大無量寿経講話【第7回】 2012/ 08/ 17 一楽 真 師
勝報段
法蔵菩薩が兆載永劫の修行の末本願が完成し成就した。そして法蔵は菩薩の位を離れてアミダという位に入られた。そんなところを読んできましたが、今日は聖典28頁下段の後ろから6行目科文でいうと「勝報段」というところです。阿難が「法蔵菩薩は成仏されたのですか。まだご修行中なのですか。涅槃に入られたのなら今どこにおられるのですか。」と聞きます。それに対してお釈迦さまは「法蔵菩薩はもうすでに成仏されて西方十万億の国をすぎたところに現にまします。」とお答えになります。阿弥陀となってたいへん遠い所におられるというわけです。この遠さは私たちの日頃の心からは遠い遠い世界です。行きたいとも思わない世界です。私たちはこの世で自分の欲望を満たすことが幸せだと思っていますから、そこから離れようなどとはこれっぽちも思っていない。だからこの世の楽しみあるいは欲望を満たすという意識からすればどれほど遠いかということです。十万億の国を越えないと出会えないような世界として描かれているわけです。日常の心からの遠さでしょうね。しかしそこに必ずある世界、間違いなくある世界として云われています。
かくされた問い
阿難がまた問います。「阿弥陀仏が成仏されてどれほどの時間が経ったのでしょうか。」「およそ十劫です。」が答えでした。十劫ですから人間の考えでは及びもつかないぐらいの長い長い時間です。昨日や今日の話ではありません。とっくの昔に阿弥陀仏の本願は成就して、安楽という阿弥陀の国もとっくの昔に出来上がっているのだ。ここにはかくされた問がありまして、法蔵菩薩はすべての者が救われるまでは仏にならないと誓いを立てられましたね。その法蔵菩薩が阿弥陀仏に成られたのですから、すべての者は救われていなければなりませんね。じゃあこの私はどうなっているのか、という問いを起こすためにこのやりとりがあると思っていいのです。この救われていない私が残っているのはなぜかとい問い返してもらわないといけないのです。『浄土論註』の文
曇鸞大師が浄土論註という書物でこの問題を取り上げられます。それを親鸞上人が教行信証に引いておられますので、聖典の293頁を開いてください。5行目に「巧方便は、謂わく菩薩願ずらく、『己が智慧の火をもって、一切衆生の煩悩の草木を焼かんと。もし一衆生として成仏せざることあらば、我仏に作らじ』と。しかるに衆生未だことごとく成仏せざるに、菩薩すでに自ら成仏せんは、譬えば火擿(聴念の反)して、一切の草木を擿(聴歴の反)んで、焼きて尽くさしめんと欲するに、草木未だ尽きざるに、火擿すでに尽きんがごとし。その身を後にして、身を先にするをもってのゆえに、方便と名づく。この中に方便と言うは、謂わく作願して一切衆生を摂取して、共に同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国は、すなわちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。」とあります。これは我々を迷いをこえる方向に導いて下さる巧みなご方便ですね。これを云うときに法蔵菩薩の願いを引合いに出して、一番象徴的なこととして曇鸞大師は見ておられます。「私の智慧の火でもって一切衆生の煩悩の草木を焼き尽くしたい。もし一人でもそうならなかったら私は仏にならない。」と。法蔵菩薩は私たちに煩悩を無くしなさいとは仰らない。仏の智慧の炎によってすべての衆生の煩悩を断ち切ってみせると仰るのですね。法蔵菩薩のおはたらきによって衆生が迷いを超えるんだと曇鸞大師は云っておられる。このとおりの言葉は四十八願の中にありませんけれど、このお心は通じていますよね。誓いのお言葉となっているわけです。ここで問いを起こされます。そう仰ったのにまだ助かっていない者が残っているではないかと。まだ成仏していない衆生がいるのに菩薩がすでに成仏なさった。これはいかなることかと。その答えとして曇鸞大師の解釈を示されます。それはたとえば「火擿」、これは金属ではなくて木か竹の火箸のことですが、この火箸ですべての草木を擿(つ)んで焼いているうちに、まだ草木が残っているのに火箸の方が先に焼けてしまったようなものですと。法蔵菩薩は衆生を置き去りにして成仏なさったのではなくて、火箸の方が焼け尽きたように成仏なさったようなものだと仰っています。わかりにくいですね。