大無量寿経講話【第3回】 2012/ 04/ 20 一楽 真 師
重誓偈あるいは三誓偈
今読んでおりますのは上巻で四十八願を述べ終えられて、改めてその中味を法蔵比丘自身が確かめていかれる「重誓偈」といわれる部分でした。はじめに三つの誓いが出てくるので「三誓偈」ともいわれています。本願を説きになってもういっぺん誓われたと云う意味で重誓偈という云い方の方を親鸞聖人は大事になさっています。三つの誓い
四十八願で一つひとつこの願が実現しないならば私も仏には成りませんと約束して下さった。そういう意味で誓願ですけれども、それがもういっぺん押えなおされるというのが重ねて誓うというお言葉です。始めの三つの願いをもう一度読み直しますと一つ目は世界を超えた願いを発したと、云い方をかえれば世の中のことは世の中のことで解決していくことができない。世の中の見かたでは結局良いか悪いかとか得か損かということを免れない。良かれと思っていても人を傷つけることがありうる。自分の物差しに相手をあてはめようとすると結局つぶし合いのようなことが起るんですね。じゃどうすればいいんだと云われるかもしれませんが、そんなに簡単に正解があるわけじゃないんです。求めて訪ねて悩んでいくしかないという面もあるわけですね。そのときになにに尋ねるかです。私たちはそんなときに成功例をきくわけですよ。人が成功した話をマネしようとするのですが、人が変われば同じようにできるハズもない、また状況が違うので同じようにやったとしても成功するとは限らない。そういうときに善し悪しを超える道にどっかで出遇わないと結局はウマクいったから成功した、ウマクいかなかったから失敗したと全部を評価しようとする。あるいは人と比べ合うことを止められないそれでは助からんということを法蔵菩薩は沢山の国を見る中から学ばれたのです。世間で考えられるようなことをどれだけ進めようとしても、必ず漏れ落ちる人が出てくる、そこに善し悪しを超える、比べることを超えるのが超世の願の大事なところだと思います。つまり都合のよい物を手に入れて助かるというのではない。あるいは都合の悪い物を取り除いて助かると云うのでもない。善し悪しを云うことから解放されないといけない。それが四十八願の中で説かれたどんな者も安心しておれる国にしたいという願の中味だと思います。それを法蔵比丘はわれ超世の願を建つと云われました。これによって誰もが安心できる道を開こうというわけです。そして無上道に至らんと云いますね。さらにこの願が満足しなかったら誓う、正覚を成らじと。だからすべての者が安心できる道を建てたい。私はそういう仏に成りたい。だからあえて分ければこの第1の誓いは仏に成りたいということを誓っているのですけれど、それは人々が助かっていくということと切り離せません。私は一応自利の願いというようにお話しましたが、第2の誓いが利他を強調しているのに対して敢えて分ければ第1番目は自利の面です。第1と第2で自利利他を誓っておられるのであって、自利を離れた利他はないし、利他を離れた自利もないのです。
第2の誓いは「我大施主となりて」と施すということを誓っています。つまり苦しみ悩みに沈んでいる者に利益を与えるという、これが施していく内容であります。対象は「普くもろもろの貧愚」であります。貧しき者苦しみに沈んでいる者、そんな人たちを利益したいという願いです。決して衆生を分け隔てするわけではありませんが、病気の子供あるいは一人子を特に大事に思うという仏心が譬えで表現されることがあります。病に苦しむ者たった一人の子どもというように譬えられるところに仏の慈悲がひとり一人の上に同じように語られます。ここでは貧しき者苦しき者を恵みたい、利益を与えたいと云っています。ですから自利利他は切り離せませんけれど、2番目の誓いは特に利益を与えていこうとする、他に対して施していこうとする利他の面が強調されているお言葉ですね。じゃあどうやってそれを実現するかという、これが3番目の誓いの大事なところなんですね。
自ら迷いを超え他も迷いを超えさせていく、どんな者も一人残らず安心できる国にしたいと誓われたのですが、これをどうやって実現するのか、実現方法が第3番目で語られているのです。「我、仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。」私の名前が声としてありとあらゆるところに届くようにしたい、もし聞こえるところがなければ私も覚りを開きません。正信偈では「重誓名声聞十方」となっています。
