと云ってもいいところと聞いて行きましょうという願いではないです。それなら自分の欲望をかなえるような願い方になります。浄土に行ったら物が有り余ってるとか、浄土に行ったら気に入らん奴がいないらしいとか、そういう願い方ならボクらの欲望を満たすような願い方になってしまいます。浄土を願うとはそんなことではありません。こちら(左側・穢土)の生き方が痛ましいと知らされたとことろにこういう生き方が大事なんだということを教えられるという事です。だから浄土を願うと云うのは、教えられて湧き起る、そういう願いなんです。私たちの欲望から起すような願いではありません。この欲望から起すような願いを、曇鸞大師のお言葉ですが、浄土は楽なところだと聞いて願うと云うのを、「為楽願生」楽の為に生れようと願う、そういうのは本当の浄土を願う心ではないとちゃんと教えて下さるんです。でもそういう浄土の方が多いんじゃないですか、浄土へ行ったら楽出来るとか、今それを信じてる人は多いとは思いませんが、長らく浄土はそういう場所だと信じられてきたんです。今は辛いけど浄土へ行ったら苦しまなくていいという話です。それがだんだん死後の話になって、今この一生は辛いけど死んだ後は楽さしてもらえる、だから浄土へ行けるようにお念仏しましょうとか、こういう浄土の願い方が多かったと思います。それは結局左側穢土の話ですから、そこでまた都合の良し悪しを云うんです。笑い話で、お浄土はみんな迎えられる世界ですから、あなた方の姑さんも居ますよと云ったら、そんな世界なら行きたくないと云ったというこんな話がよくあります。全員行くんですよ。そんな世界は有難くないという声が聞こえて来そうです。でもそれは何かと云ったら、分け隔てする心が砕かれるんです。あの人を邪魔者と思っていた心に問題があったという事を知らされるんです。そこに全てが宝物であったという世界が見えてくるのです。これが今日読んだところで云うと、宝物でない樹はないという樹の譬えですけど、人でもいいんですよ。誰もがみんな輝いている宝物だと見えてくるんです。反対に云うと左側の世界は宝物に見える人と価値がないように見える人を分け隔てしながら日頃生きてるんです。それがいかに愚かな生き方かということです。愚かだと本当に分かるのは、人を分け隔てしている時は分からないんです。最後には自分も分け隔てしますから、元気で働けていた時は私は価値があったと思うんです。でも病気にもなりますしね、働けなくなる日も来るんです、必ず。こんなんになったら私には価値がないと自分で自分を分け隔てするんです。その時に浅ましい生き方をしていた、全てを物差しで測って得か損かばっかりで生きていたということがちょっと見えてくるということがあるんです。準備と云うわけではないんですけど、初めからそういう分け隔てのない世界を今教えられているんです。繰り返しますが上巻だけ読んでいると私たちの生き方と結びつきにくいように思うかも知れませんが、下巻と合わせ鏡のようになってボクらを見せてくれるんです。こっちの方は本当は分け隔て有りませんから調子のいい自分に価値があるとか、調子悪いから価値がないと云う必要がない世界なんです。韋提希の救い
一番いい例は、王舎城の悲劇に出て来る韋提希だと思います。韋提希夫人は立派なお妃様でした。王さまと二人で国を立派にするために貢献してきた人です。ところが息子の阿闍世に裏切られて自分の連れ合いである頻婆娑羅王は殺されるし、頻婆娑羅王を助けようとした自分までが宮殿の奥に閉じ込められるというとんでもない目に会うんです。嘆き悲しみますね、その時は。私何か悪いことしたかしら、何でこんな目に会うのと云うんですよ。ところがお釈迦さまの説法を聞く中で、最後には宮殿の奥に閉じ込められたまま、そこに大きな喜びを見出していきます。ちょっと読んだら不思議な経典ですよ、普通助かるというのは宮殿に閉じ込められていたのが解放されて、ああ助かったという話でしょ、あるいは云うことを聞かなかった阿闍世がもとのいい息子に戻ってくれてよかったという、これが助かったというんです。