すべての者が助かるまで、私は成仏しないと云われたのに嘘ついたのじゃないかと見えるかもしれませんが、これは方便だと曇鸞大師は云われます。一切衆生が助かることを先にしてご自身の成仏を後にされたのだけれども、願いを行じている間に燃え尽きたのだということを「その身を後にして、身を先にするをもってのゆえに」と表現されています。本当は一切の煩悩の草木を焼き尽くすまで火箸は草木を擿み続けなければならないのに燃え尽きてしまった。それは行が完成しないうちに法蔵菩薩が先に行ってしまったという意味ではない。一切衆生を最終的には必ず安楽国に生まれさせるという願行が成就して成仏なさったのだから、道はすでに完成してあなたの前に開けているのだ。その道を歩むかどうかはあなたの問題だというのが曇鸞大師の受け止めなのです。『尊号銘文』の文
これを親鸞聖人はどう仰っているか。「唯除」という言葉に注目しておられるのが親鸞聖人の本願文の読み取り方です。聖典では513頁です。十八願文を引用してそのお心を解釈しておられるところです。阿弥陀仏のお名前を十遍ほど称えるだけで誰もが往生できると書いてあります。一人ももらさない、どんな者をも分け隔てしないというお心を特に表わすのがこの第十八願なのですね。ところが一番大事な十八願文に「唯除五逆誹謗正法」と付いているのですよ。ただ五逆と教えをそしる者は除くというのです。これも云ってみればすべての者を救うと云いながら、こんな人たちは除くと云っている。おかしいじゃないかという引っ掛かりがここにあるのです。そのことを通して親鸞聖人は先ほどの迷っているこの私を置き去りにして成仏されたのはどういう訳ですかという疑問に対して答えておられます。唯除五逆誹謗正法といわれている深い意味はなにか。これはたいへん重い罪だということを知らせようという仏からの呼びかけである。五逆とは傷つけあうような生き方になっていることです。その生き方そのままで救われるというわけにはいかないのですよ。だからそのあり方をひっくり返さなければいけない。ひっくり返すためには愚かな痛ましい生き方をしていたなあということを知らされることが大事なのです。それを知らせるためにすべての者は救うけれども五逆の者はそのままで救うわけにはいかんと仏がわざわざ仰っているのが唯除という呼びかけの言葉なのだというのが親鸞聖人の受け止めであります。五逆の者は知らんとか、お前らはどうにもならないではなくて、痛ましい生き方になっていることに気がついてほしい、それを通してなんとか誰もが救われる道に立ってほしい、そういう呼びかけなのです。誹謗正法も同じです。これは教えなんかいらんという生き方です。仏法なんか私に関係ないという生き方です。そのままでは助からない。このことは別のところで親鸞聖人は船の譬えを出しておられる。本願が成就したということはすべての者が荒海を渡させていただく船が完成したということなのです。船に乗りさえすればどんな嵐の中でも人生を渡っていくことができる。ところがそんな船なんか要らないと云っている人間は乗りませんよね。つまり阿弥陀さんが乗せないと云っているのではなくて、オレはそんな船なんかなくて大丈夫だと云っている人はせっかく船があっても乗らない。だからその船から漏れ落ちていく。これが唯除と言われる意味です。だから阿弥陀さんがあいつは気に入らんから除くと仰っているのではなくて本当は皆な乗ってほしいいのですが乗りたくない人がいるのです。傷つけ合うような生き方に埋没している人は生き生きと生きることから離れてしまっていますね。傷つけ合うような生き方をひっくり返せばこの船に乗れます。あるいは教えなんかいらないといっている人はこの船に乗ろうとしませんね。だけどああ乗らなくてはいてなかったんだと気がついた時にはじめて乗ることができるのです。だから唯除ははねつけている言葉ではなくて乗せて欲しいという気持ちになるようにさせるための仏からの呼びかけと親鸞聖人は読むわけです。6行目に「誹謗のおもきとがをしらせんとなり」とありますね、知らせようというお言葉なのです。この二つの罪がいかに重いかを示して、一人もらさず往生するのだということを知らせようとして唯除と仰っているのです。この呼びかけがなかったらどうでしょう。五逆と誹謗の罪を犯していても痛ましいとも愚かなこととも思わない。除くと云われてはじめて慌てるわけです、この私大丈夫なのだろうかと。