言葉の役目
前回はここまででしたが、今回はなぜ名前なのか、なぜ言葉なのかということを考えたいと思います。親鸞聖人の『一念多念文意』の中に名前の持つ力ということを語っているお言葉の引用があります。聖典の536頁です。「経言「若人但聞彼国土清浄安楽剋念願生 亦得往生 即入正定聚」此是国土名字為仏事 安可思議」漢文で少々ややこしいですが、阿弥陀仏の世界のお名前、浄土のお名前が働いていくということを述べて下さっている部分があります。もし人が彼の国の清浄安楽なるを聞いて心を至して生れようと願うならば、浄土に往生して二度と迷うことがない正定聚に即座に入るのだと。これは阿弥陀仏の国土が清浄安楽だと聞いて願いを起すわけですから、その国土のお名前が仏のお仕事を為したというのです。名前が働くわけです。人間はどうしても言葉で生きていますね。言葉によって元気をもらったり失ったりもします。言葉の生き物なのです。他の生物も言葉がないわけではありませんが、情報伝達の手段としての言葉だと思います。猿やイルカも信号を発して情報交換をします。そんな意味で情報伝達の手段としての言葉をもっているといってもいいかもしれません。でも人間の言葉が厄介なのは言葉によって縛られていくのですね。自分のとか他人のとか、昨日のとか未来のとか、こんなことが上につくことによって全部を固定化する、定めていくというのが人間の言葉の厄介なところです。伝達の手段としての言葉が動物たちにもあることは一般に認められていますけれども、それによって苦しんだりあるいは人を傷つけるようなことをするのは人間の言葉の厄介さというか特徴でしょうね。ですから言葉によって苦しんでいる者をどう救うか、言葉によってがんじがらめになっている者をそこからどう解放するか。やっぱり言葉しかないと、これを選ばれたのがお釈迦さまの初転法輪説法であります。
お釈迦さまは大変悩まれたということが伝えられていますね。言葉にできない世界、言葉で把握できない世界をどう伝えるか、言葉にしてしまったら却って誤解を招くかもしれないと悩まれた。決して自分の出遇った世界を説くのが惜しいというようなそんなケチくさい根性ではないです。かえって人を惑わすんではないかと、ですから例えば禅宗なんかでは言葉にあまり振り廻されないように公案を立てたりしますよね。あれは説明できない言葉を与えるわけです。あり得ないことを提示することによって理知を尽しても解けないものに一遍出会わす、これが公案の大事なところらしいですね。といってもそれも言葉です。不立文字ということを立てるのもそれも言葉です。禅宗は言葉によらない体験的な仏道だと見えるのですが、禅宗もどこまでも言葉の限界を知って、そして本当のお言葉に出会っていくという世界を我々に伝えようとしていると思います。
親鸞聖人の場合は始めっから言葉の呼びかけの持っている大事さ、これしか我々の迷いを破るものはないというところに立たれた方であります。だから我々が一番出会わなければならない言葉はなにか、これを安田理深先生は根本の言葉という意味で「根本言」と云っておられます。いろんなことを沢山憶えてみてもそれは迷いを増長するだけであって、迷いを翻させるような、固定化してガンジガラメになっている心を破るような言葉に出会わなければならない。これを根本言とか根本語とかと云われます。お釈迦さまのお言葉では「真理」の一言となります。真理を云い当てた一言に出会わないと私たちは沢山言葉を憶えたからといって決して迷いを超えられない。
たとえばお経の言葉を沢山憶えることが苦しみ傷つけあうことを超えることになると思っている人に、そんなことから解放されなさいと云いたいのです。自分の中から出たのではない、如来のお言葉、如来如実言と親鸞聖人は仰います。如から来る言葉なのです。向うから来る言葉なんです。自分では気がつけないことが人の言葉でハッと気が付くということがありますね。例えば自分が何を求めているのかはっきりしないときに人から云われて、それだったんだというようなことが身近なところにありますね。自分のことは自分が一番知っているようですが、向うからの言葉に自分の有様を云い当てられるということがありませんか。自分で仏教をつかもうつかもうとしているときは駄目です。ちょっと分かったとか分からんとか、難しいとか易しいとか、こんなことでしか言葉に関れないのです。