でも条件が変わらなければ、助からないのなら、それは怪しいです。ある人が云いました、病気が治って助かったというけど、病気は一時期治るかも知れませんけど最後には助からないことに必ずなるんです。手の施しようのない病気もくるんですから。だから助かるというのは条件が変わるというのではないんですね。それをよく見せてくれているのが今の韋提希です。韋提希はどうやって助かったかというと、都合が良くなって助かったのではないです。今まで邪魔ものだと思っていた自分の居場所、邪魔ものだと思っていた阿闍世が、邪魔ものではなかったのです。大事な自分の現場だったのです。阿闍世も自分の我が子として出遇い直すわけです。邪魔ものとして見ていたのは間違いだったわけです。云い方を換えると、韋提希は立派なお妃さまとしては失格ですね。国が壊れたわけですから、あるいはお母さんとしても失格です。家族はバラバラボロボロでしょ、これはかつて悪いことこの上ないですね、今まで立派に生きてきた韋提希からすれば許せない話です。しかし、ボロボロでもなおも生き抜いていく道があったというのが、阿弥陀仏との出遇いなんです。阿弥陀さまはあなたはもう一遍立派にに戻ってから助かりなさいとか、家族をきちっとしてから助かりなさいとか、そんなことは云いません。韋提希は韋提希のまま、あなたはあなたの道が開かれるというように励まして下さる仏さまです。そこに韋提希は、こうならないといけないということから解放されたんです。救いは何かと云えば、自分が決めつけていることから解放されることです。こうならなければ意味がないとか、こうならなければ価値がないと云ってる事から解放される。ひと言で云えば分別から解放される、これが仏教の救いなのでしょうね。それは韋提希が良く見せてくれたことです。だから韋提希はボロボロでもおれる、というのはこっち(右側・浄土)です。こっち(左側・穢土)は違いますね、いいものになって助かっていく、立派な家庭をもう一遍取り戻してから助かっていくんです。しかしボロボロでもなお誰とも代ることのできない大事な人生を頂戴していく、しかもいろんなものに支えられながらあるという、このこと自体重さは変わってないんです。前は自分は立派だから価値があると思っていた、今はボロボロだから価値がないと決めつけている、これから解放されるんですね。浄土を願うと云うのは人間の普通の欲望から出るはずはないんです。普通はこっちを目指しますね、立派になって段々一段ずつ登っていくことを目指すんです。でもそれが破れたところにも道はあるんです。支えられながら、いろんなものの力を頂きながら今日ここに存在しているということ自体に重さがあるのです。だから韋提希はボロボロのままでも生きて行けるようになったんです。宮殿に閉じ込められたまま大きな喜びを得たというのはそういうことです。仏教の救いって何かよく分からないときは韋提希のことを思い出してみるといいですね。韋提希は何故救われたか、家庭がバラバラで息子に裏切られて連れ合いは殺されていくという、こんな状態です。そんなとき普通救いはないですね、しかしその全体を誰とも代れない、代る必要のない自分の人生として頂戴できたわけです、いただけたわけですね。でもこれは周りから強制はできません。観経を読んでみると分かりますが、もしお釈迦さまが頭ごなしに今はしんどいかもしれないけどそれがあなたの現実やから受け止めて生きて行けと、こんなことを云ったとしたら韋提希は暴れます。韋提希が受け止めるようになるまで待ち続けられるのです。例えば病気の人に向かって病気だけれどもそれがあなたの人生なんだから受け止めなさいとは、こんなこと誰も云えません。でもその人が受け止めるところには、今病気で手の施しようもないけど残された人生を大事に生きて行きたいとなったら、病気であることを馬鹿にせずに歩みだすことが始まるでしょ、これは周りからは強制できないです。だからものの見方、頂き方、ここに大きな転換が起こるということが仏教の救いなんでしょうね。私たちの願いを叶えるために浄土に行きたいという話ではなくて逆なんです。浄土は願いが叶わなくても自分の思い通りではなくても、そこには尚いろんなものに支えられながら歩んで行く道がちゃんとあるということです。価値で量れない価値です、誰とも代る必要のない尊さがみんなにあると云うことを照らし出す。これが阿弥陀のはたらきなんですね。そこから見ればみんな輝いているというのが今日読んだ浄土の七宝樹ですね。見道場樹の願