こんな私でも救われるのですかということがはじめて問として起こってくるのです。これが親鸞聖人の本願成就の受け止めです。曇鸞大師の方は本願はすでに成就している。それは例えてみればすべての衆生の煩悩を焼き尽くしたいと思っているうちに火箸の方が先に燃え尽きたということであって、決して一切衆生をほったらかしにして自分だけがということではない。だから既に出来上がっている浄土に我々は生まれさせていただければいいのだという呼びかけですね。親聖鸞人の方はせっかく船が出来上がっているのに乗ろうとしないのはこちら側の問題だという云い方です。阿弥陀仏のせいじゃないのです。ここのところがなぜ大事かというと、本願は既に成就しているとか十劫の昔に法蔵は阿弥陀仏になられたということが別の問題を生むからなのです。
『御文』の文
蓮如上人の御文でこれを見てみましょう。2帖目の11通、聖典では789頁です。親鸞聖人からは2百年経った時にこんな問題が起こっているということがよくわかります。蓮如上人が吉崎におられるときに書かれたものです。ですから「近年諸国において」というのは「北陸地方で此頃は」ということになります。せっかく親鸞聖人の教えが伝わってきているのに、いろんな形で受け止められている、バラバラだと。当流では、如来から賜った信心が凡夫を迷いから超えさせると教えられているのに、その信心をなおざりにして「十劫の昔に法蔵菩薩が成仏されたときに私たちの往生は決定されている。それを忘れないのが信心だ。」と誤って受け止めるものがある。私たちはとっくの昔に助かっている、そのことを忘れないのが信心ですという人がある、と。これは確かにお経からはそうも受け取れますね。もっと前の聖親鸞人の時代からすでに私たちは迷っているけれど本来は仏さんなのだと主張する人たちも沢山いたのです。迷っているように見えるのは煩悩のカラを被っているからで、中には真実がすでに具わっているというわけです、もっともらしいでしょう。でもそれは違うと親鸞聖人も仰るのです。助かる道はすでに出来上がっている、ここまではいいのですが、すでに助かっているは言い過ぎなのです。すでにある道を歩むか歩まないかを決断するのはこの私なのです。すでに用意された船に乗るかどうかは私たちの仕事なのです。阿弥陀さんが乗せてくれるのをジーッと待っているような話ではありません。あなた乗りますか、乗りませんか、ということです。云い方を換えれば阿弥陀の教えを中心に生きていきますか、それとも世俗の損か得か勝ったか負けたかを争うような生き方を相変わらず続けていきますか、どうしますかということなのです。別れ道なのです。それを決断もせずに、すでに助けられていることを忘れないのが信心だというようなことを云うのは大間違いだと蓮如上人は仰っているのです。十劫正覚は秘事法門といわれたりもします。誤った考えですね。十劫正覚のはじめから如来がわれわれの往生を定めて下さったということを知っているといっても、その教えによってどうやってこの私が迷いを超えていくかがはっきりしなかったならば、極楽に往生するなどということもありませんと云います。法蔵菩薩が十劫の昔成仏して阿弥陀如来になられたと聞いても、それは単なる話であって、私が日頃の生活の中でどう生きて行くかが決まる話と全然関係ないですね。放っておいても大丈夫だとか、何しても構わないんだとかいうのは開き直りです。悪人も助けてやるというのだから態と悪いことをしてやるというように傾いていくこともあります。開き直ってそこに腰を下ろすようなのは親鸞聖人の仰る他力の信心ではありません。念仏しないとすぐに欲望に呑み込まれていく危い私だからこそ毎日毎日阿弥陀の世界を念じながら歩んでいかなければならない。この私は念仏しなかったらとんでもないことになるという自覚が内容としてあるはずなのです。このことと開き直りの取り違いを厳しく批判されているのが蓮如上人ですね。和讃の書き替え
親鸞聖人がどう書こうか悩まれた和讃があります。聖典509頁の14番です。罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき
この和讃一首に68から72まで5つも註が付いています。この註の内容は聖典末尾1062頁に出ています。親鸞聖人がお書きになった草稿本といわれるものが高田専修寺に伝えられています。国宝本とも云われていますが、これにさらに手が加えられたりしますので草稿本とも呼ばれるわけです。一遍はこう書かれたということです。68の「かたち」は「所有」とはじめには書かれていました。以下同様に69「のなせるなり」は「よりおこる」、70「もとより」は「みなもと」、71「この世はまもとのひとぞなき」は「衆生すなわち仏なり」となっていたのです。