ところが今日ふれた言葉ひとつで自分のこだわっていたことが見えたとか、自分の根性を云い当てられたとか、いやといえないところがあります。特に自分のいやな面を云い当てる言葉なんかはあんまり聞きたくないと思うときもありますけれども、しかしいやと云えない、否定できないというときがあります。それが向うからの言葉なんです。如来の言葉です。だから同じ言葉でも如来の言葉として聞えるかどうかで全然違うのです。例えば親鸞聖人が本当に大事になさるお言葉では「凡夫」あるいは「愚鈍の衆生」というような云い方があります。どうですか。これは人間を誉め讃えるような云い方ではありませんね。浄土真宗のお話を聞いているとどうも人間は凡夫らしいわとか、愚かという自覚が大事らしいわとか、こんな話になりますが、「…らしいわ」というときにはそんなこと全然思ってないわけですね。その証拠に何が起こるかというと、私はずっと教えを聞いているから愚かやということが分かった。だから分からない人よりはましやと、こうなるわけです。人と比べてまた威張らんならんようなことになるわけです。でも云い当てられるときもあるのですね。なんか自分が長年聞いていても何も変わらないとか、この根性が縁次第でいろんな誘惑に呑みこまれていく。そういうときには凡夫やな~と分かる。賢くなったつもりやけど愚かやったということがあからさまになる。同じ言葉でもそう思わなくてはならないと聞いているときと、云い当てられるときとでは全然違いますよね。聞法が難しいというのは、そこなんです。言葉が古くて難しいということじゃないのです。現代語で云っても、あるいは易しい言葉にかみくだいてあっても自分に届いたときにはそれは響きます。でも届かない時は誰のこと云うてるんですかとなるのです。そのときには遠い遠い話なのですね。だから響いてこない、こちら側の問題なのですよ。聞きたくない、聞こえない、真理の一言というのはどれが真理の一言だと云えない。それは自分に届いたときが、働いたときが教えが生きているということになります。それに出遇わないと私たちは迷いを翻すことは出来ない。
真理の一言
だから南無阿弥陀仏が真理の一言だと親鸞聖人は繰り返し仰るのですが、それいったいなんですかと普通はなりますよね。そんな言葉を唱えたところでどうなるのですかと。そういう不遜なことでもいくらでも云ってしまいます。ところが、阿弥陀仏に南無せよというように聞こえて、ああ阿弥陀仏に南無せんならん私だということが見えたとなったら、同じ南無阿弥陀仏が全然違って響いてきますね。だからどれが真理の一言だと私が査定する話ではないということです。ここでいうと阿弥陀の国が清浄安楽だと聞いてその国に生れたいと願いがおこる、それはもう国土の名前が生きて働いたということになります。いろんな言葉の渦の中にいる私たちに世俗に埋没している自分を一歩超えるような、そういう動きがおこるということです。これが国土の名字仏事を為すと云われていることです。前回申し上げておりましたように言葉をもって私たちの闇を破って下さる、物を見せて下さる、ああそうだったのかと気づかせて下さる大変大事な働きであるということを親鸞聖人は特にいただかれた人だと思います。仏のお名前、御名号
親鸞聖人はお名号を何幅も書いておられます。現存するのは七幅しかありませんが、これらは御同行の求めに応じて書かれたと推測されます。自分が趣味で書いたというんじゃないのですよ。行き先があるのです。門弟がおられたところにそれが伝えられているわけで、書いて自分の家に飾っていたというわけじゃありません。ご本尊が欲しいというときに多分筆をとられてお名号をお書きになられたんだろうと思います。でもこれ考えてみると大変不思議な話でして、親鸞聖人の師匠である法然上人は関東のお弟子にはお木像を刻んで与えたと伝えられています。もちろん法然上人のお手作りではなく仏師に彫らせて関東へ送ったということですが、お木像なのですよ。これは間違っているという意味じゃないですよ。でも私たちはどうですか、仏さまと云えば仏像、姿、形をとっていなければ拝むとういことがそう簡単に出来ないんじゃないですかね。お名号がご本尊だとすぐなりますかね。私たちは真宗門徒というご縁の中で親鸞聖人が手始めにされたのですが、それをもっと進められたのが蓮如上人です。蓮如上人のお仕事によって日本全国にお名号が届いた、掛軸じゃないです。本尊が届いた。それがお言葉なんです。