ちょっと戻りましょう、上巻の方へいきます、34頁のところまで読んでましたね。すべてが宝として見えてくるという、これを浄土に生えている樹の描写をもって述べて下さっていました。つぎのところにも差し掛かっておきたいのですが、本願文で云うと28番目の願文、このことが詳しく述べられるところです。先に願文から、20頁です。「たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、乃至少功徳の者、その道場樹の無量の光色あって、高さ四百万里なるを知見すること能わずんば、正覚をとらじ。」たとえ私が仏を得るとしても、国の中の菩薩や功徳をあまり積んでいない者であっても、限りない光り輝いている道場樹を見るならば、どんなものでも道場樹に光り輝きがあり、高さ四百万里、どこからでも見える、スカイツリーは634mでここから見えませんよね、道場樹は四百万里ですからどこからでも見える。菩薩というのは仏道を歩んでいる方々ですね。でも少功徳というのは、その正反対にたるもの、まだ功徳を全然積んでない者であってもということです。どんなものでもということを上は菩薩さまから少ない方は功徳があんまりないものまでと、こういう云い方で表しているんです。あらゆるものが道場樹を見る、そこに光り輝きがあると云うんです。道場樹はなにを意味しているか
これが詳しく述べられるのがさっきの続きになります。35頁です。これはどんな意味を持つかというと今日は七宝樹の話をしましたけど、浄土はそうなんですけど、そのことを知るということ、これが難しいんです。だから手掛かりがいります。あらゆるものは宝ですけど、それを知らせるために一本の特別な樹がある、これが道場樹です。道場樹が見えるところに七宝樹の世界が頂けてくるというように繋がっていると思います。少し読みます。高さが四百万里、根本のところは周囲五十由旬です。由旬とはヨジャーナというインドの長さを表わす単位で、牛が一日に行く距離で16㎞とも24㎞とも云われてます。高さは四百万里と書いてます。中国では一里が1㎞で換算されると云われてます。それにしても400万㎞ってすごい話です。月まで38万㎞しかないですからね、でもこれはどこからでも見えると云うことをこの高さで表すのです。経典が面白いと思うのは無量の高さがあると云うても良さそうなんですけど、具体性に欠けると考えたんでしょうね、それで無茶苦茶高い数字を出すんですね、一気に無量と云わないとこが面白いです。これがどこからでも見えると云うのがこの高さですね。ですからこの道場樹を仰ぐところに阿弥陀の世界にいるということや阿弥陀の世界を受け止め直すことが始まるんですね。蓬茨先生の教え
昔の先生で石川県に蓬茨祖運(ほうしそうん)という先生がおられたんですが、この先生の名言があります。ある人がお寺とは何であんな大きな建物なんやと云うんです。お寺というのは聞法に集まれるために広い場所を作ってるんですね。特に真宗の道場はこの形でしょ。他のいろんなお寺へ行かれて、こんな広い広間があるところは多くないでしょ、真宗は聞法の場所としてこういう場所を作ってきたのです。広ければどうしても高くなりますね、だから大きくなってきたんです。東本願寺も火事になるたびに大きくなったという話もありますね。いま、ものすごく大きなものが建てられてます、でもそんな大きなものは要らないと云った人がいたんです。そしたらその先生がそこにおられて、下手な説教よりもお寺の屋根の方が語り掛けるということがあるんやと仰ったそうです。