「罪業もとより所有なし
妄想顛倒よりおこる
心性みなもときよければ
衆生すなわち仏なり」
と草稿本には書いてあったということです。これは天台の本覚法門の立場を受けて書かれていることを意味します。迷っている相をとっている衆生もすなわち仏なのだと云っているのです。しかしこれをこのまま書けば迷っている自分も仏なのだと主張する人が出てくるに違いないと親鸞聖人は考えられて言葉を変えられるわけです。一番違うところは「心性みなもときよければ」の最後が「きよけれど」になっていますね。「きよいから」が「きよいといわれているけれども」に変わっているところです。心根はきよいとどれほどお経にかいてあったとしてもこの世では本当の人はひとりもいないではないかと云っておられる。「衆生すなわち仏なり」は道理としては云えても実際には成り立たないという現実の方に重きをおいた言葉に変えられているのがわかります。
「本覚法門」・「十劫正覚」の否定
親鸞聖人の本覚法門に対する和讃や十劫正覚に対する誤った考え方を正しておられる御文を読んだりすると真宗の教えというのは仏と衆生とをそう簡単にイコールとは云わない。あえて二つ立てて分限を守るところに力点があると思われます。前回から弥陀成仏について読んできまして、どうしてもひとつには十劫の昔に法蔵が成仏したのなら、なんで私がまだ迷っているのかという問題がある。これを親鸞聖人風に云うと道は出来ているのだけれど、あとその道を歩むか歩まないかという課題が私たちに残されている。船はあるのに乗るか乗らないかの宿題が残されている。決して阿弥陀仏が私たちを見捨てて先に成仏してしまったという話ではない。私たちが生きて行く現場はこの娑婆世界なのです。しかし浄土の教えをいただいて生きていくときに勝ったか負けたかだけではない物の見方を頂戴することができる。気に入る気に入らないで人にレッテルを貼ることから離れることができる。私が覚って仏になってしまうわけではありませんね。この世がそのまま浄土になってしまうわけでもない。浄土の教えを戴きながらこの世を一歩一歩あゆむことが始まる。これが実際の念仏の生活ではないかと思います。
親鸞聖人の本覚法門に対するご和讃や蓮如上人の十劫正覚批判の御文を戴いてみると、真宗の教えというのは仏と衆生をそう簡単にイコールとは云わない。あえて二つを立てて分限を守るところに力点が置かれていると思われます。
前回から「弥陀成仏」のところを読んできましたがどうしても起こってくる疑問があります。一つは、十方衆生が救われなかったならば仏にならないと誓われた法蔵菩薩が十劫の昔に成仏されたのに、まだ救われない私は置き去りにされたのではないかということです。この不審に親鸞聖人は答えて下さっています。道はすでにある。ただその道を歩むか歩まないかという課題が私たちに残されている。船は待っているのだ、その船に乗るか乗らないかは私たちの問題だ、と。阿弥陀仏が私たちを見捨てて先に成仏してしまわれたという話では決してありません。もう一つは、十劫の昔に成仏されたのならば、お誓いされたとおり私たちはとっくの昔に救われているのではないかということです。その結果もうこのままでいいのだ、聞法も必要ない、念仏も要らない、こういうように勘違いする人が出てきます。その受け止めは正しくないと、どうしても云っておかなければならない。親鸞聖人が和讃を細かく訂正されているのも、蓮如上人が御文で注意しておられるのも、こんなお心からであると思われます。
法然の立場