阿弥陀仏に南無しなさいという呼びかけなんです。その言葉を本尊として始めに定められたのは親鸞聖人だということを確認しておく必要があります。法然上人でさえお木像を与えられたということがある。そんな中で親鸞聖人はお名号を書き与えられた。そしてどういう意味ですかと尋ねる人にはお聖教で更に噛み砕いて教えられるわけです。一番生活の中でこれをいただけるようにしたのはご和讃です。口ずさんで南無阿弥陀仏のお心を頂戴していけるわけですよ。更にはその阿弥陀仏の教えに生きられたお釈迦さま、七高僧の仕事もいただいていける。ご本尊ひとつでいいんですけれど、意味を知りたい、日頃それを受けとめ直していきたいという人にはお聖教を書写して与えていかれました。そんな意味で一番大きなお仕事は教行信証です。漢文で書いて学者にも読ませようとされたのです。南無阿弥陀仏でなければならない意味、浄土の教えでなければならない意味を門弟にも学者にも読ませようとされたのだと思います。これは現代でも同じでして一言で云えば南無阿弥陀仏なんですよ。南無阿弥陀仏
それはどういうことですかという時に、それをさらに解きほぐして語るということがどうしても必要です。さらにそれがどう受け止められたかを確認しなければいけませんから、集って語り合う、それがお講ですね。そうしないと自分の都合のいいように聞くという問題が残るからです。そう思うと真宗の教えに縁をもってこられた方は毎月毎月の寄合いを大事にしてこられたのですね。大体親鸞聖人のご命日、法然上人のご命日には必ず寄り集まって仏法をいただいていく、それを基礎にして日常生活に出ていく、更に日常的なのはお朝事ですね。正信偈でご和讃のお勤めをしてきました。考えてみると言葉ばっかりです。法要も全部そうです。言葉で構成されたものです。日頃出会っている言葉ってどんな言葉でしょう。得か損か、勝ったか負けたかとか、ひどい場合には人のことを善し悪しと評価してみたり、一番ひどいのは人や物事に価値づけをする。こんなことばっかりです。人が寄り集まって生き方を確かめる会話にはなかなかならずに人の悪口を云うて、せいぜい自分はそうじゃなくてよかったと変なところに腰を下ろそうとします。その云っていること自体がいかに危ういか、愚かかということを知らせてくれる言葉にはなかなか出会えない。だから法要をお勤めするわけです。そんな言葉が真理の一言、南無阿弥陀仏です。一念多念文意
『一念多念文意』というのは隆寛律師の『一念多念分別事』の解釈を親鸞聖人がして下さったものですが、「十念三念五念のものもむかえたまうというは、念仏の遍数によらざあることをあらわすなり。」(聖典542頁)という言葉を引いておられます。回数は関係ないのだということですね。一念多念文意自体が一念か多念か、回数によって念仏の利益を計ろうとするような根性を問題にしているのです。沢山唱えた方が利益があると云う人もいます。それは本当に念仏が分かってないんだ、一辺でいいんだと云って頑張る人もいるわけです。結局はオレの念仏が一番だという話に堕ちて行くのです。オレの念仏は正しい、あなたの受け止めは間違うておるとやり合うようになるわけです。それに対して一念だ多念だというふうに限るのは問題だと仰る。これが一念多念分別事ですし、それを解釈した一念多念文意なのです。「十念三念五念のものもむかえたまうというは、念仏の遍数によらざあることをあらわすなり。」と云っています。回数じゃないのです。だから十辺でも十二辺でもいいですよ、百辺でも一万辺でもいいです。逆に一声の念仏でもああ大事なことを忘れておったと、また世俗のさまざまな言葉に踊らされていたと、こういうことに気が付かされることもあるのです。そのことを次の言葉によって仰っています。「直為弥陀弘誓重」
「「直」はただしきなり。如来の直説というなり。諸仏の世にいでたまう本意ともうすを、直説というなり。」直という言葉だけなんですが、如来の直説だと云っています。弥陀の弘誓重なれるというのは如来の一番云いたいことだと。直接に説きたいいことだというのですね。しかもそれはお釈迦さまお一人だけじゃなくてありとあらゆる仏さまということで、諸仏の世にいでたまう本意と云います。お釈迦さまがこの世に現れたのも三世十方の沢山の如来さまが現れたのもこれから現れるのも本当に云いたいのは弥陀の弘誓ということなんだと。なぜかと云えば弥陀の弘誓が説かれるところに誰もが一人残らず迷い苦しみを超える道があるからであります。