今の時代に難しいかもしれませんが、うちらの田舎ではあそこに屋根が見えると云って、田んぼの仕事しながら拝んでおられる人も居られました。屋根というのは単に大きな建物と云うんじゃなくて、あそこに仏さまがいらっしゃる、阿弥陀様の教えがあると云って、もちろん聞いた人でないとそんな心は起きないけど、屋根を見るだけでそんなことが起きるんだと云うことをその先生がおっしゃったという話をボクは聞かせてもらいました。下手な説教よりもお寺の屋根の方がものを云うと仰ったというのです。もちろん逆転して変な風に云ってはいけません、大きな建物が要るという話でもないですよ。寄り集まって話を聞いてお互い確かめることがなかったら、それはただのガランドウになりますからね。だからお寺の屋根の事で云えば、見えることを通して思い出すことがあるということですね。一軒一軒で云えばお内仏もそうでしょ、お内仏がなかったら一日一遍南無阿弥陀仏と云うということが起きますかね。一日の中で死ぬと云うことを考えたり、人生を終えていくと云うことを考えるのも、誰かを亡くして初めて身近に感じるようになります。それがなかったらどうですか。今日の話で云えば七宝樹という世界、皆が光り輝いている世界と云ってみても思い出す手立てがないんじゃないですか。仏壇があることでそこで手を合わせることを通して、ああしばらくお参りを忘れていたとか、ああ仏さまの世界のことを忘れてまた世間のことに呑み込まれていたとか、そういうことを知らされます。これが生活の中に道場が出来る、ここで云うと道場樹が立つということの意味です。一軒一軒で云えばお内仏があると云うこと、お名号でもいいんですよ、別に大きな仏壇と云う必要はないんです、お名号を掲げるだけでも違いますね。うちでもそういうお家がポツポツ出て来ましてね、去年お母さんが亡くなられて、古いお家に仏壇があるんですけど、一周忌まではしたんですけど、そこで毎年のお参りはないんですね。その仏壇を自分のとこへ迎えられたらいいのにと云ったんですけど、うちは狭いと。次は来年の三回忌までお参りしないんですかと云ったら、それはダメかと云われてしまいました。年忌は勤めるけど家にお内仏を持ってくるようにはなかなかならないです。だんだん間隔開きますからね、三回忌をしたら今度は七回忌になるじゃないですか、どんどん遠ざかるから三回忌までに何とか云おうと思ってます。でも難しいです、世の中の風潮もあってね。道場樹が家に建つ、道場をお迎えするということがあるかないかで折角の仏さまの世界を思い出すきっかけがあるのとないのとの大きな違いということに繋がっていきます。生活の中に道場を持て
中身は次にしますが、この道場樹ということが七つの宝で云われた樹から特別に取り出されて一本だけものすごく高い樹があると云うのは、この樹を目印にして、この樹を見るところに阿弥陀様の世界、光り輝く世界を思い出すことが出来るという関係になっているんです。それによって何が起きるかということがこの次の道場樹のところに詳しく書いてあるわけです。この樹を見るところにこんな利益が与えられる、利益という言葉が悪ければ、私たちの中にちゃんと動きが生ずるんです、見たのと見ないのでは大違いということです。念の為に先に云っておきますと、親鸞聖人はこれを方便と仰いまして、その道場というものにあんまりこだわると、お仏壇は大きくないといけないんですかとか高い木がいるんですかとか、こういう話になるといけません。最後にはお念仏なんです。南無阿弥陀仏さえあれば場所を選びませんね。旅先でも南無阿弥陀仏というひと言で阿弥陀の世界を思い出せます。その意味では、その南無阿弥陀仏を私たちに届けて下さる、そのために敢えて形をとって方便として近づいて来て下さっているんだというように親鸞聖人はお読みになります。その話はまた次に云いますが、一応道場が自分の生活の中に建つかどうか、一本の樹がちゃんと建つかどうかで私たちが仏法とのかかわりを持てるかどうかの分かれ道に立つというように思います。一応これくらいで今日は七宝樹のところを読んだということにしておきます。