法蔵の本願はすでに成就しているということを阿難の問いを通して確かめる一段を読んだところです。これが実は非常に大事な意味を持っていまして、すでに救われる道は完成しているとか、この船に乗れば必ず荒海を渡っていけるという譬えで申し上げましたが、その道に立つのかどうか、この船に乗るのか乗らないのか、これが私たちに残された大きな宿題でありまして、これは実は親鸞聖人の受け止めなのですね。法然上人も同じようなお勧めをなさっているのですが、法然上人は唯除の文をはずしておられます。本願文を選択集に引かれるときには、十遍念仏すれば誰もが往生をとげることができると、これだけをお勧めになります。これがお仕事だったわけですね。とにかく十遍称えてくれというかたちで念仏が法然上人のお力によって日本に広まることになったのです。法然上人がわざわざ唯除の文を外されたのは、何を中心に生きていくのか、つまり阿弥陀に導かれてこの世を生きて行く、そこに一人残らず救われる道があるということを云うためでした。それを勘違いしてもうとっくの昔に救いは定まっているらしい、なに悪いことをしても構わない、悪いことをしても後でナンマンダブと云いさえすればいいんだと云う人も出て来ます。親鸞聖人はこんなことにどうしてもなってしまうこちら側の危うさをちゃんと見ておられた。ですから唯除の文を改めてお確かめになります。五逆と謗法は除くと書いてあってもそれは救われる道がないという意味ではない。道はとっくに出来ている。歩むか歩まないかはこちら側の問題なのです。それを唯除の文によって受け止め直さなければならなかったのが、親鸞聖人が直面しておられた当時の状況なのです。
成就文の唯除
この問題について下巻の始めのお言葉を親鸞聖人は非常に大切にしておられます。聖典44頁です。第11、17、18願の成就文が下巻の冒頭に掲げられています。まず11願は阿弥陀仏の国に生まれた者はひとり残らず正定聚の位に住す。そこには邪聚や不定聚がないからだと。安田先生は生き方を自分勝手に定めるのが邪聚、ふらふらと定まらないのが不定聚だと仰っていました。日頃私たちは邪聚か不定聚にいるのです。しかし阿弥陀の国に生まれた時にはっきりと定まったのが正定聚です。生きている限り私の人生を尽くさせていただきます。そこにはいろんな問題があるかも知れんが、誰とも代われない私の大事な現場だということが定まる。これが正定聚ということなのです。阿弥陀の国に生まれるということは生き方が定まることです。これが正定聚という言葉で表されていると思います。次の第17願は諸仏が阿弥陀仏の世界を誉め讃える。どれほど沢山の仏がおられても、どの仏さまもみな阿弥陀に出会ってくれと仰るのですね。諸仏というとイメージしにくいかも知れませんが、蓮如上人も、親鸞聖人も、法然上人もずっと遡ってお釈迦さまも阿弥陀さまを誉めておられるのです。誰ひとり、私に会えば救われるとは云ってないのですよ。国々に諸仏が阿弥陀のお徳を誉め讃える、これが第17願なのですが、それが成就しているのを確認しているところです。阿弥陀の国に生まれれば皆正定聚の位に住すると第11願の成就を確認して、だからこそすべての仏さまは阿弥陀仏のお徳を誉めるのだというのがこの第17願成就文です。「だから念仏してください」というのが次の第18願成就文です。あらゆる衆生が諸仏の誉め讃える阿弥陀の名を聞いて、たったひと思いでも、ああそうだったとうなづくことがあれば必ず阿弥陀の国に生まれることができる、こう書いてあります。
「心を至し回向したまえり」これは親鸞聖人独特の読み方なんですが、阿弥陀さまがはたらいてくださるからなのですよ。私の素質や能力で助かるのと違います。阿弥陀のおはたらきがあるから、ひとたび念ずるところに誰もが導かれて歩んで行くことが始まるのです。そして二度と退転することはない。再び迷いに沈むことはない。普通本願成就といえば、ここで終わっても良さそうでしょう、だって上巻で述べられた法蔵の本願は成就しています。すべての者が助かるという願いは完成しています。ここで終わっても良さそうなものなのに、お経は「唯五逆と誹謗正法とを除く」と云うのです。成就したのに除かれる者がある。親鸞聖人はここに注目されるのです。十劫の昔に法蔵は阿弥陀となられました。すべての者を救う本願はすでに成就しています。ただ漏れる者がいるのですよ、と。なぜか。その本願を知らずに傷つけあうことを止めない者(五逆)、その本願を頷かない者(誹謗正法)は残念ながら生き生きと生きて行く本願の道から漏れていくのですよ。そして傷つけ合いを繰り返し、仏法なんか要らん、やっぱり勝ったか負けたかだとそれだけが一番大事なとことと勘違いして生きるようなことになってしまうのです。だから本願は成就したけれど唯除はあるという、ここが非常に大きな問題なのです。本願が成就したら唯除は消えてなくなるというのが普通の考え方じゃないですか、すべての者を救うという本願が完成したのだから唯除もないのが当り前でしょう。でも成就した本願にも唯除があるとお経に書かれていることに着目されたのが親鸞聖人なのです。