お釈迦さまに出遇わないと助からないのだったら、私たちもう無理ですわ。でもお釈迦さまは仰るのですね。私のいる時代に生れ合わせなくても、私が入滅した時代に出てこられた人たちも阿弥陀に出遇えばいいのだというのです。私の顔を見なくても大丈夫だと仰る。ここがなかなかはっきりしないのです。お釈迦さまに遇えば仏教が分かるんじゃないかという考えが捨てられない。お釈迦さまが云いたかったことに遇うのが大事なんです。それはなにかと云えば弥陀の弘誓、阿弥陀の本願、これに出遇えばいい。だから如来の直説です。お釈迦さまが直ちに説きたいこと。それは沢山の仏さまがこの世に出られた本意だと云っています。これを直説と云っておられますね。
「「為」は、なすという、もちいるという、さだまるという、かれという、これという、あうという。」弥陀の弘誓が重なっているというのは文字通り四十八願を説いた後にもう一辺重誓偈で説かれている。これは形式上のことですが、なんで重なっているのかというと、重いからなのです。あついというのは私たちを見捨てないというお心のあつさです。どういうように見捨てないかというと、言葉を通してどんな者も救いとめていこうというのです。
諸仏称名の願
「誓願の名号」本願において誓われたお名前、第十七願に出るわけですが、ありとあらゆる諸仏に私の名前を誉め讃えられたいとありました。わが名が誉め讃えられることを通してありとあらゆるところに私の働きが届いていくようにしたいというのが法蔵比丘が願ったことでありました。云い方を変えれば、法蔵比丘といえども自分一人で全世界に届けるというわけにはいかない。例えば親鸞聖人は法然上人のお言葉を通して阿弥陀の世界に出遇われたわけです。法然上人が阿弥陀に出遇え阿弥陀の名を聞けと仰って下さったことを通して阿弥陀に出遇われました。だから阿弥陀の教えが親鸞聖人のところまで来ているわけです。同じように南無阿弥陀仏がどうやって皆さんのとろまで届きましたか。自分に先立って南無阿弥陀仏に出遇っている方、仏法が大事だと云うて下さる方、そういう縁を通して聞法なさるようになったと思います。皆さんを押し出したものがありますね。これが仏法に引き会わす大きな大きな促しであり、おはたらきです。そういうご縁がなければ阿弥陀がいきなり私のところまで飛んでくることが出来ないのです。誓願の名号は十七願に誓われますが、ありとあらゆる諸仏の誉め讃える声を通して全世界にわが名を響かせたいという誓い、これが働くのだと云うのです。これを用いて行け、いただいていけと親鸞聖人はここで仰っているわけです。これをさっきの言葉と重ねますと、念仏の遍数じゃないと云っておられますが、常識は回数でたすかろうとしているのではないですか。経歴や積み重ねによってたすかろうとするんじゃないですか。そうじゃないと仰るのです。名号をいただけと云うのです。これは本願に誓われているお名前でして、私たちには声として響いてくる。これが名号であり呼びかけです。阿弥陀仏に南無しなさい、我が国に生れんと欲いなさいという呼びかけです。呼びかけが大事なのです。これを親鸞聖人は招喚の声と仰います。勅命、絶対命令だとまで仰いますが、この声が響いてくるのが誓願の名号という言葉に籠められている意味です。私が口から唱えた音とか回数で助かっていくのじゃなくて、自分が唱えてもそこに阿弥陀仏に南無しなさいよと、わが国に生れようと思いなさいよという呼び声を聞かせてもらうと云うことなのです。本願名号正定業
正信偈でいうと「本願名号正定業」があります。ここにそのお心が反映されていると思います。本願の名号が仏の国に生れることが決定する身になるための行ないだと云うのです。正定業という言葉は善導大師のお言葉ですね、五つの正行の中でも四つの助業に対して称名こそ正定の業だと善導大師が云っておられるのです。その伝統をそのまま受け継ぐのならば称名念仏正定業と云わなくではならないところを親鸞聖人は本願名号正定業と仰っているわけです。なぜでしょうか。称名念仏正定業と云えばなにが起るかということを親鸞聖人は見ておられたのです。私が唱えた念仏で助かるという誤解です。それは回数を問題にするようになります。そうではなくて本願の名号という呼びかけによって助かるのだと親鸞聖人は云い変えて下さったのです。向うからの言葉です。本願が私たちに名告って来ているのです。如来からのお言葉です。如から来ているお言葉です。この響きに遇わせていただくというのが正信偈の本願名号正定業というお言葉におさえられているなあと思います。一念多念文意では誓願の名号を用いなさいとそれを定めて下さった。それが法蔵自身によって重なっている、これが重誓偈のお心だと思いなさい。法蔵自身によってこれが大事だと定められている、これを用いて行けと読んでいかなければならないと思います。