それを私なりに云えば船はある、この船に乗りさえすればどんな荒海も渡っていける、どんな嵐にも沈まない。ところがその船に乗りたくないという人間がいる。阿弥陀仏の本願は成就した。すなわち船はとっくの昔に完成している。それなのにここにいるこの私が救われないのはなぜか。船に乗らないからなのです。だから唯除という言葉に着目して論をお進めになる、これは親鸞聖人のお勧めなのですね。上巻では本願は成就した、法蔵はすでに阿弥陀となられたと書いてあった。下巻はそこを受けて始まるのです。だから下巻の課題はその世界があるのにどうしてあなたは生まれようとしないのかという呼びかけなのです。
憬興の分類
聖典182頁を開いて下さい。2行目です。憬興という方は唯識の学者なのですが、大無量寿経の註釈書も書いておられて、それを親鸞聖人が大切にされて教行信証に何ヶ所も引用しておられます。ここには大無量寿経の全体を要約して本当に短い言葉で押さえてある。大経には何が書いてあるかを端的に示してある。二つある如来の教えの一つ目には詳しく如来浄土の因果が書かれてある。如来の浄土はどのようにして出来上がったのか、なぜ建てられなくてはならなかったのか、その原因ですね。そして出来上がったのはどんな国であるのか、これが結果です。だから如来の浄土を説くのが一つ目です。「所行・所成」ですからどのように行じられたか、どのように完成なさったのか、それが書いてあるのです。これが実は上巻なのです。だから上巻は如来の巻と言っていいのです。上巻だけですでに、なぜ浄土が建てられたのか、完成された浄土はどんな世界かが説かれている。では下巻は何のためにあるのか、それが二つ目です。詳しく「衆生往生の因果」が説かれている。どのようにしたら衆生が往生できるのか、あるいは往生したらどのような利益をいただくか。「所摂・所益」ですから、どのように摂め取られるのか、摂め取られたらどのような利益を与えられるのか、これが下巻です。安田先生が繰り返し仰っていましたが、大経は長いから二巻になったのではない、内容が二つあるから二巻になっているのだと。法然上人は双巻経とも云われます。如来の巻と衆生の巻で二巻になっているのです。上巻は如来のお仕事、下巻は衆生の責任だと安田先生は仰っていました。となると、どうやってすべての衆生を救うか、そのためにどんな世界が必要なのか、これは如来のお仕事なのですね。どうやって衆生を助けるかは如来のお仕事ですけれど、その世界に生まれようとするかしないかは私たちの責任なのです。歎異抄第二章
このことを親鸞聖人は歎異抄の第二章の終りにはっきり仰っていますね。「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんともまたすてんとも、面々の御はからいなり」と。おひとりお一人がお決めになることなのですよと。でも親鸞聖人は私は如来によって助けられなければならない者です、愚かな私はそちらに立っています。無理強いはできませんけれども、なんとか如来に出会えるものなら出会っていただきたい、そんなお心でお勧めになるのです。あなた方はどうぞ勝手になさいと云っているのではありません。私は法然上人によって阿弥陀に助けられる道に立つことが出来ました。出来ることならばこの道に立ってほしいのですけれど、これは強制は出来ないのですということを仰りたいのです。我が子であってもそうですよ、身内であってもそんなことは無理です。私が信じたからといってその気にさせるわけにいかない。でもその教えに出会った人がないところには、その教えが伝わる可能性もない。自分に先立って阿弥陀の教えに出会っている人、あるいはその世界を生きようとしている人、そのお姿からしか念仏の世界は伝わりませんよね。だから親鸞聖人がお勧めになったことを通してその道に立つ人がまた出てくる。親鸞聖人には法然上人がおられたからでしょう。だから私たちも同じことです。その道に立つかどうかはひとり一人なのですけれど、出会わせていただくご縁が要りますよねぇ、やっぱり。ですから下巻は衆生がどう往生していくか、往生したらどんな利益をいただくかという衆生の巻なのです。この押さえを通していただくと大経は非常にわかりやすいです。
上巻を受けて展開する下巻