三誓のまとめ
重誓偈が三誓偈とも呼ばれているのは三つの誓いが述べられた偈頌だからです。そうしますとこれまで読んできた3行12句で一応段落するように見えますが、次の4句「離欲深正念 淨慧修梵行 志求無上道 爲諸天人師」までで一段落と見るのが諸先輩の押さえ方です。それは異訳の経典との対応も考慮されてのことです。いま読んでいる『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)の誓いは1番目から3番目までが「・・・とならなければ、正覚を成らない」で、4番目は「・・・となって、諸天人の師となりたい」ですが、菩提流支訳の『無量寿如来会』では4番目も3番目と同じ否定的な表現で「天人師と作(な)らず」になっています。原典のサンスクリット本(岩波文庫『浄土三部経上』でも、第1から第4の誓いの結びは「・・・とはなりませんように」という云い方に揃えられています。ですから第4頌は決意表明のまとめの言葉で、ここで一段落すると解釈されます。松原祐善先生も『大無量寿経に聞く』でこのような受け止めをなさっています。光明の功徳
そこで今度もうひとつ中味を具体的に抑えるのが次の一段になります。「神力演大光」と光が出てきて、その次に「説法師子吼」と言葉をもって語るということが出て来ます。これが光明と名号の働きだと松原先生は押えて下さっています。まず光明です。人間の思いを超えた力をもって光を演べ、果てなき世界をことごとく照らすと、光の働きが出て来ます。それによって貧瞋痴という冥(くら)いものを消し除いて広く諸の厄難を救うのだといいます。光によって我々の暗闇を消し去って、それによってさまざまな災難を救おうと云っています。これも実体的に読むと変なことになります。ありがたい光によってこちらの問題が消え去るのかと読んでしまうのですが、この厄難というのもこちらの都合でコロコロ変わるわけですね。邪魔者を作り出す、そういう心ではどこに居ても邪魔者ばっかりです。いくつまで生きても邪魔者ばっかりです。最後には自分自身の体も邪魔者になるかもしれません。それは邪魔者を作り出す心が問題だということ、これを明らかに照らして下さるのが三垢の暗闇を除くという言葉であると思います。邪魔者と思っていた心が問題であったということです。そこに善し悪しということを本当に超えていくことのできる、そんな形で厄難が救われるのですね。教行信証のお言葉では難度海を度するといいますね。難度海が消えるとは云わないんですよ。荒海を渡っていく力をいただく、だから静かな海になるわけじゃありませんね。あるいは天親菩薩のお言葉でもそうですね「永離身心悩」永く心身の悩みが消滅したとは云わないですね。あるんだけれどそれから離れていくということが成立つという云い方です。例えば身体が痛いというそのこと自体が消えるわけではなくて、身体が痛い年老いた衰えたということを邪魔者として憎んで生きることから離れることが出来るということなんですね。ここでは三垢の暗闇の方は消し除くとなっています。そしてこのことによって諸の厄難から救われるということが起きる。これが光明の働きとして始めに述べられています。次に「かの智慧の眼を開きて、この昏盲の闇を滅せん」と。彼と此という字が使われますが、彼は仏の世界です。さとりの智慧の眼を開くわけです。此は迷いの世界の方を指しています。彼岸と此岸です。それによって諸々の悪道を閉塞して、苦しめ合い傷つけ合うものを仏教では悪といいますが、そういう悪いあり方生き方を閉じていく。善趣は善きものですから迷いを超えるようなあり方、そういうことの門に通達せんというのです。岩波文庫本の『浄土三部経』では善趣の門を天界、天の世界と書いてあります。そうなると地獄餓鬼畜生が悪くて天に生れるのは善いのかと思ってしまいますね。そうではありません。親鸞聖人は「即横截五悪趣」といって天の世界も迷いの中です。三悪趣を離れて天に行けばいいというのじゃありません。天に生れてもそれは本当の楽ではない。本当の安らぎではないということを教えるのが大経全体のお心です。親鸞聖人は三悪趣と同時に人・天も加えて五悪趣ということも仰るんですね。天にまで登っても、思い通りのことを手に入れて幸せの絶頂に居ると思ってもそれはいつでも苦しみの種に変わることもある。そこにいることを喜べなくなったら空しいこと極まりありませんから、源信僧都が天上界は阿鼻地獄の16倍以上の苦しみだと書いています。現状に満足できなかったときの空しさたるや惨憺たるものなのですね。苦しみから出ようとしているときは、まだここから一歩立ち上るぞという勇気がわいたりするのですが、なんでも思い通りになって何もせんでもいい、でも暇で退屈で仕方がないとなると、これが一番の苦しみだと仰るのです。そんな意味で善趣は天上界ではありません。善趣の門を開くというのは傷つけ合うあり方を超える道に赴くというその門が開かれる、門に至りつくということを云っています。それを我々に示して下さる、これが光の働きなんですね。
次の「功祚」は功徳が満足するような位です。功徳の位が完成する。それによって威厳のある輝きが十方に明らかになる、日の光も月の光も重い輝きをおさめてしまう。天の光さえも隠れて現れることがない。何ものも及ぶことのない光です。嘆仏偈にも「猶若聚墨」(聖典11頁)とあります。日・月・宝石・珠・焔などの光や輝きは全部隠れてしまって墨のように黒くなるというのです。世自在王仏の輝きに比べれば世間で尊重されているものは墨のようなものだというのです。ここまでが光明の功徳、光をもって世間にはたらいていくことが書かれてあります。
名号の功徳
では光の功徳をどこでいただいていくかを押えたのが次の二つの頌になります。これを先人は名号のお徳として読んでいかれます。名号というお言葉は出て来ませんが「説法師子吼」とあるように法を説くということですね。ここの親鸞聖人の読み方は非常に特徴的です。親鸞聖人はこの重誓偈から教行信証(聖典157頁)にわずか8句を引かれます。第3頌「我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚」と第8頌「為衆開宝蔵 広施功徳宝 常於大衆中 説法師子吼」(聖典157頁)です。「名声十方に超えん」ということは、私の名前が十方に届くのは諸仏のお蔭だということです。第8頌の「説法師子吼せん」ということは阿弥陀仏の説法とは沢山の方々によって我が名が誉め讃えられる、あるいは阿弥陀は大事だという功徳が証しされることです。阿弥陀が直接私たちに説法するのではなくて、諸仏が阿弥陀は大事だあるいは阿弥陀の国を願えとか南無阿弥陀仏を称えよとか、いろんなところで云って下さっている。それがすなわち阿弥陀の説法だということです。親鸞聖人は第3頌と第8頌をくっつけることによって、そう読んでおられると思います。諸仏の称名が真実の行であるとはなかなか頷けませんが「行」が迷いを超えるための「行ない」と読めますので、私が何をすればいいのかとか、どうすることが迷いを超える行なのですかとか、自分の実践項目としてイメージしてしまいます。諸仏が阿弥陀の名を誉め讃えることが行だとは思えないのです。でも親鸞聖人はそこに大きな問いかけをなさっていて「あなたいろんなことをやっていますが、それは迷いを超える行になりますか」ということです。親鸞聖人は比叡山であらゆる行をなさった。でもそれは後から考えてみると雑行だと云われます。いろんなことをしたというのは間違いないけれども迷いを超える行とは思えない。真実の行とは我々がいろんな行を積み重ねることではなくて向うからの声が聞こえてくることなのです。これが大事だぞという如来の声、如実の声、真理の一言が本当の働きかけなのです。それをどこで聞くか。諸仏の称名の上に、如からの呼びかけが届くと親鸞聖人は云おうとしておられるのです。それが唯一、私たちを迷いから離れさせるおはたらきだと行巻で云われるのです。私たちは阿弥陀仏の説法をどうやって聞くかと云えば、諸仏のお勧めを通して聞いていくわけです。