いま読んでいる上巻は如来の浄土はどのような謂れでどのようなご修行の結果どのような世界として出来上がったのかが説かれているのです。でも下巻と響き合っていますね。その世界にあなた生まれますか、生まれませんかとね。上巻が中心としている本願は成就しているということを第11、17、18の三つの願で代表させて、だから念仏すれば誰もが生まれる、あるいはその世界に頷く、すなわち信心をいただくところに誰もが迷いを超えることができると下巻の冒頭で云うわけです。と云っておいて「唯五逆と誹謗正法を除く」が付いているのです。どんな者も救われるというけれど何でもかんでもというわけにはいかないのです。念仏しない者でも知らん間に助かっているというようなことはないのです。この教えを信じない者も知らんうちに往生していた、そんなことはないのです。例えてみれば船に乗りたくない者が知らんうちに乗っていたということがないのと一緒です。乗せてほしい、乗せてもらわねば私は溺れてしまう、この教えによって私は導かれなければならないということが定まる。この信心の決定がなければならないのです。蓮如上人が仰ったように、法蔵菩薩は十劫の昔に成仏されたのだから自分はすでに助かっている、このままでいい、何もせんでいいんだというのはただの開き直りです。その道に立つか立たないかの課題は残っている。だから信心を吟味しなさい、沙汰しなさい。それを沙汰せずして十劫の昔から決まっているというのは、ただの開き直りなのだと云っておられるのです。親鸞聖人も同じように衆生は必ず仏に成るという教えを大事にしながらも、教えに遇わなかったらまことの人はいない。本来仏さんだと云ってみても、本来清浄だと云ってみても本当の心で生きている人はひとりもいないのが現実ではないか、という面を強調なさるのです。だからどうせ人間は救われるという教えじゃないのです。救われる道がありながら勝手に迷っている、なんとも愚かなことになっていると親鸞聖人は我々の現実を痛みをもって見ておられたと思います。そういう意味から「一切衆生悉有仏性」という言葉も私の中に仏性があるとは親鸞聖人は云わないのです。云った途端に磨けばなんとかなるとなるのです。光ってないのはまだ磨き方が足りないのだとなるのです。そうじゃなくて私たちは仏法の広い々々世界の中におりながら自分の殻に籠って生きている。良いか悪いか、勝ったか負けたかと。それで勝負して生きている。人と比べてどっちの殻が大きいかぐらいのところで生きている。この殻が破れてみると比べる必要がなかった。それぞれがそれぞれに大事な世界なのだ、これが阿弥陀の世界なのです。破れてみれば初めから広い世界の中にいた、上に上がる必要もなければ、下に落ちることを恐れることもない広い法の世界です。これが阿弥陀の世界に出会うということです。
下巻は基本的に私たちにお釈迦さまが浄土往生を勧めて下さる説法なのです。なぜ阿弥陀の浄土があるのにそこに生まれようとしないのか、なぜ比べ合わない世界があるとおしえられながらこの比べ合う世界に留まろうとするのか、比べ合って傷つけあうことを止められないのかと繰り返し繰り返しお説きになります。いま読んでいる上巻の終わりのところに返りますと、法蔵菩薩が成仏して阿弥陀仏と成られた「浄土の因果」の「果」のぶぶんです。 聖典29頁の3行目からは阿弥陀の浄土はどんな世界かということが書かれていますね。文字通り浄土の姿が詳しく述べられることになります。次の頁からは仏のおすがた、どういう仏になられたのかという仏のお徳が詳しく述べられることになります。無量寿仏とその世界である安楽国の有様について詳しく説かれることになります。
次回からは浄土と無量寿仏の姿を読んでいくのですが、親鸞聖人が大変わかり易いご和讃にして下さっているので一首だけ見ておくことにします。聖典479頁、『讚阿弥陀仏偈』という曇鸞大師の書物を本にして親鸞聖人がお造りになった「うた」であります。その一首目です。阿弥陀仏が成仏されてから今現在まで十劫という長い々々時間が経ちました。お身体から出る光の輪は限りがなく、この世の中の暗闇を照らしてくださっていると。これ4句目が大事なのですよ。阿弥陀さんとは光いっぱいらしいわと3句目までだけを読んでしまうとただのお話しになってしまいます。お経を読んでも物語なのです。4句目の「世の盲冥」は実はこの私の暗闇のことなのです。闇のまっただ中にいながら闇とも気づかず、ずうっと迷い続けてきた。闇は他でもない、この私のことだったとなるかならんかで、このお経が昔々のお話しなのか、今現在の私を照らす光となるかが決まるのです。