「供養一切佛 具足衆徳本 願慧悉成滿 得爲三界雄」一切の佛を供養するというのは本願を発す前には210億の国をご覧になっている。一切の仏をご覧になり尊敬するところから本願を発された。そしてここで改めて私の発した本願はこれまでの仏道の願いにかなうものでありましょうかともう一辺一切の仏さまにお聞きしていくようなお心が表されているのです。一切の仏に学んで本願を建て、建てた後もなお一切の仏に学んでいかれるのです。そして「諸々の徳本を具足せん」の徳本は親鸞聖人がお名号だと仰います。一切の徳の本です。210億の国の仏さまはそれぞれにいろんな功徳を実践して来られたわけです。人々を利益することをなさって来られた。でも何が根本か、その功徳の本はなにか、これを210億の中から法蔵比丘が見出されたのですね。いろんな功徳はあるけれども、その本は願を発されるときの言葉によれば、「抜諸生死 勤苦之本」(聖典13頁)です。対症療法も大切です。しかしその本になっているものを抜き取りたいと願われています。病気で苦しんでいたらその病気を治すのは大事じゃないとはいいません。それが治ってもまた病気になるのです。仏教は病気を抱えている身を抱えてなお生きていけるという道です。難病を抱えたならば残された人生をどう生きていくかがもっと大事なことですね。そこに病気であってもそのことを馬鹿にせずに、だから駄目なんだと云わずに歩んでいける道を見出すのが「勤苦の本を抜く」ことなのです。これと対比すると功徳の本も同じですね。対症療法的にいろんな功徳を与えるということもあるでしょうけれども、何を与えたら本当に苦しみから解放されるのか。目の前の苦しみを抜いてくれるのも確かに功徳ですが、状況が変われば前の功徳では間に合わんということもあるかもしれませんね。そういう意味で親鸞聖人はこれを南無阿弥陀仏に仰いでいかれるわけですが、どんな状況に投げ出されても何があってもその中に立ちあがっていける本になるのが名号であると仰っています。このことは方便として化身土巻によく出てまいります。なぜかというと南無阿弥陀仏は功徳の本であると聞いてそれに執着することが起る。他の功徳はいらん、他の修行はしなくていい、これ一つだけやっとけばいいんだと、利益があると聞いて念仏にしがみつくということが起きる。あるいは利益を期待して念仏するということが起きる。そういうあり方は本当でないということを化身土巻で批判的に語られます。でも少なくとも徳本という言葉がここに出ていて、これをもってありとあらゆるものを利益していこうとする法蔵菩薩の願いが読み取られます。そして今まで述べてきた願いと衆生を利益していく智慧がことごとく完成して誰もが仰がざるを得ないような「三界の雄」でありたいと結ばれます。これが光明と名号の働きが語られている二段落目になります。
円融至徳の嘉号
しかし親鸞聖人の押えから云いますと、根本は名号の方においておられます。光によって闇が破られるというのですけれど、光はどこにあるかと云えば言葉を通して光に触れるのですね。自分はいままで物が見えていなかったという自覚が光に触れたということなんでしょうけれど、言葉を通さないと光に遇えません。目に見えるような光ではありませんから、後で「聞光力」という言葉も出て来ます。光を聞いていくのです。また光は身をうるおすという意味で「光沢」(聖典479頁)という言葉もあります。文字どおり照らされるという「光照」もあります。五感全部です。名号にその根本を見ていかれるのです。総序(聖典149頁)の文でいえば「難思の弘誓」「無碍の光明」つまり本願と光明で始まるのですが、それがどこに実現するかと云えば「円融至徳の嘉号」「難信金剛の信楽」すなわち名号と信心であると云われます。呼びかけと呼びかけを聞いたというのが名号と信心であって頷いた心以外に本願とか光明とか云ってみてもどこにもないのですよ。光は遇うた人にあるのです。本願は聞こえた人の上にあるのですね。「なにものにもさえぎられることがなく、あらゆるところにまで至り届く智慧の光を具えた一切の諸仏と等しい者で私はありたい。そして世自在王仏と等しい功徳と智慧の力を獲得したい。この願いが完成するならば全宇宙は感動し、天人は空中から華をふらせるにちがいない。」これが次の8句です。一切の諸仏と世自在王仏、及び全世界に向かって証明を求められます。康僧鎧の訳では詩句はここで終って、次の散文で「天地が振動し、華がふり、音楽が奏でられ、法蔵比丘は必ず正覚を成るであろうと誉め讃えた。」と云って、仏も天地も法蔵の願いを証明されたということになっています。この証明の部分はサンスクリット本では偈文になっていますので参考のために岩波文庫『浄土三部経 上』(41頁)の訳をご紹介しておきます。
「大地は震動し、花は雨と降り、数百の楽器は空中に奏でられた。天の甘美な栴檀の抹香は撒かれた。(声あって言う)『(かれは)来世に仏となるであろう。』と。」